【アニメ】大友克洋『AKIRA』――力を得た少年は、なぜ最後に自分の名を名乗るのか
【YouTube「TMSアニメ公式チャンネル」chより
/©1988マッシュルーム/アキラ製作委員会】
はじめに 「破壊の映画」の奥にあるもの
1988年の東京は、中心部から膨れ上がる巨大な光に呑み込まれます。そこから三十一年後。高層建築と広告の光に覆われたネオ東京を、金田の赤いバイクが駆け抜けていきます。大友克洋監督の映画『AKIRA』を思い浮かべるとき、まずよみがえるのは、この圧倒的な速度と破壊の感覚かもしれません。街路は砕け、軍隊は押し返され、人間の身体さえ形を失っていく。都市も国家も科学も、制御できない力の前で次々と崩れていきます。
けれども、その巨大な破壊の中心にいるのは、最初から特別だった人物ではありません。金田の後ろを走り、彼のバイクに憧れ、仲間に助けられてきた少年、島鉄雄です。ある事故をきっかけに未知の力を得た鉄雄は、軍を退け、街を壊し、かつて自分を守ってきた金田さえ圧倒していきます。弱かった者が強者となり、固定されていた関係を反転させる。しかし、その力は彼を自由にするどころか、やがて身体そのものを内側から崩していきます。
そして物語の終わりに、鉄雄の声が響きます。
「僕は……鉄雄」
作品名は『AKIRA』であり、鉄雄自身もアキラを求めて進みます。それでも最後に彼が名乗るのは、アキラではなく、自分の名です。この一言へ至るまでの物語として見つめ直すと、巨大な破壊の奥から、他者に認められたいと願いながら、他者の視線によって自分を決められることには耐えられなかった少年の姿が浮かび上がります。
漫画版『AKIRA』は、1982年に『ヤングマガジン』で連載が始まりました。映画が公開された1988年には、漫画版はまだ完結していません。大友克洋は連載途上の人物や設定を用いながら、一本の映画として物語を組み直し、漫画とは異なる終着点を与えました。したがって劇場版は、完結した原作を短く再編集したものではありません。のちに1990年まで描き継がれる漫画版とは別の方向へ分岐した、もうひとつの『AKIRA』です。本稿では映画版を独立した作品として読みながら、その分岐が生んだ意味にも目を向けていきます。

第一章 ネオ東京は、すでに制御を失っている
2019年のネオ東京は、かつて破壊された東京の跡地に築かれた復興都市です。高層ビルが並び、翌年にはオリンピックを控えています。しかし、その輝きの下では、暴走族が道路を走り、デモ隊と治安部隊が衝突し、政治家は権力争いに追われています。軍は秘密裏に超能力研究を続け、科学者は危険な数値の上昇を観測している。ネオ東京は秩序を取り戻した都市ではなく、崩壊を覆い隠しながら、かろうじて日常を演じている都市です。
その構造を象徴するのが、建設中のオリンピック会場です。未来を祝うための場所の地下に、三十一年前の東京崩壊に関わったアキラの身体が保存されています。ネオ東京は過去を理解し、乗り越えたのではありません。引き受けることのできない破局を地下へ封じ、その上に新しい都市を築いただけです。復興の光景は、忘却の上に成り立っています。
軍の管理下には、かつてアキラと同じ研究の対象とされたキヨコ、タカシ、マサルという三人の超能力者もいます。子どもの姿を残したまま異様に老いた彼らの身体は、研究によって与えられた力と、その代償を同時に示しています。鉄雄が最初に衝突するタカシは、反政府組織によって施設から連れ出されていた一人でした。三人は鉄雄より先に力を身体へ刻まれ、保護と監視の境界が曖昧な場所で生きてきた存在です。
軍は力を管理できると信じ、科学は数値によって理解できると信じ、政治は利用できると考えます。宗教的な群衆はアキラに救済の名を与え、反政府組織は体制を覆す可能性を見る。しかし、誰もその力の全体を理解してはいません。

それでも人々は、理解できないものを管理可能な対象へ置き換えようとします。身体を拘束し、薬を与え、数値を測り、名前を付ける。けれども、分類することと理解することは同じではありません。ネオ東京が封じてきたのは危険な力だけではなく、自分たちの理解には限界があるという事実そのものだったのかもしれません。
鉄雄の出現は、安定した都市へ異物が入り込んだ出来事ではありません。すでに内側から壊れていた都市の矛盾が、一人の少年の身体を通して露出した出来事なのです。
第二章 助ける金田と、助けられる鉄雄
鉄雄の運命を変えたのは、暴走族同士の抗争のさなか、旧市街へ現れたタカシとの衝突でした。事故のあと、軍はタカシとともに鉄雄を連れ去り、検査と投薬を始めます。しかし、鉄雄の変化を理解するには、能力を得たあとだけを見るのでは足りません。彼のなかには、事故よりも前から抑え込まれていたものがあります。
金田はいつも仲間を守り、危険があれば真っ先に助けに向かう人物です。鉄雄に対しても悪意はなく、むしろ強い親しみを抱いています。けれども、金田が助ける側であり、鉄雄が助けられる側であるという関係は、長いあいだ固定されてきました。守られることは安心を与える一方で、自分の弱さを繰り返し知らされることでもあります。

映画の序盤、鉄雄は金田の赤いバイクにまたがります。金田は、鉄雄には扱えないと告げます。それは事実であり、仲間を傷つけようとした言葉でもありません。それでも鉄雄には、自分の位置をあらためて示されたように響いたのでしょう。彼が欲しているのは、バイクそのものだけではありません。金田の後ろではなく隣に立つこと、守られる存在ではなく、自分の力で進める存在になることです。
ここには、承認をめぐる厄介なねじれがあります。私たちは、他者から認められることで、自分が何者であるかを確かめます。しかし、どのような存在として認められるかは、自分だけでは決められません。鉄雄は金田に認められたい。それでも「守るべき弟分」として認められることには耐えられない。金田を必要としながら、金田のまなざしのなかに置かれた自分を壊そうとします。
鉄雄が欲していたのは、単に金田より強い自分ではなく、庇護と支配のどちらにも還元されない関係だったのかもしれません。しかし、そのための言葉を彼は持っていません。弱さを語れば、もう一度助けられる側へ戻される。対等になりたいと訴えても、金田にはその切実さが十分に伝わらない。だから鉄雄は、関係を作り替える代わりに、力によって上下を反転させようとします。

超能力を得た鉄雄は、初めて金田を上回る力を持ちます。銃も軍隊も彼を止められず、かつて憧れたバイクさえ自分のものにできる。しかし、金田を拒絶しようとするほど、鉄雄がどれほど金田との比較によって自分を形づくってきたのかが浮かび上がります。金田に勝つことでしか自分を証明できないなら、その自己はなお金田から自由ではありません。
上下を反転させるだけでは、関係の形は変わらないのです。少年を解放するはずだった力は、やがて彼自身にも扱えないものとなり、新しい支配を始めていきます。
第三章 「アキラ」は何を指しているのか
力を得た鉄雄は、やがてアキラという存在を求め始めます。軍の施設でその名を知った彼にとって、アキラは自分を上回る力であると同時に、自らの能力の正体を知るための手がかりでもあります。金田によって定められてきた位置を覆し、誰にも従わない存在になるために、鉄雄はアキラの眠るオリンピック会場へ向かいます。
しかし、映画のなかでアキラという名は、ひとつの意味に定まりません。軍にとっては東京を壊滅させた国家機密であり、科学者にとっては人間の進化を示す研究対象です。宗教的な群衆は救世主として待ち望み、反政府組織は体制を揺るがす力として期待しています。人々は同じ名を口にしながら、それぞれの恐れや願いをそこへ映し出しています。
アキラは、まだ姿を見せないうちから、すでに人々を動かしています。その意味で彼は、ひとりの登場人物である以前に、都市の欲望が集まる名です。国家は脅威を管理するために、宗教は救済を待ち望むために、鉄雄は弱かった自分を否定するために、その名を必要としています。
ここで、映画版と漫画版の分岐が重要になります。映画公開後まで描き継がれた漫画版では、アキラは生きた少年として姿を現します。ネオ東京崩壊後には、その存在を中心として「大東京帝国」と呼ばれる新しい秩序が形成され、物語は巨大な力の周囲に共同体や権力が生まれていく過程を描き続けます。

一方、映画版で鉄雄が地下から発見するのは、生きた少年ではありません。そこにあるのは、分割され、極低温で保存された身体の検体です。軍と科学はアキラの身体を容器へ収めることはできても、その力が何であったのかを理解できてはいません。保存されているのは、管理されたアキラそのものというより、理解できなかった破局の痕跡です。
映画版のアキラは、自ら語る人格としては不在です。だからこそ、その空白へ誰もが自分の願望を投影できます。アキラは、あらゆる意味を与えられながら、どの意味にも回収されない「不在の中心」として、物語を動かし続けます。
地上では、鉄雄を新たなアキラとして崇める群衆も現れます。しかし、その呼び名も鉄雄を自由にはしません。金田に守られる少年という位置を拒んだ先で、今度は救世主や怪物という別の位置を与えられる。鉄雄は力を得るほど、自分が何者であるかを他者の期待によって決められていきます。
「アキラ」という巨大な名に近づくほど、鉄雄自身の名は見えにくくなっていくのです。
第四章 力を使う身体から、力に使われれる身体へ
鉄雄の力は、はじめのうち、彼の意思に従っているように見えます。自分を拘束する軍人を退け、かつて自分を見下した者を圧倒し、金田の前でも優位に立つ。力は、それまで得られなかった自信と自由を、一度に与えてくれるものです。

しかし、その力は、鉄雄を縛っていた関係だけでなく、彼を支えていた関係までも壊し始めます。金田たちとともに走ってきた仲間の山形が鉄雄に殺されたことで、二人の対立は決定的になります。金田にとって鉄雄は、なお救いたい友人でありながら、同時に仲間を奪った相手でもあります。救うことと止めることは、もはや切り離せません。
軍の軌道兵器によって右腕を失った鉄雄は、周囲の機械を引き寄せ、自らの力で腕を作り直します。欠けた身体さえ補えるその姿は、人間の限界を超えたように見えます。誰にも助けられず、自分だけで立つという鉄雄の願いが、ついに実現したかのようです。
けれども、再生された腕は必要な形で止まりません。力は機械や瓦礫を取り込み、身体を際限なく膨張させていきます。鉄雄と外部を隔てていた境界は崩れ、どこまでが彼自身で、どこからが周囲の物質なのかも分からなくなります。
ここで崩れるのは、身体の形だけではありません。自分の身体は自分のものであり、自分の意思に従うという、私たちが自明視しやすい前提そのものが崩れていきます。鉄雄の身体には、軍の実験、薬物、幼い頃からの記憶、金田への感情、そして本人にも理解できない力が流れ込んでいます。身体は、独立した個人が完全に所有する閉じた器ではなく、制度や過去や他者との関係が刻まれる場所でもあります。
鉄雄は力を所有したつもりでした。しかし、しだいに彼自身が力の通路にされていきます。自分の力を使っていたはずの少年は、力のために身体を使われる存在へと反転します。
同じ誤りは、軍や科学者にも見られます。軍は超能力者を監視し、薬物によって抑え込み、科学者は数値へ置き換えることで理解しようとします。しかし、生命を管理することと、その意味を理解することは同じではありません。数値が精密になるほど、対象を理解した気になることもあります。けれども、測定からこぼれ落ちるものは残り続けます。
膨張する身体は、そばにいた恋人のカオリさえ呑み込んでいきます。彼女は、鉄雄が力を得る以前から彼を知る数少ない人物です。そのカオリを自らの身体によって傷つけたとき、力はもはや鉄雄を守るものではなく、他者に触れる可能性そのものを奪うものになっています。

そして鉄雄は、金田の名を呼びます。助けられる側であることを拒み続けた少年が、制御を失った身体のなかで、かつて自分を助けてきた友人を求めます。これは二人が元の関係へ戻ったということではありません。それでも、力によって断ち切ろうとしたつながりが、力を所有できなくなった瞬間に、もう一度姿を現すのです。
第五章 金田が見た記憶
鉄雄の身体が制御を失ったとき、キヨコ、タカシ、マサルの三人は、アキラの力を呼び戻します。彼らは鉄雄と同じように、国家の研究によって力を身体へ刻まれた者たちです。ただし、鉄雄が管理の外へ飛び出して暴走したのに対し、三人は長く管理の内側で生き延びてきました。
三人は、力を自由に所有する超人ではありません。その身体には、能力と引き換えに失われた時間が刻まれています。彼らが最後に選ぶのは、鉄雄を外側から倒すことではなく、自分たちも光のなかへ入り、彼を別の場所へ連れていくことでした。それは、同じ力を背負わされた者だけがなしうる応答でもあります。
巨大な光に巻き込まれた金田は、そこで鉄雄や三人が過ごしてきた時間の断片に触れます。幼い鉄雄の姿、実験施設にいた子どもたち、彼らの身体へ残された孤独。示されるのは、力の仕組みを説明する答えではなく、その力を抱えさせられた者たちの記憶です。

それまで金田にとって、鉄雄は自分の後ろを走る仲間であり、危険なときには守るべき相手でした。やがて彼は、止めなければならない怪物にもなります。しかし、そのどちらも金田を中心にして捉えた鉄雄の姿です。金田は鉄雄をよく知っているつもりでいながら、守られることが彼をどれほど傷つけていたのか、その内側までは知りませんでした。
親しい相手を「知っている」という感覚は、しばしば、その人を自分との関係だけで捉えることから生まれます。友人、恋人、家族、守るべき相手。そうした呼び方は関係を支える一方で、相手が自分の知らない時間を生きてきた一人の他者であることを見えにくくする場合があります。
記憶に触れたからといって、二人が完全に理解し合うわけではありません。山形の死も、カオリの死も消えず、過ぎた時間は戻りません。むしろ金田が知らされるのは、親しい相手にも、自分には届かない過去や孤独があるということです。
他者を理解するとは、その人の内面をすべて自分の言葉へ回収することではないのでしょう。理解しきれないものが相手にもあると認め、その距離を消さないこと。それもまた、他者に向き合うひとつの形です。
金田が最後に出会うのは、怪物の内側に隠されていた「本当の鉄雄」ではありません。自分の物語の一部としては捉えきれない、一人の他者としての鉄雄です。それはあまりにも遅く訪れた遭遇です。それでも映画は、身体の輪郭が消えた場所で、鉄雄が生きてきた時間まで消してしまうことを拒みます。
第六章 「僕は鉄雄」と名乗ること
映画の終わり、暗闇のなかに鉄雄の声が響きます。
「僕は……鉄雄」
短い言葉ですが、この自己名乗りには、それまでの物語が凝縮されています。鉄雄は何度も、他者によって自分の位置を定められてきました。金田に守られる仲間として、軍に管理される実験体として、科学者が観測する数値として、そして群衆が崇める新たなアキラとして。その呼び名のどれもが鉄雄の一面を捉えながら、彼自身のすべてではありません。

鉄雄もまた、金田より強いことによって自分を証明しようとしました。しかし、金田を超えることで自分になろうとするかぎり、その自己像は金田との比較から自由にはなれません。アキラを超えようとするときも同じです。他者より強いことによって自分の輪郭を得ようとするほど、鉄雄はその比較の相手を必要とします。
誰にも頼らない主体を目指しながら、その主体は最初から関係のなかでしか成立していなかったのです。
名前もまた、自分一人だけで所有するものではありません。「鉄雄」という名は、金田や仲間たちによって呼ばれてきた名です。名前は他者から呼びかけられ、自分がそれに応答することで働き始めます。名前には、本人の意思だけでは決められない過去の関係が刻まれています。
だから「僕は鉄雄」という言葉は、他者との関係を断ち切った、自足的な自己の宣言ではないでしょう。むしろ、関係によって傷つき、関係を壊し、それでも最後には、その関係のなかで呼ばれてきた名を引き受けようとする声です。

しかも鉄雄が名乗るのは、自分の身体を取り戻したあとではありません。身体の境界も、存在している場所も、生死さえ明確ではなくなったあとです。安定した自己が回復し、それを宣言しているわけではありません。あらゆる輪郭を失った場所で、固有名だけがひとつの痕跡として残ります。
その意味で、これは「本当の自分」を取り戻したというより、消滅へ抗う最後の応答に近いのかもしれません。救世主でも怪物でも、アキラの代わりでもない。自分に与えられてきたあらゆる役割へ回収されず、「鉄雄」という一人の固有性が、かすかな声として残ります。
映画は、その声がどこから届いているのかを明らかにしません。鉄雄が別の存在へ生まれ変わったのか、新しい空間へ移ったのか、それとも最後に残された意識が名を告げたのか。宇宙の誕生を思わせる光景は示されますが、その意味はひとつに定められていません。
ただ、物語全体を覆っていた「アキラ」という巨大な名のあとに、最後に響くのは「鉄雄」という一人の名です。世界を変える力の名ではなく、その力に呑まれかけた少年の名が残るのです。
結び 破壊のあとに始まるもの
巨大な光が消えたあと、ネオ東京には再び廃墟が広がります。軍や科学が力を制御できなかった事実も、都市が抱えていた対立も、解決されたわけではありません。『AKIRA』の結末は、破壊のあとに秩序が回復し、以前の日常へ戻る物語ではないのです。
それでも、金田は反政府活動に関わっていたケイや、暴走族の仲間である甲斐とともに、崩れた都市を走り始めます。キヨコたちは、何かがすでに始まっていることを告げます。その始まりが希望なのか、別の破局へ向かうものなのかは分かりません。映画は新しい社会の姿を描かず、始まりの気配だけを残します。

この点でも、漫画版との違いは印象的です。映画公開後まで続いた漫画版は、ネオ東京崩壊後も物語を描き、アキラを中心として生まれた共同体の内部に、権力や信仰、対立が再び形づくられていく過程を追います。破局のあとにも社会は続き、人々は巨大な力をめぐって新しい秩序を作ろうとします。
一方、映画版は、その秩序が形を取る前に物語を閉じます。両者の違いは、同じ物語を長く描いた版と短く描いた版との違いではありません。破局後の社会を描き続ける道と、何かが始まる直前で立ち止まる道。その二つへ、『AKIRA』という物語は分岐しています。
ネオ東京は、過去の破局を地下に封じることで未来を築こうとしました。鉄雄は、弱かった自分を否定し、他者を上回ることで自由になろうとしました。しかし、過去も弱さも、完全に切り離すことはできません。身体も力も他者も、自分の思いどおりに所有することはできない。自分という存在そのものもまた、自分だけの手で完成させられるものではないのでしょう。
だからといって、すべてを諦めるしかないわけではありません。完全には理解できず、支配もできないものを前にして、それでもどのように応答するのか。その問いは、国家や科学だけでなく、金田と鉄雄の関係にも、そして私たち自身の生にもつながっています。

人を助けるとき、私たちは相手の声を聞かないまま、自分が正しいと思う位置へ戻そうとしていないでしょうか。弱さから自由になろうとするとき、その弱さを含む過去まで消し去ろうとしていないでしょうか。他者に認められたいと願いながら、他者によって自分を決められることを恐れる。その矛盾は、鉄雄だけのものではありません。
破壊の果てに鉄雄が口にしたのは、強さを示す言葉ではなく、自分の名でした。『AKIRA』は都市と身体が崩れていく光景を描きながら、その最後に、他者との関係のなかで傷つき、見失われた一人の名を残します。
新しい始まりとは、すべてを思いどおりに作り直すことではないのかもしれません。引き受けきれない過去や、理解しきれない他者を抱えながら、それでも自分の名によって応答し直すこと。そのかすかな始まりを、『AKIRA』は巨大な光の向こうに残しているように思います。

