科学の思考と野生の思考/距離を開く述語・距離を縮める述語 -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(91_『神話論理3 食卓作法の起源』-42)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第91回目です。『神話論理3 食卓作法の起源』の第六部「均衡」を読みます。
これまでの記事は下記からまとめて読むことができます。
これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。
はじめに
この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」を、空海が『吽字義』に記しているような二重の四項関係(八項関係)のマンダラ状のものとして、いや、マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たちが共鳴する”コト”と見立てて読んでみる。
「経験的な区別が概念の道具となる」
レヴィ=ストロース氏は大部の神話論理の冒頭に次のように書いている。
「生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」
経験的感覚的な区別(分別)を、概念の道具として観念を抽出し(つまり分別同士を重ね合わせて意味分節する)、この観念を繋ぎ合わせる(意味するものと意味されることとの一対一の静的ペアをリニアに連鎖させる)ことが「どのようにしておこなわれるか」。

この「どのように」をモデル化するひとつの試論として、マンダラ状の意味分節システムを生成消滅する脈動(伸縮)ということを考えてみると、概ね以下のような具合になる。
神話論理のアルゴリズム(動き方)
即ち、神話は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜Δ4を分けつつ、過度に分離しすぎない程度に付かず離れずに結んで安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指す。

Δ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別である。例えば、
Δ1 暑い / Δ2 暑くない
|| ||
Δ4 わるい / Δ3 わるくない
といったことである。私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界とは、ほぼすべて、このような二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている。
今、上の図式では、仮に「Δ1 暑い」と「Δ4 わるい」をイコールで結びつけたが(つまり「暑いのはわるい」という意味である)、このΔ4わるいとΔ3わるくないの向きは逆にひっくり返しても良い。たまたま、この文章を書いている私が、いまちょうど蒸し暑い部屋にいるので「暑いのはわるい」と書いてみただけのことであり、もしこれが真冬の氷点下の倉庫で書いていたとすれば、「暑い」は「わるくない」とイコールになったはずである。
*
私たちは何気なく成長して生きていると、「あつい」ということはそれ自体として自明のこととして存在しているし、「わるい」ということもそれ自体として自明のこととして存在しているはずだ、となんとなく思っている。
自明な日常の分別の手前へ
ところで神話は、このような日常的には自明な、当たり前のように意味分節されてある経験的な世界の「起源」について思考する営みである。
たとえば、
1)「人間と、人間以外の動物は、なぜ違うのか?」
2)「世界が天と地に分かれているのはなぜか?」
3)「この世に、善と悪があるのはなぜか?」
4)「生と死が分かれているのはなぜか?(なぜ人は死ぬのか)」
こういう疑問について、現代では自然科学の方法でもって「答え」を思考するというやり方がある。2)であれば、それは地球という宇宙の塵が都合よく集まってこの惑星ができたからであり、1)は生命が環境に適応しようとしてきた結果であり、4)もまた、細胞の、タンパク質の再生産の都合ということで説明できそうである。3)もまた、人間の行動パターンや神経系の働きを調べることで科学的に説明できる部分もあると思われる。
ところで、人類は少なくとも1万数千年前には、もしかすると4万年とか5万年とか、6万年くらい前から、このような問いをなんらかの形で言語的に問い続けてきたものと推定される。
生/死
男/女
人間/(人間以外の)動物
天/地
地上世界/水中(地下)世界
明/暗
昼/夜
寒/暖
例えばこういった区別、分別、二項対立は、古来から人類によって(いや、人類以前の生命体によっても)経験的に知られていたはずである。
しかも、不思議なことに、こういう対立する二項は真逆に異なっていながら完全に分離してしまうことなく、結合したり分離したり、一つに繋がったり、二つに分かれたりを繰り返していく。
こういう対立二項の分離と結合や、規則的な交代が、いったいどうして存在するのか、その起源(はじまり)について言語で思考し、仲間と語り合おうとするとき、「神話」の語りが生成する。
科学の思考と野生の思考
現代の人類は、こうした問いに科学的な思考で「答え」ようとする。つまり問われている二項対立を、再現可能な観測結果をもたらす観測技術を利用して観測できるなんらかの二項対立へと変換していく。
Δ / Δ
|| ||
Δ / Δ
|| ||
Δ / Δ
|| ||
Δ / Δ
|| ||
Δ / Δ
|| ||
Δ / Δ
|| ||
…
例えば、美味いラーメンと不味いラーメンの二項対立があるとして、「うまいとは結局どういうことか、不味いとは結局どう言うことか」ということを、例えば、なんらかの「旨み成分」の有/無という二項対立に置き換えて説明したり(旨み成分が多ければ美味いし、旨み成分が少なければ不味い)、より複雑にいろいろな測定可能な指標を組み合わせて(例えば旨み成分の量と塩分脂分の量と割合、スープの温度や麺の反発力などなどの指標を組み合わせて)なんらかの値を定義して、その値にはいる数字の大/小によって美味いということを定義する。実際、人類は近代以降、こうした方法でもって快適に生存することができる条件を明らかにし、実現してきたのだから大したものである。
では、現代のような細分化分別型の観測技術を持たなかった古代の人々は、対立二項の分離と結合や、規則的な交代が、いったいどうして存在するのか、という疑問で頭がいっぱいになった時、一体どのように思考したのだろうか?
* *
科学時代の人類なら、美味い/不味いの二項対立を「旨み成分」の有/無という対立関係に置き換えたり、男/女の二項対立を染色体の組み合わせパターンのちがいというこれまた別の対立関係に置き換えたりして答えるところを、太古の人々は、どうやら対立関係そのものが分かれ出てくる動き「/」に注目したらしい。
← / →
どういうことだろうか?
対立関係そのものが分かれ出てくる動き
即ち、人類が経験的感覚的に生きている意味ある世界は、二項対立関係を二つ組み合わせた四項関係を最小構成単位として織りなされている(意味分節されている)ものである。
Δ / Δ
|| ||
Δ / Δ
例えば、
人間 / 動物
|| ||
服を着る / 服を着ない
人間 / 動物
|| ||
火を使う / 火を使わない
人間 / 動物
|| ||
狩猟者 / 獲物
といった具合である。もちろん、猿が火のついた棒をもって歩いていたとか、動物が人間を獲物にして食べてしまう場合がある、といったこともあるのはいうまでもない。
いま問いたいのは、この四項関係の「確かさ」(揺るぎなさ、反例がないか)をいかに固めるかという科学的な問いではなく(それも重要だが、いまは別の話をしている)、「/」と「||」の動き方である。
この意味分節の最小構成単位となる四項関係をΔ1〜Δ4の組み合わせで仮に表現するとして、このΔ1〜Δ4を区別できないところからはっきりと区別できる状態にまで切り開き分けつつも(/)、バラバラに飛び散ってしまわないように結びあわせ(||)、しかし過度にくっつきすぎて区別できなくなることはないように均衡させておくということが、私たち人類にとって意味ある世界が意味ある世界として再試し続けるために必要な動きなのである。
そこで神話として現れる「野生の思考」は、Δ1〜Δ4を分けつつつなぐ、四つの媒介者たちを登場させる。
/
|| ||
/
↓
β
β β
β
先ほどの図で言えば、四つのΔたちの間に挟まって描かれている、四つのβ。この四つのβがΔたちを分けたり繋いだり、分けるでもなく分けないでもない状態に均衡させる媒介項である。

*
両義的媒介項
β項は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている。
そして、ご存知の通り、そのようなものたちは、私たちの経験的感覚的には「存在しない」。この経験的感覚的には「存在しない」ことをあえて言語化することが野生の思考にとっては重要なのである。
神話は、そもそも何かが「存在する / 存在しない」を分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。つまり何かが存在するとか存在しないとか、そういう分別ができるようになる「手前」のことを思考しているのである。
そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。
オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。
両義的媒介項たちが遠ざかったり近づいたりする
お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つのβ項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。
任意のβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり縮んだり
任意のβ二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり縮んだり
2または3、または4つの任意のβ項が中央の一点に集まったり広がったり
という具合に、β項間の距離を伸縮させる振動(振幅を描く動き)が起こりる。

この振動のある種の共鳴状態として、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力がバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、正方形を描くように均衡した四つのβ項のあいだに、そのβ正方形の「辺」の部分をなす四つの領域が、安定的、反復的に広げられ続けるようになる。ここに四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。そこにΔ項が収まる。

私たち一人一人にとっての意味ある世界は
対立関係の組み合わせとして
分節されたものである
ここに私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される。何らかの経験な世界は、その世界の要素の起源について語る神話はこのような論理になっている。

私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。分別心の表層意識に浮かぶ図2のような、所与の諸要素たちをかっちりとした構造体として配置したように感じられる意味分節システムは、実は、図3のような脈動する波の伸び縮み(周期的に反復される振動の周期T[s]が伸び縮みすること)を瞼を細めて薄目で眺めたようなものである。

*
神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験することを可能にしている分別(ふんべつ)、あるいは意味分節のパターンが、あれこれさまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にするし、またそうした分別、意味分節のやり方を相当程度自覚的に自在に組み立てることをも可能にするのである。

両義的媒介項たちの間の距離を伸縮させる動きに注目する
前回の記事で紹介した『神話論理3 食卓作法の起源』、「M493a メノミニー 罠にかかった太陽 (1)」という神話は、
β太陽光
β上/下の中間的体毛の輪差
βヤマアラシ針刺繍のビーバー外套
βネズミ
この四つの両義的媒介項たちが過度に結合したり、過度に分離したり、その距離を伸縮させつつ、次第に落ち着いたつかず離れずの距離感に安定し、その安定した、いわば正方形を描くような四項関係の「辺」の部分に、人間にとって経験的感覚的に慣れ親しんだリアルな意味ある世界の諸々の二項対立関係が安定的に浮かび上がる、という話になっていた。
「M493a メノミニー 罠にかかった太陽 (1)」の内容を振り返ってみよう。
六人家族のインディアンがいた。
父、母、四人の子供(三人が男の子で、ひとりが女の子)である。
男の子たちは三日続けて狩りに出かけた。
一頭のクマを持ち帰った。
父親は二頭要求した。
つぎに三頭、それから四頭と、 要求はつぎつぎ増えた。
*
一番下の弟が家に残り、上のふたりはふたたび狩りに出かけたが、クマたちがふたりを捕らえた。
父とは母は彼らを探しに出かけたが、クマの犠牲となって死んだ。
下の弟は妹と家に残っていた。
彼は兄たちを見つけたいと思い、クマたちのところに行き、火を使ってクマたちを退治した。火はクマたちの姉妹からもらったものだった。
メスのクマの態度はあいまいという以上のものだっ た。
そして主人公はクマによって半分動物の姿に変えられていた兄たちを人間の姿にもどした。
**
彼の手柄に対する褒美として妹はビーバーの毛皮で美しい外套をつくって何色にも塗ったヤマアラシの針で刺繍した。
しかし、ある日、ひなたで少年が眠っているあいだに、太陽の熱が外套をだいなしにしてしまった。
怒った彼は妹に陰毛を一本くれと言い、それで輪差をつくり、太陽を捕えた。太陽は首をしめられた。夜の闇が大地をおおった。
太陽の救出を求めるさまざまな動物の声に応じ、やっとネズミが太陽の救出に成功した。
M493a メノミニー 罠にかかった太陽 (1)
ここで、つい「ネズミ」とか、「兄と身近に結合した存在である妹に属しながらも強く分離されている体の上下の中間にある毛」であるとか、なにか「項」、それ自体のインパクトに意識をもっていかれがちなのであるが、このような項たちが「何であるか」ということには、特に「何でなければならないか/なにであってはならないか」といったことにはあまり拘らないようにしたい。
なぜならそのような「何であるか/何でないか」の分別が可能になるのは、両義的媒介項たちが動き回ってその距離を伸縮させたのちに、安定的な二項対立関係の対立関係、定常的な意味分節システムを発生させた後の話だからである。

いま神話は、このような分別の手前、それが分離されつつ結合し安定的な四項関係に収まるまでの伸縮の脈動と定常化にいたる過渡的な現象を、経験的な区別を概念の道具として、「思考」してみようとしているのである。
すなわち、諸々の「項」が主語として活動するとき、その主語がどのような述語たちの変換(結合状態を語る述語から分離を引き開く述語へ、分離状態を語る述語から結合する述語へ)を引き起こしているのか、というところに注目して「思考」してみたい。
*
項を変えても同じ伸縮を語ることができる
上の神話の異文をめぐって、レヴィ=ストロース氏は次のように書いている。
べつのメノミニーのヴァージョン[…]では主人公に兄弟はいない。クマの犠牲となった両親の死後、主人公は姉とふたりだけ生き残る。姉は彼の教師となる。兄弟がいないかわりに、主人公は ワシを飼いならしているが、そのワシが彼に(陰毛で輪差をつくるのではなく) 陰毛を餌として輪差につけて太陽を捕えるように勧める。太陽が彼の外套を焦がしてしまったからである。
異文では、
(1)お父さん
(2)お母さん
(3)姉
(4)弟
という四者のみ組み合わせが語られており、(4)弟が、長男、次男、三男に分かれることはない。
つまりシンプルに、
年長 / 年少
男 / 女
このふたつの経験的で感覚的な二項対立をふたつ組み合わせた四項関係になっている。
経験的感覚的に対立する二項の間が自在に伸縮する(分離したり結合したりしながら、諸項が一即多にして多即一、不一不異になる)β脈動の状態においては、この項が感覚的に「何個」でなければならないという決まりはない。
分けてみればいくらでも分かれるし、分けてみなければ分かれない。
分別の手前のβ脈動においては、分かれていることと別れていないこと、分別と無分別、分離と結合、多であることと一であることの分別もまた、まだ分別されているでもなく分別されていないでもない。

神話は、経験的感覚的に安定した分別が、設定される手前の動きを、言語において、特にその述語による伸縮の様相でもって浮かび上がらせようとしているのであって、主語的なもののあれこれが、何であるかとか、何個あるのかないのか、といったことは大きな問題にはならない。
諸対立関係を分離と結合の分離と結合から引き開くβ脈動においては、対立関係の二極として出てくる諸項が他に対して何であるかは「不可得」であり、よくわからないようなわかるような、という感じなのである。主語的なものがなにであってなにでない、何個であって何個でない、などということが言えるのは、分別が固まった後での話である。
* *
「分離」と「結合」の対立二極の間を伸縮させる
レヴィ=ストロース氏はさらに別の異文についても言及する。
三番目のヴァージョン[…]ではノスリがさらに積極的な協力をする。
神話は湖の底に棲むクマを滅ぼす話となってつづき、東の空の女たちの話になる。これはすでに報告したもの (M475c 三九八一三九九頁)とほとんど同じ言葉づかいで語られる。その結果、少なくともメノミニー族においては、 罠にかかった太陽と一〇個組の神話群とのあいだに関係が存在することがわかる。この帰納的関連性によりわれわれのとった方法が有効であることが確認される。演繹的考察によっても同じ結論に達していたのだから。
天/地の中間領域で振幅を描くように動く鳥。
地上世界と水中の湖底世界
西と東
太陽と罠との過度な結合
同じようなよく似た経験的二項対立や経験的二項対立の両極の中間を占める両義的媒介項が、あちらの神話でも、こちらの神話でも、さまざまな神話に登場し、そして同じように分離と結合の間を伸縮させる動きを見せる。
ここでレヴィ=ストロース氏は次のように書いている。
神話は、宇宙のさまざまな均衡状態をつくりだすための一連の演算に向けて、人間を、ときに神話的あるいは現実の動物の姻族とし、ときに対立させるかのようである。
均衡状態、つまり二項対立関係にある二極が、近づきすぎて過度に結合することもなく、遠ざかりすぎて過度に分離することもない、付かず離れずの「均衡」を「つくりだすため」に、神話の思考は、例えば
人間 / 動物
という、通常は結婚という関係においてははっきりと分離されているはずの二極の間(即ち、人間と動物が、人間社会における意味で結婚することは社会内部ではない)を、強いて異種間の「結婚」という形で、経験的感覚的な距離感以上に結合したかと思えば、すぐさまそこに過度に敵対するように対立させて、経験的な距離感以上に激しく分離する、という具合の「演算」を行う。つまり人間/動物の二極の間の距離を伸縮させながら、「均衡」を作り出すのである。これについてはオシラ様の起源神話や、日本霊異記にある蛇と結ばれる娘の神話を参照したいところである。
均衡
この均衡に至るプロセスを、これを本稿では次のように言い換えてみる。
即ち、正方形(四角をそれぞれΔ1、Δ2、Δ3、Δ4とする)で表現される均衡に至るために、はじめに全てが一点に集中したようなところから始まって、まず、β1とβ3を二極とする線をある一つの方向にひっぱりだして、また次に、これと直交する方向にβ2とβ4を二極とする線を引っ張り出し、この二つの引っ張り出す動きを適度に伸縮させて、つまり長く伸ばしたり、短く縮めたりを繰り返しながら、β1、β2、β3、β4のすべてが自在に結合したり分離したりできるしなやかな状態を作る。その状態でβ四項を四すみに配置した正方形をなすように四すみを引っ張り出し、その「辺」で表現される四つの領域を引き開く。この四つの領域が、私たち現に生きる人間にとって意味のある経験的で感覚的に意味のある四項関係、Δ四項がひとつづつ収まる領域になる。

分離と結合とを、分離したり結合したりする伸縮は述語の様相として言語化される
ここでレヴィ=ストロース氏は、最終的には同じような均衡を作りだすに至る神話群について、その「項」(主語が何であるか)に注目すると、神話ごとに、異文ごとに、見事に逆転している組み合わせを次から次へと見つけることができると指摘する(『神話論理3 食卓作法の起源』pp.453-454)。
頭皮
↓
脚
*
太陽に焦がされた外套
↓
悪天候から守るために収納された衣類
*
はやすぎる太陽を減速させて昼を長くする
↓
太陽が罠にかかり、夜だけの世界になる
*
動物妻が人間に嫉妬し、人間を危険な目にあわせる
↓
人間姉妹が兄弟に嫉妬し、兄弟を危険な目にあわせる
これらの一連の逆転と同様に、「ヤマアラシ」が「想像上の動物」に変わったり、「バイソン」が「想像上の動物」に変わったりする事例も挙げられている。それは「ヤマアラシ」(あるいはバイソン)という動物を身近にみることができない地域において、ヤマアラシがいる地域でヤマアラシが果たしているのと同じ役割(振幅を描く動き方)を全く別の想像上の動物に担わせているのである。
[…]平原にヤマアラシが少ないか、まったくいなかったからで、平原ではヤマアラシを象徴的な動物から想像上の動物に変形しているのである。[…]メノミニー族は[…]バイソンを知らなかったわけではないが、その狩猟のためには非常に遠くまで出かけていかなければならなかった。その結果、地下のパンサーはエキゾチックなバイソンを想像上のものに移し換えたもので、それゆえバイソンの角を持っているのではないかと問うてみることができる。[…]このように、平原のいくつかの神話がヤマアラシ狩りに関する五大湖地方の神話を逆転しているのと同じように、バンサーに関するあるメノミニー神話はバイソン狩りに関するあるマンダン神話を逆転していることがおわかりだろう。
『神話論理3 食卓作法の起源』p.454
逆転。
Aと非Aの対立関係があるとして、ある部族では、Aが良いもの、非Aが悪いもの、と語られるとしよう。それが別の部族では「逆転」して、Aが悪いものとされ、非Aが良いものとされる。
A / 非A
|| ||
良い / 悪い
↓逆転↓
A / 非A
|| ||
悪い / 良い
このような二つのパターンが並んだ場合、私たちはつい、「このAなるものは、それ自体としては、良いものなのか、悪いものなのか、どちらなのか??」という問いを発してしまう。
この問いは至極真っ当な問いではあるが、ひとつ重要なことを忘れている。
すなわち、「Aは良いものである」「非Aは悪いものである」といった定義、言い換え(Aという言葉を「良いもの」という言葉に言い換えている)ができるためには、その手前で、まず、Aと非Aを分けること=分離しつつもお互いに逆のものであるという関係に結合しておくこと、良い/悪いを分離しつつも逆のものという関係で結合しておくこと、この二つの「分離しつつ結合する」という動きが動いている必要がある。
下の図式で「←/→」と表記する動きである。
A ←/→ 非A
|| ||
良い ←/→ 悪い
そして神話の語りは他でもない、この「←/→」が動きながら、二項を、Aと非Aを、未分化のところから二つの方向へ引っ張り出して、この引っ張り出された両極のあいだの距離が離れすぎず、近すぎず、ちょうどよいつかず離れずの距離に安定するように伸縮運動を定常化させるようなことをしているのである。この「←/→」は神話では、端的に語りの述語、述語の様相によって浮かび上がってくる。

とはいえ、神話の語りも言語である以上、その述語はほぼ必ずなんらかの主語的なものを引っ張り込んでしまう。仮に、主語なしで述語だけで語ろうとしても、その述語自体が容易に主語化してしまう。
そこで神話は「頭皮」とか「脚」とか、「ヤマアラシ」「バイソン」「外套」「太陽」といった主語たちをひっぱりこんでくる。それぞれの神話を語る人々の間で、経験的感覚的な二項対立の一方の極として際立っているようなものたちである。
ここでこうした主語たちを、それが直結している述語から分離して、それ自体として本質的に何であるのか?と問いたくなるところをあえて止めてみる。そして主語たちに結合している述語たちの一つ一つに意識を向けていく。その上で特に、述語と述語の対立関係、例えば「分離する」に対する「結合する」という具合に、対立する述語のペアに意識を向けてみよう。

距離を開く述語、距離を縮める述語
例えば「頭皮」が「剥がされる」。
元々過度に結合している頭から、通常は剥がれることのないようなところが剥がれる。ここに結合を分離に転じる述語の様相が見える。
例えば「ヤマアラシ」が「天から、木を伝って地上に降りてきて、また木を伝って地上から天にのぼる」。
天/地という経験的にはっきりと分離した二極の間を上り下りする。分離した天地二極の間を行ったり来たり結合する、という述語の様相がみえる。
例えば「靴」が「片方隠されて、近くにあるはずなのに見つからない」。
経験的に二つで一つのセットに結合している靴が、右と左に分離している。
例えば、「外套」が「太陽に焦がされる」。
経験的に太陽が弱っている冬の時期に着用される外套は、いわば「弱った太陽」と主人公の分離しがちな関係を補い結合するような働きをするのであるが、これが逆転して、「強い太陽」が主人公たちに過度に結合し、間に入るべき外套を焼き払ってしまう。ここには複数の結合することと分離すること、一であることと異であること、複数の不一不異が重なり合うような述語的様相が展開する。
同じく、衣類が「収納」されたり、「はやすぎる太陽」が「減速」されたり、太陽が「罠にかか」ったり、「嫉妬」が元々分離しているところを結合しようと、もともと結合しているところを分離へと転じようとするがあまり、分離と結合の逆転という述語的様相を引き起こしたりする。
*

神話の語りは、はじめ主語へと意識を集中し、しだいにその主語の動き回り方、行ったり来たり、近づけたり遠ざけたり、振幅をえがくように動く様相を言語化した「述語」へと、意識化のポイントをずらしていく。
この述語的様相がみごとに現れているのが「周期性」の設立である。
周期的運動というのは、ほぼ一定の速度で、ほぼいつも同じような最大値と最小値を区切り出しつつ、その二極のあいだを行ったり来たりする動き(述語的)である。

周期的運動は、対立する二極のあいだを、はっきりと分離しつつも結びつけ、交互に姿を現すような関係をつくりだす。
「罠にかかった太陽の神話は、以前に検討したすべての神話同様、あるタイプの周期性の創設にかかわるものである。この特徴は数多くのヴァージョンの前景に姿を現わしている。バンギー族の太 陽と主人公が冬の長さに関して合意をする神話も、チペワ族の太陽が短すぎる昼を延長することに 合意する神話も、季節的周期性にかかわる。それよりも多く見られるのは、永遠につづく夜の支配 のため危機に瀕している日々の周期性が、太陽の解放により、取り戻されるという神話である」
「永遠につづく夜の支配」に対抗すべく「太陽を解放」する神話といえば、日本神話の岩戸隠れを思い出す。
昼と夜、光と闇、夏と冬
これらは人間の経験的感覚的現実を分節する、もっとも基本的な二項対立関係である。こういう関係さえも、神話では決して所与のものとはみなされない。二項関係を次第に引き広げ、区切り出すような、結合しているところを分離し分離しているところを結合する、パイ生地や陶土をこねるような動きを、去ったり来たりする述語たちをつぎつぎと呼び出しては、動かすのである。
言語とは、分別された二項対立の一方を選びつつ、別の二項対立の一方の極に結びつけていくアルゴリズムでできているが、野生の思考の神話論理はまさにこの言語ということ、意味するということのアルゴリズムのもっともシンプルなパターンを、日常的で経験的で感覚的な言葉たちをそのまま転用・流用(ブリコラージュ)することによって捉え尽くしているのである。
このように日常語をブリコラージュする際に、特に異文化の神話であるほど、わたしたちはその「主語」的な側面の不思議さ、面白さ、崇高さ、インパクトに惹かれるものであるが、そこであえて視線を述語の方に向けて、およそ様々な文化的な際を超えて、人類の経験の根底を同じように支えている、身体的な動きや感覚、距離の感覚、動きの感覚、差異を差異として捉えたりとらえなかったりする身体感覚の述語的様相の動きを、微細に観察したいところである。
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