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月と容器/赤い靴下と白い頭 -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(95_『神話論理3 食卓作法の起源』-46)M499「ふたつの月」にみる述語の伸縮

クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』”創造的”に濫読する試み第95回目です。『神話論理3 食卓作法の起源』の第六部「均衡」を読みます。

これまでの記事は下記からまとめて読むことができます。

これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。

今回の記事はひとつの神話を分析するだけで2万字ほどになってしまい、読むのが困難です。そこでAIによる音声解説をご用意しました。


はじめに

この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」を、空海が『吽字義』に記しているような二重の四項関係(八項関係)のマンダラ状のものとして、いや、マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たちが共鳴する”コト”と見立てて読んでみる。

経験的な区別が概念の道具となる

レヴィ=ストロース氏は大部の神話論理の冒頭に次のように書いている。

生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせ命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理1 生のものと火を通したもの』p.5

経験的感覚的な区別(分別)を概念の道具として、観念を抽出する。つまり分別同士を重ね合わせて意味分節する。そしてこの観念を繋ぎ合わせる(意味するものと意味されることとの一対一の静的ペアをリニアに連鎖させる)。それが「どのようにしておこなわれるか」。

この「どのように」をモデル化するひとつの試論としてマンダラ状の意味分節システムを生成消滅する脈動(伸縮)ということを考えてみると、概ね以下のような具合になる。

図1

即ち、神話は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜Δ4を分けつつ、過度に分離しすぎない程度に付かず離れずに結んで安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指す。

Δ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別される項である。例えば、

Δ1 暑い / Δ2 暑くない
||       ||
Δ4 わるい / Δ3 わるくない

といったことである。私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界とは、ほぼすべて、このような二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている

意味分節システムの四項関係

私たち人類は、というか、そもそも生命体は、物心ついた瞬間に「経験的区別」を実行するための機械のようなものになっている。

自/他
生/死
好き/嫌い
内/外
因/果
ある/ない
うまい/まずい
高い/安い
遠い/近い

人類の場合、特にこの二項対立たちの重ね合わせ方を自在に変容させたり、重ね合わせる「向き」をくるくると回転させたりすることができる。

Δ1 / 非-Δ1
||  ||
Δ2 / 非-Δ2



Δ1 / 非-Δ1
||  ||
非-Δ2 / Δ2

そうすることで、直接の感覚的な区別の印象の連鎖を超えて、対立関係の対立関係として組み立てられた「意味」ということを(「Δ1はΔ2である」と「Δ1は非-Δ2である」とを同時に)自在に生み出すことができる

ー ー ー

とはいえ、私たちの日々の言語は、出来合いの(つまり習慣化した)対立関係の対立関係、四項関係からなる意味分節の最小単位を、しばしば自明なもの、すでに端的にあるものとして扱いがちである。そこでは言語は分別された感覚的印象の二極それぞれに貼り付けられる分類済みのラベルようなものに頽落している。そこで言語は感覚的に決まりきった、止まっているように觀じられる「ある/ない」「自/他」「内/外」を反復する。

* *

ところが、人間というのはおもしろいもので、ふと、あれこれの二項対立がなぜどうしてそのように分かれているのか、と疑問を抱くことがある。

「人間と、人間以外の動物は、なぜ違うのか?」

「世界が天と地に分かれているのはなぜか?」

「この世に、善と悪があるのはなぜか?」

「生と死が分かれているのはなぜか?(なぜ人は死ぬのか)」

このように問うときに、二項対立の自明性は一瞬、ゆらぐ
こういう問いは、分かれる前、分かれてくる途中、分かれつつある途上、分かれているでもなく分かれていないでもない、ということを暗に思考しようとしている。

対立関係が分かれつつある動き

人類の思考が、あらゆる二項対立が二項対立として分かれつつ結ばれているということ自体がどこからきたのか対立二項の分離と結合や、規則的な交代が、いったいどのようにして動いているのか、と問うようになったとき、世界の起源神話を語る「野生の思考」対立関係がまだ分かれていないところから分かれ出てくるプロセスを言語的、イメージ的に描き出すことで、応えようとする

このプロセスが一体「どのように」動いていくのかをモデル化するひとつの試論として、マンダラ状の意味分節システムを生成消滅する脈動(伸縮)ということを考えてみることができる。

人類が経験的感覚的に生きている意味ある世界は、二項対立関係を二つ組み合わせた四項関係を最小構成単位として織りなされている(意味分節されている)ものである

Δ / Δ
||   ||
Δ / Δ

例えば、

人間  動物
||     ||
服を着る  服を着ない

これについて「野生の思考」は「/」と「||」の動きに注目して、Δ二項対立とその重ね合わせのはじまり(起源)を思考する。このΔ1〜Δ4を区別できないところからはっきりと区別できる状態にまで切り開き分けつつも、バラバラに飛び散ってしまわないように結びあわせ、しかし過度にくっつきすぎて区別できなくなることはないように均衡させておくということが、私たち人類にとって意味ある世界が意味ある世界であるために必要な意味分節の最小構成単位(二重の二項関係=四項関係)をつくる動きである。

この「/」と「||」の動きを説くために、神話として現れる「野生の思考」は、Δ1〜Δ4を分けつつつなぐ、四つの媒介者たちを登場させる。

先ほどの図で言えば、四つのΔたちの間に挟まって描かれている、四つのβ。この四つのβがΔたちを分けつつつなぐ媒介項である。

/ 
||    ||



←β→
↓     ↓
β    β
↑     ↑
←β→
 

「/」と「||」は同じ動きの二つの異なる様相である
すなわち「/」は伸縮の「伸」の方に対応し、
「||」は伸縮の「縮」の方に対応する

両義的媒介項同士がくっついたりはなれたり

両義的媒介項(仮にβと表記しておく)は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている

いうまでもなく、そのようなものたちは、私たちの経験的感覚的には「存在しない」。この経験的感覚的には「存在しない」ことをあえて言語化することが野生の思考にとっては重要なのである。神話は、そもそも何かが「存在する / 存在しない」を分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。つまり何かが存在するとか存在しないとか、そういう分別ができるようになる「手前」のことを思考しているのである。

そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。

両義的媒介項たちの距離の伸縮を表現する述語

お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つのβ項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。

  • 任意のβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり縮んだり

  • 任意のβ二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり縮んだり

  • 2または3、または4つの任意のβ項が中央の一点に集まったり広がったり

という具合に、β項間の距離を伸縮させる振動(振幅を描く動き)が起こりる。

この振動のある種の共鳴状態として、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力がバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、正方形を描くように均衡した四つのβ項のあいだに、そのβ正方形の「辺」の部分をなす四つの領域が、安定的、反復的に広げられ続けるようになる。

ここに四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。そこにΔ項が収まる。

ここに私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される


両義的媒介項同士の距離の伸縮に注目して神話の記録を読む

というわけで、『神話論理3 食卓作法の起源』の「オジブワ ふたつの月」という神話を両義的媒介項の動きに注目して読んでみよう。

特に、両義的媒介項のペアがその距離を伸ばしたり縮めたりする、両義的媒介項同士の距離の伸縮について言語化する述語にフォーカスして読んでみよう。

赤い靴下という名のあるインディアンが(父の姉妹の息子である)いとことふたりだけで暮らしていた。

女がいなかったので、自分たちで料理や薪拾いをしていた。

いとこは、男二人の生活が気に入っていて、自分たちはけっして結婚しないと誓って赤い靴下にショックを与えた。



けれどもほどなくこの軽率ないとこは森の中でいくどとなく非常に美しい娘に出会い、恋に落ちた。

しかし、この娘は彼に微笑みかけるとすぐに空へと姿を隠してしまうのであった。仲間の深い悲しみを哀れに思った赤い靴下はその女を探しに行く

女を発見した彼は、女がつたって天に昇ろうとしていたローブを切り、女を連れ帰る。いとこは女と結婚した
女はふたりの男にとって完璧な主婦となる。



冬が来た。
ふたりのいとこが狩りに出かけたある日、赤い靴下に化けた見知らぬ男が小屋に入ってきて、若い女をさらっていった。
女は抵抗したが、遠い村まで連れて行かれた。

その村ではすべてが赤く、ぼろを身にまとった「せむし」たちが女のように石臼で粉を挽いていた。頭が毛のない頭蓋骨になっているこの人さらいは女に、このせむしたちは自分が捕えた女たちの夫であると説明した。

そして女を大きな小屋に閉じ込めたが、その小屋はつるっ禿げの女であふれかえっていた。女はたいそう美しい髪を持っていたが、自分も同じような目 に会うのではないかと恐れ、眠らないようにした。けれども、明け方近くになってうとうとしてしまい、目がさめてみると、自分も禿げていた。

女は泣きながら小屋を出て、あてもなくさまよい、疲労と悲しみで倒れてしまった。

**

そこを通りかかった太陽がわけを尋ね、モミのパルサムと脂を混ぜ水で溶いたローションを塗ってやったので、また毛が生えた

太陽は彼女について来るように、けれども、自分の留守中に年老いた意地悪な妻である月が、彼女を殺そうと するかもしれないから用心するようにと言った。

太陽と月の夫婦はそれぞれ別に旅をしていて、めったにいっしょに家にい ることがないからだった。

太陽が女を家に連れ帰ったときはもう暗くなっていた。
月はまもなく家を出た



* * *

高い空から、はカエデ糖を作るためシロップを鍋に移しかえているひとりのインディアンの女を見た。この仕事の最中に女は尿意をもよおし、手おけをもったまま、夜の月を見ながら放尿した。この無礼な行為に月は腹を立てた。

月は無礼な女を縛り、手おけとともに自分の背負い籠に入れてしまった。

太陽は繰り返される悪意を罰するため、 妻がその犠牲者をいつも背負っていなければならないことにした
これが月の隈の起源である。
そこにはいつも女と手おけがはっきり見て取れる

* * * *

月は、太陽の留守中、何度もその養い子である女を殺そうとした。
太陽は用心するようにといつも言っていたのだが。
月は自然にできた井戸のようなものの中にブランコを使って女を投げ入れることにもう少しで成功するところであった。

けれども女は自分がカミナリたちの庇護を受けていることを思い出した。
彼女がカミナリたちに嘆願すると、カミナリたちは彼女を助けた。

小屋に帰ると彼女は太陽に、本当に妻を愛している のか、と尋ねた。
太陽が否と答えると、女は性悪女をカミナリたちに引き渡し、カミナリたちは性悪女を食べてしまった。
太陽はこんなにもうまく厄介払いができたことを喜んで、女に対して、女が月にとってかわり、人間たちの友となるようにと頼んだ

あるときふたりがいっしょに休んでいると(つまり月のない晩だが)、頭が頭蓋骨になっている男が自分の捕えていた女を取り返そうとやって来た。
しかし、太陽は犬たちをけしかけて追い払った。



いっぽう、赤い靴下のいとこは、妻を探しに出た。足跡をたどり、林の中の空地へやって来ると、せむしたちが、自分たちと同じ運命が彼を待ち受けていることを知らせた。じっさい、魔物が彼との格闘に勝ち、彼の背骨を折ってせむしにしてしまう。
ぼろを着て、すりこぎとトウモロコシの粒の入った袋を持ち、かわいそうな男は、 働くことを強いられた。

赤い靴下はと言えば、いとこが結婚にかけた呪いの言葉と、おそらくは、あの見知らぬ美しい女と結婚しないことによって自分は犠牲を払った、ということもなんどとなく考えていた。

自分たちの不幸はすべてそこから来 ている、と彼は考えた。
そしてひとりの魅力的な女が結婚しようと言ってきたとき、その女をしりぞけ、行方のわからなくなった者たちを探しに出かけた。

彼は悪霊のところにやって来て、格闘で勝ち、悪霊の背骨を折り、その顔を引き伸ばしたそれから悪霊を地下の世界へと追放した。ついで、せむしたちの背中をまっすぐに直し、女たちを解放し、夫婦をまたもとの姿に 戻し、彼らが来たところへ送り帰した。

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』
M499 オジブワ ふたつの月 pp.472-474

なかなか見どころの多い神話である。
とにかく長いが、じっくり読んでいこう。

一方では過度に結合、他方では過度に分離

まず冒頭、二人の男、従兄弟同士である二人の男が、二人だけで生活している。そして、ここに女性がいない、ということが強調されている。

赤い靴下という名のあるインディアンが(父の姉妹の息子である)いとことふたりだけで暮らしていた。

女がいなかったので、自分たちで料理や薪拾いをしていた。

いとこは、男二人の生活が気に入っていて、自分たちはけっして結婚しないと誓って赤い靴下にショックを与えた。

従兄弟同士の二人のうちの「赤い靴下」という名前ではない方のもう一人は、男二人の生活を大いに気に入り、「自分たちはけっして結婚しない」という誓いを立ててしまう。それ対して「赤い靴下」が心底賛同したならば、つまり「赤い靴下」もまた、一生従兄弟と二人だけで暮らすことが望ましいと思うなら、このあとの神話は展開せず、世界も起源しなかったはずである。ところが「赤い靴下」は、従兄弟が一生結婚しないと誓ったことにショックを受ける

  • 従兄弟の方は男二人の結合関係を維持したい。

  • 「赤い靴下」はこの結合関係を分離して、女性と結婚したい。

結合しているところを分離し(赤い靴下と従兄弟の関係)、分離しているところを結合しよう(赤い靴下と、まだ見ぬ女性との関係)とするところに、経験的に意味ある世界が生じる余地が開き始める。


ββ

ここで親族の内/外、男/女、という二つの対立関係について、過度な分離と過度な結合が生じている。

従兄弟という、経験的にも近い関係にある二人の男性が(とはいえ、兄弟ほどには近くない)、二人だけで一緒に暮らすことを堅く決意する、ということで、過度に結合している。

その一方で、男/女の間は、女性がいないということで、経験的な距離よりもはるかに遠く分離している。一方で過度に結合し、他方で過度に分離し、という様相から神話が幕をあける。

つまり、

β(非-女性)・・男
||
β(赤い靴下)=β(従兄弟)








β(女性)

こういう感じに、横軸上ではβ二項が中央の一点に結合して詰まっていて、縦軸上ではβ項たちが遠く遠く、どこへ行ってしまったかもわからないほど分離している状態がある。

これを、下記のように、


β(非-女性)

β(「赤い靴下」) ← × →   β(従兄弟)  

β(女性)

伸びすぎたところを縮め、縮みすぎたところを伸ばすことで、四極が付かず離れずに円周上に均衡した様な、いわゆるマンダラ状のパターンに落ち着かせたい。ここに伸縮する述語的様相が際立ってくる。

分離が結合に転じ、結合が分離に転じる

ここで「β女性」が登場する。

けれどもほどなくこの軽率ないとこは森の中でいくどとなく非常に美しい娘に出会い、恋に落ちた。

しかし、この娘は彼に微笑みかけるとすぐに空へと姿を隠してしまうのであった。仲間の深い悲しみを哀れに思った赤い靴下はその女を探しに行く

女を発見した彼は、女がつたって天に昇ろうとしていたローブを切り、女を連れ帰る。いとこは女と結婚した
女はふたりの男にとって完璧な主婦となる。

結婚をしたいと思っている「赤い靴下」の方ではなく、「一生男二人で…」と誓って憚らなかった従兄弟の方が「いくどとなく非常に美しい娘に出会い」、この娘との結婚を願うようになってしまった。

結婚したくないと言っていたほうが結婚の縁にめぐまれ、結婚したいと思っていたほうが結婚の縁に恵まれない分離しようとするところは結合に転じるし、結合しようとするところは分離に転じる。β脈動の渦中にある神話らしい伸縮のねじれである。

ここで四つのβが描く伸縮のパターンが、先ほどとは異なるものに変容している。

β(非-女性)・・男
||
β(赤い靴下)=β(従兄弟)
      ↑
      |
      |
      |
      ↓
       β(女性)

この娘の「いくどとなく」という反復的に現れたり消えたりする様相も(娘は、赤い靴下の相方の方に微笑みかけては、すぐに空に隠れてしまう)、伸縮、振幅をえがく動きをよく象徴しているように思う。

結合を目指すところが分離し、分離を目指すところが結合し

さて、娘がすぐに姿を隠してしまうので、赤い靴下の相方の従兄弟は、すっかり落胆してしまう。「おいおい、結婚しないと言っていたはずでは?」と指摘したくなるが、この逆転、いつのまにか逆になっている、ということが神話の論理においては極めて重要なのである。一貫して揺るがないΔは、神話の語りの最後におまけのように出てくれば良いのである。

このいつのまにか逆になっている従兄弟が結ばれたいと望む娘は、姿を現したかと思えば、すぐに姿を隠してしまう。
現れたり消えたり。
この見えることと見えないことの間の伸縮はβ項の脈動と呼ぶにふさわしい述語的様相である。

←β従兄弟→・←β娘→

さて、落胆する従兄弟の様子を哀れに思った「赤い靴下」は、従兄弟の代わりに、娘を探し出し、連れて戻る

娘との結婚を望んでいるのは「いとこ」の方なのであるから、いとこの方が自分で娘を探しに行けば良さそうなものであるが、神話はそういうストレートなことには関心がないらしい。結合を望んでいるところが分離したままになり、とりたてて結合を望んでいるわけでもない方が結合したりする。

天/地のあわいを自在に繋ぐロープを切る

「赤い靴下」は、娘が「ロープ」を伝って「天に昇ろう」とすることろで、このロープを切断し(分離し)、娘を地上世界にとどめて、従兄弟のもとへと連れてくる

そうして従兄弟とこの天の娘は、晴れて結婚することになる。

ロープという、天/地の間を結んで、天地の二極のあいだを自在に行ったり来たりするような振幅を描く動きを可能にしていた媒体切断され、天の娘は、ずっと地上に居ることになる。天/地の二極の分離が際立つ。

ここで三人での暮らしが始まる。

β(非-女性)・・男
||
β(赤い靴下)=β(従兄弟)
      ||
                      β(女性)

β男女、β家族の内外、という四つのβが一つに凝集する。

変身 「赤い靴下」であって「赤い靴下」でない

束の間、赤い靴下と、その従兄弟と、天の娘の三者はともに居たが、季節が冬になったところで、この娘は赤い靴下たちのもとから姿を消す。分離する。四βの凝集は、ただちに四βの分離へと転じるのである。

天の娘は「見知らぬ男」に連れ去られる。この「見知らぬ男」は「赤い靴下」に変身して現れた。つまり「赤い靴下」ではないが「赤い靴下」である、という高いβ振動状態にある。

冬が来た。
ふたりのいとこが狩りに出かけたある日、赤い靴下に化けた見知らぬ男が小屋に入ってきて、若い女をさらっていった。
女は抵抗したが、遠い村まで連れて行かれた。

その村ではすべてが赤く、ぼろを身にまとった「せむし」たちが女のように石臼で粉を挽いていた。頭が毛のない頭蓋骨になっているこの人さらいは女に、このせむしたちは自分が捕えた女たちの夫であると説明した。

そして女を大きな小屋に閉じ込めたが、その小屋はつるっ禿げの女であふれかえっていた。女はたいそう美しい髪を持っていたが、自分も同じような目 に会うのではないかと恐れ、眠らないようにした。けれども、明け方近くになってうとうとしてしまい、目がさめてみると、自分も禿げていた。

女は泣きながら小屋を出て、あてもなくさまよい、疲労と悲しみで倒れてしまった。

「見知らぬ男」は、「赤い靴下」の姿に変身して家に入り込み、娘を油断させた。

変身。

「赤い靴下」であって「赤い靴下」でない

この差異性/同一性の両極のあいだで振動する「見知らぬ男」もまた、両義的媒介項である。

先ほど、下記のような図式を書いたが、

β(非-女性)

β(「赤い靴下」) ← × →   β(従兄弟)  

β(女性)

この一番上に「β(非-女性)」という項が収まる位置がある。これは「β(女性)」と記した天の娘と真逆に対立しつつ、その間の距離が、遠く分離した状態から、過度に結合した状態へと転じる傾向をもった項である。「赤い靴下」に変身した「見知らぬ男」は、この「β(非-女性)」の位置に収まる項であろう。

β(非-女性)
「赤い靴下」に変身した「見知らぬ男」

β女性(天の娘)





β(「赤い靴下」)

β(従兄弟)  

ここでβ四項が描く関係はまた一方の軸上で長く伸びる、過度な分離の様相を呈する。


「赤い靴下」と「白い頭」

さて、ここから神話は、天の娘が主役になる。

天の娘は、「赤い靴下に変身した見知らぬ男」と、もともと分離していた状態から転じて、過度な結合状態に入り、一方でもともと結合していた赤い靴下たちの小屋から遠く分離されていく。

もともと結合していたところから分離して、もともと分離していたところと結合する。β伸縮、β脈動ここに極まれり。

* *

さて、ここでβ(非-女性)、人攫いの「見知らぬ男」の姿が明らかになる。人攫いの男は「頭が毛のない頭蓋骨になっている」という姿をしている。

これは「赤い靴下」が、人体の上/下の下端に、着脱容易な「赤い」ものを「結合」した姿をしているのと対立している。すなわち頭皮とは、人体の上/下の上端に不可分に結合している「赤い」ものであるが、この人攫いの場合、この頭皮が頭から分離しているのである。

赤い靴下 :    人体上/下の下端 =容易に後付けされている
     /     /     /
頭が毛のない頭蓋骨: 人体上/下の上端 =激しく剥がされている

赤い靴下と頭が毛のない頭蓋骨、それぞれの姿だけを見ていても、これらが「対立」していることはすぐにはわからないが、しかし述語的な伸縮の様相に注目すると、この両者が異なりながら同じものとして、ペアになっていることがわかる

・「赤い」
・「人体の端についている」
という点で、靴下と頭皮は同じ

「上か下か」
・「もともと分離しているところを後で結合したか/もともと結合しているところを後で分離したか」
・「着脱容易/着脱困難」

という点で、靴下と頭皮は、真逆に異なる。つまり両者はペアをなすβ項なのである。

男/女で短絡

夫/婦で分離

さて、この「頭が毛のない頭蓋骨」の人攫いの村に連れてこられた天の娘は、そこで、攫われてきた男性たちが、(この神話の文脈では)女性の役目とされている仕事に従事しているのを目撃する。

これはつまり野生の思考では、男性が男性のまま女性になっている、ということになる。女性の役目に従事する石臼引きの男たちは、この神話を語る人々にとっての男/女の経験的区別においてどちらか不可得な両義的媒介項と化している。

また、彼らは、妻を攫われた=妻を奪われ、妻から強制的に遠く分離された夫たちであるという。

つまり彼らは、男/女の対立においては男=女にまで短絡されており、夫/婦の対立においては、遠く遠く分離されている。下記のような具合であろうか。

 β男
夫βーーーーーー   ーー  ーー  ーー  ーー  ーーーβ妻
 β女

そしてこの男たちの妻たち、「頭が毛のない頭蓋骨」に攫われた妻たちは、髪の毛がない、まるで男性のような姿で小屋の中に閉じ込められている。ここでも女性が女性のまま男性のようになっているという、男/女の経験的区別がどちらか不可得になっている。

β女性の仕事に従事する男性 / β男性のように頭髪を剃った女性

天の娘も、この小屋に一旦閉じ込められ、気がつくと髪が消えているのであるが、どういうわけだか天の娘はこの小屋から容易に脱出して、「あてもなくさまよう」ことになる。要するに、「頭が毛のない頭蓋骨」の人攫いと結合していると、男女の区別が不可得になるということなのである。

過度に結合(閉じ込め)したかと思えば、過度に分離する(あてもなくさまよう)。過度な分離と過度な結合を両極として、その間で自在に伸縮するのがこのβ脈動モードの両義的媒介項たちの動き方である。


天上界への上昇
分離していたところと結合し
結合していたところと分離し

さて、天の娘が、「赤い靴下」たちからも分離し、「頭が毛のない頭蓋骨」のもとからも分離し、あてどなく彷徨っていると、そこに「太陽」が通りがかる

太陽→ ←天の娘

神話にはよく「たまたま通りがかる」という述語的様相が出てくるが、これこそ分離していたところを結合に転じる、もっともシンプルな述語である。

そこを通りかかった太陽がわけを尋ね、モミのパルサムと脂を混ぜ水で溶いたローションを塗ってやったので、また毛が生えた

太陽は彼女について来るように、けれども、自分の留守中に年老いた意地悪な妻である月が、彼女を殺そうと するかもしれないから用心するようにと言った。

太陽と月の夫婦はそれぞれ別に旅をしていて、めったにいっしょに家にいることがないからだった。

太陽が女を家に連れ帰ったときはもう暗くなっていた。
月はまもなく家を出た

太陽は親切に、天の娘の髪の毛を復活させて、そして自分と一緒に天に昇るように娘を誘う。そして天の娘は天上界で、太陽と月の夫婦のもとで暮らすことになる。この時、髪の毛を復活させる(過度に分離してしまった頭と髪を、適度な結合へと逆転する)特効薬が「もみの木」の樹脂であることを覚えておこう。βもみの樹脂は、次回の記事に登場する「βカエデの蜜」の対立項である。

    β太陽 / β月
||
β天の娘

さて、太陽と月の夫婦は、太陽が家にいる時は妻が不在で、妻が家にいる時は太陽が不在になる、という昼夜の交代のタイミングでは結合するものの、夜の間や昼の間は分離している、という関係にある(自然科学的な天体運動の話ではないのでご注意を)。太陽と月は「めったにいっしょに家にいることがない」。

この「月」(妻)は天の娘に対して悪意をもつ存在として描かれているが、これは太陽と月の描く規則的な振幅の速度の違いを示しているものと思われる。

太陽 ←→/←→ 月
||
夫 / 妻
||
善意 / 悪意

太陽の日々の昼夜交代は規則的であり、年単位で夏から冬へ、強弱を振幅させている。

対して月は、よく観察すれば規則的ではあるものの、太陽に比べると昼夜を問わずに姿を現す。そして月は年単位よりも短い周期で満ち欠け(強弱の振幅)を示す

両義的媒介項
蜂蜜/シロップ

ここになかば唐突に、シロップ作りのエピソードが出てくる。
月がひどい人物だということを強調する文脈である。
いや、実は、このカエデの糖の挿話は唐突ではなく、「βもみの樹脂」で髪と頭の間を過度な分離から適度な(経験的な)結合に転じた、という話の反対側なのである。

高い空から、はカエデ糖を作るためシロップを鍋に移しかえているひとりのインディアンの女を見た。この仕事の最中に女は尿意をもよおし、手おけをもったまま、夜の月を見ながら放尿した。この無礼な行為に月は腹を立てた。

月は無礼な女を縛り、手おけとともに自分の背負い籠に入れてしまった。

太陽は繰り返される悪意を罰するため、 妻がその犠牲者をいつも背負っていなければならないことにした
これが月の隈の起源である。
そこにはいつも女と手おけがはっきり見て取れる

月を眺めつつ、「手おけ」シロップを鍋に移動しつつ、同時におしっこをするという、なんとも不思議な述語的様相をあらわす人物が登場する。

天体を眺めながらおしっこをすると酷い目に遭う、という話はこの神話に限らずしばしばいろいろなところで登場するモチーフである。

シロップ作りは、水分(シロップの材料になる樹液)を、自然界あるいは水界から分離して、人間の文化的な食べ物へと加工する。そのために、水分をその内部に保ちながら火と結合することを可能にする「鍋」が働く。

人間由来の水分を溜めたものを出す
||
βシロップ作りの人物


自然  →  文化
(→加工・移行→)


(β鍋:水×火)
||
自然由来の水分を入れたまま保つ

このβ鍋の周囲で蜜をあちらからこちらに「手おけで移しかえる」、分離の述語の様相を呈している人物が、この彼女自身が手おけや鍋と同様の「水を蓄える容器」(内/外を分別しつつ、水界を非-水界と結合したり分離したりする)であることが強調される。体内に水を蓄えるという点においてである。

しかしこの人物は、鍋と手おけが水分を蓄え保つのと反対に、その逆に、水分を排出するという述語的様相を呈する。人間の内部にある人間由来の水分を、自然界あるいは水界に向けて出していく(分離していく)という動きをしている。

モミの樹脂: 過度な分離を、適度な経験的な結合へと転じる。
カエデのシロップ作り: 過度な結合を、適度な経験的な分離へと転じる

容器 / 中身

月は、この手おけでシロップを木から分離しつつ、おしっこで自分の水分も分離している人物を、ワンセットのまま捕まえて、大きな背負い籠、つまりこれまた内/外を分離する述語的存在のなかに閉じ込める(過度に結合する)。そしてこの結合状態は再び分離することなく固定するそれが月の隈になるのである。つまり、私たち現に生きる人類にとって経験的なこの月に「なる」、この月が起源するのである。

経験的な結合(月と隈の結合)について語る手前で、神話は過度な分離と結合の伸縮を語る必要がある。そして経験的で感覚的に区別できる事柄のなかから、ちょうど良さそうな「過度な分離と結合の伸縮」を探そうとするのである。シロップ取りはそこに御誂え向きである。

鯉が池から逃げている

月という太陽と区別される経験的な項(Δ)が、二つのβ項が結合状態に定常化したところに浮かび上がる

β手おけの女性

Δ太陽 ←  /  → Δ月 

β月

神話は、両義的媒介項をふたつ用意して、この二つのあいだの距離が伸縮する動きを語る(結合から分離へ、分離から結合へ)。そしてこの伸縮の幅、振幅が、一定に定常化したところで、この振幅の振れ幅が区切り出す領域に、あるひとつのΔ項が起源する、と語る

* *

この神話のこのくだりでは、月が過度な分離と過度な結合の両極の間で激しく振幅を描いて動き続ける様を強調したいのである。このβ月と過度に結合されてしまうのがシロップ作り&手おけであるが、このシロップ作り&手おけもまた、月と過度に結合できるためには、月と同じくらいβ的でなければならない。つまり月と同じくらい激しく分離と結合の両極のあいだで伸縮している必要がある。そういうわけで、自然由来の水分である蜜を蓄えて濃縮しながら、同時に反対の動き、人間由来の水分を蓄えずに排出するという動きを呈するとよいのである。

自然と文化の対立
自然から非自然としての文化を区別すること

このくだりについてはレヴィ=ストロース氏も詳しく分析を行っている。
レヴィ=ストロース氏はこの神話が「野生の蜜」の神話群に属すると指摘する。この女性は自然と文化の対立の間で、水分を分離する動きを体現していると書いている。

「野生の蜜」の神話群では、

自然 →(自然由来の蜜の水分を分離して、文化的な食物にする)→ 文化
×
文化 →(文化的技術の側で人体の水分を分離する) → 自然

「自然」から「文化」へ / 「文化」から「自然」へ、「自然(人間の統御を超えていく世界)」と「文化(人間による統御下にある世界)」という経験的に対立する二つの世界の間を、(自然の内にありながら、そのままで人間の文化の内で「調理されたもの」と同列に並ぶもの)と経血(人間の内にありながら、意図的にコントロールできない、きわめて「自然」よりのもの(というか人間の身体は自然なのである))が、移動する。

いや、もともとある自然と文化のあいだを移動するというのは、神話のこの段階の場合は間違いかもしれない。

蜜と経血が(今回の神話の場合は、シロップと尿が)一方はこちらからあちらへ(外に出ている状態から中に入っている状態へ)、他方はあちらからこちらへ(中に入っている状態から外へ出ている状態へ)、と、移動すること=距離をひらくことによって、その開かれた距離のあちらとこちらに、「文化」と「自然」という経験的感覚的に対立する二極が区切り出される

分離しながら結合する述語「見る」

さて、このように激しく振動するβ項同士が、分離状態から結合状態へと相転換するのである。

この時、非常に細かいところだが、「月を見ながら」というくだりがあることにも注目しておこう。「見る」という述語は分離しながらの結合である

このシロップ取りの女性と月は(この月は、私たちが経験的に知っている月ではなく、太陽の夫婦で、天の娘に対して悪意をむき出しにする、おそろしい人格である)、天/地の両極に分離している(正確にはこの時点では天/地は分離していないので、とても高いところととても低いところに分離している、とでも言っておこうか。要するに距離が開いている)。その開いた距離をシロップ取りの「見る」という動き・述語が短絡している。

β天     /     β地
← 見る ←
β月   /   シロップ採り

「見る」ということは考えてみれば不思議なことで、天と地ほど遠くに隔たったものどうしの間を、遠く隔たったままひとつに結びつける。

容器の使い手→容器→容器の中身

この「無礼な」分離しながらの結合に激怒するのが月である。

月は、シロップ取りの女性を捕まえて、背負い籠に入れて担いで、逃げられなくしてしまう。月とシロップ取りの女性は、過度に結合したのである(「見る」という動き方で分離しながら結合していたところが、「カゴに入れて背負う」という動きでひたすら過度に結合するモードに切り替わる)。

β月=捕まえて背負い籠に入れる=シロップ採り
       〜 
          容器の中身容器そのもの容器の外の主体

シロップを煮詰めるための「手おけ」の外にいて、手おけの中にシロップを出し入れしていたシロップ採りが、月によって背負い籠の中に入れられる。はじめ、容器の外部にあって容器(煮詰めるようの鍋)に中身(シロップ)を入れる動作の主体が、水分を貯えた容器それ自体に変容し(いわば人体という容器から、その中身の水が出る)、さらには容器(月の背負い籠)の中に入れられる客体(つまりシロップと同等の述語的様相にあるもの)に変容する。

容器の外の主体(出し入れする主人) → 容器 → 容器の中身

こうして変容するシロップ採りの動きから、容器と中身の対立が際立ってくる。

容器 / 中身

この二項対立も私たちの経験的感覚的な世界ではいうまでもないことのように分別されているが、これもまた二項対立である限り、区切られる限りで区切られることである。

燃えているのに燃えない

ここでレヴィ=ストロース氏は非常に興味深いことを書いている。

カエデ糖の生産には、入念な気配りと完成するまでの昼夜の別のない労働が必要とされた。幹に刻み目を入れ、 流れ出す樹液を集める。さまざまな容器に入れてなんども沸騰させ、まずは濃厚なシロップを、つぎにヘラで練 って粒状の物質を得る。これが厳密な意味での砂糖である。インディアンたちはおそらく鉄の鍋が導入される以前から糖を知っていたであろう。というのは、彼らは木の皮で作った容器で、容器を焦がすことなく、液体を沸騰させるすべを知っていたからである

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.476

シロップを煮詰める容器は、いまでこそ「鉄の鍋」が用いられるが、以前は「木の皮で作った容器」が用いられていたというのである。

木に火をつけると、乾いていればあっという間に燃え上がる。木と火を短絡結合すると燃えてしまうのである。しかし、木をうまい具合に湿らせた上で適度な火力(温度)で炙れば、木が燃焼しはじめる手前の温度でシロップを焦がさずに煮詰めることができる。

つまりこのシロップ作りの容器は、<火に炙られて燃えているのに燃えない>という、経験的な分別の中間状態にあるし、シロップ作りの仕事自体が、燃えそうで燃えない、火がつきそうでつかない、という中間的な状態を潜りつけつつ自然の素材を文化の食物に変換する両義的で媒介的な営みなのである。

南北両アメリカのインディアンたちは、この社会的かつ栄養学的な二重のパラドックスに同じやり方で対処してきた。この甘美な食べ物の摂取にふたつの方法をとったのである。採ってすぐ食べる場合はいかなる規制もないが、あとで食べる場合はさまざまな種類の手続きが必要で、それは自然の物質と超自然の秩序との共謀を前提としたものであった。蜜や樹液は採集後に手を加えられる場合もそうでない場合もあり、どちらの場合もその採集は文化の諸要請と自然の要請とのあいだに矛盾を引きおこす。しかし、いろいろな手続きを踏むことにより、 その矛盾を解消することができたのである。

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.477

シロップ作りの女性は両義的媒介項(β)として申し分ない存在である。対立する二極の間で矛盾を引き起こし、矛盾を解消する。伸縮自在なのである。

このような媒介者が変容していく動きから、容器と中身の区別のような、経験的に極めて基本的な二項対立が区切り出されてくる。

+ +

一切の区別を措定しない

内 / 外
入れる / 出す
中身 / 容器

こうした経験的で感覚的な二項対立は、私たちには端的に分別されているように思われてならない対立である。内外、容器と中身の対立が分別されていない状態を感覚したり言語的に思考したりすることはかなり困難である(もちろん、ルドルフ・シュタイナーが論じる「超感覚」を開く瞑想とか、動物や植物や石に変身する瞑想など、やり方はある。)

神話は、こういう内/外、容器/中身のような、極めて根源的で、経験的に意味ある世界の分別=認識の基礎をなしているような分別・二項対立さえも所与のものとはみなさずに、それらを対立する二極として区切り出す振幅を描く動きの効果のようなものとして、述語的様相において言語化する。

+ +

安定的に意味分節された世界の起源

さて、ここでβ項たちが自在にその距離を伸縮させ続けているモードであれば、月の背負い籠に入れられた女性は、速やかに分離に転じても良さそうなものであるが、ここから神話は語りのモードが変わる。下図でいえば、シロップの手おけをもったままおしっこをしたり月の背負い籠に放り込まれたりしているモードは図の左側の方である。これが、図の右側のモードに、分離と結合が均衡するモードに向かう。

太陽は繰り返される悪意を罰するため、 妻がその犠牲者をいつも背負っていなければならないことにした
これが月の隈の起源である。
そこにはいつも女と手おけがはっきり見て取れる

ここに太陽、月の夫である太陽が現れて、月の悪意を罰するため、月が背負い籠の中のシロップ取りの女性と二度と分離できないように固めてしまったのである。ここに私たちが現に知っている経験的なあの月、隈があるあの月が成立する。月の隈というのは日本ではうさぎが餅つきをしているというが、この神話を語る人々のあいだでは「女と手おけ」に見立てられる。

とはいえ、神話のβ脈動はそう簡単には収束しない。

井戸のようなものの中に
ブランコを使って投げ入れる

隈ができた月であるが、引き続き、天の娘に悪意を向ける。

月は、太陽の留守中、何度もその養い子である女を殺そうとした。
太陽は用心するようにといつも言っていたのだが。
月は自然にできた井戸のようなものの中にブランコを使って女を投げ入れることにもう少しで成功するところであった。

けれども女は自分がカミナリたちの庇護を受けていることを思い出した。
彼女がカミナリたちに嘆願すると、カミナリたちは彼女を助けた。

小屋に帰ると彼女は太陽に、本当に妻を愛している のか、と尋ねた。
太陽が否と答えると、女は性悪女をカミナリたちに引き渡し、カミナリたちは性悪女を食べてしまった。
太陽はこんなにもうまく厄介払いができたことを喜んで、女に対して、女が月にとってかわり、人間たちの友となるようにと頼んだ

あるときふたりがいっしょに休んでいると(つまり月のない晩だが)、頭が頭蓋骨になっている男が自分の捕えていた女を取り返そうとやって来た。
しかし、太陽は犬たちをけしかけて追い払った。

「月は自然にできた井戸のようなものの中にブランコを使って女を投げ入れることにもう少しで成功するところであった」というところに注目しよう。井戸とブランコ、どちらも対立する二極を区切り出す振幅をえがく動きの象徴である。井戸は地上世界と地下世界のあいだで水を移動させる。あちらからこちらへ。ブランコは、振幅を描く振動そのものである。

こういう振幅運動を描くものを二つ組み合わせたところで、第一の振幅が区切り出す最大値と最小値の二極と、第二の振幅が区切り出す最大値と最小値の二極、あわせて四極の分離しながらの結合というマンダラ状の様相が姿をあらわす。

ここから伸縮の動きが収束していく

昼/夜の区別のはじまり

天の娘は「カミナリ」、つまり天/地の二極のあいだを一挙に短絡結合する述語的様相にあるものを味方につける。天の娘は太陽に丁寧に確認した上で、月をカミナリで打つ。

こうして太陽と月の敵意に溢れながらの結婚(分離しているのに結合している)が、はっきり分離したモードに変換される。
昼/夜のあいだ分離が確定するのである。

地上世界/地下世界の区別
夫/婦の区別
男/女の区別

次に、天の娘を「赤い靴下」たちのもとから攫った「頭が頭蓋骨になっている男」がようやく追いついてくる。つまり鬼ごっこが分離状態から結合状態に転じる。しかしこの結合は、すぐに「頭が頭蓋骨になっている男」が犬に吠えられて逃げ出すことで分離に転じる。そしてこの分離は分離したままになり、再び結合に転じることはなくなる。

いっぽう、赤い靴下のいとこは、妻を探しに出た。足跡をたどり、林の中の空地へやって来ると、せむしたちが、自分たちと同じ運命が彼を待ち受けていることを知らせた。じっさい、魔物が彼との格闘に勝ち、彼の背骨を折ってせむしにしてしまう。
ぼろを着て、すりこぎとトウモロコシの粒の入った袋を持ち、かわいそうな男は、 働くことを強いられた。

赤い靴下はと言えば、いとこが結婚にかけた呪いの言葉と、おそらくは、あの見知らぬ美しい女と結婚しないことによって自分は犠牲を払った、ということもなんどとなく考えていた。

自分たちの不幸はすべてそこから来 ている、と彼は考えた。
そしてひとりの魅力的な女が結婚しようと言ってきたとき、その女をしりぞけ、行方のわからなくなった者たちを探しに出かけた。

彼は悪霊のところにやって来て、格闘で勝ち、悪霊の背骨を折り、その顔を引き伸ばしたそれから悪霊を地下の世界へと追放した。ついで、せむしたちの背中をまっすぐに直し、女たちを解放し、夫婦をまたもとの姿に 戻し、彼らが来たところへ送り帰した。

天の娘と「頭が頭蓋骨になっている男」とのあいだでも、分離と結合の伸縮する様相が、分離が確定した様相に転じたのである。

そしてこの神話の最初の両義的媒介項、「赤い靴下」たち二人組の伸縮も収束に向かう

まず、赤い靴下のいとこの方は、妻(つまり天の娘)を追いかける(分離を結合に転じようとする)。そして「頭が頭蓋骨になっている男」のところに辿り着く。「赤い靴下のいとこ」と「頭が頭蓋骨になっている男」の対決になるが、「赤い靴下のいとこ」は戦いに負け、奴隷にされてしまう。

最後に「赤い靴下」は、いとこがいなくなってしまったこと(分離したことその1)、自分は天の娘と結婚できなかったこと(分離したことその2)を確認した上で、突然現れて彼に結婚を申し出た全く新しい登場人物の女性との縁談を断ること(分離したことその3)と、三つの分離状態を確認する。

赤い靴下  いとこ
      
結婚を申し出た女性        天の娘 

その上で、いとこを助けに向かう。

「赤い靴下」は「頭が頭蓋骨になっている男」に勝利し、「頭が頭蓋骨になっている男」を地下世界へと追放した。こちらからあちらに追放するという述語の様相に注目しよう。つまり地上世界(人間が生きる世界)と地下世界(人間が生きることのできない世界)とをはっきりと分離する動きである。

「悪霊の背骨を折り、その顔を引き伸ばし」

というところにも注目してみよう。
背骨が折れる、ということは、つまり悪霊の身体の上半分と下半分が分離する、ということである。

上半分



下半分

そしてこの「上半分」の中でも上端に位置する「顔」を「引き伸ばす」、つまり相対的に大きくする。

<<<<顔>>>>

上半分



下半分

これにより、β「頭が頭蓋骨になっている男」は、ながーく伸ばされ、その伸縮の両極に二つのΔを区切り出す。

Δ ー β ー Δ

そして、「顔」が引き伸ばされて、顔に対立する足(あるいは靴下)の方は引き伸ばされ<ない>ということで、「頭が頭蓋骨になっている男」は、βが伸び切った両極のΔのうちの片方だけに偏ったものに、つまり単一のΔになる

そして、この「頭が頭蓋骨になっている男」の地下世界への追放の結果、彼に捉えられていた女性たちは解放され、その夫たちもまた解放される。解放された人々はものと姿になったことが強調される。つまり「頭が頭蓋骨になっている男」のもとでは、男性が部分的に女性のようになり、女性が部分的に男性のようになることで、男女のどちらか不可得な二項へと変容していたのであるが、これが経験的にしられているいわゆる人間の男女の姿に変身する。そうして経験的にしられているいわゆる夫婦として暮らし始める。

* * *

まとめ

こうして、

容器 / 中身(あるいは内/外)
地上 / 地下(あるいは生/死)
天 / 地
人間/人間ではないもの

といった、人間がおよそ経験的に意味ある世界を分別するためには必須の二項対立が、続々と区切り出されてこの神話は終わる。
この神話は世界の起源を語り尽くしたのである。

おもしろいのは、「赤い靴下」の活躍は、「頭が頭蓋骨になっている男」に囚われて過度に分離された人間の夫婦たちを助け出し、ふたたび夫婦の姿に戻したところで終わるということである

「赤い靴下」は、「いとこ」とは再会できていないし、「天の娘」も相変わらず太陽のもとに行ったままで赤い靴下とそのいとことは別々である。

β赤い靴下  βいとこ
      
β結婚を申し出た女性       β天の娘 

このβ四者は、もともと過度に結合していたり、過度に分離していたりしたのであるが、ここへ至って定常的にほぼ一定した距離をとって分離したまま対峙するようになったのである。

β
β   β
β

両義的媒介項たちのあいだの激しい分離と結合の伸縮が収束したところで、βとβのあいだ、βとβの振れ幅どうしが重なり合うところに、Δが、経験的感覚的に分別されるあれこれが浮かび上がる領域が開けるのである。

Δ β Δ
β ※ β
Δ β Δ

これを神話は、分ける述語、つなぐ述語を駆使して、なんとか表層言語の線形配列の上でシミュレーションしようとするのである。

したがって、下記の図を片手に神話を読み、四つのβ、βたちの動きの述語(四つか、いくつかのΓ)、四つのΔを神話の言葉の中から選び出していくと、神話が何と何をどのような伸縮で分別しようとしているのか、まるで正解が問題文中に書いてある穴埋め問題のようにして解けるのである。これは私たちが自分たち自身の無意識の深層の伸縮する動き(分離したいことと結合してしまう苦しみ、結合したいことと分離してしまう苦しみ)を如実に知り意識化する、極めて有用な手立てになる。

私たち一人一人にとっての意味ある世界は
対立関係の組み合わせとして
分節されたものである

私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その名、その主語的なあり方(Δ、「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれらの主語的なものたちは、あくまでも伸縮を自在にする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である

主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている

私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている

分別心の表層意識に浮かぶ所与の諸要素たちをかっちりとした構造体として配置したように感じられる意味分節システムは、実は脈動する波の伸び縮み(周期的に反復される振動の周期T[s]が伸び縮みすること)を瞼を細めて薄目で眺めたようなものである。

神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験すること可能にしている分別(ふんべつ)、あるいは意味分節のパターンが、あれこれさまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にするし、またそうした分別、意味分節のやり方を相当程度自覚的に自在に組み立てることをも可能にするのである。

仏教では、私たち人間は、諸々の区別、分別をしながら、この二極のどちらか一方だけを選び結合し、他方を捨てて遠ざけたい、と願いながらも、その願いは決して叶わないということで苦しむのだという。

私たちの自覚的な意識、仏教でいうところの分別心は、「分離と結合の動きが止まる」ところで生じた。しかし、この「分離と結合の動きが止まる」というのは、止まっているようにみえているだけで、じつは「分離と結合の弱い様相転換の反復」(輪廻とか縁起とか)さらには「分離と結合の強い様相転換の反復」(法界の音声)が動いているんだよね、というのである。

ただこの動いている様子は経験的感覚的な分別心(識ということになるのだろうか)では捉えようがないので、止観したり、三密加持したり、いろいろな方法で感覚のモードを超感覚的に組み換えることで自在に觀じてみようよ、という話になる。

分別された二項対立を眺めつつ、「どうもおかしい、はっきり分けられない、分からないぞ、どうしよう」という焦る様な思いに駆られた時に、人類はその言語的思考によって分離と結合の動きが止まる」を「分離と結合の強い様相転換の反復」に転換し、これをさらに「分離と結合の弱い様相転換の反復」に転換する力がある。

そしてまた「分離と結合の弱い様相転換の反復」の様相から「分離と結合の強い様相転換の反復」の様相へ、そして「分離と結合の動きが止まる」現世のあり方を、つど新たな様相で、言語的意味的に分節しなおすことができる。 こういうことを古来より人類は、神話を語り聴くことを通じて連綿とやってきているのである。

そしてそういう語りの言葉を動かしてきたのは、振幅の幅を伸縮させるような動きを語る述語たちなのである。


つづく




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