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【書評】ジョルジョ・アガンベン『ホモ・サケル』──私たちの生が“剥き出し”になるとき


はじめに

静かに、しかし確実に、私たちは「線を引かれる」ことがあるようです。守られているつもりでも、ある状況下ではその保護が解除される瞬間がある。見捨てられたわけではない、でも間違いなく手が届かない。そんな曖昧な場所に、ひとがぽつりと立たされるとき。

ジョルジョ・アガンベンの『ホモ・サケル――主権権力と剥き出しの生』は、まさにそのような状態を、思想としてくっきりと浮かび上がらせる一冊です。古代ローマの法に見られる特異な人間像「ホモ・サケル(聖なる人間)」を出発点に、アガンベンは、政治とは何か、権力とは何か、そして「生きている」とはどのような状態なのかを問います。

やや難解とされる本書ですが、読み解くうえで鍵となるのが「ホモ・サケルとは何か」という問いです。まずはその内容を整理してみましょう。


第一章 ホモ・サケルとは何か──剥き出しの生と法の境界

「ホモ・サケル」という言葉は、ラテン語で「聖なる人間」と訳されます。けれどこの「聖性」は祝福や高貴さとは無縁で、むしろ、深い矛盾と悲哀を孕んだ存在です。古代ローマ法においてホモ・サケルとされた者は、社会から追放されながらも特別な地位に置かれ、「誰に殺されても法的に罰せられない」が、「宗教的な犠牲(生贄)にもなれない」という、奇妙な立場を背負わされていました。

アガンベンはこの古代概念に着目し、そこに現代政治の深層を見出します。すなわち、ホモ・サケルとは「法の内側にいながら、法の外に置かれた人間」、そして「剥き出しの生(nuda vita)」としての人間の象徴だと。

ここでいう「剥き出しの生」とは、人間からあらゆる権利や属性が剥ぎ取られ、ただ生命活動だけが残された状態を指します。政治的存在としての尊厳を奪われた、裸の生。アガンベンは、近代社会においてこそ、このような「剥き出しの生」が生まれ続けていると指摘します。

たとえば、現代の収容所にいる人びと。そこでは、人は国家によって管理されているにもかかわらず、国家の法的保護からは外されている状態にあります。法の内にあるようでいて、同時に法の外に放り出されている。これはまさに、ホモ・サケルの構造そのものです。

そして、この構造はもっと身近なところにも潜んでいます。ホームレス、難民、無戸籍者、精神疾患や障害を抱え、制度の支援から漏れてしまう人々。彼らは、制度の眼差しから逸れてしまった存在として、社会の中にいながら「剥き出しの生」として扱われる危険を常に孕んでいます。

けれども、この概念は決して「遠くの人」だけに当てはまるわけではありません。あるとき突然、誰かが雇用を失い、社会保障を受けられなくなり、支援を求めても届かず、ただ生きるだけの状態に追い込まれる。あるいは緊急時に「必要不可欠な労働者」とされながら、命のリスクや対価への配慮が一切与えられない。そうしたとき、人は静かにホモ・サケルへと移行していくのかもしれません。

アガンベンの語るホモ・サケルは、制度の外にあって「例外」とされる存在であると同時に、例外をつくることによって社会が成り立っているという逆説をも暴きます。私たちは、何かを排除することで秩序を維持している。その構造に気づくことが、『ホモ・サケル』を読む第一歩なのかもしれません。

このような視点をさらに深めるうえで、ミシェル・フーコーの「生政治(バイオポリティクス)」という議論が重要な背景となります。フーコーは、近代以降の政治権力が人間の「生」そのものを管理し始めたと指摘しました。出生率、寿命、健康、病気、老い、死──そうした生物的な次元が、国家の統治対象になったというのです。

この生をめぐる政治のあり方を、アガンベンはさらに根本から捉え直します。彼は古代ギリシアの語彙に立ち返り、「ビオス(bios)」と「ゾーエー(zoē)」というふたつの生のかたちを区別します。ビオスとは、倫理的・政治的な意味を持った「人間らしい生活」、一方ゾーエーとは、単なる生物学的な生のことです。

アガンベンによれば、西洋の政治はこのゾーエーを制度の外に排除しつつ、実際にはその「剥き出しの生」に依拠して成立してきました。奴隷や病人、あるいは「役割を果たさなくなった人々」は政治の場から追われ、しかしその排除の構造こそが政治の秩序を支えている──そうした逆説が、ホモ・サケルという概念には凝縮されています。


第二章 例外状態と主権の構造──法が停止するそのとき

アガンベンの議論において、「例外状態(state of exception)」という概念は極めて中心的な意味を持ちます。これは、国家が危機的状況において法の適用を一時的に停止し、通常とは異なる政治的判断を行うことを許容する枠組みです。たとえば戦争、テロ、パンデミックなど、緊急事態の宣言下においては、国家は特定の法的手続きや権利の制限を「一時的に」正当化できます。

この考え方を体系化したのが、ドイツの法学者カール・シュミットです。彼は「主権者とは例外状態において決定を下す者である」と述べました。つまり、法の外側から法の枠組みを操作できる存在こそが主権なのだというのです。

アガンベンはこの理論を取り込みつつも、それをより批判的・構造的に読み替えます。彼にとって、例外状態とは単なる非常時の措置ではなく、むしろ現代国家の根底にひそむ「日常に溶け込んだ例外」であり、それが恒常化することこそが問題なのです。

私たちは「緊急事態だから仕方ない」と思いがちですが、その状態が延長され続ければ、やがてそれは新たな常態となる。法律が効かなくなる瞬間においてこそ、主権のあり方が露わになり、そこに置かれる人間は法的保護を剥奪された「剥き出しの生」へと変貌します。

このような状態において、ホモ・サケルの構造は再び姿を現します。例外状態におかれた人びとは、法に従う義務を負わされる一方で、法の保護を受ける権利を持ちません。たとえば収容所、検疫所、仮設住宅、難民キャンプ、あるいは臨時の隔離施設──それらはどれも、例外状態にある空間であり、アガンベンによれば「近代のノモス(空間秩序)」そのものです。

例外とは「一時的な脱線」ではなく、「体制にとって都合のいい調整弁」として、制度の周縁に設置されるもの。アガンベンはそれを暴くために、ホモ・サケルという概念を手がかりに、主権と生とのあいだに生まれる沈黙の構造を明らかにしようとしています。


第三章 沈黙する労働──非常事態下のある現場から

この理論を現代に敷衍するには、ほんの少し視線を足元に向けるだけで十分かもしれません。2020年、新型コロナウイルスの流行によって発出された緊急事態宣言。そのさなか、ひとつの書店では複雑な状況に直面していました。

東京都の方針により「古書店」は休業要請の対象となった一方、「新刊書店」は対象外とされたのです。その判断の線引きは曖昧なままに残され、多くの現場で混乱が起きました。

ある新刊書店では、来店客が増加する一方、スタッフは感染の恐怖を抱えながら勤務を続けました。「働けるだけありがたい」「本は生活必需品だから」といった空気が漂う中で、しかし彼らは心理的にも制度的にも保障されることなく、日々を過ごしました。

来客の中には、マスクをせずに入店する者、苛立ちを店員にぶつける者も少なくなかったといいます。それでも、スタッフの労働は可視化されることも、感謝されることもなく、賃金に反映されることもありませんでした。

このような状況は、「生かされながら見捨てられる」というホモ・サケル的状態を現代日本の文脈に引き寄せる具体例といえるかもしれません。制度の内にあるようでいて、いざというときには支援も配慮もない。役割は求められるのに、保護はなされない。そうした労働者の姿は、まさに「剥き出しの生」に近い状態ではないでしょうか。

アガンベンの言葉を借りるなら、これは例外状態における沈黙の空間です。政治の語彙にも、福祉の制度にも、労働者の声が届かない場所。けれどその静けさこそが、社会の構造的な境界線をあぶり出しています。


第四章 『ホモ・サケル』という起点──思想の核と展開の軌跡

『ホモ・サケル』は1995年に刊行され、アガンベンの思想的プロジェクト「ホモ・サケル・シリーズ」の第1作にあたります。この一冊を起点として、彼は約20年をかけて複数の関連著作を発表してゆきました。その全体を貫くキーワードこそ、「剥き出しの生」と「例外状態」、そして「主権」です。

本書で展開された理論は、その後のシリーズ作品でより多角的に掘り下げられていきます。たとえば『例外状態』では、近代国家における非常事態法の問題をさらに追究し、例外が「制度の内側に組み込まれている」構造を明らかにします。『アウシュヴィッツの残りのもの』では、収容所という極限状況における人間性の断絶と倫理の空白が問題にされました。

また『王国と栄光』では、政治と経済、権力と栄誉という二つの領域の交錯が考察され、『いと高き貧しさ』では、フランシスカン修道士たちの生活様式に見られる「使用(use)」という概念が、所有や支配を超える新たな生の可能性として提示されます。これらはすべて、『ホモ・サケル』で提出された問題意識から派生した試みであり、その意味で本書はシリーズの「根」であり、「種子」でもあるといえるでしょう。

アガンベンの思索は、単なる政治批判や社会分析にとどまりません。彼の関心はつねに、「人間とは何か」「生きるとはどういうことか」という問いへと回帰していきます。そのため、たとえばホモ・サケルが国家の外に追いやられる存在であるとするならば、その人間は本当に「排除された」のか、それとも別の仕方で「包括された」のか。アガンベンの議論は、「外部へと追い出すことで内部に組み込む」という、包摂=排除のパラドックスを静かに照らし出します。

これは、哲学的であると同時に、どこか詩的な感触をもつ思考です。アガンベンは制度や法の冷たい構造を語りながら、その中に取り残される「ひとりの人」の姿を見失いません。だからこそ本書は、抽象的でありながらも、不思議と私たちの「からだ」に響いてくるのかもしれません。


結び その境界線は、私たちのすぐそばに

『ホモ・サケル』という書は、「読む」のではなく、「立ち止まる」ための本なのかもしれません。

私たちは何の疑いもなく制度の内側にいると思って日々を暮らしています。でもあるとき、何らかの事態や判断によって、その境界線の外へと追いやられるかもしれない。あるいはすでに、自分のすぐ隣にいる誰かがその線の外に立たされているかもしれない。そのことに気づくとき、『ホモ・サケル』で描かれる構造は、もはや抽象的な理論ではなく、私たち自身の物語として立ち上がってきます。

ホームレス、難民、無戸籍者、自死した人。介護放棄された高齢者、労働を強いられながら感謝も保護もされない人びと。彼らは「排除された者たち」であると同時に、「制度にとって都合よく配置された者たち」でもあります。

見捨てられているようでいて、生かされている。生かされているようでいて、見捨てられている。そうした二重の構造のなかで、人はホモ・サケルとしての在り方を背負わされるのです。

アガンベンの議論は、「剥き出しの生をいかにして回復するか」には答えてくれません。それでも私たちは、本書を通して、自らがどのような制度のなかで、どのような線引きに囲まれて生きているのかを、静かに見つめ直すことができます。

そうして立ち止まったその場所こそが、もしかすると「まだ言葉になっていない倫理」や「かすかな連帯」が芽吹く地面なのかもしれません。

そのとき、ホモ・サケルという概念は、もはや追放された者の名前ではなく、私たちがまだ信じていない希望のかたちに変わっているかもしれないのです。


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