伸縮するマンダラの残像として主語的なものはあらわれる -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(93_『神話論理3 食卓作法の起源』-44)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第93回目です。『神話論理3 食卓作法の起源』の第六部「均衡」を読みます。
これまでの記事は下記からまとめて読むことができます。
これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。
音声解説もご利用ください。
はじめに
この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」を、空海が『吽字義』に記しているような二重の四項関係(八項関係)のマンダラ状のものとして、いや、マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たちが共鳴する”コト”と見立てて読んでみる。
経験的な区別が概念の道具となる
レヴィ=ストロース氏は大部の神話論理の冒頭に次のように書いている。
「生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」
経験的感覚的な区別(分別)を、概念の道具として観念を抽出する(つまり分別同士を重ね合わせて意味を分節する)。この観念を繋ぎ合わせる(意味するものと意味されることとの一対一の静的ペアをリニアに連鎖させる)。そうすることで人は「AはΒで、ΒはCで・・・」式に、いわゆる思考をするわけであるが、このようなことが「どのようにしておこなわれるか」。
この「どのように」をモデル化するひとつの試論としてマンダラ状の意味分節システムを生成消滅する脈動(伸縮)ということを考えてみると、概ね以下のような具合になる。

神話論理のアルゴリズム(動き方、伸縮の仕方)
即ち、神話は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜Δ4を分けつつ、過度に分離しすぎない程度に付かず離れずに結んで安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指す。

Δ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別である。例えば、
Δ1 暑い / Δ2 暑くない
|| ||
Δ4 わるい / Δ3 わるくない
といったことである。私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界とは、ほぼすべて、このような二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている。今、上の図式では、仮に「Δ1 暑い」と「Δ4 わるい」をイコールで結びつけたが(つまり「暑いのはわるい」という意味である)、このΔ4わるいとΔ3わるくないの向きは逆にひっくり返しても良い。
*
私たち人類は、というかあらゆる生命体は、物心ついた瞬間に「経験的区別」を実行するための機械のようなものになっている。
自/他
生/死
好き/嫌い
内/外
ある/ない
うまい/まずい
高い/安い
遠い/近い
これは要するに、私たち意識的な自覚の有無に関わらず、身体感覚的なところですでに二項対立を自動的に検出していくような心(心身の二元論の一方の心ではなく、心身の分別を超えた心)になっている、ということである。
その上で、私たちの自覚的な意識、仏教でいうところの分別心は、二項対立関係を重ねたり繋いだりして、自分とその周囲の世界との意味を感じ、思考し、言語化しながら生きる。
言葉が意味する
人類の「心」は特に、この二項対立たちを重ね合わせ、交差させ、編み上げていく自由度の高さ、柔軟さが際立つ。機械的に分別を行う一方で、その分別されたものたちの重ね方を自在に動かすことができる。ここで、直接の感覚的な区別の印象の連鎖を超えて、対立関係の対立関係として組み立てられた「意味」を創造することができるようになる。
言語が何かを意味するということもここからきている。
うまい / まずい
|| ||
好き / 嫌い
ところが、私たちの日々の言語は、このような対立関係の対立関係、四項関係からなる意味分節の最小単位を、しばしば自明なもの、すでに端的にあるものとして扱いがちである。そこでは言語は分別された感覚的印象の二極それぞれに貼り付けられる分類済みのラベルようなものに固まって、動きにくくなっている。そこで言語は感覚的に決まりきった、止まっているように觀じられる「ある/ない」「自/他」「内/外」を反復する。
こうなると言語が意味するということをそもそも可能にしている「心」の二項対立の重ね方を自在に動かすことができる力は、心の深層に沈み込んだままになる。そして意識的自覚的な言葉と意味は固い鎖のようなものになる。意味は意味するという「こと」ではなく、意味という「もの」になる。
二項対立の起源を言語で思考する
ところが人間というのはおもしろいもので、ふと、あれこれの二項対立がなぜどうしてそのように分かれているのか、と疑問を抱くことがある。
「人間と、人間以外の動物は、なぜ違うのか?」
「天と地が分かれているのはなぜか?」
「善と悪があるのはなぜか?」
「生と死が分かれているのはなぜか?(なぜ人は死ぬのか)」
こうした疑問に対して、表層の意識は「人間とは服を着るものであり、人間以外の動物は服を着ないものである(人間はΔzであり、非-人間は非-Δzである)式に、二項対立関係を重ねていって「分かった」と思えるようにしようとする。
人間 / 人間以外の動物
|| ||
Δz1 / 非-Δz1
|| ||
Δz2 / 非-Δz2
|| ||
Δz3 / 非-Δz3
|| ||
Δz4 / 非-Δz4
|| ||
Δz5 / 非-Δz5
|| ||
・・・
|| ||
Δz1→∞ / 非-Δz→∞
こういう具合に二項対立を置き換え続けて、どこかで「もうこれ以上は置き換えられないよ」という終端装置的二項対立に出会い、そこで納得するという手もある。
しかし、その終端装置もまた仮のものであって、この仮の終端を取っ払ってしまえば、いつでもまた二項対立の連鎖生成が再開するのだと知ってしまった時、最終的な何かを求めるタイプの表層意識はひどく落胆することになる。
* *
そういうときに助けに来るのが深層に沈んだ、二項対立の重ね方を自在に組み替えることができる、躍動感のある振動、伸縮運動である。それは夢や神話の語りとして、意識の表層に振動の波紋を投げかけ、そしてその振動で表層意識の固着した意味をほぐし、意味分節システムを変容可能なモードに励起する。
対立関係そのものが分かれ出てくる動き
神話を語る「野生の思考」は、例えば人間と人間ではない動物の二項対立の始まりについて思考しようという時、上述のような対立連鎖型の思考とは異なる様式を採用する。対立二項の分離と結合や、規則的な交代が、いったいどうして存在するのか、という疑問で頭がいっぱいになった時、野生の思考は対立関係がまだ分かれていないところから分かれ出てくる動きに注目し、その動きを言語的、イメージ的に理解しようとする。
この動きが一体「どのように」なっているのかをモデル化するひとつの試論として、マンダラ状の意味分節システムを生成消滅する脈動(伸縮)ということを考えてみることができる。
*
人類が経験的感覚的に生きている意味ある世界は、二項対立関係を二つ組み合わせた四項関係を最小構成単位として織りなされている(意味分節されている)ものである。
Δ / Δ
|| ||
Δ / Δ
例えば、
人間 / 動物
|| ||
服を着る / 服を着ない
「野生の思考」はここで「/」と「||」の動きに注目して、Δ二項対立とその重ね合わせのはじまり(起源)を思考する。
このΔ1〜Δ4を区別できないところからはっきりと区別できる状態にまで切り開き分けつつも、バラバラに飛び散ってしまわないように結びあわせ、しかし過度にくっつきすぎて区別できなくなることはないように均衡させておくということが、私たち人類にとって意味ある世界が意味ある世界であるために必要な、意味分節の最小構成単位(二重の二項関係=四項関係)をつくる動きである。

この「/」と「||」の動きを説くために、神話として現れる「野生の思考」は、Δ1〜Δ4を分けつつつなぐ、四つの媒介者たちを登場させる。
先ほどの図で言えば、四つのΔたちの間に挟まって描かれている、四つのβ。この四つのβがΔたちを分けつつつなぐ媒介項である。
/
|| ||
/
↓
β
β β
β
「/」と「||」は同じ動きの二つの異なる様相である
すなわち「/」は伸縮の「伸」の方に対応し、
「||」は伸縮の「縮」の方に対応する
両義的媒介項
両義的媒介項(仮にβと表記しておく)は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている。
いうまでもなく、そのようなものたちは、私たちの経験的感覚的には「存在しない」。この経験的感覚的には「存在しない」ことをあえて言語化することが野生の思考にとっては重要なのである。
神話は、そもそも何かが「存在する / 存在しない」を分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。つまり何かが存在するとか存在しないとか、そういう分別ができるようになる「手前」のことを思考しているのである。
そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。
両義的媒介項たちは遠ざかったり近づいたりする
お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つのβ項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。
任意のβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり縮んだり
任意のβ二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり縮んだり
2または3、または4つの任意のβ項が中央の一点に集まったり広がったり
という具合に、β項間の距離を伸縮させる振動(振幅を描く動き)が起こりる。

この振動のある種の共鳴状態として、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力がバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、正方形を描くように均衡した四つのβ項のあいだに、そのβ正方形の「辺」の部分をなす四つの領域が、安定的、反復的に広げられ続けるようになる。

ここに四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。そこにΔ項が収まる。
そうして私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される。
私たち一人一人にとっての意味ある世界は
対立関係の組み合わせとして
分節されたものである
私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その名、その主語的なあり方(Δ、「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれらの主語的なものたちは、あくまでも伸縮を自在にする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿を浮かび上がらせる痕跡である。主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている。
私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。分別心の表層意識に浮かぶ所与の諸要素たちをかっちりとした構造体として配置したように感じられる意味分節システムは、実は脈動する波の伸び縮み(周期的に反復される振動の周期T[s]が伸び縮みすること)を瞼を細めて薄目で眺めたようなものである。
*
神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験することを可能にしている分別(ふんべつ)、あるいは意味分節のパターンが、あれこれさまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にするし、またそうした分別、意味分節のやり方を相当程度自覚的に自在に組み立てることをも可能にするのである。
仏教では、私たち人間は、諸々の区別、分別をしながら、この二極のどちらか一方だけを選び結合し、他方を捨てて遠ざけたい、と願いながらも、その願いは決して叶わないということで苦しむのだという。
私たちの自覚的な意識、仏教でいうところの分別心は、「分離と結合の動きが止まる」ところで生じた。しかし、この「分離と結合の動きが止まる」というのは、止まっているようにみえているだけで、じつは「分離と結合の弱い様相転換の反復」(輪廻とか縁起とか)さらには「分離と結合の強い様相転換の反復」(法界の音声)が動いているんだよね、というのである。ただこの動いている様子は経験的感覚的な分別心(識ということになるのだろうか)では捉えようがないので、止観したり、三密加持したり、いろいろな方法で感覚のモードを超感覚的に組み換えることで自在に觀じてみようよ、という話になる。

分別された二項対立を眺めつつ、「どうもおかしい、はっきり分けられない、分からないぞ」という焦る様な思いに駆られた時に、人類はその表層の言語的思考を心の深層の伸縮するマンダラに共鳴させることによって、「分離と結合の動きが止まる」を「分離と結合の強い様相転換の反復」に転換し、これをさらに「分離と結合の弱い様相転換の反復」に転換することもできる。

そしてまた「分離と結合の弱い様相転換の反復」の様相から「分離と結合の強い様相転換の反復」の様相へ、そして「分離と結合の動きが止まる」現世のあり方を、つど新たな様相で、意味的に分節しなおすことができるのである。 こういうことを古来より人類は、神話を語り聴くことを通じて連綿とやってきているのである。
主語的なものたちを手がかりに、伸縮する動きを観想する
伸縮する述語たちが、経験的感覚的に身近なものたちのなかから、その主語として適当なものを任意に選んでいく様をみてみよう。前回の記事で取り上げた「赤い頭」の神話の異文ともとれる神話について、レヴィ=ストロース氏は次のように書いている。
「[…]ここでは頭皮と経血だけをとりあげているが、これは四つの項を持つより複雑な集合に属するものであることを言っておかなければならない。じっさい、この神話群はもうふたつの項を介入させている。ひとつは妻の頭のふけで、これは小さな頭皮とも言えるが、もうひとつは貪欲で邪悪な妻が食べたがる獲物の肝臓である。 アメリカ大陸には経血が肝臓に由来するとの考えがあることはすでに述べた。」
この引用にある、「妻の頭のふけ」「獲物の肝臓」「頭皮」「経血」という名詞、主語に注目しよう。
「妻の頭のふけ」「獲物の肝臓」「頭皮」「経血」・・・
これらを、ひとつひとつ、それ自体として眺めていても「これはなに?」という感じしかしない。
しかし、これらの項たちがペアになっているということ、そして真逆に対立する動きをそれぞれ触発しているということがわかると、途端に神話の論理の生き生きとした動きが見えるようになる。
まず、「(敵から奪った)頭皮」と「妻の頭のふけ」は対立関係にある。
そして「経血」と「獲物の肝臓」も対立関係にある。
「(敵から奪った)頭皮」 / 「妻の頭から落ちたふけ」
「経血」/「獲物の肝臓」
そして主語的なものたちの対立に透かして、述語的な動きを浮かび上がらせてみよう。そこに見えてくるのは分離から結合に向かう動きと結合から分離に向かう動きの対立なのである。
分離から結合に向かう動き
結合から分離に向かう動き
この二つの対立する動きを言語化するときに、その動きについて語る述語のペアに適合する、経験的で感覚的なものとして「妻の頭のふけ」「獲物の肝臓」「頭皮」「経血」という一見謎の経験的所与のものたちが連れてこられているのである。
「妻の頭のふけ」 / 「敵の頭皮」
|| ||
結合を分離に転じる / 分離を結合に転じる
どういうことだろうか。
「頭皮の保有は戦争での勝利を保証する。女のふけを食べることは狩りでの失敗を引きおこす。M493a,bによれば、妻が肝臓を食べないことが夫の狩りの成功の条件である(Hoffman, p. 182-185; Skinner-Satterlee, 399-400)。さらに、経血は戦争での失敗を引きおこす。[…]頭皮、ふけ、肝臓、経血にそれぞれ、x、-x、1/x、-1/xの値を 与えることにより一種のクライン群を得ることができる」
主語的なものたちが、分離したり結合したりする動き、述語的な様相を考えてみよう。
β頭皮
まず「頭皮」である。頭皮は、一連の神話では、主人公がはるか遠方に遠征して、頑強な敵の大将の頭から剥がして奪いとり、故郷に持ち帰るものである。
ここにはまず、敵/味方の間の距離の分離から結合への収縮する動きがある。敵/味方。もともと過度に分離していた二極の間の距離を縮めて、最短距離にまで結合する。この結合状態から転じて、敵の身体の上/下の上端に不可分に(過度に)結合していた頭皮が分離される。さらにこの頭皮は主人公の世界に持ち帰られて、主人公の身に結合する装飾品になる。
主語「頭皮」は、
1)分離を結合に転じる(長旅で距離を縮める)
2)結合を分離に転じる(分かち難いところを剥がす)
3)分離を結合に転じる(装飾品にして身につける)
という、くっつけて、はずして、くっつけて、伸縮する動きを描いている。
この頭皮が描く述語的様相は、遠く分離していた二者の間を結合し、二者のうちの一方に結合していたものを分離して、他方に結合し直す、というものである。これは戦闘に勝利することと述語的には相同である。すなわち、主人公たちと敵は戦場でぶつかり合い(結合)、敵から何かを奪い引き離して(分離)、勝者たる主人公たちの村へ戦利品として運び込む。この動きと、頭皮の神話における結合、分離、結合の動きは、述語的には同じなのである。
β妻のふけ
ところで、神話では、あらゆる項は対立項とペアになって現れる。相手を持たない単立する項というものは、意味分節の世界には存在しないのである。
いま、「頭皮」の「遠く隔てられた二者のあいだで、もともと結合しているところを苦労して分離して、価値あるものとして他方に結合する」という動きが登場したので、これと対立する非-頭皮は、これとは逆の動きをものになるはずである。
ここで神話の論理が持ってくるのが「妻のふけを(夫である狩人が)食べる」ことである。
「ふけ」は「頭皮」である。頭皮とふけは、異なるが同じものである。
「妻のふけ」は、主人公と同じ家族の、かなり近い距離に存在する者の「頭皮」である。「妻のふけ」は長く辛い旅の果てにあい見える「敵(頭皮の主)」に比べれば、極端に身近なものである。つまりもともと極めて近く結合した=距離が縮んだ状態にある。
敵の頭皮 / 妻のふけ
|| ||
もともと主人公から遠く分離 / もともと主人公と近く結合
さらに「ふけ」は、何の努力も苦労もなく(戦闘などしなくても、わざわざ剥がさなくても)勝手に頭から落ちていく。
そうして価値ある装飾品に加工されることもなく、知らぬ間に、風にふかれてどこかへいってしまう=分離していく。
このように「妻のふけ」は、敵の頭皮と異なるが同じ・同じだが異なるものでありながら、「近い距離にある二者のあいだで、なんの苦労もなく簡単に分離して、価値のないものとして分離していく」という動きをしている。
分離を結合に転じるは/結合を分離に転じる
敵の頭皮を装飾品にして身につけることが、分離を結合に転じ、すぐにその結合を分離に転じる動きであるとすれば、「妻のふけを食べること」はその逆、つまり結合を分離に転じ、すぐにその分離を結合に転じる動きである。
狩の場合「結合を分離に転じ、すぐにその分離を結合に転じる動き」は、狩を失敗に終わらせるというか、不成立にする。結合を分離に転じる動きは獲物が狩猟者のもとから逃げてしまうということであるし、その逃げたはずの動物が今度は結合に転じて、つまり狩猟者を襲って、逆に食べてしまう、といったことになる。これはまずい。
「(敵から奪った)頭皮」を身につける / 「妻の頭のふけ」を食べる
|| ||
もともと主人公から遠く分離 / もともと主人公と近く結合
|| ||
容易に分離しない / 容易に分離する
|| ||
戦争を勝利に導く / 狩を失敗に導く
「頭皮」と「妻のふけ」と「戦いに勝利すること」「狩に失敗すること」。この四項関係を、主語に注目してみていても、どうして敵の頭皮と妻のふけが対立するのか、どうして妻の頭皮が狩を失敗に導くのか、皆目見当がつかない。「ふけ」それ自体に狩猟の成功率を下げる因子が入っていると考えるのは困難だ。

しかし、この項たちが担っている動き、すなわち、近く結合しているところを分離へと転じる動きと、遠く分離しているところを結合へと転じる動き、この二つの動きの対立を念頭においておくと、なるほど「(敵から奪った)頭皮」 と 「妻の頭のふけ」は対立しているし、「(敵から奪った)頭皮」を装飾品にして身につけることは困難な「戦いを勝利に導く」結合と分離の転換力を発揮するし、身内の頭皮を食べてしまうことはその逆に結合と分離の転換力の発揮を不成功に終わらせるのだ、と理解できる。
妻が、獲物の肝臓を食べなければ
夫は戦争に勝利できる
同様に、主語「(妻が食べたがる)獲物の肝臓」と主語「(妻の)経血」も、それぞれ述語的様相に言い換えてみよう。
「経血」/「主人公の妻が肝臓を食べないこと」
|| ||
戦争での失敗 / 主人公の狩りの成功
レヴィ=ストロース氏が書いているところによれば、この神話を語った先住民の人々のあいだには「経血が肝臓に由来する」という考えがあるという。経血と肝臓は、異なるが同じものなのである。
*
この「肝臓」を食べるという動きは、まず、狩猟によって獲物との距離を縮め(もともと分離していたところを結合し)、そしてもともと一体的に結合していた獲物の体から肝臓を分離(もともと結合していたところを分離)し、そして、食べる(もともと分離していたところを結合する)。体外から体内へ入れる。つまり内/外のあいだで距離が伸びて分離していた二極の間を、一つに結合し距離をゼロにする。
ここに、
1分離 → 2 結合 → 3分離 → 4結合
という伸縮運動がみられる。ここで肝臓を「食べない」ということは、最後の「4結合」の手前で動きを止めて、3分離の状態を保つ、ということになる。
1分離 → 2結合 → 3分離 → 4結合
分離の状態を保つことができるなら、狩猟者は動物の世界から分離し、狩猟者自身動物たちの獲物として食べられることなく、獲物の肉を持ち帰ることができる、ということになろう。
この「主人公の妻が肝臓を食べないこと」は、先ほどの「主人公が妻のふけを食べる」と対立して、狩の成功/失敗と重なり合っている。
「主人公の妻が肝臓を食べないこと」/ 「主人公が妻のふけを食べる」
|| ||
主人公の狩りの成功 / 主人公の狩の失敗
「主人公の妻が肝臓を食べないこと」が1分離→2結合→3分離という動きであるのに対し、「狩人が妻のふけを食べる」は1結合(妻とフケは一体)→2分離(フケが落ちる)→3結合(夫が妻のふけをたべる)という動きである。
1分離→2結合→3分離 / 1結合→2分離→3結合
|| ||
主人公の狩りの成功 / 主人公の狩の失敗
このように、分離と結合の様相の逆転が、狩の成功と失敗の逆転に対応するのである。
戦争での勝利 / 戦争での敗北
|| ||
「(敵の)頭皮」 / 「(身内の)経血」
* * *
同様に「経血は戦争での失敗を引きおこす」も見てみよう。
これは妻の経血に夫が触れる=夫が妻の経血に結合する、ということである。
まず経血が妻の体から流れ出るということは、「肝臓=経血」が体内から体外へと出るということである。つまり、内/外のあいだで距離が縮んで結合していた二項の間が、二つに分離し、距離が伸びていく。そしてその先で、経血が夫に触れる、夫と結合する。
これは先ほどの「妻が肝臓を食べる」の逆になっている。
即ち、「肝臓を食べる」が、1分離→2 結合→3分離→4結合 という伸縮を見せたのに対して、「流れ出た経血に夫が触れる」は、1結合→2分離→3分離→4結合 という伸縮を見せている。
この「1結合→2分離→3分離→4結合」の4番目の結合が、戦争を失敗に導く。戦争は1結合→2分離→3分離で、終わらなければならない。つまり敵から勝利を得て凱旋しなければならない。しかし第4の結合があると、敵味方が過度に結合してしまう。この結合は狩猟であれば、失敗して狩猟者が動物に食べられてしまう、といったことになるが、戦争の場合であれば、主人公は敵に連れ去られ、奴隷として敵の部族の末端の一員に加えられる、といったことになるだろうか。
戦争に成功するためには、勝敗を決めて、敵と分離して、凱旋してこなければならない。したがって、「1分離→2 結合→3分離→4結合」という結合の相でおわる「妻の経血に夫が触れる」は、戦争の失敗と述語の伸縮は相同なのである。
「獲物の肝臓を妻が食べないこと」 / 「妻の経血に夫が触れる」
|| ||
1分離→2結合→3分離 / 1結合→2分離→3分離→4結合
|| ||
戦争を成功に導く / 戦争を失敗に導く

+
眩暈がしてきたのでまとめよう。
両義的媒介項の述語的様相においては、(1)縮んだ振幅を伸ばしていく動き、(2)伸びた振幅を縮める動き、(3)振幅を一定に保とうとする動き、という、三つの動きの様相の転換が、両義的媒介項たちが繰り広げる活躍を通じて語り出される。
両義的媒介項もまた所与の即自的実体ではない
さて、ここで重要なことであるが、(1)縮んだ振幅を伸ばしていく動き、(2)伸びた振幅を縮める動き、(3)振幅を一定に保とうとする動き。この動きの対立と様相の転換を担うことができるのであれば、その動きの主語となる項はなんでもよいということになる。
経験的感覚的に「そこに区別がある、対立がある、くっついたり離れたりしている」ということが納得できるものであれば、主語を担う項はなんでもよい。「妻の頭のふけ」でなければならない、とか「敵の族長の頭皮」でなければならない、といったことはない。
* *
神話は、実に精妙に分離と結合の伸縮のパターンを組み合わせて、振幅を描く波と波の重ね合わせによる共振状態の多様な定常化のパターンを描き出していることがわかる。



まとめ
私たちの自覚的な意識、仏教でいうところの分別心は、「分離と結合の動きが止まる」ところで生じた二項対立関係を重ねたり繋いだりして、自分とその周囲の世界との意味を感じ、思考し、言語化しながら生きている。
自/他
生/死
好き/嫌い
内/外
ある/ない
うまい/まずい
高い/安い
遠い/近い
こういう分別をしながら、この二極のどちらか一方だけを選び結合し、他方を捨てて遠ざけたい、と思うところから苦しみが生じる。
そういうわけで仏教であれば「分離と結合の動きが止まる」というのは、止まっているようにみえているだけで、じつは「分離と結合の弱い様相転換の反復」(輪廻とか縁起とか)さらには「分離と結合の強い様相転換の反復」(法界の音声)が動いているんだよね、というのである。
ただし、この動いている様子は経験的感覚的な分別心(識)では捉えようがないので、止観したり、三密加持したり、いろいろな方法で感覚のモードを超感覚的に組み換えることで自在に觀じてみようよ、という話になる。

『神話論理』の冒頭のレヴィ=ストロース氏の言葉を、あらためてみてみよう。
「生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」
私たち人類は、というかあらゆる生命体は、物心ついた瞬間に「経験的区別」を実行するための機械のようなものになっている。これは要するに二項対立を自動的に検出していくような心になっている。
ところが人類というのは業が深いもので(?)、この二項対立たちを重ね合わせ、交差させ、編み上げていくことで、直接の感覚的な区別の印象の連鎖を超えて、なんと対立関係の対立関係の対立関係を思考することができてしまうのである(言語の意味するということを可能している”異なるが同じ・同じだが異なる(非同非異)”の力による)。これが「区別が概念の道具とな」るということであり、「抽象的観念の抽出に使われ」るということであり、「その観念をつなぎ合わせて命題にする」ということにつながっていく。
もちろん、私たちの日々の言語は、概念の道具となって抽象的観念を抽出し命題にするような力を発揮するよりも、単に、分別された感覚的印象の二極それぞれに貼り付けられるラベルようなものに頽落している。感覚的に決まりきった、止まっているように觀じられる「ある/ない」「自/他」「内/外」を反復するばかりである。もちろん、それはそれでよい。そういうところで飲み食いすればこその生命である。
しかしもし、「どうもおかしい、はっきり分けられない、分からないぞ、どうしよう」という不安や恐怖に駆られた時に、人類はその言語的思考によって「分離と結合の動きが止まる」を「分離と結合の強い様相転換の反復」に転換し、これをさらに「分離と結合の弱い様相転換の反復」に転換する力がある。
そしてまた「分離と結合の弱い様相転換の反復」の様相から「分離と結合の強い様相転換の反復」の様相へ、そして「分離と結合の動きが止まる」現世のあり方を、つど新たな様相で、意味的に分節しなおすことができるのである。
つまり、下図のような二重の四項関係=八項関係のいわゆるマンダラのようなパターンは、伸縮する振動が共鳴して美しい調和を描いている場合にみえてくるものであって、いきなり最初から完成済みのものとして与えられているのではない。

まずは振幅をいくつも伸縮させる。


それらの共鳴状態として、定常的に安定した反復パターンが浮かび上がる。

共鳴には、いくつもの、数えきれないほどのモードがある。

このモードをアナログにチューニングしていくところに、八項関係のマンダラは浮かび上がったり浮かび上がらなかったりする。

こういうことを古来より人類の「心」は、神話を語り聴くことを通して連綿とやってきていたのである。
このような心の動き方を自覚できるかどうかが、おそらくこれからの人間性、直近でいえば「AI」のようなものとその言語的意識を接続された人間ということについて理解するためのひとつの手がかりになるだろう。
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