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述語の論理としての神話論理 -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(89_『神話論理3 食卓作法の起源』-40)M490_赤い頭

クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』”創造的”に濫読する試み第89回目です。『神話論理3 食卓作法の起源』の第六部「均衡」を読みます。

これまでの記事は下記からまとめて読むことができます。

これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。


はじめに

この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」を、空海が『吽字義』に記しているような二重の四項関係(八項関係)のマンダラ状のものとして、いや、マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たちが共鳴する”コト”と見立てて読んでみる。

経験的な区別が概念の道具となる

レヴィ=ストロース氏は大部の神話論理の冒頭に次のように書いている。

生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせ命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理1 生のものと火を通したもの』p.5

経験的感覚的な区別(分別)を、概念の道具として観念を抽出し(つまり分別同士を重ね合わせて意味分節する)、この観念を繋ぎ合わせる(意味するものと意味されることとの一対一の静的ペアをリニアに連鎖させる)ことが「どのようにしておこなわれるか」。この「どのように」をマンダラ状の意味分節システムの生成消滅の脈動のモデル上でシミュレートすると、概ね以下のような具合になる。

神話論理のアルゴリズム(動き方)

即ち、神話は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜Δ4を分けつつ、過度に分離しすぎない程度に付かず離れずに結んで安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指す。

そのためにまずβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きが語られる。

両義的媒介項たちを遠ざけたり近づけたりする

β項は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている。そのようなものたちは、経験的感覚的には「存在しない」が、神話は、何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。

お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。

そこから転じて、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力がバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

私たち一人一人にとっての世界の意味は対立関係の組み合わせとして分節されたものである

ここに私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される。何らかの経験な世界は、その世界の要素の起源について語る神話はこのような論理になっている。

私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。分別心の表層意識に浮かぶ図2のような、所与の諸要素たちをかっちりとした構造体として配置したように感じられる意味分節システムは、実は、図3のような脈動する波の伸び縮み(周期的に反復される振動の周期T[s]が伸び縮みすること)を瞼を細めて薄目で眺めたようなものである。

神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験すること可能にしている分別(ふんべつ)、あるいは意味分節のパターンが、あれこれさまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にするし、またそうした分別、意味分節のやり方を相当程度自覚的に自在に組み立てることをも可能にするのである。


数年寝太郎

『神話論理3 食卓作法の起源』から、「M490 カイオワ 赤い頭」をみてみよう。

あるインディアンにひとり息子がいたが、その息子はどうしても朝起きることができなかった

赤い髪をした男を殺したら朝寝をさせてやろう」と父親は息子に言った。



息子は七人の赤い髪の男を探しに出かけた。
彼は、ひとりの老婆の助けを借りて女に変装した。
彼は鬼を守っている鳥たちの監視の目をあざむいた。
最年長の鬼がこの「かわいい娘」に夢中になり、「彼女」を試すために、肉を干すよう命じた。この仕事ができるのは女だけだからである。

主人公(男)は、老婆に教えられたとおり、肉をアリの巣の上に投げると、アリたちが肉を干してくれた。肉は傷もなく、凸凹もなく、とても見事に仕上がった。
「この女の肱は男のものだ」と指摘する弟鬼たちの意見に耳を貸さず、鬼たちの長兄は「彼女」と結婚することにした。
「女装した主人公の眠ってばかりの男」は、シラミを取るという口実で夫となった鬼の長兄の首を刎ねる
主人公は逃げ出す。
鳥たちが警告を発し、弟鬼たちは主人公を追いかける。
そして、主人公を保護していた老婆の小屋へ追いつく。



老婆は、もがくふりをしている「夫殺しの女」をいま引き渡すと、弟鬼たちに言った。弟鬼たちが老婆の小屋に入ろうとする。その時、老婆はすばやく扉を閉め、弟鬼たちの六つの頭を切りとってしまった。
老婆は首を拾い上げ、頭皮を取った
ずっと前から欲しかったのだと主人公に説明した。

六枚の頭皮を二組に分け、一組を主人公にやり、もう一組は 自分のものとした。



主人公は夜、家に帰り、それぞれの頭皮を竿の先につけた。
人々が目を覚ます と、竿に掲げられた髪から赤い微光がさしていた。
太陽の光さえも赤く見えた。
父親は息子に、これからはいくらでも寝ていてよいと言った

見張りの鳥たちは、もう見張るものがなくなったので姿を消した。そして、鬼たちの住みかがどこだったのか、もはやわからなくなった。

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.441
「M490 カイオワ 赤い頭」より

今回は逆再生しながら、最後から順番に読み解いてみよう。

まず神話の語りの最後、「見張りの鳥たちは、もう見張るものがなくなったので姿を消した。そして、鬼たちの住みかがどこだったのか、もはやわからなくなった」というところに注目しよう。

ここでは「鬼たち」の世界と、人間の世界とが、はっきりと分離されている。二つの世界の間は自在に往来できるような関係ではなくなっている。

人間の世界 / 人間の世界では無い世界(鬼たちのすみか)

この二極の分離が確定し、混じり合ったり、往来したりできなくなる。
ここでいう「鳥たち」は、おそらく人間の世界と鬼の世界、二つの世界の間を自由に往来して一方から他方へ消息を伝えていた者たちなのであろう。そういいう鳥たちも「姿を消した」のである。

この神話はつまり、「人間の世界」の起源神話、人間の世界がそうで無い世界とはっきりと安定的に区別されるに至る経緯を語っているのである。

ここで細かくみておくと良いのは、「鬼たちのすみか」が滅亡したわけではなく、消えてなくなったわけでもない、ということである。鬼たちのすみかは、「どこだったのか、もはやわからなくなった」が、依然として「どこか」には確かに存在する。人間の方で「わからなくなった」だけで、鬼の棲家は存在する!しかし、存在するけれども、人間の世界の側から鬼の棲家の方へアクセスする通路が絶たれている。

そういうわけで、

人間の世界 / 人間の世界では無い世界(鬼たちのすみか)

この二項対立ははっきりと安定しており、あいだの「/」が厳然と境界を確定的に定めていて、両極のあいだに通路が開いたり、混じり合ったりしないようにしている。

Δ / Δ

さて、ここに至るまでの経緯である。

鬼の「上」から分離したものを、天/地の「中間」に据える

主人公は、鬼の”上/下の二極の上の上”から分離してきた「頭皮」を、自分の家の「竿の先」につけて旗のように掲げる。空へと掲げられた竿の先端とは、天/地の両極に対して、ちょうど中間の位置を占める。

天(上)  ・・・・・ ・ ・  
/ 中間 頭皮/   ←  分離  →鬼
地(下) ・・・・・・ ・ ・

竿の先端に掲げられた頭皮は天/地を安定的に分離しつつ結合する媒介項(β)である。天/地の中間に、鬼の頭皮を、いわばフィルタのように挟むことで「太陽の光さえも赤く見えた」ということになる。

つまり太陽の光が弱められたのである。

これは「暑すぎる太陽」や「多すぎる太陽」を冷やし、減らすことで、暑すぎない地上世界=人間の生活できる世界が生まれました、と語る神話のパターンとおなじであろう。

原初、世界は未分化で、天/地も区別できないほどくっついていて地上は太陽のように灼熱そのものだった。そこは人間が存在することのできない(人間という存在が非-人間と分節されていない)世界だった。

ここでもしっかり、

人間が暮らせる世界 / 人間が暮らせない世界

この区別がはっきりと区切り出されている。

いつまでも寝ていていい

さて、ここでひとつ興味深いのは、英雄になった主人公に対して、父親が「いつまでも寝ていてい」というところである。いつまでも寝ていてよいとは、文化的な生活に反するような感じがするが、重要なのは「寝ていて良いということ」それ自体ではない。「寝ていて良い」が何と対立しており、その対立がどう伸縮しているかに注目したいところである。

この神話の冒頭、主人公は寝てばかりいたが、それを父親に咎めあれ、本当は寝ていたいのに、仕方なく寝るのをやめて、鬼に戦いを挑んだのである。

寝る / 起きる

この極めて経験的で具体的な二項対立関係があるとして、神話の冒頭、主人公は、寝ていたいのに起きている、という状態になっている。寝ていたいのに起きているは、つまり寝ると起きるの二極を短絡したような状態である。

つまり経験的には寝る→起きる→寝る→起きる、と規則的に交代するはずの二極の間を、「ずっと寝ている」は過度に分離する(起きるということを消し去ってしまうほど、寝るを起きるから分離する)。逆に、寝たいのに起こされて鬼との戦闘などという過剰な活動をさせられるのは「寝る」と「起きる」をショート、短絡、過度に結合している状態である。

寝ると起きるの二項対立の過度な分離から過度な結合への転回が、この神話の冒頭の幕開けをになったのである。

それに対して神話の最後で父親がいう「ずっと寝ていて良い」は、おそらく、寝ると起きるが規則的に交代するということ、つまり昼と夜の規則的な交代を前提とした「寝ていてよい」なのである。

昼夜の規則的な交代こそ、時間という分別、分節システムが安定しているということである。

* *

鬼の首をとったように

さて、逆再生を遡ってみよう。

この天/地に対する両義的媒介項「竿に掲げられた頭皮」もまた、「項」である以上、なんらかの二項対立関係の一方の極として引っ張り出されて、その姿を表すものであるはずだ。つまり、この頭皮と分離したり結合したりする何か、頭皮との距離を伸縮させる何かが、この神話の語りの中に登場しているはずである。

さらに、この頭皮とその対立相手との間を伸縮させるバネのようなものとしても、あともう二つ、別のβ項二つを両極とする軸が、頭皮とその相手を両極とする軸と直交しているはずである。

β


β ← →    ← → β


β

両義的媒介項β項たちは、一即四にして四即一に伸縮し続けている。
そこでは「項」たちは、それぞれそれ自体としてあらかじめ存在しているわけではない。β四項関係は、出来合いの即自的に所与の主語的な何かが、二次的に四つ集まって近づいたり離れたり伸縮しているのではない(神話の語りの文面を読むとそのように読めるのであるが、ここは注意が必要である)。β項は、言語が述語を言表するときに、どうしてもその述語
どうしてもその述語が引っ張り出してしまう主語的なものの


では、β頭皮が、伸縮自在に分離したり結合したりしている「相方」は何だろうか。それは即ち、鬼たちの「頭皮から下」である。

頭皮 ← → / ← → 頭皮から下

鬼の頭皮を手にいれる過程に注目してみよう。

頭皮は六枚あった。そして三枚づつ、きれいに半分に、主人公と、主人公の保護者たる老婆とで分けた(分離した)のである。

3 ←/→ 3

綺麗に二分の一、半分になっていることに注目しよう。
右辺にも左辺にも、どちらにも偏っていない(たとえば、1:5や、2:4のように、どちらか片方に偏っているということはない)

頭皮は主人公の手にわたる時点で、正確に二分の一になる

* *

この二分に一になるまでの間、頭皮と非頭皮の間は大いに伸縮する

この6枚の頭皮の来歴であるが、頭皮はもともと、鬼の兄弟たちの頭、彼らの身体の上/下の対立における”上の端”に一体的くっついていた過度に結合していた)ものである。

頭皮+頭皮から下

この二極は、経験的にはいうまでもなく、ぴったりと結合している。

このぴったりくっつているところから、上/下の”上の端”を分離するために、神話の思考は二重の二項対立の逆転を経由することになる。

男/女どちらともいえない変身

第一の二項対立の逆転は、男性である主人公が女性に変身するというところであり、鬼と結婚すると見せかけて命を奪うというところである。

男 → 女?
妻 → 刺客?

ここで重要なことは、男性が完全に女性になったのではない、ということである。

主人公はあくまでも男性のままであり、しかし、鬼を騙すために男性のまま女性のフリをしているのである。

その様子を強調するために、まず、主人公が燻製肉作りを「アリ」たちに任せるという話が出てくる。この神話では燻製肉作りは女性の仕事ということになっている。つまり男性である主人公は燻製肉を作った経験などなく、うまく作れるはずもないといったところだろう。しかし、アリにアウトソースして作らせた燻製肉を見せることで、男主人公は鬼の長兄を騙して女性になりすますことができる。

といっても、鬼の兄弟たちには、主人公の「肱」が男性のものであるとあからさまにバレているのであり、とてもうまく女性に変身できているとは言えない状況である。

つまりこの時主人公は、男/女の経験的区別を短絡したような姿をしており、完全に女性になっているわけではなく、あくまでも男のまま女性のふりをしている。男/女のどちらでもないような感覚的印象を与える、という曖昧な姿である。

いずれにしても、この曖昧な姿に二重化した主人公は、本来ならば厳しく分離されているはずの鬼の長男と「シラミとり」という様式で過度に結合、密着することができるようになる。

あちらで分離しこちらで結合し

そして、その過度な結合から一挙に転じて、鬼の長兄は首を刎ねられる。
つまり、体の上/下の上の方を分離されるのである
あちらで結合したかとおもえば、こちらで分離する(人間の男と鬼の男という本来過度に分離されている二極が結合し、その一方で鬼の頭皮と頭皮以下の全身という本来過度に結合されているところが分離する)。

* *

鬼ごっこからの扉の開/閉

次に、第二の二項対立の逆転は、主人公の助言者である「老婆」の小屋の扉の開閉である。

老婆の小屋に至るまでの間、主人公と鬼の弟たちは「鬼ごっこ」を展開している。

長兄の首を奪った主人公はこっそり鬼たちのもとから分離するが、すぐに監視の鳥に見つかって(視覚による結合)、弟鬼たちに追いかけられる分離していたところが縮んで結合に向かう。そうして弟鬼たちに追いつかれる(結合)。この主人公と鬼たちのあいだの距離の伸縮に注目しておこう。

ここで老婆の出番である。
老婆は鬼たちに対し、主人公を引き渡すことを宣言する。
もちろん、これは鬼たちを騙すなのであるが、嘘の言葉というのは、その字義通りの意味と隠された本当の意味との対立において、この対立の両極のどちらかのかよくわからない両義的なものである。

両義的な嘘の言葉を信じ込んで(結合して)、鬼たちは老婆の小屋に入ろうとする。いよいよ主人公と鬼たちが過度な結合へと転じるか、と思われるところである。

しかし、その瞬間、老婆は、開かれていた扉をバタンと閉じる。

開 →/→ 閉

扉が開いているということは、内/外の間に通路が開き「結合」しているということである。開=結合、である。

逆に、扉が閉じるということは、内/外の「分離」が定まっているということである。閉=分離である。

つまり

開 →/→ 閉

結合 →/→ 分離

なのである。

神話の思考は、じつに細かな経験的な区別、二項対立の転換を引き起こす述語的様相を用いるものである。この扉が開→閉へと転じるところで(内/外の結合が分離に転じるところで、鬼たちの首も、首から下と分離する。

ここに、彼方で分離し・こちらで結合する、という様相ではなく、彼方で分離し、こちらでも分離する、という形に変わっている様子をみることができる。

マンダラの形を整えていく

彼方で分離し・こちらで結合する、というのが下記のような具合だとすると、


βーーーーーーββーーーーーーβ

彼方で分離し、こちらでも分離する、は

β



βーーーーーーーーーーーーーβ



β

という具合である。
つまり潰れていて「長方形」のようになっていた八項関係の曼荼羅が、「正方形」に引き伸ばされているのである。

「長方形」に潰れたマンダラ
「正方形」のマンダラ

私たちが普段、言語でもって何かを考えたり思ったりするというとき、自分自身が何らかの主語(Δ主語、たとえば「わたし」)を立て、その主語に従属させる形で述語を限定し、その述語の先に、主語と対立関係にある別の主語的なものΔ'をひっぱってくる。

このときはたして、ΔとΔ'は、どのような形状のマンダラの中に浮かび上がっているのだろうか。

β四項を分離と結合の二極の間で伸縮させる「野生の思考」の「神話論理」は、私たちが経験的で感覚的に分別している諸Δ間の関係に関して、仮にΔ1とΔ2が近づきすぎてくっつきっぱなし・結合しっぱなしになってしまったところがあるとすると、このΔ1とΔ2のあいだを引き開くようにβ項たちを動き回らせ(述語的様相)る。あるいは逆に、Δ1とΔ2が分離したままお互いの消息を知ることがないくらいに疎遠に分離してしまったところがあるとすると、その間を引き寄せて結びつけるように動き回る(述語的様相)。

二項対立関係の対立関係の対立関係としての八項の関係を、分離しすぎず、結合しすぎず。そのようにすると、みごとなマンダラができあがるのである。

さて、頭皮である。

頭より下から分離した頭たちから、さらに頭皮が分離される。

頭と首から下の間に上/下の区別があるとすれば、頭からさらに頭皮を剥がすとは、上/下の対立の「上」をさらに「上の上」と「上の下」に分離するということである。

こうして二段階の徹底した分離によって「下」からはっきりわけられた「上」が出現する。上/下の両極が混じり合わないようにはっきりと分離されたのである。

ただし、このままだと、「頭皮」は「上の上」である極端に「薄い」部位であり、頭皮から下の全身の「厚さ」に比べると、アンバランスなのである。

頭皮 / 頭皮から下の全身
||
軽い / 重い
かさが小さい / かさが大きい
薄い / 厚い
         →アンバランス

そこで頭皮を頭皮だけで6枚集めて、ちょうど半分、三枚づつにすることで、二分の一ということを言おうとする。

以上のようにこの神話でも、過度な結合と過度な分離の間で激しく様相を転換しつつ、分離していることと結合していること(分離していることと分離していないこと。分節と無分節)の間を、しだいしだいに切り開き、安定的にきれいに二分するよう分離していく。この分離は過度な分離ではない。相手方がどこに行ったかわからなくなるような過度な分離ではなく、どうも近くに存在するが、しかしアクセスできない、という裏表、生/死の二面性のような身近な確固たる分離である。

そうしてそこから最後に、人間が生きることのできる意味ある世界と、そうでない世界との表裏一体であるが安定した分離が設立される。

Δ Δ
Δ Δ

Δ四項関係の安定した意味分節体系、意味あるこの現実の世界がはじまるのである。

経験的区別を概念の道具とする

レヴィ=ストロース氏はこの章「均衡」に示した一連の神話から、次のように様々な二項対立を検出していく(pp.443-444)。

恋人 (= 家族-外) / 息子 (= 家族-内

顔の片側が- /  顔の反対側が-

顔の片側が男性 / 顔の反対側が女性

同じ部族の女性 / よその部族の女性

足 / 頭

上 / 下

動物の体の一部 / 人間の身体の一部

もともとついている / あとからつける
||
頭皮 / 靴・刺繍

男性-から-分離されるもの / 女性-によって-結合されるもの
||
頭皮 / 靴・刺繍

遠い-敵の-男性に由来するもの/近い-家族の-女性に由来するもの
||
頭皮 / 靴・刺繍・体毛による装飾

これらの対立関係の両方の極に振り分けられている項たちについて、それらを、それ自体として、ひとつひとつ見ていくと、お互いに全く関係のないような雑多なものが、無秩序に並んでいるように見える。

このランダムさに挑もうと、これらひとつひとつの項=もの=主語的なものをめぐって、「それは何か」と問うたとして、仮に何か答えのようなことを得たとしても、その問答謎の主語的なものを、さらにまた別の主語的なものに言い換えていくプロセスであり、この言い換えは果てしなく、もうそれ以上言い換えたくない、という終端装置のような言葉にぶつかるまで、いつまでも続いていく。

ところが、これを野生の思考の神話の論理としてみるとこれらのあれこれの二項対立関係は、すべて、ほぼ同じようなことを言語的に分節しようとしているのである。

それはすなわち、繰り返し書いているように、”分離と結合の分離と結合”ということである。

神話論理の核心は
分離と結合の分離と結合(不一不異)にある

「本巻を通しての導きの糸ともいうべき、近くにあることと遠くにあることの弁証法と、ヤマアラシの針の周期性によるその(遠くにあることと近くにあることとの時間的調停とに思いがけないところで出会うのである。ヤマアラシの針の周期性は服飾品という用語で宇宙大のサイクルを再現しており、そういった角度から全般的問題を取り上げたのであった。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』pp.444-445

近くにあることと遠くにあることの弁証法、というところにまず注目しよう。

あるAとそれに対立する非Aとが、「近くにある」とは、Aと非Aが結合しているということである。

この結合にも、(1)過度な結合と、(2)ほどよい結合とを、区別することができる

Aと非Aがピッタリ密着してしまっていると「過度な結合」である。

Aと非Aが過度に結合しすぎず、しかし過度に分離しすぎもしない、付かず離れずの距離を安定して保っていると、ほどよい結合である。

伸縮しながら二重の四項関係を広げていく

また、あるBとそれに対立する非Bとが、「遠くにある」とは、Bと非Bが分離しているということである。

この分離にも、(3)過度な分離と、(4)ほどよい分離とを、区別することができる

Bと非Bが、お互いの存在を全く知らないほど遠く離れていれば、それは「過度な分離」である。

Bと非Bが過度に分離しすぎず、お互いの消息を感知しながらも、しかしあくまでもはっきりと分かれている場合、これはほどよい分離である。

近くにあること / 遠くにあること
||
結合 / 分離

そしてこのAと非Aの結合は、Aと非Aが区別なく「」になっている、と言い換えることもできる。

またΒと非Βの分離は、Βと非Βがはっきりと別々のものとして分けられ、混じり合うことがないように「」なっている、と言い換えることもできる。この異なっているものたちは「一」ではなく、「」である。

近くにあること / 遠くにあること
||
結合 / 分離
||
一 / 異
||
一 / 多

さらに、「一」は、あれこれに分かれていないという点で「未分節」あるいは「無分節」であり、”多に異なる”はあれこれに分かれているという点で「分節」である。

近くにあること / 遠くにあること
||
結合 / 分離
||
一 / 異
||
一 / 多
||
無分節 / 分節

というわけで、神話における「近くにあること」と「遠くにあること」の対立は無分節と分節の対立という、人間にとって経験的に意味のある世界を発生させるもっとも基本的なアルゴリズムの動きを捉えようとしたものと言える。

神話の登場人物たちは、この「近くにあること」と「遠くにあること」の二極の間を、遠く遠く引き伸ばしたり、区別がなくなるほど短絡したり、あるいはちょうどよい付かず離れずに均衡させたりと、伸縮自在に「伸び縮み」させる。

近くにあること / 遠くにあること
||
結合 / 分離
||
一 / 異
||
一 / 多
||
無分節 / 分節

これらの二項対立の間にある「/」に注目しよう。
この「/」が揺れているのである。「/」の揺らぎ方次第で、/の両側に区切り出される二極のあいだは、分離したり、結合したりする。分離と結合の二極の間で揺れるのである。これが”分離と結合を分離したり結合したりする”神話の登場人物たちが示す両義的媒介項(β)としての「述語」的様相である。

この「近くにあること」と「遠くにあること」の伸び縮みを、伸びすぎるでもなく、縮みすぎるでもなく、一定の振幅を描くように規則正しい周期で振動させるのが両義的媒介項である。両義的媒介項は「遠くにあること」と「近くにあること」とのあいだを時間的に調停する。

この周期性を象徴するのが、一年のうちの決まった時期に周期的に抜け落ちやすくなる「ヤマアラシ」の針であり、その針を使った刺繍の運針であり、刺繍を施された装飾品であったりする。

両義的な「鹿」

さて、この両義的媒介項のポジションを占める場合の「服飾品」のひとつに「毛のついたまま」の「シカ革」の「頭飾り」があるという。レヴィ=ストロース氏はシカ(およびその毛皮)が「両義的」な媒介者として語られることをに注目する。

さまざまな神話によってシカは主人公を助けたり、あるいは敵対したりする。

また神話によってはシカは、人間の娘が変身したものであったりする。つまり、動物と人間という経験的で感覚的な分別に対して、その両極のどちらか不可得である状態を体現するのが、この場合の鹿である。

動物 / 人間

シカ

この場合のシカは人間でもあり動物でもあるような、いや人間でもなく動物でもない存在である。人間でもなく動物でもない両義的なシカは、狩猟対象になりうる肉をもたらす動物でありながら、しかし人間であるものとして狩猟することを禁じられる。

またシカは、男性を女性に変身させたりもする。

男 / 女

シカは男/女という経験的な二項対立の中間の「/」の位置にあって、男/女のあいだの分離と結合を調停する。つまり過度に接近し結合しすぎた男女の間を適度に引き離し過度に分離した男女の間を接近させ結合させたりする。男/女のあいだを付かず離れず、分離しつつ結合し結合しつつも分離している状態に調停するのが「シカ」の力である。

この経験的感覚的二項対立に対する両義的で中間的なシカの毛をもちいて作られた、これまた両義的な装身具は「ひとつの軸上で頭皮とは対称的」であり、また「べつの軸上では」人の体毛、特に家族内の異性のメンバーの体毛で作られた「縁飾りと対称的」であると、レヴィ=ストロース氏は書く(p.445)。

βシカの毛の装身具 / β頭皮

βシカの毛の装身具 / β家族内の異性のメンバーの体毛

これまでの神話に出てきたβ頭皮「トロフィーとしての男の首、あるいは頭皮」は兄/弟、姉/妹を分離されてしまった状態から結合した状態に転換する。一方、この結合状態が過度な結合に転じた場合、兄/弟・姉/妹がしばしば「インセスト的」に過度に結合した場合、主人公は「石」に変身することで、この過度な結合を確定された分離へと転換する。

・・・

シカ、石、頭皮、体毛・・・
こういうものが続々と登場してしまい「いったいこれらは何なのだ?!」という困惑を引き越すが、重要なのは、シカそれ自体、石それ自体、頭皮それ自体が「何であるか」ということではない。これらの諸項の「あいだ」に繰り広げられる伸び縮み、伸縮、分離と結合の分離と結合が浮かび上がらせる、二即一にして一即二、ありとあらゆるものの同一性と差異性がそこに煌めく不一不異の「動き」を観じることが神話の思考のエッセンスであろう。

そのための最初の一歩が、思考を、主語を全面に立て並べる様式から、ゆれる述語を表面に引っ張り上げる様式へと、転換することなのである。



つづく


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