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【映画】『M』を読む──神話的暴力と到来しえぬ正義

(※本記事は映画『M』(1931年)のネタバレを含みます)


あらすじ

舞台は1930年代初頭のベルリン。街では次々と子どもが行方不明になり、やがて殺害されていることが明らかになります。親たちは恐怖におびえ、新聞は連日「怪物」の存在を報じ、都市全体が不安に覆われていきます。冒頭、母親が娘エルゼの帰りを待つ場面から始まり、しかし彼女は戻りません。残されるのは風船が電線に引っかかる映像だけです。

警察は大規模な捜査を行いますが成果はなく、むしろ市民生活を混乱させます。一方、裏社会の首領たちは警察の締めつけに苛立ち、「自分たちで犯人を捕まえよう」と決断します。物乞いや娼婦までを動員して監視網を広げ、やがて口笛を吹く犯人を特定します。

犯人はハンス・ベッケルトという中年男でした。彼は衝動的に子どもを誘い出し、殺してしまう人物であり、自らその衝動に苦しむ姿も映し出されます。ベッケルトは裏社会の人間たちに捕らえられ、地下で模擬裁判にかけられます。群衆は彼を断罪し「死刑にすべきだ」と叫びますが、ベッケルトは「自分は病気であり、やめたくてもやめられない」と泣き叫びます。しかし誰も耳を貸さず、群衆は処刑を迫ります。

そのとき警察が突入し、彼を正式に逮捕します。映画は正式裁判の開始を暗示する場面で終わり、最後には犠牲者の母親の「子どもを返して」という言葉が響き渡ります。どんな裁きも子どもを取り戻せない――その虚しさを残したまま幕は閉じます。


前半の恐怖:神の死と不安

『M』の前半を特徴づけるのは、「不在」をどう映すかという点です。子どもが消える瞬間は直接描かれず、残されるのは空っぽの皿や空虚な階段、そして電線に絡んだ風船。母親の「まだ帰らないの?」という声は応答を得ず、観客はその沈黙を共有させられます。

やがてこの不安は都市全体を包み込みます。新聞は連日「怪物」を報じ、市民は互いを疑い合い、老人が子どもに声をかけただけで群衆に囲まれる場面まで現れます。警察も徹底的に捜査しますが、成果はなく、むしろ生活を混乱させてしまう。秩序を守るはずの法の働きが、恐怖を拡散させる逆説をラングは描いています。

この不安は、ニーチェの「神は死んだ」という言葉を思い起こさせます。ここでの「神の死」とは、単に宗教が意味を失ったということではなく、世界を支えていた究極の基盤が崩壊したことを意味します。秩序の最後の保証が崩れたとき、人は根拠なき世界に投げ出されるのです。『M』で子どもが奪われることは、まさにその寓話として読めるでしょう。母の呼びかけは、応答をもはや得られない祈りのように響きます。

ベッケルトが前半ではほとんど姿を見せないことも重要です。観客に与えられるのは口笛や影だけで、人々は空白を埋めるために憶測を膨らませ、誰かを犯人に仕立てあげます。秩序を保証するものがない社会の脆さがここに浮き彫りになります。

『M』前半は単なるサスペンスではなく、神なき世界に生きる共同体の不安と脆さを描き出す哲学的寓話なのです。


後半の模擬裁判:ルサンチマンと群衆の暴力

犯人が捕まったあとの舞台は、地下の模擬裁判です。弁護人は形式的に立てられていますが、実際には何の役割も果たしません。群衆は嘲笑と怒号でベッケルトを圧倒し、「死刑にすべきだ」と叫び続けます。

ここにはニーチェが語った「ルサンチマン」の構図が見えます。裏社会の人々は自分たちを弱者や被害者の側に置きながら、実際には優越感を楽しみ、正義を僭称しています。ベッケルトが「やめたくてもやめられない」と訴えるとき、彼らは耳を貸すどころか、むしろその弱さを笑いの種にする。

模擬裁判において群衆は「善」を名乗りつつ、実際には暴力を楽しんでいます。ここに浮かぶのは、正義を名乗る暴力の醜さです。そして重要なのは、この暴力に「勝者」は存在しないことです。誰も救われず、正義の名のもとに暴力が再生産されるだけなのです。


ベンヤミン:法措定/法維持と神話的暴力

ヴァルター・ベンヤミンは「暴力批判論」のなかで、暴力を「法措定的暴力」と「法維持的暴力」に分けました。前者は新しい秩序を打ち立てるための暴力(戦争や革命など)、後者は既存の秩序を守るための暴力(警察や刑罰など)です。

この二つはいずれも「神話的暴力」と呼ばれます。なぜなら、正義に到達することなく、ただ法を作り出し、維持するために循環し続けるからです。暴力は秩序を根拠づけるように見えながら、実際には秩序の正当性を保証できず、ただ繰り返しを生むだけ。これがベンヤミンにおける神話的暴力の位置づけです。

そして、彼はそれを越えるものとして「神的暴力」を想定しました。神話的暴力が循環する秩序を維持するのに対し、神的暴力は秩序そのものを打ち砕き、法の外部から正義を開こうとする力です。ベンヤミンにとって、それは制度に回収されない純粋な破壊であり、正義の可能性と結びつくものでした。

では『M』はどうか。地下で繰り広げられる模擬裁判は、秩序を守ろうとする「法維持的暴力」であり、同時に国家司法を模倣する「法措定的暴力」の要素をも含んでいます。つまりそこにあるのは神話的暴力の循環だけです。神的暴力は現れず、正義は到来しない。ラングが見せたのは、暴力が秩序のなかで反復し続ける光景でした。


デリダ:法の暴力と到来しえぬ正義

ジャック・デリダは『法の力』で、ベンヤミンを引き継ぎながらも独自の区別を立てました。それが「法」と「正義」です。

法(droit)は制度であり、解釈と暴力を伴います。常に正当性を補強し続けなければならない、不安定な存在です。一方で正義(justice)は、制度に還元できず、解釈によっても閉じ込められません。正義は常に差延され、到来しえないものとして想定されます。

『M』の模擬裁判を見れば、この区別は鮮明です。ベッケルトの「やめられない」という叫びに、応答する者はいません。弁護人は形式をなぞるだけで、応答責任は布置されない。そこにあるのは暴力を繰り返す「法」だけであり、正義の影は見えません。

しかし最後に母親の「子どもを返して」という声が響きます。これは法の内部からではなく、外部から突きつけられる要求です。実現不可能であるにもかかわらず、それでも求められ続ける正義の声。デリダが語ったのは、正義は不可能でありながら、だからこそ志向され続けなければならないという逆説でした。

『M』のラストの声は、その逆説を体現しています。応答されることのない訴えが、それでもなお響き続ける。その「不可能な正義」こそ、私たちが背負わざるを得ない課題なのです。


反論可能性:免罪ではなく応答責任の布置

ここでまず強調しておきたいのは、本稿の立場が「ベッケルトを擁護するもの」ではまったくないということです。彼の行為は取り返しのつかない暴力であり、許される余地はありません。問題となるのは、彼の行為そのものではなく、それをどう裁くか、どのように向き合うか、という手続きの側にあります。

もしベッケルトを「病気だから仕方がない」と免罪してしまえば、責任は空洞化してしまうでしょう。逆に模擬裁判の群衆のように「死刑にすべきだ」と一義的に断罪してしまえば、そこにも応答の余地はなくなります。この両極を避けつつ、どのようにして「応答責任」を布置するのか。それこそが、倫理を問ううえで決定的に重要なのです。

ここで補助線として浮かぶのが、ハンナ・アーレントが『エルサレムのアイヒマン』で示した「凡庸な悪」の概念です。アイヒマンは狂気の怪物ではなく、むしろ平凡な官僚として「命令に従った」だけの存在でした。そこには特別な悪意がなく、思考停止のままに大きな悪に加担してしまう凡庸さがあった。『M』の群衆も同じです。自分たちを正義の側に置きながら、実際には嘲笑と断罪の声を重ねるだけで、誰ひとり思考を働かせていない。ここには「凡庸な悪」がそのまま群衆の姿として表れています。

この議論にさらに広がりを与えてくれるのが、浦沢直樹の漫画『MONSTER』です。主人公テンマと対峙するヨハン・リーベルトは、人々を破滅に導かずにはいられない存在として描かれます。ヨハンは冷静で知性的でありながら、その根底には「生きる意味の喪失」や「自らの存在の虚無」が横たわっています。彼が人を操り、死に追いやるのは、計算された悪意というよりも、虚無そのものに衝き動かされているかのようです。この「怪物性」は、ベッケルトの「やめたくてもやめられない」という衝動と共鳴しています。両者ともに、人間の意志を超えた「制御不能の闇」に支配されているのです。

しかし決定的に異なるのは、周囲の応答です。『M』におけるベッケルトは、群衆に取り囲まれ、弱さを訴える声に誰ひとり耳を貸しません。彼は「応答されない存在」として孤立し、暴力の対象に還元されてしまいます。対して『MONSTER』では、テンマが最後までヨハンに応答しようと苦闘します。テンマは彼を「怪物」として切り捨てるのではなく、人間として向き合おうとします。たとえヨハンがどれほど虚無に沈んでいようとも、応答の可能性を閉ざさずに関わり続けるのです。

この対比を踏まえると、『M』における問題はより鮮やかになります。応答を拒絶されたとき、残るのは「正義の名を借りた暴力」のみです。けれども応答不可能性を前にしてもなお応答を試みることができるのなら、そこにこそ倫理が芽生える余地がある。正義とは、完全に与えられるものではなく、この「応答しようとする努力」のなかでかすかに立ち上がるのではないでしょうか。

『M』と『MONSTER』を並べてみると、「怪物性」とは特定の人物の異常さではなく、人間の内部に潜む普遍的な闇であることが見えてきます。そして、その闇にどう応答するか――応答を閉ざすのか、それとも不可能性を承知のうえで向き合うのか。まさにそこに、正義と暴力を分ける境界線があるのだと思います。



結論:神話的暴力の循環と正義の不在

『M』は、前半で「神の死」による不安を描き、後半で「ルサンチマンとしての群衆の暴力」を映し出しました。ベンヤミンの言葉で言えば、それは「神話的暴力」の循環です。そしてデリダを通して見れば、そこには正義が不在でありながら、それでもなお正義を志向せざるを得ない人間の姿が浮かび上がります。

母親の「子どもを返して」という声は、法では応答できない要求です。それは不可能でありながら、だからこそ絶えず私たちに迫る。『M』が突きつけたのは、その逆説にほかなりません。

最後に、この警句を残して本稿を閉じたいと思います。

「私たちの叫ぶ『正義』が暴力に変わるとき、正義はいつも、まだ来ない。」

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