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空海『吽字義』、『秘密曼荼羅十住心論』に学ぶ、「心」をマンダラ状に創造してゆくアルゴリズムについて

本アカウントでは「空海『十住心論』とレヴィ=ストロース『神話論理』を全部読む」と称して連載をしており100回目に到達するところである。

この一連の記事、「空海『十住心論』と…」と謳っておきながら、レヴィ=ストロースの『神話論理』方面の話続きで、いつまで経っても空海が出てこない形になっている。

もちろん、論の「構え」としては、空海のマンダラの思想を前提にして、それを手がかりに使わせていただいて『神話論理』を読み解いているということであり、実際には姿が見えないだけで毎回隅々まで空海が登場している。そこで今回は、改めて、空海のマンダラの思想の論理について書かせていただきたいと思う。

無論、書くといってもこの私という愚童凡夫がただ活字になった字面をなぞったところを気ままに言い換えて文字に託しているだけである。私が書いた内容は、弘法大師の教えの内奥に触れているとは言えず、ましてや真言密教の修行により三密を加持して共鳴しうる言語を超えた仏の世界にはまったく達していないどころか、近づくことすらできていない、いや、近づくなど烏滸がましく、ことによると遠ざかってさえいるかもしれないということを念頭に置いた上でのことである。

さて、私のようなものが、弘法大師の書いた文章に触れることができるのは、導きの糸となる本があればこそである。

例えば、清水高志先生による『空海論/仏教論』。

こちらは特にレヴィ=ストロースの神話論理と空海の『吽字義』とをつなぎ合わせて読むための「技」を学ぶ上で最高の文献である。

そして、竹村牧男先生による『唯識・華厳・空海_西田』、『空海と華厳思想』、『空海の究極へ──『秘密曼荼羅十住心論』を読む』などなど。

特に今回、「マンダラ」について考えようということで、空海の『秘密曼荼羅十住心論』の「第十住心」を中心に分析されている『空海の究極へ』を手がかりにしてみたいと思う。

空海の究極へ』の冒頭で竹村先生は「マンダラ」について、次のように書かれている。思わず唸ることしきりの一節である。

曼荼羅とは、けっして絵図の曼荼羅のことだけではない。それはむしろ、諸仏・諸尊等の活動立体的動態的ないのちの交響の世界そのものを意味する。しかもその全体は自己の心の中にあるのであり、逆にその全体に支えられて自己はあるその覚証こそが、阿耨多羅三藐三菩提(無上の覚り)にもほかならず、究極の「如実知自心」ということにほかならない。空海によれば、そういう、無数の諸仏諸尊等の曼荼羅(胎蔵・金剛界)と、その各尊がそれぞれ無量の四種曼荼羅、(=三密)を発揮しているという、二重構造の曼荼羅世界を自己に見るのが、真の「如実知自心」なのであり、そこを「十住心論』「秘密荘厳住心 第十」は明かすのであった。

竹村牧男(2022)『空海の究極へ──『秘密曼荼羅十住心論』を読む』p.12

まず曼荼羅とは「絵図のことだけではない」とある。

「活動」「動態」「交響」「発揮する」といった述語に意識を合わせよう。

動的マンダラ

絵図というのはどうしても、描かれたひとつひとつの要素がそれ自体として「何か」であるように見えてしまうし(特に分別識が全面に際立っているうちは)、特にマンダラのように規則性をもって区画され、配列されて描かれていると、他ではなくそれ自身である(自性がある)諸要素が、何かそれ自身の即自的な特性に応じて分類され、配置され、静的に固定された位置を占めているようにも(分別心だけ動かしていると)見えてしまう

ところが曼荼羅は、そういう静的に固定された物の並びを表しているわけではなく、立体的動態的ないのちの交響の世界そのもの」であるという。

静止しておらず、動いており、諸要素(諸仏・諸尊)はバラバラに孤立ているものが事後的に並べられたものではなく、ひとつの(一と多の区別もまだない絶-対、対を絶する、二辺を離れた「ひとつ」)が動き、多様に動き、その多様な動きが共鳴する様々なモード間の現れ方の差異を、マンダラの諸尊は表現している。

言い換えると、分かれているように見える諸要素は、実はまったく分かれてなどおらず、ひとつの動きをスペクトル分解したようなものである。

その響き、響きというのは振動であるが、その振動パターンが描くちょうど「波紋」のようなもののうちの定常的な様相が、マンダラのパターンなのである。

マンダラは心の中にあり
心はマンダラの中にある

動的であるとは伸縮自在ということでもある


そしてここからがおもしろい。

「立体的動態的」な「交響」の共鳴体であるマンダラは、私たちの「自己」の「心の中」にある。

どこか宇宙の彼方にあっていまここにはないというのではない。
あの世にあっていまここにはないというのでもない。

いまここ、いまこの私やあなた、私たち自身の「心」の中にある
もちろん、私たちの多くはほとんどまったくそのことには気づいていない

私たちの表層意識の分別心はいわゆる「三妄の霧」となり、私たちの心そのもの、輝く満月のような「まどか」な真如たる心を、表層に対する深層に隠してしまうのだ。

そうとなれば、この表層意識の分別心という「霧」を除くことができれば、「立体的動態的ないのちの交響の世界そのものであるマンダラとして、自己の「心」の脈動超感覚的に認識することができるようになるのだろう。

ならば、この「霧」を除くということをどのように行ったら良いのか

よくわかった上で実行しないと失敗するというか、もともとの「霧」がまた別の「霧」にもわもわと変化するだけにとどまってしまう場合もある。場合によってはさらに霧が深くなってしまうことさえある。

ではどうしたらうまい具合に霧が晴れるのかといえば、竹村先生が書いていらっしゃる次の一文にあることを、全身で生きられるようになればいい。

二辺を離れる

  • その(動態的ないのちの交響の世界そのものであるマンダラの)全体は自己の心の中にあるのであり、 ・・・(1)

  • 逆にその(動態的ないのちの交響の世界そのものであるマンダラの)全体に支えられて自己はある」  ・・・(2)

この一文を表層の分別心でもって読むと、「なにかおかしい」と思われることだろう。おかしいというか「分からない」と思われるはずだ。

立体的動態的ないのちの交響の世界そのもの」は、「その全体は自己の心の中」に「ある」。まずこれだけ読むと、なんというか「自己」という大きな容器のようなものがあり、その容器の中に、内側に、もうひとつの容器である「心なるモノ」が収納されており、その内側の容器である心なるものの内側に「立体的動態的ないのちの交響の世界そのもの」としてのマンダラが格納されている、というイメージになる。

しかし、すぐ後に竹村先生は続けている。「逆にその全体に支えられて自己はある」。「自己」は「立体的動態的ないのちの交響の世界そのもの」に「支えられてあるようになっている。

マンダラをその内に宿す容器のような「自己」は、他でもないこのマンダラによって「支えられて」はじめてその姿、輪郭を浮かび上がらせている。

ところで支えるということは、支えるものが支えられるものを保持しているということであり、言い換えれば、支えるものである「マンダラ」の上に、あるいはマンダラの内に、自己の心がある、ということになる

文(1)では、「自己の心」が容器で、マンダラがその中身だった。
しかし文(2)では、逆に「マンダラ」が容器的お皿的なもので、「自己の心」がその中身あるいは上に載せられたもの、ということになる。

(1)と(2)で「容器」と「中身」の関係が逆になっている!

・・・

容器 / 中身
×
マンダラ/心

私たちの経験的で感覚的な世界には、特に人間の身体で経験できる物理法則からして、逆になることが考えにくい対立関係がある。

例えば上/下、左/右、前/後、そして内/外、中身/容器といった対立である。

逆立ちをしようが犬神家の人々のように上半身の半身浴をしようが上/下は逆にならないし、左/右も逆にはならない。

牛乳パックの中に牛乳をいれるのと、牛乳の中に牛乳パックを入れるのでは、まったく意味がちがうというのは言うまでもないことである。

ところが、上の一説では「自己の心」と「マンダラ」が、容器になったり中身になったり、くるくるとその立ち位置を交代させているのである

これは一体どういうことだろうか?!

実は、ここがわかるということが、二辺を離れる(二辺を離れるでもなく離れないでもない)ということであり、何を隠そうかの「阿耨多羅三藐三菩提」、無上正等覚、つまりいわゆる「覚る」ということのアルゴリズムになる。

* *

二辺を離れるでもなく離れないでもない



「中」(あるいは内)といえば「外」がある。

内/外の区別、分別である。


「自己」といえば「他者」あるいは「非-自己」がある。

自己/非-自己の区別、分別である。


また「ある」といえば「ない」がある。

有/無の区別、分別である。

私たちの言語的思考はついついどうしてもある/ない、うち/そと、自/他、主体/対象といった二項対立を分別して、「どちらであって、どちらでないか」、片方だけを選ぶことをもってしてものを考えていると思いがちである。まさに「分かる」ということは、その言葉通り、分けて選ぶということに他ならない。

しかし、「活動立体的動態的ないのちの交響の世界そのもの」の(1)「全体は自己の心の中にあ」り、しかも(2)「逆にその全体に支えられて自己はある」。(1)でもあり(2)でもある、というこの一節は、その分けて選ぶ式の頭の使い方で「分かる」ことはできない。

分別心は「一体どっちなんだ」と問いを立てて、どちらか一方を正解として選びたくて仕方がないように動くが、その「どっちなんだ」と問うて片方を選ばないことには気が済まないという分別心の使い方自体が、迷い、妄念、「三妄の霧」である。

マンダラは自己の心の中にある。それと全く同時に、自己はマンダラに支えられている、マンダラの内にある。

これを次のように言い換えてみても良い。「活動立体的動態的ないのちの交響の世界そのもの」としてのマンダラは、自己の内にあるでもなく、自己の内にないでもない「活動立体的動態的ないのちの交響の世界そのもの」としてのマンダラは、自己の外にあるのでもなく、自己の外にないでもない内外どちらにでもあるわけでもなく、ないわけでもない

分けることもしないし、分けられたもののどちらかを選ばなければならない必要もない。

分けるけれども選ばない「不可得」


ここで重要なのは「分別心がダメなんだ」ということでもない、ということである。分けることや分別心がダメで、分別心を取り除いた状態(仮に無分別と呼ぼう)がイイのだ…とやってしまうと、

分別 / 無分別
||     ||
ダメ / イイ
||     ||
選ぶべきではない方 / 選ぶべき方
 

という対立図式を立てていることになり、これこそ分けて選ぶ分別そのものである。どちらがよくて、どちらがダメ、なんて、どちらを選ぶべきか思考の典型ではないか

そういうわけで、容器/中身、ある/ない、分ける/分けない、などなど、口を開けば際限なく出てくるあれこれの二項対立を、分けるでもなく分けないでもない、分けたり分けなかったりを自在にしたりしなかったりするモードに切り替える。

このとき、分けるでもなく分けないでもない、の「分けないでもない」の方にチューニングしてみよう。

分けないでもない、ということは、要するに分けてもよいのである。

分けても良いし、選んでも良い。ここで特定の仕方で分けなければならない、とか、分けられた二つのうち特定の一方だけを必ず選ばなければならない、などとこだわることが「執着」であり、分けて、選んで、こだわっているのだということを忘れている状態が迷いということになろう。とはいえ、分けても良い。無理に分ける必要はないが、分けちゃダメだ、分けちゃダメだ、などと「良いとダメを分けてこだわる必要もない。

と、こういう具合に、いまここのこの経験的な自己の「心」でもってつねに、分かれたり分かれなかったりする動きが動いているなあ、と念頭においておくことが、「如実」に「自心」を「知」る、ということである。

マンダラの多重構造


そしてこの、分かれているでもなく分かれていないでもない様子が、たまたま分別心に映る相、つまりたまたま分かれて見える相が、二つに分かれたものたち、二項対立関係が、無数に組み合わさり共鳴する姿であり、その分かれたり分かれなかったりする分離と結合の伸縮する様相をビジュアライズしたもの、視覚的に意識できるようにしたのが、いわゆる絵図としてのマンダラである。そしてこの伸縮する時の振動が、法界の「音声」ということになるのであろう。音声は振動である。

マンダラにもいろいろあるが、いずれも要するに、二項対立関係の対立関係の対立関係…を限りなく折り重ね編み合わせているのである。対立関係の網の目としてのマンダラは「分けるでもなく分けないでもない」を、「分けないでもない」の方から観察した姿、ということになろうか

このようなことを考える時、弘法大師空海が、「胎蔵」と「金剛界」という二つのマンダラを組み合わせて用いている理由をよく理解することができそうである。

金/胎どちらもおなじ「活動立体的動態的ないのちの交響」を表しているが、どちらかと言えば胎蔵の方はこの「動き」の速度が加速したり減速したり、振動数が上がったり下がったりとモードが変容している様相、「分けないでもない」の二極の間の距離が激しく伸び縮みしている様相であるような気がする。

一方、金剛界の方は、「分けないでもない」の二極の間の距離の伸縮が安定している。一定の波長を保つ様に定常化しているといってもよいかもしれない。

いずれにしても法界が伸縮するモード=奏でる音声(分けるでもなく分けないでもない絶-対の「ひとつ」のことは動いているでもなく動いていないでもなく、その動いていないではない様々な様相を虚空蔵(アカシャガルバ)とか法界と呼ぶのである)には多様なモードがあり、そのモードの一つが「胎蔵」であり、また別のモードが「金剛界」でもある、ということである。

そしてもちろん、仏教のマンダラには空海の真言密教の胎蔵と金剛界以外にも、様々なマンダラの表現がある。

それら多様なマンダラ表現の間には、優劣はない。それは行者の機根に応じて、つまり、マンダラを観想することで生きながらその生きている身体と、言語的意識と、記憶とイメージ形成能力のままで法界の妙音と共鳴しようという人それぞれの固有振動数のちがいのようなものに応じて共鳴しやすい組み合わせが、多様な行者と多様なマンダラの間にある、ということである。「対機説法」ということになるのだろう。

竹村先生の一節に戻ろう。

「空海によれば、そういう、無数の諸仏諸尊等の曼荼羅(胎蔵・金剛界)と、その各尊がそれぞれ無量の四種曼荼羅、(=三密)を発揮しているという、二重構造の曼荼羅世界を自己に見るのが、真の「如実知自心」なのであり、そこを「十住心論』「秘密荘厳住心 第十」は明かすのであった。」

上に同じ
竹村牧男(2022)『空海の究極へ──『秘密曼荼羅十住心論』を読む』

マンダラに描かれた「各尊」、つまり個々の、互いに別々に異なるものとして分かれて現れた如来や菩薩や明王などなどのおのおのが、それぞれ「それぞれ無量の四種曼荼羅、(=三密)を発揮している」というところが非常に重要である。

四即一一即四

言い換えとして適当かどうか分からないが、「一」に見える諸尊は、必ず「四」に分かれているのだということである。一即四にして四即一。ちなみにここは実は、四でなければならないということもなく、二でも悪くないし、八でもよいし、もちろん六でもいいし、もっと多くてもいい。そもそも分かれているでもなく分かれていないでもないのであるから、二でも四でも八でも、それ以上でも、いくつでも異ならないのである。

それならば、どうして弘法大師はここで「四」を選んで説くのかといえば、それは私たち人類の機根、その身体感覚的、言語的、記憶的イメージ的な無意識裡の「分ける」働き、分別識、分別心、「分かれないでもない」の相に能く加持するために(うまいぐあいに法界と共鳴するようにするために)、四という「分けること」を二回重ねた関係を方便として経由するのがちょうどよい具合だからであろう。

**

さて、以上の話は空海の『秘密曼荼羅十住心論』第十住心の悟りの境地の話である。

ここで「住心」というのはさしあたって「心のあり方・構え方」といったことである。

そして第十住心があるからには、第九、第八、第七、と、全部で十の心のあり方がある。もちろん、十に分ける以外にも、もっと細かく分けることもできるし(例えば大日経ではもっといろいろ細かく分かれている。「狸心」などというものも出てくる)、もう少し大雑把に三つくらいに分けることもできる。十で「なければならない(十以外はダメ)」とこだわるところでもない。

まず空海は『秘蔵宝鑰』で、十住心を一覧にして次の様に説いている。

第一、異生羝羊心 凡夫狂酔して、吾が非を悟らず。但だし姪食を念うこと、彼の羝羊の如し。
第二、愚童持斎心 外の因縁に由りて、忽ちに節食を思う。施心萌動して、穀の縁に遇うが如し。
第三 嬰童無畏心  外道天に生じて、暫く蘇息を得。彼の嬰児と犢子との、母に随うが如し。
第四、唯蘊無我心 唯だし法有を解して、我人、皆な遮す。羊車の三蔵、悉く此の句に摂す。
第五、抜業因種 心身を十二に修して、無明、種を抜く。業生、已に除いて、無言に果を得たり。
第六、他縁大乗心 無縁に悲を起こして、大悲初めて発る。幻影に心を観じて、唯識に境を遮す
第七、覚心不生心 八不に戯を絶ち、一念に空を観ず。心原空寂にして、無相安楽なり。
第八、如実一道心 一如本浄にして、境智倶に融ぜり。此の心性を知るを、号して遮那と曰う。
第九、極無自性心 水は自性無し、風に遇うて即ち波だつ。法界は極に非ず、警めを蒙って忽ちに進む。
第十、秘密荘厳心 顕薬は塵を払い、真言は庫を開いて、秘宝忽ちに陳して、万徳即ち証す。 

竹村牧男『空海の究極へ『秘密曼荼羅十住心論』を読む』pp.66-67

『秘密曼荼羅十住心論』はとてもよく考えられていて(弘法大師が書かれているのであるから当然である)、いきなり第十住心の悟りの境地のことを分節言語で説かれても「????」となる人も、仮に第一住心の境地から順を追って、第二住心、第三住心、第四住心…と、心のあり方の展開の仕方を辿っていけば、しだいしだいに第十住心の境地に接近していくことができるようになっている。もちろん「読むだけ」ではなかなか難しいこともあるが、じわじわと接近することは「読むだけ」でも多少はできる。

21世紀の今、私たちは『秘密曼荼羅十住心論』は、たった二冊の文庫本でそのほぼ全てを読むことができるようになっている。とんでもない時代である。「ちくま学芸文庫」の「空海コレクション」の第3巻に第一住心から第五住心までが、第4巻に第六住心から第十住心一番最後以外が収められている。

「心」の論


ところで、仏教も数ある「宗教」の一つであるが、その教えが、「心論」と銘打って記されているというのは、仏教を学ぶ上で注目しておきたいところかもしれない。

仏教は「」ということを探究している。

かの般若「心」経も「」についてのお経、教えである。

松岡正剛氏は『空海の夢』の冒頭に次の様に書いている。

仏教の要訣は、せんじつめれば意識をいかにコントロールできるかという点にかかっている。[…]生命の一部として突出してきた意識というものが、虫や鳥にはありえなかった「自己の未来」を発見し、それが端的には死の輪廻に他ならないことをも知って、(ヒンドゥイズムの“梵我一如”の)哲人たち死の到来の前に意識の内実をふたたび生命のよって来る母体、すなわち大自然、大宇宙と合一してしまうことを構想したのであった。続く仏教は、それにしてもその「我」が問題だと考えた。[…]「我」そのものを発想してしまう意識の中の特異点をとりはずせないものかと考えた。そこで仏教者たちは、なぜ「我」というものが意識の中にこびりついてしまったのか、まずその原因の除去から取り掛かることにした。業(カルマ)というも、四諦八正道というのも、およそはそのことである。」

松岡正剛『空海の夢』p.23

仏教の要決、つまり仏教の教えと実践の焦点は「意識をいかにコントロールできるか」にあるという。十住心論の「住心」、心のあり方、心の住まい方の十のパターンというのも、この「意識のコントロール」の自由度のちがいと言えるかもしれない。

さて、この「意識のコントロール」の自由度を下げる最大の要因というのが他ならぬ「」なのである。

私たち人類の心は「我」にこだわる。

「我」と「非-我」を分けて…、いや、「分ける」という述語的様相のことは完全に忘れて(分けるという動きが見えているのであれば、分ける前とか、分けつつある途中とか、分ける途中で半分分かれているが半分は分かれていない、といった状態を考えることも容易くなる)、常にすでにあらかじめそれ自体として分かれある主語的なものを前提にあれこれ考え始める。「私は…!」「私が…!」

私 ←/→ 非私
ある ←/→ ない
もの ←/→ こと

この「我」を切り分けてきてそれにこだわる心のあり方、こだわっているということすら自覚していないほど当然のようにこだわっている心のあり方が「第一住心」である。

第一住心 異生抵羊心


第一住心は「凡夫狂酔して、吾が非を悟らず。但だし姪食を念うこと、彼の羝羊の如し」ということで、「凡夫の雄羊のような心」である(『空海コレクション3』pp.23-24)。我と非我を分け、自/他を分け、「我」に快楽をもたらす他なる非我たちを「我」へ過度に結合しようとし、「我」に不快をもたらす他なる非我たちを「我」から遠く分離しようとする。このようなあり方を、「羊」に例えている。餌や異性とは結合しようとし、恐ろしい気配からは分離しようと逃げて回るということであろうか。もちろんこれは羊だけの話ではなく、人間を無含む生命体全般のことである。

「無始生死の愚童凡夫は、我名と我有とに執着して、無量の我分を分別す。若し彼、我の自性を観ぜずんば、我・我所生ず」と。また、いわく、「秘密主、愚童凡夫の類は猶おし羝羊の如し」と。

『空海コレクション3』p.42

第一住心で生きるのは辛いことである。
なぜかといえば、「我」に快楽をもたらす他なる非我たちを「我」へ過度に結合しようとしても、ほとんどの場合はうまくいかず分離したまま、ことによるとさらに遠ざかっていくようになり、「我」に不快をもたらす他なる非我たちを「我」から遠く分離しようとしても、ほとんどの場合うまくいかず、逆に結合してくる

  • 結合しておきたいことと分離されるのではないかという不安。
    結合しておきたいところと分離される悲しみ。

  • 分離しておきたいことと結合してしまうのではないかという不安。
    分離しておきたいところと結合される恐ろしさ。

特に「我」がなによりもいちばん「我」から分離して遠ざけておきたいと願う「死」は、必ず、間違いなく、確実に、100%の確率で、「我」に結合してくる。しかもその結合は、突如として、次の瞬間に生じるかもしれない!

まったく生きた心地がしない苦しみの渦である。

第二住心 愚童持斎心
儒教の教え
愚かな少年が斎(反省の機会)を持つ心


さて、この第一住心の分別心が、ある日、ふと気づくことがある。

「我」が結合したいものと分離され苦しみ、分離したいものと結合されて苦しむのと同じ様に、「非-我」のものたちもまた結合したいものと分離され苦しみ、分離したいものと結合されて苦しんでいるのではないだろうか…? と。

例えば、飢えの苦しみ。

食糧という、我が結合すべきものの最たるものと分離され苦しむのが飢えである。我が飢えで苦しむ。その時、ふと傍らを見ると、他の人間や他の動物も、あるは乾いた草花なども、我と同じ様に結合したいものと分離されて飢えている。

ここでふと、気づくことがある(気づかないこともある)。

我と非我、自/他は、全く別々に異なるが、結合したいところと分離されて苦しむというあり方については同じである、と。

ここに初めて、我/非我、自/他のあいだに、異なるが同じ、ということが考えられるようになる。

通常の言語的な常識で言えば、異なっていることと同じであることは互いに相容れないことである。異なっているとは同じではないということであり、同じであるとは異なっていないということである。異なるが同じ、などというのは論理矛盾で、考えるに値しない、と。

しかしこの、「異なるが同じ」 ということを言葉の上でも理解し、実感としても得ることができるならば、これはまさに、「分けて、選ぶ」を柔軟にして「分けるでもなく分けないでもない」を知悉しつつ現にいまこの身体と言語能力とイメージ形成能力でもって実践できるようになるための秘密の鍵になるのである。どういうことかといえば、異なるというのは、何かと何かが異なる、我と非我が異なる、Aと非Aが異なる、と言うことで、これは言い換えると我と非我が別々に分かれているということ、Aと非Aが別々に分かれているということである。「異なる」というのは要するに「分かれている」と同じことである。逆に「同じ」は「分かれていない」ということである。

我と非我は異なるが、結合したいものと分離したままで苦しむと言う点では「異なるが同じ」だと実感することは、「分けるでもなく分けないでもない」の境地に知らず知らずに入り込み始めているということでもある。

そうして自他は異なるが同じと知った第二住心の心のあり方をする「我」は、自分の食べ物を減らして、減らした分を非我に対して施すことができるようになる。

愚童持斎心というは、すなわちこれ人趣善心の萌兆、凡夫帰源の濫觴なり。万劫の寂種、春雷に遇うて甲坼け、一念の善幾くか、時雨に沐して牙を吐く。歓喜を節食に発し檀施を親疎に行ず。少欲の想い始めて生じ、知足の心やや発す。

『空海コレクション3』p.204

第二住心は、喜んで「摂食」し、それを親しい人に施し、また親しくない人にも施す。

人は誰でも節食し、みずからを戒めることによって、世間的な務めを少なくし、食事も少しで満足し、それらを追い求める苦労も生じなくなる、とさとる。そのときに、つまり、 少しの食物で満足し、それに執われない心が生ずる。その心は喜び、安らかであることを得る。こうした利益を見ることから、しばしばこれを実践する。すなわち、これは最初に 善悪を知るきざしであるから、種子の心と名づける」と。

『空海コレクション3』p.213

少しの食物で満足」するのである。無理に苦しみながら泣く泣く食べ物を減らすのではない。”私の食べ物”に執われていない

「惜しい、もったいない、なんでこんな美味いものを憎たらしい奴に譲らなきゃいけないんだ・・!」などと思いながら、惜しみながら泣く泣く非我に食べ物を渡すのではない。食べ物にこだわっていない、執われていない、「どうぞどうぞ」と譲ることができる。

ここが第一住心と第二住心の大きなちがいである。

第一住心の「我」は、結合したいもの(食べ物)と分離されることをおそれ、一度結合したものが分離しないよう、溜め込み、こだわる

それに対して第二住心のさとりの境地にある「我」は、食べ物との関係が伸縮自在である。第二住心の「我」も、食べ物と決して結合したくない分離しておきたい(絶対に食べたくない)と思っているわけではない。「食べない」ということにこだわってしまっては第一住心である。

食べ物に執われず、少しで満足する、というほどほどの感じが、我と非我としての食べものとの結合しつつ分離し分離しつつ結合する、緩やかに伸縮する関係を表現している。

第三住心 嬰童無畏心


さて、次の第三住心は、仏教に先行する「バラモン教」が教えるさとりの境地であり、「赤子が母のもとですっかり畏れ無く安心している心」のあり方であるという。

  • 仏教以外の三宝に帰依し、戒を譲ることによって天に生ずることのできる心境。『空海コレクション3』p.361

  • 「善き行為が熟することによって、迷いの世界に迷いつづける中において畏れなきよりどころを求め」る。『空海コレクション3』p.364

  • 「世間の原因と結果とおよび行為とが、生じたり滅したりするの を、他の絶対者にもとづくものとして、現象はすべて空無であると観想する瞑想(空三味)を生ずる。」『空海コレクション3』p.365

迷いつづける中において、畏れなきよりどころを求める
我と非我を分けて、我と結合しておきたい非我と分離することを恐れ、我と分離しておきたい非我と結合することを恐れながらも、この我と非我の結合に固着しようとこだわったり、我と非我の分離に固着しようとこだわったりする。

この二元的な対立関係のあいだの分離や結合へのこだわりは、我と非我の間に限られるものではなく、原因と結果、生じたりすることと滅したりすること、などなど、ありとあらゆる二元的な対立関係についても生じうる。

何かと何かを分けて、どちらが原因でどちらが結果だとこだわるなどなど。

いずれにしてもこのように分けたりこだわったりできることも、なんらかの「絶対者」に基づいて、絶対者の中で、上で、生じているのだと、さとる。これが第三住心である。

「我」たちは、分けて選んでこだわって、しかしこだわりのとおりに分けたり選んだりすることができずに苦しむが、その苦しみもまた「絶対者」のあり方の一つなのだと考える。

この、あらゆる二元的なものが、いずれは基盤としての絶対者のもとに帰っていくのだという考えは、上に引用した松岡正剛氏の一節にある「(ヒンドゥイズムの“梵我一如”の)哲人たち死の到来の前に意識の内実をふたたび生命のよって来る母体、すなわち大自然、大宇宙と合一してしまうことを構想した」ということにあたる。

第四住心 唯蘊無我心


第四住心から仏教のさとりの境地である。

まず第四住心は「唯だし法有を解して、我人、皆な遮す」ということで、「我」というものは「ない」のだと悟る

第三住心までは「我」と「非我」の二元的対立が厳然と「ある」ところで、この「我」と「非我」との間を分離するのか結合するのか、「我」と「非我」の間の距離の伸縮のモードで逐一迷うことが(分離したいところと結合してしまい苦しみ、結合したいところと分離してしまい苦しむ)問題になっていた。

それが第四住心になると、「我」と「非我」の関係のこだわりの一方の極である「我」が、いままで「ある」ということが大前提になっていた「我」が、実は「ない」のだということになる(無我)。

我とは、五蘊が仮に和合して構成されているにすぎない。まず、我とは空なるものとさとることによって、すべての存在が空であり、それによってこそ生死に流転しているありかたと超克することができるのである。」

『空海コレクション3』 p.475

ええ!無かったの!?と驚くべきところである。

「我」が「ない」となると、今まで第一住心、第二住心、第三住心でさんざん問題になっていた、「我」と「非我」の間の分離と結合の伸縮に依る苦しみをどうするか、分離しておきたい生/死のあいだが勝手に結合してしまうと言うおそろしい問題は、そもそも問題として成立していなかった、ということになる

五蘊が仮に和合して構成されているにすぎないにこだわって、「我」が「ある」と信じて疑わない様になったところで、この「我」が「非我」の極致としての「死」と過度に結合し、死の中に溶けていってしまうことが恐ろしくてたまらないというように思い込んでいたわけだが、しかしこれは勘違いだったのだ、ということになる。

* *

さて、「無我」だけでも大変なさとりの境地で、これこそ無上、これ以上の叡智はないのではないかと思われるが、これがまだ「第四」である。

この後まだほかに六つも、さらに踏み込んだ悟りの境地がある。

なんとおもしろいのだろう。

では、あとの六つの住心に比べて、いったい第四住心には、どこに迷いが、固着した分別が、残っているというのだろうか?

第四住心のこだわりのポイントは「(我は)五蘊が仮に和合して構成されているにすぎない」という一説に明確に表れている。すなわち「我」というものは「ない」のであるが、この我を構成する「五蘊」なるものは「ある」のである。あるとかないとか言っている。こちらはないが、あちらはある。

唯着無我とは、包・受・想・行・識という、人間や世界を構成する五つの物質的・心理的要素(五蘊)はあるが、常住で不変でしかも主体であるような我はないということである。

竹村牧男『空海の究極へ『秘密曼荼羅十住心論』を読む』p.68

このことを「我空法有」ともいう。「我」は空(それ自体の本質はない)が、「法」(五蘊)は「有る」。

ここに、下記のような、我/蘊、有/無、という二つの二元的な対立をペアにした四項関係が固まっている。

我  /  蘊
||     ||
無  /  有

固まっているというのは、「我」は「無」とだけ選択的に結合したままになり、「蘊」は「有」とだけ選択的に結合したままになり、この結合が外れなくなっている(我が有の方に結合してみたり、無の方と結合してみたり、くるくると入れ替わったりはしない)ということである。

我   /   蘊
||         ||
無   /   有

この関係は実は、第一、第二、第三住心の、

我   /   非我
||        ||
食べる / 食べられる

という関係と、そっくりである。

もちろん、四項関係の四極それぞれに配置されている項が「何であるか」はいろいろと変わっていくが、しかし、

( )   /   ( )
||         ||
( )   /   ( )

という関係自体は同じである。

この関係を固めようとこだわってしまうことが迷いなのである。

第十住心のさとりに向けて、分けたり分けなかったりする心のあり方、心の動き方を考える上で、重要なのはこの

( )   /   ( )
||         ||
( )   /   ( )

という四項関係を、固めずに、柔らかく、四つが四即一にして一即四に伸縮自在であるようにしたところで、そこからさまざま多種多様な「四」の組み合わせ方が自在に生じることができる様にしておくことである。(冒頭の竹村先生の著書からの引用にある、曼荼羅が「四」と言う話はこれである)。

( )   /   ( )
||         ||
( )   /   ( )

四極が、分かれたり分かれなかったり
そこで四極に際立つ四つのものたちは、もともとそれ自体として存在していたもの(第一住心が考える「我」のようなもの)ではなく、それ自体としては「無」である。そして分ける動きや分けない動き、分けたり分けなかったり、分けるでもなく分けないでもない動きが伸縮する動きから、その伸縮する振動の、ある種の共鳴状態、共振パターンのようなものとして、一方でない限りでの他方として(例えば「我」とは「我ではないーではない」ものである、といった具合に)の極たちが安定的に浮かんでくる余地が生じ、保たれる。

→← ・ →←
↑        ↑
↓        ↓
・        ・
↑        ↑
↓        ↓
→← ・ →←

第十住心の境地からすると以上のような話になるのだが、いまここ第四住心では、あるとない、有/無の二項対立と、我と蘊の二項対立とは、「我」と「無」ががっちりと結合してうごかいない状態で封じられた様になっている。



第五住心 抜業因種心(縁覚乗) 


さて、次なる第五住心は「十二縁起において、業の因となる種(無明)を抜く心」である。「業」の「因」を抜く、という境地は、いかなる分離と結合の伸縮のモードだろうか。

拔業因種心とは[…]十二因縁観をもって人間のありかたを深く観察し、実に生死とは、四つの粗大な元素(地・水・火・風)と、人間を構成する五つの要素(色、受、想、行、識)との無常の相を知って厭い、咲く花、葉の緑を見ては、生じ、 存在し、「変化し、なくなるとの無常の姿をさとり、この林落の間に住して、無言のなかに 瞑想の境地を体得し、楽と煩悩の根本の変化の相を観察し、さらに無言の三味をもって克服し、根本的な無知をこれによって取り去るのである。

『空海コレクション』p.576

因は、因/果、原因/結果、という二項対立の一方の極である。

第五住心では、因/果でも、生/死でも、我/蘊でも、ありとあらゆる二元的対立関係のペアそのものが「ない」とされる。

これも大変なさとりの境地であるが、第十住心に比べると、まだ「ない」ということにこだわっているように見える

因果でも我と非我でも、あらゆる二元的対立関係は「ない」のだというとき、当然のように「ある/ない」の分別、対立関係が大前提として滑り込んできているように見える。

「この世の全ては、いや、あの世のすべても、本当は、ないのだ」

といったことを言うにしても、

ある  /  ない
||         ||
偽   /   

こういう具合に分けて選ぶ関係が、かっちりと固まっていることが見て取れる。

( )   /   ( )
||         ||
( )   /   ( )

の再来である。


第六住心 他縁大乗心(法相宗) 


第六住心は「唯識に境を遮す」、「世界は唯だ識のみと理解する心」、「唯識」のさとりの境地である。

「甚深にして微細な阿陀那識のはたらきを思惟し、幻や陽炎のように見えても実際には存在しない心のありかたの観察にひたすら意をそそぐ。」

『空海コレクション4』 p.22

この辺りから、本来は精密に論を展開すべきところになるが、十住心の全体像の見取り図を示すため、なかば強引に煮詰めてみよう。第五住心の、あるとかないとか、真/偽とか、そうしたありとあらゆる二項対立とその組み合わせは「分けること」と、分けられた二項関係同士を「つなぐこと」によって織り上げられている。このさまざまな二項対立関係を分けると同時につなぎ合わせていく処理が「」である。

そしてこの「識」の働きによって、さまざまな分け方のパターン、繋ぎ方のパターンが生じてくる。この識がどう動いているのかを精密に観察し記述していこうというのが第六住心のアプローチである。

ここまでくると、第十住心の「分けるでもなく分けないでもなく」の境地にずいぶんと近づいている。ただし、ここでも依然として、唯「識」、つまり分ける働き、分けるコトの動きは「あり」、その識の働きによって「分けられた」ものたち(因とか果とか、我とか非我とか)は「ない」、という話になるようである。

ここには「わけること」と「分けられたもの」との二元的な対立があり、前者はあり、後者はない、あるいは前者が真で後者が偽、という対立関係の固まった組み方があるようにみえなくもない。

竹村先生が『空海の究極へ』で書かれていることをしっかり読んでおこう。

唯識思想に基づき、世界は心(八識心王および相応する心所有法)が現し出した、いわば映像のみでしかなく実体無くして現象している幻事(マジック) のようなものであると了解する。その心法は縁起所生であり刹那滅(剎那刹那、生じては滅し生じては滅す)ながら相続されていて、無自性であるが仮有でもある。その上に常住の実体として有ると錯覚され執着されている実我・実法はありえないものと見究め、それらへの執着を断じていく。ここで、我執だけでなく法執を断じていくことから、涅槃のみでなく菩提(大円鏡智・平等性智・ 妙観察智・成所作智)が実現し、自利利他円満の自己(仏)となるのである。ただし、それには莫大な時間がかかるのであった。

竹村牧男『空海の究極へ『秘密曼荼羅十住心論』を読む』pp.70-71

第六住心は、「識」の分けるでもなく分けないでもない動きに焦点を合わせる一方、その“分けないでもない”が示す様相として分かれて出てくるあれこれの存在者を単なる映像、まぼろし、マジックのようなものとして、ある意味で軽視する。いや、軽視はしているという言い方は良くないかもしれないが、「識」の分けるでもなく分けないでもない動きへの注目度の高さに比べると、まぼろしの方の扱いは軽めである。


第七住心 覚心不生心(三論宗) 


そして第七住心は「八不に戯を絶ち、一念に空を観ず」とあり、「心は不生であるということを覚する心」である。

冒頭に引用した竹村先生の『空海の究極へ』では第七住心について、次の様にまとめられている。

色不異空・空不異色、色即是空・空即是色の事情が格調高く提示され、 不一不二の号立ち、二諦四中の称顕わる。空性を無得に観じ戯論を八不に越う」と本宗の教理の特徴を描いている。」 

竹村牧男『空海の究極へ』p.92

第七住心は龍樹の『中論』の世界である。

色不異空・空不異色、色即是空・空即是色
生死即涅槃、煩悩即菩提

ありとあらゆる二元的対立関係にある二極が、互いに異なるが同じで同じだが異なる、非同非異不一不二二でもなく(不二)、二でなくもない(不一)ということをさとる境地である。

「故に大日尊、秘密主に告げて言わく、「秘密主、彼かくの如く無我を捨て心主自在にして自心の本不生を覚る。何をもっての故に。秘密主、心は前後際不可得なるが故に」」

『空海コレクション4』 p.207

前/後のような分別に、何か別の分別を重ねて、どちらが前でどちらが後か、といったことを決めようとしてもそれは「不可得」、選びようがないし、固めようがない。二つに分けようとする「心」の働きは、本来「不生」である。つまりそもそも生じていないに等しい。

ここで「無我」は「捨て」られる。つまり有/無の分別にこだわって、「有」」は「偽」で、「無」が「真」なのだ、と言う具合に「無」だけを正しい選ぶべき選択肢として選び続けようとするやり方は手放すのである。ここでは、有/無でも真/偽でも、およそ二つに分けて、どちらを選ぶか、という形の議論はことごとく「戯論」であるとして退けられる

第七住心までくると、私の様な素人からすると第十住心の境地とかわらないようにも見えてしまうが、よく読むと、第十住心と第七住心の差異ははっきりしている。第七では、二つに分けて、どちらを選ぶか、という形の議論はことごとく「戯論」であるとして退けられるが、第十住心では、二つに分けることもどちらかを選ぶことも、それはそれでマンダラの脈動のひとつの現れ方として肯定されることとなり(というか否定されるでもなく否定されないでもない、阿字本不生)退けるべきもの=分離すべきものではなくなる。


ところで龍樹『中論』は、分けて選ぶ「こと」、その動き自体を退けようとしているのではなく(この動きそのものは本不生、不可得なのである)、分けて選んで、選んだ一方だけにこだわることに焦点を合わせて、これを「戯論」として退けようとしているようにも読める。

龍樹はおそらく、分けることも選ぶことも良くも悪くもないとみているのだが(八不に従えば、分けても分けなくても、選んでも選ばなくても、どちらでも非同非異である)、あえて分けられたあとの二つのもののうち、どちらを選ぶべきか、どっちだどっちだ、と論争して飽きることのない論者たちの目を覚まさせるために、方便として、仮に分けて選んでこだわるのは戯論であり、それはマズイよ、と説いているように思われる。中論の教えは、あえて「戯論」と「戯論でない論」との分別を際立たせることで、どれを選ぶべきかと争っている人々に教えを説いているのかもしれない

そう思って竹村先生の記述を拝読すると、はっとする一節に出会う。

三論宗では、相手の邪見を破するところに正しさがあるとしそれ以外に自らの立場を立てて説くことはけっしてしない真理をポジティブに語ることはしないのである。それが三論宗の破邪即顕正というものであり[…]

竹村牧男『空海の究極へ『秘密曼荼羅十住心論』を読む』p.72

やはりそうだったのか、と納得したところである。
そういう意味では、あえて積極的には説かないものの、龍樹の教えもまたマンダラ、密教の教えと異なるものではない、とも言えるだろう。

じっさい龍樹菩薩は真言密教の八祖のひとりに数えられている。

第八住心 如実一道心(天台宗) 


第八住心は「一如本浄にして、境智倶に融ぜり」とさとる境地であり、「真如(如実)の平等無差別の世界(一道)を覚る心」である。

第七住心の「戯論」と「戯論でない論」との対立の際立ちをも緩めれば、そこに「平等無差別」、ありとあらゆる二元的な対立関係の両極が、本来異ならないものであるということが前面にうかびあがってくる。引き続き、竹村先生が第八住心について書かれているところを参照しよう。

凡夫にあっても仏にあっても変わらない(有垢真如・無垢真如)世界である。故に一道と言ってよいものである。その世界はもとより清浄であって(自性清浄)、 主観(智)/客観(境)の分裂・対立を超えている。[…]これは前の覚心不生心の世界を、よりポジティブにとらえたもので、絶対否定がそのまま絶対肯 定に転じたところと言えよう。その内実は、この両者において変わらないと私には思われる

竹村牧男『空海の究極へ『秘密曼荼羅十住心論』を読む』p.72

この平等無差別、分けて選んでこだわっているあり方とそうでないあり方の対立をも超えて、平等無差別である。

これを観じる方法が「止観」、つまり瞑想である。

この止観とは、静かであってよく照らし、照らしていて常に静かである。それはあたかも澄みきった水が事物を映し出すのに似ている。[…]そして知るべきである、認識の対象はさとりの智慧で、さとりの智慧は認識されるものにほかならないことを。よって、(この住心を空性にして)認識される世界がないということである。

 『空海コレクション4』 p.286

これもたいへんなさとりの境地であるが、ここにも微かに、下記のような分別が固まっているようにも思える。

差別相 / 平等無差別
||       ||
残念な感じ /   すばらしい 

空海は、『太上天皇灌頂文』で次の様に書いている。

如実一道の心は、心垢を払って清浄に入り、境智を泯じて而も如如を証すと云うと雖も、猶おし是れ一道清浄の楽にして、未だ金剛の宝蔵に入らず。是の故に亦た住すべからず。

『太上天皇灌頂文』

差別相と平等無差別を分け、そして平等無差別の「一道清浄」の方を選び、差別相(金剛の宝蔵)の方は選ばない。この点で「分けるでもなく、分けないでもない」が、どちらかといえば「分けるでもない」の方に寄っている

次の一節からも、「虚空」がすばらしく、前五識をはじめとする分別は本来的なものではない、という感じが伝わってくる。

心は眼界に住せず耳鼻舌身意界に住せず、見にあらず、顕現にあらず。何をもっての故に。虚空の相と心とは、もろもろの分別と無分別とを離れたり。所以何となれば、性、虚空に同なるは、すなわち心に同なり

『空海コレクション4』p.288

ただし、ここにある「分別と無分別とを離れたり」を本当に徹底すると、分別と無分別も異なるでもなく異ならないでもないことになり、離れることと離れないことも異なるでもなく異ならないでもないことになる。そうなると、「分かれるでもなく分かれないでもない」の「分かれないでもない」相を、マンダラの動きとして否定と肯定さえをも分けるでもなく分けないでもない境地で絶-対的に肯定するという、マンダラの思想とも、異なるでもなく異ならないでもない、という感じになる。

第九住心 極無自性心(華厳宗) 


さて、いよいよ第九住心である。「水は自性無し、風に遇うて即ち波だつ法界は極に非ず、警めを蒙って忽ちに進む」とある。「水は自性無し」というのは、水が非本質に対する本質であるということでもなく、水が偽に対する真ということでもない、というようなことである。

水と波を分けて、「水が本体(真)で、波は仮の影(偽)である」などと言う場合、

水/波
||  ||
真/偽

といった具合に分けて選ぶことになっているわけだが、そういうことに拘らないのが極無自性心である。極無自性、「法界」(この場合の喩えでいえば水)もまた「自性」を持たない。分かれていない姿(水)と分かれている姿(波)とを分けて、どちらが本物、本質、本体で、どちらが仮の姿か、といった分別を効かせようとはしない。

こうなると「分かれていない姿(水・法界)」も、分かれてある姿(諸々の波たち)も、どちらもホンモノということになる(ホンモノ/ニセモノを仮に分けてみるとして)。

ここで第九住心は、この分かれていないが分かれている様相を、華厳法界、事事無碍法界、「インドラの網」などと表現する。この現世のありとあらゆるたがいに分かれてあるように見えるものたちは帝釈天の宮殿を飾る無数の宝珠のネットワークにつながる一つ一つの宝珠であり、一がすべての他を、一一が他の全てを、たがいに映しあい、つながり合っている。…と観じる境地である。

一瞬間に過去・未来・現在を貫くあらゆる時間をおさめ、多くの無限に等しい時間(劫)に一瞬間のおもいをのべひろげる。(一と多とがたがいに融け入り、絶対にして平等 なる本体(理)相対にして差別なる現象(事)とが互いに通じあう。それは帝釈天の網 目にある多くの珠に互いに燈火がさかんに映じあうのに喩えられ[…]

『空海コレクション4』 pp.344-345

この第九住心について空海は「究極の世界も自性を持たず、現象世界に翻る心」であると説く。

これはつまり、

差別相 / 平等無差別
||       ||
仮  /   究極
||       ||
残念な感じ /   すばらしい 
||       ||
こちらは選びたくない / こちらを選びたい

といった具合の分別をしない、分けて選ぶことをしない、ということである。平等無差別の相と、あれこれに分かれた差別の相との関係も、あくまでも非同非異である。分かれていないのも良いし分かれているのも良い。いや、分かれていないのも良くも悪くもないし、分かれているのも良くも悪くもない

ここに「真如法界不守自性随縁」という言葉が出てくる(『空海コレクション4』p.346)。これは第九住心について知るうえで鍵となる言葉である。

ここを華厳宗では、真如不守自性、隨縁而作諸法という。究極の世界(真知)も自性を守ることなく、縁に随って諸法となる

竹村牧男『空海の究極へ『秘密曼荼羅十住心論』を読む』p.73

真如法界、つまり平等無差別な「ひとつ」の世界もまた、その「自性」、つまりひとつであるという本性(自性)、平等であって無差別であるという本性(自性)にこだわるものではない(不守自性)ということであり、それゆえに平等無差別な「ひとつ」の世界が、そのまま「縁」に「随」って、あれこれに分かれ、分離する動きと結合する動きを自在に伸縮させて、共鳴させる。

絶対無分節と分節も分かれるでもなく分かれないでもない。

さて、こうなると、もう第九住心で究極さとりの境地に辿り着いているようにも思えるが、まだこの先第十住心がある

第十住心と第九住心は、いったいどこがどうちがうのだろうか?
空海は『太上天皇灌頂文』で次のように記している。

極無自性心とは、法界を融じて而も三世間の身を証し、帝網に等しくして而も一大法身を得と云うと雖も、猶おし是れ成仏の因、初心の仏なり。五相成身、四種曼茶、未だ具足すること能わず。是の故に住すべからず。謂く、未得を得と為し、未到を到と謂えり。

空海『太上天皇灌頂文』

第九住心は「五相成身、四種曼茶、未だ具足すること能わず」であり、逆に第十住心は五相成身、四種曼茶を具足している、ということになる。

インドラの網はすべての宝珠すべてお互いにつながり合い、きらきらと映しあっていてそれは美しいが、じつはこの宝珠と宝珠の繋がり方、映り合い方には、いくつもの多様なモードがある。それ自体インドラの網のネットワークの一部分である「人間(行者としての「我」)」として仮に呼びうる網のもつれ具合、揺れ具合があり、また「人間(行者としての「我」)」以外のあれこれさまざまな網のもつれ具合、揺れ具合もあり、そうしたいくつもの多様な網のもつれ具合、揺れ具合間に、共鳴、共振のしやすさ、しにくさ、のい多様なモードがある。「五相成身、四種曼茶を具足する」とは、はまさに、このインドラの網の各部分ネットワークのもつれ方・揺れ方をチューニングして(その部分ネットワークのひとつがこの「我」である)、諸々の部分ネットワーク同士の間での共鳴(三昧耶)のモードを自在に切り替えることができるようになる、ということである

こういう言い方は適切かどうかわからないが、第九住心がいわばインドラの網をその中から静かに眺めている境地だとすれば、第十住心はインドラの網を盛んに揺らしては宝珠同士が響き合う美しい音声を立てようとする境地だと言ってみるのはどうだろうか。そしてこのインドラの網を盛んに揺らす方法が、第十住心、真言密教の三密加持なのである。

ちなみに、第十住心と第九住心がどうちがうか(どう同じか)ということについては、竹村先生が『空海と華厳思想』というご著書を書かれている。この本の「帯」にはまさに「第九住心と第十住心の差異はどれだけあるのか」とある。この本は2025年に出版された本の中でも必読の一冊である。

* *

第十住心 秘密荘厳心(真言宗)


こうしていよいよ、第十住心、冒頭に記した「マンダラ」と「心」が非同非異であるというさとりの境地に入っていく

第十住心は「自己の心に曼荼羅の荘厳があることが自覚される心 」である。

第十住心は、インドラの網を盛んに揺らしては宝珠同士が響き合う美しい音声を立てようとする境地であると上に書いたが、人間である行者の身と口と意(身体の能力と言語の能力とイメージを形成し動かす能力)が、この因達羅網との共振モードにチューニングされた姿が、第十住心のさとりの境地、「二重構造の曼荼羅世界、すなわち無量の諸仏・諸尊(曼荼羅)の無量の四種曼荼羅 = 三密が交響する世界」である(竹村牧男『空海の究極へ『秘密曼荼羅十住心論』を読む』p.74)。

秘密荘厳住心というは、すなわちこれ究竟じて自心の源底を覚知し、実の如く自身の数量を証悟するなり。いわゆる胎蔵海会の曼荼羅、金剛界会の曼荼羅、金剛頂十八会の曼茶羅、これなりかくの如きの曼荼羅に、各各に四種曼荼羅、四智印等あり。四種といっぱ、摩訶と三昧耶と達磨と鄰磨と、これなり。

『空海コレクション4』 p.444

マンダラを二重に、さらに多重に組み合わせたり、変換したりすることによって「分けて選ぶ」やり方を自在に組み替えることができる様になる。

選ぶとは、分けられた対立関係を二つ重ね合わせることである。


  選ばれる方 / 選ばれない方
  ||         ||
  X      /  非X

この分け方、選び方を、自在に動かすことができる可能性、自由度の高さを表現しているのが「二重のマンダラ」ということになろうか。

人間の身と口と意(身体の能力と言語の能力とイメージを形成し動かす能力)は、通常、分け方のモード、選び方のモードを一定の方向だけに固定されている。そのために、本来分離と結合が自在に伸縮しているということを理解できなくなり、結合しているものが分離へと転じたり、分離しているものが結合へと転じたりする自然なあり方を、過度に恐れ、不安に陥っているのである。これが迷いである。

ここでもし身体が行う分けて選ぶ動きを、分けるでもなく分けないでもないモードに励起して、そうして「分けないでもない」の多様なモードを自在に変形させることができるようになれば、また、言語が行う分けて選ぶ動きを、分けるでもなく分けないでもないモードに励起して、そうして「分けないでもない」の多様なモードを自在に変形させることができるようになれば、さらにさらに、イメージを形成し動かす能力が行う分けて選ぶ動きを、分けるでもなく分けないでもないモードに励起して、そうして「分けないでもない」の多様なモードを自在に変形させることができるようになれば、それこそ即身成仏、人間は現に今生きているこの身、この言語、この記憶とイメージの世界のままで、法界との完全に共鳴することができる。

**

マンダラを釈す『吽字義』


マンダラは、この「分けるでもなく分けないでもない」を、特に人間の身と口と意(身体の能力と言語の能力とイメージを形成し動かす能力)でもって自在に動かすことができるようにするための、特別な道具とでも呼べるものである。例えとして適当かどうかわからないが、人間をして法界と共鳴できるモードにチューニングするためのチューナーのようなものであるマンダラの設計仕様については、空海が『吽字義』で端的に説いてくださっている。

『吽字義』で空海は梵字の「」を表層の四つの意味と、深層の四つの意味、二重の四で、合わせて八つの字に分けていく。

ここでさっそく「吽とは何か?」という問いを発したくなるところであるが、さしあたって「吽」を何か別の語に置き換えて"分かった(分けて選び終わった)”などと思わない様にしておこう。 「吽」は梵字のアルファベットのようなものである。現代風に言えば、数学に出てくるxとかyとか、aとかbのようなものと考えておこう

さてこの吽字について、空海は『吽字義』の冒頭に「吽字を、相と義の二に分つ」と書く。相は表面的な意味で、義は深い意味のことであるが、重要なことは相と義の二が二即一にして一即二の関係にあるということである。

吽字は相と義の二に分かれるけれども、しかしあくまでも一つの吽字であることに変わりはない。

次に吽字は「相」と「義」それぞれにおいて、さらに四つずつに分かれる。吽字の字「相」は、賀 (か)、阿 (あ)、汙 (う)、麽 (ま) の4つの「字」に分かれる。吽字の字「義」も、訶 (か)、阿 (あ)、汙 (う)、麽 (ま) の4つの「字」に分かれる。

ここで、一なる吽字が二に分かれ、その二がそれぞれ四づつに分かれる。吽字一つが八つに分かれることになる。一即四にして四即一が二重になっている。仮に、数式風に表現してみると次の様になろうか(これ以外にもっとよい表現もありそうである)。

吽字の字相と字義のそれぞれを、四つの振動が共鳴して一つになっている状態と考えてみる。
Ψで字相を、Ψ'で字義を、表したことにする。
ここで共鳴体が一定の振動パターンに安定する条件を、上記のように置いてみる。
そうすると、吽字は上記のように記述できる。

二重の一即四にして四即一の共鳴状態ということを表現してみようかと思ったが、空海の趣旨を覆い隠すような感じにもなってしまった。『吽字義』の記述をしっかり読んでみよう。

字相

a1賀の字相

まず賀字の字相とは、因/果の「因」である。
因があるとなれば、その反対側に「果」が隠れているはずである。
賀字の字相は因/果の分別ができるということである。

賀字とは、吽字全体から見れば、中央の基体となっている字がそれに当たる。この基体の字となっている賀字は、因という意味を持っている。

松長有慶『訳註吽字義釈』p.30

ちなみに字相の方は漢字の「賀」を用い、字義の方は漢字の「訶」を用いるが、どちらも同じ梵字のことである。空海の典拠となっている漢訳経典によって、「賀」を用いているものと、「訶」を用いているものが混在していると言うことらしい。

a2阿の字相

阿の字相は「空」「無」である。
表層の分節において、空無とくれば、反対側に「有」が隠れている。
阿の字相は有/無の分別ができるということである。

阿字の形・音・意味の三方向から、阿字が一切の事物の根源であることを述べ、阿字を見ればあらゆる存在が空であり、無であると知ることを説く
[…]
二つに阿字の義と者、訶字の中に阿の声有り。即ち是れ一切字の母、一切声の体、 一切実相の源なり。凡そ最初に口を開く音に皆阿の声有り。若し阿の声を離んぬれば、 則ち一切の言説無し。故に衆声の母とす。若し阿字を見れば、則ち諸法の空無を知る。

松長有慶『訳註吽字義釈』pp.33-34

a3汗の字相

汗の字相は「損減」、あらゆる存在がいずれは滅していくという意味である。
表層の分節において、損減とくれば、その反対側に増益が隠れている。
汗の字相は損減/増益(生/滅)の分別ができるということである。

汗字はあらゆる存在が欠け、あるいは減少していく事態、または否定的な側面などの性質を持つことを述べる。

松長有慶『訳註吽字義釈』p.36

a4麽の字相

麽の字相は「」である。
表層の分節において、とくれば、その反対側に非我が隠れている。
麽の字相は我/非我の分別ができるということである。

麽字はサンスクリット語の ma 字のことで、それはātman というサンスクリット語 と関連し、我という意味に当たる。存在するものには、我という実体があると表面的には理解されている。

松長有慶『訳註吽字義釈』p.38

因/果
有/無
損減/増益(生/滅)
我/非我

およそこの四つの分別を分けることができていれば、私たちの経験的で感覚的な世界の「意味」は、「何があって何がない」とか「なにが原因でどうなった」などなどといったことは、その大半を意味分節できるはずである。

    因/果  ➖  有/無 
   |       |
損減/増益(生/滅)  ➖ 我/非我

私たち経験的で感覚的な世界の「意味」は、基本的には、因/果、有/無、損減/増益(生/滅)、我/非我といった分別、二項対立に基づいて、意味分節されているといってもよい。これは第一住心から第九住心までの、「なにが本当にあって、なにが本当にはない」といった形で教えを説く場合にも同じことである。

さて、そこで、第十住心、マンダラとしての心のさとりの境地といえば、分かれるでもなく分かれないでもないを徹底的にこの身この言葉このイメージ形成能力でもって引き受けるということであった。

そうなると、因/果、有/無、損減/増益(生/滅)、我/非我といった分別、二項対立も、分かれるでもなく分かれないでもない微妙な振動状態にモードチェンジされなければならない。

そしてこの、大事なことなので繰り返し書くが、因/果、有/無、損減/増益(生/滅)、我/非我を、分かれるでもなく分かれないでもない微妙な振動状態にモードチェンジした状態を表現するのが、吽の四つの「字義」なのである。

字義

訶・阿・汗・麽の四字それぞれの「字義」(密教の境地からみた深い意味)は「いずれも本源的に不生の境地すなわち本不生際を表す」という(松長有慶『訳註吽字義釈』p.42)。ここにある「本不生」というのが“分かれるでもなく分かれないでもない”ということである。あれこれの存在者がそれではない他の存在者と「分かれて」、他ではない姿を固めることが「生まれる」であるとすれば、“一見すると生まれているように見えるけれども、実は生まれていない”というのが「本不生」、生でもなく、生と分別され対立する限りでの非-生でもない、ということであり、それは分かれないでもないが分かれるでもない、と同じことになる。

a'1訶の字義

ここで訶(ha)字の「本来の意味」とは一切諸法因不可得、「あらゆる現実存在の原因 (hetu)を認識することが不可能である」ということである(松長有慶『訳註吽字義釈』p.43)。

初めに詞(ha)字の本来の意味とは、要するに訶字門はあらゆる現実存在の原因 (hetu)を認識することが不可能であることを表している。なぜ現実存在の原因が認識不可能であるかといえば、「現実に存在するものは、その原因をいくら探してみても、 次から次へと原因が存在して、その原因は絶えず変化し続けていて、もともと固定したものは存在しない。だから原因をどれほどたどっていっても、一番もとになる原因に行き着くことは出来ない。存在するすべてのものには、もとになる原因など本来は存在しない、つまり無住であるということを知るべきである。

松長有慶『訳註吽字義釈』p.43

先ほど、賀(訶(ha))字の表面的な意味、字相は「因/果」の分別ができるということであったが、それが字義の方では因不可得、原因ということはあるともないとも言えない、因ということを、非-因と分けて選び取ることはできない(不可得)になる。

これはつまり、因/果を分けるでもなくわけないでもない、ということである。

a'2阿の字義

さて、次に阿字の字義は、先ほど論じた「本不生」である。阿字門本不生。

次に阿字本来の意味について述べるが、『大日経疏」[…]によれば、阿字には三通りの意味がある。すなわち不生の意味と、の意味と、の意味とである。
[…]
不生という意味は、生とか滅という対立関係を超えた絶対的な真実の境地で[…]。

松長有慶『訳註吽字義釈』p.48

さきほど、阿の表面的な意味、字相は有/無の分別ができること、であった。それに対して阿の深い意味、字義は、有/無を分けるでもなく分けないでもない、ということになる。

a'3汗の字義

汗字の字義は、一切諸法損減不可得、「あらゆる存在が損じたり、減じたりすることの実体を認識することは不可能であるということ」である(松長有慶『訳註吽字義釈』p.62)。

さきほど、汗字の表面的な意味、字相は損減/増益(生/滅)の分別ができること、であった。それに対して汗字の深い意味、字義は、損減/増益(生/滅)を分けるでもなく分けないでもない、ということになる。

a'4麽の字義

麽字の字義は、一切諸法吾我不可得であり、「麼字のサンスクリット語に相当する個我(ātman)、および存在するものすべてが認識不可能であるということ」である(松長有慶『訳註吽字義釈』p.122)。不可得、分けて選ぶことができない、いや、分けることはできるが、どちらか一方だけを選び続けることはできない。

第四に麽(ma)字の本来の意味について述べる。いわゆる麽字の教えとは、すべて存在するものは、表面的にはそれぞれが個我といわれるような実体を持つかに見えるが、 本当のところそのような個我の実体を認識することは不可能である。このことが個我の 本来の意味である。

松長有慶『訳註吽字義釈』p.122

麽字の表面的な意味、字相は我/非我の分別ができること、であった。それに対して麽字の深い意味、字義は、我/非我を分けるでもなく分けないでもない、ということになる。

* *

以上から、

因/果を分けるでもなくわけないでもない
有/無を分けるでもなく分けないでもない
損減/増益(生/滅)を分けるでもなく分けないでもない
我/非我を分けるでもなく分けないでもない

という、四つの「不可得」が揃う。
およそ私たちの経験的で感覚的な世界の意味は(自己自身の意味も含めて)、因/果、有/無、損減/増益(生/滅)、我/非我といった分別、二項対立を組み合わせて意味分節される。

そうして「あれがある」、「これがない」、「あるべきなのになくなりそうだ」、「あるべきではないのにこちらに迫ってくる」といったことを分別しては、私たちは迷い、苦しむのである。

しかしそうした意味付け、意味分節を可能にしているありとあらゆる二項対立たちが、因/果、有/無、損減/増益(生/滅)、我/非我といった極めて基本的なものまで、ほんとうにありとあらゆる二項対立たちが、実は、ほんとうは「分かれるでもなく分かれないでもない」微妙な振動状態から、自在に現れては消え、現れては消えしている。この自在な振動、分かれたり分かれなかったりの伸縮に共鳴するように、現に生きているこの身体と、言語能力と、イメージ形成能力とを柔らかに伸縮させることができるならば、即身成仏に近づくということになるのではないか。

さて、そしてここに「マンダラ」が浮かび上がっている。

因/果
有/無
損減/増益(生/滅)
我/非我

この四つが組み合わさって、この四つの二項対立の両極の一方の極どうしが付かず離れずに結合するところで、下記の四角形のような、意味分節の基本単位となる四項関係が出来上がる。

    因 / 果  ➖  有 / 無 
   |       |
損減 / 増益(生/滅)  ➖ 我 / 非我

ただし、この四項関係は、特定の方向でがっちりと固まって組まれているのではない。この四項関係を織りなす因、果、有、無、損減、増益(生、滅)、我、非我といったものは、次の四つの不可得が動的にくっついたりはなれたりする伸縮運動を通じて、仮に定常的にその姿を浮かび上がらせてくるのである。

因/果を分けるでもなくわけないでもない
有/無を分けるでもなく分けないでもない
損減/増益(生/滅)を分けるでもなく分けないでもない
我/非我を分けるでもなく分けないでもない

この関係をマンダラ状の図に配置することもできる。

並び方は仮に置いてみたもので、どれをどこに置いても変わらない

このようにして、私たちは、自分の「心」の「源底」を「如実に知る」ということができるようになる。

私たちは自分の「心」が、日常的には分別に迷い、分けて選んで、選んだものが我から分離していったり、選ばなかったものが我に結合しようとしてきたりすることに苛まれて生きているわけであるが、実は分けて選んだり、分離したり結合したりすることができているのは、心の固着した様相を「表面」だと仮にすれば「深層」のほうに隠された「分けるでもなく分けないでもない」伸縮自在の動きに依ってのことである。

この「分けるでもなく分けないでもない」動きと共鳴できる様に、この現に生きている身体を、言語能力・言語的な意識を、そしてあれこれ想像したり夢をみたり神話を語ったりすることもできるイメージ形成能力をチューニングすることができれば、それが即身成仏、第十住心の境地ということになるのであろうか。

+ +

ところで、これを書いている私は、真言密教の僧侶でもなく、真言宗の正式な課程を学んだことがある者でもなく、在家の行者でもなく、そもそも仏教徒かどうかもよくわからないような第一住心の極で吹かれて飛んでいる愚童凡夫である。

私はもともと理工系、電子情報学などを専門とする者であった。それが機械(コンピュータ・電子回路)による情報処理と、人間系とのインターフェースを考えようといったことを課題にするうちに、いつのまにか人間系の情報処理とは一体どの様にモデル化できるものだろうか?ということを考え始めたものである。

そして人間系の情報処理のモデルの深みを求めて、たとえばレヴィ=ストロース氏が論じる「野生の思考」の神話論理であるとか、あるいはC.G.ユングの分析心理学による「マンダラ夢」の分析などを参照してきた。

その途上で、なにか縁があって弘法大師の書かれたものを、「人間系の情報処理のモデルとしてよめるのではないか」、というどちらかといえば第一住心的なニーズでもって読み始めたものである。

* *

そういうわけなので、真言密教について詳しく知りたい方や、特に正式な課程で仏教、密教を学ぼうという方におかれましては、本記事の内容に加えて、専門家の書かれた文献を、特に経典や論そのものを、じっくりと精読していただける様お願い申し上げます。


動的マンダラ伸縮モデル

字相の四字と、字義の四字が重なり合う。
字相の四字が非同非異に分離しつつ結合し結合しつつ分離する関係を、字義の四字が媒介する。この全体が一つの「吽」字である

この二重の四項関係、あわせて八項の関係は、見方を変えれば、

因/果
有/無
損減/増益(生/滅)
我/非我

といった二項対立とその組み合わせパターンを生成し変化させるアルゴリズムとしてみることもできる。

私たちが通常日常、現実に経験できる他者たちとの間で意味のある発話をする時、知らず知らずのうちに次の様な四項関係を立てている。
たとえば「暑いのは嫌だ」などという場合を考えてみよう。

Δ1 暑い / Δ4 暑くない
||       ||
Δ2 わるい / Δ3 わるくない

私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界とは、すべて、このような二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている

人類は、というか、あらゆる生命体は、物心ついた瞬間に「経験的区別」を実行する機械のような仕組みとしてできている

Δ自 / 他Δ
Δ生 / 死Δ
Δ好き / 嫌いΔ
Δ内 / 外Δ
Δ因 / 果Δ
Δある / ないΔ
Δうまい / まずいΔ
Δ高い / 安いΔ
Δ遠い / 近いΔ

それぞれの生物は、それぞれ固有の感覚・神経の仕組みを使って、それぞれに固有の経験的に意味のある世界を分別して生きている。ユクスキュル『生物から見た世界』に記されている「環世界」の話である。

人間に比べてよりシンプルな神経系で生きている生物の場合、感覚的な区別に応じて、身体の可能な動きの候補のなかから選択が行われる。

分け方は変えにくいが、分け方の「重ね方」は自在に変えられる(人間の言語)

人類が他の生物と異なる固有の特徴である「言語」というものは、この対立関係を重ね合わせる処理の自在さから生まれている。
人間の言葉は、同じ一つの「意味されるもの」を、実に多様な「意味すること」に次々と置き換えながら表現することができる。

「意味すること」 = 「意味されるもの」

記号 = 意味内容

この関係を自在に組み替えることができる。

記号になりうるものと意味内容になりうるものを、次々と結合したり分離したりすることができる。この分離と結合を無量にくり返していくうちに、いつしか「意味のタペストリー」と呼べるようなことが姿を表してくる。
下記のように配列される意味の最小単位があるとする。

私たちが言葉を紡ぐ時、Δ1、Δx、Δ-1、Δ-x 四項のうちのひとつ、たとえば Δ1だけを意識の表層へと引っ張り出す
そして他の四項関係から同様に引っ張り出されてきた四極のうちの一極を占めるΔ2→nたちを、順番に一列に並べていく。 

Δ1ーΔ2ーΔ3ーΔ4ー…

このリニアな列が、私たちが普段喋ったり、聞いたり、読んだり、書いたりしている言語の姿である。GPTのような生成AIの「T(Transformer)」がシミュレートしているのもこのリニアな列のあり得そうな並び方である。

ここでΔ1、Δ2、Δ3、Δ4はそれぞれその対立関係を組む「相手」を持っている

さらにΔ1、Δ2、Δ3、Δ4はそれぞれ潜在的に「異なるが、同じこと」として言い換え可能な、多数の語と繋がっている(Δ1,1→n Δ2 ,1→n Δ3 ,1→n Δ4 ,1→n )。下記の「=(||)」がこの言い換え可能であることを示す

そしてまた、この「多数の語」(Δ1,1→n Δ2 ,1→n Δ3 ,1→n Δ4 ,1→n)たちも、それぞれに「/」でわかれつつつながる対立関係を組む相手を持っている。「/」はΔ1,1とΔ ¬11、つまり「Δ1,1」と「Δ1,1ではない」ことを分つつつなぐ動きを表している。

* *

人間の言語の場合、この図に示す「/(逆のものとわかれながらつながる)」と「=(異なるが同じものとしての言い換え)」を、そしてもちろん「ー(いわゆる統辞)」を、特定の二つのΔの間だけに成り立つこととして限定することもできれば自在に任意のΔとΔの関係を生み出すこととして緩めることもできる(ただし身体感覚や生命機能が行う「/」は、自在に変更することはできない。例えば96度の熱湯に伸び込んで「冷たい」と発話することはできるが、実際に体は大火傷を負ってしまう。ここで役にたつのが瞑想、イマジネーションの力である。イマジネーションによって前五識、身体感覚的、タンパク質のレイヤーにおける「/」とは異なる「/」を経験することができるというのが人間のおもしろいところである)。

つまり、人間の言語における潜在的な可能性としては、ありとあらゆるΔ同士が「/」で繋がりつつ分かれる可能性もあれば、「=」で分かれつつつながる可能性もあるし、「ー」で分かれつつつながる可能性もある。

例えば、詩的言語、比喩表現というのは、感覚的経験的には対立し、分離し、混じり合わないような二項を、あえて結びつけ、短絡するところに生まれる。

固着した分別に汲々とするのではなく(つまり、はっきり分けて、きっちり選べないと、疲労してしまう硬い分別心ではなく)、分別するもよし分別しないのもまたよし、分別と無分別のあわいをくるくるとひっくり返すことができるのが私たちの「心」の本来の可塑性なのであろう。

Δ ¬11 ーΔ ¬ 21ーΔ ¬ 31ーΔ ¬ 41ー…
/     /     /      /
Δ11   ー Δ21  ー Δ31 ー Δ41 ー…
||       ||      ||     ||
Δ1   ー Δ2  ー Δ3  ー Δ4 ー…
/     /      /      /
Δ ¬1  ーΔ ¬ 2 ーΔ ¬ 3 ーΔ ¬ 4ー…

この図式では便宜上「||("="の向きを変えただけで同じことを意味している)」をそれぞれのΔの組み合わせについて、一つづつしか記載していないが、実はそれぞれのΔから、潜在的に無数の「||」が生えて、インドラの網のようになっていることに注意しておこう。

私たちの深く広い「心」は「/」と「=」と「ー」を次々と切り替えることができる

ここで「Δ1ーΔ2ーΔ3ーΔ4ー…」、たとえば「きょうは、あめが、ふっている」、という具合の「ー」すなわち形態素を順番に線形に繋いでいく処理は、ある程度意識的無意識的ではないプロセスである。私たちは意識的に言葉の繋ぎ方を工夫することができる。

一方「きょう」と「非-きょう」を分節する「/」や、「きょう」と「きょうが一体どういう日であるか」の言い換え先になりそうな、他のあらゆる語をつなぐ「=」は、しばしば無意識的なプロセスになりがちである。

これが人間の知性(サピエンス)、人間における情報処理の要である。そしておそらくほんとうに「知能」を人工しようとおもうならば、この「/」と「=」と「ー」織りなされる構造体を生成するアルゴリズムをコンピュータに実装する必要がある。所与の学習用データからΔとΔのありうる共起の確率を計算して意味空間ベクトルを生成することで、「/」と「=」と「ー」を動かした結果として生じたタペストリー、織物の映し絵のようなものをつくることはGPTですでにできる。現に見事にできている。そしてその次に「/」と「=」と「ー」の動かし方、つまり織物のパターンを新たに編み出していくアルゴリズムが明らかになるならば、より人間の「知能」ということの生きた姿に迫ることができるであろう。

* *

そしてマンダラは、なんとこの「/」と「=」の動かし方のアルゴリズムをモデル化したものとして扱うことができる。

人間が「ー」と「=」をできるためには、その前段として、「分別」と「無分別」を分別しながらも分別しない絶対無分節を励起しておくこと、つまり、分かれていないところを分けることと、分かれているところを繋ぐこと、この二つの逆方向の操作を区別(分別)できなければならない。

分かれていないところを分けること

分かれているところを繋ぐこと

これを、一と二(多)とを区別できること同一性と差異性を区別できること、と言い換えてもいい。

分かれていないところを分けるうごきが動いている渦中や、分かれているところを繋ぐ動きが動いている渦中では、「分かれているでもなく、分かれていないでもない」という事態が次々と多様な様態をとりながら変容していく。

ここに、マンダラが出てくる。

人類が経験的感覚的に生きている意味ある世界は、二項対立関係を二つ組み合わせた四項関係を最小構成単位として織りなされている(意味分節されている)ものである

Δ / Δ
||   ||
Δ / Δ

人類の「野生の思考」、神話や夢や、マンダラ状のイメージを浮かび上がらせる精神の意識下の運動「/」と「||」の動きをふるわせ、Δ二項対立とその重ね合わせを可能にする。このΔ1〜Δ4を区別できないところからはっきりと区別できる状態にまで切り開き分けつつも、バラバラに飛び散ってしまわないように結びあわせ、しかし過度にくっつきすぎて区別できなくなることはないように均衡させておくということが、私たち人類にとって意味ある世界が意味ある世界であるために必要な意味分節の最小構成単位(二重の二項関係=四項関係)をつくる動きである。

* *

対立関係そのものが分かれ出てくる動き


人類の思考が、そもそもあらゆる二項対立が二項対立として分かれつつ結ばれているということ自体がどこからきたのか対立二項の分離と結合や、規則的な交代が、いったいどのようにして動いているのか、と問うようになったとき、世界の起源神話を語る「野生の思考」対立関係がまだ分かれていないところから分かれ出てくるプロセスを言語的、イメージ的に描き出すことで、応えようとする

このプロセスが一体「どのように」動いていくのかをモデル化するひとつの試論として、マンダラ状の意味分節システムを生成消滅する脈動(伸縮)ということを考えてみることができる。

動的マンダラ伸縮

この無意識的な「/」と「||」の動き、意識的な言語の「ー」がつなぐ連鎖を用いて仮にシミュレートするために、神話として現れる「野生の思考」は、Δ1〜Δ4を分けつつつなぐように動く、四つの媒介者たちを登場させる。

先ほどの図で言えば、四つのΔたちの間に挟まって描かれている、四つのβ。この四つのβがΔたちを分けつつつなぐ媒介項である。


/ 
||    ||



←β→
↓    ↓
β    β
↑    ↑
←β→ 

「/」と「||」は同じ動きの二つの異なる様相である
(真逆に対立する熟語のペア)。
すなわち「/」は伸縮の「伸」の方に対応し、
「||」は伸縮の「縮」の方に対応する。

「=」によって、私たちは「異なるが、同じ」の関係をΔ二項間に自在に作り出し、新たな意味を創造していくことができる。しかし「=(異なるが、同じ)」だけであると、「同じ」が増殖してゆくばかりで、最終的に全てのΔをそこに言い換えることができる根源的なΔ項のようなものが固まってくる。

それはそれで結構なことであるが、いずれにしても固まってしまうというのはマンダラの伸縮を生き生きと振動させ続けるという点では気をつけたいところである(もちろん、固まるのもまたマンダラの周縁部のあり方であり、それじたい否定されるものではないが、そればかり、それだけを肯定してはならないのである)」

「=(異なるが、同じ)」が動くところには、いつでも「/(同じだが、異なる)」をセットにしておくとマンダラを描くことができるようになる。

=と/をセットにして、「異なるが同じ、同じだが異なる」、非同非異ということを動かし続けるのである。同じでもなく、異なるでもなく

この同じでもなく、異なるでもなくを神話において体現するのが両義的媒介項たちである。

両義的媒介項同士がくっついたりはなれたり

両義的媒介項(仮にβと表記しておく)は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている

いうまでもなく、そのようなものたちは、私たちの経験的感覚的には「存在しない」。この経験的感覚的には「存在しない」ことをあえて言語化することが野生の思考にとっては重要なのである。

神話は、そもそも何かが「存在する / 存在しない」を分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。つまり何かが存在するとか存在しないとか、そういう分別ができるようになる「手前」のことを思考しているのである。

そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらか一方であると選びようがない「不可得」状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(下の図ではΔに対するβ)という。

義的媒介項たちの距離の伸縮を表現する述語

四つの両義的媒介項βたちのうち二つが、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。

  • 任意のβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり縮んだり

  • 任意のβ二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり縮んだり

  • 2または3、または4つの任意のβ項が中央の一点に集まったり広がったり

という具合に、β項間の距離を伸縮させる振動(振幅を描く動き)が起こりる。

この振動のある種の共鳴状態として、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力がバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、正方形を描くように均衡した四つのβ項のあいだに、そのβ正方形の「辺」の部分をなす四つの領域が、安定的、反復的に広げられ続けるようになる。

ここに四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。そこにΔ項が収まる。

ここに私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される

* *


伸縮する述語の思考で、
分離したいところと結合し、
結合したいところと分離してしまう苦しみから離れる

私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その名、その主語的なあり方(Δ、「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれらの主語的なものたちは、あくまでも伸縮を自在にする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である

主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている

私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている

分別心の表層意識に浮かぶ所与の諸要素たちをかっちりとした構造体として配置したように感じられる意味分節システムは、実は脈動する波の伸び縮み(周期的に反復される振動の周期T[s]が伸び縮みすること)を瞼を細めて薄目で眺めたようなものである。

このようにマンダラを用いて私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験すること可能にしている分別(ふんべつ)、あるいは意味分節のパターンが、あれこれさまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することが可能になる。分別、意味分節のやり方を相当程度自覚的に自在に組み立てることをも可能にするのである。

そして、神話の語りや、夢のヴィジョンには、経験的感覚的な二項対立のどちらでもあってどちらでもないような、対立二極を分けるでもなく分けないでもないあり方をするβ項たちが、あちらに行ったりこちらに戻ったり、分離したり結合したりと、二極のあいだの距離を伸縮させるような動き方、述語的様相を呈して登場する。その様相もまた、「マンダラ」として記述してみることで、私たちは自分の「心」がその深層で、いったいどう動いているのか、いったい何をやろうとしているのか、ありありと如実に知ることができるようになる。



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