レヴィ=ストロース著『アスディワル武勲詩』を読む(前編) -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(0.1)
クロード・レヴィ=ストロース氏の1958年の著作『アスディワル武勲詩』(La Geste d'Asdiwal)を読む。
↓AIによる本記事の音声解説も合わせてご利用ください↓
アスディワル (Asdiwal)武勲詩というのは、北米はカナダの先住民、ツィムシアン(Tsimshian)族に伝承された神話である。レヴィ=ストロース氏は本書でこのアスディワルの神話を分析する。
本書の目的について、レヴィ=ストロース氏は次のように書いている。
地理的・経済的・社会学的・宇宙観的というこれら諸レベルの各々、およびそれに固有のシンボリズムは、どのレベルにも共通する潜在的論理構造の変形として現れてくるのである。
本記事に記載の引用元ページ数はちくま学芸文庫版のものではなく、単行本(青土社版)のものです。以下同じく。
固有のシンボリズム、つまりあれこれの「地理的・経済的・社会学的・宇宙観的」なシンボルたち、登場人物たち、ものたち、つまり主語的なものたちが、「共通する潜在的論理構造」の「変形」として「現れてくる」というところに注目しよう。

主語的なものたちが「現れて」くる
(もともと「ある」のではなく)
神話にはさまざまな登場人物や、動物たち、精霊たち、神々、ものたちが登場するが、それらひとつひとつの個物・項それ自体を眺めていても、「それが何であるのか」「それにどういう意味があるのか」はよくわからなくなる。
例えば、ある項zが、ある神話では極めて清浄なものとして語られていたのに、別の神話ではとんでもなく穢れたものとして語られたりする。
「項zはそれ自体として、清浄なのか、それとも穢れているのか??」
このような問いを立てても答えようがないのである。
*
またある神話では「男性」の主人公が行っていた冒険aを、別の神話では「女性」の主人公が行なっていたりする。
「冒険aの主人公は、男性なのか?それとも女性なのか?」
このような問いを立てても答えようがないのである。
こうした神話について、「項z」や「冒険aの主人公」なるもの、「清浄であること」「汚れであること」「男であること」「女であること」といった、対立する主語的なことのどちらの側に配するか、といったことを分別しようとしても、それらはいつのまにかゆらゆらと形を変えていき、ラベル付けされた分類箱から逃げ去ってしまう。
「xはyである。」
という形式で、ある主語的なものxを、別の主語的なものyに言い換える時、そこには四項関係が隠れている。即ち、
x / 非-x
|| ||
y / 非-y
という具合である。清浄と汚穢、男と女、といった二項対立も、この図式に収まる。
清浄 / 汚穢
|| ||
項z / 非-項z
主人公 / 非-主人公
|| ||
女性 / 男性
私たちが普段、何気なく「xはyである。」などと語る時、その時には無意識のうちに、xと非xの二項対立が分別されており、yと非yの二項対立も分別されており、そしてこの二つの二項対立をある向きで重ね合わせる、という情報処理が行われている。
*
レヴィ=ストロース氏の神話分析は、神話に登場する項たちが、必ずある二項対立関係の一方の極を占める項であるということに注目する。
そしてこの二項対立関係は、出来合いの所与の項が二つ二次的に集まって結成された関係ではなく、ある項をその項ではない項と区切り分けつつ結びつけて対立させておく処理=動きである。この動きは関係する二項を分離しつつ結合する、二項対立関係を関係づける動きとしての関係である。
xでも、非xでも、清浄でも汚穢でも、男でも女でも、主人公でも非主人公でも、個々の項が、対立する相手方とは無関係に、それ自体として意味的に存在することはない。あらゆる項は、「それではない項」と分離されつつ対立関係に結び付けられていて初めて、「その項」としての姿を現す=その項に「なる」のである。
「いやいや、そんなことを言ったって、現に目の前に清浄なものはそれ自体としてあるし、汚れたものもそれ自体としてあるし、男は男だし、女は女だろう!」という声も聞こえてくるところであるが、私たちが現に、リアルに感覚し、経験し、あれがあるとか、これがないとか、なにがなにであるとか分別して認識している世界そのものが、
x / 非-x
|| ||
y / 非-y
といった具合の四項関係の意味分節システムがいくつもいくつも重なり合った、人間にとって意味ある世界として編み上げられたものなのである。

神話は、分別をブリコラージュして分別の手前を意識化する
この二項対立関係を区切り出す動き(分離と結合を動的に組み合わせていく動き・関係を関係づける動き)が神話の登場人物たち、神話に登場する諸存在者たちの間に、その動きの影を浮かびあがったものが、ここでいう「潜在的論理構造」ということになろう。
x / 非-x
|| ||
y / 非-y
この図式で言えば
/
|| ||
/
この「/」や「=」を達成すべく、経験的ななにかと何かが未分離に過度に結合しているところを引き離し(分離し)、そして分離しすぎたならば、また接近させて結合し、また近づきすぎたなら少し引き離す。このようになにかとなにかのあいだの経験的な距離(時間的、空間的、意味的距離)を伸び縮みさせるように、神話の主人公たちは、くっつたり、離れたり、またくっついたりする動きを見せる。

その姿を捉えようというのが本書の課題ということになる。
アスディワルの"伸-縮"
アスディワルの武勲詩とは、次のような物語である。
季節は冬、スキーナ川の渓谷では飢饉が続き、川は氷結している。
いずれも飢えのために夫を失った母とその娘が、別々に、二人がともに生活し、食べ物も不足していなかった幸福な日々に思いを馳せている。
夫をなくしたことで束縛されない立場になった彼女たちは一緒に住もうと、同時に思い立ち、同時に歩き出す。
*
下流に 住む母親は東へ、上流に住む娘は西へと、凍ったスキーナ川の川床を進み、その半ばで二人は出会う。
二人の女は空腹と悲しみのために涙を流しながら、川縁の一本の木の下で野宿をする。その木からさほど離れていない所に一個の腐った漿果を見つけ、二人でこの唯一の食べ物をもの寂しい思いで分かち合う。
* *
夜、一人の見知らぬ男が若い方の未亡人を訪れる。
その男の名がツィムシアン族 の言葉で吉兆の鳥を意味するハツェナス(Hatsenas)であることがまもなくわかる。彼のおかげで、二人の女はいつでも食糧を見つけることができるようになる。
* * *
若い方の未亡人はこの不思議な庇護者の妻となり、まもなくアスディワル(一八九 五年版ではアシワ(Asiwa)、一九〇二年版ではアシ=ホウィル(Asi-hwil))という名の息子を出産する。
アスディワルの成長は父親によって超自然的な速さで進み、父親はこの息子にいくつかの魔法の道具を与える。すなわち狩猟用の必中の弓 ハハ(矢・厳・槍・籠・雪靴〔かんじき〕・外套・帽子で、それらは主人公があらゆる障害を乗り越えたり、自分の姿を見えなくさせたり、尽きることのない食糧を産み出したりするのに役立つことになる。
*
そのあとハツェナスは姿を消し、年老いた方の女は死ぬ。
* * *
アスディワルとその母は西に向かって進み、スキーナ川峡谷にある母親の故郷の村ギツァラサート(Gitsalasert) に落着く。
*
*
*
ある日、一頭の雌の白熊が谷を降りてくる。
アスディワルに追われ、その魔法の道具のために危うく捕われそうになった白熊は垂直な梯子を登りはじめる。アスディワルはそれを追い天に到達する。
そこは、緑におおわれ、花の咲き乱れる草原のようである。
白熊はアスディワルを誘うように導き、その父親「太陽」の住む所にまで連れてくる。そこで白熊は、美しい若い ・娘「宵の明星」の姿を現す。
父親「太陽」は、それまでの求婚者たちがみな失敗したいくつかの試練(鳴動する山地で野生の山羊を狩ること・周囲の壁が閉じてしま う洞窟の底で泉の水を汲むこと・伐るものを押しつぶす木の枝を集めること・燃えさかる炉の中にとどまること)をアスディワルに課す。
彼は、その魔法の道具および自分の父親の助けを得て、いずれの試練にも耐え抜く。その力量に惹かれ「太陽」はついに結婚を許し、結婚式が行われる。
*
しかしアスディワルは母親が恋しくなる。
「太陽」は彼が妻とともに地上に戻るのを許し、旅の糧食として尽きることのない食べ物で満たされた四つの籠を与える。
それにより二人は、冬の飢饉に苦しむ村人たちから感謝にみちたもてなしを受ける。
妻の再三の警告にもかかわらずアスディワルは同郷の女のことで妻を裏切ってしまう。「宵の明星」は傷つき村を去る。悔恨に涙を流す夫が後を追う。
*
天と地の半ばまで来たところで妻はアスディワルを雷で撃ち、姿を消してしまう。彼は死ぬが、 天上の義父が彼を惜しみ、すぐに生き返らせる。
* *
しばらくの間すべては順調に過ぎるが、アスディワルはまたも地上がなつかしくなる。彼の妻は地上まで彼について行くことに同意するが、そこまで来て彼に最後の別れを告げる。
アスディワルは村に戻り、母親が死んでしまったことを知る。
もはや彼をそこにとどめるものはなにもなく、彼は下流へと足を向ける。
*
ツィムシアン族の町ギナクサンギオゲット (Ginaxangioget) に着くと、彼はそこの首長の娘を誘惑し結婚する。はじめ、結婚生活は幸福に過ぎてゆき、アスディワルは四人の義兄弟と野生の山羊狩を計画し、魔法の道具のおかげで勝利を占める。
春が近づくと、一家全員が移動し、まずメトラカトラ (Metlakatla)に滞在し、次は舟に乗り、海岸沿いに北上し、ナス川へと向かう。
向かい風のために彼らは進むことができず、しばらくの間クセマクセン (Ksemaksen)で野営する。
そこで事態は悪化する。アスディワルと四人の義兄弟の間で、山の狩人と海の狩人の優劣について言い争いが起こったのだ。そこで競争が行われる。
アスディワルは山から四頭の熊を射止めて帰ってくるが、義兄弟たちは海から何の獲物もなく帰ってくる。屈辱を感じ、怒った彼らは、テントをたたみ、妹を連れ、アスディワルを置き去りにしてしまう。
アスディワルは、キャンドル・フィッシュを獲りに、やはりナス川へと向かうギトクサトラ (Gitxatla)から来た見知らぬ人々に拾われる。
前の場合同様、彼らも四人の兄弟と一人の妹からなるグループである。
アスディワルはすぐにその娘と結婚する。みな一緒にナス川に到着し、すでにその場所に来ていた飢えたツィムシアン族の人々に、沢山の新鮮な肉とサケとを売る。
漁はうまくゆき、ツィムシフン族は中心的な町メトラカトラへ、ギトクサトラ族はラクサラン(Laxalan)の町へと戻って行き、アスディワルはその村で男の子の父親となる。彼は今や裕福な名士である。
冬のある日、彼は義兄弟たちよりもうまく沖でセイウチを獲ることができると自慢する。アスディワルとその義兄弟たちは揃ってそこに赴く。
魔法の道具のおかげで、アスディワルは岩礁で驚くほどの獲物を得るが、腹を立てた義兄弟たちは、彼をその場に、食糧も火もないまま置き去りにしてしまう。
嵐が起こり、岩は波に洗われる。救済者となって現れた父親の助けをかりてアスディワルは鳥に姿を変え、止まり木の役をなす魔法の道具の上に乗って、波の上方にその身を保つことができる。
二昼夜の後、嵐は鎮まり、アスディワルは疲れ果てて眠りに落ちる。
一匹のネズミが彼の目を覚まし、彼が傷を負わせたセイウチたちの地下のすみかへと導く。セイウチは(アスディワルの矢は彼らには見えなかったので)悪疫に罹ったのだと思い込んでいる。アスディワルは矢を抜いて治してやり、その代り、地上へ戻すことを確約するよう求める。しかし不幸なことに、セイウチの胃袋の中にある舟は、矢を受けて穴があき、どれも使い物にならない。
そこでセイウチの王は、すぐに返してくれるという条件で、アスディワルに自分の胃袋を貸し与える。
岸に着くと、そこには嘆き悲しむ妻と息子の姿がある。
この良妻の助けがあって――良妻ではある が、兄弟にとっては悪い妹(なぜなら彼女はアスディワルの作戦が成功するために 不可欠な儀式をすべてとり行うのであるから)―――、アスディワルは彫刻を施して木のシャチをいくつも作り、それに生気を吹き込む。
シャチたちは、鰭を操って舟の底を穿ち、意地悪な義兄弟たちを難破させ死なせてしまう。
しかしアスディワルはまたも、自分が子供時代を過ごした風景がたまらなくなつかしくなってしまう。彼は妻を棄て、スキーナ川渓谷に戻る。
ギナダーオス(Gi- nadaos)の村に落着いた彼はそこで息子と再会し、息子に魔法の弓と矢を与え、 彼からは一匹の犬をもらう。
冬がやってきて、アスディワルは山へ狩に出かける。しかし彼は雪靴を忘れてしまう。道に迷った彼は、雪靴がなくては登ることも下ることもできずに、槍・犬と ともに石に変わってしまう。
その変わり果てた姿のままの彼と犬と槍とを、ギナダーオスの湖の高い山の頂にいつも見ることができる。
ちょうど、『神話論理』の方で、「石の子」の神話を読んでいたところであったので、ふと、『アスディワル武勲詩』も最後には主人公「石」にあるなあ、と思い出し、紐解いたのである。
このアスディワルの神話について、レヴィ=ストロース氏は、下記四つの領域での対立があると指摘する(『アスディワル武勲詩』p.21)。
空間的、地理的な対立
・スキーナ川の上流と下流の対立
・上流の村から下流へ向かう女性と、下流の村から上流に向かう女性が、「川上」で出会う。
・アスディワル親子の下流の村での暮らし。
・成長したアスディワルのさらに下流への旅。
・キャンドル・フィッシュ漁のため、河口から海へでるアスディワル。
・海から北上し「ナス川」へと向かうアスディワル。
・さらに西に進路を変えて、海の沖「セイウチの国」へ向かう。
・セイウチの国から東へ戻る。スキーナ川へと。時間的季節的・経済的対立:川の上流下流間での季節的な移動
・冬の飢饉の時期から、漁の季節である春への移動。
・陸の狩猟者と、海の狩猟者の区別。社会・家族組織に関する対立:結婚と離婚
・母/娘が、娘の結婚により分離し、娘が夫と結合、夫側の村で暮らす。
・飢饉による夫方居住の崩壊。
・母/娘の距離の再びの短絡結合
・超自然の存在である「ハツェナス」と娘の結婚と妻方居住。
・妻方居住に伴う、夫と、妻の兄弟たちの反目。
・アスディワルによる義兄弟たちへの復讐
・妻方居住から解放された父と息子の結合という結末。宇宙観:真逆に対立する世界のあいだを往来する旅
・地上から天上世界へ、天上世界から地上へ
・地上から地下(水界)へ、水界から再び地上へ
それぞれの領域で、対立関係にある二極の間を短絡結合したり、分離して遠ざけたりする動きが見られる。
というわけで、詳しく読み直してみよう。


冒頭、冬の飢饉の季節から、話が始まる。
飢饉
人間とその食べ物との結合が分離へ転じる
レヴィ=ストロース氏は「飢饉は、否定的状態であるが、創世の始動因と考えられている」と書く(『アスディワル武勲詩』p.35)。なぜ、飢饉が世界の発生を始動するのか? 飢饉が、人間にとって意味ある世界の発生を起動するのか?
飢饉ということはつまり、人が、その食べ物から、過度に分離されているということである。
人間と食べ物は別のものである。
私は私であって、目の前の皿の上のカレーではない。
しかし、人は日々食事を摂らなければならず、人間とその食べ物は付かず離れず、適度に「結合」しているのでなければならない。
そしてもしかすると、4〜5年に亘り1日3食のうちの一回を、大学の生協のカレーばかり食べ続けたとすると、おそらく、三分の一は私はカレーである。
人間とその食べ物は、全く別のものでありながら、同じく一つになるもの同士でもある。
* *
しかし冬の飢饉の季節となると、この結合しているはずのところが(もともと「食べ物も不足していなかった幸福な日々に思いを馳せて」とあるくらい)、逆に分離へと転じているのである。

季節は冬、スキーナ川の渓谷では飢饉が続き、川は氷結している。
いずれも飢えのために夫を失った母とその娘が、別々に、二人がともに生活し、食べ物も不足していなかった幸福な日々に思いを馳せている。
夫をなくしたことで束縛されない立場になった彼女たちは一緒に住もうと、同時に思い立ち、同時に歩き出す。
下流に住む母親は東へ、上流に住む娘は西へと、凍ったスキーナ川の川床を進み、その半ばで二人は出会う。
さて、この飢饉、人間と食べ物の結合から分離への転換が、別の結合から分離への転換を引き起こす。母と娘、ぞれぞれがその「夫」と結合(結婚)していたところから分離される。
母娘それぞれの夫は飢えて亡くなってしまったらしい。
ここに食べ物と人間、妻と夫、もともと結合していたところが分離へと転じる、という動きがふたつ重なっている。
ここで逆の動きが出てくる。もともと分離していたところが結合へと転じるのである。母と娘の再会である。
下流 →/← 上流
母親 →/← 娘
西 →/← 東
母と娘は、おそらく娘が嫁いで以来、東/西に、スキーナ川の上流/下流に、分かれて、分離して暮らしていた。それがいま、二人が同じタイミングでそれぞれの居住地を出発して、おそらく両者のもともとの居住地のちょうど中間の地点で落ち合う=結合する。分離していた二者の間の距離が縮まって結合するのである。
ここで「歩き出す」「進む」「出会う」といった述語のもとで、分離が結合に転じ、結合が分離に転じる動きに注目しておこう。
漿果ー火を通さずに食べられるもの
再会(結合)した母娘は、「川縁」の「一本の木の下」にキャンプする。
川縁とは、水界と陸界の境界領域であり、水/陸の二項対立の中間領域である。また木というのも、天/地の二項対立の中間領域である。
二人の女は空腹と悲しみのために涙を流しながら、川縁の一本の木の下で野宿をする。その木からさほど離れていない所に一個の腐った漿果を見つけ、二人でこの唯一の食べ物をもの寂しい思いで分かち合う。
実に細かいところで、分離と結合の両極の間で伸縮する動きを見せている母娘のペアは、経験的感覚的に区別される二極のちょうど中間にポジションをとっていることが強調されるのである。このこと自体が、経験的二項対立の両極の間で、アイドリングしながら「振動」している、ということを示している。
またここで、母娘は「腐った漿果」(発酵した果実)を手にいれる(結合する)。飢饉ということで食べ物から分離されていたところが、ここでなんとか、食べられるものと結合している。食べ物との分離が結合へと転じている。
ただし、この食べ物は、これはおそらく『蜂蜜』と同様に、「火を通さずとも食べられるもの」である。
*
『神話論理2 蜜から灰へ』で論じられている通り、しばしば人類は、食べられるものと食べられないものの区別を、火を通したものと生のものの区別に重ね合わせて、「火を通したもの」が「食べられるもの」で、「生のもの」は「(そのままでは)食べられないもの」である、というように置き換えていく。
食べられるもの / 食べられないもの
|| ||
火を通したもの / 生のもの
ところが、蜂蜜はこの、「火を通したもの」が「食べられるもの」で、「生のもの」は「(そのままでは)食べられないもの」という分類に反するものである。ハチミツは「生のもの」のままで「食べられる」ものである。さらに、蜂蜜は、下手に火を通すと(直接炙ったりすると)、焦げてしまって「食べられないもの」になる。
天然の漿果も蜂蜜と似たようなものである。
蜂蜜や漿果は
食べられるもの=火を通したもの
/
食べられないもの=生のもの
という二項対立において、そのどちらの極にも属さない、中間的なものである(この中間性は、二極の中間にどっしりと安定して定まっているといったようなあり方ではなくて、どこにあるのかわからないくらいに振動して逃げ回っているような中間性である)。
要するに、分離を結合に転じて、河縁の木の下に集まった母と娘が結合する食べ物は、これまた経験的感覚的二項対立に対して両義的で中間的なものである。ここに四つの中間的なものが揃う。
天/地の中間
母・娘 + 漿果
水/陸の中間
中間的なものが四つ集まったところから、分離と結合の伸縮が動き出す。

第三の男、第四の男
まず、母と娘のペア、つまり「女性」が「男性」から過度に分離された状態にあったところが(飢えてなくなっているのである)、一挙に逆転し、新たな結合が生じる。娘と「ハツェナス」の結婚である。
夜、一人の見知らぬ男が若い方の未亡人を訪れる。
その男の名がツィムシアン族の言葉で吉兆の鳥を意味するハツェナス(Hatsenas)であることがまもなくわかる。
彼のおかげで、二人の女はいつでも食糧を見つけることができるようになる。
若い方の未亡人はこの不思議な庇護者の妻となり、まもなくアスディワル[…]という名の息子を出産する。

男/女あるいは夫/婦が過度に分離していたところが、結合に転じる。
それと同時に、飢饉で過度に分離された母娘と食べるものとの間の距離も一挙に縮んで短絡して「いつでも食糧を見つけることができるようにな」る。母娘と食べ物との分離は結合へと転じたのである。
分離したと思えば結合に向かい、結合したと思えば分離に向かう。
この伸縮の動きを常に念頭において神話を読んでみよう。
こちらで結合したと思えば、別のところで分離する
この結合、結婚と食べ物がいつでも手に入る状態の反対側で、別の新たな分離が生じる。こちらが結合すればあちらが分離する、というが両義的で中間的なものたちが動き回る神話のフェーズのよくあるパターンである。
ここで分離するのは母親と息子である。
また母子の分離は男女の分離でもある。
母/子(息子)
女/男
この息子が「アスディワル」、この神話の主人公である。
息子アスディワルとその母親とが分離の相にあることは、アスディワルの成長が「超自然的に速い」ということにもあらわれている。
息子アスディワルはあっという間に母親のもとから旅立ち、離れていく。
*
母と分離する一方で、アスディワルは父親である「ハツェナス」と結合する。ハツェナスに数々の「魔法の道具」を授けられ、父親とほとんど同じような自在な力を手にした者となる。
アスディワルの成長は父親によって超自然的な速さで進み、父親はこの息子にいくつかの魔法の道具を与える。すなわち狩猟用の必中の弓 ハハ(矢・厳・槍・籠・雪靴〔かんじき〕・外套・帽子で、それらは主人公があらゆる障害を乗り越えたり、自分の姿を見えなくさせたり、尽きることのない食糧を産み出したりするのに役立つことになる。
そのあとハツェナスは姿を消し、年老いた方の女は死ぬ。
こうして息子アスディワルは、父親と同じように、「尽きることのない食糧を産み出」す力を獲得する。父親と同じになった(過度に結合した)、といってもよい。
しかし、過度に結合すると、一挙に逆転して過度に分離するのが神話である。ハツェナスは姿を消してしまうのである。あっという間にアスディワルと父との結合も分離へと転じる。
ちなみに、アスディワルの成長が超自然的に速いというのは、要するに、経験的で感覚的な時間の進み方、時を刻む分別のリズムが、まだ定常波になっていないということであろう。

アスディワルの第一の冒険
ある二項関係において過度な分離を演じると、すぐさま別の二極の間で分離を結合に転じる動きが生じる。父/母のそれぞれと分離と結合の伸縮を演じた後、アスディワルは親子軸とはまた別の軸上で、伸縮を演じる。すなわち、アスディワルは天/地の分離を乗り越えて結合し、天にのぼり(天と結合し)、そして天界の姫と結婚=結合する。
アスディワルとその母は西に向かって進み、スキーナ川峡谷にある母親の故郷の村ギツァラサート(Gitsalasert) に落着く。
ある日、一頭の雌の白熊が谷を降りてくる。
アスディワルに追われ、その魔法の道具のために危うく捕われそうになった白熊は垂直な梯子を登りはじめる。
アスディワルはそれを追い天に到達する。
そこは、緑におおわれ、花の咲き乱れる草原のようである。白熊はアスディワルを誘うように導き、その父親「太陽」の住む所にまで連れてくる。
そこで白熊は、美しい若い娘「宵の明星」の姿を現す。
父親「太陽」は、それまでの求婚者たちがみな失敗したいくつかの試練(鳴動する山地で野生の山羊を狩ること・周囲の壁が閉じてしまう洞窟の底で泉の水を汲むこと・伐るものを押しつぶす木の枝を集めること・燃えさかる炉の中にとどまること)をアスディワルに課す。彼は、その魔法の道具および自分の父親の助けを得て、いずれの試練にも耐え抜く。
その力量に惹かれ「太陽」はついに結婚を許し、結婚式が行われる。
太陽の娘は、地上では白熊に変身している。
動物と人間。
そして娘の父親からの試練。

太陽との結婚=過度な分離から過度な結合へ
地上のアスディワルとその天界の妻との間は、天/地ほどにも隔たり、過度に分離されているが、さまざまな試練を克服するという形でこの距離を一挙に縮めることで、結婚=分離を結合に転じることが認められるのである。
ここでレヴィ=ストロース氏は、主人公アスディワルの父親「ハツェナス」のはたす「媒介者」としての役割に注目する。
「アスディワルの第一の冒険は一つの対立を生み出す。すなわち天ー地の対立で、これを彼は父親・吉兆の鳥ハツェナスの助けによって乗り越えることができる。ハツェナスは大気中すなわち(天上界と地上の)中間の生き物で、まさしく地上の人アスディワルとその義父・天上界の主「太陽」との間の媒介者の役割を担うに相応しい。」
ここでアスディワルの冒険が「天ー地」の「対立」を「生み出す」と書かれているところに注意しよう。
天地の対立、天地の区別はアスディワルの冒険に先行してあらかじめもともとあったものではない。この対立は、わざわざ「生み出す」ことがない限り、生まれないのである。
天 ← / → 地
この「← / →」の伸ばす動き。
この動きを、人間の分節言語で語ろうというのが神話である。
*
天地の区別というと、地球上に暮らす私たちからするとあまりにも経験的感覚的に自明な、あたりまえのことという感じがするが、そのような自明な区別対立の起源について問い、思考するのが人類の性というものである。
そして天/地の対立は、あらかじめ存在する天それ自体と、あらかじめ存在する地それ自体とを、事後的二次的にくっつけて出来上がりました、というものではない。天も地も、区切り出され、区別される限りで、天になり地になる事柄である。「ハツェナス」の飛翔が描く振幅運動の最大値と最小値として、天と地がそれぞれ区切り出されてくる。
ここに「天それ自体」「地それ自体」といったものはなく、天はあくまでも地と分別される限りで地上に対する非地上として浮かび上がってくる極であり、また地も、あくまでも天と分別される限りで天に対する非-天として浮かび上がってくる極である。

「天」とか「地」といった主語的なものが出来上がる手前で、それらを二項対立関係の両極として区切り出すような振幅を描く動き、その述語的様相がある(いまのところでいえば、ハツェナスの飛翔)。
天から地へ、地から天へ
天界の妻との分離、地上の妻との結合
ところが、試練を乗り越えて天界の娘と結婚したというのに、アスディワルは地上に帰ろうとする。地上に残した母親のことが恋しくなるのである。
恋しくなって会いに行く。分離しているところを結合に転じる。
結婚によって「分離」したはずの息子と母親の間が「結合」に転じる。
それによって、アスディワルは天界からは分離される。
あちらで分離したかと思えば、こちらで結合する。
分離していることと結合していることとの間を、分離したり結合したりする。
この様相が、神話の述語論理の真骨頂である。
しかしアスディワルは母親が恋しくなる。
「太陽」は彼が妻とともに地上に戻るのを許し、旅の糧食として尽きることのない食べ物で満たされた四つの籠を与える。
それにより二人は、冬の飢饉に苦しむ村人たちから感謝にみちたもてなしを受ける。
妻の再三の警告にもかかわらずアスディワルは同郷の女のことで妻を裏切ってしまう。「宵の明星」は傷つき村を去る。悔恨に涙を流す夫が後を追う。
天と地の半ばまで来たところで妻はアスディワルを雷で撃ち、姿を消してしまう。
彼は死ぬが、天上の義父が彼を惜しみ、すぐに生き返らせる。
アスディワルは天界の娘、太陽の娘である「宵の明星」を伴って地上に降りる。天体が地上に降りて、人間たちの村に一緒に滞在しているというのであるから大変なことである。

つまりこの時、天/地のあいだには行ったり来たりできるルートが開いたままであり、分離は確定していない。そうであるから「尽きることのない食べ物で満たされた四つの籠」のようなものを天界から地上に持ってきて、そうしてくだんの飢饉から人々を救うことまでできてしまうのである。人間とその食べ物のあいだに経験的感覚的にありえない過度な結合を引き起こすのである。
天 / 地
食べ物 / 人間
獲物 / 狩猟者
といった経験的感覚的にはっきりと分離され混じり合わないはずの二極が、この神話のこのくだりでは、ぴったり結合している。
天の妻と分離し、地の妻と結合し、
地の妻と分離し、天の妻と結合し
この、経験的に分離しているはずのところが結合してしまうということが、もうひとつ別の局面でも生じる。アスディワルは天界の娘である妻とは別の「同郷の女」と結ばれてしまうという。
こちらで結合すると、あちらで分離する。
「宵の明星」は、アスディワルのもとから分離する。
しかし、アスディワルは「宵の明星」を追いかける。
逃げるものと追うもの。
分離しようとしているのに結合する。
結合しようとしているのに分離する。
この鬼ごっこのすえ、「天と地の半ば」で、ついに「宵の明星」はアスディワルをカミナリで撃ち、倒れたアスディワルを放置して、天へと去っていく。
分離がいちおう確定したのである。
天 / 地
|
(中間)
この分離は決定的で、アスディワルは死亡するのであるが、ここは神話である。生/死の対立、分別もまだ区切られておらず、自在に生き返る。

そうして彼は天に戻り、また妻(「宵の明星」)と、なにごともなかったように、一緒に暮らす。分離したかとおもえば、また結合している。
経験的に対立する二極の間の距離を伸ばしたり縮めたり、実に自在である。
とはいえ、結合すればすぐに分離に転じる。
近づけばすぐに遠ざかる、というのが今の語りのモードである。
しばらくの間すべては順調に過ぎるが、アスディワルはまたも地上がなつかしくなる。彼の妻は地上まで彼について行くことに同意するが、そこまで来て彼に最後の別れを告げる。
アスディワルは村に戻り、母親が死んでしまったことを知る。
もはや彼をそこにとどめるものはなにもなく、彼は下流へと足を向ける。
アスディワルはまたも、地上の母に会うために天から地上へと降る。
妻「宵の明星」もまたついてくるが、しかし、一度地上に降りると、すぐに「最後の別れ」を告げて天に登ってしまう。
振幅を描く動きが大忙しである。
**
神話の筋書きをたどっていくと、同じような動き方が繰り返されることがあり、物語として冗長な印象を覚えることがあるが、神話にとって重要なのは筋書きのリニアな(単線的な)スムーズな展開ではなく、分離と結合を分離しつつ結合しつつ、二項対立関係を区切り出しつつ結びつける、対立関係の対立関係を伸縮させることなのである。
水平軸を伸縮させる旅へ
そして天界の妻と別れ、地上に残ったアスディワルであるが(つまりここで天/地の間の自在な往来は止まるのである。アスディワルはもう天には昇らない)、時を同じくして、地上で過度に結合したり分離したりを繰り返す相手であった「母親」も失ってしまう。
どうやらアスディワルが高速で分離したり結合したり、距離を縮めたり伸ばしたりするモードから、より減速されたモードへと切り替わり始めているようだ。法界から現世が煮凝ってくる感じである。

アスディワルの第二の冒険
天地軸での対立の安定化の次は、
地上での水平方向の対立の設立
天/地の間を垂直方向に登ったり降りたりしながら、距離を伸ばしたり縮めたり振動し、最終的に伸び切ったところで距離を一定に保つよう、振動することをやめたアスディワルは、今度は水平方向に伸縮する動きを見せる。
アスディワルは、故郷のスキーナ川を「下流へ」と下る。
これは東/西の区別のうち、東から西への移動になる。
上/下方向・垂直方向の振動をとどめて分離を一定の「距離」で確定した後で、今度は水平方向でもおなじことをしようというのである。
*

東から西へと移動した先で、アスディワルはその土地の首長の娘と結婚する。ついさっきまでは天界の主の娘と結婚していたのであるが、そこからは分離し、しかし、また同じことを別の軸上で繰り返すのである。
ツィムシアン族の町ギナクサンギオゲット (Ginaxangioget) に着くと、彼はそこの首長の娘を誘惑し結婚する。はじめ、結婚生活は幸福に過ぎてゆき、アスディワルは四人の義兄弟と野生の山羊狩を計画し、魔法の道具のおかげで勝利を占める。
春が近づくと、一家全員が移動し、まずメトラカトラ (Metlakatla)に滞在し、次は舟に乗り、海岸沿いに北上し、ナス川へと向かう。向かい風のために彼らは進むことができず、しばらくの間クセマクセン (Ksemaksen)で野営する。そこで事態は悪化する。アスディワルと四人の義兄弟の間で、山の狩人と海の狩人の優劣について言い争いが起こったのだ。そこで競争が行われる。
アスディワルは山から四頭の熊を射止めて帰ってくるが、義兄弟たちは海から何の獲物もなく帰ってくる。屈辱を感じ、怒った彼らは、テントをたたみ、妹を連れ、アスディワルを置き去りにしてしまう。
アスディワルは相変わらず、父親から授けられた「魔法の道具」で、獲物たを自在に狩ることができている(獲物との分離を自在に結合へと転じることができている)。つまりこの時点ではアスディワルは引き続き、経験的にはっきりと分離された二極(この場合、狩猟者と獲物)の間を自在に結合したり分離したりする媒介者の機能を保っている、ということである。
*ーーーーーーーーー*
この状態で、アスディワルは東西軸に対する南北軸を引く動きをみせる。
ところで、媒介者たちの振幅を描く動きは、ある軸上で結合を引き起こしたかと思えば、別の軸上では分離を引き起こすはずである。
アスディワルは、四人の義兄弟と争いになる。
そして、アスディワルが四頭の熊を射止めたのに対し、四人の義兄弟たちは何も獲物を得られない、という分離の様相が出てくる。
アスディワル / 四人の義兄弟
|| ||
豊富な獲物 / 獲物ゼロ
このことに怒った義兄弟たちにより、アスディワルは「置き去り」にされてしまう。ついでに首長の娘、つまりアスディワルの妻であり、四兄弟たちの妹にあたる女性もまた、兄たちに連れられてアスディワルと分離する。

この様相についてレヴィ=ストロース氏は「対立する二項の距たりは徐々に縮まってゆくが、対立そのものは依然として乗り越えられないまま続く」と書く(『アスディワル武勲詩』p.38)。
ちなみに、兄弟が四人セット、獲物の熊も四頭セットになっているが、四が一つになっている、「四即一」の項は、つまり経験的感覚的に分別された項ではない、ということを意味している。つまり経験的感覚的な分別=二項対立が分節する手前で、この対立二極の間を広げたり縮めたり、伸縮する述語的様相を言語化するためにやむを得ず必要になる主語的なものについては、四にしておくのである。四にしておけば、人間にわかる言語で語りながらも、現世の話ではなく、法界の話をしているのね、ということがわかるようになっている。四種曼荼各離れず(空海)である。
*
さて、アスディワルがあるひとつの分離を経験したとなると、すかさず、次の結合が生じるはずである。
アスディワルは、キャンドル・フィッシュを獲りに、やはりナス川へと向かうギトクサトラ (Gitxatla)から来た見知らぬ人々に拾われる。前の場合同様、彼らも四人の兄弟と一人の妹からなるグループである。アスディワルはすぐにその娘と結婚する。
みな一緒にナス川に到着し、すでにその場所に来ていた飢えたツィムシアン族の人々に、沢山の新鮮な肉とサケとを売る。
漁はうまくゆき、ツィムシアン族は中心的な町メトラカトラへ、ギトクサトラ族はラクサラン(Laxalan)の町へと戻って行き、アスディワルはその村で男の子の父親となる。
彼は今や裕福な名士である。
アスディワルは「ギトクサトラ 」の人々と新たに出会い、またその娘と結婚する。そして北へと旅をして漁に成功し、先に行って飢えていた人々を豊富な食べ物で救う。
ここでもアスディワルは、
人間 / 食べ物
狩猟者 / 獲物
この二極が過度に分離したところを、過度に結合した状態へと転じる媒介者の役割を果たしている。
アスディワルの海での冒険、地底世界探訪
そうして自在に食べ物を獲得できる裕福な人として暮らすアスディワルであったが、この食べ物との過度な結合は、必ず、別の軸上での分離を生じるはずである。アスディワルはまた、妻の兄弟たち四人組との争いに巻き込まれる。
冬のある日、彼は義兄弟たちよりもうまく沖でセイウチを獲ることができると自慢する。アスディワルとその義兄弟たちは揃ってそこに赴く。
魔法の道具のおかげで、アスディワルは岩礁で驚くほどの獲物を得るが、腹を立てた義兄弟たちは、彼をその場に、食糧も火もないまま置き去りにしてしまう。
嵐が起こり、岩は波に洗われる。
救済者となって現れた父親の助けをかりてアスディワルは鳥に姿を変え、止まり木の役をなす魔法の道具の上に乗って、波の上方にその身を保つことができる。
二昼夜の後、嵐は鎮まり、アスディワルは疲れ果てて眠りに落ちる。
一匹のネズミが彼の目を覚まし、彼が傷を負わせたセイウチたちの地下のすみかへと導く。
やめておけばいいのに、といいたくなるところだが、アスディワルは自分が魔法の道具で自在に獲物を取ることができることを義兄弟たちに自慢する。
この自慢に対して、当然のごとく、義兄弟たちは怒り出す。
アスディワルは魔法の力と結合しているのに、義兄弟たちは分離されている。不公平、アンバランスである。
わざわざ怒らせて、対立と分離を引き起こすところが媒介者らしい。
そして今度向かうのは「海」である。
陸 / 海
この分別を区切りだそうとしているのである。

海獣を魔法で自在に狩ってみせるアスディワルであるが、腹を立てた義兄弟たちによって、沖の岩礁にひとり放置される。食べ物と過度に結合すると、妻と過度に分離する、おなじみのパターンである。
そしてアスディワルは小さな岩礁で嵐に巻き込まれる。
海と空の区別がなくなってしまうかのような事態である。
無分節、未分離、無分別。
かなり危機的な状況だが、またもや父親である媒介者「ハツェナス」が救出にくる。
そして「魔法の道具」で波を乗り切るのである。
分離と結合を自在にする魔法の道具たちは、アスディワルが海と空との境目である水面でバランスをとることを可能にする。
ネズミが地下へご案内
嵐を乗り越えたアスディワルが眠っていると、「ネズミ」がやってきて、彼を起こす。そして「地下」の世界へと誘う。
地上 / 地下
という分別を、ネズミの精霊は切り出そうとしているのである。

地下の世界は「セイウチ」たちの世界であった。
セイウチは(アスディワルの矢は彼らには見えなかったので)悪疫に罹ったのだと思い込んでいる。アスディワルは矢を抜いて治してやり、その代り、地上へ戻すことを確約するよう求める。
しかし不幸なことに、セイウチの胃袋の中にある舟は、矢を受けて穴があき、どれも使い物にならない。そこでセイウチの王は、すぐに返してくれるという条件で、アスディワルに自分の胃袋を貸し与える。
地下に穴を掘って暮らすネズミは、地上/地下の両極の間を自在に往来する媒介者であり、また動物でありながら狩猟対象になりにくいという点で、獲物である/獲物でないの両極の間でもまた曖昧な位置にある。
地上 / 地下
獲物である / 獲物でない
さらに、レヴィ=ストロース氏はこの「ねずみ」に原文では女性を呼ぶ際の敬称がついていることに注目し、このネズミは「逆転した妻」、つまり非-妻として、アスディワルの本妻と対立関係にあると指摘する。
思い出してみると、これまでアスディワルは、その時々で結婚している妻と分離すると、すぐに別の女性と結婚をしていた。今回も、義兄弟たちに騙されて沖の岩礁に取り残された時点で、妻との間は分離している。
そうなるとすぐに、次の女性に出会っても良さそうなものであるが、ここでは非-妻としてのネズミ、結婚相手にならない女性が現れるのみで、結婚が生じない。つまり、これまでのパターンとは逆になっているのである。
これまでのパターンの逆といえば、地下のセイウチの世界では、アスディワルは動物を欲しいままにする狩猟者ではなく、動物たちの治療者になっている。見事に逆の存在へとひっくり返っている。
ここで、アスディワルの分離状態と結合状態を両端とする伸縮の動きにブレーキがかかる。
一方的な万能の収奪者から、借りたら返す取引相手へ
そしてアスディワルは、セイウチの胃袋を借りたら還す取引をする。
いままで、一方的に狩猟者として動物から肉を「奪う」だけであったアスディワルが、ここでは動物にたいして「借りたものを返す」人間に変容している。
これは重要な変化である。
動物 / 人間
狩猟者 / 獲物
動物と人間、狩猟者と獲物の関係が、一方が他方をほしいままにするという一方的なものではなく、両者の間で貸し借り、行ったり来たりが生じる、つまりはっきりと分離しつつも、コミュニケーションが安定的に反復されるという境地が開かれる。
ここに、均衡のとれた付かず離れずの二項対立関係がバランスする余地がひらかれる。対立関係の対立関係の対立関係としての八項関係のマンダラ状のパターンへと意味分節システムが安定する傾向に向かうのである。

そうしてアスディワルは陸地に戻り、なんと、妻と息子と再会を果たす。
岸に着くと、そこには嘆き悲しむ妻と息子の姿がある。
この良妻の助けがあって――良妻ではある が、兄弟にとっては悪い妹(なぜなら彼女はアスディワルの作戦が成功するために 不可欠な儀式をすべてとり行うのであるから)―――、アスディワルは彫刻を施して木のシャチをいくつも作り、それに生気を吹き込む。
シャチたちは、鰭を操って舟の底を穿ち、意地悪な義兄弟たちを難破させ死なせてしまう。
そしてアスディワルは、自分を海の岩礁に放置して嵐で溺れさせようとした義兄弟たちに仕返しをする。
借りたものは返す男、アスディワルである。
義兄弟たちの船を沈め、自分が水没する代わりに、逆に義兄弟たちを海に沈める。
ここにもまたセイウチの胃袋の貸し借りと同じように、あちらとこちら、二極の間での公平なバランス(均衡)が達成されている。魔法の力を独り占めして自慢していたのとは随分様子が違う。
アスディワルの最後の冒険の「失敗」?
そしていよいよ最後の旅、最後の振幅を描く動きである。アスディワルは海辺の街での妻と息子との生活を離れて、生まれ故郷へ、東の山の世界へと帰っていく。
しかしアスディワルはまたも、自分が子供時代を過ごした風景がたまらなくなつかしくなってしまう。彼は妻を棄て、スキーナ川渓谷に戻る。ギナダーオス(Gi-nadaos)の村に落着いた彼はそこで息子と再会し、息子に魔法の弓と矢を与え、 彼からは一匹の犬をもらう。
冬がやってきて、アスディワルは山へ狩に出かける。
しかし彼は雪靴を忘れてしまう。
道に迷った彼は、雪靴がなくては登ることも下ることもできずに、槍・犬と ともに石に変わってしまう。
その変わり果てた姿のままの彼と犬と槍とを、ギナダーオスの湖の高い山の頂にいつも見ることができる。

ここでアスディワルは妻と分離するが、しかし今度はこの妻との息子が一緒である。息子と共にアスディワルは東の山へと戻ってくる。
随分と長い旅であったが、あちらへ行ってこちらへ帰って、大きく振幅を描いて両極の端をうかびあがらせたのである。
ここでアスディワルは魔法の狩猟具(弓矢)を手放す。分離する。
その代わりに、息子から、経験的現実における狩猟のともである「犬」をもらう。魔法の弓矢をもっている狩人はいないが、犬とともに狩猟する猟師は一般的である。ようやくアスディワルも普通の人になりかけているのである。
しかし、アスディワルはあくまでも神話の媒介者である。
彼がそのまま、この分別が安定した後のΔ四項関係のみが表層に際立った現世でうろうろ動き回り続ける訳にはいかない。彼はどこかにとどまり、定まらなければならない。
アスディワルはわざわざ冬に雪の積もる吹雪の山にのぼる。
しかも、雪靴を忘れてである。
雪靴、つまり冬の山歩きをする者の存在にとっては不可欠の「自分の脚」と分離された状態のアスディワルは、いわばここで「半分」になっている。

おもしろいことに、神話において経験的感覚的な二項対立の両極の間で動き回る媒介者が「半分」になると、その振幅を描くような動き回りを行うことができなくなり、静止する。そうして経験的感覚的世界に安定的に存在する事物として、風景のなかのどこかに収まる。
アスディワルは地上の世界の一番上の「端」である山の頂で石になる。
『アスディワル武勲詩』でレヴィ=ストロース氏は、のちに『神話論理』で浮かび上がらせることになる野生の思考の神話の論理(あらゆる二項対立関係を発生させるアルゴリズム)のひとつの雛形のようなものを取り出している。すなわち、媒介項たちが“過剰に結合→急激に分離”を繰り返しながら、二項対立関係の対立関係を設立していくのである。そして私たちの意味ある世界とは、この二項対立関係の対立関係を分離したり結合したりする操作を基本的なアルゴリズムにして発生している。
アスディワル・マンダラ
ここで注目したのは、『アスディワル武勲詩』に掲載された下記の図である。

複数の対立関係を区切り出すような振動(矢印の往復で表現されている)が組み合わさって、大きく四極を切り開いた「マンダラ」状のパターンが描かれている。
レヴィ=ストロース氏は、アスディワルの水平面での動き回り方
東ー北ー西ー南—東
/
(西ー南ー東ー北ー西)
が、「一定の幅の振動の連続からなっている」と指摘する(p.48)
そしてここに、第二の振動、振幅変調のように振幅を(最大値と最小値の幅を)徐々に広げては、また縮めていく、という振幅の伸縮が重畳する。
すなわち、神話の冒頭、
上流 →← 下流
この二極の対立の中心の一点に集まるという、振幅の幅が最小になる動きがある。そこから転じて、
大気 ←→ 地
のあいだに「中間的幅の振幅」が広がり(p.48)、この振幅がさらに拡大して、
地 ←→ 天
太陽と人間が結婚し、自由に往来するような「最大幅の振動」に至る(p.48)。最後のセイウチの世界の訪問と帰還もまた「最大幅の振動」である。
地表 ←→ 地下界
そしてこの「最大幅の振動」は徐々に振幅を狭め、アスディワルの故郷の山の「山頂と谷の中間の高さ」に、山頂で石になったアスディワルと村に残された雪靴の間に「消えてゆく」と、レヴィ=ストロース氏は書いている。
振幅を描くように動き回りながら、様々な二項対立関係の二極を区切り出したアスディワル、その振幅を描く動き自体を直交するいくつかの方向で繰り返すことで、空間自体をマンダラ状の構造体として分節化したアスディワルは、こうして安定的に分別された現世の生成とともに、動きを止めるのである。

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