【ゲーム】【後編】『NieR Replicant ver.1.22474487139...』――被害と加害の揺らぎのなかで、他者に応答するということ
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はじめに 前編からの橋渡し
前編では、『NieR Replicant ver.1.22474487139...』の物語を、AエンドからEエンドまでの流れに沿ってたどりました。妹ヨナを救うために剣を振るう主人公ニーアの旅は、仲間との出会いと喪失を重ねながら、やがて世界の真実へと近づいていきます。そこにあったのは、ただの救出劇ではありませんでした。救おうとするほど、別の誰かを傷つけてしまう。愛のために進むほど、世界そのものの破綻へ近づいてしまう。そうした痛みを抱えた物語でした。
この後編では、あらすじをもう一度なぞるのではなく、その奥にある倫理的な問いを考えていきます。ニーアの戦いは、なぜこれほど胸に残るのでしょうか。それは彼が、わかりやすい悪を倒す勇者ではないからです。彼はヨナを救いたい。その思いはまっすぐで、疑いようがありません。けれど、そのまっすぐさが、別の立場から見れば暴力にもなってしまう。ここに、本作のもっとも苦しい揺らぎがあります。
人間とマモノの境界は、どこにあるのか。誰かを守る行為は、いつ別の誰かを傷つける行為へ変わるのか。世界全体を救うことができないとき、それでも目の前の他者に手を伸ばすことはできるのか。『ニーア レプリカント』は、そうした問いを、プレイヤーの感情に深く刻み込んでいきます。
ここでは、ラカンのいう「大文字の他者」という補助線も少しだけ用います。社会全体、人類全体、世界そのもの。そうした大きな他者に対して、人は簡単には応答できません。けれど、目の前にいる誰かには応答してしまう。ヨナ、カイネ、エミール。ニーアが選ぶのは、抽象的な人類ではなく、自分の声が届く距離にいる他者です。その小さな選択が、世界から見れば取り返しのつかない破壊になりながら、それでも彼の生を支えています。
この矛盾を、単純に裁くことはできません。だからこそ本作は、ただの悲劇でも、ただの感動作でもなく、いまもなお考え続けたくなる作品として残ります。

第一章 境界の反転 マモノの正体と人間性の問い
『ニーア レプリカント』におけるもっとも大きな反転は、マモノの正体が明かされるところにあります。プレイヤーが敵として斬り続けてきた存在は、ただの怪物ではありませんでした。彼らは、かつての人類の魂であり、プロジェクト・ゲシュタルトによって肉体から切り離されたゲシュタルトでした。
人類は滅亡の危機に直面したとき、魂と肉体を分離することで生き延びようとしました。魂はゲシュタルトとして保存され、肉体はレプリカントとして維持されるはずだった。けれど、その計画はうまくいきません。魂は不安定になり、肉体は独自の意志を持ちはじめる。人類を救うための仕組みは、いつしか人間とは何かを分からなくさせる仕組みへ変わっていきます。

ここで揺らぐのは、敵と味方の境界だけではありません。人間そのものの境界です。レプリカントは、魂を持たない存在として作られたはずです。けれど彼らは、愛し、苦しみ、誰かを守ろうとします。ニーアはヨナを想い、カイネは孤独と怒りを抱え、エミールは自分の力に怯えながらも仲間を守ろうとする。では、彼らは人間ではないのでしょうか。
一方で、ゲシュタルトはかつての人類の魂です。人間である根拠をそこに置くなら、彼らこそが本来の人類だと言えるのかもしれません。けれど、マモノと呼ばれる存在になった彼らは、言葉を失い、姿を変え、レプリカントたちからは恐怖の対象として見られています。魂があれば人間なのか。身体があれば人間なのか。記憶があればいいのか。誰かを愛することができればいいのか。本作は、そのどれにも安易な答えを与えません。
むしろ大切なのは、答えが出ないことそのものです。ニーアがマモノを斬るとき、彼は妹を守ろうとしています。その行為は彼にとって切実な正義です。けれど同時に、それはかつての人類の魂を滅ぼしていく行為でもある。彼の剣には、守護と破壊が同時に宿っています。愛のための行為が、別の場所では加害になってしまう。その避けがたいねじれが、物語の底に流れています。
この反転は、ゲームの快感そのものにも影を落とします。敵を倒し、経験値を得て、先へ進む。RPGの基本的な手触りは、本来であればプレイヤーに成長や達成感を与えるものです。けれど本作では、倒してきた敵が語り得る存在であり、かつて人間だったかもしれない存在として立ち上がる。すると、これまで当然のように行ってきた戦闘の意味が変わってしまいます。
本作の残酷さは、プレイヤーを責めることではありません。むしろ、私たちが何かを正しいと信じて行為するとき、その正しさが別の視点ではどのように見えるのかを、静かに突きつけてくるところにあります。人間とマモノ、魂と肉体、守る者と奪う者。その境界は、思っているほど確かなものではありません。
第二章 被害者と加害者が交差するとき
境界が揺らぐとき、被害者と加害者の位置もまた揺らぎはじめます。ニーアは、妹を奪われた側の人間です。ヨナを救いたいという願いは、彼にとって生きる理由そのものです。だから彼は剣を取ります。村を襲うマモノを倒し、仲間を守り、ヨナを取り戻すために進んでいく。その姿だけを見れば、彼は疑いなく被害者であり、戦う理由を持った主人公です。
けれど、マモノの側から見ればどうでしょうか。彼らもまた、失われた肉体を取り戻そうとしている存在です。ゲシュタルトにとって、レプリカントの身体は本来戻るべき場所でもあります。そう考えるなら、ニーアの剣は、彼らの希望を断ち切るものでもある。彼が守ろうとするたびに、別の誰かの帰る場所が奪われていくのです。

ここで、被害と加害は単純に分けられなくなります。ニーアは傷つけられた者でありながら、傷つける者でもある。マモノは恐怖を与える存在でありながら、奪われたものを取り戻そうとする存在でもある。どちらか一方だけが正しく、どちらか一方だけが悪いとは言えません。立場が変われば、見える物語も変わってしまうからです。
この構造は、カイネやエミールにも深く刻まれています。カイネは、マモノを宿した存在として差別され、排除されてきました。彼女は傷つけられてきた者です。けれど同時に、その力をもって敵を斬り、誰かを傷つける側にも立ちます。エミールもまた、無垢な少年でありながら、兵器としての力を背負わされています。彼のやさしさと破壊の力は、ひとつの身体のなかに同居しています。
ここにあるのは、「本当は誰が悪いのか」という問いではありません。むしろ、誰もが傷つけられながら、誰かを傷つけてしまうという構造です。被害者であることは、加害から完全に自由であることを意味しません。加害者であることもまた、その人が傷を負っていないことを意味しません。本作は、その簡単には分けられない領域を描いています。

だからこそ、プレイヤーは不安定な場所に立たされます。ニーアを応援したい。ヨナを救ってほしい。カイネやエミールにも生きていてほしい。けれど、その願いが別の誰かの喪失と結びついていることを、もう知らないふりはできません。物語を進めることは、同時に誰かを取り返しのつかない場所へ追いやることでもある。その痛みが、後半の体験を深く変えていきます。
『ニーア レプリカント』の倫理は、きれいな正しさの中にはありません。むしろ、正しさが割れてしまった場所にあります。誰かを守ることが、別の誰かを傷つけることになる。それでもなお、何も選ばずにはいられない。その揺らぎの中で、ニーアたちはそれぞれの他者へ向かって手を伸ばしていきます。
第三章 大きな他者ではなく、目の前の他者へ
被害と加害が交差し、正しさの輪郭が揺らいでしまう世界で、ニーアは何を選ぶのでしょうか。ここで大切になるのが、「他者」の問題です。
人類全体を救うこと。世界の秩序を守ること。失われた計画を正しく完遂すること。そうした大きな目的は、物語のなかにたしかに存在しています。けれどニーアは、その全体に応答することができません。彼が見ているのは、抽象的な人類ではなく、病に苦しむヨナであり、孤独を抱えたカイネであり、自分の力に怯えるエミールです。彼の剣は、世界全体へ向けられているのではありません。いつも、目の前にいる誰かのために振るわれています。
ここで、ラカンのいう「大文字の他者」という補助線が効いてきます。大文字の他者とは、社会や秩序、世界全体のように、私たちを包み込んでいるように見えながら、決してひとりの人間が直接つかみきることのできない大きな場所です。ニーアにとっての人類全体も、あるいはプロジェクト・ゲシュタルトも、そのような大きな他者として立ちはだかっています。そこに応えようとすれば、彼はあまりにも無力です。

けれど、だからといって何もできないわけではありません。大きな他者には届かなくても、目の前の他者には手を伸ばせる。ここに、本作の倫理があります。ニーアは人類全体を救う者ではありません。むしろ、世界の側から見れば、彼の選択は取り返しのつかない破壊をもたらします。それでも彼は、ヨナを見捨てることができない。カイネやエミールと過ごした時間を、なかったことにはできない。
この選択は、決してきれいな正義ではありません。ヨナを救うことは、別の誰かのヨナを奪うことでもあるからです。カイネを救うための犠牲は、世界の全体から見れば正当化しきれないものかもしれません。けれど本作は、その矛盾を安易に裁きません。むしろ、普遍的な正しさに届かない場所で、それでも誰かを選んでしまう人間の姿を見つめています。
エミールの存在も、この主題を静かに支えています。彼は兵器として作られ、破壊の力を背負わされました。世界を救うための道具として扱われながら、その力は彼自身を深く傷つけてもいます。けれど彼は、最後まで仲間のためにその力を使おうとする。全体のために設計された存在が、身近な誰かのために生きようとする。その転回に、彼の痛ましいほどの人間らしさがあります。

大きな他者に応答することは、しばしば不可能です。人類全体、社会全体、世界そのもの。その名のもとでは、ひとりの声は簡単に消えてしまいます。けれど、目の前の誰かの痛みには、応答してしまうことがある。たとえそれが不完全で、矛盾を含み、別の誰かを傷つける可能性を抱えていたとしても。
ニーアの物語は、その危うさのなかにあります。世界を救えない者が、それでも誰かを救おうとすること。その選択は、正しさではなく、応答の問題として残ります。
第四章 犠牲と記憶の回復 DエンドとEエンドの意味
Dエンドは、本作のなかでもとりわけ強い痛みを残す結末です。ニーアは、マモノに侵食されて苦しむカイネを救うため、自らの存在を差し出します。そこで失われるのは、ただの命ではありません。名前も、記憶も、誰かと過ごした時間の痕跡も、世界から消えていきます。
この消滅は、物語のなかだけで完結しません。プレイヤーのセーブデータが削除されることで、失うという出来事は、こちら側の体験にも触れてきます。これまで積み重ねてきた時間が消える。育てた記録がなくなる。歩んできた旅の痕跡が消えていく。ゲームだからこそ可能な仕掛けによって、犠牲は単なる設定ではなく、プレイヤー自身の手元に刻まれるものになります。

けれど、リメイク版で追加されたEエンドは、その完全な消滅に、もうひとつの可能性を差し出します。物語はカイネの視点から始まります。世界からニーアの存在は消えているはずです。誰も覚えていないはずです。けれど、そこには説明できない欠落が残っています。忘れたはずなのに、何かが足りない。失われたはずなのに、完全には消えていない。その違和感が、カイネを動かしていきます。
ここで重要なのは、記憶がただ過去を保存するものではないということです。記憶は、失われた存在をもう一度呼び戻そうとする力にもなります。ニーアは、自分ひとりの力で帰ってくるのではありません。彼を覚えていないはずの誰かが、それでも彼の不在に触れ、その欠落をたどることで、もう一度世界へ呼び戻されるのです。
Dエンドが示したのは、自己犠牲の徹底でした。自分という存在を完全に差し出すこと。自分がいたことさえ消えてしまうこと。それはあまりにも美しく、同時にあまりにも残酷です。もし物語がそこで終わっていたなら、この作品は、愛のために自己を消す悲劇として閉じていたかもしれません。
しかしEエンドが加わることで、意味は変わります。犠牲は、完全な終わりではなくなります。たとえ名前が消え、記録が消え、世界から痕跡が失われたとしても、他者のなかに残る欠落が、失われた者を呼び戻すことがある。存在は、自分自身だけで完結しているのではありません。他者の記憶、他者の痛み、他者の違和感のなかで、なお持続することがあるのです。

ここにある救済は、決して明るいものではありません。すべてが取り戻されるわけではない。失われた時間が完全に埋め合わされるわけでもない。それでも、消えたはずの存在が、誰かの記憶を通してもう一度呼び戻される。その淡い回復のかたちに、本作はゲームという形式でしか触れられない深い余韻を与えています。
第五章 揺らぎを抱えて、それでも選ぶこと
ここまで見てきたように、本作が描くのは、きれいに整理された倫理ではありません。人間とマモノの境界は揺らぎ、被害者と加害者の位置は入れ替わり、大きな他者に応答することはできない。犠牲は美しいだけではなく、記憶による回復も完全な救済ではありません。あらゆるものが、どこかで割れています。
けれど、その割れ目こそが、この物語を強くしています。ニーアの選択は、世界全体から見れば過ちだったのかもしれません。彼がヨナを救おうとしたことによって、人類の未来は閉ざされていく。そう言うこともできます。けれど、彼にとってヨナは抽象的な人類よりも遠い存在ではありません。目の前で苦しんでいる妹を、ただ見捨てることはできない。そのどうしようもなさを、私たちは簡単に否定できません。
カイネも、エミールも同じです。彼らは清らかな被害者ではありません。傷つけられながら、傷つける力を持ってしまった存在です。けれど、だからこそ彼らの選択には重さがあります。誰かを傷つける可能性をまったく持たない者だけが、他者に手を伸ばすのではない。むしろ、自分のなかに暴力や欠落を抱えたまま、それでも誰かのために選ぶことがある。その不完全さが、人間らしさとして描かれています。

現代を生きる私たちもまた、揺らぎのない場所には立てません。正しいと思ってしたことが、別の誰かを傷つけることがあります。自分を被害者だと思っていた出来事のなかで、いつのまにか誰かを追い詰めていることもある。社会全体や大きな正義を語ろうとするとき、目の前の小さな痛みを見落としてしまうこともある。だからこそ、この物語は遠いファンタジーではなく、私たち自身の場所へ静かに戻ってきます。
大切なのは、揺らぎをなくすことではないのかもしれません。むしろ、揺らぎを抱えたまま、それでも何を選ぶのかを考え続けることです。誰かを救うことが、別の誰かを傷つけるかもしれない。それでも、目の前の他者を見捨てることができない。そこに正解はありません。けれど、正解がないからこそ、選択は軽くならないのです。
『ニーア レプリカント』が残すものは、爽快な勝利ではありません。世界を救ったという達成感でもありません。むしろ、終わったあとに残るのは、どうにも整理しきれない問いです。人間とは何か。誰を救うのか。犠牲は愛と呼べるのか。記憶は失われた存在を支えられるのか。

その問いを抱えたまま、なお他者へ向かうこと。揺らぎをなくすのではなく、揺らぎのなかで誰かを選ぶこと。本作の倫理は、そこにあります。
結び 揺らぎを抱えて生きるために
『ニーア レプリカント』を遊び終えたあとに残るのは、すっきりとした救いではありません。人間とマモノの境界は揺らぎ、守るための行為は別の誰かを傷つけ、愛はときに世界そのものを壊してしまう。ニーアの旅は、勇者が悪を倒す物語ではなく、誰かを想うことが、別の誰かへの暴力にもなってしまう世界を歩く物語でした。
けれど、その揺らぎは、ただ私たちを絶望させるためにあるのではないと思います。正しさが割れてしまった場所で、それでも人は誰かを選んでしまう。ヨナを救いたいと願うニーア、孤独を抱えながら他者へ手を伸ばすカイネ、自分の力に怯えながら仲間を守ろうとするエミール。彼らの選択は、決して無垢ではありません。それでも、その不完全さのなかにこそ、人が他者と生きようとする切実さがあります。
Dエンドで失われたものは、Eエンドにおいて、完全ではない形で呼び戻されます。消えた存在は、誰かの記憶のなかに残り、その欠落がもう一度物語を動かしていく。そこにあるのは、すべてを取り戻すような明るい救済ではありません。けれど、失われたものが完全には消えないという、淡く、しかし確かな希望です。

世界全体を救うことはできないかもしれない。正しさを最後まで保つこともできないかもしれない。それでも、目の前の誰かを見捨てないことはできる。その選択が別の痛みを生むとしても、なお考え続け、悔いながら、誰かに応答しようとすることはできる。
『ニーア レプリカント』は、揺らぎを消してくれる作品ではありません。むしろ、その揺らぎの中でしか他者を選べない私たちの弱さを見つめる作品です。だからこそ、この物語は終わったあとも静かに残ります。救いも断罪もない場所で、それでも誰かを想ってしまう。その痛みとやさしさを、私たちは何度でも思い返すのだと思います。

