【マンダラ夢分析】電気釜を運びながらマンションのエレベータで右往左往する夢
はじめに
心の動き方を「マンダラ」状にモデル化する
神話も夢も、人間の心の「深層」の同じところ脈動から立ち昇る振動のパターンが、表層意識の一番底に、その底面の平面に写像されたパターンである。その写像されたパターンのひとつの姿がマンダラである。
夢のビジョンにおいて、みて、記憶し、覚醒後に言葉で報告することができる不思議な世界は、心の「深層」の脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底・感覚印象の記憶の束に投射されたときに、そこに浮かび上がるパターンである。そのパターンはしばしばマンダラ状の姿をしている。
マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、そしてその四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。

視覚的イメージとしてのマンダラ
語りに現れる「述語」としてのマンダラ
このマンダラは四項関係や八項関係のイメージ、いわゆる曼荼羅として直接ビジュアル化される(視覚的なイメージなる)場合もあれば、夢の中での自/他の距離感が伸び縮みするような経験として現れる場合もある。

例えば、夢において、四人の(もちろんこの四人がもっと多くに分かれてもいいし、そのうちの幾人かが省略されてもいい)登場人物が喧嘩したり仲良くなったり、分離したり結合したりを繰り返すようなことである。
夢で「私」と私ではない他の登場人物たちとは、ある場所において(円形の空間の中や、四角形の部屋の中、四角いテーブルの周囲)で繰り広げる分離と結合、愛/憎の両極の間を揺れ動く。
あるいはまたマンダラは「神話」の語りとして、神話的な神々や超自然的な存在者たちが結合したり分離したり、ぐるぐる回ったり、逃げたり追いかけたり、半分になったりする話として言語化されることもある。
項は、人間からみるとなにか固まったものに見えるという意味で仮に「項」と呼んでみているが、どちらかと言えば動き、脈動、振動、振幅を振る…、行ったり来たり、という感じの述語的な様相である。
夢の登場人物たちは、主語の位置に据えられて報告される。つまり夢を見た者・夢見手が分析者に対して報告する場合に、「帽子を深く被った女性が・・」などという具合に語らざるをえない=言語化せざるを得ないのであるが、これが実は述語的様相の残像が共鳴して主語的様相を呈しているのだ、と読んでみたい。「何が」ではなく「どう動いているか」に注目をしてみたい。
伸縮する述語
この動きは、夢の中で、自/他の距離感が伸び縮みするような経験として現れる。『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』の前書きに、監修者の河合俊雄先生が次のように書かれている。
ユングは繰り返しマンダラの中心性に焦点を当てるけれども、その中心を巡っての円環運動が生じてくることも繰り返し指摘している。運動としては、一度上に蒸留されたものが再び下に落ちるというものも興味深い。「無意識は運動でもある」としているように、意識も無意識も実体化されず、運動となっていく。それと同時に対立物の関係や合一は必ずしも意識と無意識の関係ではなくて、いわば抽象的なものになっていく。これは後に最晩年の「結合の神秘」において「結合と分離の結合」として結実していくものである。
マンダラの円環の上で向かい合い対立する諸項も(この場合は「意識」と「無意識」)、いずれも「運動」である。マンダラやマンダラの上で対立する諸項は「実体化されず」、つまり固まって輪郭が定まり性質が定まった個物として転がっているものではなく、運動、動き、動き方のパターン、つまり「述語」によって記述される出来事である。
以前、この「述語」的様相に注目して、ユングによる「パウリの夢」の分析を読んでみた。一連の記事は下記にまとめて掲載している。
* *
今回は、この記事を書いている私自身の夢を分析対象としてみよう。今日の自分たち自身の夢において、述語がマンダラを描くようにして精神の調和をはかろうとする様を捉えてみたいと思う。
意識しやすい無意識の産物、夢
ユングは『パウリの夢』にまとめられた講演で、次のように語っている。
「無意識の心が完全な暗闇ではなく、未知の物事からなる形の定まらない領域であることをみなさんはご存知でしょう。間接的な方法で、私たちはそれ(無意識)についていくらか知ることができます。つまり、経験という目に映る世界ではなく、どこか別のところから引き出されてきた意識内の素材を通して、私たちはそれを知ることができるのです。その情報源となる主な素材を一つだけあげるなら、それは夢です。もちろん、他にも無意識が現れることはたくさんありますが、夢は私たちが最も直接的に気がつきやすい無意識の産物なのです。」
夢は無意識から意識の表層に伝達された情報である。夢を分析することで、夢見者自身が自覚的に意識していない心の深層における葛藤や固着の様子を知ることができる。
◇
夢においていったい何が行われているのか?
夢はしばしば荒唐無稽で、訳がわからないものである。
捉えどころもなく、分析するといっても、いったい何をどうしたら良いのか、といった感じがする。
そこで役に立つのが「マンダラ」である。

マンダラというのは、正方形が組み合わさって、四項・四極を際立たせ、あるいはその四項それぞれの中間に配される中間項四つの関係を重ね合わせた八項関係として描かれたパターンである。
夢においては、マンダラ状の形をしたものが直接イメージに現れる場合がある。それならば「マンダラの夢だった」とわかりやすい。
一方、一見するとマンダラが隠れていると気づきにくい夢もおおい。例えば、マンダラを織りなす対立関係の対立関係の対立関係の最小構成単位である二項対立が一つだけ前景化して、その両極の間の距離が伸び縮みするような夢がある。自分が誰かに追いかけられるとか、逃げて隠れるとか、あるいは大切なものをなくして探し物をするとか、四人の(もちろんこの四人がもっと多くに分かれてもいいし、そのうちの幾人かが省略されてもいい)登場人物が喧嘩したり仲良くなったり、分離したり結合したりを繰り返すようなことである。これは自/他の距離感が伸び縮みする経験である。
夢においてマンダラは、直接的に円や正方形の形で現れる場合もあれば、この正方形の四つの角をなすであろう二つの二項対立関係の項たちがくっついたり離れたりする動きがみえる場合もある。
興味深いことに夢と同じく人類の心の深層から浮かび上がってくる思考の現れである「神話」においても、神々や超自然的な主人公たちは互いの距離を縮めたり伸ばしたり、結合したり分離したり、ぐるぐる回ったり、逃げたり追いかけたり、半分になったりする。マンダラ状のパターンを引き伸ばしつつ区切り出す動きを分節システムである言語によってシミュレートしようとすると、夢でも神話でも、対立する二者の間の距離の伸び縮みという述語の様相を軸にして線形の語りが言語化される。
私(この文章を書いている筆者)は、以前から、クロード・レヴィ=ストロース氏が『神話論理』で分析している神話の語りを、八項関係のマンダラ状の図式に照らし合わせて読み直してみようという試みを続けている。ぜひご参考にどうぞ。
Δ-β述語伸縮モデル
ここで述語がマンダラを描く、ということについて書いていこう。
神話の場合は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜4を分けつつも過度に分離しすぎないようにつないでおく、正方形と内接円(外接円)を組み合わせたような曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指している。

神話の語りはじめには、まだΔはない。端的にない。存在しない。
何もないところから(ある/ないのペアすら”ない”ところから)、まずΔたちが収まる「余地」を切り開くこと、Δたちを配することができる「場」を生成することからはじめないといけない。
そこに野生の思考の神話論理が動く。
神話の語りは、まず図1で「β」と表記した両義的媒介項二項が、第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きを語る。
これを言語的な語りに託さずにイメージだけで感覚しようとすると、ちょうど一点から螺旋が回転し始め、その回転の渦が拡大して、安定的に円を描くようになる、といった具合になる。この円の中に(外に)正方形が、Δ四項を四つの角とする四角形が浮かんでくる。一方、あくまでも言語で語り、「登場人物」たちに託して語る神話では、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの両義的媒介項(β)たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。
両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」であるとか、「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」とか、「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」とか、「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。
そのようなものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話は、この経験敵に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。
そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出すというやり方で両義的媒介項を制作(ブリコラージュ)するのである。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。
このβたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とをバランスさせる。
ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。
そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

このような分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動きを「夢」のビジョンにもみることができる。
上/下 内/外
今回は私自身の夢を分析してみよう。
あつあつのご飯が詰まった電気釜を配膳カートに乗せて、マンションのエレベータホールを右往左往する夢である。
上/下の二極のあいだでの伸縮と、内/外の二極のあいだでの伸縮。
この二つの伸縮運動を浮かび上がらせる述語に注目してみてみよう。
自宅マンションの一階エントランスでエレベーターを待っている。
私はなぜか、炊き立てのご飯が詰まった電気釜を配膳カートに乗せて運んでいる。
エレベーターは、待てど暮らせど、なかなか降りて来ない。
*
私はエレベーターホールで電気釜を開けて炊き立てのご飯をおにぎりにしようとする。
ほかの居住者たちが集まってくる。
皆、わたしが一階のエレベーターホールでおにぎりを握っているのを不思議そうに、いや、不審者をみるように眺めている。
私自身、場違いなことをやっているという自覚がある。
そして
「いや、こういうのは炊き立てを握った方がうまいんだよ」
などと私は言う。
が、明らかに奇妙な行動であり、言い訳になっていないなと思う。
**
ようやくエレベーターが降りてくる。
わたしは大急ぎで電気釜を片付けて、みんなと一緒にエレベーターに乗る。
エレベーターは上昇するが、しかし、わたしの目的とする階には止まらない。
エレベーターはわたしと電気釜を乗せたカートを閉じ込めたまま、また一階に戻ってしまった。
そこに知人である町内会長が通りかかる。
わたしが事情を話すと、彼もエレベーターのおかしな挙動に困っているという。彼はつい最近、行き先ボタンにはない「地下3階」の機械室まで連れて行かれてしまい困ったと言う。
わたしもこのマンションの地下に機械室があることは知っていたが、実際に入ったことはなく、どういう具合か気になる。
町内会長によれば、地下3階は真っ暗で湿っていて、なにやら機械音が響いていて、不気味だった、という。
そこに、最上階の方に住んでいる居住者の一人が通りかかる。
彼も顔見知りである。
エレベーターに乗りますか?と聞くと、今は乗らないという。
町内会長は、この最上階の居住者のことを「彼は頭がいい、言ったことは全部覚えてる。適当なことを言えない相手だ、気をつけて、ちゃんとしてつきあおう」と評する。
ようやくエレベーターが動く。
町内会長と私の2人で上昇する。
今度はわたしの目的の階に着く。
ようやく電気釜を乗せた配膳台のようなものを押しながら、エレベーターを降りる。
ふと、自分の部屋の入り口がどこか、わからなくなる。
ウロウロと探すと、フロアマップがある。
みると、私の家は思っていたのよりももっと奥の方だったと気づく。
高層建築のマンションと上下に昇降するエレベータの動きをまず念頭においていこう。
最上階
|
/上昇する↑(エレベータ)↓下降する/
|
一階
私はまず、一階のエレベータホールにいる。
そして私は、「炊き立てのご飯が詰まった電気釜」を台車に載せて運んでいる。一体どこから運んできたかわからないが、電気釜はまだ熱々である。
上に上がりたくても上がれないわたしが電気釜の内/外の区別を破る
私は、エレベータで下から上に昇りたいと思っている。
しかし、エレベータがまったく上から下へ降りてこない。
私は上にあがりたいのに上がれない。
上に上がりたいのに上に上がれず下にいる私は、結合したいところ(上階)と分離したままで、分離したいところ(1階)と結合したまま、という分離と結合のねじれ状態のなかにいる。
結合したいところ(上階)と分離したまま
/
分離したいところ(1階)と結合したまま
このような分離と結合のねじれの相にある項は、上のΔーβモデルでいえば、β項、両義的媒介項である。
さて、このとき私が、「炊き立てのご飯が詰まった電気釜」を「運んでいる」というところに注目しよう。私と炊き立てのご飯が詰まった電気釜は結合状態にある。
β1 上に対する下に釘付けになっているわたし
↓
↑
β2 炊き立てのご飯が詰まった電気釜
このとき、一階エントランスホールに足止めされているβ1私は、電気釜のふたを開けて、中の炊き立ての米を取り出し、おにぎりを握る、という述語的様相において、β2炊き立てのご飯が詰まった電気釜と過度に結合している。
β1わたしはβ2電気釜の内/外を区別するふたを平気で開けて、その中に手を突っ込んで、内容物である熱々のお米を握る。β二項、二つの両義的媒介項が過度に結合している。
経験的に分離しているところが過度に結合
とはいえ、電気釜の蓋を開けたり、中に手をつっこんでお米を取り出しておにぎりを作るということは、そのこと自体としては取り立てて珍しいことではない。経験的に感覚的に、ごくありふれた日常の光景である。
この夢が、βわたしとβ電気釜との結合を、経験的感覚的に普通は分離されているはずのところを過度に結合した状態にしているのは、このおにぎり作りが自宅の台所や食卓ではなく、屋外の、エレベータの風圧で砂埃が舞うような場所で行われているからである。
つまり通常は電気釜を開けたりしない場所で開け、調理をしないような場所で調理をしているからこそ、分離すべきところが過度に結合される違和感を呼び起こすのである。
じっさい、この違和感を高めるために、エレベータホールを行き交うご近所の皆さんが、わたしの行為を好奇の目で、いや奇異の目でみてくる。
わたしはご近所ではちゃんとした人で通っているので、これは非常にまずいと、言い訳を並べる。
「いや、こういうのは炊き立てを握った方がうまいんだよ」
いや、そういう問題ではなく、家で握った方がいいんだよ。
夢見者わたしとしては、家で握りたくても、家に帰れないので(エレベータが降りてこない)しかたなくここで握っているということなのだろうが、余計に変な人感が強まっている。
***
さて、ここでAI(ImageFX)で生成した「エレベータホールでおにぎりを握るひとを、ご近所さんが不審者を見るような目で眺める」様子をご覧いただこう。



・・・と思ったが、よく見ると
「アジアの諸都市でよくある屋台のオーナーが、自分の家から食材を運び出すところ」
だと思えてくると、違和感は薄らぐ。
そこで、もっと場違い感を強調すべく「超高級タワーマンションのエレベータホールで、登場人物を全員年収1億円以上のビジュアルにして」とAIに指示すると以下のようになった。

いや、ケータリングサービスのスタッフに見えなくもない。

「君たちはどう握るか」
「湯気たちぬ」
昇って降りる
そこにようやく、エレベータが降りてくる。
わたしは握っている途中のおにぎりをいそいでどうにかして、他にもエレベータを待っていたご近所の皆さんたちと一緒にエレベータのかごの中に入る。そして上へ上へと運ばれる。
βわたしもβ電気釜もβご近所さんたちも、みんなまとめて、ごちゃっとひとつになって、上昇していく。
↑
|
|
β
β*β
β
|
|
しかし、どういうわけだが、エレベータは私が目的としていた階を通過して上昇する。そして下降するが、降りる途中にも私が目的とするフロアは通過する。
そうして私はまた一階のエレベータホールに、つまりさっきまでいておにぎりを握っていた場所に戻ってきてしまう。
昇って降りる。
みごとな伸縮である。
ここでおもしろいことに、同乗者たちは、みんなそれぞれ、各自が目的とするフロアでちゃんと降りていくのである。
ββご近所さん
|
|
|
βわたし*β電気釜
↓
つまり、もともと一階のエレベータホールでおにぎりを握っていた時以来ごちゃっと集まって結合していたβ項たちのうち、βご近所さんたちは収まるべきポジションに収まって(降りるべきフロアで降りて)、βわたしとβ電気釜からは分離していったのである。
ふたりの人物との距離の伸縮
さて、また一階のエレベータホールに戻されたわたしと電気釜だが、そこに、町内会長がやってくる。彼も同じマンションの高層階に住んでいる人で、エレベータに乗るつもりである。
βわたし * β電気釜
β町内会長
この時点でわたしはもうおにぎりは握っていない。電気釜の蓋もとじられていて、わたしはただ台車に載せて電気釜を運んでいるだけの普通の人になっている。
私は、エレベータが上下するだけで、自分の帰りたいフロアで降りられなかったことを町内会長に告げる。
β町内会長は待ってましたとばかりにわたしの言うことに共感する。そして、彼は同じこの奇妙なエレベータで「地下3階」というところに連れて行かれた話をする。
最上階
↑
|
|
β
β*β
β
|
|
↓
地下3階

わたしたちのマンションのエレベータには「地下3階」にいくためのボタンは設置されておらず、つまり私たちは通常、この「地下3階」とは完全に分離されているのである(行きたくてもいけない、結合したくても結合できない)。
その通常は完全に分離されているはずの「地下3階」に、このβ町内会長は、意図せず、エレベータによって連れて行かれたのだという。
わたしは、自宅の直下にありながら一度も訪れたことがない「地下3階」に」興味があり、どういう様子か、β町内会長に尋ねる。彼によればそこは機械音が唸る湿った真っ暗闇の不気味な空間であったという。
地下3階と最上階
さて、この「地下3階」の話をしているところに、この「地下3階」とは真逆に対立する極である「最上階」に属する住民が通りがかる。おもしろいことに、この最上階の人はエレベータに乗らないという。最上階まで階段を登るのはさぞかし疲れると思うが、平気なようである。スタスタとエレベータホールを離れて、非常階段の方に向かっていく。
階段を使って最上階に登ろうとするこの最上階住民の彼は、この時点で、上がりたいところに上がれず、下りたくもないところに下らされるエレベータとははっきり縁を切っている。階段を使う彼は、すでに最上階へと確実に辿り着けることが約束された存在である。
<<最上階>>
βエレベータを使わず登る最上階居住者
↑
|
|
<<1階>>
βわたし*β電気釜
|
|
↓
β 意図せずエレベータで連れてこられた町内会長
<<地下3階>>
ここで、「βエレベータを使わず登る最上階居住者」「β 意図せずエレベータで連れてこられた町内会長」が、最上階と最下階(地下3階)、このエレベータの上下運動によって区切り出される両極にそれぞれ結びつきつつ、いまはたまたまわたしと電気釜と一階にいる、という状況になる。
おもしろいのは「β 意図せずエレベータで連れてこられた町内会長」が、「βエレベータを使わず登る最上階居住者」のことを「適当なことを言えない相手だ、気をつけて、ちゃんとしてつきあおう」と評するところである。
最上階の方は、分別なく関わると、つまり下手に甘えたりして過度に結合しようとしたり、変に対立して過度に分離しようとしたりすると、厄介なことになる相手だと言うのである。
とはいえ同じマンションのご近所さんであるし、しっかりした人ならば何かの時には頼りになる。過度に結合せず、過度に分離せず、節度を持って、つかずはなれず、距離感を保ちながらきちんとお付き合いしたいところである。
「βエレベータを使わず登る最上階居住者」
|
/
|
「β 意図せずエレベータで連れてこられた町内会長」
ここでおもしろいのは、エレベータの運動の両端の象徴が(最上階に関するものと、地下3階に関するもの)とが、付かず離れず、その距離を一定に保つようになったということである。こうしていうなれば、エレベータの「伸縮」(上端が際限なくさらに上へ上へと伸び、下端が際限なくさらに下へ下へと伸びる)が止まって、その上端と下端が定まったのである。

さきほど、私が自分の目的とするフロアにたどり着くことができなかったのは、エレベータの上端が際限なくさらに上へ上へと伸びたり縮んだり、下端が際限なくさらに下へ下へと伸びたり縮んだりと、伸縮をしていたからである。

ところが、いまや、エレベータはその両端、上端/下端が定まった。
ここでβわたしとβ電気釜は、β町内会長とともにエレベータに乗って上昇する。
私は自分の居室があるフロアで、エレベータを降りることができる。
β町内会長はそのままエレベータにのってどこかへいく。
さて、わたしと電気釜はようやく自宅に帰れる。
ところが、今度は水平方向で、空間が伸び縮みしてしまう。
私は自宅が、エレベータを降りてすぐのところにあると思っていたのだが、探しても見つからない。そうして部屋の配置が書いてある図面をみて、自分の部屋番号がエレベータから離れた場所にあることを知る。
近いと思ったら遠かった。
エレベータを基準に遠/近が伸縮している。
上端
↑
|
〜 遠 ←*→ 近 〜
|
↓
下端
そうしてβ二項の結合状態であるβわたし+β電気釜は、垂直方向で伸縮し、水平方向で伸縮し、空間の分別を区切り出したのである。

このようにして立体曼荼羅としてのマンションが建立されたのである。
ユングによる意識の四機能
さて、ここで、
βエレベータを使わず登る最上階居住者
βわたし
β電気釜
β 意図せずエレベータで「地下3階」に連れて行かれた町内会長
この四者の関係をユングのいう意識の四機能に重ねてみよう。

ユングは人間の意識の機能を「感覚」「思考」「感情」「直観」の四つに整理する。
「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別
「感覚」:ある/ない、を分別
「感情」:好き/嫌い、を分別
「直観」:現れてくる/消えていく、を分別
この四つの機能がバランスよく、つかづはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になる。
四つの心的機能間の「距離」が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が対立する別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。
この調和のとれた心の状態を目指すことを、意識の表層に教えるのが「マンダラ夢」である。
四機能を象徴する登場人物たち
それでは、この意識の四機能を、私の夢に出てくる者たちに重ねてみよう。
ちなみにこの「四」は、四が一に縮んだり、一が四に広がったりと、動いている。そうであるからして、どのβをどの機能に配置してもそれなりに成り立つ場合がある。したがってここでの四機能と四βの配置は、あくまでも仮の、一時的なものとみておこう。
ある/あるではないが不可得な「感覚」==β電気釜
分離/結合が不可得な「思考」==β最上階の住人
同一化/差異化が不可得な「感情」==β地下3階の町内会長
増益/損減が不可得な「直観」==βわたし
伸縮するエレベータを一瞥もせず、自分の力で最上階に登っていく「β最上階の住人」は、分別がクリアーに効いた「思考」の象徴に見える。
一方、βわたしとおしゃべりをしてくれている「β町内会長」は、地下3階の不気味さや、最上階の住人に対する警戒感などを隠すことなく表明する、感情の表出が自在な項である。これを「感情」の象徴とみておこう。
残るβ電気釜とβわたしは「感覚」と「直観」である。
まず、台車に載せられてわたしが押し運んでいる電気釜は、重々しく放置できない重要物と言う相で、わたしにとっては立ち現れている。またその存在感のある重さが、あたふたと動き回ろうとするわたしの動きを減速している。この電気釜は「ある/ない」を分別する「感覚」の象徴とみておこう。
そして「わたし」は、この夢では、あまり頭をつかっている様子はなく、唯々諾々とエレベータに運ばれ、電気釜が乗った台車を自室に運ぶためだけに右往左往している。こちらで消えてあちらに現れたり、またあちらで消えてこちらに現れたりするその様子は「直観」の象徴ということにしてみよう。
そしてこの夢では、夢見者「わたし」はずっと電気釜を運び続けている。
つまり「直観」と「感覚」が強く(過度に)結合しつつ、「思考」が遠くにいってしまったのを追いかけるでもなく遠くに分離したまま、「感情」とは雑談をしている。「直観」が「感覚」を頼りにしつつ「感情」にも耳を傾けているが、「思考」はさっさと先に行ってしまっている。
<<最上階>>
βエレベータを使わず登る最上階居住者
↑
|
|
|
β 意図せずエレベータで連れてこられた町内会長
|
<途中階>
|
βわたし*β電気釜
|
|
<一階>
|
<<地下3階>>
◇
つまり、四項の距離感を配置すると、下記のような具合になろうか。
思考
|
|
|
|
直観 = 感覚
||
感情
この形では、正方形に内接円(外接円)を組み合わせたような、きれいなマンダラ状のパターンには至っていない。

ちょうどこの図で言えば、一番上のβを摘んで引っ張り伸ばしたような、アンバランスな形になっている。

この時の私になにか助言できることがあるとすれば、次の二点が言える。
1)「感覚」に意識を占有されながら、その感覚の対象にひっぱられて「直観」で右往左往して困っているのではないか?
2)「思考」が感覚や直観とかけ離れたところで勝手に動いているし、「感情」も他人の感想のような感じで軽く素通りしていないか?
* *
まとめ
夢においては、マンダラ状の形をしたものが直接イメージに現れる場合がある。それならば「マンダラの夢だった」とわかりやすい。
一方、一見するとマンダラが隠れていると気づきにくい夢もおおい。
例えば、マンダラを織りなす対立関係の対立関係の対立関係の最小構成単位である二項対立が一つだけ前景化して、その両極の間の距離が伸び縮みするような夢がある。自分が誰かに追いかけられるとか、逃げて隠れるとか、あるいは大切なものをなくして探し物をするとか、四人の(もちろんこの四人がもっと多くに分かれてもいいし、そのうちの幾人かが省略されてもいい)登場人物が喧嘩したり仲良くなったり、分離したり結合したりを繰り返すようなことである。これは自/他の距離感が伸び縮みする経験である。
夢においてマンダラは、直接的に円や正方形の形で現れる場合もあれば、この正方形の四つの角をなすであろう二つの二項対立関係の項たちがくっついたり離れたりした、潰れて伸びたパターになる場合もある。

今回の夢では、この動きが上下する、上下に伸縮するエレベータの動きという象徴を借りて意識の表層の一番底にうかびあがってきたのである。
*
興味深いことに夢と同じく人類の心の深層から浮かび上がってくる思考の現れである「神話」においても、神々や超自然的な主人公たちは互いの距離を縮めたり伸ばしたり、結合したり分離したり、ぐるぐる回ったり、逃げたり追いかけたり、半分になったりする。マンダラ状のパターンを引き伸ばしつつ区切り出す動きを分節システムである言語によってシミュレートしようとすると、夢でも神話でも、対立する二者の間の距離の伸び縮みという述語の様相を軸にして線形の語りが言語化される。
Δ-β述語伸縮モデル
ここで述語がマンダラを描く、ということについて書いていこう。
神話の場合は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜4を分けつつも過度に分離しすぎないようにつないでおく、正方形と内接円(外接円)を組み合わせたような曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指している。

神話の語りはじめには、まだΔはない。端的にない。存在しない。
何もないところから(ある/ないのペアすら”ない”ところから)、まずΔたちが収まる「余地」を切り開くこと、Δたちを配することができる「場」を生成することからはじめないといけない。
そこに野生の思考の神話論理が動く。
神話の語りは、まず図1で「β」と表記した両義的媒介項二項が、第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きを語る。
経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。
このβたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とをバランスさせる。
ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。

そうしてこのβ項同士の振れ幅の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

このような分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動きを「夢」のビジョンにもみることができる。
私たちひとりひとりにとっての意味ある生きられる世界(良い意味であれ、悪い意味であれ)というのは、このようにして、私たちの心の底、深層から立ち現れてきているのである。

他の夢分析もご紹介
<<広告宣伝>>
夢分析パーソナルセッションのご案内

この文章を書いている私は本務では、企業組織のみなさんが自分たちの組織のコミュニケーションの課題を言語化し、よりよいコミュニケーションの形を自分たちで思考できるようになるためのコーチングなどを行っています。
夢分析も似たようなもので、私たちひとりひとりの「自分自身の無意識とのコミュニケーション」のスタイルを自分で探究・開発することができる方法になります。
ということで、自分の夢を分析してみたい、分析の方法を学びたい、それによって自分自身の「自己」とのコミュニケーションの方法を探りたい、という方を対象として、本業と同様の形式で個人向けコーチングのコース(オンライン式)を開講します。
・1時間の個人セッション×3回コース(税込30,000円)
・1時間の個人セッション×5回コース(税込50,000円)
・経営者、組織リーダー向け伴走コース(4ヶ月110万円(税込)からお見積り)
→ZoomあるいはMeetを使ったオンラインで開催。
→開催日時スケジュールは個別にご相談。
→3回または5回を超えたセッション継続も歓迎(セッション一回あたりの代金は税込10,000円)
「自分の夢をway-finding博士に分析してもらいたい!」
「自分で自分の夢も分析できるように訓練を受けたい!」
「無意識からのメッセージ(夢)と向き合い、ストレスフルな意思決定の連鎖を軽やかに乗り切りたい」という方がいらっしゃいましたら、お気軽に門を叩いてみてください。
筆者らが開発している「動的マンダラ伸縮モデル(β-Δモデル)」を夢分析用にアレンジした分析シートを活用し、意識が自覚的に知らずとも無意識は知っていて、夢を通じてその消息を意識へと知らせつつある課題を明らかにします。もちろん、ご自身でご自身の夢を分析できるようになる方法も、惜しみなく伝授します。

お申し込み、お問い合わせは下記メールアドレスにお願いします。
info.wayfin.office@gmail.com
・上記メールアドレスをコピーしてお使いください。
・下記の内容をメールに記載してください。
お名前(お問い合わせ時にはハンドルネームでも結構です)
夢分析セッション希望!と書いていただければOKです。
ご希望のセッション開始時期(近日中とか、半年後から、とか)
・詳細についてはこちらから折り返してご連絡させていただきます。

いいなと思ったら応援しよう!
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
いただいたサポートは、次なる読書のため、文献の購入にあてさせていただきます。