見出し画像

振幅変調波を観測するように -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(94_『神話論理3 食卓作法の起源』-45)

クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』”創造的”に濫読する試み第94回目です。『神話論理3 食卓作法の起源』の第六部「均衡」を読みます。

これまでの記事は下記からまとめて読むことができます。

これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。


はじめに

この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」を、空海が『吽字義』に記しているような二重の四項関係(八項関係)のマンダラ状のものとして、いや、マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たちが共鳴する”コト”と見立てて読んでみる。

経験的な区別が概念の道具となる

レヴィ=ストロース氏は大部の神話論理の冒頭に次のように書いている。

生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせ命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理1 生のものと火を通したもの』p.5

経験的感覚的な区別(分別)を概念の道具として、観念を抽出する。つまり分別同士を重ね合わせて意味分節する。そしてこの観念を繋ぎ合わせる(意味するものと意味されることとの一対一の静的ペアをリニアに連鎖させる)。それが「どのようにしておこなわれるか」。

この「どのように」をモデル化するひとつの試論としてマンダラ状の意味分節システムを生成消滅する脈動(伸縮)ということを考えてみると、概ね以下のような具合になる。

即ち、神話は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜Δ4を分けつつ、過度に分離しすぎない程度に付かず離れずに結んで安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指す。

Δ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別される項である。例えば、

Δ1 暑い / Δ2 暑くない
||       ||
Δ4 わるい / Δ3 わるくない

といったことである。私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界とは、ほぼすべて、このような二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている

意味分節システムの四項関係

私たち人類は、というか、そもそも生命体は、物心ついた瞬間に「経験的区別」を実行するための機械のようなものになっている。

自/他
生/死
好き/嫌い
内/外
因/果
ある/ない
うまい/まずい
高い/安い
遠い/近い

ここで人類の場合、特にこの二項対立たちの重ね合わせ方を自在に変容させたり、重ね合わせる「向き」をくるくると回転させたりすることができる。そうすることで、直接の感覚的な区別の印象の連鎖を超えて、対立関係の対立関係として組み立てられた「意味」ということを自在に新たに生み出すことができる

とはいえ、私たちの日々の言語は、出来合いの(つまり習慣化した)対立関係の対立関係、四項関係からなる意味分節の最小単位を、しばしば自明なもの、すでに端的にあるものとして扱いがちである。そこでは言語は分別された感覚的印象の二極それぞれに貼り付けられる分類済みのラベルようなものに頽落している。そこで言語は感覚的に決まりきった、止まっているように觀じられる「ある/ない」「自/他」「内/外」を反復する。

私たちの自覚的な意識、仏教でいうところの分別心は、固まった二項対立関係を重ねたり繋いだりして、自分とその周囲の世界との意味を感じ、思考し、言語化しながら生きる。

うまい / まずい
||     ||
好き / 嫌い

自 / 他
||   ||
果 / 因

ところが、人間というのはおもしろいもので、ふと、あれこれの二項対立がなぜどうしてそのように分かれているのか、と疑問を抱くことがある。

「人間と、人間以外の動物は、なぜ違うのか?」

「世界が天と地に分かれているのはなぜか?」

「この世に、善と悪があるのはなぜか?」

「生と死が分かれているのはなぜか?(なぜ人は死ぬのか)」

このように問うときに、二項対立の自明性は一瞬、ゆらぐ
こういう問いは、分かれる前、分かれてくる途中、分かれつつある途上、分かれているでもなく分かれていないでもない、ということを暗に思考しようとしている。

通常、表層の意識はこういう疑問に対して、「人間とは服を着るものであり、人間以外の動物は服を着ないものである(人間はΔzであり、非-人間は非-Δzである)式に、別の二項対立関係に言い換えていって「分かった」と思えるようにする。このやり方だと、一瞬揺らいだある二項対立の自明性も、すぐに、別の二項対立のもとで固められてしまう

人間 / 人間以外の動物
||  ||
Δz1 / 非-Δz1
||  ||
Δz2 / 非-Δz2
||  ||
Δz3 / 非-Δz3
||  ||
Δz4 / 非-Δz4
||  ||
Δz5 / 非-Δz5
||  ||
・・・
||  ||
Δz1→∞ / 非-Δz→∞

こういう具合に二項対立を置き換え続けて、どこかで「もうこれ以上は置き換えられないよ」という終端装置的二項対立に出会い、「分かった(疑問の余地なく分別できた)」と納得したような感じになる。

しかし、その終端装置もまた仮のものであって、この仮の終端を取っ払ってしまえば、いつでもまた二項対立の連鎖生成が再開するのだと気づいてしまった時、人類の思考は<<そもそもあらゆる二項対立が二項対立として分かれつつ結ばれているということ自体がどこからきたのか>>と問うようになる。

対立関係そのものが分かれ出てくる動き

この問い、対立二項の分離と結合や、規則的な交代が、いったいどうして存在することになったのか?という疑問に対して、神話を語る「野生の思考」対立関係がまだ分かれていないところから分かれ出てくるプロセスを言語的、イメージ的に描き出すことで、応えようとする

このプロセスが一体「どのように」動いていくのかをモデル化するひとつの試論として、マンダラ状の意味分節システムを生成消滅する脈動(伸縮)ということを考えてみることができる。

人類が経験的感覚的に生きている意味ある世界は、二項対立関係を二つ組み合わせた四項関係を最小構成単位として織りなされている(意味分節されている)ものである

Δ / Δ
||   ||
Δ / Δ

例えば、

人間  動物
||     ||
服を着る  服を着ない

これについて「野生の思考」は「/」と「||」の動きに注目して、Δ二項対立とその重ね合わせのはじまり(起源)を思考する。Δ1〜Δ4を区別できないところからはっきりと区別できる状態にまで切り開き分けつつも、バラバラに飛び散ってしまわないように結びあわせ、しかし過度にくっつきすぎて区別できなくなることはないように均衡させておくということが、私たち人類にとって意味ある世界が意味ある世界であるために必要な意味分節の最小構成単位(二重の二項関係=四項関係)をつくる動きである。

この「/」と「||」の動きを説くために、神話として現れる「野生の思考」は、Δ1〜Δ4を分離しながらも結合し結合しながらも分離するように動き回る四つの媒介者たちを登場させる。

先ほどの図で言えば、四つのΔたちの間に挟まって描かれている、四つのβ。この四つのβがΔたちを分けつつつなぐ媒介項である。

/ 
||    ||



β
β    β
β 

「/」と「||」は同じ動きの二つの異なる様相である
すなわち「/」は伸縮の「伸」の方に対応し、
「||」は伸縮の「縮」の方に対応する

両義的媒介項同士がくっついたりはなれたり

両義的媒介項(仮にβと表記しておく)は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている

いうまでもなく、そのようなものたちは、私たちの経験的感覚的には「存在しない」。この経験的感覚的には「存在しない」ことをあえて言語化することが野生の思考にとっては重要なのである。神話は、そもそも何かが「存在する / 存在しない」を分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。つまり何かが存在するとか存在しないとか、そういう分別ができるようになる「手前」のことを思考しているのである。

そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。

両義的媒介項たちの距離の伸縮を表現する述語

お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つのβ項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。

  • 任意のβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり縮んだり

  • 任意のβ二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり縮んだり

  • 2または3、または4つの任意のβ項が中央の一点に集まったり広がったり

という具合に、β項間の距離を伸縮させる振動(振幅を描く動き)が起こりる。

この振動のある種の共鳴状態として、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力がバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、正方形を描くように均衡した四つのβ項のあいだに、そのβ正方形の「辺」の部分をなす四つの領域が、安定的、反復的に広げられ続けるようになる。

ここに四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。そこにΔ項が収まる。

ここに私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される

私たち一人一人にとっての意味ある世界は
対立関係の組み合わせとして
分節されたものである

私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その名、その主語的なあり方(Δ、「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれらの主語的なものたちは、あくまでも伸縮を自在にする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である

主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている

私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている

分別心の表層意識に浮かぶ所与の諸要素たちをかっちりとした構造体として配置したように感じられる意味分節システムは、実は脈動する波の伸び縮み(周期的に反復される振動の周期T[s]が伸び縮みすること)を瞼を細めて薄目で眺めたようなものである。

神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験すること可能にしている分別(ふんべつ)、あるいは意味分節のパターンが、あれこれさまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にするし、またそうした分別、意味分節のやり方を相当程度自覚的に自在に組み立てることをも可能にするのである。

**

仏教では、私たち人間は、諸々の区別、分別をしながら、この二極のどちらか一方だけを選び結合し、他方を捨てて遠ざけたい、と願いながらも、その願いは決して叶わないということで苦しむのだと説く。

私たちの自覚的な意識、仏教でいうところの分別心は、「分離と結合の動きが止まる」ところで生じた。しかし、この「分離と結合の動きが止まる」というのは、止まっているようにみえているだけで、じつは「分離と結合の弱い様相転換の反復」(輪廻とか縁起とか)さらには「分離と結合の強い様相転換の反復」(法界の音声)が動いているんだよね、というのである。

ただこの動いている様子は経験的感覚的な分別心(識ということになるのだろうか)ではうまく捉えられないので、止観したり、三密加持したり、いろいろな方法で感覚のモードを超感覚的に組み換えることで自在に觀じてみようよ、という話になる。

分別された二項対立を眺めつつ、「どうもおかしい、はっきり分けられない、分からないぞ、どうしよう」という焦る様な思いに駆られた時に、人類はその言語的思考によって分離と結合の動きが止まる」を「分離と結合の強い様相転換の反復」に転換し、これをさらに「分離と結合の弱い様相転換の反復」に転換する力がある。

そしてまた「分離と結合の弱い様相転換の反復」の様相から「分離と結合の強い様相転換の反復」の様相へ、そして「分離と結合の動きが止まる」現世のあり方を、つど新たな様相で、言語的意味的に分節しなおすことができるのである。 こういうことを古来より人類は、神話を語り聴くことを通じて連綿とやってきているのである。

そしてそういう語りの言葉を動かしてきたのは、振幅の幅を伸縮させるような動きを語る述語たちなのであった。


分離と結合の様相の対立

前回の記事の最後では、両義的媒介項を「主語」としてのみ見ていてはいけないということ、両義的媒介項は所与の即自的実体ではないことを論じた。

両義的媒介項はその主語としての様相に、しっかりと述語的様相をともなっている。

両義的媒介項の述語的様相は(1)縮んだ振幅を伸ばしていく動き、(2)伸びた振幅を縮める動き、(3)振幅を一定に保とうとする動き、という、三つの動きのあいだの様相の転換として、両義的媒介項たちが繰り広げるあちらで分離したり、こちらで結合したり、という姿で語られる。

重要なことは、(1)縮んだ振幅を伸ばしていく動き、(2)伸びた振幅を縮める動き、(3)振幅を一定に保とうとする動き、この動きのあいだの転換を担うことができるのであれば、その動きの主語となる項はなんでもよいということになる。

前回の記事に登場した、伸縮する述語が仮に纏う主語として「妻の頭のふけ」「獲物の肝臓」「頭皮」「経血」という一見謎の経験的所与のものたちが駆り出されてきていた。それに続く一文で、レヴィ=ストロース氏はまた別の主語に言及している。

頭皮遠くあることの範疇に、陰毛は近くあることの範疇に属し、これは太陽が空の遠くに位置し、石がすぐ近くの大地上に位置するのと同じである。神話はこの並行関係を利用してトロフィーたる首を男女の兄弟姉妹がおたがい相手の近くにいる方法とし石をそれとは対立する結果をもたらす方法としている。けれどもまた神話は、太陽と月はおたがいほどよい距離を置いており、女が頭皮やパートナ―の陰毛を望むかわりに、熱心に彼のモカシンに刺繍する場合には、男と女も同じように距離を置いている、とも言っている[…]」

レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.465

唐突に「陰毛」などいう言葉が出てくると、淑女紳士諸賢のご不興をこうむるところかと思うが、これはそういう神話が記録されているので客観的な報告資料として対峙してほしい。

ちなみに陰毛が登場する神話「M493a メノミニー 罠にかかった太陽 (1)」については下記の記事で詳しく分析しているので参考になさってください。

六人家族のインディアンがいた。
父、母、四人の子供(三人が男の子で、ひとりが女の子)である。

男の子たちは三日続けて狩りに出かけた。
一頭のクマを持ち帰った。
父親は二頭要求した。
つぎに三頭、それから四頭と、 要求はつぎつぎ増えた。



一番下の弟が家に残り、上のふたりはふたたび狩りに出かけたが、クマたちがふたりを捕らえた
父とは母は彼らを探しに出かけたが、クマの犠牲となって死んだ

下の弟は妹と家に残っていた。
彼は兄たちを見つけたいと思い、クマたちのところに行き、火を使ってクマたちを退治した。火はクマたちの姉妹からもらったものだった。

メスのクマの態度はあいまいという以上のものだっ た。
そして主人公はクマによって半分動物の姿に変えられていた兄たちを人間の姿にもどした

**

彼の手柄に対する褒美として妹はビーバーの毛皮で美しい外套をつくって何色にも塗ったヤマアラシの針で刺繍した。
しかし、ある日、ひなたで少年が眠っているあいだに、太陽の熱が外套をだいなしにしてしまった。

怒った彼は妹に陰毛を一本くれと言い、それで輪差をつくり、太陽を捕えた太陽は首をしめられた。夜の闇が大地をおおった

太陽の救出を求めるさまざまな動物の声に応じ、やっとネズミが太陽の救出に成功した

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』pp.449-450
M493a メノミニー 罠にかかった太陽 (1)
太陽を捉えて地上に引き下ろす様子を感覚的なものたちを配置して描こうとするとなかなか無理があることになる。

この神話では、主人公が妹に無理を言って提供してもらった一本の陰毛を使って太陽を捉える「輪差をつくる。この主人公の妹の陰毛製の輪差(罠)は、天上の太陽を捕まえて地上に降ろしてしまうほどの強力な、分離しているところを結合に転じる、離れているところを近づける収縮の動きをする。

上の引用箇所でレヴィ=ストロース氏は、頭皮陰毛を「遠くあること」と「近くあること」の対立に重ね、さらに「太陽が空の遠くに位置すること」と「石がすぐ近くの大地上に位置すること」の対立に重ねている。

(遠くの敵から苦労して分離する)頭皮 = 遠くにあること

(近親の妹から容易に分離する)陰毛 = 近くにあること

  • 遠くあること」と言う点で(敵の)「頭皮」と「太陽」は異なるが同じ、イコールの関係で結合する。敵の頭皮はわざわざ危険な旅をして獲得しに行かなければ手に入らないし、太陽は手が届かない高さにいる。

  • 近くあること」という点で(姉妹の)「陰毛」は「大地の上にある石」と異なるが同じ、イコールである。どちらも日々の生活の身近なところに存在はしている。「・・いや、山の上の石は遠いぞ」という意見もあるところだと思うが、この場合「大地の上にある石」が人間にとって近いか/遠いかは絶対的なことではなく、あくまでもこの石が太陽と”異なるが同じ”ペアになった場合の相対的な近さ遠さの話である。遠い空の太陽に比べれば、山の上の石のほうが、人間の世界に近い。

変身する/縫い付ける

さて、神話は

1:(敵の)「頭皮」=/= 異なるが同じ =/=「太陽」

2:(姉妹の)「陰毛」=/= 異なるが同じ =/=大地の上にある石

この1、2、二つの対立関係を「遠くあること」/「近くあること」の対立関係に重ね合わせる。

(敵の)「頭皮」=/= 異なるが同じ =/=「太陽」
||
「遠くあること」

「近くあること」
||
(姉妹の)「陰毛」=/= 異なるが同じ =/=「大地の上にある石」

こうなると、「太陽」と「大地の上にある石」もまた、真逆に対立する二つのものであるがひとつのことにならなければならない。これを神話では、例えば「太陽の子が山の上のなる」と言う具合に、変身系の述語を使って二つでありながら一つにする。下記の記事で分析した「石の子」の神話などがそれである。

また(敵の)「頭皮」と(姉妹の)「陰毛」も、二つに異なりながら一つのことにならなければならないが、これを神話では、例えば「(姉妹の)「陰毛」を戦闘服に縫い付けておくことで(敵の)「頭皮」を奪う戦いに勝利できる」といった具合に、理由は謎だが強い結合作用が働く関係にあるものとして語る。

ここで「(姉妹の)「陰毛」なるものそれ自体に、何か戦士の戦闘力を向上させる効能があるわけではない。

この毛が敵の頭皮を「近くにもたらす」のは、この「(姉妹の)「陰毛」なるものが、下記の四項関係の一角を占めているいるからに他ならない。

(敵の)「頭皮」=〜= 「太陽」
||         ||
〜         〜
||         ||
(姉妹の)「陰毛」 =〜= 「大地の上にある石」

神話は、下記のような両義的媒介項の関係(たがいに近づいたり遠かったり、その距離を伸縮させつつ一即四にして四即一になっている両義的媒介項たちの関係)が振動している、ということを言いたいのである

β=〜=β
||   ||
〜   〜
||   ||
β=〜=β

そうしてこの伸縮の振れ幅がある一定の幅に定常化した時に、相対的に一定のポジションを取り続けるようになった両義的媒介項たちの中間に、Δと表記する、この現世で私たちが現に経験したり感覚したりできる意味ある物事の分別(意味分節システム)が躍り出てくるのである。


Δ

β=/=β
||   ||
 Δ← /    / →Δ
||   ||
β=/=β

Δ

経験的感覚的には、「太陽」や「山の上の石」は、定まったポジションをとっている。つまり経験的感覚的に近からず遠からずの位置を安定して維持しているものである。

また「頭皮」や「陰毛」も、神話の途中では、もともと過度に結合(身体の一部として完全に一体化)しているところから、半ば無理に分離し引き離されて、本来は結合していないはずのところに無理に結合されるわけであるが、一度この分離と結合を通過すると、例えば刺繍に縫い込まれたり、衣装に縫い付けられたりして、安定したポジションをとってこの現世の中に居所を定める。

「妻」と「姉妹」は分離と結合の伸縮の方向が逆

ちなみに、前回の記事でとりあげた箇所では、「敵の頭皮」は「妻のふけ」と対立していた。

それが今回は「妻のふけ」のポジションに収まるものが「姉妹の陰毛」に変容している

それでは「妻のふけ」と「姉妹の陰毛」は単純にイコール、同じものとして置き換え可能なのかといえば、決してそうではない

よく考えてみよう。

  • 妻というのは、夫からみればもともと別の家族に属していたものであり、つまり妻と夫の間の結婚という関係は、もともと分離していたところを結合に転じたものなのである。

  • 一方、姉妹というのは同じ家族である。夫(神話の主人公の狩人)からすれば、姉妹はもともと結合していたところが分離に転じたもの(インセスト・タブーにより男女の結婚という関係においては強く分離されている)である。

この点で、主人公の狩人の男からみれば、「妻」と「姉妹」は分離と結合の伸縮の方向が「逆」になっている。

妻:もともと分離 → 結合
妹:もともと結合 → 分離

容易に分離する / 容易に分離しない

また「ふけ」と「陰毛」も同様に対立している

「ふけ」は、ほとんど何もしていなくても勝手に頭から取れて落ちてくる(分離してくる)ものである。それに対して(姉妹の)陰毛はわざわざ抜いて貰わないことにはそれとして分離してこないものである(もちろん、あらゆる毛は勝手に抜け落ちているはずだが、「誰の」ものだか不明であると、この場合、論理的に意味をなさない)。

分離しやすい / 分離しにくい
||      ||
より弱い力で離/合する / より強い力で離/合する

このような対立関係がある。

以上をまとめると、下記のように真逆に対立する関係がある。

妻の・ふけ分離を結合に転じたところから、弱い力で分離する

姉妹の・陰毛:結合を分離に転じたところから、強い力で分離する

両義的媒介項の述語的様相もまた、それぞれ孤立して単独に存在することはく、対立関係の一方の極として、Aと非Aを対立させる限りで、その一方の側として、区切り出されてくる。

そうして分離/結合を両極とする振動の様相の違い(例えば、分離→結合→分離、と、結合→分離→結合、という位相のずれ)の対立に、それぞれ主語的な様相が覆い被さったところで、その主語を、端的にそれ自体として眺めていると、一体なぜ、あのものとこのものとが対立しているのか、というのが謎になる。

変身

レヴィ=ストロース氏の分析はさらに続く。

それに、諸神話はこの体系を月経に関するひとつの哲学と関連づけている。経血にまみれた主人公は、トロフィーたる首に変身するという条件で姉妹の近くにいることができる姉妹に抱きつかれて汚された主人公 は、十分に遠ざかるには石に変身しなければならない

レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.465

ここでキーワードは「変身」である。
ある主語から別の主語へ、次々とその存在の様式が変容していく

経血は、体内から体外へと出る、つまり内/外のあいだで距離が縮んで結合していた二項の間が二つに分離し距離が伸びていく結合を過度な分離に転じる分離の動きを担う主語であった

この経血と兄が結合する。兄と妹(または姉)は、一つの家族として結合しながらインセスト・タブーにより分離された関係であり、分離しながらも結合し、結合しながらも分離している。

この分離結合不可得な兄と姉妹の間を、強力な分離モードにある「経血」(妹の内/外の「内」側)が移動する。姉妹に一体的に結合していたところから分離した経血が、兄の方に結合する。

この分離モードと結合した兄はその体と頭が分離するほどに引き伸ばされたり、遠くの山の上で動くことのない石になったりする。そうして姉妹たちから適度に(あくまでも経験的な世界の内部で)遠ざかる。

結合(同じ親から生まれる)

分離(成人しインセスト・タブーにより分離)

結合(妹とその「内」にある経血の結合)

分離(妹の内から外へ、経血が分離)

結合(その経血が、兄に結合)

分離(兄は首だけになる。頭と胴体が分離)

結合(首に変身した兄は、妹のそばにいる)

分離(山の上、天/地の「地」から分離し、天地の中間へ)

結合(振幅が狭くなる)から分離(振幅が広がる)へ、そしてまた結合(振幅が狭くなる)へ。結合から分離へ、分離から結合へ。振幅変調波を観測しているようである。

主人公の姉妹 / 主人公の妻

結合→分離 / 分離→結合

男性とその妻との関係は、男性とその姉妹との関係とはになる。

姉妹は、男性の主人公と、もともと近くあったものが分離へと向かう動きを担いつつ、結合しているが分離している、分離しているが結合しているという曖昧な不可得さを振動させている

そして姉妹の内/外で結合/分離のあいだを伸縮する「経血」は、この曖昧で不可得な兄妹関係を、過度な結合と過度な分離の間で激しく振動させる

妹に対して妻は、男性の主人公と、もともと遠くにあったものが結合に向かう動きを担いつつ、分離しているが結合し、結合しているが分離している。妻は、姉妹の場合と反転した不可得な曖昧さを振動させている。

そしてこの場合も妻の内/外で結合/分離のあいだを伸縮する経血が、この曖昧で不可得な関係を、過度な結合と過度な分離の間で激しく振動させ、一時的に分離の相に引き延ばす。特に、妻が月経のあいだ夫のもとから離れるという習慣をもつ人々の場合、妻の経血は実際に夫と妻の一時的な分離、さらには夫側の親族と妻側の親族、二つの親族グループの分離を経験的に実際に引き起こす。

[…]一時的に隔離される生理中の女は、夫に距離を置く。そして、あたかも、この期間、隠喩的に、女は自分の親族の近くに戻るかのようである。したがって、同じグループに属する神話が月経、夫婦間の嫉妬、寡夫状態の起源をすべて同時に創設しようとすることは理解できる。[…]寡夫状態と嫉妬は両端の状態を表わし、その間にあって、生きてはいるが、周期的に価値の減少する女は、ちょうど真ん中にいるのである。頭皮と陰毛の縁飾りという両端の服飾品のあいだに、ヤマアラシの針による刺繍という女の徳のシンボルが位置するのと同様である。また、太陽と石も同様である。太陽の日々の周期性と石の周期性の不在とのあいだにあって、はより豊かでより多彩な形で周期性をしめしているのだから。

レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p465

この伸縮の動きから、寡夫状態(分離から結合に転じて形成された婚姻関係が、再び結合から分離へと転じた状態)が生じたり、夫婦間の嫉妬が生じたりする(嫉妬というのは分離しているところを結合しようとすることであるが、夫婦間の場合、すでに結合しているのに、それをさらに過度に結合しようとする)。そういうわけで「寡夫状態と嫉妬両端の状態」ということになる。

結婚という分離から転じて成り立っている結合を、過度な分離に転じるのが「寡夫状態」であり、過度な結合に転じるのが「夫婦間の嫉妬」である。

そして、経血によって一時的に夫のもとから分離する妻の在り方は、「寡夫状態」と「夫婦間の嫉妬」のちょうど中間に位置する。

寡夫状態:分離と結合の強い様相転換の反復
 /
周期的に夫から分離する女性:分離と結合の弱い様相転換の反復

夫婦間の嫉妬:分離と結合の動きが止まる

この分離と結合のパターン、
分離と結合の強い様相転換の反復
分離と結合の弱い様相転換の反復
分離と結合の動きが止まる
この振幅を描く振動の三つの様相の組み合わせは、

(敵の)頭皮分離と結合の強い様相転換の反復

(ヤマアラシの針による刺繍)
分離と結合の弱い様相転換の反復

(姉妹の)陰毛の縁飾り:分離と結合の動きが止まる



太陽(周期性有り)
分離と結合の強い様相転換の反復

(月)
分離と結合の弱い様相転換の反復

山の上の石(周期性なし):分離と結合の動きが止まる

といった振動の程度の差に対応する。


+ + +

かなり込み入った話で、これは何をやっているのか意味不明に思われるかもしれないが、私がこの記事で試みているのは下記の図を念頭に、下記の図の中に描かれているβ、Δの各項と動きを表現する述語(図中では仮にΓと書いているが、特にどう書かなければならないということはない)を、経験的に意味ある世界における諸区別と、その区別の両極の間を伸縮する動きの中から探し出して配置していっているのである。

下記のイメージを常時観想しながら神話も読み上げてみると、リニアな言葉がリニアな言葉のまま宿業のもつれを緩めることができるのである。


つづく



関連記事




いいなと思ったら応援しよう!

way_finding 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 いただいたサポートは、次なる読書のため、文献の購入にあてさせていただきます。