【書評】ジャック・デリダ『法の力』――正義はなぜ、不可能なものとして私たちを呼ぶのか
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はじめに 正義を語ることの難しさ
正義という言葉は、とても強い言葉です。だからこそ、私たちはしばしば、その言葉を早く使いすぎてしまうのかもしれません。何が正しく、何が間違っているのか。誰が加害者で、誰が被害者なのか。どの制度が公正で、どの判断が不正なのか。そうした問いは、私たちの日常から遠く離れたものではありません。ニュースを読むときにも、職場や学校で何かを判断するときにも、あるいはひとつの作品に触れるときにも、正義という言葉は、どこかで私たちの判断を支えています。
けれども、その正義は、本当に私たちの手のなかにあるのでしょうか。自分が正義の側にいる、と言い切った瞬間に、何かを見落としてしまうことはないのでしょうか。ある制度が正義を名乗るとき、その制度が取りこぼしている声はないのでしょうか。ジャック・デリダの『法の力』は、まさにこの難しさから出発する本です。
デリダといえば、脱構築という言葉で知られています。けれども、その言葉は、しばしば誤解されてきました。何でも相対化すること。価値を壊してしまうこと。意味を不安定にして、何も決められなくすること。そうした印象で受け取られることも少なくありません。しかし『法の力』を読むと、脱構築は、単なる破壊でも、思考の放棄でもないことが見えてきます。むしろそれは、正義という言葉をあまりに簡単に所有しないための、きわめて慎重な思考です。
『法の力』は、決して平易な本ではありません。ひとつひとつの概念は重く、議論も複雑です。ベンヤミン、パスカル、モンテーニュ、法哲学、政治思想、そしてデリダ自身の長い思考の蓄積が、幾重にも折り重なっています。それでもこの本は、ある意味では、デリダへの重要な入口にもなります。なぜならここには、脱構築が何を壊そうとしたのかではなく、何に応答しようとしていたのかが、かなりはっきりと示されているからです。
私にとってデリダは、簡単な救いを与えてくれる思想家ではありません。むしろ、救い、正義、赦し、歓待といった言葉が、どれほど危うく、どれほど手に負えないものかを示す思想家です。それでもなお、それらの言葉を手放さない。その困難な姿勢に、私は何度も立ち返ってきました。『法の力』は、そのデリダの厳しさと粘り強さが、法と正義の問題を通じてあらわれた一冊だと思います。

第一章 脱構築とは、壊すことではない
まず確認しておきたいのは、脱構築とは「壊すこと」ではない、という点です。もちろん、脱構築という言葉には、何かを解体する響きがあります。実際、デリダはハイデガーの思考から多くを受け取っています。ハイデガーには、存在論の歴史をさかのぼり、その堆積を解きほぐすデストラクション(Destruktion)という発想がありました。ただし、その語が単なる破壊として受け取られてしまうことを避けるために、デリダはデコンストラクション(Déconstruction)という言葉を選び取ったとも言えます。
では、脱構築とは何をするのでしょうか。とても簡単に言えば、ある対立のうちで優位に置かれてきたものが、実はその内部に、劣位に置かれてきたものをすでに含み込んでいることを読む営みです。
たとえば、AとBという対立があるとします。伝統的には、Aのほうが本質的で、Bは二次的なものだと考えられてきた。Aが中心で、Bは周縁。Aが純粋で、Bは派生。Aが本物で、Bは補助。そのように序列が作られている。しかし、よく読んでいくと、AはBを外に追いやることで自分の純粋さを保っているのではなく、そもそもAの内部にBの要素を含んでいることが見えてくる。そうなると、Aの優位性は外から攻撃されるのではなく、自分自身の内側から揺らぎはじめます。
この典型が、初期デリダにおける声と文字、つまりパロールとエクリチュールの問題でした。西洋哲学の伝統では、声は意味の現前に近いものとされてきました。話す人がそこにいて、その人の声が発せられ、その意味がただちに届く。声には、意味が生きたまま現れているように見える。一方で文字は、その声をあとから記録するもの、声がいなくなったあとに残るもの、つまり二次的なものと考えられてきました。
しかしデリダは、この序列を揺さぶります。声は本当に、意味の純粋な現前なのでしょうか。声もまた、反復されなければ伝わりません。聞き取られ、記憶され、別の場面で繰り返されることで、はじめて意味として働きます。そうであるなら、声の内部にも、すでに文字的なものが入り込んでいることになります。文字が声の外側からやってきて、声を汚すのではありません。声が声として成り立つために、すでに文字的な反復や差異を必要としているのです。
ここで起きているのは、単純な逆転ではありません。文字のほうが声より偉い、と言いたいわけではないのです。むしろ、声/文字という対立そのものが、思っていたほど安定していないことを示す。優位に立っていたはずのものが、自分の足場のなかに、排除したはずのものを抱え込んでいることを読む。これが、脱構築の基本的な身振りです。
この説明を踏まえると、『法の力』も少し見えやすくなります。ここで問題になるのは、法と正義、そして法と暴力です。ふつう、法は暴力を抑えるものだと考えられています。法があるから、むき出しの暴力は抑制される。法があるから、社会は秩序を保つことができる。けれどもデリダは、そこで立ち止まります。法は本当に、暴力の外側にあるのでしょうか。法が法として働くためには、そもそも力を必要とするのではないでしょうか。
声の内部に文字的なものが入り込んでいたように、法の内部にも、法が抑え込んだはずの力が入り込んでいる。『法の力』は、そのことを問う本でもあります。

第二章 法と正義は、同じものではない
『法の力』でまず重要なのは、法と正義を同じものとして扱わないことです。私たちは日常的に、法と正義を近いものとして考えがちです。法律は正義のためにある。正しい裁判は、法律によって実現される。社会の秩序は、法によって守られる。もちろん、そのように考えることには、一定の理由があります。法がなければ、私たちは恣意的な判断や暴力から身を守ることができません。
けれどもデリダは、法と正義のあいだに、決定的なずれを見ます。法は、制度です。条文であり、手続きであり、規則です。ある社会の歴史のなかで作られ、蓄積され、変更されてきたものです。だからこそ法は、解釈され、修正され、批判され、場合によっては変革されることができます。法は構築されたものだから、脱構築可能なのです。
このことは、悪い知らせではありません。むしろ、法が脱構築可能であるということは、法が変わりうるということです。かつて当然とされていた制度が、のちに不正義として問い直されることがある。ある時代には見えなかった苦しみが、別の時代にようやく言葉を与えられることがある。法が歴史的なものであるからこそ、そこには批判と更新の可能性があります。
一方で、正義は法のように扱うことができません。正義は、条文のなかに完全に閉じ込めることができないものです。ある規則を正しく適用したからといって、それだけで正義が実現したとは限らない。なぜなら、目の前の出来事はいつも一回きりであり、そこにいる他者もまた、単なる一般例ではないからです。
たとえば裁判官が、ある事件に法を適用するとします。そのとき、法に従わなければ判断は恣意的になります。しかし、ただ機械的に規則を当てはめるだけなら、その判断は本当に正義と呼べるのでしょうか。そこには、個別の事情、語りきれない痛み、制度の言葉には収まりきらないものがあるかもしれません。正義とは、そのような単独の他者にどう応答するのかという問いを含んでいます。
だからデリダにとって、正義は不可能なものとして現れます。不可能というのは、存在しないという意味ではありません。どうせ実現できないから考えなくてよい、という意味でもありません。むしろ反対です。正義は、完全には所有できない。計算しきれない。法のなかに閉じ込めることができない。けれども、その不可能な正義があるからこそ、私たちは法を問い直し続けなければならないのです。
ここに、『法の力』の大きな転回があります。脱構築は、法を無意味にするためのものではありません。法などどうでもよい、と言うためのものでもありません。むしろ、法が正義を名乗るとき、その法が何を取りこぼしているのかを問うためにある。法を通じてしか正義に近づけないにもかかわらず、正義は法に回収されきらない。この緊張のなかに、デリダの思考はあります。
『法の力』がデリダ入門としても重要なのは、この点にあります。ここでは、脱構築が単なる言語の問題にとどまらず、法、判断、責任、他者への応答へと向かっていることが見えてきます。難解なデリダの議論は、ここで少しだけ、私たちの現実に近づいてくる。何が正しいのかを簡単には言えない場所で、それでもなお判断しなければならない。その困難のなかで、デリダの思想は、静かにこちらを見つめ返してくるのです。

第三章 法の内部にある力
『法の力』という題名には、すでにこの本の核心が含まれています。法は、ただ紙に書かれた条文ではありません。社会のなかで実際に働き、人々の行為を制限し、何かを許し、何かを禁じるものです。そのためには、法は適用されなければなりません。そして、適用されるためには、そこに何らかの力が必要になります。
ふつう私たちは、法と暴力を対立するものとして考えます。暴力があるから、法が必要になる。暴力を抑えるために、法がある。たしかに、その理解はまちがいではありません。もし法がなければ、強い者が弱い者を押しつぶし、声の大きい者が場を支配し、私的な復讐や恣意的な処罰が社会を覆ってしまうかもしれません。法は、そのようなむき出しの力を抑えるための制度として、私たちの社会に置かれています。
けれどもデリダは、そこで問いを止めません。法は本当に、暴力の外側にあるのでしょうか。法は暴力を抑えるだけの、透明で中立な制度なのでしょうか。むしろ法は、法として働くために、最初から力を必要としているのではないでしょうか。
ここで重要になるのが、英語の enforce the law という表現です。法はただ適用されるだけではなく、強制されるものでもあります。ある規則が法であるためには、それに従わなかったとき、何らかの制裁や拘束がありうる。つまり法は、ただ理念として存在しているのではなく、それを現実に通用させる力をともなっています。
この力は、法の外側にあとから付け加えられるものではありません。法が法であるために、最初から含まれているものです。ここで、先に見た脱構築の説明が効いてきます。声の内部に、排除されたはずの文字的なものが入り込んでいたように、法の内部には、法が抑えるはずの力が入り込んでいます。法は暴力を抑える。しかし、法が法として成立するためには、力を必要とする。このねじれを見つめるところに、『法の力』の読みにくさと、同時に重要さがあります。
もちろん、ここでデリダが言いたいのは、法も暴力も同じだから、法など無意味だ、ということではありません。むしろ反対です。法が力を含んでいるからこそ、私たちは法を絶対化してはならない。法が正義を名乗るとき、その法がどのような力によって支えられているのかを問わなければならない。法の名のもとに何が保護され、何が排除され、誰の声が聞かれ、誰の声が聞かれないままにされているのか。その問いを手放さないために、デリダは法の内部にある力を見つめます。
ここには、正義を考えるうえで避けて通れない緊張があります。法がなければ、正義は現実の社会に届きません。けれども、法だけでは正義は完結しません。法は、正義に近づくために必要でありながら、同時に正義を取りこぼすこともある。そのとき、法を問い直す力が必要になります。脱構築とは、このような問い直しの営みでもあるのです。
だから『法の力』は、法の否定ではありません。むしろ、法をあまりにも簡単に正義と同一視しないための思考です。法が正義を実現するための道具であるなら、その道具がどのような歴史を持ち、どのような力を含み、どのような限界を抱えているのかを見なければならない。法を信じるためにも、法を疑う必要がある。ここに、デリダの慎重さがあります。

第四章 ベンヤミン『暴力批判論』を読む
『法の力』の後半で、デリダはヴァルター・ベンヤミンの『暴力批判論』を読みます。ここは本書のなかでも、とくに難所です。ベンヤミンの議論そのものが難解であり、さらにデリダは、それをただ紹介するのではなく、その内部にある揺らぎや危うさまで読み込んでいくからです。
ただ、記事として読むうえでは、まずベンヤミンが何を問題にしていたのかを押さえればよいと思います。ベンヤミンが見つめたのは、法と暴力の深い結びつきです。暴力とは、単に法を破るものではありません。むしろ、法を作るときにも、法を維持するときにも、暴力は関わっている。ベンヤミンはこの点を、法措定的暴力と法維持的暴力という区別によって考えました。
法措定的暴力とは、新しい法を打ち立てる暴力です。たとえば国家の成立、革命、憲法の制定、ある秩序の始まりには、しばしば既存の法では正当化できない力が働いています。まだその法が存在していない以上、その法によって自分自身を正当化することはできません。新しい法は、ある瞬間、根拠のないところで自分を立ち上げなければならない。その始まりには、どこか暴力的な飛躍があります。
一方で、法維持的暴力とは、すでに成立した法を守り、保ち、執行する暴力です。警察、裁判、処罰、監視、拘束。これらは、既存の法秩序を維持するために働きます。私たちはそれを単なる暴力とは呼ばず、公的な権限として受け入れています。しかしそれでも、そこに力が働いていることは否定できません。法は、守られるためにも、強制される必要があるのです。
この二つの区別は、とても重要です。なぜなら、法は平和な規則として存在しているだけではなく、その始まりにも、その維持にも、力を必要としていることが見えてくるからです。法は暴力を抑えるものだと考えられている。しかし、法の始まりには暴力があり、法の維持にも暴力がある。この認識は、法をきれいな理念としてだけ見ることを許しません。
ベンヤミンはさらに、神話的暴力と神的暴力という対比を導入します。神話的暴力とは、法を打ち立て、人間の秩序を作り出す暴力です。そこでは血が流れ、犠牲が生まれ、法と権力が結びついていきます。それに対して神的暴力は、法を作るのではなく、法を破壊する暴力として構想されます。既存の法秩序を打ち壊し、人間の法を超えた正義のようなものを示す力です。
ここで注意したいのは、ベンヤミンが単に暴力を肯定しているわけではない、ということです。彼が問うているのは、暴力が何のために使われるかだけではありません。正しい目的のためなら暴力は許されるのか。あるいは、合法的な手段であれば暴力は正当化されるのか。ベンヤミンは、そのような手段と目的の枠組みそのものを疑います。暴力を、何かに奉仕する道具としてだけ見るのではなく、法との関係そのものから考えようとするのです。
しかし、問題はここで終わりません。とりわけ、法を破壊するものとして語られる神的暴力を、私たちはどのように受け止めればよいのでしょうか。法の暴力を見抜くことと、法の外部に純粋な正義を求めることは、同じではありません。次章では、デリダがこの点にどのような警戒を示したのかを見ていきます。

第五章 純粋な暴力への警戒
ここでデリダが警戒したのは、法の外部にある「純粋な正義」へ、あまりに早く飛び込んでしまうことでした。ベンヤミンは、法がその始まりにも維持にも暴力を含んでいることを鋭く見抜きました。その洞察を、デリダは退けません。むしろ深く受け止めています。けれども、そこからただちに、法の外側にある純粋な暴力へ賭けることには、強い危うさがあると考えます。
ある破壊が、ただの破壊ではなく、正義の名に値するものだと、誰が判断できるのでしょうか。ある暴力が、単なる暴力ではなく、法を超える純粋な力なのだと、どのように見分けられるのでしょうか。もしその判断を人間が確実には下せないのだとすれば、「純粋な正義」という言葉は、きわめて危険なものにもなります。なぜなら、どのような暴力であっても、それが正義の名をまとうことで、別の仕方で正当化されてしまうかもしれないからです。
ここで大事なのは、デリダが法を守る保守的な思想家になっているわけではない、ということです。デリダは、法をそのまま信じているのではありません。法は不完全であり、歴史的に作られたものであり、そこには支配や排除や沈黙が入り込むことがあります。だからこそ法は問い直されなければならない。けれども同時に、法の外部に「これこそが純粋な正義だ」と言い切れる場所があるわけでもないのです。
デリダが踏みとどまるのは、このどちらにも安住できない場所です。法を絶対化しない。けれども、法を超えた純粋な救済にも飛びつかない。正義は法のなかに完全には収まりません。しかし、正義が現実の世界に届くためには、法や制度や判断をまったく通らないわけにもいかない。この引き裂かれた場所に立ち続けること。それが、『法の力』におけるデリダの姿勢です。
だから、正義が不可能であるということは、あきらめの理由ではありません。むしろ、責任の始まりです。もし正義が完全に計算できるものであれば、私たちはただ規則を適用すればよいことになります。もし正義がすでに誰かの手のなかに所有されているのであれば、判断の苦しみは必要ありません。しかしデリダにとって、正義はそのようなものではありません。正義は、完全には所有できないものとして、私たちに応答を求めてきます。
ここに、不可能性をめぐるデリダの重要な姿勢があります。不可能だから、何もしなくてよいのではない。不可能だから、何でも許されるのでもない。不可能だからこそ、私たちは安易に「これが正義だ」と言い切ることができず、それでもなお、判断しなければならないのです。完全な保証がない場所で、なお応答すること。そこに、デリダの考える責任があります。
この責任は、非常に厳しいものです。なぜなら、そこでは完全な正解があらかじめ与えられていないからです。法に従えばすべてが正しい、とは言えない。かといって、法を超えた正義の名を口にすれば、それだけで正しいとも言えない。正義の名は、いつも危うさを含んでいます。けれども、その危うさを理由に、判断そのものから退くこともできません。
脱構築とは、この責任から逃げるためのものではありません。ある制度が正義を名乗るとき、その制度の陰で沈黙させられている声はないか。ある判断が正しいとされるとき、その正しさによって見えなくなるものはないか。ある暴力が正義の名で語られるとき、その言葉が何を覆い隠しているのか。そうした問いを、閉じられた場所にもう一度差し入れること。それが、ここでの脱構築の働きです。
『法の力』が難解でありながら、デリダを理解する入口にもなるのは、この点にあります。脱構築は、法を壊して終わる思考ではありません。正義を不可能だと言って退く思考でもありません。むしろ、法と正義のあいだにある裂け目を見つめながら、その裂け目を消さずに、なお判断し、応答し続けるための思考なのです。

第六章 赦し、歓待、そして到来する正義へ
この「不可能であるにもかかわらず、なお応答しなければならない」という構図は、『法の力』だけにとどまりません。むしろここを押さえると、デリダのほかの議論もぐっと近くなります。赦し、歓待、贈与、そして来たるべき民主主義。これらはいずれも、完全に実現できる制度や手続きとしてではなく、不可能でありながら私たちを呼び続けるものとして考えられているからです。
たとえば赦しについて考えるとき、デリダは、赦しが本当に赦しであるなら、それは赦しえないものに向かわなければならない、と考えます。簡単に許せるもの、理解できるもの、条件を満たしたものだけを許すのであれば、それはすでに和解や計算や取引に近づいてしまう。けれども、赦しえないものを赦すとは、そもそも可能なのでしょうか。ここに、赦しの不可能性があります。
歓待もまた同じです。客人を迎えるとは、相手を自分の家のルールに従わせることなのでしょうか。それとも、相手を相手のまま迎えることなのでしょうか。条件をつけて迎えるなら、それは管理された受け入れです。しかし、無条件に迎えるなら、こちらの秩序は揺さぶられます。歓待は必要でありながら、不可能に近い要求として現れます。
贈与も同じ構造を持っています。何かを贈るとき、それが感謝や返礼や承認を期待するものになった瞬間、純粋な贈与ではなくなってしまう。けれども、まったく認識されない贈与は、そもそも贈与として現れることができるのでしょうか。贈与もまた、可能であるために不可能性を抱え込んでいます。
このように見ると、『法の力』は、デリダの思想を理解するための大切な入口になります。正義、赦し、歓待、贈与。これらはどれも、きれいな理念として所有できるものではありません。むしろ、それが本当にその名に値しようとすればするほど、私たちの計算や制度や理解を超えてしまうものです。だからこそ、それらは不可能なものとして、私たちを呼び続けます。
ここで大事なのは、不可能性を暗い結論として受け取らないことです。デリダにとって、不可能性は、何もできないという意味ではありません。むしろ、完全に可能なもの、あらかじめ手順が決まっているもの、計算すれば答えが出るものは、もはや本当の意味での決断ではありません。決断とは、保証がないところで、それでも引き受けることです。正義とは、完全な知識がない場所で、それでも他者に応答しようとすることです。
だから『法の力』は、難解な本でありながら、デリダの思考をかなり近くに感じさせてくれる本でもあります。デリダは、私たちに簡単な答えを与えません。正義とはこれだ、と差し出してくれるわけでもありません。けれども、正義を簡単に語ることの危うさを示しながら、それでも正義という言葉を手放さないための思考を与えてくれます。

結び 不可能だからこそ、応答は終わらない
『法の力』を読み終えて残るのは、正義という言葉の重さです。正義は、法のなかに完全には収まりません。けれども、法をまったく離れて現れるわけでもありません。法は必要です。法がなければ、私たちは恣意的な暴力から身を守ることができません。しかし法は、正義そのものではない。だから法は、つねに問い直されなければなりません。
この緊張は、簡単には解けません。むしろ、解けないものとして残ります。法を信じることと、法を疑うこと。正義を求めることと、正義を所有しないこと。判断しなければならないことと、その判断が完全には正当化されないこと。デリダは、このような矛盾を整理して消し去るのではなく、矛盾のまま引き受けようとします。
そこに、デリダの厳しさがあります。そして同時に、静かな希望もあります。正義は不可能である。けれども、不可能であるからこそ、私たちはそれを簡単に手放してはならない。赦しも、歓待も、贈与も、来たるべき民主主義も、完全に実現された所有物としては現れません。それらはいつも、まだ来ていないものとして、私たちに応答を求めてきます。
夜更けのカルチャー便でデリダを扱うことには、少し特別な意味があります。ここで考えたいのは、思想を難しい言葉のまま遠ざけることではありません。かといって、難しさをすべて取り払って、わかりやすい結論にしてしまうことでもありません。むしろ、難しさのなかにある手触りを残したまま、それが私たちの生きている場所とどうつながっているのかを考えたいのです。
私たちは日々、何かを判断しています。大きな政治的判断だけではありません。誰かの言葉をどう受け取るか。ある制度のなかで、誰の痛みが見えなくなっているか。自分が正しいと思うとき、その正しさが誰かを黙らせていないか。そうした小さな場面にも、『法の力』の問いは静かに入り込んできます。
正義は、私たちの手のなかに完全にはありません。けれども、そのことは、正義を語らなくてよいという意味ではありません。むしろ、完全には持てないからこそ、何度も問い直す必要があります。法を通じて正義に近づきながら、法が正義を取りこぼす瞬間を見逃さないこと。正義の名において暴力が語られるとき、その言葉の危うさに耳を澄ますこと。
『法の力』が教えてくれるのは、正義を所有することではなく、正義に呼ばれ続けることなのだと思います。不可能だから、終わりではありません。不可能だからこそ、応答は終わらない。デリダの思想は、その終わりのなさを、あきらめではなく責任として引き受けるための、静かな訓練なのです。
