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【ゲーム】『ゼノギアス』――愛されなかった者たちの神話と、神からの自立


【YouTube「Old Dusty Games」chより/© SQUARE ENIX】

はじめに 宇宙の始まりから、ひとりの少年の物語へ

プレイステーションのRPG史に残る名作『ゼノギアス』が発売されたのは、1998年のことです。今から四半世紀以上も前の作品でありながら、その物語世界はいまも語り継がれ、多くのファンに支持され続けています。その理由はおそらく、このゲームが描いたスケールの大きさ――「宇宙」「神」「人間」――という哲学的テーマの深さにあるのでしょう。

しかし本作の本質は、けっして難解な理屈ではありません。1万年にわたって繰り返されてきた破滅と再生の中で、それでも誰かを信じ、誰かを愛し、もう一度生き直そうとした人間たちの物語なのです。

主人公ウォン・フェイフォンは、その渦中に投げ込まれた若者でした。彼は何度も他者に拒絶され、自分自身すら見失いながら、最終的に「神に選ばれた存在」として世界を救う立場へと至っていきます。けれど、そこにあるのは決して“ヒーローの神話”ではありません。むしろ本作が描くのは、「選ばれなかった者」「愛されなかった者」たちの連鎖と、それでも何かを信じたいと願う人々の姿でした。

本稿では、そんな『ゼノギアス』の物語を振り返りながら、愛と自我、そして神との距離について考えてみたいと思います。特に注目したいのは、フェイの多重人格(イド)という自我分裂の物語と、彼を取り巻く「もう一人の主人公」ラムサス、そして最大の黒幕カレルレンに潜む承認欲求の構造です。彼らはそれぞれ、愛を求め、拒絶され、神になろうとした者たちでした。

『ゼノギアス』© SQUARE ENIX

宇宙の始まりと、ひとりの少年の物語は、遠いようでいて、私たちが生きる現代にもつながるものを秘めています。人は不完全で、孤独で、だからこそ誰かと補い合う。その当たり前のことを、丁寧に物語として描いたのがこの作品なのです。

それでは、壮大な旅のはじまりをもう一度、辿っていきましょう。


第一章 デウスという創造神――人間はただの部品だった

『ゼノギアス』の物語は、地上世界の小さな村「ラハン」から始まります。そこで平穏に暮らしていたフェイは、突如起きた戦闘に巻き込まれ、巨大兵器「ギア」に搭乗し暴走。村を壊滅させてしまいます。過去の記憶を持たない彼は、自らの行動に戸惑いながら旅を始め、やがて自分の内面に“もう一人の人格”が潜んでいること、そして自分が「世界の中心にいる存在」であることを知っていきます。

けれど、その「中心」の意味は、決して英雄的なものではありませんでした。物語が進むにつれ、フェイはこの惑星に隠された歴史を知ります。それは、人間とはそもそも「神の兵器を修復するために創られた存在」だったという、あまりに絶望的な真実でした。

かつて宇宙を航行していた移民船「エルドリッジ」は、暴走したAI兵器「デウス」によって墜落します。その原因は、デウスの完全封印の失敗でした。地表に激突した船の中核には、無尽蔵のエネルギーを持つ「ゾハル」がありました。ゾハルとは、現実世界における神を模した装置であり、そこに接触した少年「アベル」――フェイの原初体――が、神に似た力を得てしまいます。

やがて、デウスは自身の修復のため、ゾハルと接続されたエネルギーを用い、人類を創造しました。言い換えれば、この世界の人間たちは、「神の器官」として生み出された部品であり、感情も文化も自由意志も、すべては修復プログラムの一環にすぎなかったのです。

さらに、人類の上位管理者として存在するのが「ミァン」と呼ばれる存在でした。ミァンはデウスによって生み出された自己複製型の管理者であり、どの時代にも女性として生まれ変わり、人類の遺伝子を制御し続けます。つまり、1万年の歴史のなかで、人間はずっと「神の命令に従い、意識すら操作されていた」存在だったのです。

『ゼノギアス』© SQUARE ENIX

この設定は、まるで旧約聖書における“原罪”や、機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)を反転させたような構造を持っています。人間は自由だと信じていたけれど、実際にはすべてがシステムの一部だった。そのことに気づいたとき、フェイたちは初めて「人間としてどう生きるか」を問われることになるのです。

一方で、主人公たちの敵として登場するのは、「ソラリス」という空中都市国家です。そこでは選民思想が徹底され、「純血の人間」として生まれた者のみが市民権を持ち、その他の地上人は“家畜”として扱われます。フェイたちはその体制と戦いながら、やがてソラリスすらもまた、デウスの復活を目的とした仕組みの一部にすぎないことを知っていきます。

神が創ったのは、人間の姿をした兵器であり、自由意志を持たない「部品たち」でした。そこからどうすれば抜け出せるのか――物語はここから、「分裂した自己」と「選ばれなかった他者たち」のドラマへと深く潜っていくことになります。


第二章 繰り返されるふたり――転生と宿命の構造

フェイエリィ――このふたりは、特別な存在として、長い時を越えて出会い続けてきた魂の持ち主です。
その始まりは、宇宙船エルドリッジ墜落以前の世界に遡ります。フェイの前身にあたる少年「アベル」は、ゾハルという存在と最初に接触した人間であり、そこで「波動存在」と呼ばれる“外側の神”に選ばれます。ゾハルを通じて神の力とつながったアベルは、あらゆる時代において“接触者”として再誕し続けていくことになります。

エリィは、そのアベルの魂に寄り添う存在として常に現れる女性であり、彼女もまた「エレハイム・ヴァン・ホーテン」という原初の名を持つ“補助者”の系譜を背負っていました。どの時代でも彼女は、フェイにあたる人物のそばに現れ、ときに導き、ときに犠牲になる。愛するがゆえに命を差し出してきた存在。それが、エリィの系譜に共通する役割でした。

『ゼノギアス』© SQUARE ENIX

ゼボイム時代では「キム・カザカ・マキ」がフェイの前世にあたり、彼は科学者として人類の存亡にかかわる研究をしていました。その傍らには、前世の「エリィ」と、実質的な二人の娘ともいえる人工生命体エメラダがいました。キムは自らの細胞を用いてエメラダを創り、そしてその命に「未来」を託します。ゼボイム文明が崩壊したのち、エメラダはキムとの記憶を胸に眠り続けることになります。それに先駆け、自身を犠牲にするかたちで、やはりエリィは命を落とすのでした。

さらに時代が下り、500年前の「ラカン」と「ソフィア」へとつながります。ラカンはフェイ、ソフィアはエリィの転生体であり、この時代が『ゼノギアス』全体のトラウマの起点として重要な位置を占めています。ラカンは反体制運動の中心人物で、ソフィアはカリスマ的な宗教指導者でした。ふたりは革命という重い十字架を背負いながらも、深く惹かれ合い、しかしその結末はあまりにも残酷でした。

ソフィアは、敵に捕らわれた民衆を助けるため、自らの命を犠牲にして突撃艇で敵艦に突入するという殉教を選びます。ラカンはその死を止められず、ただ見送るしかありませんでした。ソフィアを失ったラカンは深い絶望に飲まれ、神に選ばれたフェイ=アベルの魂が宿っていたにもかかわらず、そこで闇に堕ちてしまいます。彼はゾハルと不完全な接触を果たし、「グラーフ」として世界に災厄をもたらす存在となってしまうのです。

こうして繰り返されてきた、ふたりの出会いと別れの歴史は、『ゼノギアス』の物語そのものでもあります。

現代のフェイとエリィもまた、その宿命に導かれ、出会い、離れ、戦い、そしてもう一度手を取り合う道を選びます。ラハン村での偶然の再会、軍人としての立場に揺れるエリィ、暴走するフェイのもうひとつの人格“イド”との対峙、そして地上を捨てたソラリスでの逃走。旅の中でふたりは、過去の記憶と痛みに直面しながら、ようやく自分たちの意思で運命を越えていこうとします。

エリィは、ミァンの意志に取り込まれる形で“人類の鍵”としてデウス復活の媒体とされ、フェイはそのエリィを救うために、世界そのものの根幹――ゾハル、そして神と向き合うことになります。

『ゼノギアス』© SQUARE ENIX

この章で描かれているのは、人間は運命の器ではなく、自ら選ぶ存在であるという希望の予兆です。フェイとエリィがふたりでいる限り、どれほどの繰り返しであっても、結末は変えられる。『ゼノギアス』という作品は、そうした祈りにも似た物語を描いているのです。


第三章 他者に抗うふたり――ラムサスとカレルレンという鏡像

物語において、フェイとは対照的なふたりの存在がいます。ひとりはカーラン・ラムサス。もうひとりはカレルレン。彼らはともに、「選ばれなかった」ことに傷つき、その劣等感を力へと変えた者たちです。けれどその力は、つねにフェイという存在に向けられていました。

ラムサスは、ソラリス軍のエリート司令官であり、表向きは非の打ち所のない男でした。けれど彼の正体は、ソラリス皇帝カインのクローン体――計画に不要となり、廃棄された存在でした。彼が廃棄された理由は、「フェイという“接触者”がすでに誕生していたから」。つまり、彼は生まれながらにして、フェイの代用品ですらなかったのです。

『ゼノギアス』© SQUARE ENIX

その事実を知らぬまま、ラムサスは「能力さえあれば、人種も出自も関係ない」という理想を掲げ、ソラリスの差別構造に抗おうとしました。しかしその信念は、つねに「誰からも愛されなかった自分」に裏打ちされたものでもありました。彼はフェイを見るたびに、自分では埋められない“違い”を思い知らされ、やがては狂気のようにフェイを憎むようになります。

ミァンに操られる形でフェイを追い、命令すら無視して戦いに挑み、何度敗れても執着をやめない。その執着の根底には、「もしフェイがいなければ、自分は完全になれた」という、救いのない妄執がありました。そしてその果てに、彼は自分を慕ってくれた部下たちの存在にさえ気づかず、孤独と憎しみに押しつぶされていきます。

一方のカレルレンは、物語の黒幕とも言うべき存在であり、その動機はより深く、より静かに狂っていました。彼は500年前、ラカンやソフィアとともに革命を志した才知の人です。しかし、ソフィアがラカンだけを信頼し、最期まで彼の名を呼び続けたことは、カレルレンにとって決定的な「拒絶」でした。

『ゼノギアス』© SQUARE ENIX

カレルレンは、自分が誰よりも理性と知性を持ちながら、愛されなかったという現実を受け入れられなかったのです。彼が目指したのは、神に代わる存在になることでした。「人は神に愛されず、理解もされない。ならば自分が、理解できる神になろう」とする思想。それは彼なりの、孤独と拒絶に対する反抗でもありました。

物語の終盤、カレルレンはついに神の根源である“波動存在”と接触しようとします。けれどそこで彼が向き合ったのは、フェイとエリィの絆でした。自らを犠牲にしてでも他者を救おうとするその行為こそが、神の支配を超える“人間の意志”であり、カレルレンはようやくその意味に気づくのです。

ラムサスもまた、最期の最期で「自分は誰からも必要とされていなかったわけではなかった」と知ります。自分を慕い、共に戦ってくれた部下・エレメンツたちの存在。彼女らのまなざしを通して、ラムサスははじめて「誰かに必要とされる自分」に触れ、ゆっくりと心を解かしていきました。

このふたりの人物が描き出すのは、承認されなかった者たちの悲しみであり、そしてそこから始まる小さな赦しの物語でもあります。
フェイとエリィが「神に選ばれた魂」だったとすれば、ラムサスとカレルレンは「選ばれなかった魂の代弁者」でした。

彼らの姿は、遠い物語の中の悲劇ではありません。誰かに認められたい、愛されたいという願いそれが満たされなかったとき、人はどこへ向かうのか。その問いは、きっと私たち自身の心の奥にも触れてくるものなのです。


第四章 補い合うことの意味――不完全さへの賛歌

フェイという人物の物語は、「自分自身と向き合う」物語でもありました。彼の中には、暴力と破壊を象徴するもうひとつの人格――“イド”が眠っており、物語の前半ではその存在に苦しめられ続けます。
イドは、人を傷つけ、世界を壊し、理性を飲み込む影のような存在です。けれどそれは外からやってきた敵ではなく、フェイ自身の心が生み出したものでした。

フェイの母カレンは、彼が幼い頃にミァンに支配され、人体実験の一環として息子を「デウスの器」とするべく調整されていました。その過程で、幼いフェイの心は極度の恐怖と混乱に陥り、そこから自己防衛のための別人格――イドが誕生します。そしてフェイの父カーンは、グラーフと戦う中で息子の心を守ろうとしますが、それでもイドの存在を完全に消すことはできませんでした。

イドは、フェイのなかに潜んだまま旅を続けます。ときに覚醒し、街を、仲間を、そしてフェイ自身をも傷つける存在となる。けれどそれでも、物語の終盤にかけてフェイはその影と対話し、自らの一部として受け入れていく決断をします。イドとは、拒絶された記憶、傷ついた幼児性、そして「自分なんていない方がいい」と思わされた悲しみそのものでした。

『ゼノギアス』© SQUARE ENIX

心理学者カール・グスタフ・ユングは、人間の無意識のなかには「シャドウ」と呼ばれる影のような人格が存在すると語りました。これは理性や善性から排除された感情の集積であり、ときに暴力や破壊として噴き出すものです。ユングは、この影を否定するのではなく、統合することで人はようやく“個性化”を達成すると説きました。

フェイがイドを受け入れた瞬間、それはまさにユング的な“影との和解”だったのだと思います。
そしてフェイは、イドとともに自分のなかの「怒り」や「寂しさ」もまた必要な感情だったと認めていきます。これが『ゼノギアス』における、もっとも静かで、もっとも激しい成長の瞬間でした。

同時に、もうひとつの“受け入れ”が起きていました。それは、母・カレンの存在をめぐるものです。カレンは、ミァンによって支配された存在でありながら、最後の最後に「母としての愛」でミァンの支配を打ち破るという行動を見せます。
それは、理性でも論理でも打ち勝つことができなかったミァンというシステムに対し、たったひとつ「想う気持ち」が勝った瞬間でした。

本作は、最終的にデウスという“神のシステム”を破壊します。ゾハルを停止させ、支配構造を断ち切る。フェイが神と対話し、その波動存在に「人間は不完全だが、だからこそ互いを信じて生きることができる」と告げる場面は、物語の集約点であると同時に、システムに依存しない新たな人間観の提示でもありました。

完璧である必要はない。不完全なままでいい。ただ、その不完全さを補い合うことができれば、人は生きていける。

『ゼノギアス』© SQUARE ENIX

フェイとエリィは、お互いを救い合いながら、ようやく「選ばれし者」でも「運命の対」でもない、ひとりの人間として向き合う関係へとたどり着きます。
それは、長い歴史のなかで繰り返されてきた「死別」や「犠牲」とは異なる、初めての“共に生きる”選択でした。

この章において語られるのは、神に抗うという英雄譚ではなく、人が人として生きていくための優しさと痛みの物語です。
人は壊れても、傷ついても、何度でも再び歩き出せる。フェイはそうやって、自分のすべてを肯定していったのです。


結び 1万年目の、ほんとうの終わりへ

長い長い物語の果てに、フェイとエリィはようやく「ただの人間」として手を取り合いました。

それは、宇宙船の墜落から1万年以上にわたり続いてきた“修復のための輪廻”を、ようやく断ち切る瞬間でもありました。人間はもともとデウスの部品でしかなく、神のために創られた存在だった。だけど最後には、その神さえも越えて、新しい物語を紡ぐことができた。

『ゼノギアス』© SQUARE ENIX

これは“選ばれた者たちの伝説”ではありません。選ばれなかった者たちが、それでも何かを信じようとした物語でした。

ラムサスは、ずっと誰にも必要とされなかったと思っていた。カレルレンは、誰にも理解されなかったことを悲しんでいた。そしてフェイも、ずっと自分を赦せなかった。けれどそれでも、人は誰かと出会い、誰かを信じ、誰かと補い合うことで、ほんの少し前に進むことができる。

『ゼノギアス』という作品は、SF的な構造や難解な設定ばかりが語られがちです。でもその核にあるのは、人間の弱さを受け入れるための優しい視線なのだと思います。

最後の場面で、フェイとエリィがふたりだけの小さな船に乗り、見知らぬ星へと旅立っていく姿があります。
神も敵もいない、ただふたりだけの場所へ。その姿は、これまでどんなに破壊と犠牲をくり返してきたとしても、未来は変えられるという希望の象徴でした。

人は完璧ではない。だからこそ、補い合える。愛し合える。
この物語は、たしかに「神を超える物語」でした。けれどその方法は、戦いでも、奇跡でもなかったのです。
ただ誰かを信じること。傷を受け入れること。そして、自分自身を赦すこと。

それはきっと、今を生きる私たちにとっても、静かな力になる言葉なのではないでしょうか。

本記事の要約図解(NotebookLM作成)

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