ユングによるパウリの夢の分析を八項関係のマンダラ・モデルで読む(7)-パウリのマンダラ夢52〜59
はじめに
C.G.ユングの『心理学と錬金術1』に掲載された、ユングによるヴォルフガング・パウリの夢の分析を、深層意味論の観点から再読する。
ヴォルフガング・パウリは1945年にノーベル賞を受賞した物理学者である。パウリは科学者として極めて高い評価を得ていたが、精神の不調に苦しんでおり精神科医であるユングのもとで、精神分析を受けたのである。
そのときユングの選んだ療法が夢の分析であった。
なぜ「夢」が心理療法の手がかりになるのか?
ユングは次のように書いている。
「無意識の心が完全な暗闇ではなく、未知の物事からなる形の定まらない領域であることをみなさんはご存知でしょう。間接的な方法で、私たちはそれ(無意識)についていくらか知ることができます。つまり、経験という目に映る世界ではなく、どこか別のところから引き出されてきた意識内の素材を通して、私たちはそれを知ることができるのです。その情報源となる主な素材を一つだけあげるなら、それは夢です。もちろん、他にも無意識が現れることはたくさんありますが、夢は私たちが最も直接的に気がつきやすい無意識の産物なのです。」
夢は「無意識」から「意識」の表層に伝達された情報である。
夢を分析することで、患者(夢見者)自身が自覚的に意識していない心の深層における対立や葛藤や固着の様子を知ることができる。
夢分析を通じてユングは、パウリの夢から、心の深層においていくつかの「心的機能」を象徴するような登場人物が、お互いに退けあったり結合しようとしたりすること、即ち、心的機能間の距離が伸び縮みするような動きが夢に出てくる登場人物のイメージに託されて浮かび上がってくる様を捉えた。
ユングは人間の意識の機能を「感覚」「思考」「感情」「直観」の四つに整理する。
「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別
「感覚」:ある/ない、を分別
「感情」:好き/嫌い、を分別
「直観」:現れてくる/消えていく、を分別
この四つの機能がバランスよく、つかづはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になる。

この調和のとれた心の状態を、意識の表層に告げるのが「マンダラ夢」である。
四つの心的機能間の「距離」が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が対立する別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。四つの心的機能の間の距離が伸び縮みしながら、付かず離れずに調和し安定した時、夢には、マンダラ状に、同一の円周上に等距離に並んで正方形を描くように対峙する四人の人物たちのヴィジョンがもたらされる。その四人の人物は、意識の四つの機能をそれぞれ象徴する者である。
前回の記事の続きから、パウリのマンダラ夢52から見ていこう。
これまでの記事は下記に集めてあります。
長方形?正方形?
マンダラ夢52
長方形の舞踏用広間。
すべての人が広間の辺に沿って左廻りに歩いている。
突然、「中央へ Zu den Kernen!」と命令する声が鳴り響く。
しかし夢見者はその前にまず脇部屋に行って、胡桃を数個割らなくてはならない。
それから人々は繩梯子で水の方へ降りて行く。
まず「長方形」というところに注目しよう。
マンダラは、理想的には、円と正方形の組み合わせになるはずである。

ユングは「正方形こそ、意識と無意識との完璧な対称構造を、それの持つ心理学的なすべての意味ともどもに表すものだからである」と書いている(『心理学と錬金術1』p.261)。
ところが、この夢における四角形は、正方形ではなく、長方形である。他方に対する一方の軸上で長く伸びているのである。
Δ Δ
Δ Δ
これはおそらく端的に、まだマンダラ状の調和がうまくバランスしていないことを告げている。
とはいえ、四角い空間で、複数の人々が、「左回り」に歩歩いて環を描いている点は、マンダラ状の調和へと向かおうとするはっきりとした傾向を示してはいる。心の深層においては何ごとも途上なのである。

そして、突然、環を描くよう運動している人びとが、四角い空間の中央へと呼び集められる。空間の中央に結集すると、長方形の部屋の壁に沿った長方形の環が、ぎゅっとまとまって円形に近づくのではないか?!
ところが、ここでおもしろいことになる。
夢見者=自我は、その中心への集合には加わらない。
夢見者は、広間から出てしまう。そして脇部屋へ。
脇部屋へ入った夢見者は、「胡桃」を、いくつか割らなければならない、という用事を思い出しているか、命じられている。
胡桃が何の象徴なのかはよくわからないが、価値の低い外皮の内側に隠された価値の高いものを取り出す、といった述語的な様相に注目しておこう。
夢見者が胡桃を割ろうとしている間に、あの環を描いて行進していた人々は、長方形の室内から、その下の世界へと下降していく。
縄梯子を使って、危うく降りていく。
その降りて行った先の地下世界は「水」の領域である。かっちりとした建築物という感じがする最初の空間とは対照的な、人間にとっては死の世界である(水中呼吸ができないという意味で)水界。
流動する水に、渦を描くようにうごく運動が吸い込まれることで、動的な相・述語によってのみ表現できるマンダラ状のパターンを浮かび上がらせる運動・脈動が持続できるようになるのだろう。
この夢はまさに、まだマンダラが形をなさない起動段階、美しいマンダラ状のパターンを描き出しはじめる直前の様子といったところである。
長方形から正方形へ
これが次の夢になると、空間が長方形ではなく「正方形」になる。
マンダラ夢53
夢見者は誰もいない正方形の空間にいる。
この正方形空間は回転している。
ある大きな声が聞こえる。
「あいつを放免するな。あいつは税金を払おうとしないのだ」。
長方形から正方形への転換は、マンダラ状の調和をもたらす上でとても重要なことである。しかもこの正方形の空間は、回転運動をしている。
正方形を回転させると、正方形の四つの角が動いた軌跡は円を描く。

そして聞こえる、謎の声。
支払いが終わるまで、放免しないぞ、この空間から出さないぞ、というのである。これはおそらく、自我に対する劣等機能の位置にこれまで追いやられていた意識の機能たちの声であろう。

ここまでのふたつの夢について、ユングは次のように書いている。
「予想通り、 先行する夢で垂直の方向が前もって強調された後、再び正方形が現れる。乱された原因は無意識(垂直方向)の 要求を充分に評価したかったからで、そのため人格の平板化(平べったく横たわる長方形)が現出したのである。」
夢53で回転する正方形が現れる前に、一旦、夢52では「長方形」が出現したのであるが、この長方形は、「平板化」した人格を象徴しているという。平板かした人格では、四つの意識の機能のうちの自我ばかりが頑迷に我を主張して、他の意識の機能の声を遠ざけ、聞く耳を持たなくなってしまう。
その平板化した「長方形」の人格(自我と自我の補助機能だけが突出している)は心の表層、表面的な姿であり、その深層に、縄梯子で降りていくようなその深みには、実は水が漲るような正方形の無意識の空間が隠れている。そして深層の無意識のマンダラ空間では、表層では追い払われていた劣等機能たちが同じ円形+正方形の空間内に戻ってきており、自我に対して、はっきりと言葉を投げかけるのである。

次の夢である。
四つの塔に囲まれた空間での四者の調停
マンダラ夢54
私は一風変ったある荘厳な建物を訪れる。
この建物は「精神統一の家」と呼ばれている。
背景に沢山の蝋燭があって、それが上向きの四つの尖端を持つ風変りな形に配列されている。
建物の入口の扉の前には年老いた男がひとり立っている。
人々が中に入って行く。
彼らは一言も喋らず、精神を統一するために身じろぎもせずに立っている。
扉のところに立っている例の男がこの家に入って行く人々について、「あの 人たちは今度出てきた時には浄められている」と言う。
そこで私自身も建物の中に入るが、完全に心を集中することができる。
すると次のように言う声が聞こえる。
「お前のしていることは危険である。宗数は、女性の像なしで済ませるためにお前が支払わなければならない税金ではない。なぜなら女性の像はな くて済ませられるようなものではないのだから。宗教を心の営みのもう一つの側面の代償として利用する者に禍いあれ。そのような者は誤認を犯しているのであって、呪われるであろう。宗教は代償ではな く、心のもう一つの営為を完全ならしめるものとして、そこに最後のものとして加えられるのでなくてはならない。お前は生の充実の中からお前の宗教を生み出すべきであり、そうしてはじめてお前は浄福に到るであろう!」
特に声を強めて言われたこの最後の一句と同時に遠くから音楽が聞こえてくるが、それはオルガンによる単純な和音の演奏である。その節にはどこかワーグナーの魔火のモチーフを想わせるところがある。
建物の外に出ると、燃えている山が眼に入るが、それを見ながら私は「消されることのない 火こそ聖なる火だと感ずる。
上向きの四つの尖塔を備えた「精神統一の家」は、意識の深層の四角形の空間、おそらく正方形と円形を組み合わせた空間であろう。つまり先ほどの夢53の空間と同じである。
夢見者は、ひとりの「年老いた男」の横を通って、この「精神統一の家」に入っていく。年老いた男は「精神統一の家」の入り口の守衛であろうか。場合によっては夢見者を追払い、入るなということもできたであろうが、今回は夢見者を迎え入れる。年老いた男は夢見者に対して、精神統一の家から出てきた人々が「出てきた時には浄められている」と告げ、夢見者もまたこの精神統一の家の中に入るよう誘う。
この年老いた男はおそらく、意識の四機能の内のいずれかの一機能を象徴する人物であろう。
そして夢見者は、この精神統一の家というマンダラ空間の中に入り、「完全に心を集中する」体験を得る。
そしてその状態で、謎の声が聞こえる。
「女性の像」を「無し」で済ますことはできない。
「女性の像」の代わりに宗教で済ますことはできない。
そして「宗教を心の営みのもう一つの側面の代償として利用する者に禍いあれ」という。
どういうことかというと、夢見者の心はもともと意識の四機能の図で言えば自我ばかりが自己主張し、他の意識の機能たちの声を封じているような状態にあった。この時、自我がもっとも激しく抵抗し、追い払い、その喋る声が聞こえないように遠ざけていた劣等機能の象徴が「女性の像」と呼ばれているものであろう。ユングは「「女性の像」は「アニマ」として、第四機能、すなわち「劣等」機能を表現するものだからである」と書いている(『心理学と錬金術1』p.263)。
Δ自我 ←→ Δ(女性の像)
Δ宗教 ←→ Δ・・・
自我は女性の像=声を遠ざけて、その代用品として「宗教」の声を響かせて、それで事足れりとしようとしたが、それは間違っていると厳しく糾弾される。

自我を補強し、自我に助言を与えるような「宗教」の声は、意識の四機能のうちのいずれかで、自我の補助機能となっているものであろう。
自我と、自我の補助機能だけでなんとかなる!と思うのは思い上がりだと、この「声」は告げるのである。
「宗教」は「女性の像」の代償にはならない。
自我の補助機能が機能しているからといって、劣等機能は不要であるとはならないのだということだろう。
この場合の「宗教」、おそらく「自我の補助機能」は、あくまでも「心のもう一つの営為を完全ならしめるものとして」、つまり意識の四機能のうちのひとつとして、四機能の調和した状態を調停する役割を果たすものであって、その調和のためには「女性の像」、劣等機能が自我と付かず離れずに対峙することは避けられないのである。

なお、人物像と、各意識の機能との対応は仮に置いただけである。
いよいよ夢見者の精神にとって、目指すべきあり方がクリアーになってきた。
次の夢である。
割られた胡桃
マンダラ夢55
銀の皿が一枚あって、その上の四主要点に、割られた四つの胡桃がのっている

三つ前の夢では、胡桃はその数がはっきりとせず、また、まだ割られていなかった。ところがこの55番の夢になると、胡桃は4個であり、どうやらマンダラ状に=丸い皿の上で正方形を描くように配置されており、しかも割られている。随分はっきりと、調和した意識のあり方が姿を現しはじめている。
ただし、ユングは次のように書いている。
「しかし四機能の相反的性質は啓発的なマンダラ夢54をすでに経過しているにもかかわらず、まだ認識されていない。」
四つの胡桃が置いてあるというだけでは、つまり静止して並んでいる、というだけでは、まだ意識の四機能「相反」する、結合に向かうと分離に転じ分離に向かうと結合に転じるような伸縮の動き=述語的様相ははっきりと浮かんできていない。
静止した胡桃から、動きへ
次の夢では、この動きが出てくる。
マンダラ夢56
四人の子供が一つの大きな、黒っぽい(暗い)環を運んでいる。
彼らは円を描いて歩く。
謎の(暗い)未知の女が現れて言う、自分は再びやって来るだろう、今は至(夏至または冬至)の祭が催されている、と。
環を運びながら、円を描くように歩く子供たち。

夏至あるいは冬至は昼と夜、光と闇、対立する二極の間の関係がもっともアンバランスになりながらも(昼が最も長いか、夜が最も長いか)、そこから転じて、昼と夜が同じ長さになる時へと向かい始める時である。
つまり、いまはアンバランスでありながら、これから調和へと向かいますよ、という瞬間である。そのときに「謎の(暗い)未知の女」が再び登場するという。彼女は劣等機能の象徴そのものである。
この夢は決定的に鮮明に、対立関係を微かに伸び縮みするように振動させながら付かず離れずに調和させるというマンダラの動態をはっきりと示している。
とはいえまだそれは「子供の遊戯」のレベルにある、とユングは書く。
次の二つはヴィジョンである。
マンダラ夢57 幻覚像
リング 黒っぽい環。
中心に卵が一つ。
マンダラ夢58 幻覚像
その卵の中から一羽の黒鷲が現れ、黄金に変化した環を嘴でくわえる。
夢見者は船に乗っており、この黒鷲が船の前方を飛んでいく。

リング=円環。
調和したマンダラの象徴といえようか。
その中心の卵から一羽の黒鷲が生まれ、それが夢見者の航海を導く。
夢見者の自我は、意識の四機能が調停された心のあり方(個我Selbst)に導かれて、危険な海を渡り続けることができる。
円環運動・円を生成し続ける動き
ここから『心理学と錬金術1』は「宇宙時計の幻覚」という節に入る。
宇宙時計という姿で、調和しつつ脈動し続けるマンダラが、パウリの個我の象徴として出現する。
マンダラ夢59 「大いなる幻覚」
共通の中心点を持つ垂直円と水平円とがある。
これは宇宙時計 (Weltuhr)である。
この宇宙時計は黒い鳥によって支えられている。
垂直円の方は白い縁取りのされた青色の盤で、大きく四分されており、その一つ一つの部分がさらに八分されて、全体としては三十二の部分に分かれている。その上を一本の指針が回転している。
水平円の方は四色から成っている。
そのそれぞれの上に振子をつけた侏儒が一人ずつ、計四人立っており、それを取巻く恰好で、かつては黒っぽい色をしていたが今は黄金に変じている環(前に四人の子供が 運んでいた例の環)が置かれている。
この「時計」は次のような三つの律動もしくは脈動を持っている。
小脈動 青色の垂直円の指針が三十二分の一だけ進む。
中脈動 小脈動が三十二合わさって指針が一回転する。と同時に水平円が三十二分の一だけ回転する。
大脈動 中脈動が三十二合わさったもので、これと同時に黄金の環が一回転する。
水平円と、それと直交する垂直円の組み合わせ。
両方の円盤はそれぞれ、円が四の倍数に分かれるように分割線を引かれている。そしてこの球体の時計は、秒[s]と分[m]と時間[h]の関係のように、三つの脈動を加算していく。
ユングはこれについて「この奇妙な幻覚像」は「調和の極致」という印象を与えると書いている(p.274)。ユングはこのパウリのビジョンが個人的なものではなく、集合的な無意識に根差したものであることを論じていく。
「われわれは、このマンダラは諸対立の能う限り完全な一致を、従ってまた三要素構成という男性的原理と四要素構成という女性的原理との一致を目指している、そしてこれによって錬金術のヘルマプロディトスとのアナロジーをなしている、と仮定しても多分間違ってはいないだろう。」
錬金術の思考や象徴、そのイメージの背景にも、対立する二つのものの間を結合したり分離したりしながら調停するというアルゴリズムが働いている。
またユングは、このビジョンにでてくる「32」という数字について、ユダヤ神秘主義の「カバラ」とも通じるものがあると書いている。
「脈動の三十二という数は四の乗数(この場合四の八倍)として登場していると考えられる。なぜなら経験的に言って、マンダラの中心にある四という数は周辺に向うに従って八、十六、三十二、あるいはもっと大きな四の乗数となるからである。ところでこの三十二という数はカバラ[…]において大きな役割を演じている」
およそありとあらゆる人類の伝統において、人が自分の経験している分別された世界の成り立ちを考えたり、分別された物たちの関係のあり方を別様にに変換していこうと試行したりするときには、対立関係にある二項の間を分離しつつ結合し結合しつつ分離しながら、ある項をそれと対立する項”ではないもの”として区切り出しつづける動きのことを言語化・イメージ化せざるを得なくなる。
例えば下記の図で、Δ1とΔ2が対立関係にあるとしよう。
Δ1とΔ2が対立関係にあるとは、Δ1はΔ2ではない、ということであり、Δ2はΔ1ではない、ということである。

ここでΔ1、Δ2はどちらもそれ自体の本質(自性)をもった所与の即自的実体ではない。Δ1がΔ1であるためには、Δ1はΔ2と区別・分別・一つでありながら二つに引き離されなければならない。同様にΔ2がΔ2であるためにも、Δ2はΔ1と区別・分別され、一つでありながら二つに引き離されなければならない。
この「一つでありながら二つに引き離す」をするのが、上の図のマンダラ全体の脈動なのであるが、この脈動は私たちの表層意識や言語にとっては、上の図のΔ1とΔ2のあいだに挟まれた「β1」と仮に書いたモノの動き回りによって担われるようにみえる。
すなわちβたちが第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描きながら脈動する。
それを夢や神話が言語でもって語る時、二者の間の距離が近づいたり離れたりする、という相がでてくる。
神話、夢。あくまでも「言葉」にするならば
経験的感覚的に対立するΔ二項の間を広げたり縮めたりするβ項は、たとえば神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」であるとか、「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」とか、「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」とか、「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」といった姿で登場する。
そのような者たちは、経験的感覚的には(Δとしては)「存在しない」が、神話は、この何らかのΔが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいるのであり、そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。
オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。
お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。
そこから転じて、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力がバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。
ここに私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される。何らかの経験な世界は、その世界の要素の起源について語る神話はこのような論理になっている。
これはレヴィ=ストロース氏が『神話論理』で論じているような、人類の営みのうちの「神話」の領域の話である。では神話と、ユングが扱う深層心理学、人がみる夢のビジョンとは関係がないかというと全くその様なことはなく、神話であれ、夢であれ、どちらにせよ人間の「心」が分別を行う手前で、あるいは分別の裏側で、いつも常に無意識に動かしているプロセスの消息を告げるものなのである。

時間も分別(前/後)、空間も分別(遠/近)
ところで、私たちが経験し感覚する分別された世界の諸々の分別たちのうち、特に根源的なのが時間の分別と、空間の分別であろう。
特に、パウリのような現代物理学の天才にとっては、時間の空間の分別が自明な所与の静止した実体ではなく、伸び縮みしながら区切り出されてくる出来事であるということは、意識が、自我が、その経験する世界を安定的に理解するための鍵を握ることであったろう。
この幻覚像が宇宙的な様相を持っている(宇宙時計!!)点を考えれば、これは時間・空間関係の一種の縮図、 ことによったら時間・空間関係の根源を示すもの、いずれにしても時間・空間関係の本質を表すものであると推測せざるをえない。つまり、数学的には四次元的性格のものであるが、それが見かけの上だけ三次元的なものとして映し出されているというわけである。
遠/近、前/後、去/来
あるいは、時間をある単位に区切り、空間をある単位に区切ること。
そうした分別もまた、あらかじめ分かれているものではなく、わざわざ分けるから仮に分かれているのである。
分かれている主語たちではなく、それらを分けつつある述語。
縄梯子を降ったり、環を描きながらぐるぐると歩き回ったり。
見知らぬ女性に追いかけ回されたり。
一見、訳のわからない謎の出来事が夢でパウリを苛むわけであるが、これはいずれも「β」の伸縮運動を経験的に対立するΔ二項の対立関係が代行しているようなものである。
ユングは、この伸縮運動の述語的様相を表現するために次のように書いている。
「過程が一つの中心の周りを螺旋状に動きつつ、徐々に中心に近づいていき、それにともなって「中心」の特質が次第次第に明瞭になってくるという印象を拭い難い。あるいは逆にこう言うこともできようかと思う。すなわち、それ自体としては認識されえない中心点が、無意識中の相互に乖離している諸事象や諸過程に磁石のように作用し、これらのものを徐々に、恰も結晶格子の中に捉え込むかのように一つの連関の中に捉え込むというわけである。」
螺旋状の動き。
徐々に中心に近づく動き。
相互に乖離している事象や過程の間で「磁石のように作用」する。
そして、「結晶構造の中に捉え込む」
これらの述語から、限りなく主語の残響を削ぎ落としていって、抽象的なアルゴリズムだけで言い換えると、
分離と結合の分離と結合
とでもいえるのではないかと思う。
分離していることは一ではなく多であること、無分節ではなく分節である。
結合していることは多ではなく一であること、分節ではなく無分節である。
この分離と結合は完全に分離はしておらず、結合しながら分離している。
そこでは一であることは多であることであり、多であることは一であることである。分節は無分節であり、無分節は分節である。
そうした「どちらでもない」ゆらぎから、ゆらゆらと振動するところから、β四項の伸び縮みが繰り返しの振動を描くようになり、振動たちが共鳴しあう動きの影のようなものとしてΔたちの安定的に対立できる世界が迸り出る。それが、私たちの表層意識が慣れ親しんだこの現世、「現実」という仮想モデルである。

外観に惑わされない
ユングはここで、興味深いことを書いている。
「[…]われわれのケースにおけるごとく、心的過程が一旦動き出し進展し始めれば、中心象徴は劇的紛糾葛藤の渾沌という個人的な心の外観に惑わされることなく、この渾沌の真只中を首尾一貫して、 しかもみずからを絶えず甦新しつつ、目的に向って進んでゆく。」
「劇的紛糾葛藤の渾沌という個人的な心の外観」に、惑わされない、抽象度の高いマンダラの象徴。分離と結合の分離と結合の述語的様相は、さまざまな主語たち(Δたち)に従属するものでもなければ、主語たち(Δたち)に属する機能でもない。主語たち(Δたち)は、分離と結合を分離しつつ結合する述語的脈動が描く影のようなものである。
神話でも夢でも、主語たちが繰り広げる「劇的紛糾葛藤の混沌」に驚くことなく、困ることなく、恐れることなく、分離と結合の分離と結合、異なることと異ならないこととは異ならないのだと達観しつつ、犀の角のように歩みたいものである。
主語的なものを持ち込みすぎない
ユングはさらに重要なことを書いている。
要するに、主語的なものを持ち込まないよう、呼びかけるのである。
「私が「中心」の本質について何らかの認識を持っているなどという誤解は決してしないでいただきたい。とい うのも、「中心」は絶対に認識不可能であって、それゆえその現象形態を通じて象徴的に表現しうるにすぎないからである[…]。中心の特別の諸性質のうちで以前から私の注意を惹いていたものの一つは四要素構成という現象である。もちろんこれは、たとえば 四つの方位やこれに類するもののように必ずしもいつも「四」という形で現れてくるというわけではないのであって、このことは三と四の鬩ぎ合いがそれほど稀ではないことを考えてみれば判る。」
「中心」の本質について、それがなにであるとか、何でないとか、ΔをΔに言い換えるようなやり方で「認識」することは不可能である。できることは「現象形態」、現象する様子、述語的様相を「象徴的に表現」することなのである。
そしてこの分離と結合の分離と結合という述語的様相を「象徴的に表現」するものが、四項関係、四者が分かれたり集まったりする動きである。この四項関係を分別してくる述語・動きこそ、人類にとって「集合的」な心の可能な動き方をそのまま明るみに出しているものなのである。
「ところでマンダラ・モチーフの発生の問題について言えば、まず最初ちょっと見た目には、夢の系列が進展するに従って次第に発生してくるかのような印象を受ける。しかし実際にはただ、現象の仕方が次第に明瞭の度を深め、分化の度を深めてくるというにすぎないのであって、これは疑いを容れない。それは常に存在していたのであり、本当は第一番目の夢からすでに登場していたのである(いみじくもあの「妖精たち」が「私たちはいつだってちゃんと居たんですよ、ただあなたが気づかなかっただけです」と言っているように)。従って、それはア・プリオリに存在するある型、つまり集合的無意識に内在し個々人の生成消滅とは無関係に存在する一つの元型であると考える方がずっと実情に即しているように思われる。」
パウリの夢の分析を読んでいると、パウリという天才的な一個人が、次第に成長発達、レベルアップするなかで、マンダラを獲得したかのように読めなくもない。しかしユングは、そのような読み方はしないでほしいと注意する。
マンダラ象徴は常に存在している(気づかれないことが多いが・・)
マンダラの象徴は「夢の系列が進展するに従って次第に発生してくるかのような印象を受ける」ものであるが、実際にはそうではなくて、「それは常に存在していたのであ」る。
第1のビジョン 夢
夢見者はある集いに出席しているが、
帰り際に自分の帽子ではなく他人の帽子を被ってしまう。
この帽子。
丸い帽子はマンダラの象徴である。

マンダラとしての帽子を被ったところで、夢見者は、このマンダラは「自分のものではない」と感じてしまう。というのは、この時点での、自我と劣等機能の遠く隔たった分離をあらわしているのであろう。
そして次の一文もとてもよい。
「元型とは常に在るもの、いわば「永遠の」現在であって、問題はただ意識がこれを知覚するかどうかということだけである。」
マンダラは、マンダラという元型(人類に共通する心の動き方のパターン)は常にある、永遠の現在である。
それもそのはず、私たちが経験的に感覚的に、ある何かΔを、それではない何かと分別できているいまこの瞬間に、分離と結合の分離と結合を伸縮させて経験的で感覚的な世界を分節しつづけているのが人間の「心」であり、その心の動き方のパターンこそが元型(特に此場合はマンダラ)なのであるから。
ただし、意識が、このことを「知覚するかどうか」は別問題である。
夢を言葉で書き記録したり、マンダラを描いたり。
神話を聞いたり読んだり。
そして主語の実在に執着する心を一旦休ませて、伸縮する述語の声の残響に耳を澄ますような、そういう知覚の開発が望まれるところであろう。
* *
*
*
以上で、ここ3ヶ月強続けてきたC.G.ユング著『心理学と錬金術1』のパウリの夢の超読の試みは完了となる。
ご精読に感謝申し上げます。
次からは、これを書いている私と共同研究者の方々とで収集した「夢」を、マンダラ・モデルで分析する試みに移りたいと思います。
関連記事
これまでのユングによるパウリの夢分析の再読は下記の記事に分けて掲載しているのでご参考にどうぞ。
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「自分で自分の夢も分析できるように訓練を受けたい!」
「無意識からのメッセージ(夢)と向き合い、ストレスフルな意思決定の連鎖を軽やかに乗り切りたい」という方がいらっしゃいましたら、お気軽に門を叩いてみてください。
筆者らが開発している「動的マンダラ伸縮モデル(β-Δモデル)」を夢分析用にアレンジした分析シートを活用し、意識が自覚的に知らずとも無意識は知っていて、夢を通じてその消息を意識へと知らせつつある課題を明らかにします。もちろん、ご自身でご自身の夢を分析できるようになる方法も、惜しみなく伝授します。

お申し込み、お問い合わせは下記メールアドレスにお願いします。
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夢分析セッション希望!と書いていただければOKです。
ご希望のセッション開始時期(近日中とか、半年後から、とか)
・詳細についてはこちらから折り返してご連絡させていただきます。


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