アクティブ・イマジネーションの実践 杜撰な自我vs叱咤する感情
ここ数日、ユング派のイメージ療法「アクティブ・イマジネーション」を実践しています。現実の世界とイマジネーションの世界、両方同時に抱えながら日常生活を進行させるのはおもしろいものだなあと取り組んでいましたが、それはそうとして、パソコンのデスクトップ上にあったファイルがもろとも飛んでしまうトラブルに見舞われました(現在進行系。。)。
修論は救い出されたものの、せっかく作ったスライド、時間をかけて打ち込んだローデータなどのことを思うと、デバイスそれ自体の性能を過信して、バックアップを疎かにしていた自分が悔やまれてなりません。それでもなお、茫然自失となりながらも、目を閉じると後悔と一緒に色々な心象が浮かぶわけです。
以下は、混乱の中で行ったアクティブ・イマジネーションであります。
ちっちゃい女の子がむすくれて、腕を組んでこちらをじと〜と睨みつけている。
(ブラック・ジャックの)ピノコみたいな女の子。お嬢さん風の赤いベロアのパフスリーブワンピース、ボブヘアをリボンで小さなハーフツインにしている。こちらに向かって何やら叱咤しているらしいが、口をパクパクさせるだけで何を言っているのかわからない。私は、申し訳なさそうに肩を窄め、ものすごく萎縮している。
怒り心頭の女の子の頭部がどんどん膨らんでいって、天井いっぱいまで届く。バルーンみたいに、空気がパンパンに詰まっていて、表面はキチキチ。天井と擦れてキュッキュと音がする。女の子は、先ほどまでは人間らしい表情をしていたが、いまや風船の表面に描かれた横に引きつるように広がっていて、変な向きにひん曲がっている。
私は、今にも破裂しそうな風船にヒヤヒヤ、はらはらしている。
部屋の8割ほどを風船が占めている状態。私は、かろうじてすき間に留まり、身体を硬直させている。
(でも、やろうと思えば風船を一思いに割ることだってできる)。左右を見渡して割るためのものを探すが、なにもない。そもそも、割るのは怖い。
張り詰めた風船のすき間に、わずかにドアの左下が見える。しかし、そこから出て行くという感じでもない。
しばらくすると、風船は空気が抜け始めたのか、表面がシワシワのヨレヨレになってきている。表面に描かれた顔も、皺が寄ってなんだか今までの恐怖感や威圧感がなくなった。私は、風船を割ったりどうこうするのはよくない、触らずそっとして置く方が良いと思う。
私は椅子に姿勢よく座って、足を揃えて手を膝の上に置き、しぼみつつある風船を比較的落ち着いて眺める。風船を縛った口のように、顔の部分をうなだれてしょぼくれている。
私は、これに何か声をかけようと思う。「しんどいね」とか「こわいよね」という言葉が浮かぶ。
そのまま黙ってしょぼしょぼの風船を見ている。
ものの数分で脈絡なく出てきたイメージであるが、その時の自我を取り巻く状況や、心的葛藤をよく表している。本来、アクティブ・イマジネーションはアナリザント(被分析者)が一人で実施し、後日分析家にイメージを報告するというやり方をとるとされているが。この時は、思うままにその都度の展開を話しながら行った。イマジネーションの最中に他者から反応をもらうことは正統な方法ではないのかもしれないが、信頼できる人と話しながらやってみると、おもしろい。
冒頭の、ハーフツインで叱責してくる女の子は、私の激しい感情を象徴するものだろう。ツメが甘く、肝心なところで重大なミスを繰り返す不甲斐ない自我、あるいは自我がもたらした状況に対して憤りをぶつけてくる「怒り」である。このアグレッションはみるみる増大し、風船のように膨れ上がり、心の部屋を圧迫するわけである。そのわりに、「口をパクパクさせるばかりで」女の子が何をどう叱咤しているのかはわからない。今の私は、具体的な内容よりも、暴発する怒り感情の扱いそのものが問題なのだろう。
メインの自我であるところの「私」は、怒りに圧倒されてすっかり萎縮している。怒りの風船が大きく膨らんでいくごとに、自我は脇に追いやられ、なす術もない。感情は少女の姿をとって現れていたところから、物理的な圧迫感や不快感といった生理的なストレスを与える脅威に変化していく。
はち切れそうな風船と小部屋で二人きり。ものすごい緊張感である。しかし、自我は怯んでいるばかりではない。「割ることだってできる」と脳裏にちらついているのである。具体的な方途を探そうともしている。
アクティブ・イマジネーションでは、文字通り自我が無意識の反応やイメージの展開に対してアクティブに関わる必要がある。周囲を探索したり、相手の反応を予想して声をかけたり、持ち物を調べたり、仮説検証的に積極的に動く必要がある。その選択肢の一つに、「風船を割る」ことも含まれていた。観察することで、ドアの存在にも気づいた。しかし、ドアはほとんど風船で埋もれていて、割るための道具もない。手っ取り早く突破する方法はないらしい。激しい感情を安易になかったことにしたり、感情を放置して自我だけ逃げ去ることはできないのである。一見、「私」にそうするだけの気概がなかったようにも見えるが、「割るのは怖い」という直感は賢明なものだったと思う。
あえて観察を続けることで、状況変化や何かしらの発見を待つ態度もある意味でアクティブかもしれない。実際、「私」はだんだんと風船から威勢がなくなり、脅威の感じが抜けていくことに気づいている。自我を責め立てるものとして極度に実体化されていた怒りの感情が、実は自我と変わらないものであり、データが吹っ飛んで呆然としている「私」と同じようにダメージを負っているのである。「自我ではないもの」として極度に相対していた感情は、自我から「こわいよね」と言葉をかけてもらうことで、心的要素間でのバランスを取り戻しつつある。あの時下手に風船を割らずに、感情と共存する方向を選んだことは得策だった。膨らんだ感情を無理やり消し去ろうとしたり、拒絶したところで、報われない心の部分はずっと自我を攻撃し続けただろう。
おもしろいのは、このイメージをすることによって、不思議と、しかし確実に気持ちが落ち着いたということである。
直後の私は、「早々に外付けHDDを準備して何重にもコピーを作っておけば・・・(泣)(怒)」とか失敗してから、肝心な部分がいつも杜撰な自分をタラレバを列挙して責めていた。適当さが招くミスについては一度や二度ではないので、同様のやらかしが芋づる式に想起されて憤りを感じる。唖然、後悔、怒り、焦り・・・という渦に入ると、直接的には関わりのない出来事も連想されて、感情はますます膨らんでゆく。感情が自我(四機能のうちでは、思考にあたるのだろう)を仮想敵にして攻撃し、心の均衡を乱してしまうのである。
それがこのイマジネーションを経ることで、「激しい感情は本当は自我と由来を同じくする等しいものであって、敵対するものではないということ」、「怒りの様相をまとっているが、それは外面にすぎず、本当は萎んだ風船のごとく失意の中にあること」などに落ち着いて気づくことができた。
意識の水準ではただただぐちゃぐちゃした混乱のまま、収集がつかない心境にあった。ところが、無意識が適切なイメージをもって事情を代弁し、勝手にストーリーを展開することで心の配置を整理してくれたかのようである。
当たり前だが、デジタルデータに関しては、「あるでもないでもない」と二項対立を乗り越えるわけにいかない。ないデータは、ない。
ところが、そうした出来事に対して過剰に反応する心をどう捉えるかは、別の水準の話である。本来であれば持ちつ持たれつ、うまく協働して自己を形作っているはずの心の側面である。断絶を深め、戦わせ続けてもしょうがない(くっつきすぎて、団子状になるのもよくないのだろうが)。表層意識では関与できなかった心的葛藤が、イメージを通してうまいこと調停された気がするのであった。素人が短時間やってみて効果を感じたくらいなので、これは心理療法になるのもうなずける。
