【ゲーム】『ワンダと巨像』――救いたいという願いが、世界を傷つけるとき
【YouTube「PlayStation Japan」chより
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はじめに 巨像を倒すたび、何かが失われていく
『ワンダと巨像』は、2005年にPlayStation 2用ソフトとして発売されたアクションアドベンチャーゲームです。ディレクターは、静かな世界と余白のある物語づくりで知られるゲームクリエイター、上田文人。プレイヤーは青年ワンダとなり、広大な禁断の地を駆け、そこに眠る十六体の巨像を探し出して倒していきます。
物語の出発点は、とても素朴です。ワンダは、魂を失った少女モノを蘇らせるため、愛馬アグロとともに禁断の地へ入ります。そこは外の世界から隔てられた、古い神話のような場所です。中央の祠にモノを横たえたワンダに語りかけるのが、ドルミンと呼ばれる謎めいた存在です。ドルミンは、モノの魂を呼び戻す可能性を示し、その代わりにこの地にいる巨像をすべて倒すよう命じます。
ここまでは、いかにもゲームらしい導入に見えるかもしれません。大切な人を救うために、主人公が試練へ向かう。巨大な敵を倒し、その先に願いを叶える。けれど『ワンダと巨像』は、そのわかりやすさを少しずつ裏切っていきます。巨像を倒すたびに、勝利の手触りは軽くならず、むしろ重くなっていくからです。
巨像たちは、多くの場合、こちらを待ち受ける悪の怪物として描かれているわけではありません。彼らはそれぞれの場所にいて、眠るように、守るように、あるいはただ存在しているように見えます。そこへワンダが訪れ、剣を抜き、よじ登り、急所へ刃を突き立てる。プレイヤーは主人公に寄り添いながら、その行為を自分の手で進めていくことになります。
だから本作のせつなさは、物語の最後だけにあるのではありません。最初の巨像を倒したときから、すでに何かは始まっています。救いに向かっているはずなのに、同時に何かを壊している。願いを叶えるための一歩が、世界の静けさを傷つけていく。その感触こそが、『ワンダと巨像』という作品の核心にあるのだと思います。

第一章 救済の物語として始まる旅
ワンダが禁断の地へ足を踏み入れるのは、モノを蘇らせるためです。モノがなぜ魂を失ったのか、二人がどのような関係にあったのか、作中では多くが語られません。けれど、その語られなさは欠落ではなく、むしろ本作の余白になっています。ワンダが彼女を取り戻したいと願っていることだけは、はっきりと伝わってくるからです。

ワンダは、外の世界から持ち出した「いにしえの剣」を手にしています。この剣は、太陽の光を集めることで巨像のいる方角を示す、不思議な力を持つ道具です。プレイヤーはその光を頼りに、草原を越え、渓谷を抜け、湖や遺跡へ向かっていきます。道中に村はなく、話しかけられる人もいません。いるのはワンダとアグロ、そして風景だけです。
この静けさは、本作の大きな特徴です。多くのゲームのように、街で情報を集めたり、仲間と会話を重ねたりすることはありません。目的はいつも明快です。次の巨像を見つけ、倒すこと。しかし、その明快さとは反対に、プレイヤーの心には少しずつ曖昧なものが積もっていきます。
ワンダは悪人ではありません。むしろ、最初に見える彼の姿は、あまりにも一途です。死者を取り戻したい。失われた人をもう一度こちら側に呼び戻したい。その願いは、人間にとってきわめて切実なものです。大切な人を失ったとき、もし取り戻す方法があると言われたら、どれほど危険であっても手を伸ばしてしまうかもしれない。ワンダの行動には、その痛ましい人間らしさがあります。
けれど、ドルミンは代償が重いかもしれないと告げています。つまりワンダは、何も知らずにだまされているだけではありません。危うさを感じながらも、それでも進むのです。ここに、本作の倫理的な深さがあります。ワンダは純粋だから正しいのではありません。純粋であるがゆえに、世界の声を聞けなくなっていくのです。
救済の物語は、いつも美しい顔で始まります。誰かを救いたい。失われたものを取り戻したい。その願いそのものを、簡単に否定することはできません。けれど『ワンダと巨像』は、その願いがどこへ向かうのかを、プレイヤー自身の手に委ねていきます。
第二章 巨像は本当に「敵」だったのか
最初に巨像と出会うとき、プレイヤーはその大きさに圧倒されます。人間の何倍、何十倍もある身体。石や獣を思わせる表皮。ゆっくりと動くだけで地面が揺れるような存在感。ワンダはあまりに小さく、巨像はあまりに巨大です。だから最初のうちは、巨像を倒すことが試練であり、達成すべき目的であるように感じられます。

しかし、戦いを重ねるほど、その印象は少しずつ変わっていきます。巨像たちは、外の世界へ出て人々を襲っていたわけではありません。彼らは禁断の地の奥深くにいて、それぞれの場所に閉じ込められるように存在しています。ワンダがそこへ向かい、眠りを破り、戦いを始める。そう考えると、巨像は本当に「敵」だったのかという問いが浮かび上がってきます。
もちろん、ゲームの進行上、巨像は倒さなければなりません。彼らを倒さなければ、モノは蘇らない。ドルミンとの約束も果たされない。けれど、プレイヤーが体験するのは、単純な討伐の快感だけではありません。巨像の身体によじ登り、毛や石のような突起にしがみつき、振り落とされそうになりながら急所を探す。その過程は、巨大な謎を解くような興奮に満ちています。けれど最後の一撃を入れた瞬間、その興奮はどこかで沈み込んでいきます。
巨像が崩れ落ちる姿には、勝利の爽快さよりも、喪失の重さがあります。そこにいたものが、もういなくなる。自分の手で、それを終わらせてしまった。その感覚が、プレイヤーの中に残ります。ワンダはモノを救うために進んでいるはずなのに、その道はいつも何かの死によって開かれていくのです。

ここで重要なのは、作品が巨像を単純な被害者として説明しすぎないことです。巨像たちは言葉を語りません。なぜそこにいるのか、自分たちが何を守っているのかも明かしません。だからこそ、プレイヤーは判断できないまま刃を突き立てることになります。倒してよかったのか、いけなかったのか。その答えは、いつも少し遅れてやってきます。
『ワンダと巨像』は、敵を倒すゲームでありながら、敵とは何かを揺るがす作品です。こちらを阻むものは、すべて倒してよいのか。自分の願いのために沈黙している存在を破壊してよいのか。巨像の沈黙は、その問いを言葉以上に深く響かせています。
第三章 プレイヤーは加害の手触りを引き受ける
『ワンダと巨像』が特別なのは、倫理的な問いを長い説明で語るのではなく、プレイヤーの操作そのものに埋め込んでいるところです。ワンダは巨像を探し、見つけ、近づき、よじ登ります。巨像の身体には、毛や石の突起のような、つかまるための場所があります。プレイヤーはそこにしがみつき、振り落とされないように耐え、わずかな隙を見つけて上へ進みます。剣を掲げれば、光が急所を示す。そこへ刃を突き立てる。すると巨像は苦しみ、さらに抵抗し、最後には崩れ落ちていきます。
この一連の動きは、ゲームとしては非常によくできています。巨大な存在の身体そのものが、ひとつの地形であり、謎であり、戦場になっている。どう登るのか。どこに弱点があるのか。いつ力を抜き、いつしがみつくのか。プレイヤーは考え、試し、失敗し、ようやく勝利へたどり着きます。けれど、その達成感はまっすぐな喜びにはなりません。最後の一撃を入れたあと、巨像の身体から黒い影のようなものが噴き出し、ワンダの身体へ入り込んできます。彼はその場に倒れ、気づくと祠へ戻されている。巨像を倒すたびに、祠に並ぶ偶像はひとつずつ崩れ、ワンダ自身の顔つきや身体にも、少しずつ異変が表れていきます。

つまり、勝利は何かを回復させるのではなく、ワンダ自身を少しずつ変えていくのです。彼は目的へ近づいているはずなのに、同時に自分を失っていく。プレイヤーもまた、その変化を見届けながら、次の巨像へ向かわなければなりません。ここには、ゲームならではの残酷さがあります。私たちは物語をただ眺めているのではありません。コントローラーを握り、自分の手で巨像を倒しています。ワンダの願いに寄り添いながら、そのために必要な加害を実行している。だからこそ、本作の問いは観念的なものにとどまりません。
もしこれが映画や小説であれば、私たちはワンダの行為を外側から見ることができます。しかしゲームである以上、ワンダを進ませるのはプレイヤーです。剣を突き立てるのも、しがみつき続けるのも、次の巨像へ向かうのも、こちらの操作によって起こります。『ワンダと巨像』は、正義を語る作品ではありません。むしろ、救いを求める行為の中に、すでに暴力が含まれていることを、身体の感覚として残していく作品です。だから巨像を倒したあと、私たちは少し黙ってしまうのだと思います。勝ったはずなのに、何かを失った気がする。その沈黙の中に、本作の倫理はあります。
第四章 愛は、世界よりも一人を選んでしまう
ワンダの願いは、モノを蘇らせることです。世界を救うためではありません。国を守るためでも、誰かに命じられた使命を果たすためでもありません。彼はただ、魂を失った少女をこちら側へ取り戻そうとしている。この一点が、『ワンダと巨像』を単なる英雄譚とは違うものにしています。多くの物語において、主人公は世界の危機に立ち向かいます。自分ではなく、より大きなもののために戦う。その姿は、わかりやすく尊いものとして受け取られます。けれどワンダは違います。彼が見ているのは、世界全体ではなく、モノという一人の存在です。
だからこそ、彼の行為は危うい。禁断の地には、踏み入ってはならない理由がありました。ドルミンという存在は、何らかのかたちで封じられていました。巨像たちは、その封印と深く関わるものとして存在していたはずです。ワンダが巨像を倒すことは、ただ試練を突破することではありません。世界の奥にしまわれていたものを、ひとつずつ壊していくことでもあります。それでもワンダは進みます。なぜなら、彼にとっては世界の秩序よりも、モノの命のほうが重いからです。

ここで大切なのは、その選択を簡単に愚かだと言い切らないことです。たしかに、ワンダの行為は危険です。彼は警告を受けながらも進み、巨像を倒し、封印を崩していく。結果として、その願いは大きな代償を呼び込んでしまいます。けれど、私たちは本当にワンダを遠くから裁けるのでしょうか。大切な一人を救えるかもしれない。その可能性が目の前に差し出されたとき、人は世界全体の正しさだけで動けるとは限りません。むしろ人間は、いつも遠くの世界よりも、近くの誰かに引き寄せられてしまう存在です。
身近な人の苦しみ、失われた人への思い、取り戻したいという祈り。その切実さは、理屈だけでは止められません。ワンダの愛は、美しいだけのものではありません。それは、世界を傷つけても一人を取り戻そうとする、激しく、身勝手で、痛ましい願いです。けれど、その身勝手さの中にこそ、人間のどうしようもなさがあります。『ワンダと巨像』は、愛をきれいなものとしてだけ描きません。愛は人を動かします。けれど同時に、人の目を閉ざすこともあります。モノを救いたいという願いは、ワンダにとって唯一の光であると同時に、世界の静かな声を聞こえなくさせるものでもあるのです。
第五章 最後に残るのは、罰ではなく問いである
十六体すべての巨像を倒したとき、物語は大きく反転します。ワンダの身体には、巨像を倒すたびに流れ込んできた黒い力が蓄積されています。そこへ、外の世界からエモンたちが到着します。エモンは、ワンダの属する共同体の祭司のような人物です。彼は禁断の地の危険を知っており、ワンダが犯したことの意味も理解しています。ワンダは、モノを蘇らせるために禁忌を破り、いにしえの剣を持ち出し、巨像を倒してしまった。その結果、封じられていたドルミンは、ワンダの身体を通じて復活しようとします。

ここでプレイヤーは、ワンダの願いがどこへたどり着いたのかを目にします。彼はモノを救おうとしていました。けれどその旅は、世界に封じられていた危険な力を解き放つ道でもありました。エモンたちはワンダを止めようとし、祠の泉に剣を投げ入れることで、ドルミンを再び封印しようとします。やがてワンダは光の渦へ吸い込まれていきます。プレイヤーはその場から逃れようと操作することになりますが、抗うことはできません。どれだけしがみついても、流れに逆らうことはできない。ここでも本作は、操作できることと、変えられないことを同時に体験させます。
その後、モノは目を覚まします。ワンダが取り戻そうとした命は、たしかに戻ってくる。さらに、途中で失われたかに見えた愛馬アグロも、傷つきながら姿を現します。アグロは、ワンダとともに禁断の地を駆け抜けてきた存在であり、この孤独な旅における唯一の相棒でもありました。そのアグロが、目覚めたモノを導くように歩いていく。そして泉の底には、角の生えた赤子が残されています。ワンダは罰として消えたのか。浄化され、生まれ直したのか。あるいは、罪と救いの両方を抱えたまま、別のかたちで残されたのか。作品は、その答えをはっきりとは言いません。

だからこの結末は、単純な因果応報ではないのだと思います。ワンダは禁忌を犯しました。巨像を倒し、世界の封印を壊し、自分自身も変質していきました。その意味では、彼の行為には確かに代償があります。けれど同時に、モノは目覚め、命は残され、庭園には静かな光が差しています。ここにあるのは、完全な救いでも、完全な罰でもありません。
『ワンダと巨像』は、ワンダを正しい英雄として称えるわけではありません。しかし、彼をただ愚かな罪人として退けることもしません。救いたいという願いが、何を壊し、何を残したのか。その答えの出ない場所に、プレイヤーを立たせるのです。最後に残るのは、判決ではありません。問いです。一人を救うために、世界を傷つけることは許されるのか。もし許されないとしても、それでもなお、人は救いたいと願ってしまうのではないか。『ワンダと巨像』の余韻は、その問いを静かにこちらへ差し出しているように思えます。
結び 救いの願いが残してしまうもの
『ワンダと巨像』は、最後までワンダをわかりやすく裁くことのない作品です。彼は禁忌を犯し、巨像を倒し、世界の封印を壊していきました。その意味では、彼の旅は決して無垢なものではありません。けれど同時に、ワンダの出発点にあったのは、モノを取り戻したいというただひとつの願いでした。そこには、誰かを失った人間が抱えずにはいられない、切実な祈りがあります。

だからこそ、本作の余韻は深く残ります。世界の秩序を守ることと、目の前の一人を救うこと。その二つがぶつかったとき、私たちは本当に正しい選択だけを選べるのでしょうか。ワンダは世界よりもモノを選びました。その選択は危うく、身勝手で、取り返しのつかない結果を招きます。けれど、その身勝手さを遠くから責めるだけでは、この作品の痛みに届かないようにも思えます。
巨像を倒すたび、ワンダはモノへ近づいていきます。しかし同時に、世界からは何かが失われ、ワンダ自身も少しずつ変わっていく。救いへ向かう旅が、加害の旅でもある。この構造は、以前取り上げた『NieR Replicant ver.1.22474487139...』(ニーアレプリカント)とも静かに響き合っています。あちらもまた、大切な人を救いたいという願いが、やがて別の誰かの生を傷つける物語でした。救いは、いつも透明なものとしては訪れないのかもしれません。
それでも、物語の最後にはモノが目覚め、傷ついたアグロが戻り、角の生えた赤子が残されます。そこにあるのは、完全な幸福ではありません。罪が消えたわけでも、失われた巨像たちが戻るわけでもありません。けれど、すべてが終わったあとの静かな庭に、まだ命が残っている。その光景は、罰や救済という言葉だけでは片づけられないものです。
『ワンダと巨像』が問いかけるのは、救いたいという願いそのものの危うさです。人は誰かを想うからこそ、世界を傷つけてしまうことがある。けれど、誰かを想わずに生きることもまた、できない。巨像の沈黙と、ワンダの小さな背中は、その矛盾を言葉にしないまま、いつまでもこちらへ差し出しているように思えます。

