見出し画像

【アニメ】庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』―― ひとつになれない私たちの帰還

【YouTube「Convincing Anime Trailers」Chより】

はじめに 終わったはずなのに、終わっていない

『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』のラストシーンは、あまりにも有名です。けれど、その有名さのわりに、私たちはあの場面をうまく言い表せていないのではないでしょうか。世界は破局を迎え、巨大な計画は果てまで進み、すべてが終わったように見える。にもかかわらず、最後に残るのは達成感でも救済でもなく、ただひどく生々しい、他者の気配です。シンジはアスカの首に手をかけ、アスカはその頬に触れ、そして最後に「気持ち悪い」と告げる。その言葉は拒絶のようにも、現実への帰還のようにも響きます。

この終わり方が忘れがたいのは、そこに単純な答えがないからでしょう。たとえば、わかりあえたから終わるのでもない。完全に断絶したから終わるのでもない。むしろ本作は、ひとつになることの夢が壊れたあとにも、なお他者が他者として残ってしまうこと、その不快さごと世界が続いてしまうことを描いているように見えます。だからこそ、あのラストには、安易な希望とも絶望とも違う、奇妙な重みが宿っているのだと思います。

旧劇場版と呼ばれるこの作品は、しばしば「難解な終末譚」として語られてきました。けれど本当に難しいのは、設定や用語ではなく、むしろそこに映し出される人間の距離のほうなのかもしれません。誰かとひとつになりたい。けれど、ひとつになることは同時に、自分も相手も失ってしまうことでもある。その矛盾の果てに、本作はどこへ着地したのか。今回は、テレビアニメ版から旧劇へとつながる流れを簡単に振り返りながら、この作品を「補完の物語」ではなく、「補完のあとに、なお他者と生きるしかない世界へ戻る物語」として読んでみたいと思います。

本記事の要約画像(NotebookLM作成)

第一章 世界の終わりより先に、心は壊れていた

『エヴァンゲリオン』の物語を、ごく簡潔に言えば、謎の敵との戦いに巻き込まれた少年少女たちの物語です。主人公の碇シンジは、長く離れて暮らしていた父に呼び出され、人型兵器エヴァンゲリオンに乗るよう命じられます。彼は綾波レイや惣流・アスカ・ラングレーらとともに戦いに身を置いていきますが、その戦いは単なる危機との対決にとどまりません。物語が進むにつれて前景に出てくるのは、父に認められたいのに届かない思い、自分を支える像が崩れていく不安、そして他者に触れたいのにどうしても傷ついてしまう、心の危うさです。

つまりテレビアニメ版の時点で、すでに『エヴァンゲリオン』は「世界を救う戦い」の物語である以上に、「自分というものをうまく保てない人々」の物語でした。シンジは他者から拒まれることを怖れながら、承認を求めてしまう。アスカは強さと優秀さの像に支えられながら、その像が揺らぐと一気に崩れていく。レイは誰かの欲望を静かに引き受けさせられているようでいて、どこか決定的に他者のままです。表面には戦いがありながら、実際にはもっと早い段階から、彼らの心の結び目は危うくなっていました。

その意味で、旧劇場版はテレビ版と切り離された別物ではありません。むしろ、テレビ版の終盤で内面へと沈み込んでいった危機を、別の角度から描き直した作品だと言ったほうがよいでしょう。テレビ版の最終二話では、世界の出来事そのものよりも、シンジたちの内面が前景に出ます。旧劇は、それと同じ危機を、今度は世界の側から、出来事の側から映し出していく。組織への侵攻、アスカの決死の戦い、父とレイの決裂、そして人類補完計画の発動。こうして見ると、旧劇はテレビ版の否定ではなく、むしろその外側で何が起きていたのかを示す、もうひとつの到達点なのだと思います。

だから、本作のラストだけを孤立して取り出すことはできません。あの浜辺へ至るまでには、すでに長い時間をかけて、他者とうまくつながれないこと、親の不在や過剰、役割に押し込められること、自分という輪郭が崩れていくことが積み重ねられている。世界の終わりは、そのあとでやって来るのです。言い換えれば、『Air/まごころを、君に』が描く破局とは、突然降ってきた災厄ではありません。ずっと前から壊れかけていた心が、ついに世界のほうまで巻き込んでしまった、その果ての光景でもあるのでした。


第二章 補完とは何か ひとつになる夢と、消えてしまう私

本章の要約画像(NotebookLM作成)

旧劇場版の中心にあるのが、人類補完計画です。けれど、この計画を単なる設定として追うだけでは、本作の核心には届きにくいでしょう。大切なのは、それが何をしようとしていたのかです。補完とは、ばらばらに分かれた人間の境界を溶かし、孤独や不安や痛みをなくしてしまおうとする夢です。誰かに拒まれずに済む世界。わかってもらえない苦しみから自由になれる世界。そう聞けば、それは救済のようにも思えます。実際、他者との距離に傷つき続けてきたシンジにとって、その誘惑は決して小さくなかったはずです。

ここで思い出したいのが、作中で繰り返し重要な意味を持つATフィールドです。戦闘においては相手の攻撃を防ぐ見えない壁として現れるそれは、しばしば「心の壁」とも重なるものとして響いています。他者と自分を隔てる境界。近づきすぎれば傷つけ合い、離れすぎれば孤独になる、その距離をどうにか保っている膜のようなものです。テレビ版でも示唆されていたヤマアラシのジレンマ、つまり、ぬくもりを求めて近づきたいのに、近づきすぎれば針で互いを傷つけてしまうという比喩は、この作品全体の人間関係をよく表しています。ATフィールドとは、まさにその「近づきたいのに、痛い」という矛盾を支えている境界でもあったのでしょう。

そう考えると、補完が目指しているものの輪郭もはっきりします。補完とは、ATフィールドを失わせる計画です。心の壁をなくし、他者との隔たりを溶かし、孤独も不安も消してしまうこと。けれど、それは本当に救いなのでしょうか。なぜなら、他者との境界がなくなるということは、同時に「私」と「あなた」の区別そのものが曖昧になっていくことでもあるからです。傷つかないかわりに、自分という輪郭も失われる。拒絶されないかわりに、欲望する主体そのものが薄れていく。補完とは、孤独をなくす計画であると同時に、私たちが私たちであるための条件まで消し去ってしまう計画でもあるのです。

画像出典:『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』 ©カラー/EVA製作委員会

ここで、ラカンの言う三つの位相を、ごく簡単な補助線として置いてみると、この作品の輪郭が少し見えやすくなります。想像界とは、自己像や一体化の幻想が働く領域です。象徴界とは、言葉や関係、社会的な位置づけが成り立つ領域です。現実界とは、それらでは処理しきれない痛みや不快さ、どうしても言葉になりきらないものの領域です。人はこの三つがかろうじて結びつくことで、自分を保っています。ところが補完は、そのずれや不足を引き受けるのではなく、最初からなかったことにしようとする。言い換えればそれは、他者との距離も、自分の欠如も消し去り、ひとつになれるはずだという想像的な夢が、あまりにも強くなった状態として読むことができます。

もちろん、想像することそれ自体が悪いわけではありません。人は誰しも、誰かに受け入れられたいし、拒まれない関係を夢見ます。問題なのは、その夢が、他者との隔たりも、自分の足りなさも、身体の痛みも、すべて消してしまおうとするときです。ATフィールドがなくなれば、たしかに傷は減るかもしれない。けれど同時に、自分と他者を分けている輪郭までもが溶けていく。その甘さと恐ろしさが、補完には同時に宿っています。

だから旧劇の問いは、単純に「補完は善か悪か」という話ではないのでしょう。そうではなく、私たちは本当に、他者との隔たりをなくしたいのか。痛みも不快さもないかわりに、自分であることまで失うような世界を望むのか。本作は、その問いを世界の終わりという極端なかたちで突きつけてきます。そしてラストシーンは、その問いに対するひとつの、あまりにも苦い返答として現れてくるのです。


第三章 父に届かない子と、父になれない男 シンジとゲンドウのねじれ

本章の要約画像(NotebookLM作成)

『エヴァンゲリオン』を通してシンジが抱え続けている苦しさのひとつは、碇ゲンドウという父の存在です。ゲンドウは、特務機関NERVを率いる冷徹な指導者であり、同時にシンジの実父でもあります。けれど、彼は父でありながら、父としての言葉をほとんど与えません。シンジを呼び寄せたのも、息子として会いたかったからではなく、エヴァに乗せる必要があったからでした。必要なときだけ呼ばれ、役目を果たせばまた遠ざけられる。その関係のなかで、シンジは父に認められたいという思いを抱えながら、どう近づけばいいのかを最後までつかめません。

この父子関係のつらさは、単に「不器用な親子」というだけではないでしょう。シンジにとってゲンドウは、自分に役割を与える存在ではあっても、自分を言葉によって受け止めてくれる存在ではありません。命令は届く。けれど承認は届かない。そのためシンジは、エヴァに乗ることによってしか父との関係を持てず、しかもその関係は、乗るたびに傷を深くしていきます。認められたいのに、認められる条件がつねに苦痛と結びついている。このねじれが、彼をますます追い詰めていくのです。

けれど、旧劇を見ていると、問題はシンジだけの側にあるのではないことも見えてきます。むしろ、ゲンドウのほうこそ「父であること」に失敗している。彼は巨大な組織を動かし、極限状況のなかでも判断を下し続ける人物ですが、その強さはどこか空虚でもあります。なぜなら彼を動かしている中心には、父としての責任や秩序への忠誠よりも、ひとりの女性への執着があるからです。

その女性が、碇ユイです。ユイはシンジの母であり、ゲンドウの妻でしたが、過去の実験事故によって失われた存在です。物語のはじめからすでに不在でありながら、彼女は全編を通してきわめて大きな影を落としています。ゲンドウにとってユイは、亡き妻であると同時に、どうしても手放せない喪失そのものでもある。彼の行動の多くは、表向きには人類補完計画という大きな計画に従っているようでいて、その実、失われたユイのもとへもう一度たどり着きたいという、きわめて私的な欲望に強く支配されています。

ここで見えてくるのは、父の位置に立っているはずの男が、じつは父であるより前に、喪失に囚われたひとりの人間として動いている、ということです。父とは本来、子どもを世界へ送り出し、言葉と関係のなかへ橋渡しする役割を持つはずです。けれどゲンドウは、シンジを世界へ開くのではなく、自分の欲望の回路へ巻き込んでしまう。シンジにエヴァを命じるその声は、父の導きというより、失われたものを取り戻そうとする執着の延長に近いのです。

画像出典:『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』 ©カラー/EVA製作委員会

ここで思い出したいのは、前章で見たATフィールドです。あれは他者との距離を保つ壁であると同時に、自分を自分として成り立たせる境界でもありました。けれどゲンドウは、その境界を引き受けることができない。ユイは失われたのだという現実を受け止める代わりに、世界の構造そのものを使ってでも、もう一度そこへ触れようとする。つまり彼は、喪失を経たあとに言葉の世界を生きるより、失われたものとの一体性を回復する夢へ傾いていく。その意味でゲンドウは、父であることに失敗しただけでなく、他者との隔たりを引き受けることにも失敗しているのです。

その結果、シンジとゲンドウの関係は、最初から大きくねじれています。シンジは父に認められたい子でありながら、その父から、安定した言葉を受け取れない。他方ゲンドウは父の位置にいながら、子を導く者ではなく、過去へ引き戻される者として存在している。このすれ違いのために、二人のあいだには最後まで埋まらない空白が残り続けます。そして、その空白こそが、『エヴァンゲリオン』の世界を支える大きな不安のひとつでもあるのでしょう。

旧劇で補完計画が発動するとき、その計画は世界規模の出来事として描かれます。けれど同時にそれは、ゲンドウという男の私的な欲望が極限まで膨らんだものとしても見えてきます。彼が求めていたのは、息子との和解ではありませんでした。人類一般の救済でもない。むしろ彼は、失われたユイへと至る道を、世界の構造そのものを使ってでも開こうとしていたように見えます。そう考えると、本作の悲劇は、外から来た破局だけではなく、父になれなかった男の欲望が、世界そのものを巻き込んでしまったことにもあるのです。


第四章 欲望を引き受けさせられた者たち レイとアスカの位置

本章の要約画像(NotebookLM作成)

綾波レイと惣流・アスカ・ラングレーは、どちらもシンジにとって決定的な存在ですが、そのあり方はかなり違います。レイは静かで、感情をあまり表に出さず、どこかこちらの理解から滑り落ちていくような人物です。一方のアスカは、感情も言葉も激しく、自分が優れていることをはっきりと示そうとする。旧劇のラストを考えるとき、この対照はとても重要になります。

まずレイについて言えば、彼女は単なるヒロインというより、さまざまな欲望が集中する場所として描かれています。シンジにとって彼女は、手を伸ばしたくなる近さと、どうしても触れきれない遠さを同時に持つ存在です。ゲンドウにとってはさらに重く、彼女は失われたユイへ通じる特別な回路のように扱われています。レイの身体や存在そのものに、彼はユイの気配を重ねている。だからレイは、ひとりの少女である以前に、誰かの喪失や欲望を引き受けさせられた存在として立っています。

ただ、そのことはレイを単なる受け身の存在にしてしまうわけではありません。むしろ重要なのは、彼女が最後までその役割に従順なままではいないことです。彼女は他者の欲望を受け止める器のように見えながら、決定的な場面でそこから逸れていく。ゲンドウの思惑に従って、ただ彼の願いを叶える存在にはならないのです。このずれによって、レイはようやく、誰かの代替物ではない他者として立ち上がってきます。旧劇で彼女が果たす役割の大きさは、単に計画の鍵だからではなく、「他者の欲望のために置かれていた存在」が、そのままでは回収されないという点にあるのだと思います。

画像出典:『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』 ©カラー/EVA製作委員会

ここにもまた、ATフィールドの問題はひそんでいます。誰かとつながることを望みながら、完全には重なれないこと。誰かの望みを背負わされながら、なおその人そのものにはならないこと。レイは、他者との境界がきわめて曖昧に見える存在でありながら、最後の最後でその境界を取り戻すように振る舞います。だから彼女は、ひとつになる夢の媒介であると同時に、その夢が誰かの思う通りには完成しないことを示す存在でもあります。

これに対してアスカは、もっと露骨に「自分」を支えようとする人物です。彼女はエヴァの操縦者として優秀でありたいし、他者より強く、美しく、必要とされる存在でありたいと願っています。その願いは、単なる見栄や自信ではありません。むしろ、それがなければ自分を保てないほど切実なものです。アスカは「強い自分」の像にしがみつくことで、かろうじて立っている。だからこそ、その像が揺らぎはじめると、彼女の崩れ方は激しくなるのです。

旧劇『Air』でのアスカは、そのことをもっとも残酷なかたちで引き受けます。弐号機のなかで彼女は一度、自分がまだ戦えること、自分がまだ終わっていないことを確かめるように立ち上がります。あの場面には、彼女の誇りと生への執着が強く表れています。けれど、その輝きは長くは続かない。圧倒的な暴力の前で、彼女の自己像を支えていたものは徹底的に破壊されてしまう。アスカの悲劇は、単に敗北したことではなく、自分を自分でいられるための像そのものが壊されることにあります。

前章で見たゲンドウが、失われたユイへの執着によって現在を生きられなくなっていたのだとすれば、アスカは逆に、「こうありたい自分」の像に寄りかかることでしか現在に立てない人物だと言えるかもしれません。彼女にとってATフィールドは、他者を拒む壁である以上に、自分の像を保つための最後の膜でもある。だからその膜が裂けるとき、彼女は他者との距離だけでなく、自分を支えていた足場そのものを失ってしまうのです。

こうして見ると、レイとアスカは対照的でありながら、どちらもまた「他者の欲望」や「自分を支える像」に深く巻き込まれている人物です。ただ、その巻き込まれ方は違う。レイは、他者たちが意味を託す沈黙の場所であり、アスカは、自分でその意味を作り上げようとする人物です。レイは他者の欲望の中心に置かれ、アスカは自分の像に自分を預ける。そのどちらも、旧劇では安全な支えとしては残らない。だからこそ、補完ののちに戻ってくる世界で、アスカがどのような位置に立つのかは、とても大きな意味を持つことになるのです。


第五章 同じようには戻らない シンジとアスカの帰還の差異

本章の要約画像(NotebookLM作成)

補完の場面が旧劇において強く印象に残るのは、それが単なる破壊でも救済でもなく、「境界がなくなってしまうこと」の甘さと怖さを同時に見せるからでしょう。誰かに拒まれずに済む世界。孤独に耐えなくてよい世界。ATフィールドという、他者との隔たりであり、自分を自分として保つための壁が失われる世界。そこでは、シンジが長く抱えてきた苦しみも、たしかに一時はやわらいで見えます。けれど、そのやわらぎは、他者が他者でなくなることと引き換えです。痛みが消えるのは、相手との距離も、自分という輪郭もまた曖昧になっていくからにほかなりません。前章までの整理を借りれば、補完とは、象徴界や現実界のきしみを呑み込んで、想像界の一体化がすべてを覆ってしまう夢だったと言えるでしょう。

この問いに対して、シンジは最後に、きわめて不器用なかたちではあっても、その夢のなかにとどまり続けることを選びません。彼が戻ってくるのは、拒絶も誤解も、痛みも残る世界です。つまりそれは、ATフィールドをふたたび引き受けることでもあります。他者とのあいだに壁があること、自分と相手がひとつにはなれないこと、その隔たりごと生きること。これは穏やかな回復ではありませんし、成熟した決断と呼ぶにはあまりにも傷だらけです。それでもなお、補完という融合の夢のなかに溶け切らず、もう一度、距離のある場所へ、言葉と関係のある場所へ立ち戻る。その意味でシンジは、現実界の痛みを含んだまま、象徴界へ帰ってきたのだと思います。

ただし、その帰還は、決してきれいなものではありません。浜辺に現れたシンジがまず行うのは、再会の喜びでも、言葉による呼びかけでもなく、アスカの首に手をかけることです。この行為は、あまりにも衝撃的です。けれど考えてみれば、それは本作全体を貫いてきたシンジの矛盾を、そのまま露出している場面でもあります。彼は他者を求める。けれど、他者が本当に他者としてそこにいるとき、その距離に耐えられない。近づきたいのに、拒まれることが怖い。わかってほしいのに、わかりあえなさに傷つく。その極限が、あの首絞めというかたちで現れている。つまりあれは、帰還した主体の暴力であると同時に、他者のいる世界に戻ってしまったことへの恐怖の発露でもあるのだと思います。

この場面に対して、アスカはシンジの頬に手を伸ばします。ここが旧劇のなかでも、もっとも解釈の割れる瞬間のひとつでしょう。赦しのしぐさと見ることもできる。あるいは、ただ最後の確認のようなものと見ることもできる。けれど重要なのは、その触れ方が、抱きしめるでも、拒絶するでもなく、きわめて微妙なものとして置かれていることです。アスカはシンジを受け入れたのでも、完全に拒んだのでもない。その曖昧さこそが、このラストを和解にも絶望にも閉じさせない理由なのだと思います。

画像出典:『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』 ©カラー/EVA製作委員会

ここで、シンジとアスカの帰還は同じではない、ということが見えてきます。シンジは、補完という融合を退けて、他者との隔たりがある世界へ戻る方向を引き受けています。そこには、少なくとも「壁のある現実へ戻る」という契機がある。けれどアスカの帰還は、もう少し苦い。彼女は、自分を支えていた自己像が徹底的に破壊されたあとで戻ってくるからです。優秀であること、必要とされること、他者より勝っていること。そうした想像的な支えは、旧劇のなかで大きく引き裂かれました。だからアスカは、シンジのように「他者のいる世界を選び直した」というより、もはや自己像のなかにとどまり続けることができず、そこから押し出されるように戻ってきたように見えます。

この差異はとても大きいと思います。シンジにとっての帰還は、不器用ながらも分離を引き受けることです。対してアスカにとっての帰還は、幻想が壊れたあとの世界に、いやおうなく身を置かされることです。同じ浜辺に立っていても、二人の立ち位置は同じではありません。シンジは、ひとつになれないことを受け入れはじめる側にいる。アスカは、ひとつでいられるという幻想の崩壊を経て、現実界のざらつきを身に受ける側にいる。だからこそ、あの最後の一言は、シンジの帰還とは別の響きを持ちます。

アスカの「気持ち悪い」は、単なる悪罵ではない。もちろん嫌悪の言葉ではあります。けれどそれだけでは足りません。あれは、ひとつになれない他者がそこにいること、その身体が、その欲望が、そのどうしようもなさが、もう一度自分の前に現れてしまったことを告げる言葉でもあるからです。もし補完が、他者との隔たりも、自分の不全も、すべてを消してしまう夢だったのだとすれば、「気持ち悪い」は、その夢の完全な破綻を告げる言葉です。融合のぬめりを拒む言葉であり、相手が相手のまま残っていることを突きつける言葉でもある。そして、その不快さを口にしている以上、アスカもまた、言葉と関係の世界へ戻っています。けれどその帰還は、何も整えてはくれません。むしろ、戻ってきた世界がどれほど苦いかを、最後に一度だけはっきり言い当ててしまう。ここに、アスカの帰還の残酷さがあります。

だから旧劇のラストは、二人がめでたく現実に戻ってきた場面ではありません。むしろ、二人がそれぞれ別の仕方で、現実界の痛みを含んだまま象徴界へ投げ返された場面です。シンジは、他者を求めながら他者に耐えられないまま戻る。アスカは、自己像の崩壊を経て、その不快さを言葉にせざるをえないかたちで戻る。二人のあいだには、理解も一致もありません。けれど、それでもなお、他者は消えなかった。ATフィールドなき融合は退けられ、再び壁のある世界が始まってしまう。旧劇のラストが忘れがたいのは、この「消えなかった他者」の重さを、これ以上ないほど生々しく残して終わるからなのだと思います。


結び 「気持ち悪い」のあとで、それでも世界は続く

画像出典:『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』 ©カラー/EVA製作委員会

『Air/まごころを、君に』を見終えたあとに残るのは、解決されたという感覚ではありません。むしろ逆で、すべてが終わったあとにこそ、どうしようもなく厄介なものが残ってしまった、という感覚です。それは他者の身体であり、欲望の不透明さであり、わかりあえなさそのものと言ってもよいでしょう。補完が約束したのは、その厄介さを消し去ることでした。ATフィールドをなくし、孤独も不安も、他者とのずれもなくなる世界。けれど本作は、その夢を最終的には選びませんでした。

そのかわりに残されたのが、浜辺の二人です。ひとつになれなかった二人。いや、ひとつになってしまうことを退けたあとで、なお向き合わざるをえない二人と言ったほうがいいかもしれません。そこには希望の言葉はありません。励ましも、和解の宣言もない。最後に置かれるのは「気持ち悪い」という、あまりにも身も蓋もない言葉です。けれど、だからこそあのラストは強いのだと思います。世界が続いていくとしたら、それはきれいな理解のうえではなく、こうした不快さを消しきれないまま、なお他者が残ってしまうという現実のうえでしかありえないからです。

ラカンの言葉を借りれば、補完は想像界の夢を極限まで押し広げたものだったのかもしれません。誰かとひとつになれれば、欠如も孤独もなくなるはずだという夢。けれど旧劇のラストが示すのは、その夢の先にある幸福ではなく、そこから降りたあとにしか始まらない現実です。シンジとアスカが戻ってきたのは、言葉と関係の世界、すなわち象徴界です。けれどそれは、穏やかに秩序を取り戻した世界ではありません。そこにはなお、身体のざらつきや欲望の不透明さ、どうしても処理しきれない痛みが残っている。つまり彼らは、現実界の不快さを抱えたまま、象徴界へ帰ってきたのです。

その意味で、「気持ち悪い」は、ラストを閉じる言葉であると同時に、世界がまだ閉じていないことを示す言葉でもあります。あの言葉は、わかりあえなさを宣告している。けれど同時に、わかりあえなさごと、他者がそこにいることも示している。拒絶も、嫌悪も、傷もある。けれど、そこにはまだ相手がいる。旧劇のラストが示しているのは、わかりあえる未来ではありません。むしろ、わかりあえなさを抱えたまま、それでも終わらない世界です。

だからこの作品は、ただ絶望を描いたのではないのでしょう。むしろそれは、安易な救済を退けたあとでしか見えてこない現実を描いたのだと思います。ひとつになれないこと。壁があること。近づけば傷つくこと。それでもなお、他者のいる世界へ戻るしかないこと。その冷たさと重さを、私たちはあの最後の一言によって、ずいぶん長く覚え続けているのではないでしょうか。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集