心の最も基本的なアルゴリズムは分かれつつあることと分かれつつないこととを分かれていないまま分けること -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(96_『神話論理3 食卓作法の起源』-47)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第96回目です。『神話論理3 食卓作法の起源』の第六部「均衡」を読みます。
これまでの記事は下記からまとめて読むことができます。
これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。
ーーー
今回の記事についてもAIによる音声解説を生成しました。
はじめに
この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」を、空海が『吽字義』に記しているような二重の四項関係(八項関係)を描くマンダラ状のものと見立てて読んでみる。いや、マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たちが共鳴する“コト”と見立てて読んでみる。
経験的な区別が概念の道具となる
レヴィ=ストロース氏は大部の神話論理の冒頭に次のように書いている。
「生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」
経験的感覚的な区別(分別)を概念の道具として、観念を抽出する。つまり分別同士を重ね合わせて意味分節する。そしてこの観念を繋ぎ合わせる(意味するものと意味されることとの一対一の静的ペアをリニアに連鎖させる)。それが「どのようにしておこなわれるか」。

この「どのように」をモデル化するひとつの試論としてマンダラ状の意味分節システムを生成消滅する脈動(伸縮)を考えてみる。
即ち、神話は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜Δ4を分けつつ、過度に分離しすぎない程度に付かず離れずに結んで安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指す。

Δ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別される項である。例えば、
Δ1 暑い / Δ2 暑くない
|| ||
Δ4 わるい / Δ3 わるくない
といったことである。私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界とは、ほぼすべて、このような二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている。
*
人類は、というか、あらゆる生命体は、物心ついた瞬間に「経験的区別」を実行する機械のような仕組みとしてできている。
自/他
生/死
好き/嫌い
内/外
因/果
ある/ない
うまい/まずい
高い/安い
遠い/近い
生きることは分けること
それぞれの生物は、それぞれ固有の感覚・神経の仕組みを使って、それぞれに固有の経験的に意味のある世界を分別して生きている。ユクスキュル『生物から見た世界』に記されている「環世界」の話である。この本は結構昔に書かれたものなのだけれど、今日なお、実に多様な分野で参照されている。
人間よりもシンプルな神経系で生きている生物の場合、感覚的な区別に応じて、身体の可能な動きの候補のなかから選択が行われる。

ダニの分別・信号的世界
例えば、ある種のダニは、木の枝などにつかまってじっとしている。
ある日たまたま、その枝の下を哺乳類が通過する。
するとこのダニは木に掴まっている脚を離して、ぽとりと、下を歩く哺乳類の上に落ちる。あとは毛の中に潜り揉んで吸血すればよい。
このダニは、人間のような目や耳をもってはいない。つまり、自分のいる木の下を動物が通過しているかどうか、見て知ることはできないし、音を聞いて知ることもできない。
その代わり、このダニには哺乳類の体から周囲の空気中に発せられるある種の「脂肪酸」を検知する感覚器官がある。この器官が実際に特定の脂肪酸を感覚したとき、ダニはパッと脚を開いて枝から落ちるようにする。
ここには次のような二項対立関係の重ね合わせ処理が行われている。
特定の脂肪酸が感覚される / 感覚されない
|| ||
脚を枝から離す / 脚を枝から離さない
次のように書き換えてもいい。
脂肪酸の 有 / 無
|| ||
脚の 開 / 閉
このように複数の、最小構成で二つの二項対立関係を対応づけることで、生物はうまい具合に生きていく。脂肪酸の有無という第一のスイッチの切り替えに応じて、脚の開閉という第二のスイッチを切り替える。このプロセスを「情報処理」と呼んでも良い。
* *
人間も、身体感覚に関することではこのダニと同じような情報処理を行なっている。熱湯に触ってしまって思わず手をひっこめるといったような反射の反応などがそうであろう。
信号と象徴
人間が言葉をもつこと・意味を創造できること
ところで、他の生物と異なる人類固有の特徴である「言語」というものは、この対立関係を重ね合わせる処理の自在さに基づいている。
ここで、「信号」と「象徴」ということを分けて考えてみよう。
信号というのは「意味するもの」と「意味されるもの」との対応関係が固定的で変更しにくい関係である。「赤は止まれ、青は動け」など。
一方、象徴は「意味するもの」と「意味されるもの」との対応関係を自在に動かすことができる関係である。
*
信号
例えば、カラスが「かーかーかー」と3回鳴くとき、これは仲間に「わたしが安全に居る場所はこちらでございますよ」と伝えているらしい。また「かーかーかーかーかー」と5回鳴く時、これは仲間に「おい、まずいぞ!逃げろ!」と伝えているらしい。
ところで、カラスの場合、この鳴く回数とその意味されるものとの関係を、勝手に変えることは難しい(こういうことを実際に詳しく調べた実験があるのかどうか調べてもなかなか見つからないのであるが)。
ここからは作り話である。あるところに人間から生まれ変わった知的なカラスがいて、ある日突然思いつく。「今日から私は、カーカーカーと3回鳴くことによって、<猫が接近してきている!助けに来てくれ!>という意味を表現することにしよう!」と思いついたとする。しかし、カラス同士のあいだには、この新しい意味するものと意味されるものとの関係を、辞書のようなものに定義したり、仲間たちに広めたりする方法がほぼない。
ある日、この天才カラスが「かーかーかー」と鳴いた。しかし、これを聞いても、仲間たちは「へえ、あいつ、安全なんだ」と思うだけで、まさか猫に襲われつつあり助けを呼んでいるのだとは思わなかった・・・。

もちろん、よくよく調べればカラスの群れごと、遠く隔たった居住地ごとに、意味するもの(鳴き声の回数)と、意味されるものとの間に差異があるかもしれない。その場合、カラスにも意味するものと意味されることとの関係を少しつづでも自在に動かす力、つまり「象徴」を発生させる力の芽があると明らかになるかもしれない。そういう研究に、多額の研究費を投入する国が世界のどこかにあってもよさそうである。
* *
象徴
さて、一方、人間の言葉の場合、同じ一つの「意味されるもの」を、実に多様な「意味すること」で表現することができる。
日本のとある街では、「お宅のお子さん、ピアノがお上手になりましたね。」とご近所の方に言われた場合、これは「ピアノの練習の音がもれてうるさいですよ」という意味になる。同様に「元気なワンちゃんやわあ」は、「なぜ無駄吠えをやめさせられないのか」だったり、「それにしてもええ時計をしてはりますなあ!」は「いつまで喋ってるんだ、時間配分を勘案して話しを切り上げることもできんのか。タイパがあれとちゃいますか」という意味だったりする。もっとストレートに「ああ、ほんま、よろしおますなあ」が「ごめん、その話題、まったく興味ないわ」だったりする。

ここで難しいのは「ああ、ほんま、よろしおますなあ」は「ごめん、その話題、まったく興味ないわ」と、一対一で機械的に固定的に結びついているわけでもないということである。
「ああ、ほんま、よろしおますなあ」を、ほんまによろしいと心の底から共感している時に言う場合もある。同様に「お宅のお子さん、ピアノがお上手になりましたね。」を、本当にピアノが上手になって、その美しい音色に心が癒されていますわ、という褒め言葉として言っている場合もある。
同じ表現、同じ言い方、同じ意味するものが、真逆にひっくり返る。
ここで「どっちの意味なのだろう?!」と分別に迷い一喜一憂するようでは交易都市民としての修行が足りない。
言っている人と言われている人の関係、文脈、背景、これまでの関わりの来歴の中から、だいたいどちらの意味で言っているかは分別できる。つまりお互いに節度を持って付かず離れず、長いお付き合いを持続できているような間柄であれば、どのような表現をしようがしまいが、その思っていること感じていること、言わんとすることは以心伝心できる。
100%理解し合えていると思い込んで無防備に甘えることもなく。
100%理解されず敵対していると思い込んで敵愾心をむき出しにすることもなく。
敵か味方かどちらであるともはっきりしない不可得な状況を、ニコニコしながら何年も何年も潜り抜けつつ、時に冷徹に切るべきところは分離する、というのが、あらかじめ敵/味方を分別できない、さまざまな人やものや情報が各地から集まってくる「都市」を営む人々の知恵なのであろう。
かの後白河院はそのような知性の極みであるように思う。
詩的表現
そういう都市では、時に皮肉の効いた比喩表現や詩的表現をおもしろがる文化が生まれる。詩的言語、比喩表現というのは、感覚的経験的には対立し、分離し、混じり合わないような二項を、あえて結びつけ、短絡するところに生まれる。
例えば、
男は女である
善は悪である
忙しいというのは、暇だということである
などと言っている人をみると、その意味はよくわからないが、なにやらとても「深い」ことを言われているような気がしてくるものである(実際には何も深いことは言ってない場合もあるので注意が必要である)。
分別に汲々とするのではなく(つまり、はっきり分けて、きっちり選べないと、疲労してしまう硬い分別心ではなく)、分別するもよし分別しないのもまたよし、分別と無分別のあわいをくるくるとひっくり返す「あそびをせんとや」の心である。

* * *
人類の心の創造性の源泉は、意味するものと意味されるものを自在に分離結合できること
このような分別のしずらさ、どちらか決まらない不可得さをおそれず、潜り抜ける時には、信号的な情報処理よりも、象徴的な情報処理のほうが強みがある。
敵か?味方か?ではなく。「敵でもあるが味方でもあり、味方でもあるが敵でもある」を平然とやってのける。
そういうところで思考し続け、コミュニケーションしつづける心を生むのが、他でもない象徴的な、意味するものと意味されることを自在に切り替えることができる思考である。
*
実はこの分別を保留できる「象徴」の能力は、旧石器時代か、それよりもっと以前から、現世人類が巧みな狩猟者として世界各地に広がっていくことを可能にした力でもある。しばらく前に話題になったユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』で「認知革命」と呼ばれたのは、この分別を保留できる「象徴」の能力のことである。
ジャガーやクマのような強力な牙や爪を持たない人類は、野生の森ではどちらかといえば狩猟者というよりも獲物寄りの生物である。クマなどといわず、ニホンザルだって、あの牙と爪をみれば、人間が素手で勝負を挑むのはやめておいた方がいいということはすぐにわかる。現代ジビエの代表であるイノシシやシカだって突撃されて踏まれて蹴られて噛まれたら、医療機関がない時代の人間では、獲物として食われこそしなくても、大いに寿命を縮めることであろう。
そういう動物たちがうごめく森の中を、一見すると弱そうな人間が、徒党を組んで狩猟道具を携えて、静かに通過する。野生動物からみれば獲物のようでもあり、しかし狩猟者である、という、捕食者なのか獲物なのか、そのどちらとも決め難い、分別つけがたい状態を潜り抜けつつ、自分たちが食べる分だけの獲物をとらえて持って帰ってくるのが人間の強さなのである。

仮に人類が、「私は人類だ!動物は黙って肉を提供しなさい!」などと叫びながら森を通過したところで、実際に獲物を持ってかえってくることは難しいであろう。・・・ただし、火器のような強力な狩猟道具が手に入ると、これに類することができてしまうということもある。
人類がいまだ強力な近代的な武器を持たない時代から伝承されてきた神話の思考では、狩猟民が強すぎる武器・狩猟道具を手に入れ獲物を自在に狩ることができてしまう状態は、危険な状態とみなされる。
このあたりの話は中沢新一氏の『熊から王へ』に詳しく論じられているので、参考にどうぞ。
思い上がった人間が、森の中で「人間様だぞ!」と動物たちに威張ったとしても、人間と同程度かそれ以下の強さの動物はさっさと逃げてしまって狩ることができなくなるし、人間より強い動物たちは、すぐさま人間を獲物として捕食しに来るだろう。いずれにしてもこの人間は食べ物を仲間のところに持って帰ることはできない。狩は失敗である。
神話の論理で動く野生の思考は、このように、人間と動物、狩猟者と獲物といった対立する二極の間のどちらでもあってどちらでもない状況から、対立する二極の区別がはっきりと安定的に固定された状態が出てくる様子を言語で語る。
区別が曖昧なところから、区別がはっきりと出てくる。
※
例えば、レヴィ=ストロース氏が『神話論理』で紹介している神話のなかに次のような話がある。
造化の神のメネブシュは狩りに行ったが獲物を捕れずに帰ってきた。
祖母のノコミスとともに荷物をまとめ、さらに遠くに行き、あるカエデ林の中に居を定めた。
祖母は樹皮で容器を作り、濃いシロップのように流れ出ていた樹液を探った。メネブシュは喜んでそれを飲んだが、こんなに簡単に採集ができてしまっては、 人間たちがなまけものになってしまうと、文句を言った。
*
人間たちは樹液を後日も幾晩もかけて煮詰めるようさせた方がよい、そうすれば、それに専念して、悪い習慣を身につけることがないだろうから、と。
彼は、木のこずえに登って手を振った。そこから雨が落ち、シロップは薄まり樹液となった。こういうわけで人間は糖を食べたいと思ったときには、一生懸命働かなければならなくなったのである。
*
そののち、メネブシュは驚いたことに祖母が色っぽくなったのに気がついた。祖母を見張っていると、クマと交わっているのがわかった。
メネブシュはよく乾燥したカバノキの樹皮をとり、それに火をつけ、このにわか仕立ての松明をクマに向かって投げつけた。
下腹部にやけどを負ったクマは火を消そうと川に向かって走ったが、 たどり着く前に死んだ。メネブシュは遺骸を祖母のところに持っていった。
祖母はそのおぞましいものの受け取りを拒否した。そこでメネブシュは祖母の腹に血の塊を投げつけた。祖母は、これからは女たちは毎月、さわりに見舞われ、固まった血を産むことになろうと宣言した。
メネブシュはというと、彼はクマの肉をたらふく食べ、 残りは捨てた (Hoffman, p. 173-175)°
M501β メノミニー カエデ糖の起源(二)
この神話の冒頭「造化の神のメネブシュ」という主人公が「獲物を取れずに帰ってきた」と言うところに注目しよう。
ここでは、
狩猟者 / 獲物
この二項対立が浮かび上がってくる。
しかし、この狩猟者は獲物を取ることができない。
狩猟者と獲物の間が、遠く、過度に、分離されている。
狩猟者← / →獲物
次の場面で、造化の神のメネブシュは、その祖母「ノコミス」と二人で「遠くへ」旅に出る。祖母と孫の男は、遠く分離していると同時に近く結合している、分離すると同時に結合している、分離と結合という対立する二極のどちらか不可得な状態を作り出すペアである。
神話の場合、男/女は「結婚」という関係を結ぶことで、もともと分離していたところを結合したり、適度に結合しながら同時に適度に分離したりと、分離と結合を均衡させることができる。
つまり、「結婚」することができる場合に限り「男/女」という対立関係は、分離と結合の対立関係を付かず離れずに均衡させることができる。
ところが、祖母と孫の男の場合、この二人は男女ではあるが、結婚することはできない男女である。つまり神話が考える結婚できる男女の距離に比べると、祖母と孫の間は過度に分離されている。
ところで、なぜ祖母と孫が結婚できないかと言えば、祖母と孫はそもそも血縁があるからである。孫は祖母の子供の子供であり、二人は極めて「近い」関係にもある。
祖母・男の孫
この両者の間には、近すぎる故に遠くなる、という関係、家族か非家族かという軸上で過度に結合しているが故に、結婚できるかできないかという軸上で過度に分離する関係がある。

このようにある軸上では過度に分離し(伸び切っている)、別の軸上では過度に結合する(収縮している)という、過度な分離と過度な結合、伸縮を同時に体現するような存在が、神話の論理を動かしていく。
神話の論理
人類が経験的感覚的に生きている意味ある世界は、二項対立関係を二つ組み合わせた四項関係を最小構成単位として織りなされている(意味分節されている)ものである。
Δ / Δ
|| ||
Δ / Δ
例えば、
人間 / 動物
|| ||
服を着る / 服を着ない
*
これについて「野生の思考」は「/」と「||」の動きに注目して、Δ二項対立とその重ね合わせのはじまり(起源)を思考する。このΔ1〜Δ4を区別できないところからはっきりと区別できる状態にまで切り開き分けつつも、バラバラに飛び散ってしまわないように結びあわせ、しかし過度にくっつきすぎて区別できなくなることはないように均衡させておくということが、私たち人類にとって意味ある世界が意味ある世界であるために必要な意味分節の最小構成単位(二重の二項関係=四項関係)をつくる動きである。

この「/」と「||」の動きを説くために、神話として現れる「野生の思考」は、Δ1〜Δ4を分けつつつなぐ、四つの媒介者たちを登場させる。
先ほどの図で言えば、四つのΔたちの間に挟まって描かれている、四つのβ。この四つのβがΔたちを分けつつつなぐ媒介項である。
/
|| ||
/
↓
β
β β
β
「/」と「||」は同じ動きの二つの異なる様相である
すなわち「/」は伸縮の「伸」の方に対応し、
「||」は伸縮の「縮」の方に対応する
両義的媒介項同士がくっついたりはなれたり
両義的媒介項(仮にβと表記しておく)は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている。
いうまでもなく、そのようなものたちは、私たちの経験的感覚的には「存在しない」。この経験的感覚的には「存在しない」ことをあえて言語化することが野生の思考にとっては重要なのである。
神話は、そもそも何かが「存在する / 存在しない」を分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。つまり何かが存在するとか存在しないとか、そういう分別ができるようになる「手前」のことを思考しているのである。
そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。
上の神話でいう、祖母と男の孫の二人だけで結合したペアは、分離/結合、というマンダラを描く伸縮運動の様相そのものを捉えることができる極基本的な分別、二項対立をめぐって、「ある対立(男/女)については過度に分離しているが、別の対立(同じ家族/違う家族)については過度に結合してもいる」という状態を言えるようにしている。これを分離と結合の対立に注目してみると、「分離しているでもなく結合しているでもない」様相が見えてくる。
つまり下図で「分離していること」をΔ1に、「結合していること」をΔ2に置くとすると、祖母と孫の男のペアは、このΔ1とΔ2のあいだを伸縮するように動き回るβ1の役割を演じていることになる。

両義的媒介項たちの距離の伸縮を表現する述語
お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つのβ項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。
任意のβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり縮んだり
任意のβ二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり縮んだり
2または3、または4つの任意のβ項が中央の一点に集まったり広がったり
という具合に、β項間の距離を伸縮させる振動(振幅を描く動き)が起こりる。

先ほどの神話に戻ろう。
β1が祖母と男の孫が一体化したものだとすると、このβ1をβ1として、「非β1ではないもの」として区切り出す動きが必要になる。この動きを神話の語りの中にたどるためには、β1の反対側に非β1(β2〜β4のいずれでも構わない。β項たちは互いに変容し変身し、四即一にして一即四に伸縮するので、どれをどこに配置しても図式的には変わらない)を見つければ良い。
それがどうやら「獲物」である。この神話の冒頭で主人公「造化の神のメネブシュ」が、その獲物と過度に分離していることが強調されている。
狩猟者と獲物は、結婚する男女と同じように、経験的には付かず離れずに均衡している。つまり過度に結合しているでもなく(呼べばあちらから歩いてくるくらい獲物を取り放題、ということがない)、過度に分離されているでもなく(全く獲物が取れないということでは、そもそも人間は生きていかれない)、もともと分離しながらも適宜結合できる、付かず離れすの関係にある。経験的には。
この経験的に付かず離れずであるところが、過度に分離されているのがこの神話の冒頭である。
β1祖母+男の孫 ← ー / ー→ β-1獲物
そうして「β1祖母+男の孫」もともとの狩場、すなわち「β-1獲物」たちが潜在的にいるはずの場所から、わざわざ「遠い」ところへと移動していく。
β-1獲物がβ1主人公たちから分離するように、β1主人公たちの方もβ-1獲物あから分離していく。
そうした分離の果てに行き着いたのが「カエデの林」である。
祖母は樹皮で容器を作り、濃いシロップのように流れ出ていた樹液を探った。メネブシュは喜んでそれを飲んだが、こんなに簡単に採集ができてしまっては、 人間たちがなまけものになってしまうと、文句を言った。
β1祖母+男の孫 β-1獲物
|| ← ー / ー→ ||
β1'カエデの林 ーーーーーー
このカエデの林では、先ほどの獲物の取れなさとは逆のことが起きる。
カエデから「濃いシロップのような」樹液が飲み放題とばかりに溢れ出ていたのである。獲物とは過度に分離されたβ1祖母と男の孫であるが、カエデの樹液とは過度に結合されている。
β祖母と孫と過度な分離 / β祖母と孫と過度な結合
|| ||
獲物 / カエデの樹液
この分離したり結合したりする振動のある種の共鳴状態として、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力がバランスする。
* *
ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、正方形を描くように均衡した四つのβ項のあいだに、そのβ正方形の「辺」の部分をなす四つの領域が、安定的、反復的に広げられ続けるようになる。

このβ項を四つに分けて正方形を描くような付かず離れずの距離感に均衡させるのが、「こんなに簡単に採集ができてしまっては、 人間たちがなまけものになってしまう」という主人公の神の言葉である。
簡単に採集できるということは、採集者と採集対象物とが過度に結合していると言うことである。この過度な結合をやめて、付かず離れずの距離を確立しなければならない、とこの神はいう。
人間たちは樹液を後日も幾晩もかけて煮詰めるようさせた方がよい、そうすれば、それに専念して、悪い習慣を身につけることがないだろうから、と。
彼は、木のこずえに登って手を振った。そこから雨が落ち、シロップは薄まり樹液となった。こういうわけで人間は糖を食べたいと思ったときには、一生懸命働かなければならなくなったのである。
そうしてこの神は、「木のこずえに登」り、「手を振っ」て、つまり天/地の対立二極の間を引っ張り寄せて結合して、そうして天から地へ、「雨」を落とさせた。
こうしてシロップが薄まり、人間が経験的に知っているいつものあのカエデのシロップ(Δカエデのシロップ)が起源したのである。
+
気をつけておきたいのは、β祖母と男の孫が最初にたどり着いた時点での「カエデの林」のカエデは、カエデという名で呼ばれてはいるけれども、今日現在私たち人間が経験的感覚的に知っているあの「カエデ」ではないということを決して見落としてはならない。ここを閑却して、β脈動モードにある主語たち(カエデでも祖母でも)を、ふつうの現世の経験的感覚的なカエデや祖母のことだと思って読んでしまうと、神話はわけのわからないものになってしまう。βカエデかΔカエデか。いや、二者択一の「どちらか」という頭の働かせ方は危ない。Δカエデからβカエデへ、そしてβカエデからΔカエデへ。このぐにゃりとずれる不思議な不可得感と、思考する私の心とを、共鳴するようにチューニングしておくのである。

付かず離れずの天/地
付かず離れずの狩猟者/獲物
さて、雨のおかげでカエデの樹液は薄められたので、次に造化の神のメネブシュが行うべきことは、β項たちの過度な結合と過度な分離を整理することである。すなわち過度に結合しているところを分離して、この分離を固定すること。過度に分離しているところを適度に結合して、この結合を固定することである。
この神話で最も目立つ「過度に結合しているところ」は、造化の神のメネブシュとその祖母の関係である。この二人の関係を分離し、また容易に過度な結合に転じないように引き離しておかないといけない。
この分離、この神話では、端的に祖母の「結婚」として語られる。
そののち、メネブシュは驚いたことに祖母が色っぽくなったのに気がついた。祖母を見張っていると、クマと交わっているのがわかった。
祖母は、メネブシュから分離して、家族外の男と「結婚」をする。
ただしこの男、人間の女性が経験的感覚的に結婚する場合が多い人間の男ではなく、動物の男、クマである。動物と人間は、結婚という関係においては、経験的感覚的には遠く分離されている。
この分離を短絡するように、人間と動物の結婚、つまり過度な分離を過度な結合に転じる様相が語られる。したがってこのクマもまた、我々がよく知っている経験的なあのクマではなく、神話論理が伸縮させるβクマである。
さて、先ほど
β1祖母+男の孫 β-1獲物
|| ← ー / ー→ ||
β1'カエデの林 ーーーーーー
と描いたが、この右下の「ーーーーーー」に収まるのがこの「βクマ」である。
β1祖母+男の孫 β-1獲物
|| ← ー / ー→ ||
β1'カエデの林 β-1'クマ
βクマとβ祖母との「結婚」(過度な分離から転じた過度な結合)は、すぐさま過度な分離に転じる。
メネブシュはよく乾燥したカバノキの樹皮をとり、それに火をつけ、このにわか仕立ての松明をクマに向かって投げつけた。
下腹部にやけどを負ったクマは火を消そうと川に向かって走ったが、 たどり着く前に死んだ。メネブシュは遺骸を祖母のところに持っていった。
メネブシュはクマに「火」をつける。β「乾燥したカバノキの樹皮」にβ「火」を結合して、これをβ祖母と結合しているβ「クマ」に結合する。四βの凝縮。
ここが、「料理の火」の始まり、生血が滴る野生の生肉とこんがり調理された肉料理とを分別することの始まりである(ようやく『食卓作法の起源』らしくなってきた)。そして料理の火の始まりこそが、自然と文化の分離の始まりでもある。

*
このクマ、火がついた状態で「川」の水に結合し、そうして火を分離しようとするが、この火と水の短絡には失敗する。火と水は短絡されず、つまり経験的感覚的な火と水の対立が確定されたといえよう。
さて、ここでメネブシュは、クマの「遺骸」、というが要するに火で調理された肉料理を回収し、祖母と一緒に食べようとする。
祖母はこのクマ肉ステーキを食することを拒否する。
祖母はそのおぞましいものの受け取りを拒否した。
そこでメネブシュは祖母の腹に血の塊を投げつけた。
祖母は、これからは女たちは毎月、さわりに見舞われ、固まった血を産むことになろうと宣言した。
メネブシュはというと、彼はクマの肉をたらふく食べ、 残りは捨てた。
β祖母はこの時点でなお、「火を通した料理を食べる者」、つまり経験的な現に存在するΔ人間になることを拒んでおり、β脈動し続けている。「火を通して調理されたもの」を食べることから分離するこの祖母は、Δ人間ではなく、β人間である。
ちなみに、この神話の場合「火」に変容するのは「乾燥したカバノキの樹皮」であった。このカバノキの樹皮はまた後で登場するので覚えておこう。
*
このβ脈動する祖母に、クマ由来と思われる「血の塊」が投げつけられ、これが祖母の身体に過度に結合する。この「血の塊」は、文化に対する「自然」の結晶たるβクマのうち、火を通されなかった部分である。
野生の血の塊 + 祖母の身体
祖母は「食べる」という様式とは別に、自然界の血をその体につけるという様式で、このクマ、野生の自然との付かず離れずの関係を獲得したのである。そしてなにより、このクマ(の野生の血)とβ祖母の結合をきっかけとして、女性の生理が始まる、つまり人間が子どもを産むということができるようになる。硬い分別に固着しがちな「文化」の中に、生命の自然の過程そのものである、新しい命を産むことができる、という可能性が嵌入したのである。自然と文化の二項対立も、他の二項対立と同様、分離されると同時に結合されなければならない。Δ二項関係は、付かず離れずである。この自然と文化の結合の様相のひとつが、人間が新たな生命、子どもを産むことができる、ということになる。
βクマ(の野生の血)+β祖母
↓
Δ子供を産むことができる人間
さて、ここまで散々「祖母」「男の孫」と書いてきたので、経験的なΔ人間のΔ家族関係の話をしているようにみえていたが、改めて、この祖母は人間のおばあちゃんではない、β祖母だったことに注意を喚起しておこう。
ここで神話の最後の一文にも注目しよう。
メネブシュはというと、彼はクマの肉をたらふく食べ、 残りは捨てた。
残りは捨てる!
見事な神話の論理である。
クマ肉ステーキは、食べられた部分と食べられなかった部分にちゃんと二分される。
狩猟者になったメネブシュは(思い出してみれば、彼はもともと、獲物を狩ることができなかったのであるが、このクマが最初の獲物になった)クマの肉を、たらふく食べるが、しかし「残りは捨てる」。
なんともったいない!と思うが、ここはまだ神話の最後である。Δ現世の常識を持ち込む前に注意して分離と結合を伸縮させよう。β男の孫とβクマのあいだには、付かず離れず、分離しながらも適度に結合し、結合しているがちゃんと分離する、という関係が必要になる。そうしないと、Δが安定的に析出される余地が潰れてしまったり、広がりすぎて行方不明になったりする。
そう言うわけでβ男の孫とβクマのあいだに、一部を食べ残す、と言う形で、食べるが食べない、結合してもいるが、結合してもいる、という関係が結ばれるのである。世界を創造する食べ残しである。
二つのβ項が結合したり分離したりするその振れ幅のあいだに、Δ項が、経験的感覚的に分別された二項対立関係の両極をなす項が、その存在を現す。ここに四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。そこにΔ項が収まる。
ここに私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される。
内/外を分ける「容器」への(からの)出し入れ
これを担う項をあれこれと探す
レヴィ=ストロース氏はこれとよく似た神話も紹介している。
造化の神のメネブス Mänäbus はある日、自分が知らないうちにライバルが創造したカエデを発見した。
彼は樹液が濃いシロップのように流れ出ていることを見て不満に思った。
これでは人間が樹液の採集をするのに時間がかかりすぎしかも困難だろうと考えたのである。
そこで木に尿をかけ、樹液を薄めた。
人間たちにもその方がいいことがわかるだろう、と造化の神は判断したのだ。
彼らは今までより苦労し苦しまなければならなくなる。
けれども、手を加えなければならないとはいえ、樹液の量は増えるだろう (Skinner 14, p. 164-165; オジブワのヴ フリアント参照、Kohl, p. 415)°
M501a メノミニー カエデ糖の起源(一)
これは先ほどの神話と、細部の「項」こそ異なるが、その項の間の伸縮関係はほぼ同じである。樹液の濃いカエデでは、採取者と採取対象物の間の過度な結合が起こってしまう。
β採取者 +過度な結合+ β採取対象物
この状態を分離して、付かず離れずのΔ採取者とΔ採取対象物、つまりΔ人間とΔカエデの関係を分けつつ繋がないといけない。
そこで、こちらの造化の神「メネブス」は、「尿」で樹液を薄める。
おしっこで薄められた樹液を食べるなんて、なんだかばっちいなあと思われるかもしれないが、β尿なので気にする必要はない。
しかもこのおかげで、人間は樹液を木から流れる野生の「生のもの」のままではなく、集めて煮詰めてまた飲み物で割るという、つまり「火を通したもの」、文化的な調理された食材の形で、十分に手にれることができるようになる。
Δ生のもの / Δ火を通したもの
ここに『神話論理』の入り口、第1巻で出会った「生のもの」と「火を通したもの」の対立も出てくる。
Δ生のもの / Δ火を通したもの
ここに文化と自然の分離、つまり「人間の起源」が思考されていることがわかる。
ここで重要なことは、人間も本来動物の一種であるということである。
人間と動物のあいだには、もともと区別はない。人間と動物は二ではなく一である。
人間が動物と違うといえるようになるのは、人間と動物を分けるからである。この分けるということを実行するためには、その前に、分かれていることと分かれていないことを、分けられるようになっていないといけない。
分かれていること / 分かれていないこと
一 / 二
結合 / 分離
(分ける)/(つなぐ)
神話が、現世のあれこれの二項対立、あらかじめ分別されているように経験的に感じられるものごとの対立関係の「起源」を語ろうとするときには、その語りの一番最初の方で、もっとも大切な前処理として「分かれていること / 分かれていないこと」を分けないといけない。
分かれているとは、分かれていないではないということ
人間と動物のような、もともと一つであることを二つに分けることを語るためには、それと真逆に対立する、もともと二つであることを一つに繋ぐことに言及しなければならない。
一を二にする(結合から分離へ) / 二を一にする(分離から結合へ)
ここで神話の思考は、その経験的感覚的な周囲の環境から「二を一にする」ものを探し出さなければならない。それがこの神話の場合は「カバノキの樹皮」であるとレヴィ=ストロース氏は指摘する。
「松明の挿話が非常に微妙に関連づけている。というのはカバノキの樹皮はまず「水のように流れる」樹液の容器をつくるのに使われ、それから「火のように燃える」松明をつくるのに使われるからである。」
「カバノキの樹皮」は、「火」と「水」という、経験的に真逆に対立する(火と水を結合するとどちらか一方が勝ってしまう)ものの、どちらとも結合することができる。水に対しては容器として、火に対しては燃料として。
ここで、前回の記事にも登場した「おしっこ」の話が際立つ。
造化の神のメネブス Mänäbus はある日、自分が知らないうちにライバルが創造したカエデを発見した。
彼は樹液が濃いシロップのように流れ出ていることを見て不満に思った。
これでは人間が樹液の採集をするのに時間がかかりすぎしかも困難だろうと考えたのである。
そこで木に尿をかけ、樹液を薄めた。
この二つ目に挙げた神話には「カバノキの樹皮」は出てこない。しかし、「カバノキの樹皮」とイコールである「水性のものを外から中へ入れて集めていく容器」と、「水性のものを中から外へ出していく容器」であるおしっこをする身体とは、対立するペアになっており、一方が登場すれが他方が自動的にその存在の権利を獲得する関係にある。
「水性のものを外から中へ入れて集めていく容器」
/
「水性のものを中から外へ出していく容器」
神話の思考では、ありとあらゆる項は、「分離」であれ「結合」であれ「外から中に入れる」であれ「中から外に出す」であれ、ありとあらゆる項は、端的にそれ自体としてあらかじめ外から分別されて存在しているということはない。ありとあらゆる項は、その項とは真逆に対立するものとの関係の中で、「Aは非-非-Aである」限りで区切り出されてくるのである。

という、抽象的にいえばこのような動的構造にあることを、野生の思考は、じつに様々な経験的で感覚的な区別を用いて思考しようとするのである。
南アメリカでは蜜が、北アメリカでは糖が、経血との関連を見せている。これは動物の分泌物あるいは植物の分泌物が月の隈の原因とされることと関係がある。ところで、 多くの南アメリカの蜜と同様、カエデのシロップも樹木に由来する。そして熱帯アメリカの諸神話は、蜜を否定的価値の極限に押し進めるとき、蜜と経血とを同時に生じるものとしているのである。
蜜や樹液の糖が登場するところに、しばしば「経血」が登場する。野生の思考では、蜂蜜や甘い樹液と経血が異なりながらもペアになる対立関係を成すと考えられる。
まず、蜂蜜や甘い樹液は「植物の分泌物」である。
これにたいして経血は「動物の(人間も動物の一種だということを忘れないでおこう)の分泌物」である。
さらに、蜂蜜や樹液は甘くそのまま食べられるものである。
一方、経血は、そのままでは食べられないものである(調理しても食べられない)。
植物/動物、そのまま食べられる/食べられない。
このような対立関係に重ね合わせて、「蜜」と「経血」のペアの起源が考えられる。
植物の分泌物 / 動物の分泌物
||
そのまま食べられる / そのまま食べられない
↓分ける↓
蜜・糖 / 経血
ここで、蜜・糖 / 経血 の対立は、
自然の中から文化へ / 文化の中から自然へ
この対立と重なり合う。蜜や糖は自然のなかから分泌されて文化の領域へとそのまま移行されるものである。逆に経血は文化の領域のなかの身体から分泌される自然である。
自然と文化という対立する両極に対して、蜜・糖と経血は、逆方向の以降・転換をぞれそれ表している。
文化の中から自然へ
→(経血)→
文化 自然
←(蜜・糖)←
自然の中から文化へ
この移行、転換の動きのペアについても神話は言及しようとする。レヴィ=ストロース氏は続ける。
それだけではない。北アメリカの諸神話によれば、原初のシロップは男の尿を加えることによって樹液の状態へと退化した。そしてまた今度は、女の尿が原因で、シロップは通常経血のもつべき隠喩的機能、つまり、月の隈を表わす機能をもつようになった。
諸神話は以上の三項に第四の項を付け加える。すなわちバルサムモミの樹脂である。バルサムモミの樹脂は尿と同じく苦く、血と同じく月を周期とする。ふたつの分泌物は動物性で、ふたつの分泌物は植物性である。
そのうえ、M499は樹脂と女の禿とのあいだに対立関係を導入している。樹脂を塗ると女の禿がなおるというのだから。インディアンたちは女の頭皮を剝ぐということがなかったのである。したがって、女にとっての禿げ頭は頭皮を剝がれた頭に相当すると言うことができる。けれども、われわれはすでに、諸神話では、性の変換はあるが、頭皮を剝がれた男と生理中の女との等価性ということも言われているのを知っているのである。その結果、経血は樹脂と対立し、まえに仮定したように、それ自体樹脂と対立するカエデの樹液と等価ということになる。
経血と樹脂が対立し、経血とカエデの樹液(糖)が等価である。
「/」で対立を表し「=」で等価性を表すと、次のようになる。
経血 = 蜜・糖
/ /
樹脂 = 尿
「経血」も「蜜・糖」も「樹脂」も「尿」も、容器的なものの「内部」から「外部」へと出てくるものであるとという点で、四即一、みんな同じである。この内部から外部への分泌によって、
容器 / 中身
内 / 外
という、生きている人間にとっては、あまりにも自明で、対立関係が区切り出されない限り分別されないと言われてもほとんど理解できなくなるような、根源的、深層的な二項対立関係が分別される。
さらにこの内/外が区別できることを前提として上で、
分泌される(内から外へ出てくる)/混ぜる(外から内へ)
という方向性が真逆に対立する動きのペアが際立ってくる。
このペアは前述の通り、一が二になることと、二が一になること、つまり分離と結合のペアと同じである。
分泌される(内から外へ出てくる)/混ぜる(外から内へ)
|| ||
一を二にする / 二を一にする
|| ||
分離する / 結合する
分離と結合という、これまた生きている人間にとってはあまりにも自明で、これが区別されていない様相など通常の思考では想定できないような、根源的、深層的な二項対立関係、いや二つの述語的様相の対立が分けられてくる。
外 / 内
↓
外に出ること / 内に入ること
分離 / 結合
まず内外の分別と、次に外に出ることと内に入ること(分離することと結合すること)、この二つの分別がつかないかぎり、およそこの世界に存在するもの(あるものがそれではないものではないものとしてあること)については何も語り得ないであろう。

*
ここに、もともと結合しているところを分離に転じる(一を二にする)動きとして、「頭皮を剥がす」といった述語的様相が重なり、逆に二を一にする、別々に分離していたものを結合する述語的様相として「取られてしまった毛がまた生えてくる」といったことが重なる。
分泌される(内から外へ出てくる)/混ぜる(外から内へ)
|| ||
一を二にする / 二を一にする
|| ||
分離する / 結合する
|| ||
頭皮を剥がす / 毛が生える
|| ||
月の隈・経血 / 樹脂
|
|
周期性
(伸び縮み)
満ち欠けする月
季節の交代
・・・結合→分離→結合→分離→結合→分離→結合・・・
・・・
内/外と、外に出ること/中に入ること。
神話はいわば「存在論」と「認識論」の前段の処理のようなことを、蜜とか経血とか尿とか樹液といった、極めて感覚的で経験的なものたちの「動き」方を見比べながら、言語化していくのである(すごい)。

自然 ←/→ 文化
このシロップ作りや蜂蜜取りの神話が分離しようとしているのは、大きく言えば、自然と文化の分別である。自然でもなく文化でもない、自然と文化のあわいを、あちらからこちらへ、こちらからあちらへと振幅を描いて動き回ることができるのが、蜜であり、シロップであり、そしてそれと対立すると考えられた経血であったりする。
蜜やシロップは、文化に対する自然の側の内にありながら、外へと分離し、そのままの状態で食べることができる。つまり文化の領域で調理された(火を通された)料理たちと同列のものとして、火で炙ると食べられなくなってしまう、自然からとってきた姿のままの「蜜」が並ぶのである。それに対して経血とは、文化の側に存在する人間の内にある自然である。
文化は、自然をしりぞけ断片化することにより、まず充満を用いて真空をつくり出すことを任務とする。それから、生成に対して開かれるとき、真空を用いて充満をつくるという補完的な可能性をも獲得するのである。
けれどもそのとき、かつては断罪していた諸力を自己の企てに隷属させるという避けられない決定をせざるをえない。この回帰の手段を与えてくれる歴史は第二の自然という形で文化に介入してくるのだから。
この第二の自然は歴史的生成のとりこである人類、過去をつねに新たな層で覆ってその他の層を深みに追いやろうとする人類が分認するものである。それは、略奪され奴隷化された自然が放棄しようとしている世界と自分とをへだてている超えることのできない距離を埋めようとするかのようである。
充満を用いて真空をつくり出す。
自然 ←/(しりぞける)・(断片化する) /→文化
↓
充満 → 真空
真空を用いて充満をつくり出す。
自然→(生成に対して開く)←文化
||
→(「第二の自然」が文化に介入)→
↓
真空 → 充満
文化の分節体系は、固定した秩序であるべきものと思考される。しかし、実材には文化の内であれこれ分別され固定的に確定し安定しているかのように見えるものたちも、必ず、もともとは存在しなかったところから存在するように「生成」してくる必要がある。この生成、変容する動きには「自然」のプロセスが関わる。生まれ死す「自然」が人間の文化を常に新たに生成させ続けて、再生産している。
ここで人間は、文化と自然を分けようと願いながらも、文化の中に自然を組み込まざるを得ないことに気づくのである。
あるいはそもそも、もともと「文化」なるものと、文化と対立する限りでの非-文化の「自然」なるものとが、それ自体として所与の何かとしてどこかに転がっているわけではない。文化と自然は分けられるから分かれる。文化とは「文化ではないーではない」ということであり、この「文化ではない」に与えられる名が「自然」なのである。この「ーではない」が、分けること、「しりぞける」「断片化」である。
つまり文化と自然のあいだは分かれつつありながら、繋がったままなのである。この「繋がったまま」が迫り上がってくるのが「第二の自然」の文化への介入という自体である。自然界からもたらされる蜜はその一つである。
蜜のこの媒介作用、文化と自然を分けつつつなぐ動きは、自然ではないものとしての文化の「起源」を語ろうとする「野生の思考」にとって御誂え向き
である。


周期性・季節の交代
こうして『神話論理』は、ここから天体運動の「周期性」の話へと展開していく。天体の運動に連動する季節の交代もまた、人間の文化的な活動(端的には食糧獲得のための生業の形)を大きく左右する自然である。その影響力の大きさは、食事の中への蜂蜜の到来に比べてはるかに決定的であるようにも思われる。
さて、周期性とは、「一を二にする」から「二を一にする」へ、そしてまた「一を二にする」へ、さらに「二を一にする」へと展開する分離と結合の伸縮である。
この周期性について云々することができるようになる前に、まず内外の分別が、次に、外に出ることと内に入ること(分離することと結合すること)の分別が、まず絶対無分節から区切り出されないといけない、というのが今回読んだあたりの話なのである。
ここでレヴィ=ストロース氏は、ひとつひとつの神話から、「四項の群」が次々と抽出できるということに注意を促す(p.484)。
内/外を分別し、内から外に出てくること(分かれること=分離)と、外から内に入っていくこと(結合)とを分別すること。そこから伸縮する四項関係が出てくる。
すなわち、マンダラである。

私たち一人一人にとっての意味ある世界は
対立関係の組み合わせとして
分節されたものである
私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その名、その主語的なあり方(Δ、「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれらの主語的なものたちは、あくまでも伸縮を自在にする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である。

主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている。

私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。
分別心の表層意識に浮かぶ所与の諸要素たちをかっちりとした構造体として配置したように感じられる意味分節システムは、実は脈動する波の伸び縮み(周期的に反復される振動の周期T[s]が伸び縮みすること)を瞼を細めて薄目で眺めたようなものである。
*
神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験することを可能にしている分別(ふんべつ)、あるいは意味分節のパターンが、あれこれさまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にするし、またそうした分別、意味分節のやり方を相当程度自覚的に自在に組み立てることをも可能にするのである。
仏教では、私たち人間は、諸々の区別、分別をしながら、この二極のどちらか一方だけを選び結合し、他方を捨てて遠ざけたい、と願いながらも、その願いは決して叶わないということで苦しむのだという。
私たちの自覚的な意識、仏教でいうところの分別心は、「分離と結合の動きが止まる」ところで生じた。しかし、この「分離と結合の動きが止まる」というのは、止まっているようにみえているだけで、じつは「分離と結合の弱い様相転換の反復」(輪廻とか縁起とか)さらには「分離と結合の強い様相転換の反復」(法界の音声)が動いているんだよね、というのである。
ただこの動いている様子は経験的感覚的な分別心(識ということになるのだろうか)では捉えようがないので、止観したり、三密加持したり、いろいろな方法で感覚のモードを超感覚的に組み換えることで自在に觀じてみようよ、という話になる。
分別された二項対立を眺めつつ、「どうもおかしい、はっきり分けられない、分からないぞ、どうしよう」という焦る様な思いに駆られた時に、人類はその言語的思考によって「分離と結合の動きが止まる」を「分離と結合の強い様相転換の反復」に転換し、これをさらに「分離と結合の弱い様相転換の反復」に転換する力がある。

そしてまた「分離と結合の弱い様相転換の反復」の様相から「分離と結合の強い様相転換の反復」の様相へ、そして「分離と結合の動きが止まる」現世のあり方を、つど新たな様相で、言語的意味的に分節しなおすことができるのである。 こういうことを古来より人類は、神話を語り聴くことを通じて連綿とやってきているのである。

そしてそういう語りの言葉を動かしてきたのは、振幅の幅を伸縮させるような動きを語る、出たり、入ったりする、述語たちなのであった。
まとめ
野生の思考は対立関係の組み合わせを動かす
さて、冒頭に書いたように、意味するものと意味されることが固定的に結合する「信号」を扱える動物は人間以外にもたくさんいる。
しかし、ここで仮に「象徴」と呼んだ、意味するものと意味されるものとの関係を柔軟に動かしたり仮に固めたり、また動かしたりできるのは、人間の知性(サピエンス)ならではである(おそらく脳に集約される神経系の進化が関係しているのだろう)。
人類が他の生物は異なる他の生物とは大きく異なり、複雑な言語場合、二項対立たちの重ね合わせ方を自在に変容させたり、重ね合わせる「向き」をくるくると回転させたりすることができる。
感覚印象における分別連鎖を超えて、対立関係の対立関係として組み立てられた「意味」ということを自在に新たに生み出すことができる。
意味するということ、ある意味するもので、ある意味内容(意味されるもの・こと)を指示するといったことは、意味するものと意味されるものという異なる二つのことを異なるものとして区別しつつ、同時に、異なるが同じものとして結びつけるという処理によって動いている。
とはいえ、私たちの日々の言語は、出来合いの(つまり習慣化した)対立関係の対立関係、四項関係からなる意味分節の最小単位を、しばしば自明なもの、すでに端的にあるものとして扱いがちである。
そこでは言語は分別された感覚的印象の二極それぞれに貼り付けられる分類済みのラベルようなものに頽落している。そこで言語は感覚的に決まりきった、止まっているように感じられる「ある/ない」「自/他」「内/外」を反復する。
* * *
「頽落」と書いたが、象徴を生み出す能力から生まれた意味分節システムを信号として固定的に運用することは、必要なことであもる。人間もまた動物たちと同じようにある環境のなかに埋め込まれて生きている以上、環境そのものがもつ分別のパターンに対応して、信号的な反応をすることも必要である。
人間の言語は「信号」としても使える。
人間の言語はもともとはその「象徴」を自在に生み出す力、意味するものと意味されるものとの組み合わせを自在に発生させる力によって作り出されているが、そうして生みだされた言語を、動物たちのつかう信号のようなものにモードチェンジして使うこともできる。

特に人間にとっての環境には、人工の環境もある。
例えば、交通信号機。
赤 / 青
|| ||
止まれ / 動け
色の対立を、動きの対立に重ねている。
ここで「赤」という色そのものに、人間をはじめとする動物の動きを機械的に止める効能があるわけではない。カラスや、猫や、猛り狂う雄牛に「赤」いものをひらひらと見せたところで、止まってくれるわけではない。
赤を止まれに、非-赤としての「青」を非-止まれとしての「動け」に結合するのは、まったく象徴的な、自在な対立関係の重ね合わせ処理なのである。
しかし、こうして一度作られた対立関係の重ね方を、勝手に逆にしてはいけない、というルールもまた定めることができる。
青信号をみて「ボクは青いものを見ると体が硬直して動けなくなるんだ」という人は、おそらく運転免許の試験に受からないであろう。逆に、赤信号をみて「俺は赤いものをみると走り出したくなるんだ」という人がいた場合、速やかに運転できないように取り締まった方がいい。
1) 赤 / 青
|| ||
2)止まれ / 動け
赤青の対立関係と、止まれ動けの対立関係を重ねる向きを、勝手に逆にするなよということで「象徴」由来の記号を「信号」に転用して、交通の秩序を作っているのである。

* *
出来合いの世界の外へ
ところが、人間というのはおもしろいもので、ふと、あれこれの二項対立がなぜどうしてそのように分かれているのか、と疑問を抱くことがある。
「人間と、人間以外の動物は、なぜ違うのか?」
「世界が天と地に分かれているのはなぜか?」
「この世に、善と悪があるのはなぜか?」
「生と死が分かれているのはなぜか?(なぜ人は死ぬのか)」
このように問うときに、二項対立の自明性は一瞬、ゆらぐ。
こういう問いは、分かれる前、分かれてくる途中、分かれつつある途上、分かれているでもなく分かれていないでもない、ということを暗に思考しようとしている。
対立関係そのものが分かれ出てくる動き
人類の思考が、「そもそもあらゆる二項対立が二項対立として分かれつつ結ばれているということ自体がどこからきたのか」、「対立二項の分離と結合や、規則的な交代が、いったいどのようにして動いているのか」と問うようになったとき、世界の起源神話を語る「野生の思考」は対立関係がまだ分かれていないところから分かれ出てくるプロセスを言語的、イメージ的に描き出すことで、応えようとする。
このプロセスが一体「どのように」動いていくのかをモデル化するひとつの試論として、マンダラ状の意味分節システムを生成消滅する脈動(伸縮)ということを考えてみることができる。
そしてこの境地を自在に動かせるようになると、人類はいわゆる「阿耨多羅三藐三菩提」の境界に入ることができるのであろう。

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