言葉の言い換えを加速して、分別心を軟らかく伸び縮みさせる -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(86_『神話論理3 食卓作法の起源』-37,M487 石の少年)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第86回目です。『神話論理3 食卓作法の起源』の第六部「均衡」を読みます。
これまでの記事は下記からまとめて読むことができます。
これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。
はじめに
この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」を、空海が『吽字義』に記しているような二重の四項関係(八項関係)のマンダラ状のものとして、いや、マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たちが共鳴する”コト”と見立てて読んでみる。
経験的な区別が概念の道具となる
レヴィ=ストロース氏は大部の神話論理の冒頭に次のように書いている。
「生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」
経験的感覚的な区別(分別)を、概念の道具として観念を抽出し(つまり分別同士を重ね合わせて意味分節する)、この観念を繋ぎ合わせる(意味するものと意味されることとの一対一の静的ペアをリニアに連鎖させる)ことが「どのようにしておこなわれるか」。この「どのように」をマンダラ状の意味分節システムの生成消滅の脈動のモデル上でシミュレートすると、概ね以下のような具合になる。
神話論理のアルゴリズム(動き方)
即ち、神話は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜Δ4を分けつつ、過度に分離しすぎない程度に付かず離れずに結んで安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指す。

そのためにまずβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きが語られる。
両義的媒介項たちを遠ざけたり近づけたりする
β項は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている。そのようなものたちは、経験的感覚的には「存在しない」が、神話は、何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。
お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。
そこから転じて、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力がバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。
私たち一人一人にとっての世界の意味は対立関係の組み合わせとして分節されたものである
ここに私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される。何らかの経験な世界は、その世界の要素の起源について語る神話はこのような論理になっている。

私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。分別心の表層意識に浮かぶ図2のような、所与の諸要素たちをかっちりとした構造体として配置したように感じられる意味分節システムは、実は、図3のような脈動する波の伸び縮み(周期的に反復される振動の周期T[s]が伸び縮みすること)を瞼を細めて薄目で眺めたようなものである。

*
神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験することを可能にしている分別(ふんべつ)、あるいは意味分節のパターンが、あれこれさまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にするし、またそうした分別、意味分節のやり方を相当程度自覚的に自在に組み立てることをも可能にするのである。
上/下の分別における上の方の極端としての頭皮、あるいは頭髪
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理3 食卓作法の起源』から「M487オグララ・ダコタ 石の少年(一)」という神話を見てみよう。

昔、四人の兄弟がいた。
そこにひとりの見知らぬ女が訪ねてきた。
四人兄弟は彼女を自分たちの小屋に泊めることにした。
女は四人兄弟のまえでは顔を隠していた。
不審に思った一番下の弟が鳥に姿を変えてこっそり見た。
すると女の顔が毛に覆われていることがわかった。
それは魔女で、四人の兄弟の頭皮を奪い、同じような頭皮を集めて装飾された服を仕上げるための材料にしようと思ってやって来たのだった。
魔女は兄弟たちの上の三人を殺した。
一番下の弟は魔女と戦い、その首を刎ね、兄弟たちを生き返らせることができた。
*
つぎに別の女が訪ねてきた。
訪ねて来た女の様子を、一番下の弟は、また前と同じように盗み見た。
しかし今回の女は純真で、兄弟たちにモカシンをつくってやることしか考えていなかった。
それでも兄弟たちはひとり、ふたりといなくなってしまった。
* *
そうしてこの女性が、この世にひとり、残された。
ひとりになってしまった女性は小さな石をひとつ飲み込み、それによって身ごもった。女はやがて男の子を産んだ。
その子は大きくなるとおじたちを探しに旅に出た。
そして、あるよこしまな魔女の小屋の前で叔父たちの骸骨を見つけた。
魔女はこの子も捕まえて亡きものにしようとしたが、石の身体を持つ子は不死身だった。彼はその老婆を倒し、 おじたちを生き返らせた。
冬になると、主人公の石の身体をもつ少年は若い娘たちに出会た。この娘たちは彼を雪の斜面を滑り降りる試合に誘った。彼を岩壁にぶつけて亡きものにしようと画策してのことである。主人公は彼はこの娘たちとも戦い倒した。
この娘たちは変身したバイソンだったのだが、仲間のバイソンたちが復讐しようと四人兄弟を襲った。兄弟は勝った。このようにして人間はバイソンを 狩りの獲物として手に入れたのである。
M487「オグララ・ダコタ 石の少年(一)」
食べられるのはどちら?
この神話の最後は、人間にとっての狩猟対象動物(獲物)としてのバイソンの起源を語っている。ここに出てくる基本的な二項対立は獲物と捕食者の分別である。
つまりこの神話は、
人間 / バイソン
|| ||
捕食者 / 獲物
この四項関係=二重になった二項対立関係を引き延ばしつつ結んでおくべく、経験的感覚的な区別のどちらともつかないものたちの距離を伸び縮みさせるのである。
捕食者(狩猟者)と獲物の区別は、自明のことではない。
バイソンは危険な動物である。
もし、経験の浅い人間が、適切な狩猟道具を用意せずに、ふらふらとバイソンの前に躍り出て叩いたり蹴ったりしようものなら、人間の方がバイソンに「狩られ」てしまうことだろう。

バイソンに限らず野生動物を狩猟する場合、狩猟者はいつも安全に勝利を収められるとはかぎらない。
特に、今日のような強力な飛び道具がない時代、人間と動物が最接近する瞬間には、どちらがどちらの命を取るのか、わからなくなる。
そうであるからして人間とバイソン、どちらが狩猟者でどちらが獲物かよくわからない(不可得)状態を、両者がはっきりと分離された状態へと転換する必要がある。
この区別対立があいまいな状況を、区別対立がはっきりした状況へと転換する操作が神話の語りなのである。
あいまいなところから
この神話の冒頭は、ものごとが分かれているような分かれていないような、あいまいな状態からはじまる。
冒頭、四人の兄弟が登場する。
この四人は兄弟という点で「同じ」であるが四に分かれつつ、しかし一体的に一つ屋根の下に暮らしている。上の図で言うと、ちょうど中心から少し外側へと広がった感じである。
この男四人一体のところに「顔を隠した、見知らぬ女」がひとり、入り込んでくる。
男/女
既知/未知
多/一
これらの対立軸上で、もともと遠く分離されていたものが結合する。分離していたところが結合へと向かう伸び縮み、様相の転換である。

この女は四人兄弟たちの前では顔を隠している。
つまり一つ屋根の下に極めて接近していながら、顔を隠すことではっきりと分離されたままになる。接近結合しているが分離しているという、分離と結合の対立の両極間で、そのどちらの極ともつかない不可得な状態にある。
変身
ここで変身である。
四人兄弟の一番下の弟が、鳥に変身する。
そして鳥の姿のまま、顔を隠した女の様子をうかがう。
鳥に変身した四男と、顔を隠した女が、見る=見られる関係において結合する。
この女は魔女であるが、まさか近くにいる鳥が兄弟のうちの一人が変身したものだとは気付かずに、その素顔を見せてしまう。
ここで
(1)一番下の弟の変身した鳥としての姿と、
(2)顔を隠した姿の魔女
は、どちらも「正体を隠している」という点では同じである。
しかし、顔を隠した魔女の方は隠していることが明らかになっているのに対して、まるごと鳥になった四男の方は隠していることが明らかになっていない。この点で真逆に異なり対立している。
隠していることが明らかになって-いる
/
隠していることが明らかになって-いない
絶対に開けてはいけない箱が目の前に置いてあるか、そもそもそのような箱があることすら知られていないか、この違いである。
同じように正体を隠しているが、あからさまに隠しているか、密かに隠しているかという対立軸上では真逆に異なる。ここにも同じなのに異なる、非同非異という伸縮する両極を最短に縮めた状態があることに注意しよう。
この神話の冒頭では、異なるが同じ、同じだが異なる、異なっているのか同じなのか、どちらか不可得な状態に、ありとあらゆる対立関係が圧縮されている。

分別のはじまり
さて、鳥に変身した四男は、この来訪者が顔面を毛に覆われた魔法使いであることを見抜いたのだが、時すでに遅し。この魔女は四人兄弟の上から三人を倒して頭皮を剥がした。
四人を三人と一人に分ける
ここでまず、四人一緒でワンセットだった兄弟たちが、頭皮を剥がされた者と、頭皮を剥がされていない者、この二パターンに分けられる。
頭皮を剥がされた者 / 頭皮を剥がされていない者
またここで、「顔面を毛に覆われた」と「頭皮を剥がす」は、それぞれ単独に眺めていても謎に思えるが、よく見ると見事に対立をなしていることもおもしろい。
すなわち人間の頭(顔)には、経験的に多くの場合は頭の上に毛があり、顔面には毛がない。頭は一つでありながら、毛のある部分と毛のない部分の二つに分かれている。
頭の上半分 / 頭の下半分
|| ||
毛 あり / 毛 なし
そしてこの神話の登場人物たちの場合、魔女の方は通常毛がないはずの顔面に毛があり、四人兄弟の上から三人の方は通常毛があるはずの頭皮を剥がされて、毛がなくなる、という、経験的なあり方を「逆」にしたものになっている。
頭の上半分 / 頭の下半分
*
毛 なし / 毛 あり
つまり、経験的に通常、分離しているはずのふたつが結合し、結合しているはずのふたつが分離する、ということが起こっているのである。こういうのをβ脈動と仮に呼んでおこう。
分離を結合し結合を分離し
二重の二項対立を伸び縮みさせる
神話は経験的な区別を概念の道具として論理を展開するのであるが、ここではまさに、頭の上/下という経験的な区別と、毛の有/無という経験的な区別を道具にして、すなわちこの二つの区別が経験的に結合している方向を強いて逆にすることで、通常分離しているところを結合し、通常結合しているところを分離した、分離と結合の関係が不可得になる状態、分別と無分別の分別の手前の絶-対無分別の概念を表現する。

毛がないはずのところに毛がある魔女と、毛があるはずのところに毛がなくなってしまった三人とが、この頭皮を奪われる場面で過度に結合する。経験的感覚的に分離し対立する事柄が、過度に結合、凝集するようである。しかしこの過度な結合は、すぐに分離へと転じる。
離れていた四男が戻ってきて(残りの三兄弟たちの頭皮を持っている魔女のに接近して)、そして魔女を頭と身体の二つに分けるという方法で倒して、三人の兄たちを甦らせる。兄弟たちも生/死の区別という経験的には決定的な分離を易々と乗り越えて、彼方からこちらへ、こちらから彼方へ、移動する。
魔女は一から二へと分離し、そして兄弟たちのもとからの分離する。
魔女と兄弟たちの間は、過度な結合から過度な分離へと逆転する。
人体には毛が生えている部分と生えていない部分があるという卑近な(というと毛に失礼であるが、要するに極めて経験的にわかりやすいということである)ものを使って、経験的に対立する二極のどちらか不可得であるという抽象的な概念を構築する。野生の思考の神話の論理の真骨頂である。
* *
第二の訪問者/知らぬ間にいなくなる
さて、四人兄弟のところに第二の女の訪問者がある。
先ほどの魔女の襲撃があったばかりなので、この二人目も頭皮を狙う魔女なんだろうと疑いたくなるが、どうやら違うらしい。
二人目の女性は親切に兄弟たちに靴を作ってくれた。
第一の魔女は
「頭に」
「もともとついてーいるーもの」を
「取り外そう」
とする。
これに対して第二の女性は
「脚に」
「もともとついてーいないーもの」(すなわち靴)を
「取り付けよう」
とする。
第一の女性(魔女)と第二の女性で、やることが真逆に対立しているのがおもしろい。
とはいえ、この第二の女性も、最初はあくまでも敵か味方か、どちらははっきりとしない、という不可得なあり方になっているところに注目しておこう。彼女もまた神話的な両義的媒介項(β)である。
またこの二人目の女性と先ほどの魔女とはどちらも両義的媒介項であるが、見事に対立している。魔女は四兄弟を脅かし、二人目の女性は四兄弟を助ける。
*
ところが、今回も兄弟たちが原因不明のまま順番にいなくなる。
さらに、さきほどと違うのは、今度は、四人兄弟ともいなくなってしまう。残されたのはこの親切な女性だけである。
ここで、四と一とが分離していることに注意しておこう。
先ほどは四が一と三に分離したかと思ったら、すぐに結合してまた四つセットに戻ったのであるが、今度は四は四のセットのまま、第五の「一」と分離する。
つまり四人兄弟と魔女が過度に結合したり過度に分離したり高速でその距離を伸び縮みさせていた高振動状態から転じて、今度はこの四人兄弟と「どこにいったかわからない」ほど分離された一人の女性との対比、両者の間のな分離が長く伸びた状態が引き起こされる。
1) 男 / 女
2) 多数(四、結合) / 一(分離)
整理してみると、この二つの対立軸上で、対立する二極の間が長く伸びるて、伸びきったところで、一旦両項は静止する。
一人になった女性が石の子を産む
さて、世界に完全に一人になってしまった親切な靴作りの女性は、「石」を飲み込んで身籠り、身体が石でできた男の子を産む。
「一」であった女性が「二」に分離する。伸びる。
経験敵には、子供は男/女が揃ったところに登場するはずであるが、この神話的な両義的媒介項である女性は一人で子を産むことができる。
これは父親になるはずの男性を持たない女性と、その子供、という通常過度に分離されているところを真逆に逆転して過度に結合・短絡、最小距離に縮める相と見ておこう。
さて、この石の子供も当然、両義的媒介項である。つまり過度な分離と過度な結合、この二つの極の間で自在に振幅を描くことができる高い振動状態を保っている。

おじたちを遠方に探し出し、生き返らせる
石の子は、行方不明になって久しい、つまり過度に分離された状態にあるおじたちを探しに遠方まで行く。遠方まで行くというのとは、伸び切った距離を縮める、ということである。
そしてある魔女の小屋で、骸骨になったおじたちを派遣する。過度に分離されていたところを結合したが、しかし、おじたちは亡くなっていたのである。とはいえ、ここはまだβ脈動の中である。生/死の二極も高速で回転し入れ替わることができる。魔女を倒した石の子は、おじたちを「生き返らせる」。
この神話は最終的に何と何の経験的分別を区切り出そうとしているのか
さて、この神話であるが、この時点で、四人の男兄弟のセットと彼らの妻である一人の女性、そしてその女性が一人で産んだ石の子というメンバーが、過度に結合しているところと過度に分離しているところがアンバランスに組み合わさった状態になっている。
*夫1
*夫2 *夫3〜*【石の子】←ーーーーーーーー一*妻
*夫4
夫が四人で妻が一人というアンバランスな感じが経験的な夫婦の結合の安定感とは異なる様相の不安定さを醸し出しているし、四人の夫と一人の妻の間の子供が、妻が一人で産んだ子であるというところも複雑さを増している。
ここからこの神話は、一体どのような経験的で感覚的な二項対立を発生させてくるのか?
*
季節が過ぎ、石の子は、若い娘たちと出会う。
彼女たちが複数、四人組であることに注意しておこう。
彼女たちは四人の義父たちと同じく、一でありながら四(多数)のβ脈動の相にある両義的媒介項である。
この若い娘たちは、石の子を、「斜面を斜めに滑り降りる」遊びに誘う。

斜めに滑り降りる?
x軸方向とy軸方向、あるいはより感覚的に上/下と左/右と言おうか。経験的感覚的分別が確立された世界は上/下、左/右の分別がはっきりとしている。上は下ではないし、右は左ではない、という具合にである。
それに対して「斜めに降りる」は、この上/下、左/右が織りなす正方形の対角線を引くということである。そして神話の論理、分節があるでもないでもないところから分節を区切り出す動きを考える時、この対角線に相当する線が走ることで、この線の始点と終点を基準にして、正方形が、二項対立関係の対立関係としての正方形が展開される(広げられる)のである。
これはおそらく、諏訪大社の御柱祭の「木落とし」の背後にある神話の思考とおなじものである。
β脈動モードΔ二項対立確定モードに変換するために、実に端的に「斜めに滑り降りる」処理が行われる。
分離の確定、距離の確定、伸縮の停止
さて、この「斜めに滑り降りる」ことによって設立されたΔ二項関係、つまり現世の経験的で感覚的な分別とは、捕食者と獲物の分別である。
バイソン / 人間
|| ||
獲物 / 狩猟者
近代以前の狩猟採集を生業とする人々にとって、バイソンのような大型の動物は人間の獲物でもあるが、しかし時には人間を突き飛ばしたり踏み潰したりすることで人間を倒してしまう、危険な存在でもある。人間を突き飛ばして踏み潰すようなバイソンは、まるで人間を獲物として狩っているようにも見える。
人間 / バイソン
この両者の関係においては、どちらが狩猟者で、どちらが獲物か、はっきりしない曖昧さが常に付きまとう。これはこれは狩猟者たらんとしてバイソンに挑む人間にとっては恐ろしいことである。なぜなら狩猟者のつもりで狩に行ったら、逆に自分が狩られるかもしれないのである。注文の多い料理店を注文の多い料理店であると知りながらわざわざ予約して入店するようなものである。
そうであるが故に人間は、神話の思考を働かせ、「バイソンは獲物だ、バイソンは獲物だ」と、意味分節を効かせて意識を保つ必要がある。

上が下になり舌が上になり
伸び縮みの両端を短絡して丸める
この神話について、レヴィ=ストロース氏は次のような異文を紹介している。これもまた見事である。
冬の狩りの創設に関するマンダン族の神話も冬の狩りを頭皮の起源に結びつけている。 運に恵まれない若いワシ狩りの狩人が四色の髪をもった鬼の首を手に入れなければならない。ひとりのオジロジカ女が彼の裸の身体を自分の身体にこすりつけて彼を若い娘に変身させる。けれどもよく走れるように脚だけはそのままにしておく。彼は人喰い鳥を姉妹にもつ鬼のところにやって来て、鬼と結婚する。花嫁になりすました主人公はチャンスをねらって夫を殺し首を刎ねる。そして女の生理を口実にひとりきりになり、逃げ出す。
人喰いの姉妹を殺しその首も手に入れるなど、いろいろなことが起きたあと、主人公はヴァギナに歯の生えた三人のシカ姉妹[オジロジカ Dama virginiana, ミュールシカ Dama hemionus、 シカ属 Cervus sp.] に出会う。
もうひとりの姉妹は無害な雌のバイソンで、主人公はこの女と結婚する。バイソンは彼を自分の七人の兄弟から守る。七人の兄弟は戦争の神であり、人喰いである。彼らの武器を手に入れたあと、彼は仲間のところに戻る決心をする。妻であるバイソンは承知するが、嫉妬心から、彼が再婚するであろうインディアンの娘を四人まで殺すと警告する。
そこで、彼はまず身分の低い女を選び、女たちはひとり、またひとりと死んで行く。その後でやっと主人公は、 彼が帰ってくるとすぐに娘をやると言っていた首長の娘と結婚する。 この一〇個組の一一番目になる嫉妬深い妻は、半分バイソン、半分人間という混成の怪物で、寡夫状態をくりかえしつくり出す。
なかなか凄まじい連中が続々と出てくる。

過度な分離を過度な結合へと縮める
まず、「運に恵まれない若いワシ狩りの狩人」とあるが、これは狩人と獲物が、過度に分離されているということである。狩人と獲物は経験的には付かず離れず、適度に獲物を得られるようでなければならないが、この狩人は狩人なのに、獲物に恵まれない。獲物を持って帰ることができない狩人は狩人と言えるだろうか?
この話では、「運に恵まれない若いワシ狩りの狩人」は、最終的に首長の娘と結婚することになるのだが、まだこの冒頭の獲物に恵まれない状態では、とてもそのような結婚は許してもらえなかったであろう。つまり主人公は最終的に付かず離れずに結合するはずの妻と、過度に分離された状態なのである。
そこで主人公である獲物に恵まれない狩人は、獲物と過度な分離状態を、適度な付かず離れずの状態に接近させるための旅に出る。
四即一の呪物と短絡結合するための変身
そのための鍵になるのが「四色の髪をもった鬼の首」である。どうやらこの四即一のβ呪物を手に入れることができると、獲物との距離を近づけたり遠ざけたり程よい付かず離れずの距離に安定させたり、と言ったことが自在になるのである。

四即一のβ呪物「四色の髪をもった鬼の首」へと接近するために、つまりマンダラの外周のようなところから中心へと入り込むために、主人公は男性の姿から女性の姿へ、いや、女性とも男性ともつかぬ姿へ変身をする(足だけは男のままである)。
その変身のための方法がまた神話的な伸縮性がストレートに表現されているものである。主人公が裸になったところに「オジロジカ女」の体を「こすりつけ」るのである。
皮膚というのは内/外、自/他を分離する境界であると考えられがちである。
その皮膚と皮膚(あるいは毛皮)を直接こすりつける、重ね合わせる、密着させる、というのは分離しながら最も距離を縮める結合のあり方である。
オジロジカもまた狩猟対象動物であろうか。猟師である主人公の男は、獲物であるオジロジカと、元々分離されたいたところを過度に結合する相へと距離を縮める。
経験的な対立のどちらか不可得
こうして獲物だか狩猟者だかよくわからないほど密着しながら、それでいて渾然一体、区別なく一に溶けてしまうことんなく、はっきりと分かれている状態に入り、そこから男/女や、上半身/下半身といった経験的にははっきり分別されている二極の間を自在に結合したり分離したりできるようになる。
さて、足から上だけ女性に変身した狩人の男性は、「四色の髪をもった鬼」の元を訪れ、鬼と結婚をする。
鬼が「人喰い」の一族であることに注目しよう。
ここで狩猟者であるはずの主人公の狩人は狩猟者ー獲物の対立軸上で、獲物にされる一歩手前の状態にまで振れている。そしてそれでいながら、獲物でありながら狩猟者と「結婚」するという形で結合する。
実によく、伸び縮みしている。伸縮自在。

高振動状態の伸縮から、静的な対立関係への減速=冷却
主人公は隙を見てこの「四色の髪をもった鬼」の首を取ることに成功する。そうして鬼の姉妹たち(人喰い鳥)をうまく言いくるめて、人喰い鬼の家から分離することに成功する。ついでに鬼の姉妹である人喰い鳥も倒したらしい。ワシという鳥を狩ることができていなかった猟師の男であるが、どうやら怪鳥を狩ることができるところまで、獲物との距離を縮めたらしい。
*
さて、ここから、冒頭の神話では「斜めに滑り降りる」に圧縮して表現されていた動きが、より詳しく、対立関係をおり重ねながら説かれる。
四即一のβ呪物「四色の髪をもった鬼の首」を手にした主人公は、第二の四、四人姉妹と出会う。四人姉妹の上の三人は「ヴァギナに歯の生えた三人のシカ姉妹」である。これは
頭にあるはずの器官 / 下半身にあるはずの器官
人間 / 動物
狩猟者 / 獲物
といった経験的な二項対立の両極が見事に逆にひっくり返って短絡したβ項である。
あとの一人は「無害な雌のバイソン」の女性である。
ちなみにこれはバイソンであるがあくまでも人間の女性である。
人間でもありバイソンでもある。
もしこの文章を今ここから読み始める人がいたら、さぞ意味不明だろうと思うが、人間でもありバイソンでもあるのである。
上の姉たちとは違うが、こちらもまた両義的で媒介的な項である。
主人公はこの四人目の女性と結婚する。
主人公を中心に、「β四色の髪をもった鬼の首」と「β四人姉妹」が結集しているところが面白い。一即四の高振動状態がさらに二重化されるのである。マンダラで言えば中心部に凝集したところのすぐ近くである。

さて、主人公の妻になった「無害な雌のバイソン」には、先ほどの「ヴァギナに歯の生えた三人のシカ姉妹」に加え、さらに「戦争の神」である七人の男兄弟もいる。3人と7人、合わせて10人、何やらデンジャラスな連中が増えてきた。

そしてどうやら、この七人の戦いの神たちは、自分たちの女兄弟である「無害な雌のバイソン」の夫である主人公を、つまり自分たちの義理の弟を、食べてしまおうとしたらしい。デンジャラスである。
とはいえ主人公は妻(無害な雌のバイソン)の助けを借りつつ七人の義理の兄弟たちとの戦いに打ち勝つ。
そうして戦争の神々である七人の武器も手に入れる。
*
β両義的媒介項たちとの過度な分離から過度な結合へそしてまた過度な分離への伸び縮みを潜り抜けた主人公は、晴れて故郷に帰ることにする。
この時、当然ながら人間でもなくバイソンでもあるようなβ両義的媒介項である妻を連れて行くことはできず(なぜなら現世に帰ると、この妻はおそらくただのバイソンになってしまうだろう・・)。妻から離れて、一人で人間の世界に戻る。
嫉妬=減速した伸縮
しかし「無害な雌のバイソン」は、人間に戻った夫が、人間の世界で新しい妻を得るのではないかと「嫉妬」する。
嫉妬(ヤキモチを妬く)というのはこの後『神話論理』とその続編を読み解く上で鍵になる概念である(『神話論理』の続編にあたるレヴィ=ストロース氏の著作の一つは『やきもち焼きの土器つくり』という。)
嫉妬は、自分のものではないものを欲しがるという意味で、そしてまた欲しがられる側を恐れさせて、ますます遠ざけて=分離してしまうという意味で、分離したところを結合しようとしてますます分離する、分離の相から結合の相へ、結合の相から分離の相への伸び縮みを象徴する述語的様相である。
あるいは人類にとって嫉妬こそ、「意味的に存在”すべき”世界」を「感覚的に現にある世界」とは別に構想させ、前者を追い求めざるを得なくさせる力なのかもしれない。
*
さて、一人で人間界に帰ろうとする夫と、その夫が人間界で結婚するであろう女性たちに「嫉妬」したバイソンは、「彼が再婚するであろうインディアンの娘を四人まで」亡き者にすると、恐ろしい呪いをかける。
ここにも「四」が出てくる。
現世から神話的なβ脈動の相へと転換する時、現世の諸存在、一切諸法は、それであることとそれでないこと、他と区別されていることと区別されていないこと、分別が効いていることと効いていないこと、その両方のどちらでもない状態に緩む。
この現世ものもでありながらβ脈動へと広がり緩んでいる状態を、分別する境界の固着した束である言語で持って強いて表現しようとすると、古今東西「四」が出てくる。
弘法大師が「四種曼荼各離れず」と書いておられるのはおそらくこのことあたりのことを言わんとしている。四をあつめてしっかり分けつつしっかり結ぶことができると、四が分かれでてくる手前(仮に法界とよぶ)を覗き込んだり、入り込んだりすることができるようになる。
*
さて、ここからが現代人の意識の表層の善/悪の分別からするととんでもないと思われる記述がでてくる。
Δ主人公は、本命の女性と結婚する前に、本命の身代わりに、バイソンの呪いを受けるための「身分の低い」女性たちを四人選んで、順番に結婚する。
そしてこの四人は順番にバイソンの呪いにやられてしまう。
平等や人道を重んじる観点からするととんでもない話だと思われるだろうが、よくよく気を付けてみてほしい。生贄が「四」であることに注目しよう。つまり彼女たちは未だ「人間である/人間でない」の分別がはっきりと分節されることのない、その手前の神話の時空の神話的存在、神々なのである。彼女たちは「半分バイソン、半分人間」といった者たちが嫉妬したり戦ったり、過度な分離と過度な結合の間で振動しているβ脈動の世界に連れて行かれるので、一ではなく、とりあえず四に伸び縮みできるようなワンセットになっておく必要がある。
これは別の言い方をすれば、人間世界へと分離していった夫(足から上だけ女性に変身した男性というβ項)の代わりになるものを、人間世界からβ脈動の世界に引っ張り込もうということでもある。
ここで「無害な雌のバイソン」(この時点ではもう無害ではないが・・)の呪いも、四人をβ脈動の中に連れていったところで一旦終わりである。ここが重要である。いつでもどこでも、自由自在に「無害な雌のバイソン」が攻めてきて、人間を連れていってしまう、という状態ではない。
四人の生贄で納得したバイソンは、現世に去った元夫にちょっかいを出すことはなくなる。分離が確定したのである。
こうして主人公は、ついに、最強の狩猟者にして戦士として、首長の娘、王様のお姫様にあたる人と結ばれるのである。
めでたしめでたしである。
いや、そうでもない。
夫が人間界に去ってしまい一人残された「半分バイソン、半分人間」である「一〇個組の一一番目になる嫉妬深い妻」は、相変わらずβ脈動の領域に健在であり、自分自身の対極にあたる存在、すなわち、人間界において、妻が先に去ってしまい一人残される男性(寡夫)を「くりかえしつくり出」している、という。
「半分バイソン、半分人間」の世界は、人間界と表裏一体であり、人間界の諸々の意味分節の境界が安定的に再生産されることをむしろ可能にする条件なのである。この神話は結婚という結合が、夫婦のどちらか片方が先にいなくなるものであるということ(つまり結合しても、いずれは必ず分離の相に転じるということ)の起源を語っているように見える。

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