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分離と結合のあいだを揺れ動く述語をみて、主語が「何であるか」にはこだわらない -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(87_『神話論理3 食卓作法の起源』-38)-M466 石の少年

クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』”創造的”に濫読する試み第87回目です。『神話論理3 食卓作法の起源』の第六部「均衡」を読みます。

これまでの記事は下記からまとめて読むことができます。

これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。


はじめに

この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」を、空海が『吽字義』に記しているような二重の四項関係(八項関係)のマンダラ状のものとして、いや、マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たちが共鳴する”コト”と見立てて読んでみる。

経験的な区別が概念の道具となる

レヴィ=ストロース氏は大部の神話論理の冒頭に次のように書いている。

生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせ命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理1 生のものと火を通したもの』p.5


生のものと火を通したもの

経験的感覚的な区別(分別)を、概念の道具として観念を抽出し(つまり分別同士を重ね合わせて意味分節する)、この観念を繋ぎ合わせる(意味するものと意味されることとの一対一の静的ペアをリニアに連鎖させる)ことが「どのようにしておこなわれるか」。この「どのように」をマンダラ状の意味分節システムの生成消滅の脈動のモデル上でシミュレートすると、概ね以下のような具合になる。

神話論理のアルゴリズム(動き方)

即ち、神話は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜Δ4を分けつつ、過度に分離しすぎない程度に付かず離れずに結んで安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指す。

図1

そのためにまずβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きが語られる。

両義的媒介項たちを遠ざけたり近づけたりする

β項は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている。そのようなものたちは、経験的感覚的には「存在しない」が、神話は、何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。

お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。

そこから転じて、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力がバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

私たちがそれを「主語」に立てて会話することができるあれこれのものたちは、すべてこのβ→Δ変換が示す相貌である。

私たち一人一人にとっての世界の意味は対立関係の組み合わせとして分節されたものである

ここに私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される。何らかの経験な世界は、その世界の要素の起源について語る神話はこのような論理になっている。

私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。分別心の表層意識に浮かぶ図2のような、所与の諸要素たちをかっちりとした構造体として配置したように感じられる意味分節システムは、実は、図3のような脈動する波の伸び縮み(周期的に反復される振動の周期T[s]が伸び縮みすること)を瞼を細めて薄目で眺めたようなものである。

神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験すること可能にしている分別(ふんべつ)、あるいは意味分節のパターンが、あれこれさまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にするし、またそうした分別、意味分節のやり方を相当程度自覚的に自在に組み立てることをも可能にするのである。


クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理3 食卓作法の起源』の第六部「均衡」の第二節「三つの服飾品」に入ろう。

ここでは神話の読み方、楽しみ方のひとつの方法として、分離と結合のあいだを揺れ動く「述語」にフォーカスして、奇妙で謎めいた「主語」たちが「何であるか」には仮にこだわらない、というやり方を試してみよう。

上/下の「上」を、さらに半分に

引き続き「赤い頭」という人物が登場する神話である。

赤い頭系の神話では、頭頂部という上/下の二項対立の一方の極である「上」のてっぺんを、さらに分離することで(この分離されたものが「下/上」の”上”の、さらに”上”としての頭皮だったり、髪の毛だったりする)、二項対立関係の過度な伸び縮みを表現しようとする神話である。

頭皮← 上 → 頭   

(x)← 下 →(-x)

この関係を念頭に置いて「M488 アラパホ 赤い頭」をみてみよう。

昔、とても美しいが怠惰で朝起きるのが苦手な若者がいた。
一日中床についていることさえあった。
父親はかなりためらったのち、彼に説教することにした。
しかし無駄だった。若者は頑として怠けつづけた。

しかし、じつは、若者は、父親から聞いた人喰いたちを退治しようひそかに心に決めていたのである。
彼はある老婆のところに話を聞きにいった。
老婆は人喰いたちが日の出の方角のとても遠いところに住んでいると教えた。

主人公は出発した。最初の晩、彼は手に入れたいくつかのけものの腱を火の中にくべた。腱は炎の中で縮んで反り返り地面を縮めたこれにより目的地は近づいた。彼は翌日も同じ作業を繰り返した。



ある老夫婦が人喰いたちのの住む場所を教えてくれて、その妻に頼むようにと助言をしてくれた。人喰いたちの妻は主人公の願いを聞き入れ、自分の姿を彼に貸し、自分の代わりに七人の夫のもとへやった。モカシンを持っていくと いう口実である。
そのため主人公は歓迎された。一番下の弟が「この女は男の手をしている」と言ったが無駄だった。

主人公は一番上の兄のシラミを取るふりをして、その首を切り落とし、逃げた

見張りをしている雁たちに それを知らされた兄弟たちは彼を追跡した。
彼は守ってくれる女の、鉄のテントの中に逃げ込む。
やがてやって来た追跡者たちは彼を脅す。
女は彼らを入れるふりをするが、すぐに金属製の入り口を閉め、扉に挟まれた六人の首が切り落とされる。
女は自分用に自分の夫の首を取るが、残りは主人公にくれてやる。
その髪の毛は燃えるような赤だった。

夜のうちに家に帰った主人公はなにも言わず寝る。
翌日、父親は息子の床に寝ている見知らぬ男を追い払おうとする。
それが息子であるとわかると
、息子を祝福する。
これが人喰いたちの終わりであった

ひとはいまでも、 朝いつまでも寝ている男の子にはその話をするのである。

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』
p.433 「M488 アラパホ 赤い頭」より

冒頭、寝てばかりの主人公の姿が印象的である。

特に「美しいが怠惰で朝起きるのが苦手」というところに注目しよう。

「美しい」ということは、つまりこの主人公のところには多くの求婚者がやってきても良さそうだ、ということである。

結婚は、もともと分離していた二者を一つに結合し、結合しながらも決して完全に不可分に一つにしてしまうことはなく、あくまでも「二」のまま保つ。つまり、抽象的にいえば”分離と結合の分離と結合”とでも表現しうる、β四項の間の距離が伸び縮みすることを、経験的で感覚的な事例に載せて語ろうというときに、結婚というのはちょうどよいモチーフなのである。

この主人公は「美しい」点で、現実的な結婚(身近なところ、例えば自身の出身の部族内での結婚)をすぐに達成してしまいそうな感じであるが、しかし、彼は怠惰で一日中寝ているのであるこれでは結婚しても生産活動に勤しむことなど期待できそうもない。父親が厳しく言っても、いうことを聞かない。おそらく、妻のいうことなどもっと聞かないだろう。そういうわけで、彼は、彼を知る身近な女性たちからは、おそらく結婚の相手とは見なされないタイプである。

こういう話は現代でもよくあって、ネットの掲示板のようなところでは、しばしば

眉目秀麗だが、収入がない男性

残念ながら眉目秀麗だが、高収入の男性

強いて選ばざるを得ないとすると、このどちらを「選ぶべきか」
・・・といった類の議論が果てしなく繰り広げられているのを目にする。

さて、神話が、こういう人物像を冒頭にもってくるのは、この主人公は、結婚に近いようで遠いからである。

つまり、身近なところで簡単に「結合」できそうで、できない。
結合しかかっているようで分離している。

そういう「分離/結合」の二項対立のどちらとも言えないような、分離と結合の両極のあいだで激しく振動しているような存在は、分離の極と、結合の極、この二極の間を自在に飛び越えることができる。その力は、通常なら決して結合することがないような、非常に遠いところ=過度に分離した二者の間を、自在に結びつけたり、また切り離したりする自由度をもつことになる。

至る所が自在に結びつきつつ分かれている

事実、この主人公はそのような活躍をみせる。

人喰い退治

彼は、「とても遠いところに住んでいる」「人喰い」怪物たちを「退治」しようとする。

人喰い。
人喰いは、普段は人間たちから遠く離れたところにいる。
しかし、ときに人間を食べにくることによって過度に結合する。
人喰いと人間の間にも、過度な分離から過度な結合、そしてまた過度な分離へ、という伸縮がある。

強/弱 // 捕食者/獲物

また、人喰いに直面するとき、捕食者/獲物の関係において、普段のけものたちとの関係でいえば「捕食者」の側に立つべき人間が、獲物の側に逆転している。

また食べられた人間は生から死へと逆転する。

人喰い

捕食者 /(反転) / 獲物
生 /(反転)/ 死

これらの現世の経験的で感覚的な二項対立関係のうち、通常選ばれるべき極が人喰いを媒介として一方から他方へひっくり返るのである。

こういう人喰いを「退治」するということは、つまりこの現世の経験的で感覚的な二項対立関係のうち通常選ばれるべき極が、その反対側へとくるくると裏返ってしまう状態を止めよう、ということなのである。すなわちこれは、現世の経験的感覚的秩序を安定させようという、人間の世界の始まりを開始させようとする壮大な創世神話ということになる。

遠いを近いにひっくり返す焼肉

さて、人喰い「退治」を実現するためには、まず主人公は、遠い遠いところまで旅をする必要がある分離/結合のどちらか不可得な主人公は、人喰いともともと遠く分離されている。遠く離れた距離を旅、なんらかの移動によって結びつける必要がある。もちろんこの旅、とても遠いところを頑張って何十年もかけて歩きました、というのでは、遠さが遠いままである

主人公には「遠い」を「遠いけれども、近い」に変換する何かが必要なのである。この隔たった距離を縮める=近づけるために、主人公はある儀式を執り行う。それが「けものの腱を火の中にくべ」る、ということであった。

「腱は炎の中で縮んで反り返り地面を縮めたこれにより目的地は近づいた。彼は翌日も同じ作業を繰り返した」とある。「けものの腱」を火にかけて縮め、反り返えらせる。もつ焼き肉の要領で、直線状であったものをくるりと丸めて両端を短絡するのである

・焼肉がそりかえって両端が近づくこと

・遠く隔たった直線距離が縮むことと

このふたつのことは、全く異なることであるが、しかし言われてみればどこか似ている。この”どこか似ている”を感じる人間の心の自在な意味生成の力が神話の語りを発生させている。

人喰いの「妻」。味方かと思えば味方?

人喰いたちに近づいた主人公は、まず、人喰いたちの「妻」に助力を頼む

人喰いたちの妻は人喰いたちの仲間、一味のようにおもえるが、しかしこの人喰いたちの妻は人喰いたちの方ではなく、人喰いたちを討とうとしている昼寝の主人公の方に味方する。

ここでも、素朴に結合しているはずと思えるところが分離し、素朴には分離していると思えるところが結合する

そして人喰いの妻は、なんと主人公の寝てばかりいた男を、自分自身(人喰いの妻)の姿へと変身させる。

こうなるともう、人喰いの妻なのだか主人公の昼寝の若者なのか、一体どちらなのか分からないことになる

この「変身」において、主人公と人喰いの妻は二つに分離しながら一つに結合し、一つに結合しながら別々の二つである

こうして主人公は人喰いたちの妻になりすましてモカシン靴を届けるという口実で、何も疑われることなく人喰いたちの中に入り込む。

体の下半分のさらに下に、後付けされるものー「靴」

ここで突然、「」が出てくるのは不思議に思われるかもしれないが、これについては前回の記事でも書いたように、靴は頭皮と対立している、非-頭皮なのである。

頭皮は、「頭に」「もともとついてーいるーもの」であり。
靴は、「脚に」「もともとついてーいないーもの」である。

頭皮←(分離)→ 上 →(結合)← 頭   
/ 
(x)←(分離)→ 下 →(結合)←()

上/下の二項対立に、「つける/はずす」という述語の二項対立を重ねていくと、”上からー外す/下にーつける”という複合化されたダイナミックな二項対立が出てくる。

7・・・未分節と分節を分別する

さて、人喰いたちは七人組、八人よりも一人足りない、七人組である。

主人公の寝てばかりいた男は変装を見抜かれず、うまく人喰いたちの中にはいることができた。人喰いたちは、彼を、自分たちの妻だと勘違いしたのである。

「男が変装しているものと、自分の妻とを間違えるなんて、ちょっとこの人喰いたちはいろいろマズイのではないか」と思われるが、神話なのでこのくらいがよい。

ただ、人喰いたちのうちの一人、一番下の7番目の人喰い男は、これが妻ではなく、人間の男が変身しているものだと見抜いている。
しかし、その忠告するを、他の兄弟たちは誰も聞いていない

この時、七番目の人喰いの言うことが面白い。

「この女は男のをしている」

七番目の人喰いは、「頭(上)」でもなく「足(下)」でもなく、ちょうどその真ん中あたり、対立する二極の中間にフォーカスしている。この主人公は過度な分離と過度な結合の両極の間を自在に行ったり来たりすることができるが、その両極のちょうど中間は、いつも同じ、正体を露わにしているのかもしれない。しかし、不注意に分別された二極ばかり見ている他の兄弟たち、対立する二極の「あいだ」をみることがない兄弟たちは、侵入者の正体を見抜くことなく、討伐されてしまう。

首を分離!

主人公の昼寝の男は、うまい具合に人喰いの長男「首」を首から下と分離する。「一番上の兄のシラミを取るふりをして、その首を切り落とし、逃げた」とある。親切に体に触れに行くと見せかけて、バッサリである。おそろしい。

これで、七人が互いに区別できないほど(一人の妻を七人で共有していることに注目しよう!)密着している未分節のところから「長男 / それ以外」が分離される。さらに長男は、「頭 / 頭から下」が分離される。

長男(一) / 非-長男(多)

頭 / 頭から下

ここでありとあらゆるものごとの分別の最初の分別、すなわち、一と多の分別、分かれていないことと、分かれていることとの分別、分別と無分別の分別が、分別されるのである。

この最初の無分別と分別の分別が始まらない限り、この意味分節された意味ある世界は決して始まらない。

伸び縮みが激しいとマンダラ状にまとまらない

おいかけっこから、分離の確定へ

人喰いたちの妻の姿に変身した寝てばかりいた男は、人喰いの長兄の首を持って、人喰いたちのところから逃げる=分離する。人喰いたちの家から分離する。

見張りの鳥がそれに気づいて、人喰いの兄弟たちに知らせる。

人喰いの次男以下、兄弟たちが、”人喰いの長兄の首を抱えて逃げる人喰いたちの妻の姿に変身した寝てばかりいた男”を追いかける。

追い詰められた”人喰いの長兄の首を抱えて逃げる人喰いたちの妻の姿に変身した寝てばかりいた男”は、ひとりの女性の「鉄」でできた小屋に逃げ込み、中に隠れる。この女性はあの人喰いの妻であるらしい。

人喰いの次男以下がぞろぞろと追いかけて、妻の小屋に辿り着き、中に隠れた男を出せと迫る。人喰いの妻は鉄の扉を開ける。

人喰いたち六名は、テントの入り口から入ろうとする。

すかさず、人喰いたちの妻は、鉄の扉をバタンと閉めて、6人の人喰いたちもまた「首」と首から下とを分離される

金属製の扉がバタン

首    / 首から下

恐ろしい話である。

さらに、人喰いたちの幾つもの首は、その妻(鉄の女)の元に一つだけ残され、あとは主人公が受け取った。主人公のもとには「燃えるような赤い髪の毛」が残される。

6個セットの首が、1と5に分離されるのである。

一 / 五(非-一・・・多)

ここにも一と多の分別、ということが出てくる。

こうして人喰い退治が達成され、以後、人間は人喰いの獲物にされることなく、暮らせるようになりましたとさ、という話である。

マンダラ状のパターン(正方形とその内接円(外接円))へと収斂する

最後に、自分の家に帰ってきた主人公は疲れて眠るのであるが、最初、主人公の父親は(いつも息子に、寝てばかりいるなと叱っている親父)息子の寝床で寝ている男が、自分の息子だとは気づかなかった。知らないよその人が勝手に息子の寝床にいると思い、追い出そうとする。

これはつまり、この時には、主人公はその人本人であって、その人本人ではないような、あいまいでどちらでもない、不可得な状態にあった、ということであろう。

しかし、父親はすぐに、この寝ている男が息子であったと分かる、分別する。

こうして息子は父親に歓迎される。おそらく、部族の人々にも歓迎される。もう人喰いに怯えることはなくなったからである。人々は人喰いの獲物にされることなく、暮らせるようになりましたとさ、である。

* *

経験的に意味ある世界を分別する、基本的な対立のセット

経験的な人間の世界とは、人間が捕食者であり獲物ではない世界である
それに対して人間が「人喰い」なるものの獲物にされるような世界というのは、まだ今日のような人間世界が始まっていない、ということである。

人間の世界を非-人間世界から分離するために、人喰いたちが人間に近づいたり離れたりする伸び縮みする動きを断つ必要がある。

このために、一見すると(経験的には)怠惰に見える主人公が、実はとてつもない勇気と運と強い意志を備えていた、というところから話が始まる。見た目の感覚的な印象とは真逆の人でした、ということである。

この主人公が、過度に分離した人喰いとの距離を縮め人喰いの夫たちと妻との結合を分離に転じ男/女の区別をひっくり返し、シラミ取りの世話をすると言って過度に接近しては、人喰いの首を体から分離する

経験的な二項対立の両極を過度に結合してどちらがどちらかわからないようにしたところから、一挙に転じて、人喰いたちを分断する。人喰いは頭と体に分けられ、また、妻のもとに残された「一」と、主人公のものになった残りとに分離する。最後に、人間界に帰ってきた主人公は最初その父親から息子だとは気づかれないというあり方をしている。

父は自分の息子なのに息子だと気づかない。この絶妙な不可得加減。分離を結合に転じ、結合を分離に転じ、分離と結合という対立する二極の間が伸び縮みする。ここでは前回の記事の神話と同様に、連続/非連続の分別が区切られる。

そしてこの伸びたり縮んだりする振幅を描く動きが止まり、人喰いたちと人間との区別がはっきりと分別されたところで、人間が獲物でもあり捕食者でもあるような曖昧に対立二極の間で振動している状態が終わりを告げて、人間が人間ではないものではないものとして安定的に分別され続ける状況が定まる。

野生の思考は細部の差異の伸び縮みに注目す

野生の思考の神話論理が、きわめて細かい差異と、細かな分離と結合の動きに注目するのがおもしろい。この感覚の細かさが野生の思考を読書において追体験する時の鍵である。

古来、おそらく人類が狩猟採集生活を続けていたころから、神話を語り伝え、変形させてきた人々にとって、感覚の細かさは生き延びる上で重要な能力だったはずである。

森の中の毒草と薬草を、かすかにおいや派の手触りで分別したり、微かな獣の臭いの痕跡から、目に見えない危険を察知したり、あるいはまだ見ぬ獲物の存在を感知したり、といったところである。

この感覚の細かさは、単なる細かさだけでなく、「なんだか分かるような分からないような」ものたちの動的に動くめく様相を、結局なんだかはっきりよくは分からないまま潜り抜ける、いわば「あいまいさ」への耐久力とセットになって動いていたものだったはずである。

ところが、人類が「野生」を離れ、人工空間=記号空間に閉じこもって生死を完結するようになったとき、そのつるんとした人工空間は滑らかで透明なコミュニケーションを善とする固定した意味の空間であったため、古来から受け継いだ感覚の細かさや、あいまいさをあいまいなままに保つ心は、滑らかな表面に「引っ掛からなくて良いところで、引っかかるひと」になってしまい、困ってしまうのである。

逆に、この人工空間=記号空間の滑らかさが耐え難い牢獄の壁のようなものに感じられるひとにとっては、あいまいさをあいまいなままに保つ心、すなわち神話の論理でうごく野生の思考は、この牢獄の壁をぐにゃりぐにゃりと柔らかくして、溶かして透明にして、しかもそれでいて、そのぐにゃぐにゃした世界を恐れることなく通り抜ける叡智になる。


細部の伸び縮み

この「感覚の細かさ」と「あいまいさをあいまいなままに」を念頭におきつつ、もうひとつ、別の神話をみてみよう。「M466 アラバホ 石の少年」である。なかなか恐ろしい描写が続く。

六人の兄弟がひとりの姉妹とともに人里離れて住んでいた。

ある日、一番上の兄が、他の野営地を訪れることにした。

行く途中で、見たことのないテントを発見した。
そこには老婆が寝ていた。
老婆は背骨が痛いのだと言い、 旅人に背中を踏んで痛みをやわらげてくれと頼んだ。しかし、老婆の一番下肋骨が突き出ており、それが足に刺さって、六人兄弟の長男は一旦死んでしまう

魔女はテントの抗で長男の体を地面に釘付けにした。
そして、パイプの灰を目と口と胸にかけた。
ほかの兄弟たちもつぎつぎ同じ目にあった。

ひとり残された姉妹は放浪生活を始めた。



ある晩、彼女は丸くて透明な石口に入れた。
石の様子が気に入ったのだ。
やがて彼女はひとりの男の子を産んだ
男の子はすぐに成長し、「明るい石」と名づけられた。


母が泣いているのを見て、この子は行方不明になった叔父たちを探しに出かけることにした。
彼はくだんの老婆のところにやって来た。
老婆はまた、背中を踏んでくれるようにと石の子を迎え入れた。
しかし彼の身体は石でできており、それが鬼婆の身体をこなごなに砕いた
彼は老婆の体を薪の山の上に置いて灰にした。
それから六人のおじたちをよみがえらせ、一家はまたいっしょに暮らすようになった


* *

石の子と母と、母の六人の兄弟たちが暮らしていると、ある日、衣類をいっぱいに詰めた袋と鉄の掘り棒を持った老婆がやって来た。さきほどの老婆とは別人の第二の老婆である。この老婆は家の者たちの前で袋をあけることを拒んだので、明るい石はキツツキに姿を変え、彼女をこっそり観察した。

老婆は七枚の男性用の服と、一枚の女性用の服を広げたが、その縁飾りは人間の体毛でできていた。鬼婆の独り言から、彼には鬼婆が自分も母もおじも殺害してその体から作品にまだ欠けている体毛を取ろうとしているのだということを知った

そこで石の子は、野生のイモを採って来いとの口実で老婆を追い払うと、その袋を焼いた

煙でそれと気づいた老婆は走って戻 り、自分の鉄の棒を使って火の中からふたつの「睾丸で飾られた被り物「と鉄の盾を拾い出した
盾の皮製の覆いはすでに焼けてしまっていた。
被り物と盾を身につけ、老婆は石の子に戦いを挑んだ
石の子「明るい石」が老婆に向けて放った矢は、老婆の盾にあたったがはね返った
次に明るい石が、老婆の被っている「ふたつの睾丸」の「真ん中」を矢で射ると、矢は老婆の額に命中した。
老婆の体は薪の上で燃やされた。

**

このようにいろいろなことがおきたあと、一家は、たくさんの人々がクラス「部族の第一の野営地」に合流することにした。やがてひとりのインディアンの男に言い寄られた石の子の母は、彼と結婚し、ひとりのかわいい女の子を産んだ。この女の子は「明るい石」の異父妹にあたる。

「明るい石」も部族のいろいろな女性と関係を結んだ。
しかし、毎晩彼と床をともにするために次々とやって来る若い娘たちのうち、いったい誰と結婚すべきか決心がつかないでいた。

そんな時、明るい石のもてぶりに心を乱された妹が彼に恋をした。
なんどもつづけて、夜、彼を訪れる女たちを装った。
明るい石は相手の女が頑として口を利かないことに驚き彼女の肩に色を塗って目印をつけた。
朝になって、彼女が自分の妹であるかを知った明るい石は、恥しさから一日中床についていた。なぜかこのことを知った子供たちがインセストをあばいた。夜が来ると明るい石は丘の上に行き、嘆き悲しんだ。
彼の母は戻ってくるように四度も懇願したがむだだった。

彼は人間であることをやめ、石に変身することに決めた。
それがもう二度と妹に会わないための唯一の手段だと考えたのである。
そして丘の上でたいへん明るい石になったので、ずっと遠くからでも見えた

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』pp.434-435
M466 アラバホ 石の少年(前出、三八三頁参照)

見どころ豊富な神話である。

冒頭、7人組の兄弟姉妹が「人里離れて」生活している。
まず兄弟姉妹たちは、ひとつにぎゅっとまとまって、集まって、集合体をなしている。つまり過度に結合している。
一方で、この兄弟姉妹たちは、他の人々からは「離れて」暮らしている。つまり過度に分離している。

こちらで過度に結合し、あちらで過度に分離し。

分離と結合、対立する二つの極を、別々の様相でもって同時に体現しているのである。

そしてこの分離と結合の二極の間の間を高速で振動するようなあり方をしながら、兄弟姉妹たちはその結合した塊の中に、ひとつの非対称、アンバランス、つまり分離へと向かう傾向を秘めている。

すなわち、男性が六人なのに、女性が一人、というこの数のアンバランスである。

このような分離と結合の両極が分離したり結合したり、伸び縮みしている状態は、まだこの現世の経験的で感覚的な分別がはっきりと区切られていない時空であり、つまりこの世界が世界として開闢する手前の状態をあらわしている。

ようするに、人間の世界がまだない、ということである。

人間の起源の手前には、人間と非-人間の分離があり、そのさらに手前には分離と未分離の分離がうごく

神話はさまざまな物事の「起源」を語ることが多いが、人間にとって究極の起源のひとつは人間の起源である。

神話の論理で動く野生の思考は、この人間の起源を語るために、いや、ありとあらゆる物事、「他ではないそれ」である物事の起源を語ることを可能にするために、まずある何かとそれではない何かを分けること、分別することの起源を語るところから始める

即ち、

未分節 / 分節


未分離 / 分離

この分別を区切ることが、ありとあらゆる語り、思考の出発点に動いていなければならない。

七人セット

またおもしろいことに、この人間以前の兄弟たちは七人セットである。

これが「八」であると、どうにもしっかりと調停された、分節システムが完成した後の姿(八項関係のマンダラ)を思わせてしまう。

ここはまだ八を持ち出すことはできず、「八ではない」、「八の手前」として、「七」をもってくるのである。

この七は兄弟姉妹である。
つまり年上/年下、男/女といった対立軸上で分かれていながら、しかし同じ一つに結びついている。6人の男兄弟について、ひとりひとりを判別するような語りが一切ないことに注目しよう。つまりここには区別がない、区別できない、区別する必要がないのである。

ところが、この七人セットのところから、まず、一人が分離する。

6 ←/→ 1

7が1と6に分かれる。

この分かれた「1」はなぜ分かれたかというと、「他の野営地」を目指してのことである。他の野営地というのは、人間の世界のことであろうか。

この語りだけ見ると、もともと存在する人間世界にむけて出かけていくよにみえるが、じつはそうではなく、この7人のうちの一人が他の6から分離し、遠ざかることによって、その分離したあちらとこちらの両極の一方のほうに、はじめて「人間世界ではない世界ーではない世界」としての「人間の世界」が区切り出されて、存在するようになる

* *

伸び縮みの開始

しかし、この人間界を区切り出す動きは、そう簡単には実行できない。
長兄の旅は失敗に終わるのである。

長兄は、旅の途中で山姥のようなものに捕まって、倒されてしまうのである。長兄の体は動き回ることができないように(つまり「他の野営地」への旅を続けられないように)「杭」で地面に釘付けにされる。

そして「タバコの灰」という、「火を通したのに食べられないもの」という両義的媒介項を目、口、胸に塗りつけられる(過度に結合させられる)。両義的媒介項と過度に結合されるものは、両義的媒介項である。

長兄はβ項たちが過度に結合したままの状態に留め置かれるのである。

同様に、残りの五人の男兄弟たちも、釘付けにされる。

七人兄弟のうちの六人の男たちは、過度な結合状態を分離へと引き開こうと動きを開始したが、すぐにまた過度な結合へと縮められてしまった。

* * *

さて、ここで妹の登場である。

兄弟のうちの唯一の女性である妹は、七人兄弟の中に過度に結合しつつ、しかし、男/女の対立軸上で、他の男兄弟たちからはあらかじめはっきりと分離しており、その点で、男兄弟たちと同じ運命にあうことから免れているのである。

妹は「放浪生活」を始める。

兄たちのように、「他の野営地」を目的地とした旅ではないことに注目しよう。あくまでも放浪、行く宛がないのである

どこかに目的地を定めるということは、すでにある種の結合状態にある。兄弟たちは、最初の結合状態を、別の結合状態に切り替えようとして、山姥のところで串刺しにされるという形で意図しない結合状態に結ばれている。様相は変わっていくが、過度な結合状態

β
ββ
β

が、ぐにゃぐにゃとこねられている状態に変わりはない。

それに対して妹は、

β
ββ
.
.
.
.
β

という具合に非ー結合を体現するような、「放浪」という動きをしめす。

「石」との過度な結合

そして妹は、「石」を気に入り、飲み込む。
そしてすぐに息子を産む。
息子はすぐに成長する。

なにやら急展開するが、これは、石を飲み込むのが過度な結合の様相であり、子供を産むのが分離の様相であり、子供が成長して親元を離れていくのもまた分離の様相である。

結合から分離へ、という様相を、「飲み込む」「産む」「成長する(親元を離れる)」といった述語で表現しているのである。

ちなみに、通常、子供が産まれるような結婚というのは人間と人間のあいだになされるが、この妹の場合、子供の誕生が、人間的存在あるいは生命的存在とはもっとも隔たっているように齧られる「石」との間で達成される。

石というのはその安定感、存在者として持続する時間の長さという点で、儚い人間の肉体と真逆に対立するものである。

つまりこの結婚ならぬ結合は、過度に分離したところを一挙に短絡するタイプの両義的媒介項(β)の脈動である。

** 

さて、ここまでくればもうこの先の筋書きが見えてくる。
石の子は、過度に結合したところを分離してまわり、あるいは過度に分離したところを適度に結び直して、そうしてこの現世の意味ある世界の秩序を設立するはずである。

石の子の旅

まず、うまれてすぐに育った子、「明るい石」は、もともとの7人の兄弟姉妹とは「別」であることに注意しよう。この子は七人兄弟姉妹とは別の世代であり、もともと七人と同居していたわけではなかった

つまり七人が過度に不可分に溶け合っているような状態から、「明るい石」はそもそも解放されており、あらかじめ自由なのである

山姥を”分離”し、母の兄弟たちを復活させる

まず「明るい石」は、くだんの山姥のところに行く。
そして叔父たちと同じように、山姥の身体に過度に結合する(背中に乗る)が、「明るい石」は重い岩石であり、山姥を砕いて「こなごな」にしてしまう。単に山姥を倒した、というのではなく、わざわざ「こなごな」と言われているところに注目しうよう。

粉々とは、ようするに、細かく分離されているということである。
β結合を体現していた山姥が、バラバラになる。
このバラバラになった山姥を、「明るい石」はさらに丁寧に「灰」という姿にまで分解する。徹底した非結合=分離である。

そうして釘付けになっていた叔父たちをよみがえらせる。

人間が蘇るものか、と思われた方もいると思うが、これは神話である。
人間の話ではない。

ところで「背中を踏んで治す」という話について、レヴィ=ストロース氏は次のように書いている。

足から先に生まれた子供は背中の痛みを治す力がある。病人の背中をそのような子供たちに足で踏ませるのである」。神話によれば人を殺す肋骨は一番下にある骨、つまり、オマハ族が言うには胎児が頭を持たせかけている骨であるだけに、この比較はもっともらしく思われる。これが理由でオマハ族は、その一番下のあばら骨を胎児とともに彼らの部族の特別の禁忌のひとつに含めているのである」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.436

「背中を踏んで治す」とは、言い換えると、痛みを取り除く、ということである。痛みと身体は通常、感覚的、経験的には、ぴったりと結合していて、容易に分離することはできない。「痛いの痛いの飛んでいけ」という呪文ではないが、そう簡単には「飛んでいく」ことなどないのが痛みである。

痛みと身体は過度に結合している

この”過度に結合しているところ”を、分離へと転じるのは、神話の得意技である。分離してほしいところが結合してしまっているところには、結合してほしいところが分離しているような両義的媒介項をくっつけることで、これを引き離すことができそうである。

ここで、背中を踏んで痛みを取り除くことができるのは「足から先に生まれた子供」であるという話が際立つ。

最初 / 最後
||  ||
頭 / 足

この二重の四項関係を重ねる向きが、一般的なパターンとになっているのが「足から生まれた子」である。

最初 / 最後
||  ||
足 / 頭


通常結合しているはずの「最初」と「頭」が分離して、「最初」と「足」が結合している。

細かいなあ、と思われると思うが、これが野生の思考の神話の論理の細かさである。

さらに面白いことに、「足から先に生まれた子供」が痛みを取り除いて人を助けるのとは逆に、「肋骨の一番下の骨」は、人を死に至らしめる力を持つと考えられた事例が示される。この神話では、この骨に貫かれて、兄弟たちがやられたのである。

「足から先に生まれた子供」 / 「肋骨の一番下の骨」
||     ||
人から苦しみを取り除く / 人に苦しみを与える

こういう感じの二項対立の重ね方になっている。

そして面白いことに、「足から先に生まれた子供」と(たぶん母親の)「肋骨の一番下の骨」とは、母親のお腹の中では結合していたというのである。すなわち、「足から先に生まれた子供」は「肋骨の一番下の骨」に「頭をもたせかけていた」、つまりぴったりくっついていたのである。

ββ

β ←・・・・・・・・・ → β

もともと過度な結合状態にあった二つのβ項、「足から先に生まれた子供」と 「肋骨の一番下の骨」は、お互いに分離された後も、強烈な媒介作用(分離を結合に転換したり、結合を分離に転換したりする力)を保ち続ける。

それゆえに、身体から痛みを取り除いたり、生を死に転換したり、といったことを自在にできるのである。そしてまたこのβ項は「禁忌」の対象となるのである。

今度は八人の生活へ

さて、六人のおじたちが復活し、また六男一女の生活がはじまった。
そこに「明るい石」も加わったので、八人暮らしになる。

六人の男性 /(兄妹関係)/ 一人の女性
                 /
               (親子関係)
                 /
               「明るい石」  

兄弟関係、親子関係とも、複数の存在者が別々に分離しながらも、同じ一つの塊に結合するあり方である。親子関係と兄妹関係という二つの分離しつつ結合する動き(述語)が、四項関係を編み始めているのがよい。

第二の山姥とキツツキに変身した明るい石

さて、そこへ「ある日、衣類をいっぱいに詰めた袋と鉄の掘り棒を持ったべつの老婆がやって来た」となる。

第一の山姥の時は、兄弟たちはこちらからあちらへ出かけて行ったのであるが、第二の山姥は逆にあちらからこちらへと出向いてきた

この第二の山姥、謎の袋を持っている。
袋の中には人間の体毛でできた「縁飾り」のついた服が入っていた。

そしてどうやら、この山姥、「明るい石」の母と叔父の七人兄妹を殺害して、その体毛を奪い、服の装飾の材料にしようとしているらしい。おそろしいはなしである。

しかし、今回は「明るい石」がいる。彼は「キツツキ」に変身し、山姥の悪巧みを見抜いている。キツツキは、木の中身を自在に(人間に比べればの話である)取り出すことができる動物である。

内 / 外

容器 / 中身

この分別も、人間の経験的感覚的世界の安定性を支える重要な分別であるが、キツツキはこの二極の間を自在に往来できる、両義的媒介項である。

明るい石は第二山姥が目を離している隙に、人間の体毛でできた「縁飾り」のついた服が入った袋を焼いてしまう。

煙に気づいた山姥は取って返して、燃える袋の中から「ふたつの睾丸で飾られた被り物」と「鉄の盾」を回収する。

ずいぶんとんでもないものを所有しているように思えるが、神話的には、そう驚くほどのものでもない。これは要するに「男/女」の分別と「上/下」の分別をねじっているのである。

女性に対する”男性”の、上に対する”下”のほう、というか、頭/足先の中間、上/下の中間にある「二」を、「女性」の「上」に結合している

こうすることで上/下、男/女の分別さえ高速でくるくると不可得にできる、強烈な両義的媒介項、β項の恐ろしい姿ここに極まれり、という感じである。


      上 
   女性ー(中間のx) / * /(中間の二)ー男性
   下   下

この「被り物」と「盾」で武装した老婆は、「明るい石」と戦いを開始する。八人が矢を射かけても、盾に跳ね返される。結合したのに分離するのである。

しかし、「明るい石」が、山姥の「被り物」の「ふたつの睾丸の真ん中」を射ると、その矢は命中し、山姥を倒した。この「明るい石」の攻撃で、”男性の上/下の中間”と”女性の上/下の上”を短絡したβ励起状態にあった山姥が、バラバラに分離されたのである。

こうして荒ぶる両義的媒介項(β)の戦いがおわる。

そして、現世の分別が定まりましたとさ・・・となるかと思えば、まだである。

↑上の話を「当たり障りのない穏当なビジュアルに」

明るい石とその異父妹

「このようにいろいろなことがおきたあと、一家は部族の第一の野営地に合流することにした」とくる。

ここで明るい石の母親は、人間の男性と結婚する。そして娘を産む。

思い出してみよう。
明るい石は、母親が石を飲み込んで産んだ子である。
明るい石と、この生まれたばかりの妹は、異父兄妹の関係にある。

もうお分かりだと思うが、ここで最後の分離と結合の錯綜が起きる。

「明るい石」は、それと知らずに異父妹と結ばれてしまうのである。
異父妹と知って結ばれたのではなく、知らずに、というところがポイントである。

ここでおもしろいことに、三輪山神話と似たような話になる。「明るい石は相手の女が頑として口を利かないことに驚き彼女の肩に色を塗って目印をつけた。」というところである。

三輪山神話では、蛇の姿をした神と人という、過度に分離したものの間の結合が生じたわけだが、こちらの明るい石の神話では、過度に結合したものの間にさらなる結合が生じる。

結婚は、分離された二者を分離したまま適度に結合する、という分離と結合の調和、分離と結合の二極のあいだのバランスである。

これに対して、過度に分離した二者のあいだの結婚や、過度に結合した二者のあいだの結婚では、分離と結合を均衡させることが難しくなる。「姿を見せない」とか「口を聞かない」といった、近くにいるのに不自然に感覚的印象を制限する様子は、この不均衡の気配を漂わせている。

しかし、このインセスト・タブーの侵犯は明るい石の知るところとなり、集落から分離して、「丘の上」へと、離れていく。

明るい石は「四度」、戻ってくるよう母親に懇願されたが、もう人間たちのところに戻ってくることはなかった。戻ってくるように頼む、ということの述語的な様相は、分離したものを、あらためて結合へと転じよう、ということである。分離を結合へ、分離を結合へ、分離を結合へ、分離を結合へ。これを四回繰り返して、ぐるりと一回りにすると、ばらばらになりかけた対立関係が、マンダラ状の二重の四項関係にまとまる。

そして、彼は石に変身し、異父妹との「分離」を確定する。

分離するでもなく結合するでもなく、というあいまいで両義的で媒介的な振動状態を見えなくして、はっきりと確定した分離の相を浮かび上がらせる。

「明るい石」は、私たち人間が感覚し経験できる「石」の姿でもって、村から離れたところにあるが、しかし遠くからでも見ることができる、という状態におさまる。

遠く離れているが、しかし、見ることはできる。

はっきりと分離されているが、視覚という限定的な感覚の様相において、繋がっていることを知ることができる。

おわりに

以上、今回みた神話にも、実に細かい、感覚的な対立、区別、分別が続々と登場した。

これらの分別によって”分けられた”諸項をひとつひとつ拾い出して、眺めても、その細かさに、「いったいこれは何なのだろう??」という疑問が増殖していくばかりである。

この手の神話を「これはあれだ、あれはそれだ」という具合に、謎の細かいものたちを次々と他の言葉に言い換えていくやり方で「理解」しようと思うと、大変なことになる。

そこで、このβーΔのモデル、対立関係の対立関係の対立関係を開いていくような、分離と結合を結合しつつ分離し分離しつつ結合するあれこれの述語の様相に着目することで、突如、この恐ろしげな連中の暴力満載の神話が、美しいマンダラの脈動に姿を転じるのである

つづく



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