【アニメ・漫画】浦沢直樹『MONSTER』――怪物は、なぜ世界の空虚さを確かめ続けたのか
【©浦沢直樹(スタジオナッツ)/小学館・VAP・NTV
/YouTube「mashitakaful」chより】
【©浦沢直樹(スタジオナッツ)/小学館・VAP・NTV
/YouTube「Cantatio Kumiko」chより】
はじめに 空になったベッドから
浦沢直樹の『MONSTER』は、ひとりの医師が、自らの救った少年を追い続ける物語です。けれど、その長い追跡の果てに残されるのは、事件が解決したという安堵ではありません。開かれた窓と、誰もいなくなった病院のベッドです。
そこに眠っていたのは、ヨハン・リーベルトという男でした。幼いころに頭を撃たれ、一度は医師の手によって救われた少年。やがて多くの人間を死へ導き、最後には再び同じ医師に命を救われた人物です。彼が病室からどこへ向かったのか、物語は明らかにしません。
ヨハンが何を望んでいたのかも、最後まではっきりとは語られません。権力や財産を手にできる場所へ近づきながら、それらにとどまろうとはしない。人を殺しながら、破壊そのものに歓びを見いだしているようにも見えない。彼はむしろ、人の心の奥にある孤独や恐怖へ触れ、家族や愛情や倫理がどこまで人を支えられるのかを、確かめるように行動していきます。
世界には、本当に何かがあるのか。名前や記憶、誰かとのつながりは、人を空虚から守ることができるのか。ヨハンは、その答えを知っていたというより、もっとも残酷な方法で探り続けていたように見えます。そして、同じ問いを何度も繰り返したこと自体が、彼の内側に、どうしても埋められない何かが残っていたことを示しているのかもしれません。
彼は本当に、何も持たない怪物だったのでしょうか。あるいは、失ったものの輪郭を知っていたからこそ、何もないことを証明せずにはいられなかったのでしょうか。

第一章 救われた少年
物語は一九八六年、まだ東西に分かれていたドイツから始まります。日本人脳神経外科医の天馬賢三、通称テンマは、大病院で将来を期待される若い医師でした。しかし、その病院では、患者の容体だけでなく、社会的な地位や病院側の都合によって、治療の順番まで変えられていました。
ある夜、東ドイツから亡命してきた一家が襲われ、双子の兄妹が運び込まれます。兄のヨハンは頭部を撃たれ、妹のアンナは強い恐怖に閉ざされていました。そこへ有力者である市長も搬送され、病院はテンマに、市長を優先するよう命じます。
テンマは命令に背き、先に運ばれたヨハンを手術します。人の命に軽重はない。その信念によって少年は助かり、市長は別の医師の手術中に亡くなりました。テンマは病院での地位と婚約を失います。追い詰められた彼は、眠るヨハンのそばで、自分を陥れた者たちなどいなくなればいいと漏らします。ほどなくして病院幹部が毒殺され、回復途中にあった双子も姿を消しました。
それから九年後、ヨハンは美しく穏やかな青年となって、テンマの前に現れます。彼はひとりの男をためらいなく射殺し、九年前の毒殺も自分が行ったのだと明かします。テンマが望んだから、邪魔な人間を消したのだと。そして、テンマを「命の恩人」と呼びます。

その言葉は感謝であるはずなのに、どこか呪いのように響きます。ヨハンは、自分が救われたことを忘れていませんでした。誰にも顧みられなかった少年の命を、テンマだけが選び取った。その出来事を、ヨハンは彼なりの形で抱え続けていたのです。
けれど、彼のなかで「救われた」という経験が、どのような意味を持っていたのかは分かりません。命を与えられたことへの感謝なのか。自分にも価値があると示された記憶なのか。それとも、救った者の信念がいつか崩れることを確かめるための、長い始まりだったのでしょうか。
テンマは、自らの救った命が多くの死につながったことを知り、ヨハンを追い始めます。医師として救った命を、自分の手で終わらせなければならない。その矛盾が、彼を長い逃亡と追跡へ向かわせます。
しかし、ヨハンにとっても、テンマは無関係な追跡者ではありません。最初の手術で、テンマはヨハンが何者になるかを知らずに彼を救いました。ヨハンはやがて、自分のすべてを見せたうえで、なお同じ選択ができるのかを、テンマに問い返そうとします。
怪物を追う物語は、同時に、救われた者が救った者を試し続ける物語でもあったのです。

第二章 空虚さを確かめる者
ヨハンの双子の妹アンナは、事件後、別の家庭に引き取られ、ニナという名前で成長していました。過去の記憶を失い、愛情に包まれた日常を送っていましたが、兄の接近とともに、閉ざされていた記憶が戻り始めます。
かつて養父母を殺したのはヨハンでした。そして、その兄の頭を撃ったのはアンナ自身でした。ヨハンは妹に、自分を撃つよう求めていたのです。なぜ彼は家族を殺し、なぜ最も近しい妹の手で死のうとしたのか。その理由はまだ見えません。ただ、ヨハンにとって死は、ひとりで選び取るものではなかったように思えます。誰かに見届けられ、誰かに選ばれること。その形に、彼は早くからこだわっていました。
成長したヨハンは、他人の心へ驚くほど自然に入り込んでいきます。強制するのではなく、その人が抱えてきた孤独や罪悪感を見つけ、それを本人の言葉に変える。そして、家族への思いや、生き直そうとする意志よりも、絶望のほうが強いと信じさせます。
ミュンヘンでは、莫大な富を持ちながら孤独に生きる盲目の老人へ近づきます。離れて暮らしていた息子との再会を導き、壊れていた家族の関係を結び直す一方で、その周囲では、ヨハンの正体へ近づいた者が死へ追い込まれていきます。

ヨハンは、初めから関係を壊すだけではありません。いったん人と人を結びつけ、そのつながりが本物なのかを見ようとします。愛情や信頼が生まれても、罪悪感や恐怖の前では崩れてしまうのではないか。人が立ち直ろうとしても、過去はその人を再び孤独へ引き戻すのではないか。
彼は、人間のなかに悪を作り出しているというより、もともと存在していた亀裂を広げています。そこで見つけようとしているのは、悪意よりも、関係を支えるものの脆さだったのでしょう。
けれど、本当に世界には何もないと確信していたなら、同じことを繰り返す必要はありません。人を孤独へ追い込み、家族を壊し、信頼が崩れる瞬間を何度も見届ける。その執拗さは、ヨハンが答えを知っていたというより、まだ確かめきれずにいたことを思わせます。
絵本を開いた瞬間、ヨハンはその場に倒れます。それまで、他人の心を見透かしながら、自分自身については何も見せなかった青年。その奥に、触れられることを恐れる記憶が残されていました。
ヨハンは、空虚さを誰よりも深く知る人物に見えます。けれど、彼が本当に恐れていたのは、世界に何もないことだけではなかったのかもしれません。自分の名前も、記憶も、誰かから向けられた愛情さえも、本当に自分のものだったのか。その問いに触れたとき、怪物の静けさは、初めて大きく揺らぐのです。

第三章 自分ではない者の記憶
ヨハンの過去を追う道は、旧東ドイツの児童養護施設と、プラハに残された古い屋敷へ続いていきます。そこでは、子どもの信頼や感情を壊し、国家にとって扱いやすい人間へ作り替えようとする試みが行われていました。
ヨハンもまた、そうした施設のひとつである511キンダーハイムへ送られています。けれど、彼はそこで一方的に人格を壊されたわけではありません。むしろ施設が作り出していた相互不信を利用し、子どもと職員を殺し合わせたとされています。
人間は、誰かを信じられなくなったとき、どこまで壊れるのか。ヨハンは幼いころから、その問いを自分の周囲で確かめていたように見えます。
ただし、施設だけを怪物の起源とすることはできません。ヨハンがそこへ送られる以前にも、彼のなかにはすでに、自分が誰であるのかを確かめられない深い揺らぎがありました。
その核心にあるのが、赤いバラの屋敷と呼ばれる場所です。そこでは、フランツ・ボナパルタという人物が、絵本や朗読を通じて、子どもの記憶や人格へ働きかける実験に関わっていました。『なまえのないかいぶつ』も、彼が別の名義で書いた作品のひとつです。
長いあいだ、屋敷へ連れていかれたのはヨハンだったように語られてきました。ところが、実際にそこで多くの死を目にしたのは、妹のアンナでした。

アンナは屋敷から戻り、自分が見た惨劇を兄に語ります。倒れた人々。毒によって静まり返った部屋。忘れて逃げるよう告げた男。その記憶を、ヨハンはいつしか自分自身の体験として語るようになります。
妹から聞いた話を、意識的に自分のものへ置き換えたのか。それとも、二人の記憶の境界が本当に失われていたのか。物語は明確な答えを与えません。
ただ、ヨハンには、自分だけに属するものがあまりに少なかったことが見えてきます。同じ服を着せられた双子。定まらない名前。別人のものかもしれない記憶。自分の過去だと思っていたものさえ、妹から受け取った物語だった。
ヨハンは、他人の望む姿へ自在に入り込むことができます。それは優れた演技であると同時に、確かな自己を持てない者のあり方にも見えます。誰かの息子、理想的な青年、妹に似た女性。彼はどの姿にもなれるからこそ、どの姿が自分なのかを確かめられません。
『なまえのないかいぶつ』は、そんな彼に外から与えられた説明だったのかもしれません。名前を求めて他人のなかへ入り込み、やがてその相手を食べてしまう怪物。最後には名前を得ながら、その名を呼ぶ者を誰も残さない存在。
ヨハンは絵本に自分を重ねたというより、そこに初めて、自分の形を見つけてしまったのでしょう。それは救いではありません。自分が何者か分からない者にとって、「自分は怪物なのだ」という物語は、あまりにも残酷でありながら、ひとつの確かな輪郭にもなりえます。

第四章 母親は、どちらを選んだのか
ヨハンとアンナの母親は、双子に同じ少女の服を着せていました。男児であるヨハンの存在を隠すためだったとも考えられますが、外から見れば、二人はほとんど見分けがつきません。
ある日、母親は双子のうち一人を差し出すよう迫られます。彼女は二人を抱き寄せながら抵抗しますが、やがて一人を前へ押し出します。連れていかれたのはアンナでした。
ここで残るのは、母親が誰を選んだのかという問いです。彼女はヨハンを守ろうとして、アンナを差し出したのでしょうか。それとも、同じ服を着た二人を取り違え、本当はヨハンを差し出すつもりだったのでしょうか。
ヨハンにとって決定的だったのは、その答えを知ることができなかったことです。もし母親が意識してアンナを差し出したのなら、ヨハンは守られた子どもです。けれど、ただの取り違えだったのなら、自分に向けられたと思っていた愛は、自分のものではなかったかもしれない。

ヨハンは、母親に捨てられたとはっきり知っていたわけではありません。捨てられるはずだったのは自分かもしれない。その可能性を、最後まで否定できなかったのです。
明確に拒まれたのであれば、憎むことも、諦めることもできたでしょう。けれど、自分が愛されたのか、偶然そこに残っただけなのか分からないとき、愛を信じることも、捨て去ることもできません。
この不確かさは、ヨハンのなかに消えない空洞を残します。彼は何も与えられなかったのではありません。与えられたものが、本当に自分へ向けられたものだったのかを確信できなかったのです。
だからこそ、彼は他者にも同じような場面を与えます。極限の状況へ追い込み、誰を守り、誰を見捨てるのかを選ばせる。愛情や信頼が、恐怖や自己保身の前で崩れるように仕向ける。
母親が自分を選ばなかったかもしれない。そのもっとも残酷な可能性を、ヨハンは世界の側から何度も裏づけようとしていたのかもしれません。
彼が人間の弱さへ向ける視線には、どこか執拗なものがあります。人は結局、自分を守る。家族も友情も、追い詰められれば消える。誰かを愛しているという言葉も、選択の場面では簡単に裏切られる。
しかし、その証明を何度重ねても、ヨハンは止まりません。それは、彼が世界の空虚さを信じ切れていなかったからではないでしょうか。もし本当に何もないのであれば、確かめる必要も、誰かに選ばせる必要もないはずです。
ヨハンは絶望していたというより、絶望が正しいことを確認し続けていました。そして、その確認の奥には、別の答えを求める声も、わずかに残っていたように思えます。

第五章 世界の空虚さを証明する
ヨハンは、何かを手に入れるために人を壊したわけではありません。権力者の近くへ入り、巨大な財産へ手を伸ばせる位置に立ちながら、それを自分のものにはしない。彼を新たな指導者として担ぎ上げようとする組織が現れても、その計画へ従うのではなく、内側に疑心暗鬼を広げ、崩壊へ導いていきます。
彼が求めていたのは、支配することではなかったのでしょう。支配や秩序と呼ばれるものが、どれほど脆いかを見届けることでした。
ヨハンは、人の孤独に入り込みます。罪を抱えた者には、もう一度生き直す資格がないと思わせる。母親を探す少年には、自分は誰にも望まれていないかもしれないという疑いを与える。家族を持つ者からは、自分の名を呼ぶ人々を奪っていく。
そこで反復されているのは、いつも同じ問いです。関係を失ったあとに、人間には何が残るのか。名前を呼ぶ者がいなくなったとき、人は誰でいられるのか。愛情や倫理を剥がした先に、それでも失われない何かはあるのか。
ヨハンは、何も残らないという答えへ、人々を追い込んでいきます。けれど、彼自身は完全な空虚ではありませんでした。妹を殺さず、自分の過去を知る者として生かし続けたこと。自らを救ったテンマに、長い時間をかけて自分を追わせたこと。母親がどちらを選んだのかという問いを、最後まで手放せなかったこと。それらはどれも、ヨハンが他者とのつながりを完全には捨てていなかったことを示しています。
とりわけテンマは、ヨハンにとって特別な存在でした。何者かも分からない自分を、ほかの患者と同じように救った人物。ヨハンが何をしてきたかを知る前に、無条件でその命を選んだ人物です。
ヨハンは、その行為を打ち消したかったのでしょうか。自分を救ったことは間違いだった。人の命は平等ではない。自分は人間ではなく、救う価値のない怪物だった。そうテンマ自身に認めさせることができれば、彼の空虚さはようやく完成します。

だからヨハンは、テンマの前に姿を現し続けます。ただ逃げるのではなく、自分を見せる。さらに多くの死を重ね、救われた少年のなかに何がいたのかを突きつける。彼が求めていたのは、追跡から逃れることではありません。自分を救った者の信念を、自分自身の存在によって崩すことだったのかもしれません。
けれど、その望みには、ひとつのねじれがあります。本当に自分が怪物であると確信しているなら、誰かに認めてもらう必要はありません。テンマを試し続けることは、自分を救った行為がまだ彼のなかで消えていなかったことを意味します。
ヨハンの虚無は、何も求めない者の虚無ではありません。求めていたものが与えられたのか、それが本当に自分へ向けられたものだったのか、最後まで信じることのできなかった者の虚無です。
彼は世界の空虚さを証明しようとしました。けれど、その証明を必要としたこと自体が、彼のなかに、空虚だけでは説明できない欠如が残されていたことを、静かに示しているのです。

第六章 完全な自殺 誰もいなかったことにするために
ヨハンの行動は、ドイツ南部の小さな町ルーエンハイムで最後の局面を迎えます。そこには、双子の出生と人格形成実験に関わったフランツ・ボナパルタが、過去を隠して暮らしていました。ヨハンは町に銃を持ち込み、住民のあいだに疑念を広げます。長く隣人として暮らしてきた人々は、積み重なっていた不満や恐怖をきっかけに、互いを敵と見なし始めます。
ここでもヨハンは、人間の内側に新しい悪意を作ったわけではありません。そこにあった亀裂を広げ、共同体を支えていた信頼が、どこまで持ちこたえられるかを試しています。それまで個人に向けていた問いが、町全体へ拡大されたのだと考えられます。
しかし、ヨハンの目的は町を破壊することだけではありません。自分の過去を知る者を消し、記憶や記録を失わせ、最後には自分自身も死ぬ。それは作中で「完全な自殺」と呼ばれます。ただ命を絶つのではなく、自分が存在した痕跡そのものを消し去ろうとする試みです。
それでも、ヨハンはひとりで死のうとはしません。彼はテンマの前に現れ、少年へ銃を向けることで、テンマに自分を撃たせようとします。自分を殺す役割は、誰でもよかったわけではありません。かつて自分を救い、人の命は平等だと信じた医師である必要がありました。

テンマが引き金を引けば、最初の手術は別の意味を持ちます。救われた少年は、本来なら救うべきではなかった怪物だった。人の命は平等ではなく、救うに値しない者もいる。ヨハンは、自分の存在によってテンマの信念を否定させようとしたように見えます。
けれど、テンマは撃ちません。ヨハンを止めるために銃を手にし、長い時間をかけて追い続けた人物が、最後には医師としての立場を捨てきれない。ヨハンはテンマを追い詰めることはできても、その答えを自分の望む形へ変えることはできませんでした。
ヨハンを撃ったのは、テンマでも妹のニナでもなく、子どもを守ろうとした町の住人です。それはヨハンが準備した物語の外側から起きた出来事でした。自分を救った者に自分を殺させ、救いそのものを否定するという筋書きは、最後まで完成しなかったのです。

第七章 二度救われた者
頭部を撃たれたヨハンは、再びテンマの手術を受けます。物語の始まりと同じように、重傷を負った彼の命を、テンマが救うことになります。
ただし、二度の手術の意味は同じではありません。最初のとき、テンマはヨハンが何者なのかを知りませんでした。目の前に救える患者がいたため、その命を救っただけです。しかし二度目には、ヨハンが多くの命を奪い、人々を破滅へ導き、町ひとつを崩壊させようとしたことを知っています。自分自身の人生を大きく変えた相手であることも理解しています。
それでもテンマは手術をします。この選択は、ヨハンの罪を赦すことでも、奪われた命を軽く扱うことでもありません。テンマは、罪の重さを知ったうえで、人間の命そのものを価値の序列へ置くことを拒んでいます。
もし行為の善悪によって救う命を選ぶのであれば、テンマは物語の冒頭で拒んだ病院の論理へ戻ることになります。そこでは患者の命が、その人の地位や都合によって選別されていました。二度目の手術でテンマが守ったのは、ヨハンの無実ではなく、自分が立つ場所です。

ヨハンは、自分が救われる価値のない怪物であることを、テンマに認めさせようとしました。しかしテンマは、その結論を受け入れません。だからといって、ヨハンを善良な被害者へ戻すわけでもありません。ただ、人間を「怪物」という一語で閉じ、その先を考えることをやめないのです。
その意味でテンマは、ヨハンが続けてきた証明に対する反例になります。人は極限に置かれれば必ず信念を捨てる。関係も倫理も、最後には崩れる。ヨハンはそれを繰り返し示そうとしましたが、テンマの選択だけは、その筋書きに収まりませんでした。
ヨハンがテンマへ執着した理由も、ここから見直すことができます。テンマは、何者かも分からない自分を、ほかの患者と同じように救った人物です。ヨハンは、その行為を間違いだったことにしたかったのかもしれません。しかし、すべてを知った後にも同じ人物が再び自分を救ったことで、最初の手術を単なる無知や偶然として片づけることは難しくなります。
こうしたヨハンの運動は、私たちの日常と同じものではありません。彼が行ったことには、明確な加害と責任があります。ただ、不安を抱えた人が、自分の恐れている答えを繰り返し確かめようとする心の動きには、どこか理解できる部分もあります。
自分は必要とされていないのではないか。誰かの愛情を信じたのは間違いではないか。関係はすでに壊れているのではないか。そうした不安は、ときに安心できる証拠よりも、恐れていた結論を裏づける材料へ目を向けさせます。確かめることで不安を解消するつもりが、かえって同じ疑いを強めてしまうこともあります。
ヨハンは、自分の内側にある欠如を、世界全体の空虚さとして証明しようとしました。誰もが最後には他者を捨てるのだと示すことができれば、自分だけが捨てられたかもしれないという不安は、個人的な傷ではなくなります。それは世界の法則になるからです。
テンマは、その空洞を埋める答えを与えません。母親の代わりに、ヨハンが愛されていたと保証することもできません。ただ、世界はヨハンが考えるほど一つの結論に閉じてはいないと、自らの行為によって示します。完全な空虚という説明にも、そこから外れるものが残る。二度目の手術は、その可能性を消さないための選択だったのだと思います。

結び 空になったベッドの向こうへ
事件後、テンマはヨハンとニナの母親を訪ねます。そして、双子には本当の名前が与えられていたことを知ります。その名前が何であったのかは、読者には明かされません。
テンマは警察病院で眠るヨハンに、母親と会ったことを語ります。そのとき、ヨハンが起き上がり、母親は自分を守ろうとして妹を差し出したのか、それとも二人を取り違えたのかと問いかける場面が現れます。それが実際の会話だったのか、テンマの想像だったのかは分かりません。

ただ、その問いはヨハンの行動を最後まで貫いていました。自分は選ばれたのか。捨てられるはずだったのか。母親から向けられた愛は、本当に自分のものだったのか。世界の空虚さを証明しようとしたヨハンの奥には、この個人的で答えのない問いが残されています。
物語の最後に描かれるのは、開かれた窓と空のベッドです。ヨハンが自ら歩いて去ったのか、その後どこへ向かったのかは示されません。再び怪物として生きるのか、本当の名前を持つひとりの人間として別の場所へ向かったのかも分かりません。
物語の始まりにも、病院のベッドがありました。そこには、名前も過去もよく知られないまま頭を撃たれた少年が横たわり、テンマはその命を救います。そして最後には、同じように救われたあとで、誰もいないベッドだけが残ります。

しかし、その空白は、ヨハンが目指した「最初から誰も存在しなかった」という状態と、完全に同じではないでしょう。彼には本当の名前がありました。彼を追い続けた人々がいて、妹は最後に彼を殺さないと決め、テンマはすべてを知ったあとにも命を救いました。
それらによってヨハンが救済されたと断定することはできません。奪われた命が戻るわけでも、幼いころの傷が消えるわけでもありません。それでも、世界には何もなく、人は必ず他者を捨てるという彼の証明は、最後まで完成しませんでした。
空のベッドは、ヨハンの不在を示しています。同時に、彼がどこへ向かったのかを決めることなく、物語を開いたままにしています。そこに希望を読み込む必要はありません。ただ、完全な空虚だけを結論とすることも、もはやできないのだと思います。

