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述語の伸縮がマンダラを浮かび上がらせる-レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(92_『神話論理3 食卓作法の起源』-43)

クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』”創造的”に濫読する試み第92回目です。『神話論理3 食卓作法の起源』の第六部「均衡」を読みます。

これまでの記事は下記からまとめて読むことができます。

これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。


はじめに

この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」を、空海が『吽字義』に記しているような二重の四項関係(八項関係)のマンダラ状のものとして、いや、マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たちが共鳴する”コト”と見立てて読んでみる。

経験的な区別が概念の道具となる

レヴィ=ストロース氏は大部の神話論理の冒頭に次のように書いている。

生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせ命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理1 生のものと火を通したもの』p.5

経験的感覚的な区別(分別)を、概念の道具として観念を抽出し(つまり分別同士を重ね合わせて意味分節する)、この観念を繋ぎ合わせる(意味するものと意味されることとの一対一の静的ペアをリニアに連鎖させる)ことが「どのようにしておこなわれるか」。この「どのように」をモデル化するひとつの試論としてマンダラ状の意味分節システムを生成消滅する脈動(伸縮)ということを考えてみると、概ね以下のような具合になる。


神話論理のアルゴリズム(動き方、伸縮の仕方)

即ち、神話は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜Δ4を分けつつ、過度に分離しすぎない程度に付かず離れずに結んで安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指す。

図1

Δ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別である。例えば、

Δ1 暑い / Δ2 暑くない
||       ||
Δ4 わるい / Δ3 わるくない

といったことである。私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界とは、ほぼすべて、このような二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている

今、上の図式では、仮に「Δ1 暑い」と「Δ4 わるい」をイコールで結びつけたが(つまり「暑いのはわるい」という意味である)、このΔ4わるいとΔ3わるくないの向きは逆にひっくり返しても良い。

私たちは何気なく成長して生きていると、「あつい」ということはそれ自体として自明のこととして存在しているし、「わるい」ということもそれ自体として自明のこととして存在しているはずだ、となんとなく思っている。

自明な日常の分別の手前へ

神話は、このような日常的には自明=当たり前のように意味分節(分別)されてある経験的な世界の「起源」について思考する営みである。

たとえば、

1)「人間と、人間以外の動物は、なぜ違うのか?」
2)「世界が天と地に分かれているのはなぜか?」
3)「この世に、善と悪があるのはなぜか?」
4)「生と死が分かれているのはなぜか?(なぜ人は死ぬのか)」

こういう疑問について、現代では自然科学の方法でもって「答え」を思考するというやり方が目立っている。2)であれば、それは地球という宇宙の塵が都合よく集まってこの惑星ができたからであり、1)は生命が環境に適応しようとしてきた結果であり、4)もまた、細胞の、タンパク質の再生産の都合ということで説明できそうである。3)もまた、人間の行動パターンや神経系の働きを調べることで科学的に説明できる部分もあると思われる。

**

とはいえ人類は少なくとも1万数千年前には、もしかすると4万年とか5万年とか、6万年くらい前から、目の前にある何かの「起源」についての問いをなんらかの形で言語的に問い続けてきたものと推定される。

生/死
男/女
人間/(人間以外の)動物
天/地
地上世界/水中(地下)世界
明/暗
昼/夜
寒/暖

こういった区別、分別、二項対立は、古来から人類によって(いや、人類以前の生命体によっても)経験的に知られていたはずである。しかも不思議なことに、こういう対立する二項は真逆に異なっていながら完全に分離してしまうことなく、結合したり分離したり、一つに繋がったり、二つに分かれたりを繰り返していく。

こういう対立二項の分離と結合や、規則的な交代が、いったいどうして分かれてきたり、分かれつつ繋がりを保つようになったのか。その起源(はじまり)について言語で思考し、仲間と語り合おうとするとき、「神話」の語りが生成する。ここで神話の語りは自ずから、経験的感覚的に分別される二極が未だ分かれていない様を、本来的に分別の道具であるはずの言語でもって再現するという離れ技をやってのけざるを得なくなる。

科学の思考と野生の思考

対立二項がなぜ対立するのかを説明しようという場合、現代の人類は科学的な思考で「答え」ようとする。即ち問われている二項対立を、再現可能な観測結果をもたらす観測技術を利用して観測できるなんらかの二項対立へと変換していくのである。

一方、現代のような観測技術を持たなかった古代の人々は、対立二項の分離と結合や、規則的な交代が、いったいどうして存在するのか、という疑問で頭がいっぱいになった時、どうやら対立関係そのものが分かれ出てくる動きそのものに注目し、この二項対立のはじまり(起源)を理解しようとしたらしい

対立関係そのものが分かれ出てくる動き

即ち、人類が経験的感覚的に生きている意味ある世界は、二項対立関係を二つ組み合わせた四項関係を最小構成単位として織りなされている(意味分節されている)ものである

Δ / Δ
||   ||
Δ / Δ

例えば、

人間 / 動物
||     ||
服を着る / 服を着ない

「野生の思考」はここで「/」と「||」の動きに注目して、Δ二項対立とその重ね合わせのはじまり(起源)を思考する。このΔ1〜Δ4を区別できないところからはっきりと区別できる状態にまで切り開き分けつつも、バラバラに飛び散ってしまわないように結びあわせ、しかし過度にくっつきすぎて区別できなくなることはないように均衡させておくということが、私たち人類にとって意味ある世界が意味ある世界であるために必要な意味分節の最小構成単位(二重の二項関係=四項関係)をつくる動きである。

この「/」と「||」の動きを説くために、神話として現れる「野生の思考」は、Δ1〜Δ4を分けつつつなぐ、四つの媒介者たちを登場させる。先ほどの図で言えば、四つのΔたちの間に挟まって描かれている、四つのβ。この四つのβがΔたちを分けつつつなぐ媒介項である。

/ 
||    ||



β
β    β
β
 

「/」と「||」は同じ動きの二つの異なる様相である
すなわち「/」は伸縮の「伸」の方に対応し、
「||」は伸縮の「縮」の方に対応する

両義的媒介項

両義的媒介項(仮にβと表記しておく)は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている

いうまでもなく、そのようなものたちは、私たちの経験的感覚的には「存在しない」。この経験的感覚的には「存在しない」ことをあえて言語化することが野生の思考にとっては重要なのである。神話は、そもそも何かが「存在する / 存在しない」を分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。つまり何かが存在するとか存在しないとか、そういう分別ができるようになる「手前」のことを思考しているのである。そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。

両義的媒介項たちが遠ざかったり近づいたりする動きに注目

お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つのβ項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。

  • 任意のβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり縮んだり

  • 任意のβ二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり縮んだり

  • 2または3、または4つの任意のβ項が中央の一点に集まったり広がったり

という具合に、β項間の距離を伸縮させる振動(振幅を描く動き)が起こりる。両義的媒介項は、動く。両義的媒介項どうしの間の距離を伸び縮みさせるように動く。

この振動のある種の共鳴状態として、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力がバランスする

ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、正方形を描くように均衡した四つのβ項のあいだに、そのβ正方形の「辺」の部分をなす四つの領域が、安定的、反復的に広げられ続けるようになる。ここに四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。そこにΔ項が収まる。

ここに私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される。何らかの経験な世界は、その世界の要素の起源について語る神話はこのような論理になっている。

私たち一人一人にとっての意味ある世界は
対立関係の組み合わせとして
分節されたものである

私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その名、その主語的なあり方(Δ、「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれらの主語的なものたちは、あくまでも伸縮を自在にする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿を浮かび上がらせる痕跡である

主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている

強いて画像(意密で分別できる方便)で表現すると、次のような具合になる。

まずこのような感じ。

次にこのような具合にまとまり始めて

沈静化してくる。

さらにまとまる。

そして次第に共振パターンが現れる。

パターンはこう言う具合になり。

そしてこうなる。

そして、こういう具合になるのだけれども、これが完成形というわけではない。決して止まることなく、ぐにゃぐにゃと動き続けている。

こういうのに通達するには瞑想した方が速いという話もあり、実際その通りだとわたしも思うのだけれども、しかし、あえて、言語でもって、両義的媒介項たちの分離と結合のs神話を言語でもって語ることで、言語の線形配列の次元に写像して三昧に入ることも大切なのである。「八識」というように、人間の分別心はいくつもの分別の重なり合い絡み合いで出来上がっている。その至る所が固着して、妄念への執着をあれしているのである。そういう固着のあれこれには、イメージ的瞑想(意密の加持)によって解すことができるものもあれば、神話論理的な言葉(語密の加持)によって解すことができるものもあるし、他の方便(身密の加持)でないと解しにくいもつれもある。

いずれにしても『神話論理』を読むことで、ここでは言語からアプローチしてみよう、ということである。

私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。分別心の表層意識に浮かぶ所与の諸要素たちをかっちりとした構造体として配置したように感じられる意味分節システムは、実は脈動する波の伸び縮み(周期的に反復される振動の周期T[s]が伸び縮みすること)を瞼を細めて薄目で眺めたようなものである。

神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験すること可能にしている分別(ふんべつ)、あるいは意味分節のパターンが、あれこれさまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にするし、またそうした分別、意味分節のやり方を相当程度自覚的に自在に組み立てることをも可能にするのである。


分離する述語、結合する述語が、
両義的媒介項を主語の座に引っ張り込む

『神話論理3 食卓作法の起源』の「M495 メノミニー 赤い頭」という神話を両義的媒介項の動きに注目して読んでみよう。特に、両義的媒介項のペアがその距離を伸ばしたり縮めたりする、両義的媒介項同士の距離の伸縮にフォーカスして読んでみよう。

昔、妻に手ひどい扱いを受けている男がいた。
彼はすぐれた狩人だったが、満足することを知らない妻は、彼が獲物を殺すとすぐ持ち去ってしまった。そのうえ、妻はおこないが悪かった。
インディアンは悲しくなり、妻と別れることを考えた。



彼は少し呪術の心得があったので、殺した毛の白いシカの助けを得た。
木に吊るした共犯者たるシカの身体妻がはずそうと苦労しているあいだに、彼は逃げたのである。
妻は、獲物の悪意により遅れをとったものの、夫が逃げたことを知り、追いかけた
最初のうち夫はさまざまな呪術による障害物を作り出して、うまく妻を引き離していた。
やがて熱心に肉を焼いている男に出会った
夫は、自分を虐待する女がせまっていたので、その男の助けを求めた。 
その見知らぬ男は動じることなく、主人公に長い腸をできるだけひっぱって伸ばして、そのいっぽうの端を食べ るように、自分も反対側から食べるから、と言う。

その間にも、性悪女は近づいてくる。
主人公は恐れをなしあわてて自分の分の腸の半分を飲み込む。
やっとふたりの会食者の口は合わさる

その満腹した見知らぬ男は立ち上がり、殺してあったクマを背中に背負い、主人公にそれにまたがるように、そうすればクマと主人公とをいっしょに運びやすいから、と言う。

見知らぬ男が荷を背負ったまま空中に浮かび上がったとき、女が到着した。

女は救助者に向かって言う。
「おまえの姉妹が良いからといって、わたしの夫を連れ去っていいというものではない。ふたりとも殺してやろうと思ったのに。わたしは嫉妬で怒り狂っているのだ」。



この見知らぬ男とは「太陽」、昼間の光にほかならなかったのである。
彼は天でひとりの姉妹といっしょに暮らしていた。
太陽は主人公にいっしょに暮らそうとさそったのだが、姉妹は彼(主人公のインディアン)を冷遇した。
太陽がいないときには、彼女は哀れな男が醜いと思い、彼とけんかし手荒く扱った。
もはや我慢ができなくなった主人公はある日外に出てちょっと歩く。

彼は超自然的保護者に出会い太陽の姉味には一〇人の愛人がいることを聞かされる。それで彼が邪魔だったわけである。

保護者は主人公に対して、その愛人たちと戦う手助けをしよう、けれどもそのためには自分を背負ってくれなければいけない、なぜなら自分は半男、両性具有者で不具だからと言う。

ふたりの仲間はひとりの赤毛の愛人を殺す
ふたりは頭皮を取り、整える。
主人公は太陽のもとへ帰る。
彼が入るやいなや太陽の姉妹は彼を罵る。
「なんて臓物だらけの醜いやつだ。おまえの腹の中でくねくねとぐろを巻いているのが見えるわ」。

太陽はそれを聞いて姉妹を叱責する。
友だちになってもらおうと呼んだので、彼を侮辱するために呼んだのではないと。

インディアンは背中に身体の不自由な男を乗せていないときはいつも狩りに出かけ獲物を持ち帰った。
彼はまた五人の赤毛の愛人も殺しその頭皮を取った

身体の不自由な男は倒した愛人たちの脂を自分が庇護する男の身体に塗り頭皮を友だちである太陽に贈るようにすすめる。太陽は歓声をあげる。
それですばらしい外套をつくろう、それ を着れば人々にいままで見たこともないようなすばらしい光景を見せることができるだろう、と言う。

最後の愛人たちの頭皮を手にした太陽の感謝の気持ちはいやがうえにも増した。
彼の姉妹はと言えば、太陽をとても恐れていたので何も言えなかった。

不具な男は主人公に、その女(太陽の姉妹)が言い寄るだろうが、拒まなければいけない、なぜなら女は復讐のチャンスを狙っているだけだから、と忠告する。
されど肉体は弱し。
主人公は誘惑に負けて太陽の姉妹と結婚する
彼らには息子と娘が生まれる。
ある日、太陽は、自分の姉妹に、夫が親族と再会できるよう夫といっしょに地上に行くように、ただし自分の甥である息子は自分に預けていくように、とすすめた。

太陽は姉妹がインディアンのところで行儀よくしているようさまざまな忠告をした。

夫婦は長い旅に出かけていた。
その間、彼らの息子は太陽のもとで成長した。
太陽は甥である子供を自分の代理にすることにした
始めはすべてがうまくいった。
けれども、あるとき、子供はおじの言いつけを破り、近道を通った普段の弧を描くコースをたどらず、まっすぐ帰ってきてしまったのである。

太陽は悲しんだ。

これ以降、人間にとってはすべてがだめになってしまった。

冬の日は短すぎ、日々の労働を終わらせることができないだろう。

太陽は自分の姉妹の振る舞いも心配だった。
初めのうち彼女は、彼女が偉大な猟師を夫としていることで嫉んでいたほかの女たちのおしゃべりや悪口に耳を貸さなかった。

それから、彼女は兄弟の忠告を忘れ、おしゃべり女たちを敵意をもってにらみつけたため女たちは死んでしまった
気を悪くした太陽は彼女を夫と娘とともに天に呼び戻し、犠牲者たちを生き返らせた
これが太陽と月が人の形を取り、半分人間になったときに、起きたことである。

『神話論理3 食卓作法の起源』pp467-469, M495 メノミニー 赤い頭

さて、この神話を、下記の図を手元に置きながら読んでみよう。

この神話の冒頭に登場する二項対立関係は「夫婦」である。

夫 / 妻

夫婦といえば、理想的にはお互い助け合い、尊重し合い、食べ物が足りないならば分け合うくらいの対等な付き合いが望まれるが、それは理想である。理想というのは現実ではないから理想なのである。この神話のご夫婦はとんでもない。夫の方は、たくさんの食べ物を手にいれることができるが(今風に言えば高年収男性ということになろうか)、妻はその食べ物をことごく「持ち去って」しまう(今風に言えば「夫は年収3000万円なのに1日30円(うまい棒2本)のこづかい制で、一方の妻は毎日数万円のランチ」といったX(旧ツイッター)火付けの感じだろうか)。そういうことで、夫の方はこの妻と「別れる」ことになる。

さて、ここで私たちの心の底に埋もれた野生の思考を呼び起こそう。
「おこないが悪い妻」とか「ひどいあつかいを受ける夫」といった主語を、蛇が皮を脱ぐように捨て去って(もちろん、私たちの感覚と感情はこういう主語たちの虜になりがちで、それゆえこういうの利用すると炎上型SNSビュー数集めも容易いのであるが)、夫が手にした獲物を妻が「持ち去る」、結婚していた二人が「別れる」という述語に注目しよう。

獲物の「持ち去り」によって、夫と獲物の結合は分離に転じ、妻と獲物の関係は分離から結合に転じる。

<夫> ー分離ー <獲物> +結合+ <妻>

そして夫婦が別れることになるということも、(そもそもなぜ結婚したのかは不明だが)いちおうすでに結婚=結合しているところが、結合から分離に転じようとしている。

伸縮!

さて、この神話、ここから見事な「伸縮」を展開する。
まず夫は、獲物の「毛の白いシカ」を「木に吊るす」。
妻はいつも通り獲物を持ち去ろうとするが、高いところに吊るされた獲物に届きそうで届かない。ぴょんぴょんとジャンプする姿は、獲物の毛白鹿と妻との間の距離が伸縮することそのものである。おもしろい述語の様相である。

そうして妻が、獲物との間の距離を上/下の垂直方向の軸で伸縮させている間(いつもなら妻は簡単に獲物を奪い取ってしまうので、妻と獲物のあいだの距離はゼロであるが、この日は違うのである)、すかさず、夫は妻から「逃げ出す」。夫と妻のあいだの距離が遠/近の水平方向に「伸びる」のである。

しかし、すぐに妻による夫の追跡が始まる。一度伸びた両者の間の距離は、再び「縮む」。

ここから日本の昔話「三枚のお札」にもあるような、鬼ごっこの描写がでてくる。鬼ごっこは逃げるものと追うもの、二者の間の距離を伸縮させる遊びである。夫は「呪術による障害物」を用いて、妻との間の距離をながくながく伸ばす。夫と妻の間の距離の伸縮は、一度ながーく伸びて、両者は分離する。

しかし、妻の追跡は続いている。やがてまた両者の距離は縮まり、夫は妻に追い付かれることであろう。

その時、主人公の狩人は「熱心に肉を焼いている男(太陽)」に出会った。

太陽というのは、通常は高い空にいるはずで、地上でバーベキューをしているオヤジであるはずがない。しかしここは神話である。通常ぴったりと結合しているはずの夫/妻の間の距離が最大限に伸びるとなると、これとバランスをとるように、別のところで、通常遠く分離している二者(今の場合は太陽と地上の狩人)の間の距離が最小限に縮まるということが起きる。

神話のβ四項の脈動においては、あちらが分離すればこちらが結合し、こちらが結合すれば彼方が分離する、といったバランスが常に効いている。

天の太陽と地上の狩人という、経験的にははっきりと分離されている二者の間のほとんど唯一の共通点(同じようなところ、似ているところ)は「肉を焼く」ということである。この一点で、太陽と狩人はその距離を縮める。

一本の紐状の肉の両側からたべはじめる

さて、ここでとてもおもしろい描写が登場する。

山姥、いや、妻が迫ってきたのである。

太陽は「長い腸をできるだけひっぱって伸ばして、そのいっぽうの端を食べ るように、自分も反対側から食べるから」と狩人に命じる。

太陽ー(腸)ー狩人

太陽=食べる> (ーのーびーたー腸ー) =<食べる= 狩人

太陽+(接吻=接合)+狩人

まず、ごちゃっとまとまっているであろう「腸」を、「できるだけ引っ張る」という動きが出てくる。実にあからさまな伸ばし」である。そうしてわざわざ一旦伸ばしたところで、今度は伸びた両端から二人の男が食べていく。

そうしているところに、恐ろしい山姥、いや、妻が迫ってきくる。

あわや!というところで、ついに太陽と狩人は、一本の長く伸ばされた腸を半分づつ食べ終わり、「ふたりの会食者の口は合わさる」ことになる。結合である。

太陽と狩人という、通常分離されているところが過度な結合に縮んだとなると、逆に、通常結合されているところ、すなわち夫と妻のあいだが過度な分離へと伸びるはずである

太陽は獲物の熊の上に主人公を跨らせ、まとめて抱えて「浮上」して天へと昇る。地上ではようやく追いついた妻がひとり取り残され「嫉妬で怒り狂っている」とわざわざ宣言する。

嫉妬というのは、自分が持たないものを欲しがること、自分と分離しているものを自分と結合するように転じたいと望みつつ、うまくいかないと地団駄をふむようなことである。嫉妬も立派な「伸縮」の述語である。

ちなみに、この嫉妬による伸縮が重点的に分析されているのが、『神話論理』の続編にあたる『やきもち焼きの土器つくり』という本である。今の様子だと、三年後くらいにこの記事の続きで『やきもち焼きの土器つくり』を分析することになると思うので、お楽しみに。

天上での伸縮、彼方で縮んで此方で伸びて

さて、主人公は恐ろしい妻から逃げて、めでたしめでたし…とは行かない。太陽によって天界に連れてこられた狩人は、ここでも伸縮を演じることになる。

まず、太陽の姉妹と狩人との関係がおもしろい。

太陽は狩人を「友達」のつもりで天に連れてきた。
しかし、太陽の姉妹は人間の狩人を嫌い、太陽が見ていないところで狩人に酷い扱いをした。客人として招待されてきたのに、酷い目に合わされる。

狩人は天界のきょうだいの「友であると同時に敵」という敵/味方の二項対立の両極のあいだを激しく行ったり来たり、振幅を描く状態になる。

この状態である時、主人公の狩人は自分を「背負ってくれ」と頼んでくる神(超自然的保護者)と出会う。背負うと言うのは背負っている者と背負われている者との間の距離が最も縮んだ過度な結合状態である。

両義的媒介項のペアで、一方が他方の背中に乗って離れなくなる、という結合の様相はさまざまな神話で出てくる。たとえば『神話論理3 食卓作法の起源』の基準神話であるM354「トゥクナ 狩人モンマネキとその妻たち」が参考になる。

第一の二項対立において過度な結合の状態にあるものは、別の第二の二項対立において過度な分離の状態を作り出すことができる。謎の神を背負った状態の主人公の狩人は、いわば自在な分離力=二者の間を伸ばして引き離す力を得ているということになる。

じじつ、神を背負った状態の狩人は、「太陽の姉味の愛人」たちを次々と倒し、その身体から「頭皮」を分離する。そうして集めた「頭皮」はまとめて太陽にプレゼントされる。そして太陽はこの頭皮たちで外套をつくり、着用した。太陽が外套を着用するということは、つまり放射される熱や光を遮って減らす、ということである。

この太陽はバーベキューをするために地上に降りてくるような太陽であり、つまりこの神話の時空では天/地の区別はまだはっきりと確定しておらず、地上は太陽が支配する天界に近く、つまり太陽の熱で暑すぎる世界であったということになる。この暑すぎる太陽が外套を着用することで、地上と太陽の支配する天界との間に遮るものがはいってくる。地上と、太陽が支配する天界との間は分離され、しかし天地の距離は伸び切ってしまうことなく、適度に付かず離れずにバランスしている。

ここに、天/地の伸縮の脈動は定常波として安定化されることになったのである。

また太陽の姉妹が狩人を罵る言葉もおもしろい。「なんて臓物だらけの醜いやつだ。おまえの腹の中でくねくねとぐろを巻いているのが見えるわ」というのであるが、これは先ほど、太陽と一緒にながく伸ばして食べた腸が、またごちゃっとまとまって、伸びていない状態(縮んだ状態)になっているということである。太陽の姉妹は、狩人の「縮んだ状態」に言及することで、彼を分離しようと(彼との距離を伸ばして引き離そうと)する。

地上での伸縮:太陽の姉妹と主人公の分離と結合

ここで、10人の愛人たちを奪われた太陽の姉妹は、主人公の狩人に「言いよる」。彼の背に乗っていた神はこの誘惑に警戒するよう助言するが、しかし、狩人はどうしたことか太陽の姉妹と結婚してしまう。

敵対し過度に分離していたはずのところが、一挙にひっくり返って、結合に転じたのである。

このあたりは経験的常識的な理解では「なんで?」と思うところであるが、神話は要するに、分離を結合に転じ、結合を分離に転じつつ、分離する距離が伸びすぎないように、結合する距離が縮みすぎないように、調整していく、ということをやりたいのである。

そして、狩人と太陽の姉妹との間に、二人の子供、息子と娘が生まれる。

主人公 / 太陽の姉妹
||
息子 / 娘

うまくおさまった四項関係が見えてくるが、ここでも激しい伸縮が起きる。

まず、息子が、この四人家族から分離され・引き離され、おじである太陽とともに天で暮らす。一方で狩人と太陽の姉妹と二人の間の娘の三人は、地上に降りて暮らす。四人家族が一人と三人で、天地に分かれる。

天 / 地
||   ||
1 / 3

ただしこの四人が一と三に分かれているという、アンバランスなところに注意が必要である。つまりここではまだ、安定した四項関係、つまり安定的に人間にとって意味のある世界は、まだ生じていないのである。

* *

まず、天でトラブルが起きる。

太陽は、おいを「自分の代理」にしようと訓練した。
つまりおいを、太陽と同じものにしようとしたのである。
この試みは最初はうまくいくが、しかし、おいが「弧を描く」太陽の旅のコースを逸脱してしまったことで、破綻する。

こうして太陽が支配する天界と地上界の間の距離の伸縮は、いつも一定の幅ではなくなり、伸びたり縮んだり、つまり夏と冬の違いがあるものとなった。

* * *

次に、地上でトラブルが起きる。

太陽の姉妹は、彼女に嫉妬して悪口をいう地上の女たちを、睨みつけて倒してしまった。星に睨まれて人間が命を落とすというのは天上の支配者である太陽の望むところではなかった。

太陽は、地上に降りていた姉妹と、その夫と(つまり太陽と一緒に一本の腸を食べた友達である狩人)と、その娘の三人をまとめて天に呼び戻した。

そして犠牲になった人間たちを復活させた。

しかしこれ以後、天界の星々が人間の姿に変身して、地上に降りてくることは無くなったのである。

天地の伸縮の幅の定常化である。

こうして、Δ四項の距離が周期的に伸縮する状態、つまりこの現世の安定性、確かさが、生じた(起源した)のである。めでたしめでたしである。

両義的媒介項同士の距離の伸縮に注目

見事な分離と結合の分離と結合、近づいたり(距離を縮めたり)遠かったり(距離を伸ばしたり)する動きを見せる両義的媒介項たちであるが、よく見るとその項自体は、必ずこの伸縮の両端に姿を現していることがわかる。

例えば、一本の伸びた腸の両端に、天から地へ降りたβ太陽と地から天へ登ろうとしているβ人間がいる、といった具合である。

両義的媒介項たちは、伸縮する動きの最大値と最小値の間を結ぶ直線上で、ペアを構成する。そしてさらに、この両義的媒介項のペアが二つ交わって、四つの両義的媒介項の間での伸縮を描く。

β 両性具有
β 頭と同じくらいの大きさに腫れ上がった足の親指
β 女性に変身した男性(半男半女)
β 二分された頭をもつ人物

レヴィ=ストロース氏は『神話論理3 食卓作法の起源』でここまでの間に登場したさまざまな両義的媒介項を並べつつ(p.462)、それらがいずれも、ペアになってその距離を伸ばしたり縮めたりする動きを見せつつ、過度な分離(遠すぎる伸びきり)と過度な結合(近すぎる収縮)のどちらも避けつつ、適度に付かず離れずの振幅を描き続けるように、振幅が定常化することを目指して動いていることを指摘する

上掲の神話の異文ともとれる神話について、レヴィ=ストロース氏は次のように書いている。

「[…]ここでは頭皮と経血だけをとりあげているが、これは四つの項を持つより複雑な集合に属するものであることを言っておかなければならない。じっさい、この神話群はもうふたつの項を介入させている。ひとつは妻の頭のふけで、これは小さな頭皮とも言えるが、もうひとつは貪欲で邪悪な妻が食べたがる獲物の肝臓である。 アメリカ大陸には経血が肝臓に由来するとの考えがあることはすでに述べた。」

レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.463

四つセットのβ項にはさまざまなパターンがある。
この引用にある「妻の頭のふけ」「獲物の肝臓」「頭皮」「経血」という名詞、主語を眺めていても「これはなに?」という感じしかしない。

が、これらの項たちがペアになっているということ、そして真逆に対立するような動きを触発するということがわかると、途端に神話の論理の生き生きとした動きが見えるようになる。

「(敵から奪った)頭皮」と「妻の頭のふけ」は対立関係にある。
また、「経血」と「獲物の肝臓」も対立関係にある。
そしてこの対立は、抽象度を上げていくと要するに、分離から結合に向かう動きと結合から分離に向かう動きの対立なのである。

分離から結合に向かう動き。
結合から分離に向かう動き。

この二つの対立する動きの担い手として、一見すると謎でしかない経験的所与のものたち(妻の頭のふけ」「獲物の肝臓」「頭皮」「経血)が連れてこられているのである。

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次回はこうした振動する四項たちについて、詳しく読んでみよう。


つづく



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