レヴィ=ストロース『アスディワル武勲詩』を読む(後編) -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(0.2)
クロード・レヴィ=ストロース氏の1958年の著作『アスディワル武勲詩』(La Geste d'Asdiwal)を読む。
アスディワル (Asdiwal)武勲詩というのは、北米はカナダの先住民、ツィムシアン(Tsimshian)族に伝承された神話である。レヴィ=ストロース氏は本書でこのアスディワルの神話を分析する。
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前回の記事では、アスディワルの神話のめくるめく分離と結合の伸縮を目の当たりにしたが、このようなパターンは、他の神話にも見ることができる。

Dynamic Mandala Stretching Model
レヴィ=ストロース氏の議論の影響のもとで著者作成(2025)
アスディワルの神話には、四つの「結婚」が語られる。以下の通りである。
第一の結婚は、飢饉で未亡人になった女性と、「吉兆の鳥ハツェナス(Hatsenas)」の結婚。もともと結合していた夫から分離する一方で、母娘で結合した娘と、人間とも動物ともつかないハツェナス。この二人がアスディワルの両親である。
第二の結婚は、アスディワルと太陽の娘「宵の明星」との結婚。この結婚のためにアスディワルは天に昇り、太陽から課せられた試練に耐える。大変な分離状態を克服して結婚=結合を達成したアスディワルであったが、しかし地上に舞い戻り、同郷の人間の女性に手を出す。妻(宵の明星)はアスディワルを置いて出ていってしまい、アスディワルは妻を追いかけるが、しかし、妻に雷で打たれる。苦労して結合したと思った太陽の娘と、分離しようとしてたり、また結合しようとしたり、二人の間の距離は大きな振幅を描いて伸縮する。
第三の結婚は、アスディワルと、ツィムシアン族の首長の娘との結婚である。天/地(垂直方向)で伸縮を描く「宵の明星」との結婚の次は、遠/近(水平方向)で伸縮を描くような結婚に移る。この結婚は、アスディワルと妻の兄弟たちとの狩猟をめぐる争いで終焉を迎える。魔法の道具で自在に獲物を取れるアスディワルと、獲物を得られない義兄弟たち。義兄弟たちは屈辱を感じ、アスディワルを放置して、妹を連れて(アスディワルの妻をアスディワルから分離して)、遠くへ去ってしまう。
第四の結婚は、アスディワルと「ギトクサトラ (Gitxatla)から来た見知らぬ四人の兄弟と一人の妹からなるグループ」の妹との結婚である。この結婚はしばらくうまくいき、アスディワルは妻との間に息子を授かる。しかし、またアスディワルは義兄弟たちとセイウチ猟の腕をめぐる争いを起こしてしまう。魔法の道具で狩猟をするアスディワルに腹を立てた義兄弟たちは、アスディワルを海の岩礁に放置する。
アスディワルは嵐に巻き込まれながらも、父ハツェナスの力を得て、鳥に変身し、ネズミに導かれ、動物の精霊たちがくらす地下世界を訪問し、セイウチたちを助け、セイウチたちと契約し、陸に戻るための船(セイウチの胃袋)を一時的に借りることに成功する。
アスディワルは陸に戻り、妻と息子に再会し、義兄弟たちに復讐することに成功する。
そうして三番目の妻とは再会したアスディワルであるが、やがて年老いて、妻を残して、ひとり出身地へと去る。三番目の妻とも分離するのである。そして、魔法の道具を忘れて、つまり魔法の力と分離した状態で雪山の上へ狩猟に行き帰ってくることができずに石になる。
第一の結婚では、経験的感覚的な分別の両極を離れて、ぎゅっと一点に、両義的媒介項たちが凝集するような動きがある。
それが第二の結婚になると、垂直軸上での過度な分離と過度な結合の伸縮を描く動きがある。この動きは、過度な分離、伸縮が伸びきって終わる。
そして第三の結婚では、水平軸上で過度な分離と過度な結合の間の伸縮が描かれる。この動きも、過度な分離、伸縮が伸びきって終わる。

第四の結婚に至り、アスディワルと妻の間の距離は分離から結合へと転じ、そこからまた分離へと転じつつ、またまた無事に結合状態に戻り、しかしやがて静かに分離しつつも、アスディワルが不動の位置に静止し、伸縮が止まる、という動き→静止のパターンを示す。

この伸縮しながら二項対立関係にある両極を区切り出す動きと、この動きが減衰して適度に振幅の最大値と最小値の間に付かず離れずの距離を保つようにバランスする動きに注目してみよう。

結婚というのは、そこに現れる感覚的経験的な主語的なものたちをことごとく暈していくと、残るのはもともと分離していた二者の間の距離を縮め、結合する、という動きである。
この動き。分離から結合への相の転換とも、対立する二極の間の距離の伸縮ともいえよう。
野生の思考は、この結婚という分離から結合への相転換を示す経験的な出来事を見事に転用(ブリコラージュ)して、神話の論理を動かそうとするのである。
経験的な区別が概念の道具となる
レヴィ=ストロース氏は大部の『神話論理』の冒頭に次のように書いている。
「生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」

経験的感覚的な区別(分別)を、概念の道具として観念を抽出し(つまり分別同士を重ね合わせて意味分節する)、この観念を繋ぎ合わせる(意味するものと意味されることとの一対一の静的ペアをリニアに連鎖させる)ことが「どのようにしておこなわれるか」。
この「どのように」をマンダラ状の意味分節システムの生成消滅の脈動のモデル上でシミュレートすると、概ね以下のような具合になる。
神話論理のアルゴリズム(動き方)
即ち、神話は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜Δ4を分けつつ、過度に分離しすぎない程度に付かず離れずに結んで安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指す、と過程してみよう。Δは私たちが経験的に「あれがない」「これがある」なとど感覚したり論じたりできる物事たちのことである。

このΔたちを区切り出してくるために、神話では、図中に示す
β二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり
β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり
中央の一点に集まったり
という動き、振幅を描く動きを語る。

両義的媒介項たちを遠ざけたり近づけたりする
β項は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている。
アスディワルの神話で言えば、「飢饉で夫を失った母と娘が川の中間で再開する」あり方や、シロクマに変身して地上に降りてくる太陽の娘「宵の明星」、そして他でもない魔法の力で自在に獲物と結合できるアスディワル、そして彼を義兄弟として迎えつつも敵対して放置しようとする義兄弟たち、アスディワルを地下世界に案内するネズミ、胃袋(食べて消化解体する器官)を陸に渡るための船としてアスディワルに貸すセイウチなどなどが、両義的媒介項である。というか、最終的に山の上で石になるところまで含めて、この神話の登場人物たちはすべて両義的媒介項である。
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経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。
お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。

そこから転じて、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力がバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるものたち、その名、その主語的なあり方(Δ、「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれらの主語的なものたちは、あくまでも伸縮を自在にする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿を浮かび上がらせる痕跡である。
主語的なものが世界の始まりのポイントに設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている。

私たち一人一人にとっての世界の意味は対立関係の組み合わせとして分節されたものである
ここに私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される。何らかの経験な世界は、その世界の要素の起源について語る神話はこのような論理になっている。
私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。分別心の表層意識に浮かぶ図2のような、所与の諸要素たちをかっちりとした構造体として配置したように感じられる意味分節システムは、実は、図3のような脈動する波の伸び縮み(周期的に反復される振動の周期T[s]が伸び縮みすること)を瞼を細めて薄目で眺めたようなものである。

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神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験することを可能にしている分別(ふんべつ)、あるいは意味分節のパターンが、あれこれさまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にするし、またそうした分別、意味分節のやり方を相当程度自覚的に自在に組み立てることをも可能にするのである。
異文 -アスディワルの息子の旅
レヴィ=ストロース氏は『アスディワル武勲詩』で、アスディワルの神話の異文として、アスディワルの息子について語るものを紹介している。
アスディワルと二番目の妻との間にも、実は子どもがいてね・・。という話である。
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アスディワルの二度目の妻(最初の地上の妻)が男の子を出産した。
その子は、飛び散る火花のように素早く動き回ったので、《とても軽い》という意味のワウクスという名前を付けられた。
父と子は互いに愛し合い、いつも揃って狩に出かけていた。
だからワウクスにとって、オジたちが父アスディワルをクセマクセンに置き去りにし、自分を無理やり連れ戻したことは、たまらなく辛い出来事だった。
母と息子はアスディワルに会おうと秘かに努めたが、獣に食べられてしまったのだと聞かされて、ついに諦める。
ワウクスは父にならって偉大な狩人になる。
彼の母親は、その死の前、彼を従姉妹と結婚させる。二人は幸福に暮す。
ワウクスは父の狩猟場で狩を続ける。時には妻を伴なった。
この妻がやがて双子を出産する。
この双子も、かつてワウクスがそうしたように、父について狩に出かけるようになる。ある日、彼は子供たちとともに行ったことのない場所に踏み込む。双子は足を滑らせて転落し絶命する。
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翌年、ワウクスは父親から授かった魔法の道具を持って、 同じ場所に狩をしに来る。しかし彼は槍を忘れてきた。
突然起こった地震に驚いた彼は、谷間に見える妻に向かって、儀式による助けが必要なのだと知らせようとするがうまくいかない。彼は大声を出して、妻に神々を鎮めるために脂を捧げるようにと頼む。
しかし妻は聞き取ることができずに曲解し、夫が叫んでいることでなく、 自分自身がしたいと思っていることを(「わたしに脂肪を食べろと言ってるの?」)繰り返すばかりである。失望したワウクスは同意する。
妻は脂と冷たい水で腹一杯になる。
満腹した彼女は株の上に身を横たえる。
すると彼女の体は破裂し、今もその場所にいっぱいある木目のついた火打ち石に変わってしまう。
岩を打ち砕き山に道をつけることのできる槍を忘れてしまったワウクスは、妻と自分との間の誤解のために自然力を鎮める最後の機会を失って、彼の犬と魔法の道具とともに石になってしまう。今もそれらはそこにある。
本記事に記載の引用元ページ数はちくま学芸文庫版のものではなく、単行本(青土社版)のものです。以下同じく。
こちらの異文は、アスディワルが太陽の娘「宵の明星」と別れたあと、最初の地上の人間と結婚したところから最初のバージョンの話と分岐していく。
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神話では、分離と結合の分離と結合(伸縮)の動きを、あちらへ引き伸ばしたり、こちらへ縮めたり、こちらで引き伸ばしたり、あちらへ縮めたり、という生地や陶土をこねるような動きが重要であり、その動きをどのような述語でもって語るかが重要である。逆に、その述語を託される主語たちは、お互いに適切な対立関係を想起できる経験的な区別の両極に配置できるものであれば、そのどちらを選んでも話が成り立つのである。

(岩石と真逆に)軽い
アスディワルの息子は「ワウクス」という。
ワウクスは、アスディワルと固い絆でむすればており(過度に結合)、アスディワルから魔法の道具を伝授される。
しかし、この結合は、おじたちの謀により過度な分離へと急転換する。
アスディワルだけが置き去りにされ、ワウクスと再会することができなくなる。
過度な結合から過度な分離への転換である。
こうくると、すかさず、次に別のところで第二の過度な結合が生じ、それがまた過度に分離していくはずである。
第二の結合、それはワウクスと従姉妹との結婚である。
従姉妹というからにはアスディワルを置き去りにした四人のおじたちのうちのいずれかの娘であろう。憎き父の仇の娘と結婚する訳である。強く分離しているはずのところをなかば強引に結合するパターンである。ところが、この結婚は決して不幸なものではなかったらしい。ワウクスは、かつて自分が父アスディワルとそうしたように、妻を連れ立って、そして双子の息子を連れ立って、四人セットで過度に結合しながら猟にでかけていた。
β
ββ
β
神話でこうも過度な結合がでてくると、すかさず過度な分離へと急転換するのは時間の問題である。
結合から分離へ分離から結合へ
落下、上/下 への分離とかろうじての結合
まず、双子がワウクス夫婦から分離する。
再会できないほどに過度に分離する。この時に双子が「落ちる」という述語のもとで、上/下 の軸を描き出すように分離していく。

続けて、ワウクスと妻の間の過度な結合が、分離へと転じる。
ただしこの分離は、過度な分離ではなく、付かず離れずの安定した分離に収まる。そうすることで神話の語りを閉じるのである。つまり経験的感覚的に均衡の取れた付かず離れずの二項対立関係を設立するよう、ワウクスと妻のあいだは伸縮する。
どういうことだろうか。
まず、ワウクスと妻は、垂直方向(上下方向)へ、上の山と下の谷とに分離する。
上の山 / 下の谷
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ワウクス / 妻
ただしこの分離、双子たちが果てしなく遠くへと落ちていってしまったのとは異なり、叫べば断片的に声が届くくらいの距離感である。つまり分離したけれども、まだかすかに結合しているのである。この微妙さ!
弱い媒介者と強い媒介物
この時、ワウクスは父アスディワルから伝授された魔法の槍を忘れてきてしまう。つまりこの時点でワウクスは、超自然的に獲物と自在に分離したり結合したりできる媒介者としての力を失っているのである。
これについてレヴィ=ストロース氏は次のように書く。
フスディワルの場合には雪靴であり、ワウクスの場合は槍である。これらの魔法の道具はいずれも主人公が超自然の父から授かった媒介の道具なのだが、そこにもやはり段階がある。つまり雪靴が急な傾斜面を登り降りするのに 役立つのに対し、槍は岩壁を貫き進むことを可能にする。従って槍は、障害物を取り除くのではなくそれと妥協する雪靴よりもラディカルな手段なのである。
アスディワルが山の上で石になる時、忘れてきた魔法の道具は雪靴であった。それがワウクスでは槍に変形している。雪靴も槍も「媒介の道具である」が、媒介の度合いに差異があるという。
雪靴は斜面の「登り/降り」という様態で、「妥協」型の媒介をする。つまり、雪靴は斜面そのものを爆破したりはしない。
一方、魔法の槍は、壁になる岩壁に吹き飛ばし、穴を開けて、突き進む。妥協型というか障害物撤去型の媒介(結合)である。
槍の方が、分離を結合に転じたり、結合を分離に転じたりする作用がより「ラディカル」なのである(岩壁を破壊して分離された向こう側と結合するなど)。
ここで槍とワウクスの分離(忘れてくること)は、アスディワルと雪靴の分離の場合よりも「深刻」だと、レヴィ=ストロース氏は書いている。
ワウクスの忘れ物はアスディワルの忘れ物よりも深刻である。弱い方の媒介者が強い方の媒介の道具を失ったことになり、その結果、その媒介能力は二重に弱められてしまっている。
アスディワルに比べると、ワウクスは弱い媒介者である。
なぜならワウクスは天に登って太陽の娘と結婚するほどの振幅を描くことができていないからである。
その弱い媒介者であるワウクスは、より強力な媒介項「槍」に助けられることで、かろうじて、β二項、両義的媒介項二つが過度に結合した状態で、強力な媒介力を生じていた。
そのワウクスが槍を忘れてきたとなると、もう彼一人で何か媒介的な働きをすることは難しくなる。
話が通じない
言語における「分離/結合」不可得
こうしてワウクスは、すいぶんと残念な姿になる。
ワウクスと妻は、山の上と谷底へと分離する。
といっても、その距離は、天と地ほどのものではなく、大声で叫べば声がとどくような届かないかといった、完全に分離されているわけではないが、しっかり結合しているわけでもない、実に中途半端な距離感で、ワウクスは困ったことになる。

その様を表現するために、言葉によるコミュニケーション、声によるコミュニケーションに失敗するという、ディスコミュニケーションに言及する。
山の上のワウクスは、谷底の妻に向かって「神々に脂を捧げる儀式」を行うよう叫び声で伝えようとする。
しかし、谷底の妻にはワウクスの声はよく聞き取れない。まったく声が届かないのではない、というところに注目しよう。夫が何か避けんんでいる、ということは妻にもわかっている。しかし、何を言っているのかわからない。
そして妻はワウクスが「自分に(妻自身に)脂を食べるように命じている」のだと誤解する。
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おもしろいのは、妻に話が通じないと悟ったワウクスが、諦めて「(妻が脂を食べることに)同意する」というところである。実際、世の中、こういうご夫婦は少なくないのではないだろうか。
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そうして、ワウクスの妻は脂の食べ過ぎで「破裂」(過度に分離)する。
この妻は、神話における両義的媒介項(β項)であるが、これが「破裂する」、つまり分かれる、バラバラに分離することで、そこに経験的感覚的に安定的に分別されたΔ二項対立関係が広がる余地が生じる。その分離した破片としてのあり方が、ここでは「木目のついた火打石」という、この神話を語り聞く人々にとっては既知の経験的なモノ(Δ)である。
そして、魔法の力を置き忘れてきたワウクスも、「妻と自分との間の誤解」により「自然力を鎮める最後の機会(つまり脂を神々に捧げるという儀式を行うチャンス)」を逃す。そうしてワウクスも、山の上で、天地のちょうど中間あたりで、石になって、動かなくなる。
対立関係の両極に、一つの神話のなかで言及しようとする
それにしても食べすぎてお腹がはち切れるとは、すごい話であるが、この手の話は例えばカエルのおなかが膨れて破裂するといったパターンで、しばしば神話に用いられる。バラバラに散る、という分離の相を象徴するのにちょうどよいのだろう。
そして、このくだりは他でもない、アスディワルの神話の冒頭の「飢饉」と対立しているのだとレヴィ=ストロース氏は書く。
ワウクスの物語は、従って、弁証法的退行によって展開するが、この異伝版においては、いくつかの点で開かれていた一つの構造が閉じるという点から、別な意味で、 前進をも示している。ワウクスの妻は過食のために死ぬ。これが飢餓に苦しむアスディワル(またはアシ =ホウィル)の母に始まった物語の結末である。飢餓はアスディワルの母を運動[移動]へと向かわせたが、ここでは、食べ物の過剰がワウクスの妻を不動にしてしまう。
飢饉 / 食べ物の過剰
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運動 / 不動
この二重の二項関係で、運動することと運動しないこと(不動)、伸縮しつつ振幅をえがく両義的媒介項(β項)としてのあり方と、経験的感覚的に安定し均衡した分別(Δ項の対立)というあり方とが、見事に対比され、浮かび上がってくる。

レヴィ=ストロース氏の議論の影響のもとで著者作成(2025)
最後に、次のような事実に注目しよう。冒頭の場面の登場人物は、《(夫を失って)夫婦でない》、食べ物のない、移動する二人の女であり、最後の場面の登場人物は、夫とその妻からなる夫婦であり、夫は食べ物を与える者(理解されない)、妻は過剰に食べ物を与えられた者(理解しないために)で、二人とも、この対立にもかかわらず (いやおそらくはこの対立が表す補完性の欠如の故に)麻痺してしまうのである。
運動することと、しないこと。
動くことと、動かないこと(石になる、麻痺する)。
この二つ、この動と不動の区別、対立もまた、人間的な経験、感覚を織りなすもっとも基本的な二項対立のひとつであろう。そうした二項対立の起源をも、この神話は語り、区切りだそうとしている。
抑えることのできない運動により特徴づけられる冒頭の状況に始まり、決定的な不動性により特徴づけられる最後の状況に終るアスディワルの神話は、従って、それ独自のやり方で原住民の哲学の基本的な一側面を表現している。
運動 / 不動
こういう経験的感覚的に端的に感じられる分別、区別、二項対立であっても、神話の思考にとっては所与のものではない。野生の思考の神話論理は、出来合いの、所与の、あらかじめ定まって不動になった二項対立関係から思考をスタートさせるものではない。
否定の否定、マイマス×マイナスとしてのΔ存在者
上に続く次の一節もおもしろい。
まず食物の欠乏が提示される。今まで述べてきたことすべてが、アスディワルの食物を与える者としての役割はこの欠乏を否定することにあると考えることができる。しかし欠乏の否定は(食物の)出現とはまったく別のものである。事実、食物としての(もはや食物を与える者としてではない)アスディワルの姿によって、この出現が得られると、不動の状態が起こるのである。
しかし不動性同様、飢餓も人間にとって耐え得る状態ではない。従って、この人々にとって、存在の唯一の肯定的形態は非存在の否定にあると結論しなければならない。
少しわかりにくいところであるが、「存在の唯一の肯定的形態は非存在の否定にある」というところがおもしろい。
存在を肯定すること。
たとえば食べ物がある=存在するということを肯定することは、その「非存在を否定すること」と等価なのである。
食べ物が存在する、ということはどういうことかと言えば、食べ物が存在しないではない、ということである。
存在とは何か?
存在するとはどういうことか?
この極めて「哲学的」な問いに、野生の思考は端的に次のように答えることができる。
存在とは非存在ではない、ということである。
存在するとは、存在しないではない、ということである。
存在するとは、非存在を否定することである
こんなことを言われると、なにやら狐につままれたような
気がして釈然としないという近代現代人の方は少なくないと思われますが、たとえば仮に、
「存在するとは、Δxということである!」
と高らかかに宣言するのはよいとして、では「Δxとはなにか、どういうことか?」という疑問が出てくると、なかなかややこしいことになるのが今日の私たちの思考である。
大急ぎで、
「Δxとは、Δx-1である」
という。
なるほどですね、それではでは、「Δx-1とはなにか?」
「Δx-1とは、Δx-2である!」
という。
なるほどですね、それではでは、「Δx-2とはなにか?」
「Δx-2とは、Δx-3である!」
・・・以下略。
という具合に、ある項Δについて「それが何であるか」が問われた時に、あるΔを別のΔに言い換える、という処理をすることで、一見「答え」が見つかったように感じられる。しかし、ありとあらゆるΔについて、それは何か、と問うことができ、つまりさらにさらに別のΔ別のΔへと言い換えることができる。そしてこの言い換えは終わらない。たとえどこかで「これ以上は言い換えてはならない」と称する言い換えの終端のΔなるものを設置したとしても、この「言い換えてはならない」の命令を受け入れない者が現れた途端、言い換えは再開されるのである。
この手の言い換えの連鎖を作ることを我々は通常「思考」だと持っているし(もちろん、それはそれでよい)、最終的にそれ以上先に置き換えることができないΔterminatorを確定することが思考の極みであると、思っていたりするのであるが、その是非はともかく、是非以前に、その手前にある謎は、そもそもΔxをΔ-nに言い換えることができる、ということがどうして可能なのか???ということである。

ここでまず、Δxの反対側に、「非Δx」が隠れている、と、野生の思考は考える。
Δx / 非Δx
同じく、何らかのΔ-nについても、その反対側に「非-Δ-n」が隠れている、と野生の思考なら考える。
Δ-n / 非Δ-n
そしてこの二つの二項対立関係を重ね合わせる。
Δx / 非Δx
|| ||
Δ-n / 非Δ-n
ここで私たちははじめて「Δxとは、Δx-nである」と言えるようになる。
そして野生の思考は他でもない、このΔx/非Δxの「/」、Δ-n/非Δ-nの「/」に、/の動き、/の分けつつつなぐ動き、/の述語が動き回り、伸縮し、その振幅の両側に、振動の最大値と最小値として、あるΔとその否定・反対のΔが収まる位置を浮かび上がらせる動きに最新の注意を払うのである。

あらゆる存在は、それ自体として端的に存在するわけでなく、対立する二極を区切り出し浮かび上がらせるように振動・振幅する動きから区切り出されてくる。
有 / 無
存在 / 非存在
肯定 / 否定
「存在の唯一の肯定的形態は非存在の否定にある」とは、まさにこの「/」の動きを思考せざるを得ないところへ、私たちを誘う。

これに関して、弘法大師、空海は『吽字義』に次のような一節を記している。
「諸法は展伝して因を待って成ずるを以ての故に。最後は依無きが故に無住を説いて諸法の本とす。然る所以は種々の門を以て諸法の因縁を観ずるに、悉く不生なるがゆえに。」
訶字の実義について
ここで諸法とは、Δ、そして伸縮する動き=述語を担う主語的なものβである。そして諸法、Δやβは「不生」であるという。あるΔやβは、それとは別のΔやβを原因(因)としてそこから「生」まれるものではない。不生である。では生まれるものではないのに、あるΔxがそれではないものと区別されるものとして存在するようになっているのは、他でもない、Δxを非Δxたちとい分けることΔx/非Δxの「/」が走ること・動くこと、による。
この/の動き、/の分けつつつなぐ動き、/の述語が動き回り、伸縮し、その振幅の両側に「諸法」たちを、いわばひとつの場として区切り出す。
この「/」の伸縮による諸法(諸項)の区切り出しが、意味分節の最小構成単位(「Δxとは、Δx-nである」などといえること)を織り成した姿が、
Δx =/= 非Δx
|| ||
/ /
|| ||
Δ-n =/= 非Δ-n
このような四項関係であり、これがつまり「曼荼羅」 である。

分離と結合を繰り返す、四度の結婚
『神話論理3』の基準神話
さて、結婚を幾度も繰り返す神話と言えば、『神話論理』の三冊目『神話論理3 食卓作法の起源』の冒頭に掲載された第三巻の基準神話M354「トゥクナ 狩人モンマネキとその妻たち」がある。

「狩人モンマネキとその妻たち」では、主人公であるモンマネキという人物が、5回の結婚を繰り返す。この神話は以前の記事でも分析したがもう一年以上前のものになるので、今回改めて、分離する述語と結合する述語にフォーカスして読み直してみよう。神話は読む都度、新しく生まれるのである。
第一の結婚:カエルとの結婚
世界が創造されたばかりのころ、モンマネキという名の人間が狩猟だけを生業として暮らしていた。狩の道の途中、地面に穴が開いているところがあり、そこにはいつも一匹のカエルがいた。
このカエルがある日、人間の娘の姿になってモンマネキのもとに現れ、二人は結婚する。
二人は結婚したが、食事は別々だった。
カエルである妻は「黒い甲虫」以外のものを食べようとしなかった。
モンマネキは狩った肉を食べ、妻は黒い甲虫を食べた。
ある日、モンマネキの母親が、息子夫婦の食事に「黒い甲虫」が供せされているのを発見した。息子が黒い甲虫を食べさせられていると思った母親は憤慨し、甲虫を捨て、代わりに甲虫が入っていた容器に唐辛子を入れた。
そうとは知らずにモンマネキの妻=カエルは容器の中身の唐辛子を、いつもの甲虫だと思って食べてしまった。あまりにの辛さにおどろいたカエル娘は逃げ出し、カエルの姿に戻って水中に飛び込んだ。
水中に戻ったカエル娘は息子を夫のもとに残したままだとネズミに咎められる。カエル娘は一度義母のもとに戻り、息子を奪い返すと、水中に帰っていった。第一の結婚はこれで終わりである。
カエルと人間、随分と隔たった、距離のある、経験的に分離した二極の間がが、結婚という形で結合に転じる。

しかしこの結婚は、結合しながらも分離しているものであった。
まず夫婦は同じものを食べない。互いに相手の食べ物を食べられないのである。
そしてそこに義母の「誤解」が重なる。誤解というのは正しく意味を解したと思ったら、実は間違っていた、ということである。正しいと思ったら間違っていた。正/誤の分別が曖昧になる。
そこにさらに、カエル妻の「誤解」も重なる。
不注意で甲虫と間違えて唐辛子を食べてしまうのである。
誤解は結合しているようで分離している、という相である。
カエルと主人公モンマネキの結婚は、誤解の積み重ねにより、すぐに分離に転じる。
第二の結婚:アラパソ鳥
カエルの妻を失ったモンマネキは、また狩をしていた。
ある日、林の中で、高い枝にとまる一羽のアラパソ鳥に出会う。
モンマネキは鳥アラパソ鳥に対し「あなたが作った飲み物を、ひょうたんにいれて、わたしにおくれ」と話しかけた。
モンマネキが狩からの帰りに同じ場所を通りかかると、可愛らしい顔の娘がいて、ひょうたんに満たされたヤシ酒をくれた。
モンマネキはこの娘と結婚した。
アラパソ鳥の娘は可愛らしい顔をしていたが、モンマネキの母親は、彼女の足が不恰好であるとなじった。
気を悪くしたアラパソ鳥の娘は去っていった。
第二の結婚はこれで終わりである。
第一の結婚が、カエルという、水中もしくは地中、地上世界に対する地下世界、陸界に対する水界との間で生じたものであるのに対し、第二の結婚は、樹上の高所の鳥との間に結ばれる。天/地のあいだの分離を結合に転じる結婚である。

この結婚では、モンマネキが樹上の存在に声をかける。
「飲み物を用意してくれ」と。
この呼びかけ、コミュニケーションは成功する。
先ほどのカエルとの間で誤解が重なったのとは対照的である。
そうして樹上の高所から降りてきたアラパソ鳥とモンマネキは結婚するのであるが、今度は義母の悪口にアラパソ妻は「気を悪くして」、夫のもとを去る。この悪口を言われて怒って出ていく、というくだりもコミュニケーションとしては正しく成立している。つまり、悪口を褒め言葉だと誤解したり、逆に誉めているのに悪口だと思ったり、といった誤解はない。悪口は悪口として、正しい意味でしっかりと伝わっている。
もちろん、それで結婚は結合から分離へと転じるのであるが。
第三の結婚:雌ミミズ
モンマネキが狩をしていると、地面の穴からミミズが変身した美しい娘が声をかけてきた。二人はすぐに結ばれ、人間の村で一緒に暮らすようになった。ミミズ娘はすぐに男の子を産んだ。
モンマネキはミミズの妻に子供を義母に預けて、畑の草刈りをしておくように頼んだ。妻はミミズの姿に戻って、畑の土の中に潜って、雑草の根を切った。
そこへ義母が赤ん坊を連れてやってくる。
赤ん坊が泣き止まないので、母親=ミミズに帰そうとしたのである。
義母は畑一面にまだ草が立っているのを見て、嫁が草刈り仕事をサボっているものと勘違いした(本当は根が切ってあるのに)
義母は嫁を「怠け者だ」と詰り、自ら草刈りをしようと、貝殻でできた鋭利な鎌を使って草の根元を切って回った。その途中、地中にいるミミズ嫁に気づかず、その唇を鎌で切ってしまった。
負傷して家に戻ったミミズ娘は家を出ることにし、息子を自分に渡すように夫に言おうとしたが、口を切られて喋れなくなっていた。仕方なく、息子を夫のもとに残したまま、ミミズの娘は森へ帰っていった。
第三の結婚はこれで終わりである。
第三の結婚は、カエルに引き続き、地下の存在との結婚である。
ただし、カエルに比べると、ミミズの方が地下といってもその深度が浅い。
第一の結婚と第三の結婚では、同じ地下でも、
深い地下 / 浅い地下
この違いが際立つ。

さてこの結婚、過度な分離を短絡し結合へと転じた結婚も、またモンマネキの母の誤解によって分離へと転じる。
地下では雑草の根が切ってあるのに、地上ではその様子が見えない。
そうしてまだ草刈りが終わっていないと誤解した主人公の母は、自分で草刈りを始める。
そして地下にいるミミズ嫁に気づかず、その「唇」を切ってしまう。
ミミズ嫁は夫のもとを去るが、もう喋れなくなってしまっており、息子を残していかざるを得なかった。
ここでも誤解する、声が届かない、喋れない、といった言語的なコミュニケーション/ディスコミュニケーションが、分離を結合に転じたり、結合を分離に転じたりする鍵を握っている。この言語的なコミュニケーション/ディスコミュニケーションから、先ほどのアスディワルの息子とその妻の問答を思い出す。
さて、次は第四の結婚である。
第四の結婚:コンゴウインコ
モンマネキは、狩の途中、コンゴウインコの群れに向かって「とうもろこしのビールをおくれ」と声をかけた。帰りがけ、ひとりのコンゴウインコの娘がとうもろこしビールをもってモンマネキを待っていた。二人は結婚した。
ある日、モンマネキの母はコンゴウインコの嫁に、自分が畑に出かけている間に、梁に干してあるとうもろこしの穂を下ろしてビールを作る準備をするよう命じた。
コンゴウインコ娘は、わずか一本だけの穂から、五つの大壺を満たすほどのビールを作った。
義母が帰ってくると、嫁はおらず、穂がたくさん残っている。
五つの大壺に気づかない義母は、嫁のことを「怠け者だ」と言った。
コンゴウインコ娘は家から離れた川で水浴びをしていたが、この義母の声を聞いていた。
家に戻ったコンゴウインコ娘は、屋根藁に隠した櫛が見つからないと夫にいい、屋根に登った。そして屋根の上で、「すでに大量のビールが出来上がっている」ことを歌った。
義母は嫁に謝ったが、嫁は許さず、コンゴウインコの姿に戻って、梁にとまった。夜明けになると、コンゴウインコ娘はモンマネキに向かって
「私を愛しているなら、私と一緒にいきましょう。削ったおがくずを水にいれると魚に変身する特別な月桂樹があるから、その幹でカヌーを作って、下流へ下ってください。その先で会いましょう」
というと、飛び去った。
*
モンマネキは妻を追いかけるべく特別な月桂樹を探しまわった。
さんざん迷った挙句、ようやく、根元が水に浸かっていて、削ったおがくずを水に落とすと魚に変身する月桂樹を見つけると、一日中これを削ってカヌー作りに精を出した。
モンマネキの親族の年下の男が、このカヌー作りの様子をこっそり覗き見た。そのせいで、おがくずは魚に変身しなくなった。モンマネキは魚を無尽蔵に手にいれることはできなくなった。
モンマネキはこの年下の男を呼び寄せると、一緒にカヌー作りを手伝うようにいった。男がカヌーにふれるやいなや、モンマネキはカヌーをひっくり返して、男を水中に落とし、カヌーで蓋をして、一晩閉じ込めて懲らしめた。
*
翌朝、モンマネキは男を許し、一緒に川下りの旅に出るよう誘った。
カヌーの後部にはモンマネキが、カヌーの前部には親族の年下の男が乗った。ふたりは櫂をこぐまでもなく、水のながれにのって川下へと進んだ。
そしてとうとう、コンゴウインコの娘が隠れ住む里の近くにやってきた。
里の人々がカヌーを迎えに出てきたが、コンゴウインコ娘はまだ姿を表さず、隠れていた。親族の男がモナン鳥に変身して飛び立ち、コンゴウインコ娘の肩に止まった。
その時、突然、カヌーが垂直に立ち、モンマネキは川に放り出された。
モンマネキはアイチャ鳥に変身して飛び立ち、妻のもう片方の肩に止まった。
無人のカヌーは流され、大きな湖にたどり着き、そこで川の魚の主である怪獣に変身した。
第二の結婚、アラパソ鳥との結婚とよく似た感じであるが、今回のコンゴウインコは、アラパソ鳥に比べると、相対的に地上に近いところ、つまり低いところにいる鳥である。

また鳥から供給される飲料も、ヤシ酒とビールを比べると、ビールの方がより人為的に栽培したものを加工した感じが強くなる。つまりこの第四の結婚は、より人間の世界に近いところの異界の者との結婚である。第二の結婚に比べて、結合される距離の元々の分離が狭くなっている。β脈動が収縮に向かっていることがわかる。
さて、この神話でも、言語的なすれ違いが夫婦の関係の分離と結合を左右する。まず、主人公はコンゴウインコの娘との会話に成功する(ビールをおくれ、という主人公の呼びかけに対し、その通りに答えてくれるコンゴウインコ)。そうして二人は結婚するのだが、また、主人公の母が、誤解から嫁を悪くいう。またこの悪口を、遠い場所にいるはずのコンゴウインコ嫁はどういうわけか聞きつけて(ここも、経験的に遠く分離しているはずの距離が、声が筒抜けになるという形で短絡している)、反撃に転じる。
コンゴウインコ嫁は屋根の上で、義母の間違いを大声で村中に聞こえるように叫び続ける。義母は謝罪するが、嫁は許さず、出ていってしまう。しかも夫モンマネキに、自分についてくるようにいう。母親から分離するように呼びかけるのである。
*
カヌーの旅
ここから主人公の長い川の旅がはじまる。
まず、カヌーの材料となる「半分水に浸かった」特別な木を探しにいく(過度に分離された珍しい木との距離を結合に転じる)。
この木は大鋸屑が無数の魚に変身するという、「食べられないもの」と「食べられるもの」との対立する二極をくるくると自在に反転させられるほどの高い脈動状態にある。

この木から刳り出されるカヌーもまた、人間の世界と、動物(鳥たち)の精霊たちが人の姿に変身して暮らす世界という、遠く隔たった二つの世界を自在に結びつける機能を演じる。
食べられるもの / 食べられないもの
人間の世界 / 動物の精霊たちの世界
ところが、この自在な転換力は、カヌーを刳り出す様子を「覗き見」した男の存在によって、相を転じることになる。
覗き見というのは、分離されながら結合する、ということである。
覗き見による「結合」が生じたために、別の方向で、この結合の逆にあたる分離が生じなければならない。それが食べられるものと食べられないものとのはっきりとした分離である。
*
ここでモンマネキは、嘘をつく。言葉の「字面通りの意味」と、そこに込められた「本当の意味」とを分離するのである。
「一緒にカヌー作りを手伝ってくれ」という言葉の字面通りの意味は、一緒にカヌーを作ってくれ、という意味である(なんとか構文)。
しかし、実際には、この「一緒にカヌー作りを手伝ってくれ」の本当の意味は「おまえを裏返したカヌーの中に閉じ込めて罰してやる」である。
ここでカヌーが裏返しにされる、というのが興味深い。
通常のカヌーの向きとは逆向きに、くるりとひっくり返るのである。
* + *
しかし、そうかと思えば、翌朝にはカヌーはまた元通り。
中の男は助け出されて、川下りの旅のパートナーになる。
二人はカヌーにのって川を下る。

そうしてたどり着いた鳥の精霊たちの世界では、鳥の精霊たちの方が人の姿をしており、モンマネキたちの方が鳥の姿に変身している。
こちらでは、人間が人間で、鳥は鳥。
あちらでは、人間が鳥で、鳥が人間。
あちらとこちらで、逆になっている。
そうしたところで、鳥になった二人の男は、コンゴウインコ妻の「両肩」に乗る=結合する。

この両肩に乗るというのが、次の第五の結婚で起きることの伏線になる。
右 / 左
|| ||
アイチャ鳥 / モナン鳥
ちなみに、アイチャ鳥/モナン鳥も対立関係にある。

そしてそして、カヌーそれ自体は魚の主たる精霊に変身して、魚を生み出してくれるようになる。以後、人間は、大鋸屑を削り出すほどには簡単ではないにせよ、ともかく魚を獲って食べることができるようになる。
ここに
捕食者としての人間 / 人間の食べ物
というΔ二項対立が区切り出される。
* *
そして第五の結婚では、この魚と、両肩に乗る、というところが別の姿で反復される。
第五の結婚:同郷の人間の娘
コンゴウインコの元からもどったモンマネキは、同郷の娘と結婚した。
この妻は魚を獲る時、家から遠く離れた船着場まで行って、そこで胴体の中程で体を半分に割り、腹から足までを岸辺に残して、胸と腕と頭だけで水中に入っていた。そして身体の切断面から漂う肉の匂いに惹かれて集まって来る魚たちをつぎつぎと捕まえて蔓に通していった。
漁が終わると、上半身は這って土手まであがり、下半身と合体した。
下半身にはこの合体のための取っ掛かりとなる「脊髄の端」が突き出していて、これが”ほぞ”の役割を果たした。
*
モンマネキの母は新しい嫁が漁りの天才であることに驚いていた。
ある朝、義母は嫁に川で水を汲んでくるよう頼んだ。
しかし、嫁がなかなか戻ってこないので、義母は苛立って川に様子を見に行った。すると、土手に下半身だけがある。義母は、残された下半身から突き出している脊椎の端をもぎ取った。
嫁が川から戻ると、もう下半身と合体することができなかった。
仕方なく、嫁は腕の力だけで木によじ登り、そこで待った。
夜になっても妻が戻らないことを心配したモンマネキは松明をともして捜索に向かった。そして妻が上に隠れている木の下まできた。
上半身だけの妻はモンマネキの背中めがけて木から飛び降り、しがみついた。その時以来、上半身だけになった妻はいつもずっとモンマネキにしがみついて、モンマネキが何かを食べようとすれば、すべて口から奪い取って貪るようになった。
モンマネキは飢えて痩せ衰えていった。
モンマネキは背中の妻から自由になろうと画策し、「魚取りの堰に行くが、そこには恐ろしいピラニアがいて、おまえの目玉を食べようと狙うだろう」と脅かした。妻は土手で待つといい、モンマネキから離れた。ここぞとばかりモンマネキは川に飛び込み、泳いで逃げ去った。
上半身だけの妻は夫が戻らないので、堰の杭に行って、そこにとまった。
数日後、彼女はオウムに変身しており、飼い慣らされたオウムのようにおしゃべりになっていた。そしてしきりに鳴きながら、川の下流の鳥たちが住む山地へと飛び去った。モンマネキは藪に隠れて、その様子を見ていた。
(おわり)
さて、五度目の結婚にして、ようやく人間と結婚したかと思えば、この妻は、なんと、上半身と下半身を自在に分離したり結合したりできるという、まさに分離と結合の両極の間を反復する、両義的媒介項β項であった。
この妻は、体を半分にすることで、魚たちを誘き寄せ、自在に捉えることができる。モンマネキは「覗き見」という分離を結合に転じる動きの反動として、大鋸屑から魚を作り出す異なるものを一つに結合する魔法を失ってしまったが、代わりに妻は、自分自身を結合から分離に転じるという動きに投じることで、分離した人間とその獲物の間の距離を結合に転じる。
あちらで分離するとこちらで結合し、こちらで結合するとあちらで分離する、という動きである。
*
しかし、今回もまた、モンマネキの母親のご登場である。
なんと義母は、嫁の上半身と下半身を結合するための「ほぞ」を壊してしまう。
こうして嫁の上半身は下半身と結合できず、彷徨うことになる。
下半身を失った嫁は、仕方なく、夫であるモンマネキの肩にのしかかり、背中に乗る。先ほどコンゴウインコ妻が人間に変身した両肩に、モンマネキたちが乗ったのと逆のパターンである。
そして自在に魚を取れる(ありあまる食糧を自由に手に入れられる)という妻の力が逆に反転して、モンマネキは食べ物から分離され、飢える。
ここで最後に、また言葉、嘘の言葉、字面上の意味と実際の意味が分離した言葉が出てくる。モンマネキは半身の妻をうまく言いくるめ、自分の背中から分離し、そして逃げる。
上半身だけの妻は困り果てたが、ついには鳥に、それも人間の言葉を字面だけ真似る鳥に変身(おうむ返しもまた、字面の意味と、実際の意味が激しく分離している。鳥が真似る人間の言葉には、意味はないのである)し、例の鳥の精霊たちの世界へと飛び去っていく。限りなく人間に近いが(結合しているが)、しかしやはり人間とは違う鳥として、あちらの世界に分離していく。
モンマネキは、その飛び去っていく様子を、親戚の男がカヌー作りの現場で行ったような具合で「覗き見」している。飛び去っていくのが結合を分離に転じる相であるとすれば、その反対側に、分離を結合に転じる「覗き見」がちょうどよく収まるのである。
**
以上、神話は、
結婚
悪口
嘘
おうむ返しの言葉
覗き見
このような経験的で感覚的な、分離を結合に転じ、結合を分離に転じる動きたちを織り重ねながら、この私たちが生きる意味ある世界を、そうでない世界と丁寧に丁寧に引き離しつつ、しかし過度に分離しない程度に付かず離れずに関係を保つようにバランスさせるのである。
このとき、手がかりになるのが、
分離している
結合している
分離しつつも結合している
結合しつつも分離している
分離から結合への転換
結合から分離への転換
といったことを表現するための比喩になりそうな、わたしたち人類が身体で感覚体験できる様々な動きである。則、くっついたり離れたり、繋がったり繋がらなかったり、届いたり届かなかったりする経験である。
つづく

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