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【書評】ジョルジュ・バタイユ『非-知』――西洋的理性の裂け目から、私たちを見返すために


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はじめに 難解さの理由をたずねる

ジョルジュ・バタイユは、読んですぐにわかる思想家ではありません。文章はときに飛躍し、議論は直線的に進むというより、こちらの足場をわざと揺らすように運ばれていきます。初めて読むと、なぜここまで読みにくく書くのだろう、と戸惑うはずです。けれども、その難しさは単なる癖ではありません。むしろ、バタイユが何を相手にしていたのかを考えると、その難解さにも理由が見えてきます。

彼が問いにかけたのは、西洋的理性が当たり前のものとしてきた世界の見方でした。世界は理解できる、整理できる、意味づけられる。主体はそれを捉え、説明し、先へ進むことができる。そうした感覚は、私たちにとってあまりにも自然です。けれども、その自然さは本当に中立なのでしょうか。理解することは、しばしば包摂することでもあります。整理することは、何かを切り分け、名前を与え、秩序のなかに置くことでもあります。そこでは、うまく言葉にならないものや、秩序に収まりきらないものが、見えないものとして外に追いやられてしまうこともあるでしょう。

だからこそバタイユは、整いすぎた理性の言葉だけでは届かない場所へ向かおうとしました。笑い恍惚至高性。そうしたものは、昼の理性がうまく捉えられない経験です。彼の文体がときに揺れ、ときに乱れ、ときにこちらの理解を拒むように見えるのは、そのためでもあったのだと思います。理性そのものを揺さぶろうとするとき、理性に従順な文章だけでは足りなかったのでしょう。

『非-知』は、そんなバタイユのなかでも、とりわけ重要な一冊です。題名だけを見ると、何か反知性的な本のようにも見えるかもしれません。けれど、この本の中身はずっと繊細です。知を捨てろというのではない。むしろ、知を最後まで押し進めたとき、そこに何が起こるのかを見ようとしている。そうして現れてくるものが、非-知なのです。

そしてこの本の大きな魅力は、バタイユの全体像に触れられることでもあります。彼の思想に繰り返し現れる主題、たとえば知の限界、主体の破れ、死、笑い、涙、夜、反抗、消尽、至高性といったものが、この一冊に濃く集まっています。その意味で『非-知』は、難しいバタイユを読むための入り口でありながら、同時にその核心にかなり近い場所でもあります。

今回はまず、この本が全体として何を問うているのかを押さえ、そのうえで大きく二つの主題を見ていきます。ひとつは、ヘーゲル的理性への批判としての非-知です。もうひとつは、本書がなぜバタイユ哲学のエッセンスと呼べるのか、ということです。難しい本ではあるのですが、だからこそ、その難しさの理由まで含めて辿ってみたいと思います。

本記事の図解

第一章 『非-知』とはどのような本なのか

『非-知』という言葉から、まず思い浮かぶのは「知らないこと」かもしれません。ですが、バタイユが言う非-知は、そのような素朴な無知ではありません。何も知らない、知識が足りない、そのような意味での「非」ではないのです。むしろ逆に、知が極限まで進んだ先で、自分の根拠を失ってしまうこと知そのものが、自分では捉えきれないものにぶつかってしまうこと。そうした地点を指して、バタイユは非-知と呼んでいます。

この本の全体を読むと、バタイユが一貫して見ようとしているのは、知の明るさの外にある神秘ではなく、知の運動そのもののなかに潜む裂け目です。知はふつう、有用性と結びついています。何かを知るとは、世界を理解し、整理し、先を見通し、行動に役立てることでもある。知はつねに、いまここを超えて未来へ向かう力を持っています。その意味で知は、現在を目的のための手段へ変えていく働きでもあります。

けれども、バタイユはその運動をそのまま肯定しません。知はたしかに世界を明るく照らすけれど、その明るさのなかでは捉えきれないものもある。瞬間、死、笑い、涙、恍惚、沈黙。こうしたものは、知の不足によって見えないのではなく、知のかたちそのものに収まらないのです。ここに『非-知』の出発点があります。

そのため、この本は単なる認識論ではありません。知の本であると同時に、死の本でもあり、情動の本でもあり、宗教経験の本でもあります。笑いは、計算どおりには起こりません。もまた、自分を思うように保てなくなったときにあふれます。は、どこまで考えても、自分の経験として所有することができません。というイメージも、単に暗闇の比喩ではなく、昼の理性の届かなさを告げています。これらはばらばらな話題ではなく、知が自分の限界に触れたときにあらわれる経験の束として結びついているのです。

だから『非-知』は、読み進めるにつれて、単純な哲学の本という感じから少しずつずれていきます。論理はあるのですが、その論理だけでは捉えきれないものが繰り返し現れる。言葉で説明しようとしているのに、その説明がかえって言葉の限界を示してしまう。バタイユが難しいのは、こういうところでもあります。けれども、この難しさは、考えることを放棄しているからではありません。むしろ、考えることをぎりぎりまで続けた先で、考えることだけでは届かない場所に触れているのです。

この本を読むと、非-知とは理性の敵ではないことも見えてきます。理性の外にただ神秘がある、という話ではありません。理性は理性のまま進んでいく。けれど、その完成を目指す運動そのものが、自らの裂け目を露出させてしまう。非-知は、そのときに生まれてくる。だからこそ、本書は理性を捨てるための本ではなく、理性の限界を、その内部から見返すための本なのです。


第二章 絶対知の先にあるもの ヘーゲル批判としての『非-知』

第二章の図解

この本の第一の大きな主題は、ヘーゲル的理性への批判です。ただし、ここで注意したいのは、バタイユがヘーゲルを単純に退けているわけではない、ということです。理性は信用できない、感情や混沌のほうが真実だ、といった素朴な反発とはまったく違います。むしろバタイユは、理性がどこまで自分を押し進めるのかを見届けたうえで、その先に現れるものを考えようとしています。

ヘーゲルの哲学では、対立や否定は、ただ壊すだけのものではありません。矛盾や対立は、より高いかたちで乗り越えられ、ひとつの理解へとまとめられていくそのような運動の果てに置かれるのが、絶対知です。世界の出来事も、精神の運動も、最終的には理解可能なものとしてひとつの地平に収まっていく。そこでは否定さえも、より大きな統一へ至るための契機になります。

このとき重要なのは、否定がつねにより高い理解へ回収されるということです。対立するものも、異質なものも、最後には意味のなかへ取り込まれていく。そうした理性の運動は、壮大で魅力的でもありますが、同時に、そこに収まりきらないものを見えにくくしてしまう危うさも持っています。異質なものは、異質なままではいられず、より大きな体系の一部として位置づけられてしまうからです。

バタイユが見たのは、まさにこの点でした。絶対知が完成するということは、本当にすべてが理解されたということなのか。あるいは、その完成そのものの内側に、すでに取りこぼしが潜んでいるのではないか。彼にとって、瞬間は概念として完全には捉えられません。死は経験として所有できません。笑いは計算どおりには起こりません。涙は主体の自己支配を破ります。つまり、絶対知が完成したと語られるその場にこそ、知では捉えきれないものが噴き出してくるのです。

ここで非-知は、知の外にある単なる闇ではありません。絶対知のあとに現れるもの、あるいは絶対知の完成の瞬間からすでに始まっている裂け目として現れます。だからバタイユは、ヘーゲル的理性を丸ごと捨てるのではなく、その運動の極限から、理性自身が自分の限界をさらけ出す場面を見ようとしたのです。

この意味で、バタイユの批判はとても内在的です。外から体系を壊そうとするのではなく、体系が自分で自分を閉じられないことを示していく。その姿勢は、のちに完成した意味の体系の内部にほころびを見る思考とも響き合います。もっとも、バタイユの語りはずっと熱があり、笑いや涙や夜のイメージを通して、理性の裂け目を経験の側から照らそうとする点で、独特です。

そしてここで見えてくるのは、なぜ「西洋的理性」が問題なのかということでもあります。問題なのは、理性が明晰であることそのものではありません。理性が、世界を理解し、整理し、包摂し、場合によっては支配する運動と結びついてきたことです。すべてを意味のなかへ収めようとする態度は、異質なものや他者を、他者のまま残しておくことに耐えられません。そこには近代の暴力とつながる気配があります。だからバタイユが非-知を、夜や笑いや死の側から考えたのは、単に神秘に惹かれたからではないはずです。昼の理性が当然としてきた世界のかたち、その明るさのなかで見えなくされてきたものを、もう一度見直すためだったのだと思います。


第三章 夜、笑い、涙 理性の外ではなく、その裂け目にあるもの

バタイユの思考が独特なのは、理性を正面から論破するというより、理性が届かなくなる場面そのものを描こうとするところにあります。『非-知』において、その役割を担っているのが、夜、笑い、涙、恍惚、至高性といった主題です。これらはどれも、単なる感傷的な飾りではありません。むしろ、知の運動が自分の限界に触れたとき、主体の側に起こる出来事なのです。

たとえば笑いは、その典型でしょう。私たちは普通、笑いを気軽なものとして受け取ります。けれどもバタイユにおいて笑いは、計算外のものです。主体が自分を整え、状況を理解し、意味を保っているあいだ、笑いはまだ管理可能なものかもしれません。しかし、何かがその管理を裏切るとき、笑いは思わぬ仕方で噴き出します。そこでは理性の秩序が一瞬、外れてしまう。意味は崩れ、主体は自分を保てなくなる。笑いが重要なのは、まさにこの「不意打ち」のような性格のためです。

もまた似ています。涙は、悲しみの表現というだけでは足りません。そこには、自分を自分として保っていた輪郭がゆるみ、言葉の外へ何かがあふれ出してしまう感覚があります。笑いと涙は反対の感情のようでいて、バタイユにおいてはどちらも、主体が自己同一性を保てなくなる出来事として近い位置にあります。要するに、それらは知によって整理された自己が、不意にほころぶ場面なのです。

夜というイメージも同じです。夜は単なる暗闇ではありません。昼の理性が世界を見通し、区分し、把握するのに対して、夜はその見通しが利かなくなる時間です。ただし、ここで大切なのは、夜が理性の単なる反対物ではないということです。夜は、理性が敗北したあとにやってくる外部というより、理性の光が届ききらないことを、理性そのものに思い知らせる場です。その意味で夜は、理性の外ではなく、理性の裂け目の比喩として読むべきでしょう。

こうした主題は、バタイユがしばしば語る至高性にもつながっています。至高性とは、何か高貴で立派な理念のことではありません。むしろ逆で、有用性や目的に従属しない瞬間の強度です。未来のためにいまを役立てるのではなく、その瞬間がそれ自体で燃え上がること。そこでは、計画や節約や意味づけは後景に退きます。笑い、涙、夜、恍惚が重要なのは、どれもそうした瞬間に触れているからです。

ここで見えてくるのは、バタイユにとって非-知が単なる抽象概念ではないということです。非-知は、理論のなかで定義されるだけではなく、主体の側で起こる揺らぎとして経験される。しかもその経験は、すぐに安定した意味へ回収することができません。笑ったあとに、なぜ笑ったのかをきれいに説明しきれないことがあります。涙もまた、その理由をあとから整えて言うことはできても、あふれたその瞬間そのものは説明を超えています。バタイユが見ようとしたのは、まさにその地点でした。

だから『非-知』は、理性を捨てる本ではないにしても、理性だけに世界を任せておくことへの不信を深く抱えています。私たちが当たり前だと思っている主体の形、整った意味、説明可能性の信仰。それらがいったんほころぶとき、夜、笑い、涙といったものが、知の外からではなく、知の足元から現れてくる。その意味でこの章に現れる主題群は、バタイユの思想を飾るものではなく、むしろその真ん中にあるものなのだと思います。

第三章と第四章の図解

第四章 死は経験できない それでも死は教えである

『非-知』において、死はきわめて大きな位置を占めています。とはいえ、ここでの死は、人生論で語られるような死でも、倫理的にどう受け止めるかという死でもありません。バタイユが見ているのは、死がそもそも経験できないものであるという事実です。自分の死は、自分の経験として最後まで所有することができない。死を語ろうとする言葉は、つねにその手前で止まってしまう。この不可能性こそが、彼にとって決定的でした。

ここでバタイユは、死について多くを知ることによって死を乗り越えようとはしません。むしろ逆に、死について語ることそのものが、どこかまやかしを含んでいると見ます。死を説明し、意味づけ、秩序のなかに位置づけようとすればするほど、死は本来の切迫を失ってしまう。だからこそ死は、知識として所有されるべき対象ではなく、知そのものが行き詰まる場所として重視されます。

しかし重要なのは、そのように経験できないものでありながら、なお死が「教え」として語られることです。ここには逆説があります。経験できないなら、なぜ教えとなりうるのか。おそらくバタイユにとって死は、何か内容を伝える教科書のようなものではありません。死が教えるのは、主体がすべてを把握できるという前提の脆さです。知は万能ではなく、主体も自分の最後を所有できない。死はそのことを、もっとも極端な仕方で突きつけてくる。だからこそ、死は知識の対象ではなく、思考を限界へ押し返す教えとして働くのです。

ここでハイデガーとの差異にも、ひとこと触れておきたいと思います。ハイデガーもまた死を重要視しましたが、そこでの死は、存在の固有な可能性として、ある種主体を引き締める方向を持っていました。死を自分自身のもっとも固有な可能性として引き受けることで、かえって生のあり方が照らし出される。大づかみに言えば、そうした方向です。けれどもバタイユでは、死は主体を引き締めるより、むしろ主体を崩していくものとして現れます。死は自己の固有性を回収する契機ではなく、自己が最後まで自己のものでありえないことを示すものなのです。この違いは大きいでしょう。

そう考えると、バタイユの死の思考が、のちのブランショやナンシーに届いていくのも自然です。死を経験の内容としてではなく、言葉と主体の限界に関わるものとして捉えること。共同体や他者の問題が、自己の完結ではなく、その裂け目の側から考えられること。『非-知』の死の議論には、そうした後続の思想へ開いていく通路があります。ここで細かく展開する必要はありませんが、バタイユが死を「知ることのできないもの」として抱え込みつつ、それでも思考の中心に置いたことの重要さは、強調しておいてよいはずです。

そして何より、この死の問題は、前章で見た笑いや涙や夜ともつながっています。どれも、主体が自分を透明に所有できない場面でした。死はその極限です。だから『非-知』における死は、孤立したテーマではありません。理性が自分の完成を言い立てることへの根本的な疑いが、もっとも深く触れている場所が、死なのです。


第五章 なぜ『非-知』はバタイユのエッセンスなのか

第五章の図解

ここまで見てくると、『非-知』が単なる一冊ではなく、バタイユ哲学の核心にかなり近い書物であることがわかってきます。知の限界、主体の破壊、夜、笑い、涙、至高性、反抗、死、消尽。バタイユに繰り返し現れる主題が、この本にはほとんど揃っています。その意味で『非-知』は、バタイユのエッセンスと呼ぶにふさわしい一冊です。

とくに重要なのは、そのエッセンス性が、ただ内容の要約というかたちではなく、思考の運びそのものに現れていることです。バタイユはもともと、とても難しい思想家です。初期の文章には、意図的に理性の歩みを乱すような、壊乱的とすら言いたくなる書き方があります。整然とした論文の形式を守るよりも、むしろ読者の足場を崩すこと自体が課題になっているようなところがある。彼が西洋的理性や、それに支えられた主体の自明性を揺さぶろうとしたことを思えば、それはある意味で当然でもあります。

けれども『非-知』は、そのバタイユにしては比較的読みやすい。もちろん易しい本ではありません。ですが、主題の輪郭はかなり見えやすく、彼がどこへ向かおうとしているのかがつかみやすい。ここが大きな魅力です。本来、バタイユ全体に入っていくには、読者は何度も文体の壁にぶつかることになります。しかし『非-知』では、その壁が少しだけ低くなっている。そのぶん、彼の思想の核が見えやすくなっているのです。

この意味で本書は、バタイユを理解するための補助線としても非常に優れています。『内的体験』に通じる極限経験の主題もあれば、『呪われた部分』に通じる過剰と消尽の気配もあります。けれども、本書の価値はそれらへの橋渡しにとどまりません。むしろ、アセファルコントル・アタックに見られる共同体や供犠や主権の問題、小説エロティシズムに現れる主体の崩れ、そして後期の思索における無神学の問題までを含めて、バタイユ全体の地層がここに凝縮していると見た方がしっくりきます。

そう考えると、『非-知』は入門書ではないのに、どこか入門的な力も持っています。なぜバタイユは理性にこれほど不信を向けたのか。なぜ彼は、夜や笑いや涙や死にこれほど執着したのか。なぜ、整った説明よりも、ほころびや揺らぎを重視したのか。その理由が、本書では比較的たどりやすいからです。難解な思想を平板に要約してしまうのではなく、その難しさがどこから来るのかまで含めて見通せる。そこに、この本の大きな価値があります。

だから『非-知』は、バタイユ哲学の一断面ではなく、その核心をのぞき込むための一冊として読むべきでしょう。しかもそれは、彼の全体を縮小した便利なダイジェストという意味ではありません。むしろ、知が自らの限界に触れ、主体が自分の輪郭を失い、死や笑いや夜が理性の足元からあらわれる、その運動のかたちがもっとも濃く出ている本として、です。

その意味で、『非-知』は難しいバタイユをわかりやすくしてくれる本というだけではありません。難しさの理由そのものを見せてくれる本でもあります。そしてそこにこそ、この一冊を読む意味があるのだと思います。


結び 裂け目からしか見えないもの

結びの図解

『非-知』を読んでいると、バタイユが単に理性を嫌っていたのではないことが、少しずつ見えてきます。彼が疑っていたのは、理性そのものというより、理性が自らを完成されたものだと信じる、その自己確信でした。もし本当に完成された理性が、あらゆるものを理解し、秩序づけ、正当化できるのであれば、なぜ西洋はこれほどまでに戦争を繰り返してきたのかなぜ植民地主義は、過去の出来事として片づけられない傷を、いまもなお世界に残しているのか進歩や普遍や文明を語る言葉の傍らで、なぜこれほど多くの暴力が積み重ねられてきたのか。バタイユの問いは、つまるところ、そこへ向かっていたのだと思います。

世界を理解することと、世界を包摂すること。意味を与えることと、他者を自分の秩序へ組み込むこと。そのあいだには、思っている以上に深い連続性があります。ヘーゲル的理性の問題も、おそらくその延長で考えるべきなのでしょう。否定を通じてより高い統一へ進むという運動は、壮大で魅力的です。けれども、その運動が本当にすべてを包み込めるのだとしたら、そこに残された他者や傷や断絶は、どのように説明されるのでしょうか。バタイユが絶対知の先に非-知を見たのは、完成されたはずの理性が、実は完成されていないことを知っていたからでもあるはずです。

ここで思い出されるのが、訳者の西谷修が長く問い続けてきた問題です。『不死のワンダーランド』『夜の鼓動に触れる 戦争論講義』に端を発する一連の仕事は、西洋的理性と戦争、死者、そして近代の主体の問題を、粘り強く掘り下げてきました。バタイユを軸にしながら、理性が昼の秩序として自らを整えれば整えるほど、その外に押しやられた夜や死や暴力が、別のかたちで噴き出してくることを見ていたのだと思います。その意味で『非-知』は、単なるフランス思想の一冊ではなく、いまなお続く問いの出発点のひとつでもあります。

そしてこの問いは、どこか遠い場所の話ではありません。私たちもまた、いつのまにか西側の一員として、その価値判断や理性の基準をかなり自然なものとして受け入れて生きています。説明できること、整理できること、透明であること、合理的であること。それらを善いものと見なし、それに収まらないものを、つい曖昧なもの、遅れたもの、危ういものとして見てしまう。その癖は、私たち自身のなかにもたしかにあります。

だから『非-知』を読むことは、難解な思想家を理解することにとどまりません。それは、私たち自身が何を当然のものとしてきたのかを見返すことでもある。理性の完成を信じるまなざしのなかで、見えなくされてきたものは何だったのか。夜、笑い、涙、死、そして他者の傷は、どこで切り捨てられてきたのか。バタイユの読みにくさは、その問いを私たちに返してきます。西洋的理性の裂け目から見えてくるのは、バタイユの思想の核心だけではありません。そこには、私たち自身の立っている場所もまた、静かに照らし返されているのです。

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