ユングによるパウリの夢の分析を八項関係のマンダラ・モデルで読む(5)-パウリの夢26〜38
C.G.ユングの『心理学と錬金術1』に掲載された、ユングによるヴォルフガング・パウリの夢の分析を、深層意味論の観点から再読する。
ヴォルフガング・パウリは1945年にノーベル賞を受賞した物理学者である。パウリは科学者として極めて高い評価を得ていたが、同時に、精神の不調に苦しんでいた。パウリは患者として精神科医であるユングに精神分析を受けたのである。
そこからユングによるパウリの夢の分析が始まった。
ただし当初、ユングは自分の治療がパウリのノーベル賞級の科学的な思考を阻害してしまうような影響を及ぼすことを警戒し、パウリとの直接のやりとりを弟子に担当させるなど、距離をとりながらの慎重なアプローチから始めた。
パウリはこの夢分析に協力的だったようで、10ヶ月間に400以上の夢を記録し、報告した。
夢の分析がなぜ心理療法になるのか?
ところでなぜ、なぜ「夢」が心理療法の手がかりになるのか?
ユングは次のように書いている。
「無意識の心が完全な暗闇ではなく、未知の物事からなる形の定まらない領域であることをみなさんはご存知でしょう。間接的な方法で、私たちはそれ(無意識)についていくらか知ることができます。つまり、経験という目に映る世界ではなく、どこか別のところから引き出されてきた意識内の素材を通して、私たちはそれを知ることができるのです。その情報源となる主な素材を一つだけあげるなら、それは夢です。もちろん、他にも無意識が現れることはたくさんありますが、夢は私たちが最も直接的に気がつきやすい無意識の産物なのです。」
夢は「無意識」から「意識」の表層に伝達された情報である。
夢を分析することで、患者(夢見者)自身が自覚的に意識していない心の深層における対立や葛藤や固着の様子を知ることができる。
なぜ夢にマンダラが出てくるのか?
夢分析を通じてユングは、パウリの夢から、心の深層においていくつかの「心的機能」を象徴するような登場人物が、お互いに退けあったり結合しようとしたりすること、即ち、心的機能間の距離が伸び縮みするような動きが夢に出てくる登場人物のイメージに託されて、浮かび上がってくることに気づいた。
そしてこの伸び縮みする複数の心的機能間の関係が付かず離れずの状態に調和し安定した時、そこに正方形とそれに接する円との組み合わせからなるマンダラ状のパターンが浮かび上がることを明らかにした。
*
ユングは人間の意識の機能を「感覚」「思考」「感情」「直観」の四つに整理する。この四つの機能がバランスよく、つかづはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になる。そしてマンダラ状に、同一の円周上に等距離に並んで対峙する四人の人物たちは、この意識の四つの機能をそれぞれ象徴する。

「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別
「感覚」:ある/ない、を分別
「感情」:好き/嫌い、を分別
「直観」:現れてくる/消えていく、を分別
私たちの心では、この四機能が常にうまい具合に補い合って調和しているわけではない。むしろ四機能のうちのどれか一つだけが意識の表層に浮かび上がり、残りの機能が意識の表層に浮かび上がることを抑え込むことがある。
例えばあらゆる経験について、「それがなにであるか/なにでないか(なにであるべきで、なにであるべきでないか)」といった「思考」の分別ばかりが強力に常に意識の表面を覆い尽くし、逆に「感情」における好き嫌いの分別や、「感覚」におけるあるかないか(どうあるか)の分別が等閑視されたり、無視されたりする場合がある。
例えばある人において「思考」の分別ばかりが意識の表層を覆い尽くし、逆に「感情」の分別は無視され、まるで好き嫌いの分別など存在しないかのようにあしらわれたとき、この「感情」が、感情をストレートに表現するなんらかの人物の姿で夢に現れ、夢見者を追いかけ回したり、詰ったり、不安にさせたりするということがある。
* *
これまでのユングによるパウリの夢分析の再読は下記の記事に分けて掲載している。
◇ パウリの夢 1〜16
◇パウリの夢 17〜22
◇パウリのマンダラ夢1〜16
◇パウリのマンダラ夢17〜25
タクシーで街区をひとまわり
前回の記事では『心理学と錬金術1』の187ページ、「マンダラ夢17」から「マンダラ夢25」までをみてきた。
今回は続きの「マンダラ夢26」からみてみよう。
この夢では、中心をもつ左右対称の構造が回転「循環」という動き=述語的様相をみせはじめる。
マンダラ夢26 夢
夜、星空。
ある声が「さあいよいよ始まるらしい」と言う。
夢見者が「何が始まるんですか」と尋ねると、「循環(Kreislauf)が始まりそうなのだ」という答が返される。
すると流星が一つ、一種独特の左旋回の曲線を描いて落下するのが見える。
*
場面が一変して、夢見者はいかがわしい(fragwürdig) ナイトクラブに居る。遠慮会釈なく人をこき使うといった風の主人と惨めな様子の女の子たちのいるナイトクラブである。
辺りで右と左という問題をめぐる口論が起る。
そこで夢見者は席を立ってその場を去り、タクシ―に乗ってある区域を正方形の格好にぐるぐると廻る。
**
それから再び件のナイトクラブ。
主人が「左と右について皆さんあれこれと議論してましたが、私の気持にはどうもぴったりきませんなあ。大体人間の社会に左の部分とか右の部分とかが本当にあるんですかねえ」と言う。
夢見者はこう答える。「左の存在と右の存在とは矛盾しませんよ。人間は誰だってその両方を持っているんです。左は右の反映像です。左が右の反映像だと実感できるときはいつも、僕は自分が一つであるようなしっくりした気持になります。人間社会には右の部分とか左の部分とかという区別はないんですよ。そうじゃなくて、均衡のとれた[左右対称の]人間と不均衡な人間との区別があるだけです。自分の中に左か右の一方の側しか許容しえない人間、これが不均衡な人間です。こういう連中はまだ幼児的状態にとどまっているんです」。
主人は思案顔で「確かにあなたの仰有ることの方が連中の言うことよりもずっと正当な気はしますね Das ist schon viel besser」と言ってから、再び自分の仕事にとりかかる。
この夢の動き、特に循環、回転、螺旋を描く、といった述語の様相の展開はみごとである。

循環、「始まりそう」という言葉、左旋回の曲線を描いての落下。
遠慮会釈なくこき使う。惨めな様子。
右か左か、二つに分けて一つを選ぶタイプの口論。
席を立ってその場を"去る"。
タクシ―に乗ってある区域を正方形の格好にぐるぐると廻る。
述語的様相はさまざまな相を表しつつ、最後は正方形を描く周回運動になる。
*
左/右・・分節の手前へ
この周回運動を経て、再び「右か、左か」二つに分けて片方を選ぼうとする口論がなされていた場所に帰ってくる。そして面白い問いかけの言葉が聞こえてくる。
「人間の社会に左の部分とか右の部分とかが本当にあるんですかねえ」
ナイトクラブの主人からの問いかけである。
この主人は当初の印象だと「遠慮会釈なく人をこき使う」距離感をわきまえないハラスメント系の人物のように見えていたのだが、会話をしてみると、何やら随分と道理をわきまえている人物らしい。
夢見者パウリはこの問いにはっきりと答える。
「左の存在と右の存在とは矛盾しません」
「人間は誰だってその両方を持っている」
「左は右の反映像です。左が右の反映像だと実感できるときはいつも、僕は自分が一つであるようなしっくりした気持になります」
二つに分けて、どちらを選ぶべきかで汲々とするのではなく、二つに分けて、そして両方ともあっていい。というか、両方は一つのことの二つの側面であって、片方だけを選んで、もう片方を捨て去るようなことはできない。
そして、右と左が均衡し、二つ揃って一つであることを「実感」する時、夢見者パウリは「自分が一つであるようなしっくりした気持」になると明言する。
*
さらに、この夢の中のパウリは饒舌である。
二つに分けて云々言いたいのであれば、そもそも「均衡のとれた[左右対称の]人間」と「不均衡な人間」の対立に注目すべきだというのである。
ここで不均衡な人間というのは「自分の中に左か右の一方の側しか許容しえない人間」である。
そして不均衡な人間は「まだ幼児的状態」であると、なかなか厳しいことを言う夢の中のパウリである。
そしてこのパウリの論に、ナイトクラブの主人は同意するのである。
「確かにあなたの仰有ることの方が連中の言うことよりもずっと正当な気はします」
と。
右か、左か。
右とはどう言うことかといえば、それはつまり、左ではない、と言うことである。
また、左とはどう言うことかといえば、それはつまり、右ではない、と言うことである。
右があるからこその左であり、左があるからこその右である。
右だけを捨て去って左だけを取り出すとか、左だけを捨て去って右だけを選び出す、といったことはできない。
対立関係にある二項は、その対立関係を区切り出す動きが浮かび上がらせる同心円状の波紋のようなものの二つの部分である。

白波の波頭だけを切り取るとしてバケツを持って海に入り、いざ、波頭の最先端をバケツで受けたとしよう。

しかし、バケツの底に溜まるのはただの海水である。
そこに「波」はない。
*
夢見者とナイトクラブの主人の会話がこういう境地に達するために、夢見者は、一度、右か左かの論争が行われている場所から離脱している。
夢見者は「席を立ってその場を去」るのである。
そして彼は、「タクシ―に乗ってある区域を正方形の格好にぐるぐると廻る」。
正方形を描きながら回転運動するのである。


**
右か、左か。二項対立関係にある項一つ一つを見ているだけでは、どれを選ぼうか、どれが正しいのか、といった考えで頭がいっぱいになる。
ところが、正方形を描く回転運動へと励起されたのちには、右も左も、伸び縮みする輪ゴムの二つの部分のようなものに見えてくる。
二つは二つのままで矛盾しない、と言うのである。
入曼荼羅。曼荼羅に入ることで二辺を離れる。
そして次の夢である。
円周上での対立・対立を可能にする円周
マンダラ夢27 幻覚像
円が一つある。
真中に一本の緑の樹。
円の中では原始人たちの激烈な戦闘が演じられている。
彼らは樹が立っていることには全然気づかない。
円形の枠組みの中で、激しい戦いが起こっている。
戦いといえば、敵か味方か、勝つか負けるか、二つに分けて、片方を選ばざるを得ないように迫られるなかなか大変な事態である。
ところで、戦っている連中は気づいていないようだが、夢見者であるパウリには、この戦い自体が、一つの大きな円の中で、中央に一本の樹木が起立した円の中で展開されていることが見えている。

先ほどのナイトクラブの夢における「右か左か」の話と同じである。
敵味方に対立して戦うこと(過度に接近すること過度な反発へと転じようとすること)ができていると言うことは、戦う二つのグループを分けることができなければならない。
そしてこの二つを分ける、分別すると言うことは、一つの1つの円の中で…、というか伸び縮みする二極の距離が、離れすぎるでもなく、近づきすぎるでもなく、相互に敵だ敵だと認識できる程度に付かず離れずになっている必要がある。この二極の距離が付かず離れずに平衡したところに、直径が定まり、ぐにゃぐにゃと伸び縮みしていた楕円が円になる。
近づきすぎると二極は融合し、対立が解消されてしまう。
逆に、離れすぎると無関係になり、対立をなさなくなる。
このように、二極が適切な距離感を保つことで、動的な均衡が成立し、「伸び縮みする楕円」から「安定した円」へと収束する。

カオス系の収束: 初期状態では振動が大きく、形が一定しない(楕円的な変動)。 しかし、ある条件のもとでフィードバックが調整され、周期的な運動(円のような安定性)に落ち着く。
振幅と周波数の安定化: 対立する二項の「距離」が、適切な波長と振幅の関係を持つと、システムが周期的な均衡状態に入る。
この視点を神話論理に適用すると、神話における対立関係も、単なる静的な構造ではなく、動的なバランスを維持することで、神話全体が崩壊せずに存続することができる。"(Chat-GPT 4o)
しかし、勝ち負けにこだわって戦闘中の者たちは、円の中で分かれるから対立できていると言うこと、自分たちが円の中に、中心を持つ円の中にいるといると言うことに全く気づいていない。そうして勝負をつけるべく、どちらかがいなくなるまで、戦いを続けようとするのである。
そして次の夢では、この「円」が静的なものではなく、動的な事柄であることが強調されてくる。
動く円・振動する円、あるいは球体、万物の現れを可能にする球体へ
マンダラ夢28 幻覚像
円が一つある。
その中に、一つの貯水盤に向って昇り行く階段がある。
貯水盤の中には噴水がある。
二重になった円。
二枚の円の間は、下降する階段と、上昇する噴水で繋がれている。

「階段」と「噴水」という設備それ自体にではなく、その動き、それが可能にする動き、述語的様相に注目しよう。
円が、上昇したり下降したりする運動の中にある、と言うのが面白い。
マンダラは固定した静的なものではなく、動的なコトである。
それも「円が」主語としてまずあって、それがついでに動いているということではなく(主語が述語の先行するのではなく)、上昇したり下降したりしながら、回転したり、同心円を描くように拡散したりする動き=述語の様相として、円形のパターンが波紋のように浮かび上がってくるのである。

次の夢では、曼荼羅は単純な円から花弁を持ったものへ、それも八つの極を持ったものへ変容する。
脈動する円周を八葉として意識化する人間の精神
マンダラ夢29 幻覚像
薔薇の花束が一束。
それから徴が現れる。
いやどうもこういう徴だったような気がする

と言うのはこう言う徴である。
(ユング『心理学と錬金術1』より)
たくさんの花弁に分かれた一輪の”丸い”花。
そして抽象的な八極のしるし。
八葉蓮華、中台八葉院を思い出す。
先ほどのマンダラ夢28では、吹き上がる噴水とあるように、上から見ると四方八方に広がり円形を描いてはいるが、その極の数はまだはっきりとは浮かび上がっていなかった。振動が微細で、極が無数に分かれながらもつながっている様相なのである。

これが29の幻覚像になると、八極に分かれた様がはっきりと意識の表層の一番底に浮かび上がってくる。

さて、次の夢では、この八極のうち二極が際立って対峙する。
円周上の対立が、戦闘から対峙へ
マンダラ夢30 夢
夢見者は
謎の(dunkel〔暗い〕) 見知らぬ女と一緒に
まるいテーブルについている。
円からの、二極の突出。見事な伸縮である。
人間の精神というものはおもしろい。
丸いテーブルに注目しよう。
円盤の円周上に、二人の人物がいる。真横に座っているのか対面しているのかわからないが、一方が夢見者本人であるのに対して、他方は「謎」「見知らぬ」と人物、しかし女性であることはわかるというところに注目しよう。

男/女
男女の分離と結合は経験的感覚的に、極めてわかりやすい、付かず離れずの二項対立である。この二者のに「知らない」(つまり接点がない、つながっていない=分離されている)にもかかわらず、同じ円盤についている(つながっている)と言う関係がある。分離しながら結合し結合しているが分離している、という二項の不可得な関係がはっきりとしたイメージで持って意識されている。
調和の精神へ・・・
これについてユングは「まるいテーブルは再び全体性の円を暗示している。そこに「アニマ」が第四機能の代理者として加わっている」と書いている(ユング『心理学と錬金術1』p.237)。
第四機能というのは、夢見者の心がうまく折り合いをつけることができず、その働きを無視しようとする心の「第四の機能」である。ユングは人間の意識の機能を「感覚」「思考」「感情」「直観」の四つに整理する。
「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別
「感覚」:ある/ない、を分別
「感情」:好き/嫌い、を分別
「直観」:現れてくる/消えていく、を分別
この四つの機能がバランスよく、つかづはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になる、しかし、私たちの心は、この四機能が常にうまい具合に補い合って調和しているわけではない。時には四機能のうちのどれか一つだけの分別(分化)が過度に進むことがある。例えば「思考」の分別ばかりが際立って意識化される一方、感情の分別が無視されるような場合である。
このマンダラの夢では、夢見者は最も分化が進んで意識の表層を覆い尽くした第一の機能を象徴していると考えられる。
この第一の機能が、謎の、暗い、その存在すら忘れられていた第四の機能を象徴する人物のイメージと、円卓を囲んで対峙するのである。
これはバランスを崩していた心が、調和の取れた状態へと移行する兆しと見ることができる。
*
次の夢も同じようにテーブルを囲むが、対峙する相手が、女性ではなく、夢見者と同性の男性になっている。
マンダラ夢31 夢
夢見者は、不快な相手である一人の特定の男と一緒にまるいテーブルについている。
テーブルの上にはゼラチン状の塊(gelatinöse Masse) の入ったグラスが一つ置いてある。
この相手の男は「不快な」相手であるが、「特定の」とあるので夢見者にとっては既知の誰かなのであろう。
謎の女性から既知の不快な男へ。これは夢見者を第一の機能とした場合の、第二の機能、あるいは第三の機能を象徴する人物と言えそうである。いずれにせよ先ほどの女性と合わせると、四人揃うはずのうちの三人までが登場したことになる。
ただし、見知らぬ女性はテーブルを囲む席からは姿を消している。どこへ行ったのだろうか。

さて、ここでテーブルの上に置かれたものに注意しておこう。
「ゼラチン状の塊(gelatinöse Masse) の入ったグラス」である。
ユングはこのグラス、容器を錬金術の「唯一無二の容器unum vas」と同じ物であると指摘する。「ゼラチン状の塊(gelatinöse Masse) の入ったグラス」というのは創造的活力を象徴するものであるとユングは書いている。ここでアニマは「道徳的に劣等なものの投影対象としての状態から解放され」て、「創造的活力へと転」じているという。アニマが、先ほどの見知らぬ女性が、このグラスに変容したのである。
「ゼラチン状の塊(gelatinöse Masse) の入ったグラス」は円形あるいは球状のものであり、テーブルと同様にマンダラの円、脈動し、振動し、伸縮自在な円であり球である。ここで円周上の四極のうちのひとつであったアニマが、円周を可能にしている脈動それ自体と分別できないほどの共鳴状態に励起されている。
注意しておこう。項は、極は、マンダラの円周上の四者は、マンダラを可能にしている脈動と無関係にそれ自体として端的に存在する実体ではなく、あくまでもその脈動の中で仮に姿を浮かび上がらせているのである。

さて、これに続く夢でも象徴は変容を続けていく。
ここでもアニマは球体と二即一一即二のあり方になっている。
マンダラ夢32 夢
夢見者はある見知らぬ女性から一通の手紙を受取る。
彼女は子宮(uterus) に痛みが感じられると書いている。
手紙には符合のような図形が描き添えられているが、それは凡そ次のようなものであった。
原始林に猿が沢山いる。
それから真白な氷河への眺望が開ける。
見知らぬ女性(アニマ、第四機能)は引き続き見知らぬ=疎遠な=夢見者(第一機能)から分離されたままであるが、しかし「手紙」をやりとりするという媒介方式によって結合している。そして手紙には受け手である男性が直接感覚することが難しい女性ならではの痛みについての記述がある。男性に存在しない器官について、その感覚を直接伝えることはできない。が、しかし、言語を介して情報伝達し、共感や同意を得ることはできる。分離されたまま言語、特に書かれた文字、手紙というメディア=媒介物を使って結合をする。分離しながらの結合という、一つの円周上で付かず離れずに調停された姿を先取りするようである。
そして今回も符号、図形が出てくる。以下のようなものであったという。

ここで「子宮」は、先ほどの「ゼラチン状の塊(gelatinöse Masse) の入ったグラス」と等価である。いずれにもアニマ、第四機能である。この第四機能と夢見者との関係に「痛み」が、不調和がある。
そしてこの第四機能の周りには、「猿」がたくさんいる原始林が広がっている。猿、あるいは原始人は、前の夢では自分が円の中にいることに気づかずに「激烈な戦闘」を演じる連中である。
続いての夢はどうやらこの猿、原始人に焦点があっている。
マンダラ夢33
原始人の戦闘。
獣的残虐性を以って展開される。
猿、あるいは原始人たちは「獣的」な残虐性で銭湯を繰り広げる。
戦闘、つまり敵味方、あちらとこちらに鋭く分かれて、どちらか一方だけを選ぼうと、他方が消滅するまで暴力を振るう連中である。
白か黒か、二つに分けて、どちらか一方だけを選ぼうとする、対立し、戦闘に明け暮れる二項対立たちに脅かされて、第四機能は、あるいはマンダラそのものは、というか、マンダラ状のパターンを示現させている脈動じたいが「痛み」を感じている。

しかし今や、その痛みは、隠されたものではなく、はっきりと、言語化して、手紙に書かれて、夢見者=第一機能へと伝達されようとしている。
自/他、敵/味方
自分自身と、自分自身に対立するあれこれ、という二者の固着した関係しか見えなかったところから、自/他の分別は分けるから分かれるのであり、いずれも分けないが分ける、分けつつもつなぐ、マンダラ状のパターンを描く脈動から浮かび上がって、仮に区別されているように見えているだけなのだ、ということがわかるようになりつつある。
ここから次の夢へとつながる。
マンダラ夢34
夢見者はある友人と話をしている。
夢見者が友人に向ってこう言う。
「僕は血を流すキリストの前でじっと堪え抜き、自分を救済するための作業を続けなくてはならない」。
二項対立による争い、痛み、流血。
そういったことから離れようとするのではなく、じっと耐え抜くことが必要であると、第一機能の補助機能であろう「友人」がいう。
「私」が敵対する相手との争いから目を背けたり、そこから逃げ出そうとしたりしても無駄である。なぜなら、その「私」と敵対している相手もまた「わたし」の一部なのである。
目を背けることはできず、その「前で」「じっと耐え抜く」こと。それこそが「自分を救済する」作業なのだと、この助言者はいう。
そして次の夢ではっきりとしたマンダラ、八項関係のマンダラのイメージが登場する。
マンダラ夢35
ひとりの俳優が被っていた帽子を壁に向って投げる。
壁に当った帽子は左図のように見える。
左図とは、以下のものである。

円周を八等分する八本の線が走っている。
これはどこからどうみても八項関係、二重の四項関係のマンダラである。

この夢では「帽子」という、頭の上に載るもの、人体の上/下の「上」極の、さらに上、頭でっかちな「思考」の在所である頭を覆い包み込むものとして、八項関係のマンダラが登場する。
この帽子の話は、クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理3 食卓作法の起源』に登場する「頭皮」の神話と重ねて読むとおもしろそうである。
*
さて、次の夢では、マンダラはさらに巨大に拡大する。
マンダラ夢36
夢見者はタクシーで市役所前広場にやってくるが、
この広場は「マリーエンホーフ」(マリアの庭)という名で呼ばれている。
広場の形状についての描写はないが、「マリア」の庭、つまり「女性」性の代表格のような名称がついている。これは先ほどのゼリー状の物質で満たされたグラスとか、円盤状の水盤とか、円形の包み込むものを思わせる。


次の夢ではこのマンダラの上で、対立関係が鋭く対立したまま、しかし全体として調和する、緊張感に張り詰めながらも、しかし安定したバランスが感じられる様相になる。
マンダラ夢37
暗い中心部の周囲を光が円環をなして旋回する。
それから夢見者は暗い洞窟の中を歩いている。
洞窟の中で善人と悪人との戦闘が演じられている。
しかしまたそこには、一切を知り尽している一人の君主がいる。
この君主が夢見者にダイアモンドが一つ取付けてある指環を贈り、これを夢見者の左手の第四の指 [薬指]に嵌めてやる。
中心が暗い光の円環が旋回する。
動く円、動的なマンダラである。
そしてその中心は暗い。
四極の調和から、絶-対無分節へ

夢見者は、どうやらその中心の闇の中へ、つまりマンダラの中心へ、入っていく。
マンダラの中に入ってみると、そこには善/悪の対立、闘争がある。
善/悪のような基本的な分別がはっきりと際立っている。
ところが、この戦闘をいわば優しく見守るかのような「君主」が登場する。彼は「一切を知り尽している」という。何を知り尽くしているかといえば、この戦闘こそ、分離と結合を分離しつつも結合する、二極の間の距離を引き伸ばしたり縮めたりする永遠の、いや、時間や空間の分別のはるかに手前の脈動、あるいは叡智、あるいは知性、あるいは原初的な分別としての「情報」といったことなのだ、ということを、この君主は知っているはずである。
この君主が、夢見者をいわば祝福するように「ダイアモンドが一つ取付けてある指環」を夢見者の左手第四の指 [薬指]にはめる。
夢見者は、第四の存在、第四の機能と、いわば結婚するように、付かず離れずの関係を結ぶ。それもマンダラそのものと他ならない「君主」の承認と祝福のもとでである。ユングは「指環贈呈は夢見者が個我と契りを結ぶことを意味するものに他ならない」と書いている(ユング『心理学と錬金術1』p.250)
個我を生きることへ
ここで「個我」というのは自我(夢見者の心の第一機能となっているもの)と厳密に区別されるもので、心の四機能が付かず離れずに一つの円の円周上に正方形をなすように配置された、調和した全体のことをいう。

自我が正方形の四つの角のうちの一つの極だとすると、個我はこの正方形とそれに内接(外接)する円の組み合わせの全体である。
ユングはこの夢で夢見者が入り込んだマンダラである「暗い洞窟」について、次のように書く。
「暗い洞窟は互いに相争う対立物の入った容器に照応する。個我は対立物とその葛藤とにおいて現れるものである。すなわち個我は「反対の一致 coincidentia oppositorum」である。そしてそれゆえに、個我への道は先ず葛藤を通る。」
個我は何らかの二項対立関係の一方の極ではない。
つまり「二つに分けて、どちらかを選べ」式の思考によって選べるような何かではない。反対物の一致、対立する二極の一致、二極が分かれつつ一つになっていることが個我である。個我は葛藤を経て、二項対立の伸び縮みを経て、ようやくその姿をマンダラの円と正方形として露わにするのである。
そしてこの夢見者が入り込んだ暗い洞窟は、「相争う対立物の入った容器」、錬金術を思わせる容器、先ほどの広場や、グラスや、子宮や、水盤と異なる姿で現れた同じことである。
涅槃から生死へ
さて、マンダラの君主のもと、第四機能と契約の指輪を交わした夢見者は、次の夢では再び日常的世界の様相のもとへ帰ってくる。
マンダラ夢38
円形のテーブル、そのまわりに椅子が四脚。
テーブルには何も置かれていないし、椅子には誰も坐っていない。
丸いテーブルを囲む四つの椅子。
随分と安定したマンダラになっている。
しかし、どうも静的な印象である。
その椅子に座る精神たちが、まだ登場していない。
ユングはこれについて「状況が大部分まだ無意識裡にある」と書いている。
・・
次の夢、夢見者はまた、暗い穴の中へ戻っていく。
マンダラ夢 39 幻覚像
夢見者は穴に落ちる。
下に熊が一頭いて、その眼は赤、黄、緑、青の四色に次々に変化しつつ輝く。よく見るとこの熊には眼が四つあり、それが四つの光となって輝いているのである。
熊は消える。
夢見者は長い、暗い通路を歩いている。
一番奥の突当りのところに仄かに輝く光が見える。
そこには宝物らしきも のがあって、その上にダイアモンドを取付けた例の指環が置かれている。
この指環について、夢見者がこれをはるかな東方へと運び行くであろうと言われるのを聞く。
この夢の分析については、次の機会に論じることにしよう。
関連記事
いいなと思ったら応援しよう!
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
いただいたサポートは、次なる読書のため、文献の購入にあてさせていただきます。