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意味ある現世を作る方法-獲物たち、穀物たちとの距離を学び、四匹の蛇との距離を伸縮させる -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(97_『神話論理3 食卓作法の起源』-48)「傷つきやすい渡し守」

クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』”創造的”に濫読する試み第97回目です。『神話論理3 食卓作法の起源』第七部 「生きる知恵の規則」から「I 傷つきやすい渡し守」を読みます。

これまでの記事は下記からまとめて読むことができます。

これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。


はじめに

この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」を、空海が『吽字義』に記しているような二重の四項関係(八項関係)を描くマンダラ状のものと見立てて読んでみる。いや、マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たちが共鳴する“コト”と見立てて読んでみる。

経験的な区別が概念の道具となる

レヴィ=ストロース氏は大部の神話論理の冒頭に次のように書いている。

生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせ命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理1 生のものと火を通したもの』p.5

経験的感覚的な区別(分別)を概念の道具として、観念を抽出する。つまり分別同士を重ね合わせて意味分節する。そしてこの観念を繋ぎ合わせる(意味するものと意味されることとの一対一の静的ペアをリニアに連鎖させる)。それが「どのようにしておこなわれるか」。

この「どのように」をモデル化するひとつの試論としてマンダラ状の意味分節システムを生成消滅する脈動(伸縮)を考えてみる。

即ち、神話は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜Δ4を分けつつ、過度に分離しすぎない程度に付かず離れずに結んで安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指す。

Δ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別される項である。例えば、

Δ1 暑い / Δ2 暑くない
||       ||
Δ4 わるい / Δ3 わるくない

といったことである。私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界とは、ほぼすべて、このような二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている

人類は、というか、あらゆる生命体は、物心ついた瞬間に「経験的区別」を実行する機械のような仕組みとしてできている

自/他
生/死
好き/嫌い
内/外
因/果
ある/ない
うまい/まずい
高い/安い
遠い/近い

生きることは分けること

それぞれの生物は、それぞれ固有の感覚・神経の仕組みを使って、それぞれに固有の経験的に意味のある世界を分別して生きている。ユクスキュル『生物から見た世界』に記されている「環世界」の話である。この本は結構昔に書かれたものなのだけれど、今日なお、実に多様な分野で参照されている。

人間よりもシンプルな神経系で生きている生物の場合、感覚的な区別に応じて、身体の可能な動きの候補のなかから選択が行われる。

分け方は変え難いものもあるが、
分け方の重ね方は自在に変えられる(人間の場合)

他の生物と異なる人類固有の特徴である「言語」というものは、この対立関係を重ね合わせる処理の自在さに基づいている。人間の言葉は、同じ一つの「意味されるもの」を、実に多様な「意味すること」で表現することができる。

人間は、例えば

「男は女である」

などという言葉を聞くと、その意味するところはよくわからないが、なにかとても「深い」ことを言われている様な気がする、という特性を持っている。

人間はまた、皮肉の効いた比喩表現や詩的表現をおもしろがることもできるが、詩的言語、比喩表現というのは、感覚的経験的には対立し、分離し、混じり合わないような二項を、あえて結びつけ、短絡するところに生まれる。

分別に汲々とするのではなく(つまり、はっきり分けて、きっちり選べないと、疲労してしまう硬い分別心ではなく)、分別するもよし分別しないのもまたよし、分別と無分別のあわいをくるくるとひっくり返すことができる。

これが人間の知性(サピエンス)の要である。

人類の「心」の動き方

この「分別と無分別のあわいをくるくるとひっくり返す」ということができるためには、その前段として、「分別」と「無分別」、つまり、分かれていないところを分けることと、分かれているところを繋ぐこと、この二つの逆方向の操作を区別(分別)できなければならない。

分かれていないところを分けること

分かれているところを繋ぐこと

これを、一と二(多)とを区別できること同一性と差異性を区別できること、と言い換えてもいい。

そして、分かれていないところを分けるうごきが動いている渦中や、分かれているところを繋ぐ動きが動いている渦中では、「分かれているでもなく、分かれていないでもない」という事態が次々と多様な様態をとりながら変容していく。

ここに、マンダラが出てくる。

人類が経験的感覚的に生きている意味ある世界は、二項対立関係を二つ組み合わせた四項関係を最小構成単位として織りなされている(意味分節されている)ものである

Δ / Δ
||   ||
Δ / Δ

例えば、

人間  動物
||     ||
服を着る  服を着ない

これについて「野生の思考」は「/」と「||」の動きに注目して、Δ二項対立とその重ね合わせのはじまり(起源)を思考する。このΔ1〜Δ4を区別できないところからはっきりと区別できる状態にまで切り開き分けつつも、バラバラに飛び散ってしまわないように結びあわせ、しかし過度にくっつきすぎて区別できなくなることはないように均衡させておくということが、私たち人類にとって意味ある世界が意味ある世界であるために必要な意味分節の最小構成単位(二重の二項関係=四項関係)をつくる動きである。

この「/」と「||」の動きを説くために、神話として現れる「野生の思考」は、Δ1〜Δ4を分けつつつなぐ、四つの媒介者たちを登場させる。

先ほどの図で言えば、四つのΔたちの間に挟まって描かれている、四つのβ。この四つのβがΔたちを分けつつつなぐ媒介項である。

/ 
||    ||



β
β    β
β 

「/」と「||」は同じ動きの二つの異なる様相である
すなわち「/」は伸縮の「伸」の方に対応し、
「||」は伸縮の「縮」の方に対応する

両義的媒介項同士がくっついたりはなれたり

両義的媒介項(仮にβと表記しておく)は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている

いうまでもなく、そのようなものたちは、私たちの経験的感覚的には「存在しない」。この経験的感覚的には「存在しない」ことをあえて言語化することが野生の思考にとっては重要なのである。

神話は、そもそも何かが「存在する / 存在しない」を分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。つまり何かが存在するとか存在しないとか、そういう分別ができるようになる「手前」のことを思考しているのである。

そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。

両義的媒介項たちの距離の伸縮を表現する述語

お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つのβ項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。

  • 任意のβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり縮んだり

  • 任意のβ二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり縮んだり

  • 2または3、または4つの任意のβ項が中央の一点に集まったり広がったり

という具合に、β項間の距離を伸縮させる振動(振幅を描く動き)が起こりる。

私たち一人一人にとっての意味ある世界は
対立関係の組み合わせとして
分節されたものである

私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その名、その主語的なあり方(Δ、「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれらの主語的なものたちは、あくまでも伸縮を自在にする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である

主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている

私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている

分別心の表層意識に浮かぶ所与の諸要素たちをかっちりとした構造体として配置したように感じられる意味分節システムは、実は脈動する波の伸び縮み(周期的に反復される振動の周期T[s]が伸び縮みすること)を瞼を細めて薄目で眺めたようなものである。

神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験すること可能にしている分別(ふんべつ)、あるいは意味分節のパターンが、あれこれさまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にするし、またそうした分別、意味分節のやり方を相当程度自覚的に自在に組み立てることをも可能にするのである。

仏教では、私たち人間は、諸々の区別、分別をしながら、この二極のどちらか一方だけを選び結合し、他方を捨てて遠ざけたい、と願いながらも、その願いは決して叶わないということで苦しむのだという。

私たちの自覚的な意識、仏教でいうところの分別心は、「分離と結合の動きが止まる」ところで生じた。しかし、この「分離と結合の動きが止まる」というのは、止まっているようにみえているだけで、じつは「分離と結合の弱い様相転換の反復」(輪廻とか縁起とか)さらには「分離と結合の強い様相転換の反復」(法界の音声)が動いているんだよね、というのである。

ただこの動いている様子は経験的感覚的な分別心(識ということになるのだろうか)では捉えようがないので、止観したり、三密加持したり、いろいろな方法で感覚のモードを超感覚的に組み換えることで自在に觀じてみようよ、という話になる。

分別された二項対立を眺めつつ、「どうもおかしい、はっきり分けられない、分からないぞ、どうしよう」という焦る様な思いに駆られた時に、人類はその言語的思考によって分離と結合の動きが止まる」を「分離と結合の強い様相転換の反復」に転換し、これをさらに「分離と結合の弱い様相転換の反復」に転換する力がある。

そしてまた「分離と結合の弱い様相転換の反復」の様相から「分離と結合の強い様相転換の反復」の様相へ、そして「分離と結合の動きが止まる」現世のあり方を、つど新たな様相で、言語的意味的に分節しなおすことができるのである。 こういうことを古来より人類は、神話を語り聴くことを通じて連綿とやってきているのである。

そしてそういう語りの言葉を動かしてきたのは、振幅の幅を伸縮させるような動きを語る、出たり、入ったりする、述語たちなのである。


四つをひとつ

『神話論理3 食卓作法の起源』「第七部 生きる知恵の規則」の「I 傷つきやすい渡し守」、「M503 マンダン 天界の訪問」から、分離と結合を分けつつ結合する述語的な様相をみてみよう

この神話は長いので、先に概略を紹介しておく。

まず、ふたりの主人公が川を渡るために四匹一組のヘビたちを利用する。主人公たちはヘビに特別な団子を与えて機嫌をとり、水の上を泳ぐヘビたちの上にのって対岸近くまで渡るが、しかし対岸に上陸すべくヘビから降りるところで失敗し、あやうくヘビに食べられそうになる。

この蛇たちが、この神話の場合の「渡し守」である。
この章のタイトルにもなっている「傷つきやすい渡し守」というのは媒介者そのもの、媒介する述語的な様相そのものを体現している。渡し守というのはつまり、川のあちらとこちら、両岸の間をつなぐ者である。分離した二辺の間を分離したまま結合する。これが渡すということである。

人間のような地上を歩く動物にとっては、川は、こちらの土地とあちらの土地を隔てる=分離するものである。

こちらの土地 / あちらの土地

この分離された両岸の間を、こちらからあちらへ、あちらからこちらへ、渡し船+渡し守(あるいは渡し船の役割を果たす動物、ワニとか、サメとか)が一定の振幅を描きながら移動し続ける

* *

因幡の白兎

これだけでも渡し守は「媒介者」なのであるが、さらにそれが「傷つきやすい」とくる。

傷つきやすい」というのは例えば仲間だと思って乗せてあげた(結合した)相手に裏切られたり騙されていることを知り、傷ついて、渡し船から放り出したりする(分離する)といったようなことである。

傷つきやすい」渡し守は分離している両岸を結合に転じつつ、しかしいつも確実に送り届けるようながっちりと安定した橋のような媒介物にはならずに、いつでも乗客を水中に放り出すような、分離と結合のあわいで振動しつづける者である。

ご存知、出雲神話の因幡の白兎も「傷つきやすい渡し守」の話である。
白兎はワニ(サメである)たちを騙し、二つの岸辺の間の海上に一列に並べ、その上を渡り始める。しかし、途中で騙されたことを知ったワニ(サメ)によって海に放り出され、皮を剥がれて真っ赤になる。

皮を剥がれて真っ赤になるという件は、「赤い頭」の神話、主人公が遠くの敵の大将を倒して、その頭皮を剥ぐ神話とも通じる者である。「皮を剥がれて真っ赤になる」は、要するに、身体と皮膚という経験的には不可分に過度に結合したところを、強引に過度な分離へと転じるということである。過度な結合を過度な分離へと振る述語的な様相を象徴するのが「皮を剥がれて真っ赤になる」「赤い頭」といった項である。


原初の未分節

「M503 マンダン 天界の訪問」を詳しくみてみよう。長い話なので細切れにしながらみていこう。

大昔、まだ村々がハート川の河口まとまっていたころ、別腹のふたりの息子をもった大首長がいた。
賢く慎重な年長の息子は黒い薬草という名であった。
年少の息子は風の時に伸びる草あるいは香る薬草と呼ばれ、衝動のままに行動し、何者も畏れなかった。

レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.501
M503 マンダン 天界の訪問


まず、冒頭「まとまっていた」というところに注目しよう。

まとまっていたとは、つまり分散していないということである。
分かれていない、未分化、つまり分節システムがまだなく、人間にとって意味のある経験的世界の分別も、まだない、ということである。

この「まとまっていた」場所の立地も、川の「河口」である。

河口とは、つまり水界と陸界、人間が容易に暮らすことのできない世界と、人間が比較的容易に暮らすことができる世界とのちょうど境目、境界領域に、未分化な状態があったということになる。

レヴィ=ストロース氏はこの神話で「水の両義性」、両義的媒介項としての水に注目する。 河口は両義的媒介項たちが四つに分かれつつ繋がるように広がり始める手前の、根源的な「一」、未分を象徴するといえよう。


そこに「別腹」の兄弟の、ふたりの男の子がいる。

異なるが同じ、同じだが異なる。分離の始まり

わざわざ「別腹」というところが、結合しながらの分離、分離しながらの結合を際立たせている。兄弟だが別腹、半分は同じ親だが、半分は別の親
ここに同じでありながら異なり、一つでありながら二つでもありしかしあくまでも一つである、という同じなのか異なっているのか、どちらか不可得な、分離しているのか結合しているのかどちらか不可得な様相があらわれる。これだけのことを「別腹兄弟」の一言で象徴するのが野生の思考の良いところである。

そこからさらに、この別腹兄弟が対照的、真逆の性分であることが語られる。

兄 / 弟
||     ||
慎重 / 衝動的
||     ||
黒い薬草 / 風の時に伸びる草(香る薬草)

「別腹」というくだりでは、非同非異、分かれているが繋がっている様相が強調されるが、ここに来ると、性格が真逆であることが際立つ。つまり二人は別々、差異がある、区別できる、という分離の様相が際立つのである。

黒い薬草 ←←←/→→→ 香る薬草

レヴィ=ストロース氏はこの兄弟の名前について、「兄弟のいっぽうは黒い薬草と呼ばれている。これはワシによる傷およびヘビの咬み傷の手当てに使われる止血の効能のある薬草である」と書いている。ワシやヘビに噛まれる。つまりワシやヘビと噛まれた人物との過度な結合。その過度な結合により、噛まれた人物の内部から外部へと血が出てくる。これは元々一体的に極めて過度に結合していた体と血液との分離である。そしてこの流血、体からの血液の分離を止めて、再び血液と体との結合状態を回復するのがこの止血薬草ということになろう。

分離(噛まれる人と噛む動物が別々にいる)

結合(噛まれる)

分離(噛まれた人物の体から血液が分離

結合(止血)

という分離と結合の伸縮を描いている。この主人公はその名前からして、すでにβ伸縮そのものといえる。

つづきをみてみよう。

過度な分離へ、そして過度な結合へ


ある日、狩りに出ていた兄弟は、獲物が日に日に減ってきているのに気づいた。

その理由を調べるうちにふたりは、とある小屋にたどりつき、そこから獲物をいっぱいもった小屋の主が出てくるのに出くわしたが、主はふたりに気づかぬふりをして去った。

兄弟が小屋に入ると中はたいへん居心地がよかった。
選りすぐりの肉がほどよい火に炙られていた。
持ち主の帰りを待ってもいっこうに戻らないのでふたりは腹いっぱい飲み食いして眠り込んでしまった。



翌日、ふたりは小屋の主が去っていった南東の方へ向かった。
そちらには獲物の跡も見られず小屋の主の姿もなかった。

ふたりがこの不思議な小屋に戻ると、前の日と同様獲物をいっぱいもった主が出て行くところであったが、ふたりには声もかけず眼も合わさず立ち去ってしまった。

* *

謎を解こうと決めた兄弟は翌日、主に気づかれないように風下の方から小屋に近づいていった。小屋から出てきた主にふたりはとびかかった

落ちた荷物は大きな音をたてたので遠くからも聞こえたほどであった。
すべての種類の獲物が逃げ去った
小屋の主が捕らえて閉じ込めていたからである。

レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』M503 マンダン 天界の訪問 pp.501-502

まず獲物が次第に減っていく、漸減していく様相に注目しよう。

つまり、主人公の兄弟と獲物の間の距離が少しづつ伸びて、両者の間が分離されていくのである。もともと結合していたところが分離へと転じている。

兄/弟 ←←←  /  →→→ 獲物
(過度な分離)

この、兄弟のもとから消えた獲物がどこに行ったかと言えば、謎の小屋の主が「いっぱい持って」いたのである。

兄/弟 /→→→→→→→→→→獲物/ 謎の小屋の主

兄弟から分離した獲物が、謎の小屋の主に結合する。
こちらで分離したら、あちらで結合する、という神話によくある両義的媒介項の動き方である。

獲物となる動物たちが暮らす領域のはじまり

小屋の主と兄弟の距離の振動

ここで謎の小屋の主と兄弟の距離感の伸縮に注目しよう。

謎の小屋の主は兄弟の敵ではない
すなわち、いきなり兄弟を捕まえてとって食ったりはしない。

とはいえ、謎の小屋の主は兄弟の家族でもなければ、同族でもなければ、仲間でもないらしい。誰だかわからない「謎」である。

敵/味方・・どちらか「不可得」

小屋の主は、自分の小屋に兄弟が勝手に入り込み、勝手に料理を食べてしまっても、特に怒るとか、追い出すとかする様子もない。まるで兄弟のために、料理を用意して待っていてくれたかのようである。しかし、小屋の主は兄弟を客として歓待するようなそぶりは見せていない。謎の小屋の主は、兄弟が小屋に近づくと「気づかぬふりをして」去ってしまう。

「ふりをして」がポイントである。
気づいていないのではない。気づいている。しかし、気付かぬふりをする。結合しているのに分離を装う、あるいは結合しながらの分離である。

別の日、兄弟はちょうど小屋の主が出かけるところに行き合うが、この時も小屋の主は、目の前にいて、しかも自分の小屋に入ろうとしている兄弟たちに「声もかけず眼も合わさず」、分離していく。
分離しながらの過度な結合から、分離への転換

第一の対立の過度な結合が、第二の対立の過度な分離を引き起こす

そして3日目、この分離するでもなく結合するでもない、分離と結合がどちらか不可得、あいまいになった状態から、がらりと様相が変化する。

兄弟は、「気付かれないように」分離したまま小屋に結合し、そして、謎の小屋の主に「飛びかかる」。兄弟と謎の小屋の主の過度な結合に転じる。

神話で、ある二項対立関係が過度に結合するとくれば、そこから別の二項対立関係が過度な分離に転じるはずである。

今回の場合m謎の小屋の主からその「荷物」が、ガラガラと音を立てて激しく分離する

小屋の主+兄弟 ←/ / /→ 荷物(獲物たち)

この荷物は「獲物」たちであった。「すべての種類の獲物が逃げ去った」ことで、以後、兄弟たちは獲物を捕まえて食糧を得るために、いつも獲物を探しに出かけなければならなくなった
もちろん、探しに行けば、うまくすれば獲物を見つけることもできる。
獲物が完全に宇宙から消えてしまった訳であない。

この獲物たちの分離は「大きな音」を伴う。
これはつまり、音が聞こえるくらいの範囲の「空間」「距離」を区切りだしたということであり、それがおそらく、獲物たちが散らばった狩場の範囲ということになろう。これは現に生きる経験的感覚的な人々の生活において、身近な生活環境である。それは村落あるいは宿営地ほどに身近ではないが、しかし遠く遠く分離した異世界でもない。人間は、ある距離感の中で、適度に、獲物と兄弟たちは分離されつつ、結合している。

食べ放題
食べるものと食べられるものの過度な結合

さて、もし兄弟が謎の小屋の主に飛びかかったりせず、引き続き、目を合わせず、気付かぬふりをしてこの謎の小屋に通っていれば、兄弟はいつでも満腹になるまで食べ物にありつけたはずである。

つまりこの謎の小屋では、主人公兄弟と獲物=食べ物は、過度に結合した状態になっていたのである。

神話の冒頭、獲物が次第に減ってしまった、ということで、獲物と主人公兄弟のあいだは一瞬過度に分離されるが、その後すぐに、この謎の小屋で、獲物と主人公兄弟の関係は過度な結合に転じていたのである。

それがいま、主人公兄弟と小屋の主との間が短絡結合したせいで、逆に主人公兄弟と獲物の間は分離へと転じたのである。

獲物 ←過度な分離→ 兄弟

獲物 →過度な結合← 兄弟

獲物 /調停された分離/ 兄弟
(完全に分離しているでもなく、完全に結合しているでもなく)

第二の旅 はるか遠方へ

つづきを見てみよう。
人間たちの生活のための空間(獲物を獲りに行く領域)が生成されたところで、兄弟たちは次なる分節の確立へと出かける。

二人は「竜巻」に乗って、異世界の島へ飛んでいく。
先ほどの謎の男の小屋よりも、はるかに遠い=過度に分離された世界へと移動する。そしてここでは、先ほどの狩猟対象動物のはじまりに続いて、栽培作物のはじまりが語られる。


その夜は小屋で過ごし、翌朝兄弟は旅をはじめた。

ふたりは白く泡立つようなものを見つけ、兄がとめるのも聞かずに香る薬草は思慮もなくそれに矢を放った

それは竜巻であった。

ふたりはかろうじて弓の弦の皮紐で(異文では「輪差」)たがいに結びつける時間があったが、竜巻に巻き込まれ空中に巻き上げられた
ふたりはアリカラの国のグランドリヴァーの上を飛び越し、ひとつらなりになった島々のうちのひとつに着地した。



周囲は見渡す限りの水面であった。

ふたりは翌日調べに出かけた。

ひとつの小道をたどってゆくとトウモロコシ畑と菜園の真ん中にある大きな小屋にゆきついた。

ひとりの婦人がふたりを歓迎してくれたが、それはけっして死なない老婆であった。老婆はふたりにトウモロコシの粥をたいへん小振りな鍋で出してくれたがそれは汲めども尽きせぬ鍋だった。

* *

ふたりは肉も食べたいので小屋の前を通りがかったシカを殺した。

老婆は調理を引き受けたが自分では食べようとはせず、あとでシカたちに近寄らないようにと知らせた。兄弟はそうしたいのならこれらの動物たちを狩ることはかまわないが、獲物を料理して食べるのは小屋からは遠く離れた森の奥でなければならない、 なぜならこれらの動物たちが菜園の手入れをしているからということだった。

ある日老婆は、ふたりが狩りにゆくことを禁じた。
ふたりは物陰に隠れて、小屋に若い女性たちが入ってゆくのを見た。

女性たちは乾し肉や料理の供物を携えていた。
それは秋になると老婆のもとに春まで身を隠しにくるトウモロコシの精霊たちだった。
しばらくすると女性たちはトウモロコシの穂に姿を変え、老婆はひとつひとつ変種ごとに念入りに分けてしまった
供物は冬に備える蓄えとなるものだった。

レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』M503 マンダン 天界の訪問 pp.502-503

竜巻にのってたどり着いた先のは「周囲は見渡す限りの水面」という、これまた未分を象徴するようなあり方の場所である。

この島で、二人は「トウモロコシ畑と菜園の真ん中にある大きな小屋」に辿り着く。その小屋の主は老婆で、別腹兄弟を歓迎してくれる。

先ほどの謎の不親切な男の小屋が狩猟の世界だったのに対し、こちらは親切な女性の植物栽培の世界である。

男性 / 女性
||
不親切 / 親切
||
狩猟 / 栽培

謎の男の小屋では焼肉が食べ放題であったが、今度の親切な老婆の小屋では「とうもろこし粥」が食べ放題である。それも、小振りでありながら汲めども尽きせぬ鍋」という、いかにも神話的な、小さいのに膨大な煮込みが入っている、小でありながら大、という大小の経験的対立を短絡するものから、無尽蔵に植物由来の料理が出てくる

お粥が無尽蔵に湧いてくるのも結構だが、兄弟は「肉も食べたい」と言う。

そして、たまたま通りかかった鹿を狩猟するが、実は、この鹿たちは実は菜園の働き手であった。

老婆は、兄弟と鹿たちが近づかないように、分離するよう手配する。

目の前の鹿(肉)を、いますぐに料理して食べてしまうのではなく、労働力として働かせることではるかに大きな収穫を得ることができる。ただし、その収穫を得ることができるのは、今ここ、肉たる鹿を目の前にしている時ではなく、数ヶ月の季節が巡ったあとのことである。いま目の前の肉を食べることは我慢しなければならない。

食糧になる時を、長く伸ばす=いまここから分離することで、収量を増大させるか。それとも食糧になる時を縮め=いまここに結合することで、満足するか。

狩猟と農耕は同じ食糧獲得のための活動に見えて、それぞれの活動に寄与するものの考え方には違いがある。

狩猟では、獲物となる動物が、一頭、また一頭と、狩猟者の前に姿を現わし、狩られ、食べられる。肉を長期間蓄えておくことは困難な時代である。獲物の魂を速やかに送り、肉は大急ぎで調理し食べてしまわなければならない。獲物の生/死を、放っておけば腐敗を進行させる時間よりも、少し速いペースで高速に転換させていかなければならない。そこではまた、腐敗に打ち勝つことができない限り、動物を狩り過ぎること肉を大量に手に入れ過ぎることも無意味なのである。

それに対して農耕では、バナナやイモといった腐りやすい作物ではなくて、特に穀物の農耕では、収穫物を肉に対して相対的に長い時間、腐らせずに貯蓄することができる。そして貯蓄した一粒一粒の種をまた新しい季節に播種すれば、一粒が何倍にも増える。要するに、穀物の霊たちは肉を運んでくる動物に比べれば「不死」であり、時空を超えて蓄えれば蓄えるほど年単位に複利的に価値が増殖していく可能性を信じることができるのである。

この辺りのことは中沢新一氏の『アースダイバー神社編』のはじめの数章にも論じられているので参考にしたい。

この神話の老婆は兄弟に、菜園の世界と、狩猟の世界をはっきりと分けることを教える。菜園の世界と狩猟の世界では、それぞれの円環的な時間の周期性が大きく異なるのである。

菜園の円環的時間は一年365日くらいの周期性で巡りながら、その巡っていく穀霊たちを量的に増殖させていく。ゆっくりと螺旋をえがきながらその径を拡大していく感じである。

一方、狩猟採集の円環的時間は、獲物の肉や果実が腐敗して食べられなくなるまでの時間、つまり1日か、長くても数日程度の周期性で回っており、しかもその回転する「肉」の量は、狩猟者本人とその仲間が数日のうちに腐らせずに食べることができる分量以上に増えることはできない。小さな円がいつも同じサイズで高速に回転している感じである。

さて、この学びの後、兄弟は、菜園暮らしに飽きてしまい、もといた世界に帰ろうとする。菜園に流れる長周期の時間での暮らしは、狩猟者である兄弟たちにとってはずいぶんとゆっくりなもの、退屈なものに感じられたのだろう

トウモロコシ菜園の老婆は、ふたりが帰らないように閉じ込めたりすることなく(過度な結合を引き起こしたりはしない)、こころよくふたりの帰郷を見送り、しかも、ふたりが安全に帰れるように「四即一」というとんでもない名前の団子を授ける。

第三の旅、遠方からの帰還のための「渡し」

そしてここから「渡し守」の話になる。


兄弟はこうした活気のない生活に飽きて家に帰りたくなった

老婆はふたりの帰りを気持ちよく受け入れ、「四つをひとつ」という団子、すなわちトウモロコシとマメとヒマワリの種とカボチャの種を茹でて固めたものをくれた。
それはふたりが川を渡れるようにしてくれるヘビに与えるためであった。

それは一組の渡し守のうちの四番目で、角があり頭には草とヨモギとヤナギとボブブが生えているヘビだということだった。



兄弟はまず最初の三匹、すなわち角が一本のヘビ、つぎは角が枝分かれしたもの、つぎは角がありまだ若い植物で頭が覆われ たものは、追い払わなければならない[ベックウィスのヴァージョンでは(1)一角のヘビ、(2)枝角のあるヘビ、(3)砂洲を頭に続いたヘビ、(4)ボブラの生えた土の洲を載いたヘビ、となっている]。



老婆はふたりに、ヘビが頭を伸ばして岸に置くように命じて、そうしているあいだに地面に飛び降りるよう助言を与えた。

ものごとは予言どおりに進行し、団子で機嫌をよくしたヘビは向こう岸に渡りきることができた。しかし、堅い地面に頭を置くことはできなかった
飛び降りる時、黒い薬草(兄)はヘビに呑み込まれそうになった

弟はヘビを桟橋のように使うことにあくまでもこだわり、鼻の部分のところまで来たときにヘビにくわえとられてしまった

レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』M503 マンダン 天界の訪問 p.503

家に帰りたくなる。
もともといたところから遠い距離を移動してやってきて、そしてまたかえっていく。こちらからあちらへ、あちらからこちらへ、大きな振幅を描く。

この神々の菜園へ来る時、兄弟は竜巻に乗って空を移動したのであるが、帰りは経験的な人間と同様に地表を移動する。
その途中で渡河が必要になる。
「空をひとっ飛び」しないとこころが、ずいぶんとβ振動状態からΔ均衡へ、振動数が下がってきた感じがする。

この河は、危険なヘビに乗って渡る必要がある。
ここでヘビは四匹で一組である。両義的媒介項たちの距離が伸縮するβ振動状態が、経験的感覚的な存在者(「ヘビ」とか「ひと」とか)を主語に立てて語られる時、必ず四つに分かれながらも一つであり、一つでありながら四つである、という姿になる。そうすることで、経験的で感覚的なヘビの話をしているのか、β振動の象徴であるのか、識別しやすくなる。

主人公兄弟は、この危険な敵対的なヘビに乗る必要がある。つまり蛇と過度に結合し、そこからさらに分離しなければならない。

そこで、菜園の女神に授けられた「四つをひとつ」と呼ばれる団子、トウモロコシ、マメ、ヒマワリの種、カボチャの種、をを茹で固めた団子が役にたつ。この団子をヘビに与えることで、兄弟たちとヘビたちのあいだの関係を付かず離れずに調停することができる。

四つをひとつ」という名称がおもしろい。四即一・一即四は、過度にその距離を開きがちな両義的媒介項たちがバラバラにならないように収縮したあり方である。

<<団子>>

β
ββ
β

<<ヘビ>>

β
ββ
β

次に、ヘビが、三匹と一匹に分けられる。
三匹は、兄弟によって「追い払われる」のである。

                β
βーーーーーーーーーーーーーーーーβ 
                β

そうして兄弟は最後の一匹のヘビに「四つで一つ」の団子を与えて手懐ける。そうして蛇に乗って、対岸にまで辿り着く。

しかし、いよいよヘビから降りて上陸しようとする時、両義的媒介項同士の距離の伸縮らしい宙ぶらりんの状況が生じる。

渡しきることができない

蛇は、対岸の硬い地面に頭をくっつけることができなかったのである。
あと一歩で対岸と結合する、というところで、ヘビは対岸と分離したままになる。結合しそうなのに分離している、分離しているが結合しそう、という、分離するでもなく結合するでもない様相である。

ここで兄弟二人は真逆に対立する二つの方法で、ヘビから分離し対岸に結合しようとする。

冒頭であった、兄が慎重で弟が大胆、という対比がここで効いてくる

兄は、ヘビからジャンプして、陸地へと着地する(飛び降りる)。
兄はあやうくヘビに呑み込まれそうになったが、うまく回避して上陸に成功する。

一方、弟は「ヘビを桟橋のように使うことにあくまでもこだわり」、蛇の上を歩いていく。そしてヘビの鼻を踏んづけたところで、パクリと食われてしまう。

これまで不可分一体のワンセットで行動していた兄弟だが、兄はヘビと分離し、弟はヘビと結合(食べられる)する

兄 / 弟
||
ヘビと分離する / ヘビと結合する

ヘビに呑み込まれた弟であるが、不思議なことに、ヘビの顎の中にとどまりつづける。要するに、消化されてしまわず、口のところでのんびりしている。それが三日もつづく。

カミナリ鳥の娘たちとの結婚と別れ

そこに、次なる登場人物、守護者「カミナリ鳥」が登場する。

ヘビの巨大な顎のなかにすっかり気持ちよく落ち着いた香る薬草は、兄も来るように誘った
事情をよりよく知っている兄は涙ながらにそれを拒んだ

こうしたやりとりが三日続いた。



三日目の夜、兄「黒い薬草」は見知らぬ人物の姿が水面に映っているのに気づいた。その人物は毛を外にした毛皮の外套を着て空中の高みから、なぜそれほど嘆いているのか理由を知りたくて彼を見つめていたのである。

ヘビが定期的に水面に現われるのは、団子が欲しいからなのだ、と見知らぬ人物は教えた。
黒い薬草の団子はもうなくなってしまっていたので、謎の人物はヒマワリの種を擦りつぶして大量のウサギの糞とごく少量のトウモロコシの粉を混ぜてつくった団子を与えた。



四日目に黒い薬草はヘビに団子を差し出し、弟を最後に一目見ようと、ヘビに大きく口を開けるよう頼んだ。

ヘビは承知したが、頭を堅い地面に置くことは拒んだ

ヘビは空に黒雲があるかどうかを知りたがった

黒い薬草は「無い」と嘘をついて弟の手首を摘むと引っ張って地面におろした
その瞬間、雷がヘビを撃ち、ヘビは即死した。

見知らぬ守護者はじつはカミナリ鳥であった。

* *

気を失ったふたりの意識を回復させるとカミナリ鳥はふたりを家に誘った。彼はひとりの妻と(ペックウィスのヴァージョンでは金髪で内気な)ふたりの娘をもっていた。娘たちはまずヘビを切ることにとりかかった。

カミナリ鳥の妻はといえば、一日中寝たきりであった。

兄弟がきわめて活動的で類まれな能力をもっていることを察したカミナリ鳥は、上の娘を兄に、下の娘を弟に結婚相手としてさしだした [ペックウィスのヴァージョンでは、年上ということになっている常に常軌を逸した香る薬草が年下の娘を所望する]。

レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』M503 マンダン 天界の訪問 pp.503-504


弟は気楽なもので、温泉にでもはいっている感じで、ヘビの顎の中でくつろぐ。兄は、早晩弟がヘビに食われる運命にあることを知って悲しむ。

その兄弟とヘビの様子を、守護神「カミナリ鳥」が空から眺めている。ここでヘビが「定期的に水面に現われる」という、周期的に水中ー水面の間を振幅を描きながら往復する振動をしていることが、わざわざ言及されている。

カミナリ鳥は兄に、偽の団子をあたえ(四即ーのだんごではない。ウサギの糞をまるめたもの。つまりヘビが真に欲している=結合したいと願っているものではない)、ヘビと交渉させる。

兄はヘビに団子を提供すると申し出る。そして、最後に弟の姿を一目みたいので、水面にあがって、口を開けるよう頼む。

ヘビは地面に頭をのせることを拒み、また黒雲、つまり雷雲に警戒する。

兄は、雷雲などないと嘘をつく(つまり本当は雷雲があるのだろう)。

そうしてヘビが団子目当てに水面で顔を開いた時、兄はすかさず、弟の手首を掴んでヘビの口のなかから引っ張り出し(分離)、そしてカミナリ鳥が落雷でヘビを打った。

ヘビと兄弟たちの間は、分離が確定される。

渡し守のヘビたちとの間で伸縮運動を演じた兄弟たちは、その伸縮、両義的媒介項らしい脈動の相を離れて、経験的感覚的世界の分節体系を安定させるフェーズへと入っていく。現世のはじまりである。

β蛇を切る

まず、β蛇が切り刻まれる。切り刻まれることで振幅を描いて振動するβ項は、Δ二項へと切り詰められる。

Δ←/β/→Δ

そして、兄弟それぞれが、カミナリ鳥の姉妹と結婚する。

兄弟関係でぴったりと一体化していた兄弟が、それぞれの妻を持つことで、二組の夫婦、つまり四項の関係に広がって分離し、付かず離れずの距離を定める。

兄 / 弟
||  ||
カミナリ鳥の娘1 / カミナリ鳥の娘2

ところが、それぞれ結婚してもあいかわらず兄弟はふたりで冒険に出かけていく。この結婚はまさに、「人間」と「鳥」の結婚である。つまり経験的感覚的には結婚するということがまずない、遠く分離されたもの同士の間を短絡した結婚である。これはつまりβ鳥とβ人間の間で伸縮するβ結婚である。

β=/=β
||   ||
β=/=β

そうであるからして、兄弟は、その妻たちのもとにじっと結合してなどおらず、自由に、妻たちからの距離を伸縮させる。

過度な結合を分離し、過度な分離を結合し

義理の父(カミナリ鳥)が注意するのも聞かず、兄弟は身の危険も顧みない数々の冒険に乗り出し、最後には鳥たちを脅かしていた怪物を殺し冒険を成功裡に終える。

またふたりはヤマアラシの練が足に刺さって動けなくなっていたカミナリ鳥の妻の傷を治してやった。この妻の傷のために鳥たちは西に向かう春の旅ができなくなっていたのだった [ペックウィスのヴァージョンでは、ワシ女は空からヤマアラシをさらおうとして傷ついたのだ]。



ある日、カミナリ鳥は婿たち(主人公兄弟)に一族の者たちがやってくるのでどこかに身を隠して欲しいと頼んだ。
ハシボソカラス、オオガラス、ノスリ(北アメリカでは“hawk”という語はとりわけノスリ属 Buteo の猛禽類をさす)、ワシたちがつぎつぎにやってきて、種あるいは変種ごとに席にすわった

兄弟たちが殺した怪物のうちでももっとも新しいものであったミミズトカゲの肉で宴会をおこなったあと、カミナリ鳥は参列者に向かってこの獲物がふたりの手柄によることを発表し、ふたりを仲間に紹介した後、彼らに別れを告げた

もう秋になっていたからである。
彼らは年が明けた春には皆一緒に旅にたつことになっていた。
鳥たちは冬籠りのために古巣にもどっていった。
春になって上流に向けた移住の時がくると鳥たちは集まり、 いっしょに飛んでゆけるように兄弟を彼らと同じような姿にすることを決めた

鳥たちは兄弟を卵に変えると、 彼らはハゲワシの姿で孵り、あっという間に飛び方を覚えた。

* *

鳥たちは皆、ミズーリの谷をさかのぼって飛びはじめた。
妻たちから正しい助言をえていた兄弟は、鳥たちが差し出した武器のうちもっとも古くもっとも傷んだものを選んだ。というのもその武器こそが魔力を有し雷を発してヘビを倒すことができたのである

* * *

マンダン族の村の上空を飛んだ時、兄弟の父はちょうど毎年その時期におこなう鳥を讃える儀礼を執りおこなっている最中だった。
ふたりは村に帰りたくなりふたりの妻について来るよう誘った。

人間といっしょにいることで気詰まりするのが恐ろしいと言って妻たちは断り、夫たちに魔法の羽を与えた。これからはインディアンたちは、鳥たちが南に向かって移住する秋に儀礼を執りおこなわなければならないが、この羽が妻たちの身代わりになるというのであった。

レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』M503 マンダン 天界の訪問 pp.504-505

それぞれカミナリ鳥の妻を得た兄弟は、危険な冒険を繰り広げつつ、過度に結合したところを分離してまわる

  • 鳥たちを脅かす敵を倒す。(敵を分離する)

  • カミナリ鳥の妻の足に刺さったヤマアラシの針を抜く(これぞ分離)

また、逆に、過度に分離したところを適度な結合状態に引き寄せる

  • 鳥たちの一族に仲間として加わることを認められる(鳥と結合)。

  • 兄弟が鳥の姿に変身する(人間/鳥を一つに結合する)。

  • ヘビを倒すカミナリを発する武器を獲得する。

そうこうしているうちに、鳥に生まれ変わった兄弟はもともとの出身地の村、人間の村の上空まで飛んで帰ってくる。兄弟は自分たちの父親が鳥を讃える儀礼を取り行っているのをみて、人間の村に帰りたいと思う。

兄弟は人間にもどって、いや、β人間からΔ人間へとモードチェンジして、Δ人間の村、現世の、この経験的で現に経験できる人間の世界に暮らし始めようとする。兄弟はカミナリ鳥である妻たちにも一緒に人間の村へ来るように頼むが、妻たちには断られる。ここで人間と鳥との結婚(通常は結婚することがない、遠く分離したもの同士の結合)終わりを迎えることになる(分離する)

しかし、この結婚の終焉は、鳥と人間を完全に遠く遠く分離するものではなく、二つの結び目を残したものになる。すなわち、鳥から人間へ与えられ、鳥と人間を結ぶ「魔法の羽」と、人間が鳥たちに送る、人間と鳥を結ぶ「秋の儀礼」である。鳥と人間の間には、儀礼と羽を送り合うという交換の体制が確立される。付かず離れずの均衡の取れた二項対立関係の設立である。

→ 羽 →
鳥              人間
← 秋の儀礼 ←

ここで鳥のための儀礼について、レヴィ=ストロース氏は「大型の鳥のためには二種類の儀礼が存在した」と書いている。

第一の儀礼は「」に鳥たちの「到来」を祝う。
第二の儀礼は「」に鳥たちの「出発」を祝う。

春の儀礼はすでにおこなわれていた。というのも鳥たちが村の上空にさしかかった時には、主人公の兄弟の父はすでに儀礼を執りおこなっていたのだから。 ところがカミナリ鳥の娘たちは夫と別れるにさきだって、これからは同じ儀礼を秋にも挙行するように命じるのである。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.509

鳥たちが人間のもとに「到来」する時の儀礼と、鳥たちが人間のもとから「出発」する時の儀礼。鳥と人間の間は、分離から結合に転じ、また結合から分離に転じ、分離と結合という二つの様相の間をくるくると転換し続ける。

この分離しなながらも双方向のコミュニケーションによって結合した関係からは、過度な結合は排除され、また過度な分離も排除され、適度に分離しつつ適度に結合した調和の取れたつかずはなれずの対立関係が世界を満たすようになる

Δ =/= Δ
||         ||
/    /
||         ||
Δ =/= Δ

私たちが経験的に知っており、日々感覚しているような、なにがあってなにがないのかあるものがなにであってなにでないのか、そういった分別がはっきりと安定的に定まっているようにみえる世界の始まりである。

この神話について、レヴィ=ストロース氏は次のように書かれている。

「川は北西から南東の軸に沿って流れ、宇宙を西半分(南を含む)と東半分(北を含む)のふたつに分けている。[…]それぞれ西と東に結びつけられた半族はマンダン族にとってこの本源的な二元論の記憶を持続するものなのである。M503の主人公たちの対立しつつ相関する関係は、他の神話でけっして死なない老婆が住み、秋には鳥たちが移住してゆく南西の方にまず初めに旅をする小屋に入ることを認められた双子の片割れ」と「川に放り込まれた双子の片割れ」という特徴づけのもとで現れる時にはいっそう強く徴づけられている(小屋の子 Lodge Boyと泉の子 Spring Boy,前出、三二七頁)。

双子たちは春には鳥たちとともに北西の方へと移動する。しかし東から西へと行くためには双子たちはまず水を渡らなければならなかったはずである。じっさい、水は分けると同時に結びつける。 というのも水はふたつの世界の境界を徴づけているのにもかかわらず、鳥たちが季節ごとの移住のさいにミズーリ渓谷を北上したり南下したりするのはこの水に沿ってであり、 それによっていずれの世界にも干渉することを避けえているのである。

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』pp.507-508

小屋に入ることを認められた双子の片割れ」と「川に放り込まれた双子の片割れ」の話はのちにレヴィ=ストロース氏が『大山猫の物語』でも論じているところであり、要するに、神話の思考における「双子」というβ二項のセットは、過度に結合した様相と過度に分離した様相の両極の間で激しく動く、ということである。この神話では、二人の主人公たちは、真逆に対立しつつ、つまり強く退け合い、反発しあい、経験的には同時に同じ場所に存在することがありえないほど分離しているはずなのであるが、そのふたりがペアになって一緒に旅をしている。これが「主人公たちの対立しつつ相関する関係」ということである。この過度に分離しながら過度に結合しているββ兄弟が、世界の「本源的な二元」性を切り開いていく。

過度に分離しながら過度に結合しているββ兄弟は、こちらからあちらへ、行ったり来たりしながら、真逆に異なる世界の二つの極端な相を定め固めていく。そしてこの「あちら」と「こちら」を結合しながら分離し、分離しながら結合する鍵になるのが「川」という水の流れである。「水は分けると同時に結びつける」のである。川は「ふたつの世界の境界を徴づけ」る、つまりはっきりと分ける機能をはたす一方で、渡り鳥たちの北上・南下の道として、暑い季節と寒い季節、真逆に対立する二つの季節をつなげる機能も果たす。

まさに、分けつつつなぎ、つなぎつつ分ける。
分離と結合を分離したり結合したりする。

**

私たちにとってリアルに「意味のある」経験的な世界とは、このようにして意味分節されてくるのである。

この分離と結合の分離と結合を動かすワザに通達することができるならば、私たちがもし自身の生あるいは死についての「意味」に迷ったとき、その意味なるものを自在に生成変容させることもまたできるということになろう。


つづく


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