【マンダラ夢分析】深層意識への潜り方/水族館でエビを食べる夢&丸窓の潜水艦に本と箱庭と竿燈を積んで潜る夢
はじめに
心の動き方を「マンダラ」状にモデル化する
神話も夢も、人間の心の「深層」の同じところ脈動から立ち昇る振動のパターンが、表層意識の一番底に、その底面の平面に写像されたパターンである。その写像されたパターンのひとつの姿がマンダラである。
夢のビジョンにおいて、見られ、記憶され、覚醒後に言葉で報告される不思議な世界というのは、心の「深層」の脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底・感覚印象の記憶の束に投射されたときに、そこに浮かび上がるパターンである。
そのパターンはしばしばマンダラ状の姿をしている。
マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。
正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、そしてその四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。

視覚的イメージとしてのマンダラ
語りに現れる「述語」としてのマンダラ
このマンダラは四項関係や八項関係のイメージ、いわゆる曼荼羅として直接ビジュアル化される(視覚的なイメージになる)場合もあれば、夢の中での自/他の距離感が伸び縮みするような経験として現れる場合もある。

例えば、夢において、四人の(もちろんこの四人がもっと多くに分かれてもいいし、そのうちの幾人かが省略されてもいい)登場人物が喧嘩したり仲良くなったり、分離したり結合したりを繰り返すようなことである。夢で「私」と私ではない他の登場人物たちとは、ある場所において(円形の空間の中や、四角形の部屋の中、四角いテーブルの周囲で)分離と結合、愛/憎の両極の間を揺れ動く。
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このようなマンダラは「神話」の語りとして、神話的な神々や超自然的な存在者たちが結合したり分離したり、ぐるぐる回ったり、逃げたり追いかけたり、半分になったりする話として言語化されることもある。
項は、人間からみるとなにか固まったもの(主語的なもの)に見えるという意味で仮に「項」と呼んでみているが、どちらかと言えば動き、脈動、振動、振幅を振る…、行ったり来たり、という感じの述語的な様相である。
夢の登場人物たちは、主語の位置に据えられて報告される。つまり夢を見た者・夢見手が分析者に対して報告する場合に、「帽子を深く被った女性が・・」などという具合に語らざるをえない=言語化せざるを得ないのであるが、これが実は述語的様相の残像が共鳴して主語的様相を呈しているのだ、と読んでみたい。
「何が」ではなく「どう動いているか」に注目をしてみよう。
『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』の前書きに、監修者の河合俊雄先生が次のように書かれている。
ユングは繰り返しマンダラの中心性に焦点を当てるけれども、その中心を巡っての円環運動が生じてくることも繰り返し指摘している。運動としては、一度上に蒸留されたものが再び下に落ちるというものも興味深い。「無意識は運動でもある」としているように、意識も無意識も実体化されず、運動となっていく。それと同時に対立物の関係や合一は必ずしも意識と無意識の関係ではなくて、いわば抽象的なものになっていく。これは後に最晩年の「結合の神秘」において「結合と分離の結合」として結実していくものである。
伸縮する述語
この「どう動いているか」の「動き」とは、夢の中は、自/他の距離感が伸び縮みするような経験として、もっと細かく言えば、概ね下記のような2パターンに集約されるようにおもわれる。
<<分離状態にある相手(物事)と結合したいと望み、結合しようと動くが、うまく結合できない>>
あるいは
<<結合状態にある相手(物事)と分離したいと望み、分離しようと動くが、うまく分離できない>>
実際、私たちは、夢ではなく現実の日常生活においても、分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりするときに、不安や怒りを感じ、この不安や怒りを鎮静化するために、結合や分離の動きを触発する相手方との関係の取り方を試行錯誤する。
夢は、いや、夢として記憶の残像を残す深層意識の伸縮する述語的な動きは、この分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりする状態を付かず離れずに均衡させるよう、意識的にではなく無意識的に、意識の立場から見れば<自動的>に動いているようである。
マンダラの円環の上で向かい合い対立する諸項も(この場合は「意識」と「無意識」)、いずれも「運動」である。マンダラやマンダラの上で対立する諸項は「実体化されず」、つまり固まって輪郭が定まり性質が定まった個物として転がっているものではなく、運動、動き、動き方のパターン、つまり「述語」によって記述される出来事である。
以前、この「述語」的様相に注目して、ユングによる「パウリの夢」の分析を読んでみた。一連の記事は下記にまとめて掲載している。
* *
夢においていったい何が行われているのか?
夢はしばしば荒唐無稽で、訳がわからないものである。捉えどころもなく、分析するといっても、いったい何をどうしたら良いのか、といった感じがする。そこで役に立つのが「マンダラ」である。

マンダラは、正方形が組み合わさって、四項・四極を際立たせ、あるいはその四項それぞれの中間に配される中間項四つの関係を重ね合わせた八項関係として描かれたパターンである。
夢と同じく人類の心の深層から浮かび上がってくる思考の現れである「神話」においても、神々や超自然的な主人公たちは互いの距離を縮めたり伸ばしたり、結合したり分離したり、ぐるぐる回ったり、逃げたり追いかけたり、半分になったりする。マンダラ状のパターンを引き伸ばしつつ区切り出す動きを分節システムである言語によってシミュレートしようとすると、夢でも神話でも、対立する二者の間の距離の伸び縮みという述語の様相を軸にして線形の語りが言語化される。
私(この文章を書いている筆者)は、以前から、クロード・レヴィ=ストロース氏が『神話論理』で分析している神話の語りを、八項関係のマンダラ状の図式に照らし合わせて読み直してみようという試みを続けている。ぜひご参考にどうぞ。
Δ-β述語伸縮モデル
ここで述語がマンダラを描く、ということについて書いていこう。
神話の場合は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜4を分けつつも過度に分離しすぎないようにつないでおく、正方形と内接円(外接円)を組み合わせたような曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指している。

神話の語りはじめには、まだΔはない。
端的にない。存在しない。
何もないところから(ある/ないのペアすら”ない”ところから)、まずΔたちが収まる「余地」を切り開くこと、Δたちを配することができる「場」を生成することからはじめないといけない。
そこに野生の思考の神話論理が動く。
神話の語りは、まず図1で「β」と表記した両義的媒介項二項が、第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きを語る。
これを言語的な語りに託さずにイメージだけで感覚しようとすると、ちょうど一点から螺旋が回転し始め、その回転の渦が拡大して、安定的に円を描くようになる、といった具合になる。この円の中に(外に)正方形が、Δ四項を四つの角とする四角形が浮かんでくる。一方、あくまでも言語で語り、「登場人物」たちに託して語る神話では、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの両義的媒介項(β)たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。
両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」であるとか、「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」とか、「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」とか、「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。
そのようなものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話は、この経験敵に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。
そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出すというやり方で両義的媒介項を制作(ブリコラージュ)するのである。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。
このβたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とをバランスさせる。
ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。
そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

このような分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動きを「夢」のビジョンにもみることができる。
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水中を観察する四角形の箱・丸窓
今回は、筆者の研究仲間の方の夢を分析対象としてみよう。伸縮する述語がマンダラを描くようにして、精神のいくつかの分節機能の付かず離れずの均衡をはかろうとする様が浮かび上がる。
夢見者は水族館に来ている。
この水族館の動物たちは「餌」として魚やエビを食べている。
そして、ショーなどで必要以上に摂取した餌については、動物たちに吐き戻させて何度も再利用しているらしい。
ところが、この吐き戻した餌は、動物の餌として再利用しても食べきれないほどの量である。どうしても大量に余ってしまう。
そこで、余った分を、最終的には調理して、水族館のレストランで人間に提供している。動物たちが吐き戻した魚やエビであるが、人間用のエビフライやお刺身などに調理されると、美味しそうである。
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とりわけエビフライは人気がある。
レストランのカウンターの中に調理する人がいて、次々に揚げたてを大皿に山盛りにして提供される。
客はここからバイキング形式で好きなだけ取ることができる。
中には人の腕くらいありそうな、立派なエビもある。
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バイキングの順路には、エビ漁について紹介する、教材用の映像がスクリーンに投影されている。水族館によくある学習コーナーのようである。
水族館は娯楽性も取り入れているのかと思う。
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場面が変わって、一匹の猿が居る。
猿は、肋骨が剥き出しになって上半身と下半身が今にもちぎれそうな状態になっている。その姿で、猿は魚を丸呑みにしようとする。
猿は丸呑みできるのをいいことに、どんどん調子に乗って大きい魚を呑もうとする。
そしてこの二つに分離しそうな猿は、いよいよ自分の身体より大きい魚を呑み込もうとする。そうして激しく身体の形がうねるように変わった後、ついに半身を繋ぎ止めていた繊維のような肉がちぎれてしまう。
猿はそのまま絶命したようだが、しかし苦痛はなく、満足げであった。
冒頭から見事な分離と結合の伸縮が見られる。
動物たちが一度食べて吐き出した吐瀉物であるエビや魚が、人間の食べ物、それも皆が大喜びで競って求めるような食べ物になっている。
食べ物と吐瀉物は、経験的には真逆に対立している。吐瀉物であれば食べ物ではないし、食べ物であれば吐瀉物ではない。
しかし、この夢では、おなじエビ・魚が、一方では動物が<吐き出す>という、一つに結合した状態から二つに分離する述語的な様相にあり、他方では、人間が<貪り食う>ということで、二つに分離した状態から一つに結合した状態へと転換する述語的様相のもとにもある。
おなじエビが、二つの真逆に対立する動き、結合を分離する動きと、分離を結合する動きとを、同時にになっている。ここに<食べ物でありながら吐瀉物である>両義的媒介項としてのエビ(βエビと表記する)が登場する。
βエビ・魚
↓
β動物 =/= β人間
||
Δ吐瀉物=/= Δ食べ物
||
(出てくるもの)=/=(入っていくもの)
||
嘔吐する / 大量に貪り食う
||
一を二にする / 二を一にする
||
結合を分離に転換する / 分離を結合に転換する
この調理された段階のエビ・魚は、動物にとっては吐瀉物であるが、人間にとっては美味そうな食べ物である。エビ・魚は吐瀉物=体から出てくるものであると同時に、食べ物=体に入るものでもある。
また、動物たちが吐き戻した相ではエビたちは大量に余るほど排出される(外に出たまま蓄積されていく)のに対して、人間に食べられる相ではエビたちは大量に、人間の体内に飲み込まれる。この
外で - 余る / 内で - 不足
という対立も、エビ自身が担う二つの真逆に対立する様相として現れている。このようにいくつもの経験的に対立する二極のあいだで、そのどちらでもあるという様相を呈するエビ・魚は、両義的媒介項、βエビである。
* *
ちなみに、吐瀉物を食べ物として消費する人間もまた、経験的にはっきりと分別されるべき、食べ物と、体内から排出されたものとを混同しているという点で、両義的媒介項β、β人間である。
また、このβエビを食べたり吐き出したり自在に出し入れする動物たちも、通常経験的感覚的にはっきりと分離されているはずの、食べ物と体内からの排出物との両極をひとつに結びつける動きをしており、これもまた両義的媒介項β、β動物である。
βエビ
β人間 × β動物
βXX
*
吐き出す、食べる、見る、釣り上げる
さらにこのβエビは、このエビたちを食べて、そして吐き出した動物たちと同様に、水族館で展示されている研究・観察対象の動物のひとつとしても扱われている(映像学習コーナー)。
動物たち(エビを含む) / 見学する人間
||
食べられる / 食べる
見られる / 見る
人間にとって、海洋の水中で暮らしている最中の動物たちの姿は、容易に「見る」ことが難しいものである。水中のエビたちの姿は、ほとんどの人間の日常の経験から分離されたものである。
水中の生物たちの暮らし ← / →人間の日常
この経験的感覚的に通常しばしば分離されている二極の間が、「見る」や「食べる」という形で結合に転じているのも、この夢の場面のおもしろさである。
水中の生物たちの暮らし →/(見る)/← 人間の日常
* *
またこの分離を結合に転じる様相が、映像コーナーでは、βエビ・魚の「漁」の様子として表現されている。「漁をすること」は即ち、エビたち魚たちを、水中から陸界へと引き上げる、伸縮(伸びているところを縮める)系の述語である。
水界(水中) / 陸界(陸上)
|| ||
人間が呼吸できない / 人間が呼吸できる
このように経験的感覚的に通常鋭く対立されている二極の間を、βエビたちが、あちらからこちらへ、移動する。
水界(水中) →(エビ)→ 陸界(陸上)
||
釣り上げられつつある
<釣り上げられつつあるエビ>という述語は、水/陸二極のどちらだけのものでもない、という様相を開いていると解釈できそうである。
釣りのモチーフは、神話にもしばしば登場する。
日本の神話で言えば海幸山幸の神話などはまさにこの「釣り」で、両義的媒介項たちの過度な分離を過度な結合へ、過度な結合を過度な分離へと伸縮させつつ、その対立関係を均衡させて、その両義的媒介項同士の隙間に、人間の現世を起源させるという仕組みになっている。海幸山幸では、釣り針自体が外れて分離し海底に沈んでいく、という動きが実におもしろい。
ちなみに、日本の神話でいえば、体内から排出されたものを調理して食事に供するというのは、まさにオオゲツヒメのモチーフである。
「水界と陸界を媒介する釣り」や「体内から出たものを調理して供する」といった対立関係を伸縮させる述語的様相は、人間にとって古今東西、その注意を引きがちな深層意識の伸縮する動きの動き方を反映した元型イメージなのであろう。
*
魚を貪り、上下に分離する猿
ここで、下記の関係に注意しながら、先を読んでみよう。
ここまでのところで、三つの両義的媒介項βが登場し、その間の距離が、過度な分離を過度な結合へと転じ、また過度な結合を過度な分離へと転じる様な動きが見られた。
βエビ
β人間 × β動物
βXX
ところで、両義的媒介項βは、四つ揃っているとマンダラを描く上で便利である。では、βXXにはなにが入るのか?!
ここで夢に戻ると、不思議な猿が登場する。
場面が変わって、一匹の猿が居る。
猿は、肋骨が剥き出しになって上半身と下半身が今にもちぎれそうな状態になっている。その姿で、猿は魚?を丸呑みにしようとする。
猿は丸呑みできるのをいいことに、どんどん調子に乗って大きい魚を呑もうとする。
そしてこの二つに分離しそうな猿は、いよいよ自分の身体より大きい魚を呑み込もうとする。そうして激しく身体の形がうねるように変わった後、ついに半身を繋ぎ止めていた繊維のような肉がちぎれてしまう。
猿はそのまま絶命したようだが、しかし苦痛はなく、満足げであった。
上半身と下半身がちぎれそうな猿、というのもおもしろい。
経験的に結合しているはずのところが分離しかけている。
この猿はβ猿である。
第四の両義的媒介項βXXは、β「魚?を貪り食う上半身と下半身がちぎれそうな猿」である。
β猿はβ人間と、先ほどの水族館の吐瀉物を調理したものをうまそうに食べていた人間たちと非同非異の関係にある。β人間=β猿の過度な結合の様相が見える。
また、β猿は魚?(βエビと非同非異)を丸呑みにして貪り食っている。食事という、通常ならば、もともと自分とは分離しているものを少しづつ咀嚼しては、徐々に自分と結合させていくプロセスを、「丸呑み」という、過度な結合の仕方で短絡している。β猿=βエビの過度な結合の様相である。
そしてこの猿が喰らっているβエビは、元々はβ動物の餌だったものであり、この点でもβエビを介してβ動物とβ猿はひとつに結合する。いや、そもそも猿もまた動物であるという点で、水族館の大型の哺乳類たちと非同非異である。
++
さて、このβ猿がβ魚(=βエビ)、を、自分よりも巨大なβ魚を丸呑みにしたところで、猿の身体の上半身と下半身をかろうじて繋いでいる管のようなものが、その中を通過するβ魚によって破られ、ちぎれ、そうしてβ猿は上下二つに分かれてしまう。
ここでβ猿は絶命するのであるが、しかし、「満足げ」である。
なぜこの猿がちぎれてしまったのに満足なのかといえば、それはこの猿が両義的媒介項βだからである。経験的に対立するはずの二極を過度に結合したり分離したりと激しく伸縮するβ項は、その振動を定常化することで、付かず離れずに安定的に対立する経験的で感覚的な分別(Δ四項関係)を区切り出す。

つまり、β猿が上下にちぎれたことで、上の図でいえば、Δ-1とΔ-2という二つの経験的感覚的に「主語」の位置を安定してとるもののポジションを確定したのである。
夢見者によれば、この「猿」は、砂浜に打ち上げられて死んでしまった鯨の体が自然に腐敗し解体している途中の様子にも似ていたという。その「肉」は腐敗したもの、つまり人間にとっては通常は食べ物ではない、吐瀉物と同じ様な「腐ったもの」であるが、他の生き物たち、特に微生物たちにとっては明確に食べ物である。鯨は肉を食べられて肋骨が顕になっている。自然に解体されている途中の肉体は生/死あるいは存在と非存在の中間を移行中の両義的媒介項でもある。
*
この夢では、冒頭で、食べられるものでありながら、食べられないもの(吐瀉物)である、という様相で、経験的に対立する二極(二つのΔ項)のどちらでもあり、どちらでもないもの、として、両義的媒介項β(エビ・魚)を浮かび上がらせた。この際、「食べる」や「吐く」といった述語を担う主語として、水族館の動物と、水族館見物の人間が出てくる。
その次に、この両義的媒介項βエビ・魚が、両義的媒介項β猿と、過度に結合する。二つの両義的媒介項が過度に結合する。
β*β
この猿は、ただ「猿」というと、感覚的経験的な二項対立の一方の極に安定的に収まったΔ猿になってしまうので、上半身と下半身がちぎれそうになっている、という結合しながら分離しようとする様相であらわれている。
そして最後に、β二項の過度な結合から一挙に転じて、「猿」が上下半身に分離する。この分離、もし猿が経験的なΔ猿であれば、半分に切れてしまうと大変なことになるわけであるが、この猿はβ猿である。
つまり、腹がはち切れて上/下に分離することで、現世に経験的感覚的に存在しつづけることができる二つのΔ項になるのである。βの相において「絶命」した猿は、現世Δの相に生まれたのである。
こうして両義的媒介項たちが動き回る深層の世界の脈動から、表層の分別が安定的に定まった世界が生まれる。
Δ (/β/) Δ
ところで、Δ具体的に経験的感覚的な何であるのか、この夢でははっきりと見えてこないが、実は心の深層の伸縮運動においては、最終的に浮かび上がってくるΔ四項関係は、実はなんでも良いのである。
Δ1 / Δ2
|| ||
Δ3 / Δ4
こういう関係が、私たちが経験的に自分たちの生きる世界を意味分節する時の最小単位になるのであるが、このΔ1〜Δ4に何が入るかは、任意に自在に変えて良い。
私たちが自身の生きる世界を安定的に意味あるものとして受け止めるうえで大切なのは、まず、
Δ1 / Δ2
|| ||
Δ3 / Δ4
この構造が、バラバラにならずに、また潰れずに、付かず離れずに均衡している、ということなのである。
そしてこの四項関係を分けつつつなぐのが、四つの両義的媒介項、βたちの伸縮運動、過度な分離と過度な結合の様相の間を転じつつ、何かの弾みで、過度に分離しすぎず、過度に結合しすぎない、睨み合いのような形で対峙して均衡することになった四つのβたちなのである。
β
|
Δ1 =/= Δ2
|| ||
βー / / ーβ
|| ||
Δ3 =/= Δ4
|
β
この夢には、上記のような経験的感覚的現世の意味分節システムが心の深層から浮かび上がる瞬間がよくみえている。
*
以上の分析について、共同研究者である夢見者ご本人からコメントをいただいたのでご紹介します。
<コメント>
解釈をありがとうございます。
無意識がβの脈動状態が徐々に落ち着いてゆき、経験的な項が安定して存在できるような布置を作り出すという心のシステムは、生理的に備わった自律神経系の動きのようです。
この夢を見た当時、現実で特定のΔへの固執というような顕著な悩みがあったのかは記憶に定かではありませんが、無意識は夢を見ることで、心の柔軟性を促す自己回復機能があるのかもしれませんね。
夢の意義をそのように考えると、分離と結合の伸縮軌道が重要で、具体的な項は個人的無意識の記憶と経験に依存して選択された象徴にすぎないように思われます。
夢は「生理的に備わった自律神経の動きのよう」であり、この動きが「心の柔軟性を促す自己回復」しようとしている、というのが重要なところだと思います。
私たちの自我が、分別に迷う私たちの自我が、意識的に覚醒時にあれかこれか、ああでもないこうでもないと、何かを選んだり、何かを選ばずに遠離しようと右往左往すればするほど、分離と結合の伸縮は均衡状態を遠く離れ、過度な分離や過度な結合に固着する方向に向かいがちであるように思います。
分離したい物事と結合されてしまった状態を分離へと転換したり、結合したい物事と分離されてしまった状態を結合へと転換したりすることを、出来合いの固定的な分別の枠で思考する知性によって、意識的に実行するのは難しいことです(もちろん、できないことはなく、例えば非-自我としての他者との対話を通じて、自我の意味分節システム、つまり無自覚に使っているΔ四項関係を丁寧に浮かび上がらせて、組み直し、そこからさらに主語を徹底的に透明化したほぼ述語だけの論理を展開することもできますが、容易なことではない。なによりも、自/他、生/死、善/悪、有/無、といった経験的感覚的な世界の安定した主語的なものたちの配置を一旦すべて溶かすのは、耐え難く辛く苦しい、極めて危険な作業になります)。
ところが、私たちの心の源底では、この固着した過度な分離や過度な結合を柔らかくほぐして、伸縮自在な両義的媒介項(β項)たちが動き回る余地を開き、そうして新たな意味分節の基本単位、対立関係の対立関係としてのΔ四項関係を自在に発生させる動きが、いつもすでに、いまここで、実は動いているのである。
そうした心の深層が伸縮しながら動いているところへ、たまたま、私たちひとりひとりが意識の表層で経験し記憶したイメージの記憶の断片が(その主語的なものの姿が)パラパラと落ちて、沈んでいく。そうして、ちょうど砂鉄を撒いた紙の下に磁石を配置した時に「磁力線」の影響が視覚化されるように、経験的感覚的なものたちがマンダラ状のパターンを描くように対峙して並んだ状態が浮かび上がってくる。
水中の中の四角と丸
深層の上澄としてのマンダラ
この夢見者の方による、上記の夢の数日後の夢を見てみよう。
夢見者は親しい友人の書斎にいる。
潜水艦の中、あるいはドラム式洗濯機のような丸い小窓が壁にいくつか付いていて、泳ぐ魚や海の底に注ぐ光でまだら模様になった砂が見える。
アクアリウムの中に書斎が包まれているようである。
非常に美しく、夢のようである。
*
書斎には、水槽が置かれている。
その水槽の一つに、銀色の服を着た女の子の人形がたくさんレイアウトしてある。人形は人差し指くらいの大きさの赤ちゃんの人形みたいな感じである。髪が長い。水槽に魚を泳がせるだけではなく、おもちゃのようなオブジェを配置しているところが素敵だと感じる。
*
丸い小窓の横に、机があって、本、ノート、暖色のテーブルランプが置かれている。この書斎を改造するのに2600万円かかったと友人はいう。いったいどこからそんな大金を持ってきたのだろうか、と夢見者は思う。
またこの友人は「竿燈」を買ったことがあると言う。
竿燈を個人で買えることに驚き、またこの友人は不思議な人だなあ、という気持ちになる。
この夢について、夢見者の方が絵も描いてくださったので、ご紹介しよう。

「潜水艦」や「水槽」のビジョンは前の「水族館」の夢と通じている。
水中に潜り込むことは、表層意識から深層意識へと訪問することを象徴しているともいえるだろう。
ここでいう表層意識とは経験的感覚的に分別がはっきりと定まった領域であり(例えば、人間/動物、食べ物/吐瀉物)、対立する二極は混じり合わない、混じり合うべきではない、という世界である。
これに対して深層意識とはβ脈動の世界、上下半身が今にも分離しそうな猿が吐瀉物なのか食べ物なのか定かではないものを過剰に貪ったりする世界である。
通常、表層意識の常識的分別に固着したまま、この深層の世界へと降りて行こうとすると、ひとは激しい恐怖や、嫌悪感、違和感に脅かされることになる。
しかしこの夢見者の夢においては、深層の中へ「書斎を設えた潜水艦」が潜り込んでいる。
書斎というのは書物、文字がぎっしりとつまった高次に理知的・知性的な空間である。分別の道具の塊、といってもよいかもしれない。あるいは本は「四角」である。机も「四角」である。
そしてそれがそのまま容器に入って、深海=無意識につつまれるかたちになる。そして丸窓を通じて、水中を自由に眺める。
ここに深層の無分節を怖れることなく、「嘔吐」することもなく、深層の最上部のあたりで表層の分別の道具である言語やイメージや身体を柔軟に伸縮させ、動かしながら、自在に組み換え変容させることができるようになっている。
この窓丸はユングの考えを参考にすれば「マンダラ」、表層と深層の調和の象徴といえるだろう。表層の分別=二項対立関係を分けつつつなぐ両義的媒介項たちが最小構成で四つ集まって付かず離れずに距離を保ち合い、深層の円に内接する正方形のようなものとして調和の取れた表層分別意識を形成する。四角と丸の組み合わせ。

この丸窓の本を蓄えた潜水艦の全体が、円に内接(外接)する正方形としてのマンダラであり、深層に差し込まれた表層からのアンテナでもある。
表層から深層を覗き込む、逆向きの「潜望鏡」のようでもある。
ここでは、深層は表層にとって、不気味で恐ろしいものではない。表層のロゴス的な「思考」の力は、深層に潜っても、引き続きいくつもの丸窓を通じて深層を自由に観察することができる。
また、この書斎は「2」と「6」で作られている。
最初の2は表層意識が分別する二項対立関係の両極、任意二つのΔであろう。あるいはΔとβの区別でもいい。
この2Δが存在するためには、あと6つが必要であり、合計で8になる。
ちなみに「2600」の十の位の「0」と位置の位の「0」は、それぞれ、Δ四項を正方形に配するための外接円(内接円)と、β四項を正方形に配するための外接円(内接円)であろうか。
2 6
0 0
八項関係をダイナミックに分けつつつなぐマンダラを、線形に形態素を並べていく言語の空間に写像すると、マンダラが「2600」になるという、時に不思議な変換が起こる。
* *
この書斎に置かれた水槽には、「銀色の服を着た女の子の人形」がいくつもレイアウトされている。まるで「箱庭」の様である。
丸窓のこちらから深層を覗き込む表層意識にとって、深層の水中は恐るべき闇の世界などではまったくなく、美しくレイアウトされた、秩序をもった、いや、動的なパターンでキラキラと輝いているマンダラとして、意識化できるものである。
* *
この銀色に光り輝く女の子の人形たちは、仮に書斎の本たちに代表される言語が”男性性”的なロゴスの象徴だとすれば、それと対立する”アニマ”であるとも言えそうである。ユングが分析するパウリの夢にも、ロゴス的意識がたくさんの女性たちに出会い取り囲まれる、というビジョンが登場している。
ただこちらの夢の場合、女性たちはなにか夢見者に恐怖を与えるようなものではなく、小さく、行儀良く、可愛らしく並んでいる。つまりこれを仮にアニマと呼ぶにしても、このアニマは表層意識のロゴスと調和しているのである。
*
その調和の象徴が、「竿燈」であろう。
竿燈は、光にあふれた垂直の棒である。
無意識を水中、意識を陸界だとすると、仮に水中の潜水艦のなかから外へ、潜望鏡のように、防水タイプの竿燈を立てることができるなら、それはこの両界を垂直に結びつつ、照らし出すことであろう。
深層と表層を自在につなぎ、一面的ではない、複数の、多数の、多様な「光」で照らしだし、いくつもの影=形態を浮かび上がらせるのである。
前の水族館の夢の分離と結合の脈動と比較すると、こちらの潜水艦は安定している。もしこの夢で、潜水艦の丸窓のガラスが割れたりすると表層は深層に飲まれてしまうのであるが、そのようなことはなく、実に静かに、調和している。
この夢の分析についても、夢見者の方からコメントをいただいている。
<コメント>
潜水艦様の丸窓は、まさに深層の最表と表層の最深、意識と無意識が呼応するマンダラのようです。
パウリが下降するエレベーターの夢を見ていましたが、夢見手を乗せる保護的な「容器」は自我と衝突なく、ロゴスの原理を維持したまま自然に無意識に移動させる(β化させてゆく)アイテムなのかもしれませんね。
途中で登場した水槽のなかの銀色の女の子の人形は、「自我と調和的なアニマ」とのことですが、そもそも書斎が水に浸かっているところから、硬質で超自我的なものが柔らかい母性的なものに包まれているとも言えそうです。そこでは、潜水艦のような書斎は空間的な「容器」でありつつ「中身」でもあるという。またその「潜水艦」の「中」にさらに「水槽(容器かつ中身)」が入れ子状に畳み込まれているのがおもしろいです(女の子のジオラマの中にさらに、水槽的なものがあるかも?)。このモチーフを通じて内/外の様相が第四レンマ的に定まることなく動き続けているように思われます。一見Δ的な具体的象徴(水槽、潜水艦)に二項対立が転換する動きを読み込んでしまうのが見事です。
前の水族館の夢と同様、「自我の一極化を解き、バランスのとれた状態を作り出そうとする無意識の恒常機能が夢見手特有の分別システムを経由するとこうなる」といった感じですね。
現世で生きているとどうしても分別を固めてしまうものですが、睡眠が身体組織の疲労を癒すのと同じく、夢を見ることは分別の凝集で消耗した心を回復させる機能があるのかも。そうだからこそ、われわれは今日も着実に分別ができるわけで、「分別に拘る」ことが悪いのではなく、分別の凝集と拡散のサイクル全体が心、マンダラなのではないでしょうか。
たいへん鋭いコメントを頂戴し、感謝です。「ロゴスの原理を維持したまま自然に無意識に」潜っていく、というのがとても大切なことなのです。
私たちの意識(表層)はついつい、<表層の意識が人間が生きられる善なる光の世界で、深層は生死の区別も解けてしまう様な恐ろしい闇の悪の世界だ>と考えたくなったり、あるいは逆に<表層の世界は嘘偽りの迷いの世界で、深層こそが本物の世界なのだ>と考えたくなったりします。
ところが、この
光 / 闇
善 / 悪
偽物 / 本物
といったような分別こそ、表層意識、分別する知性が頼りにしている出来合いの二項対立なのです。
こういう二項対立が、ありとあらゆる二項対立が、発生したり、また消えたり、また発生したりと、ちょうど水中からぽこぽこと立ち上ってくる気泡のように、次々と現れては消えることを繰り返しているのが私たちの心の全体像なのだと思います。
表層の固定的な分別だけを取り出すことはできないし、もちろん、深層の無分別だけでも経験的で感覚的な身体性を生きること、生/死を分離し続けることができなくなってしまう。深層も表層も、ロゴスも無意識も、「どちらか」ではなく「どちらも」大切で、しかもその「どちらでもない」を宙ぶらりんにしつづけることが重要なのだろうと思います。
「どちらでもない」を宙ぶらりんにしつづける、などというと、一体そのようなことを、どのように実行したらよいのか、と途方にくれるところでありますが、実は、私たちは、私たちの心は、深い深い無意識の底の底につながる大きな心は、日々、いまここで、この表層でもなく深層でもなく、しかし表層でもあり深層でもあるあわいを浮かび上がらせながら、そこで分別する意識をもまた生成し続けている。
その有様をありありと、日常を生き抜く時に頼っているのと同じ言語的意味分節システムをもちいて観察できるようにした(なった)ものが「夢」ということになるのだと思います。

◇今回の夢を記録してくださったひづみさんの記事◇
ユングは『パウリの夢』にまとめられた講演で、次のように語っている。
「無意識の心が完全な暗闇ではなく、未知の物事からなる形の定まらない領域であることをみなさんはご存知でしょう。間接的な方法で、私たちはそれ(無意識)についていくらか知ることができます。つまり、経験という目に映る世界ではなく、どこか別のところから引き出されてきた意識内の素材を通して、私たちはそれを知ることができるのです。その情報源となる主な素材を一つだけあげるなら、それは夢です。もちろん、他にも無意識が現れることはたくさんありますが、夢は私たちが最も直接的に気がつきやすい無意識の産物なのです。」
夢は無意識から意識の表層に伝達された情報である。
夢を分析することで、夢見者自身が自覚的に意識していない心の深層における葛藤や固着の様子を知ることができる。
◇
最後に、竹村牧男先生の『空海と華厳思想』を読んでいて、改めて目に留まった空海の言葉を参照しておこう。『秘密曼荼羅十住心論』の「帰敬頌」の一節である。
「群眠の自心に迷えるを驚覚して、平等に本四曼の、入我我入の荘厳の徳を、顕証せしめん」
四曼、四項関係をなす対立関係の対立関係が伸縮自在に現れては変容していく様を、心(意こころ)で見て、身で感じて、口で言葉にする。そうすることで分別に迷いがちなこの衆生としての心身のままで、分別するでもなく分別しないでもない境地(衆生と仏の分別についても)に入り、そしてこの人間的に経験され感覚される現世そのものを法身の説法として感じ、受け止め、共鳴する。空海がみる即身成仏の世界である。
夢を見ている時、私たちはまさに四項関係をなす対立関係の対立関係が伸縮自在に現れては変容していく様に立ち会っているのである。私たちが何かと何かを分別してなにかをしたりしなかったりする「はかりごと」に右往左往する手前で、心はすでに覚っている、この身のまま成仏している、ということを「夢」が表層意識の一番底に刻むマンダラ状のパターンからも如実に知ることができる。・・・もちろん、ふだんは分別心が勝ってしまって、あれかこれかと汲々としているため、このすでに私自身の心の底が覚っているということを忘れてしまっているのであるが、例えばいまここで夢を分析し、分別する心による「迷い」(主語たちをどこにどれを並べるかという執着の対象に係る諸問題)を一旦脇において、述語的様相の伸縮だけにフォーカスして、対立関係の対立関係が現れては変容しつづける様に言葉(口)、イメージを(意)、そして身体を共鳴させるならば、私たちは自心の迷う様に「驚覚」することもまたできるのである。
人にはそういう生きる道もあるのである。
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