【小説】キャットウォークの道標(みちしるべ)~おかあはいつもちょっと大変2~ 第12話
第12話
ドンッという重い音が響き、地面が細かく振動した。宇佐見円香はぼんやりと目を開いた。
気づかないうちに意識を失っていたようだ。重い音は、固い金属を大型の機械でプレスしているのだろう。その前には、金属を切る甲高い音がしていたのを覚えている。
窓から入ってくる陽が傾いている。もう夕方のようだ。
ここに閉じ込められたばかりの時は、外に向かって必死で助けを呼んだ。けれども、廃工場の倉庫は住宅街からも離れており、昼間は板金工場の音がひっきりなしに響いている。やがて大きな声を出す力がなくなり、意識すら途切れ途切れになってきた。
もともと、この辺りには人けがない。だからこそ、野良猫に餌をあげる場所をここに変えたのだ。あの男に怒鳴られてから──。
「クッキー、どこ?」
円香の呟きに、ニャーンとかすかな鳴き声が返ってくる。
「おいで」
倉庫の荷物の陰に隠れていた猫が姿を現した。その足取りは、明らかに弱っている。
「ごめんね、クッキー。わたしのせいで……」
円香の目に涙が浮かんだ。身体を起こす力もなく、涙は目尻の方へ流れていく。
──バチが当たったのかもしれない。
いつものように野良猫に餌をやろうと、草がぼうぼうに生えている平屋へ立ち寄った時、
『クッキー、どうしたの?』
猫が異常に鳴いていた。いつもは、円香の足音を聞き分けて、甘えたような鳴き声をあげる。けれども、その時の鳴き方は明らかに違っていた。
そして、
『ブチ……助けてくれ』
鳴き声の間に、誰かの声が聞こえた。
『ブチ……頼む、誰か、助けを呼んでくれ』
猫が激しく鳴く。まるで危険を知らせるように。
それなのに、平屋の住人らしき太った男に怒鳴られ、やってきた警察に質問をされた時も、助けを求める声について話すことができなかった。
その上、その平屋に近寄るのを恐れ、少し離れた場所にある廃工場の空き倉庫で餌をやることにした。倉庫の扉はいつもわずかに開きっぱなしで、持ち主が手入れをしている様子もなかった。
だって警察に関われば、自分の罪が暴かれてしまう──。
『貸金庫に預けてあったはずのものが、いくつか消えているんです……』
貸金庫からの不正流出が発覚したあの日、防犯カメラの確認が始まる前に、円香は逃げるように銀行を早退した。とうとう、自分のしたことが発覚してしまった。
これまで、罪の意識さえ薄れかけていた。だって、貸金庫から宝石や貴金属を盗み出すことは、拍子抜けするほど簡単だった。あまりにも簡単すぎて、爽快感さえ感じた。まるで、初めて消費者金融でお金を借りた時と同じように。
消費者金融からは毎月、返済請求の通知が来てしまう。それに比べたら、宝石や貴金属を盗んだことについては、何箇月経っても誰からも咎められない。
たくさんある中から、ほんの数点を盗っただけだ。誰もそのことに気づかないのなら、誰も損したことにならない。
そんな風に言い訳をしながら、少しずつ欲を出していったのがいけなかった。
『円香、ここにいたのか』
自分は犯罪者になってしまった。そのことが怖くてたまらず、アパートを飛び出して、猫を連れていつもの倉庫へ行った。
『知らせを聞いてびっくりしたよ。円香。本当なの? 貸金庫から盗んだって』
駆けつけてくれたはずの愛しい人は、咎めるような目で円香を見た。
『どうしてそんなことしたの』
彼──逢坂遊埜の言葉に、円香は戸惑った。
『どうしてって、だって……』
円香がいつも渡しているお金について、彼は考えたことがなかったのだろうか。円香の収入以上の大金は、一体どこから出ているのだと思っていたのだろう。
いつもは光り輝いている彼の顔が、わずかに歪んで見えた。
『もしわたしが警察に捕まったら、お金の行く先を調べられるでしょうね』
円香の言葉に、逢坂が慌てたようになってあれこれと言い訳を始める。その姿を、円香は静かな気持ちで眺めていた。
『……でもさ、そうなると俺たちもう会えなくなっちゃうんだよ』
一通りの言い訳の後、やっと現状を理解したのか、逢坂がそう言った。円香の両肩をつかみ、熱を込めて訴えてくる。
『俺は、それだけは避けたい。円香と会えなくなるのは耐えられない。だから……』
愛をささやいているはずの逢坂の目に、滑稽なほど円香の姿は映っていなかった。どうにか円香を説き伏せて、自分のことを口止めしようとする保身しか頭にない。
『それなら、わたしと一緒に逃げてよ』
挑むように言ったあの時、自分もまた、逢坂への愛は残っていたのだろうか。
逢坂さんに家庭があるのはわかってる。こうして、少しだけわたしと会ってくれるだけでいい。それ以上なにも望まない。あなたの役に立ちたいの。
お金も、身体も、これまで口にしてきた言葉も、逢坂が望むことを先回りして差し出してきた。けれども──。
『どこか遠くの町で、わたしと一緒に暮らして』
これまでとは正反対の円香の言葉に、逢坂の目が畏怖で引きつる。
『結婚して』
それから、お互いにどんな言葉をぶつけ合ったのか、よく覚えていない。
気づいた時には、逢坂ともみ合いになっていた。殴られた円香が地面に倒れた。
動かない円香に、逢坂が手を伸ばした時だった。猫が逢坂に飛びかかり、その腕を引っ掻いた。
逢坂は慌てて振り払い、近くにあった棒を振り回した。猫は倉庫の隅に飛ばされ、その奥へと逃げた。
逢坂は倉庫に残されていた結束バンドで円香の両手と両足を縛ると、外から閂を閉めた──。
「クッキー……」
身体を横たえたまま、円香が手を伸ばす。その指を、猫がそっと舐めた。
閉じ込められてから何日が経ったのか、もう数えていない。けれどもその間、猫がそばについていてくれたことが、どれだけ心の支えになったか知れない。
そして、倉庫の中に残されていた古いペットボトルの水が、かろうじて命をつなぎ止めていた。円香を拘束するのに、後ろ手ではなく前で縛ったのは、逢坂の優しさではなく、単なる弱さだろう。彼は悪人ではない。しかし、現実から目を背けてしまう人だ。
ふいに猫がピクリと耳を立てると、ぱっと倉庫の奥へ向かって駆け出した。物陰に隠れてしまう。
「クッキー、どうしたの」
尋ねる声にも、力が入らない。このまま死んでいくのかもしれない。
恐怖を感じる余裕もなかった。なにも考えられず、ただ意識が朦朧とする。
その時、板金工場の音がやんだ。外で誰かの話し声がする。
扉のすぐ外で、金属がこすれる音がした。
「福蔵さん、開きました!」
倉庫の扉が開き、二人の男性が飛び込んでくるのを、円香は信じられない思いで見つめた。
「宇佐見円香さん、ですよね」
一人の男性が、倒れている円香を助け起こす。胸元から革のケースに入ったペーパーナイフを取り出すと、結束バンドの隙間に差し入れて慎重に擦った。数秒で、円香の両手が自由になる。
「猫はどこですか」
福蔵の問いに、円香は倉庫の奥へ目をやった。
「クッキー、おいで」
円香が呼びかけると、白地に黒い模様の入った、前足の先の黒い猫が、ニャーンと鳴きながら姿を現した。
