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微細な対立を伸縮させてマンダラ状の分節システムを生成する述語たち -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(90_『神話論理3 食卓作法の起源』-41)M493a 罠にかかった太陽

クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』”創造的”に濫読する試み第90回目です。『神話論理3 食卓作法の起源』の第六部「均衡」を読みます。

これまでの記事は下記からまとめて読むことができます。

これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。


はじめに

この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」を、空海が『吽字義』に記しているような二重の四項関係(八項関係)のマンダラ状のものとして、いや、マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たちが共鳴する”コト”と見立てて読んでみる。

経験的な区別が概念の道具となる

レヴィ=ストロース氏は大部の神話論理の冒頭に次のように書いている。

生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせ命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理1 生のものと火を通したもの』p.5

経験的感覚的な区別(分別)を、概念の道具として観念を抽出し(つまり分別同士を重ね合わせて意味分節する)、この観念を繋ぎ合わせる(意味するものと意味されることとの一対一の静的ペアをリニアに連鎖させる)ことが「どのようにしておこなわれるか」。

この「どのように」をマンダラ状の意味分節システムの生成消滅の脈動のモデル上でシミュレートすると、概ね以下のような具合になる。

神話論理のアルゴリズム(動き方)

即ち、神話は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜Δ4を分けつつ、過度に分離しすぎない程度に付かず離れずに結んで安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指す。

そのために

  • β二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり

  • β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり

  • 中央の一点に集まったり

という具合に振幅を描く動きが語られる。

両義的媒介項たちを遠ざけたり近づけたりする

β項は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている

そのようなものたちは、経験的感覚的には「存在しない」。
この経験的感覚的には「存在しない」ことをあえて言語化することが重要なのである。

神話は、そもそも何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。つまり何かが存在するとか存在しないとか、そういう分別ができるようになる「前」のことを思考しているのである。

そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。

オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。

お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。

そこから転じて、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力がバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

私たち一人一人にとっての世界の意味は対立関係の組み合わせとして分節されたものである

ここに私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される。何らかの経験な世界は、その世界の要素の起源について語る神話はこのような論理になっている。

私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。分別心の表層意識に浮かぶ図2のような、所与の諸要素たちをかっちりとした構造体として配置したように感じられる意味分節システムは、実は、図3のような脈動する波の伸び縮み(周期的に反復される振動の周期T[s]が伸び縮みすること)を瞼を細めて薄目で眺めたようなものである。

神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験すること可能にしている分別(ふんべつ)、あるいは意味分節のパターンが、あれこれさまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にするし、またそうした分別、意味分節のやり方を相当程度自覚的に自在に組み立てることをも可能にするのである。

経験的区別を概念の道具とする
経験的区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、
その観念をつなぎ合わせて命題にすることが、どのようにしておこなわれるか

罠で捉えて追い払った太陽を、
ネズミに頼んで呼び戻す

『神話論理3 食卓作法の起源』から、「M493a メノミニー 罠にかかった太陽 (1)」という神話をみてみよう。

六人家族のインディアンがいた。
父、母、四人の子供(三人が男の子で、ひとりが女の子)である。

男の子たちは三日続けて狩りに出かけた。
一頭のクマを持ち帰った。
父親は二頭要求した。
つぎに三頭、それから四頭と、 要求はつぎつぎ増えた。



一番下の弟が家に残り、上のふたりはふたたび狩りに出かけたが、クマたちがふたりを捕らえた
父とは母は彼らを探しに出かけたが、クマの犠牲となって死んだ

下の弟は妹と家に残っていた。
彼は兄たちを見つけたいと思い、クマたちのところに行き、火を使ってクマたちを退治した。火はクマたちの姉妹からもらったものだった。

メスのクマの態度はあいまいという以上のものだっ た。
そして主人公はクマによって半分動物の姿に変えられていた兄たちを人間の姿にもどした

**

彼の手柄に対する褒美として妹はビーバーの毛皮で美しい外套をつくって何色にも塗ったヤマアラシの針で刺繍した。
しかし、ある日、ひなたで少年が眠っているあいだに、太陽の熱が外套をだいなしにしてしまった。

怒った彼は妹に陰毛を一本くれと言い、それで輪差をつくり、太陽を捕えた太陽は首をしめられた。夜の闇が大地をおおった

太陽の救出を求めるさまざまな動物の声に応じ、やっとネズミが太陽の救出に成功した

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』pp.449-450
M493a メノミニー 罠にかかった太陽 (1)

はじまりの未分化

冒頭、親子兄弟6人が、ひとつにまとまって暮らしている。
この6人はひとまりまりであるが、その内部にいくつかの分割線が走っている。

まず、親/子(年長/年少)
つぎに、男/女(父親/母親、兄/妹)

このふたつの二項対立が隠れている。

親/子、男/女の二項対立を一番シンプルに組み合わせれば、(1)お父さん、(2)お母さん、(3)お兄ちゃん、(4)妹(お姉ちゃん、弟でもいい)の4人組になるが、この神話では4人ではなく、6人組になっている。
男の子たちが、兄たちが「3人」に分かれているのである。

(1)お父さん
(2)お母さん
(3)お兄ちゃん →(3-1)長男、(3-2)次男、(3-3)三男
(4)妹

この神話の場合、冒頭から、いきなり「四項関係」では、少々振動が足りないと考えたのだろう。親/子、男/女の二重の二項対立による四項だけだと、ゆらぎなく、かっちりと、四項の間の伸縮が止まってしまって、四項間の距離が付かず離れずに安定してしまう。こういうのは神話の一番最後で出てくればよい話で、冒頭からこの調停感では神話の論理が動かない。

そこで、兄たちが三つに分かれる

兄と、弟と、その中間
xと、非xと、その中間、である。

兄 / 兄でもなく弟でもなく /弟
x / xでもなく非-xでもなく /非-x

兄たち3人は、妹に対しては、いずれも「兄」である。
しかし、次男と三男は、長男に対しては「弟」の立場であり、「兄」の立場ではない。次男と三男は、それぞれ自分よりも年少の子に対しては「兄」であるが、年長の子に対しては「弟」である。

この兄/弟、年長/年少(親/子の二項対立も、この年長/年少の対立と同じである)の二項対立に対して、次男と三男は、兄でもあり弟でもある、という両義的なあり方をしている(β項)。

この二項対立関係の両極とその中間項からなる3人組が動き回ることで「数」が1から2へ、2から3へ、そして4へと、増えていく

三人兄弟が狩で仕留めてこなければならない熊の数が1日1日と増殖して四になる。

二極間の距離の伸縮

ここで、熊と兄弟たちのあいだには、獲物と狩猟者、という関係があることに注目しよう。

獲物 / 狩猟者

獲物と狩猟者のあいだでは、その距離が伸縮する

獲物は、いつも狩猟者の目の前にいる訳ではない(それなら家畜である)。狩猟者は獲物を探しに行かなければならない。つまり狩猟者と獲物はもともと分離している。狩猟では、この分離した距離を少しつづ縮めて接近していって、そしてついに狩猟者は獲物となる動物と再接近し、そして獲物を捉えることに成功すれば、この獲物を背負って(つまり狩猟者自身の身体と密着〜最短距離で結合して)運ぶ。

獲物      ←/←     狩猟者

獲物/狩猟者

そして熊たちは、四頭まとめてではなく、一頭づつ、一日一頭づつ、順番に残りの熊たちのもとから分離され、人間たちのところに結合されていく。

狩猟者である四兄弟妹と(妹は狩には出ていないが、これは四つセットの中での伸縮なのでまとめて考える)、獲物である四頭の熊。人間と熊それぞれの四項関係が二重になって、八項関係を描いている。しかも、人間の四項関係と熊の四項関係、それぞれの四項関係の内部で、一つだけが突出して他の三つから分離したりする。つまりぐにゃぐにゃと伸び縮みしている二つの四項関係が重なり合いながら、ぜんたいとしてさらに複雑な二重の四項関係を伸縮させているのである。この状態で要するにマンダラは四項関係ではなく、二重の四項関係、高速のβ脈動に入っているのである。

基数と序数の区別をつかう

このことをレヴィ=ストロース氏は次のような言葉で解いている。

[…]算術級数の問題を扱う独特のやり方による。この神話の狩りをする兄弟たちには右へ行く道と左へ行く道とがある。一日目は上のふたりの兄弟が右の道を行く。彼らはそこでクマに出会い、それを長兄が殺す左の道を行った下の子は何も見つからない。二日目、兄弟たちは同じ方法をとる。上のふたりはクマに会い、今度は次兄が殺すいっぽう、右の道を行った三男もクマを一頭殺す三日目、三兄弟 はいっしょになって分かれ道でそれぞれが一頭のクマを殺す(まずは三男がひとりで、それから上のふたりが、それから三人が協力して)。しかし、獲物の数がいくらふえても、父は毎日もう一頭足りないと嘆く。したがって実際の数と(父親の望む)仮想の数とからなる数列があることになる。すなわち1, [1(+1)], 2, [2 (+1)], 3, [3 (+1)]。これはクマをしとめた幸運な狩人たちによる数列と並列される。すなわち (1番目,0,0), (0,2番目,3番目), [(3番目), (2番目,1番目), (3番目,2番目,1番目)]。ふたつの道を行く兄弟の数が毎日変化することにより、ひとつの幾何的座標が前のふたつの座標に加わる。ふたつの座標は算術的性質をもつが、そのひとつは基数に、ひとつは序数による

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.451

ここで話題になっている神話は上述とは別の、しかし上述の神話の異文と読めるものである。ここでレヴィ=ストロース氏は基数と序数、「全部いくつ?」と「何番目?」の違いに注目する。

この神話では兄弟たちは、「獲物の数がいくらふえても」、「毎日もう一頭足りないと嘆く」父親に促されて、毎日狩に出かける。

ここに「実際の数と(父親の望む)仮想の数とからなる数列」がある。

1,  [1(+1)],  2,  [2 (+1)],  3,  [3 (+1)]

この数列と別に、「何番目の兄弟が熊を仕留めるか」という「序数」の数列が出てくる。兄弟たちは、

左/右

水平方向で真逆に対立する方向に分離する。


一日目:左/右の分離が基底になって、その「右側」の一方の端=長男と熊が結合する(次男は熊と分離したまま)。

長男・次男 / 三男
   ||    ||
   右 / 左
   ||    ||
(熊を)仕留める/仕留めない 仕留めない

この配列を
(1番目,0,0)
と表記する。


二日目:左/右の分離が基底になって、その「右側」の先ほどとは逆の他方の端=次男が熊と結合する(長兄は熊と分離したまま)。

長男・次男 / 三男
   ||    ||
   右 / 左
   ||    ||
(熊を)仕留めない/仕留める仕留める

この関係を
(0,2番目,3番目)
と表記する。 


三日目:左/右の分離の手前(「分かれ道」)で三兄弟とも熊と結合する。一頭目は一人で、二頭目は二人で、三頭目は三人で、熊を仕留める。

[(3番目), (2番目,1番目), (3番目,2番目,1番目)]

熊の数は「序数(何番目)」で増えていき、兄弟の数は「基数(全部で何人)」で増えていく。ここに「ふたつの道を行く兄弟の数が毎日変化することにより、ひとつの幾何的座標が前のふたつの座標に加わる。ふたつの座標は算術的性質をもつが、そのひとつは基数に、ひとつは序数による」ということになる。

この数の変容分離と結合の分離と結合の伸縮という観点で読み直すと、要するに、三つの分節システム(数列)、

(1)仕留められる熊の数の数列
(2)望まれる熊の数の数列
(3)熊を仕留める兄弟の序数の組み合わせパターンによる数列

この三つの分節システムが兄弟の誰かが熊を「仕留める」という局面において、一点に結合する、重なり合うのである。

この重なり合いのポイントで、まさに複数の糸による刺繍でマンダラを描くように、一直線の数列たちが3本結び合い、絡まり合って、マンダラ状のパターンを描くように動きはじめるのであろう。

要するに、マンダラを生成するアルゴリズムの動的(述語的)様相を、複数の数列の重ね合わせによってモデル化しているのである

人間が熊に捕らえられる

次に、ひとつの大きな、経験的感覚的分別の逆転が起きる。

三人兄弟の長男と次男が、熊に捕まるのである。

熊を捕まえにいったはずの人間が、逆に、熊に捕まる(過度に結合する)。ここでは、

狩猟者 / 獲物
??
人間 / 熊

この二つの二項関係を重ねる向きが、くるりと逆になっている。
なぜこのようなことが起こったのかといえば、兄弟たちが、3人セットで狩に行っていないからである

長男と「その」弟である次男と、つまり兄と弟というごくありきたりな二者関係だけでは、神話的な熊との間の距離を伸縮させ、熊とのあいだの分離と結合を自在に伸縮させるような「あいまいさ」(両義的媒介項が振幅を描くように動き回る力)が不足しているのである。

二者関係が際立つ

ここで家族のうちの何人かが熊に捕まってしまったことで、かたまって暮らしていた人間たちがバラバラに分離して、二人だけが残る

6人家族のうち、長男と次男は熊に捕まり、熊の仲間に変身してしまっており、兄弟たちの両親は熊にやられてしまった。そして三男と、そのすぐ下の子である妹の二人だけが残ったのである。

ここで、対立関係が極めてシンプルになっていることに注目しよう。
三男/妹、この二者関係は、下記のようなきわめてシンプルに安定した四項関係に調和している。

年長 / 年少
||    ||

男 / 女

とはいえ、このくだりではまだ、神話はβ脈動の真っ只中である。
引き続いて両義的媒介項たちが分離したり結合したり、振幅を描くように動き回らなければならない

三男による兄二人の救出(分離を結合に転じる)

その分離と結合の様相をみてみよう。
まず、「三男」が「妹」から分離して、一人でクマと結合する。

三男 ← / → 妹

この関係では分離して、

クマ→/←人間(獲物/狩猟者)

この関係では結合する。

こちらで分離し、あちらで結合する、という形で八項関係をマンダラを描くように引き延ばしていくのである。

熊たちのもとにたどり着いた(距離をゼロにした=結合した)三男は、まず、熊の「姉妹」の協力を得て、「火」をもらう。

熊の姉妹が三男に協力的であるのは、ここが分離と結合を伸縮させるくだりであるからである。熊の姉妹は熊であるのに、兄弟たちではなく、人間の方(三男)に協力する。熊の女性は、熊たちから分離して、人間と結合する。ちょうど三男が人間のもとから分離して熊の方に結合しているのと真逆に対称になっている。

そして三男は、このもらった火を用いて、熊の兄弟たちを退治する。そして三男は長男と次男を救出し、「半分動物」の姿から人間の姿へもどした。

三男は、熊たちと結合する。

特に、熊の姉妹とは敵対的ではなく協力的に結合する。

そしてその結合の結晶である「火」を用いて、オスの熊たちを「分離」する。そうして「半分動物」姿に変身していた囚われの人間の兄たちを者と姿に戻す。動物=獲物であることから分離して、狩猟者である人間の方へと結合するのである。

こうして両親はいなくなってしまったが、長男、次男、三男、末の妹の四名四者がまたひとつに揃う。

人間たちは六から四へと振動を減速され、そして熊たちとの距離の伸縮運動もまた減速された。しかし、これでもまた神話の冒頭の「まとまって」いる状況、未分化の状態は続いている。

ヤマアラシの針で刺繍された
ビーバーの毛皮の外套

ここでやや唐突に、おもしろいことが起きる。

妹が、兄(三男)に、「何色にも塗ったヤマアラシの針で刺繍したビーバーの毛皮の美しい外套」をプレゼントする。


妹 →授ける→三男
||
(βヤマアラシ針刺繍のビーバー外套)

ところが、このβヤマアラシ針刺繍のビーバー外套は、太陽の熱で焼かれる。このとき、太陽はまだ地上にあまりに近かったのである
つまり天/地の分離、分節が、まだ区切り出されていなかったのである。
それは即ち、人間が生きることのできる、人間にとって意味のあるこの現世が、まだ発生していない相だということである。

ここでは太陽の熱は天/地のあいだの距離を短絡する(過度に結合する)媒介項(β項)の役割を果たしている。このβ太陽光とβヤマアラシ針刺繍のビーバー外套とが「短絡」結合するのである。外套は熱と光の中に溶けてしまった。

天=β太陽光=地
<||>
βヤマアラシ針刺繍のビーバー外套

大切な外套を焼かれたことで、三男は怒る。
怒るとはつまり、結合を分離へと転じることである。

近くで隠されている/遠くで顕になっている

ここで三男は現世の常識的分別からするととんでもないことをする。
あろうことか、妹の身体の上/下の中間のポジションにある体毛を、妹から分離し、それで輪差を作る。これには紳士淑女たる読者の皆様は思わず眉を顰められることと思うが毛であれ何であれ、なにかその「項」それ自体が「何であるか」ということにこだわるのではなく、この「項」を主語として、その主語がどのような述語たちの変換を引き起こしているのか、というところに注目して「思考」していただきたい

即ち、頭皮と靴をその上端と下端とする人間の全身の、ちょうど中間の位置に、通常「結合」している体毛を、あえて「分離」する
結合から分離へと急転換する中間的なものはβ項である。
しかもそれが「輪差」、つまり罠猟につかう罠、獲物を捉える=分離している二極を結合に転じるための罠として用いられて、「β太陽光」と結合する。

「β身体の上端と下端の中間に結合していたものを分離されたもので作られた輪差」と「β太陽光」の、二つの両義的媒介項が過度に結合する。

 ←        =β太陽光=      → 地
β上/下の中間的体毛の輪差  <||>  (   第四    )
βヤマアラシ針刺繍のビーバー外套

このβ輪差と「β太陽(光)の結合は、真っ暗闇をもたらす。
真っ暗闇。天/地が過度に分離された状態といえよう。

もともと、外套を焼き払うほど太陽が地上に近かったのであるが、これが今度は逆に、地上が真っ暗になるほど、太陽は地上から遠く分離してしまう。

このあたりは日本の神話の「岩戸隠れ」と共鳴する動きがある。

第四の媒介項で、過度な分離の様相と
過度な結合の様相の間を急転換

ここでは三つのβ項が過度に結合したままで、Δ天/Δ地の分別は安定しない。そこで、最後に、第四のβ項が登場する。「さまざまな動物の声のなかから登場したネズミ」である。

ネズミは、経験的感覚的には、たとえば地下世界のような人間には見えないものの、しかし人間のくらしのすぐ隣にある(つまり過度に分離されてはいない)領域と、人間の世界との間を自在に行き来する媒介者である。

このネズミが、太陽を「救出した」とある。つまり太陽を輪差から外した、太陽と輪差とを分離したのである。

天 ←      β太陽光    → 地

β中間的体毛の輪差   +      βネズミ

βヤマアラシ針刺繍のビーバー外套

こうして、それぞれがある何かと何かを一方では分離しつつ他方では結合するように動くβ項たちが四つ揃ったところで、うまい具合に両義的媒介項四項の距離が均衡し、過度に分離することもなく、また過度に結合することもない調停された状態が出てくる。この等距離を保つように細かく振動するβ項たちの「あいだ」に、四つのΔ項がおさまる位置が安定的に開けてくる。そこに「天」と「地」がおさまる。

こうして、天/地が過度に結合するでもなく過度に分離するでもない、均衡した状態が訪れる。私たち人間にとっての経験的な分別が安定した世界のはじまりである。

経験的感覚的に対立する二項の間が自在に伸縮する(分離したり結合したりしながら、諸項が一即多にして多即一、不一不異になる)β脈動の状態においては、この項が感覚的に「何個」でなければならないという決まりはない分けてみればいくらでも分かれるし、分けてみなければ分かれない。分別の手前のβ脈動においては、分かれていることと別れていないこと、分別と無分別、分離と結合、多であることと一であることの分別もまた、まだ分別されているでもなく分別されていないでもない

神話は、経験的感覚的に安定した分別が、設定される手前の動きを、言語において、特にその述語による伸縮の様相でもって浮かび上がらせようとしているのであって、主語的なもののあれこれが、何であるかとか、何個あるのかないのか、といったことは大きな問題にはならない。諸対立関係を分離と結合の分離と結合から引き開くβ脈動においては、対立関係の二極として出てくる諸項が他に対して何であるかは「不可得」であり、よくわからないようなわかるような、という感じなのである。主語的なものがなにであってなにでない、何個であって何個でない、などということが言えるのは、分別が固まった後での話である

主語的なものの言い換えとしての思考から、
述語と述語を伸縮させる「思考」へ

ここでレヴィ=ストロース氏は、兄が妹に要求した体の上下の中間にあるかの体毛に注目するよう促す。

多くの場合、姉妹は普通なかなか陰毛を渡そうとはしないので、根気強く要求しなければならないのだが、陰毛の選択は以下のことを考慮すれば、本質的特徴なのである。十四のヴァージョンで太陽が捕らわれたあと長い夜がつづいたと語られている[…]。つまり神話は太陽と大地の分離にかかわるものであり、いくつかのヴ ァージョンで、その分離を陰毛の使用によって説明しているのである。

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』pp.456-457

とんでもないことが書いてあるようだが述語の様相に注目しよう。

・「なかなか渡そうとしない」
・「根気強く要求しなければならない」

兄と妹
は、同じ家族であり、家族外の男女の距離に比べれば相対的に結合している。しかし、その結合している関係のなかにありながら、こと体の上下の中間にあるかの体毛に関しては、兄と妹ははっきりと分離されている場合が多いことだろう。かの体毛は、述語的様相に注目すれば、過度な結合と重なり合った過度な分離、なのである。

つまりこの述語としての毛は、分離と結合という二項対立関係にある両極を自在に逆転させる力を秘めている、ということになる。

神話では、兄は、根気強く頼み込み、この毛を入手する。
毛が兄のもとへと渡る。通常分離されているところと結合するのである。

分離と結合の両極の間が激しく振動するよう励起される
そのような述語的な様相(分離と結合をくるくると逆転・転換する力が強いということ)をひっぱりあげる主語的な「毛」でもって兄は「輪差」、つまり罠猟の道具をつくり、太陽とこの輪差を結合する。そして輪差と結合した太陽を、地上から分離する。こちらで結合し、あちらで分離し、というパターンである。

地上に近づきすぎた太陽・地上と過度に結合した太陽を地上から分離するよう逆転するためには、分離と結合の両極の間を激しく行ったり来たりする媒介項が役にたつわけである。

ここでさらに細かい対立が出てくる。この「体の上下の中間にある結合の中にある分離の焦点」である毛と、「頭皮」との対立である。

しかしわれわれはすでに、太陽と大地のあいだでは頭皮がこれとは逆の結合者という役割を演じていることを知っている。最初の頭皮は火のように赤い髪をした鬼たちのもので、その髪の輝きが昼の光を強め美しくするのである(M490)。マンダン族やヒダッツア族 とは異なり、スー系部族や中央アルゴンキン系のその他の部族は、頭皮を太陽と彼らの同盟関係のシンボルとし ていた。戦ったり頭皮を取ったりしたのは彼の名誉のためであった。

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.457

地上と過度に結合する太陽は、かの毛の輪差で捉えられ、地上から遠くへ分離された。しかし、分離しすぎも困るのである。地上が今度は真っ暗になってしまう。過度に地上から分離した太陽を、地上へと近づきすぎない程度に結合しておく必要がある。

ここで、今回の神話では「ネズミ」という地上/地下、光/闇の中間領域を動き回る両義的媒介者がなにかうまいことをなしたのであるが、別の神話では、おなじく太陽の「昼の光を強め美しくする」役割を「頭皮」が担っている。身体の上/下の中間にあり取ろうと思えば容易に取ることができる得難い体毛は、分離と結合を過度に転換するが、これと「逆」に、上/下の上端に張り付くように結合し容易に取ることができない「頭皮」は、過度な分離を適度な結合へと転換する。

過度な結合

上/下の中間に分離しやすく結合し、
男/女(兄/妹)の一方の極に分離し難く結合する
:かの体毛>

過度な分離

・・/・・

過度な分離

上/下の、一方の極に分離し難く結合し、
天/地の中間に分離しやすく結合する
:頭皮>

適度な結合

ここに分離と結合の過度な転換と、分離と結合の均衡との対立がみえてくる。

分離と結合の過度な転換 / 分離と結合の均衡

これは冒頭の図でいえば、「分離と結合の過度な転換」はβ脈動であり、経験的で感覚的な二項対立に対する両義的で中間的な項目たちが、伸縮自在に動き回る様相である。他方、「分離と結合の均衡」は、この両義的媒介項たちの振動が一定の周期的な動きへと落ち着き、その周期的運動の最大値と最小値の位置に、つまりある両義的媒介項の両側に、安定的に区切り出される領域が生じるということである。ここががΔ項がおさまる場所である。

このβ脈動とΔ均衡との区別が、
第一の二項対立の中間に分離しやすく結合しながら、
 第二の二項対立の一方の極に過度に結合している
」項と、
第一の二項対立の一方の極に過度に結合しているが、
 第二の二項対立の中間に分離しやすく結合している
」項との対立関係で置き換えられる。

a)第一の二項対立の 中間 に 分離しやすく結合 しながら、
第二の二項対立の 一方の極 に 過度に結合 している」

b)
第一の二項対立の 一方の極 に 過度に結合 しながら
第二の二項対立の 中間 に 分離しやすく結合 している

このa),b)ふたつの対立が、頭皮と陰毛という、主語的にそれだけみると謎の項に託された述語的様相の対立である。

そしてa),b)対立は、さらに下記二つの対立を重ね合わせることで分別されていることにも注目しよう。

・中間的であること / 二項対立の一方に寄ってあること
・過度に結合していること / 分離しやすく結合していること

以上をまとめて、レヴィ=ストロース氏は次のように書いている。

陰毛は太陽と人類の分離を、頭皮結合を含意していることになる。したがってわれわれは宇宙的物体と服飾品というふたつの三つ組を、頂点を接して対立するふたつの三角形という形で、連結することができる。[…]一本の体毛は太陽を捕えることを機能として持っているのだから。[…]この捕えるという機能によって、われわれが探求した複雑なまとまりを体系に統合することができるのである。

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.457

これは、レヴィ=ストロース流の「マンダラ」なのだと思う。

複数の「分離と結合」とを、分離したり結合したりする。その多様な動きの中に、仮に一点、複数の分離と結合の伸縮どうしを結合するような動き=述語的様相を示す項が浮かび上がる時、そこにマンダラが出てくる

一見単純そうにみえる図表も、それが示す体系は非常に複雑である。右側の三角形では、まず太陽、月、石(これは大地のひとつの相である)がをなしており、これらの項の人間とのへだたりはそれぞれ異なる。太陽は遠く、 石は近く、月は中間的位置にある。これらの項と人間とのあいだにあって左側の三角形に書き込まれた項は媒介者の役を演じる。ここまでの議論によって示されたように、頭皮は太陽に対して正の媒介者であり、陰毛は負の媒介者で、前者は結合し、後者は分離するのである。神話があきらかにモカシンを好んでいることから、刺繍をほどこした衣類によって人間と大地との関係を媒介することをめざしているのがわかる。しかしそのいっぽうでこれらの媒介者と人間とのへだたりもそれぞれ異なっている頭皮は敵のものであり、したがって遠い陰毛 は自身の身体から、あるいは近い女の身体から由来するものである。ヤマアラシの針による刺繍は、近い女によって施されるが遠い材質でつくられているので、中間的位置にある

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』pp.457-458

遠い / 近いが遠い / 近い

分離されている/結合しているが分離している/結合されている

(近いでもなく、遠いでもない)
(分離しているでもなく、結合しているでもない)

これらはいずれも「分離しているか」「結合しているか」の二者択一の分別を問題にしていない。分離していると思ったら結合し、結合していると思ったら分離し、ある二項対立を分離したかと思えば、別の二項対立を結合している。ここでは分離も結合も伸縮する運動なのである。

しかも、この伸縮はリニアな時間軸上での伸縮ではない。ある時点では伸びていて、ある時点では縮んでいる、というのではない。時間軸というのはこれもまたあくまでもある一つの「伸ばす」動きの結果として浮かび上がる分別である。いま問題になっている伸縮は、そのような伸び切った「時間軸」の発生以前の話である。そこでは伸びていることと縮んでいることが、完全に一つでありながら、完全に二つなのである。

言語とは、分別された二項対立の一方を選びつつ、別の二項対立の一方の極に結びつけていくアルゴリズムでできているが、野生の思考の神話論理はまさにこの言語ということ、意味するということのアルゴリズムのもっともシンプルなパターンを、日常的で経験的で感覚的な言葉たちをそのまま転用・流用(ブリコラージュ)することによって捉え尽くしているのである。

つづく


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