Mythos(ミュトス:神話)の論理とは-レヴィ=ストロースの神話公式 Fx(a) : Fy(b) = Fx(b) : Fa¯(y) を変形するとマンダラになる -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みも、もうすぐ100回目に近づいてまいりましたので、一連の論考の趣旨を振り返ってみようと思います。
これまでの記事は下記からまとめて読むことができます。
これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。
はじめに
この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話論理」を、空海が『吽字義』に記しているような二重の四項関係(八項関係)をマンダラ状のものとして見立てて読んでみる。いや、マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たちが共鳴する“コト”と見立てて読んでみる。この筆者らが考えているモデルを仮に動的マンダラ伸縮モデル(仮)と呼ぶことにする。
レヴィ=ストロース氏は、神話の論理を説明するための手がかりとして「神話公式」と呼ばれる式を提示している。それは次のような形をしている。
Fx(a) : Fy(b) = Fx(b) : Fa¯(y)
神話公式を使えば、さまざまな神話の語りにおける「主語」たちの驚くべき姿や一見すると意味不明な言動に幻惑されることなく、その主語たちの間に編まれる関係を、「構造」の動き方のみをエレガントに抽出することができる。
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レヴィ=ストロース氏による神話公式という完成されたツールがありながら、なぜ本記事を書いている筆者は動的マンダラ伸縮モデル(仮)などというものを(一介の愚童凡夫の身でありながら僭越にも)拵えるのか。
その理由は端的に言えば「式を見たら変形してみたくなる」ということに尽きる。
これを書いている筆者はもともと理工系の勉強をしていた者で、学生だった時代の多くの時間をさまざまな数式とともに過ごしてきた。
数式というものの面白いところは、要するにイコール「=」が成り立つようになっているのであれば、右辺と左辺をさまざまな見え方に変形できる、ということである。数式は、さまざまな関数や変数を、式を記述する記号の列の中から隠して見えなくしたり、またその姿を出現させたりしながら、次々と形を変えていく。数式は変形を繰り返すことで、さまざまな関数や変数の組み合わせを意識の表層に引っ張り出したり、意識の深層に隠したりすることができる。
この感覚でもって神話公式Fx(a): Fy(b) = Fx(b): Fa¯(y) を眺めていると、これもいろいろな形に変形できるよね、変形してみたいよね、という考えが浮かんでくる。
そして神話公式Fx(a): Fy(b) = Fx(b): Fa¯(y) を変形し、図形で、変形する図形、動く図形のイメージで思考してみたものが動的マンダラ伸縮モデルなのである。
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そういうわけで神話の構造を意識の表層に引っ張り出して思考可能にする上で、「レヴィ=ストロース氏の神話公式が優れているのか、それとも筆者の動的マンダラ伸縮モデルが優れているのか、どっちだ?!」などということは問題にならない。なぜならどちらも互いに変形できる二つの表現であり、どちらが優れているも劣っているもない。平等なのである。
とはいえ「レヴィ=ストロース氏の神話公式Fx(a): Fy(b) = Fx(b): Fa¯(y) はすでに完成されているのだから、それをわざわざ素人がややこしく書き直すのは余計なこと」かもしれない。式はエレガントな方がよいからである。とはいえせっかく「公式」で表現されているのだから、公式と来れば、さまざまに変形してみるのが愉しみというものである。
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強いて神話公式をマンダラのモデルに変形してみることで、いくつかの効用もありそうである。一つは異分野との接続である。特に、同じ「神話」を扱いながら、ほとんどまったく話が噛み合っていないように見えるC.Gユングの深層心理や集合的無意識の話と、レヴィ=ストロース氏の神話論理とが、じつは同じ人類の心の深みで動いている脈動のパターンを、それぞれ異なった仕掛けで観測しようとしたものだということがわかる。また、仏教の「離二辺」や「色即是空空即是色」など、絶対無分節の分節ということを思考する東洋思想の伝統的なロジック(あるいは「構造」(動的な意味で))が、レヴィ=ストロース氏が論じる人類の「野生の思考」と、同じアルゴリズムであることなども確認できるようになる。またAI(人工知能)が急速に進化しつつある今日、そもそも人類の「知能」とはどういうことなのだろうか、という問いを問う上でも、この人類の心の構造の動き方を明らかにしておくことは大切なことであろう。
人類の心の構造の動きを、その深み、意識の表層に表現されたものを通じて間接的にその消息を窺うより他ない心の深層構造について理解しておかないと、人工知能、知能を人工的に作るといっても、そもそも何を人工しているのか、最後の最後でよくわからなくなってしまう。
そうした時に、レヴィ=ストロース氏の神話公式は人類の心の深層のアルゴリズムについて知る上でこの上ない手がかりになるものであるし、またこの公式をマンダラモデルに変形しておくことで、いにしえの神話に限らず、例えば現代の私たちが紡ぐ詩の言葉や、私たち一人ひとりが日々みる「夢」のようなものを通して、私たちの心の深層の動的な構造に、比較的容易にアクセスできるようになる。
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特に仏教とレヴィ=ストロース氏の思考のつながりは、中沢新一氏が以前から論じていることでもある。
中沢氏の2006年の著書『芸術人類学』なども、レヴィ=ストロース氏が探求した人類の野生の思考の神話論理を、人類の心の深みの動きが意識の表層の一番底に投げかける影のパターンをとらえたものだと読む可能性が示されている。
心の深層の動的な構造は、それ自体を直接観察することはできない。それは意識的に並べられた言葉の線形配列や、マンダラのような図式として表現されたものを通じて推定、シミュレートされるものである。こうした時に、言葉や図形の表面的な見た目の姿に驚かされずに、その底で動く構造そのものを純粋に観察するための手段として、神話公式が、そして動的マンダラ伸縮モデルが有効なのである。
というわけで、今回は中沢新一氏の『芸術人類学』を緒に、神話公式Fx(a): Fy(b) = Fx(b): Fa¯(y)をマンダラに変換する方法を明らかにしてみよう。
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神話は根拠のない思い込みなどではなく
まず「神話」とは何のことかを明らかにしておこう。
神話という言葉自体、他のあらゆる言葉と同様に、さまざまな文脈でいろいろなニュアンス、いろいろな意味合いで用いられている。神話という言葉自体に、単一の定まった意味があるわけではない。「神話とは何か?」という問いに対して、「神話とはxxである」と答える時に、この「神話」の言い換え先xxにはどのような言葉が入っても良いのであり、また一度入った言葉が、すぐにまた別の言葉に交代しても良いのである。
例えば、
神話とは、一匹の猫との、まばたきの交わし合いである。
などと言ってみるとステキではないだろうか。
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ところで、今日、Web上に溢れる「神話」という言葉をざっと眺めてみると、「〜〜安全神話」などという言葉が頻出する。「安全神話」といえば、何の科学的根拠もないまま本当は危険なものを「安全だ、安全だ、安全であるべきだ」と妄信している状態のことであり、この場合の「神話」という言葉は、自然科学的な合理的な知と対立する非合理的な思い込み・きめつけといったような、ひどくマイナスな意味合いで用いられている。
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神話は人類の知性の根源的な無意識的なアルゴリズムにアクセスするための鍵である
レヴィ=ストロース氏は「神話」を、非合理的な思い込みといったような否定的なニュアンスではとらえていない。むしろレヴィ=ストロース氏にとっての神話は、我々人類の知性の根源で動く「野生の思考」の表現形のひとつとして、珠玉の価値をもつものである。
神話を通じて私たちは、自分たち人類の知性の根底で動いているアルゴリズム、普段は「無意識」の底に隠れていて自覚することが困難なアルゴリズムを意識の表層へとひっぱりだすことができる。
神話を生み出す心の深層のアルゴリズムについて知ることは、まるで人間のように言葉の配列を生成することができるようになったAIの設計について深く思考したり、あるいは、これだけ科学技術が発展した世界においてなお、生きる意味、自分自身の価値、そして死の意味あるいは無意味に日々戦慄してやまない私たちストレスフルな人類が、最も深い意味で「意味ある」生を「ウェルビーイング」できるようになるための公開された鍵にアクセスする方法なのである。
神話を生み出すアルゴリズムが分かれば、私たちひとりひとりにとっての「意味ある世界」を生成、変容させる方法がわかる
レヴィ=ストロース氏による大部の著作『神話論理』は、まさにその神話を生み出す心の深層のアルゴリズムを、膨大な数の神話の分析を通じて析出していく試みである。
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神話は、一見すると荒唐無稽なというか、理解しようにもいったいなにをどうしたら良いのか困惑してしまうような姿をしている。例えば神話には、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間とか、およそ現実にはあり得ない姿をした者たちが続々と登場する。

こんな非現実的なお話に延々と付き合ったところで、一体何が得られるというのか、コスパ、タイパに無駄なのではないか!?と早々に目を背けて逃げ出したくなる気持ちもわからないではないが、ものごとにはなにごともやり方というものがあるのである。

適切な道具、方法、つまり観測装置をもって踏み込めば、一見すると荒唐無稽で非現実的な神話の語る世界が、実は人類自身にとって未だに(今日の量子力学の理論や脳神経系における情報処理のプロセスを明らかにする観測技術をもってしてもなお)謎のままであり続ける人類の知性の基本的な動き方が、あからさまに露になっている領域であることがわかってしまうのである。
この適切な道具、方法、観測装置というのが、今回の記事で検討するレヴィ=ストロース氏の神話公式Fx(a): Fy(b) = Fx(b): Fa¯(y)であり、またこの神話公式と同じことを別の形で表現した、筆者らによる動的マンダラ伸縮モデル(Δ-βモデル)である。
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人類の知性の謎に迫る
人類の知性あるいは知能とは、どのようなことであるのか?
この問いに対する答えは、実は未だはっきりと定まってはいない。
ここでもおもしろいのは今日のAI「人工知能」である。私たちは、日々AIの高度な能力を目の当たりにし、圧倒されている。この人工知能とは、まさに「知能」を人工的に作りました、というものであるはずだが、実は私たち人類は、「知能」ということが一体どういうことなのか、よくわかっていない。
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よくわかっていないものを、どうして「人工」的に作ることができるのか?
かつて、20世紀の中ばに「人工知能」を電子回路上に実現できるのではないか、ということが議論され始めた時、そもそも「知能」とは、人間の「知能」とはいかなることであるのか、という議論が巻き起こった。そしてこの問い、「人間の知能とはなにか」に対する答えは未だに定まっていない、というか定めようがないのである。
もちろん、知能と呼ばれる謎の現象を可能にしている、おそらく最小の構成単位は、1943年にマカロックとピッツが提唱した「型式ニューロン」であるらしいことは確かであろう。ここまではわかっている。

そして単体の形式ニューロンならスイッチ(つまり電気回路、オンオフのデジタル信号処理)で真似できるし、そういうスイッチが集まって、複雑なループを多重に編み込んだニューロンのネットワーク(ニューラル・ネットワーク)を形成すれば複雑な情報処理が可能であるはずだ、ということもわかる。

では実際に、脳の複雑で膨大な神経回路ネットワークから、あるいは脳だけではなく全身に行き渡る神経系から、どのようにして分散型の情報処理が統合されていって、「意識」と呼ばれる自覚が生まれたり、理路整然と考えて言葉を発することができるような知性が生じたり、あるいは諸々の意識化されない身体の諸器官の動きに緩急をつけたりしているのか、ということになると、そのメカニズムはまだ解明されていない。もちろん仮説はいろいろあるが、実際にどうなっているのかはまだよくわからない。
なぜわからないかと言えば、人間の神経細胞ひとつひとつで生じている分子レベル、いや、素粒子レベルの情報処理のプロセスをリアルタイムで全体的に観測する技術がまだないからである。
ましてや「夢」や、C.G.ユングの論じる「シンクロニシティ」(老松克博氏は「意味深い偶然の一致」と言い換えている)といった経験が、型式ニューロンのネットワークからいかにして創発するのかは、ほとんどまったくよくわからないままである。
「知能」ということが、言葉や、夢や、シンクロニシティや、主観的な意味の経験を発生させることまで含むとすれば、知能とは何か、人類は未だほとんど何も知らないことになる。
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人工知能は「知能」そのものではなく、知能の産物と推定されるものを真似している
では、今日のAIは、よくわからない謎の知能を、どうして「人工」することができるのだろうか?
人工知能というからには、人間の知能ということがまずあって、それについてよく理解したうえで、それを真似して「人工」的に作ってみました、ということになっていそうなものである。お砂糖の分子の配列や人間が「甘い」と感じる分子構造レベルの仕組みを解明して、その上で「人工」で甘味料をつくるという具合である。しかし、今日の人工知能の場合、そもそも「知能」ということがよくわかっていない。知能というものを人工的に作ろうとおもっても、そもそも何を作ったらよいのか、設計図がないのである。
設計図がないものは作りようがないはずなのに、しかし今日、現に「人工知能」が出来上がって、動いていて、日々私たちは便利にそれを使っているではないか?!これは一体どういうことなのか?
設計図がないところで生まれた人工知能とは、一体なにを人工的に作ったものなのだろうか??
今日の人工知能は、人間の「知能」が生み出した(と推定される)ものたち、特にデジタルデータとしてインターネット上に残されてきたあれこれの情報のパターンを学習して(人間が書いた言葉、発した言葉、描いたイメージ、綺麗にレイアウトしたPDF、出来レースに供されて日の目をみることがなかった無数プレゼンPPT…)、それとよく似た、高い確率であり得そうなパターンを生成している。「人間の書く文章って、こういう具合に言葉が並ぶ感じですよね」というのを機械が作っているのである。そしてそれは十分に私たちの日常のさまざまな言語的な活動をサポートするまでになっている。
ところで、ネット上に溢れる人間が書いた言葉、発した言葉、描いたイメージ、綺麗にレイアウトしたPDF、出来レースに供されて日の目をみることがなかった無数プレゼンPPT…などなど「だけ」が人間の知性なのだろうか?
それらが人間の知性の産物ではあるとは言えるだろうが、人間の知性そのものではないような気がする。
「低気圧でマジでフラフラするわ〜」
という文字列を人間が書いたとする。抽象的に図式化すると、
Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ
という形のパターンである。
AIはこういう配列のパターンをデジタル信号の列に変換したものから学習をして、いかにも人間が書きそうな、それらしいΔの並び方の順番を生成していく(GPTの「T」)が、こういう文字列を生み出す人間の「知性」そのもの、このような文字列を生成すること事態を可能にしている人間のメカニズムを今日の「人工」知能が直接再現しているわけではない。そもそも-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-を生成することを可能にする前処理がどうなっているのか、私たち人間自身がよくわかっていない。
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知能の産物から、知能の動き方を推定する
人間の知能がどういうメカニズムであるのか、それはよくわからない。何をどう観測すれば「知能」をとらえたことになるのかも、まだよくわからない。
今日の人工知能(AI)は、人間の「知能」とはいかなることか、という容易には答えが定まらない問題はとりあえず傍に置いたままにしている。捉えようもない「知能」のことは置いておいて、捉えようのあることでなんとかしよう、というのが今日の人工知能の技術である。捉えようのある、つまりデジタルデータとしてコンピュータで処理することができるもののうちで、人間の「知性」に一番近いであろうもの。それがすなわち、人間がSNSに投稿した言葉や、検索サービスに打ち込んだ検索キーワードやら、ブログに記された文章やら、あるいは諸々の文献、文豪たちの作品、査読なしの論文や、査読ありの論文、人間が描いたイメージや、行政文書のPDF、日の目をみることがなかった無数プレゼンPPTなどなどである。
今日のAIはそういう人間の知能による産物を「学習」して、そこに並んでいる記号と記号の配列パターンが生起する確率のちがいを数値化し、それに基づいて、今度は人間が高い確率で生成するであろう情報のパターンをシミュレートしている。
自動車のエンジンを鉄鉱石から作るやり方がわからなくても、完成品を買ってきて自動車を運転することはできる。
つまり人工知能は、人間の「知能」ということがよくわからない謎のままでも、どうやら人間の知能が関与して生成したとみんなが思っている産物、書かれた言葉や描かれたイメージのパターンを学習して、その学習されたパrターンに基づいて、高い確率でありえるパターンを生成することはできる。
知能を間接的に観測する
夢、神話、言葉
観測できるもののパターンから、知性の見えない動きに迫る
そのようなAI、人工知能は「知能ではない!」ということもできるだろう。
あるいはそもそも知能がどういうことかよくわかっていないのであるから、何かが知能であるか知能でないか判定しようにも、判定基準がないともいえる。
では「知能」の謎を前に、人類は(コンピュータも)お手上げかというと、そうでもない。
人類は「知能」ということを直接観測することはできないかもしれないが、「知能」の動きを間接的に知ることはできる。その間接的に知能の動きを知る方法とは、他でもない、ある人が喋った言葉、書いた文章を聞いたり読んだりすることなのである。
私たちは古来から、自分以外の他者たちの「知能」に、その他者たちが喋ったり書いたりした言葉を介して間接的に触れてきた。
例えば、夢。
他者がみた夢を、「わたし」が直接的に追体験することはこれまでも、いまのところも、まだ難しい。しかし言葉で語られたり、絵に描かれたりすると、それを通じて間接的に、「わたし」は他者の夢の世界を知ることができる。例えば下記の記事には私、これを書いている私がみた夢のことを言葉で報告するくだりがあるが、これを読んでいただければ、私がどういう夢をみたのか、私ではないみなさんもなんとなく知ることができるだろう。
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複数の人の間で共有することができる、語られた言葉、書かれた言葉、描かれたイメージなどを材料として、「知能」の謎に迫る。そしてこのために極めて有効な手がかりが、神話なのである。
レヴィ=ストロース氏の神話の構造分析は他でもない、まさにこの人間が語り文字に記録した「神話」の言葉を手がかりにして、人類の「野生の思考」の動き方を、つまり心の深層でうごく「知能」のアルゴリズムを観測してみようという試みなのである。
レヴィ=ストロース氏は大部の『神話論理』の第1巻の冒頭に次のように書いている。
「生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」
生のものと火を通したもの。
新鮮なものと腐ったもの。
湿ったものと焼いたもの。
このような対立する二項の関係をつなぎ合わせること、分離したり結合したりすることが、我々人類が「命題」を、簡単に言い換えると「あれはこれで、これはそれです」という具合に言ったり書いたりすることを、可能にしている。
この二項対立関係をまず区切り出して、その対立関係同士を結合したり分離したりすることが「どのように」を動いているのかを探求するのが『神話論理』の、神話の構造分析の課題である。
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言葉のはじまり、意味分節システムの発生
私たちが通常日常、現実に経験できる他者たちとの間で意味のある発話をする時、知らず知らずのうちに次の様な四項関係を立てている。
たとえば「暑いのは嫌だ」などという場合を考えてみよう。
Δ1 暑い / Δ4 暑くない
|| ||
Δ2 わるい / Δ3 わるくない
私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界とは、すべて、このような二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている。
*
人類は、というか、あらゆる生命体は、物心ついた瞬間に「経験的区別」を実行する機械のような仕組みとしてできている。
Δ自 / 他Δ
Δ生 / 死Δ
Δ好き / 嫌いΔ
Δ内 / 外Δ
Δ因 / 果Δ
Δある / ないΔ
Δうまい / まずいΔ
Δ高い / 安いΔ
Δ遠い / 近いΔ
それぞれの生物は、それぞれ固有の感覚・神経の仕組みを使って、それぞれに固有の経験的に意味のある世界を分別して生きている。ユクスキュル『生物から見た世界』に記されている「環世界」の話である。
人間に比べてよりシンプルな神経系で生きている生物の場合、感覚的な区別に応じて、身体の可能な動きの候補のなかから選択が行われる。
分け方は変えにくいが、分け方の「重ね方」は自在に変えられる(人間の言語)
人類が他の生物と異なる固有の特徴である「言語」というものは、この対立関係を重ね合わせる処理の自在さから生まれている。
人間の言葉は、同じ一つの「意味されるもの」を、実に多様な「意味すること」に次々と置き換えながら表現することができる。
「意味すること」=「意味されるもの」
記号=意味内容
→この関係を自在に組み替えることができる。
*
記号になりうるものと意味内容になりうるものを、次々と結合したり分離したりすることができる。この分離と結合を無量にくり返していくうちに、いつしか「意味のタペストリー」と呼べるようなことが姿を表してくる。
下記のように配列される意味の最小単位があるとする。

私たちが言葉を紡ぐ時、Δ1、Δx、Δ-1、Δ-x 四項のうちのひとつ、たとえば Δ1だけを意識の表層へと引っ張り出す。
そして他の四項関係から同様に引っ張り出されてきた四極のうちの一極を占めるΔ2→nたちを、順番に一列に並べていく。
Δ1ーΔ2ーΔ3ーΔ4ー…
このリニアな列が、私たちが普段喋ったり、聞いたり、読んだり、書いたりしている言語の姿である。GPTのような生成AIの「T(Transformer)」がシミュレートしているのもこのリニアな列のあり得そうな並び方である。
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ここでΔ1、Δ2、Δ3、Δ4はそれぞれその対立関係を組む「相手」を持っている。

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さらにΔ1、Δ2、Δ3、Δ4はそれぞれ潜在的に「異なるが、同じこと」として言い換え可能な、多数の語と繋がっている(Δ1,1→n Δ2 ,1→n Δ3 ,1→n Δ4 ,1→n )。下記の「=(||)」がこの言い換え可能であることを示す。

そしてまた、この「多数の語」(Δ1,1→n Δ2 ,1→n Δ3 ,1→n Δ4 ,1→n)たちも、それぞれに「/」でわかれつつつながる対立関係を組む相手を持っている。「/」はΔ1,1とΔ ¬11、つまり「Δ1,1」と「Δ1,1ではない」ことを分つつつなぐ動きを表している。
* *
人間の言語の場合、この図に示す「/(逆のものとわかれながらつながる)」と「=(異なるが同じものとしての言い換え)」を、そしてもちろん「ー(いわゆる統辞)」を、特定の二つのΔの間だけに成り立つこととして限定することもできれば、自在に任意のΔとΔの関係を生み出すこととして緩めることもできる(ただし身体感覚や生命機能が行う「/」は、自在に変更することはできない。例えば96度の熱湯に伸び込んで「冷たい」と発話することはできるが、実際に体は大火傷を負ってしまう。ここで役にたつのが瞑想、イマジネーションの力である。イマジネーションによって前五識、身体感覚的、タンパク質のレイヤーにおける「/」とは異なる「/」を経験することができるというのが人間のおもしろいところである)。
つまり、人間の言語における潜在的な可能性としては、ありとあらゆるΔ同士が「/」で繋がりつつ分かれる可能性もあれば、「=」で分かれつつつながる可能性もあるし、「ー」で分かれつつつながる可能性もある。
*
シンプルな例でいば、「Δ1 / 非Δ1」という関係、つまり一方であれば他方ではない、という二者択一の関係を経験的になしえている二項についてさえ、直接言い換えることができる。
例えば
「男は女である」
といったことである。
こういう言葉を聞くと、その意味するところはよくわからないが、なにかとても「深い」ことを言われている様な気がする、という特性を私たちは持っている。人間は皮肉の効いた比喩表現や詩的表現をおもしろがることもできるが、詩的言語、比喩表現というのは、感覚的経験的には対立し、分離し、混じり合わないような二項を、あえて結びつけ、短絡するところに生まれる。
固着した分別に汲々とするのではなく(つまり、はっきり分けて、きっちり選べないと、疲労してしまう硬い分別心ではなく)、分別するもよし分別しないのもまたよし、分別と無分別のあわいをくるくるとひっくり返すことができるのが私たちの「心」の本来の可塑性なのであろう。

Δ ¬11 ーΔ ¬ 21ーΔ ¬ 31ーΔ ¬ 41ー…
/ / / /
Δ11 ー Δ21 ー Δ31 ー Δ41 ー…
|| || || ||
Δ1 ー Δ2 ー Δ3 ー Δ4 ー…
/ / / /
Δ ¬1 ーΔ ¬ 2 ーΔ ¬ 3 ーΔ ¬ 4ー…
この図式では便宜上「||("="の向きを変えただけで同じことを意味している)」をそれぞれのΔの組み合わせについて、一つづつしか記載していないが、実はそれぞれのΔから、潜在的に無数の「||」が生えて、インドラの網のようになっていることに注意しておこう。

私たちの深く広い「心」は「/」と「=」と「ー」を次々と切り替えることができる。
ここで「Δ1ーΔ2ーΔ3ーΔ4ー…」、たとえば「きょうーは、ーあめーが、ーふってーいる」、という具合の「ー」すなわち形態素を順番に線形に繋いでいく処理は、ある程度意識的な無意識的ではないプロセスである。私たちは意識的に言葉の繋ぎ方を工夫することができる。
一方「きょう」と「非-きょう」を分節する「/」や、「きょう」と「きょうが一体どういう日であるか」の言い換え先になりそうな、他のあらゆる語をつなぐ「=」は、しばしば無意識的なプロセスになりがちである。
これが人間の知性(サピエンス)、人間における情報処理の要である。そしておそらくほんとうに「知能」を人工しようとおもうならば、この「/」と「=」と「ー」で織りなされる構造体を生成するアルゴリズムをコンピュータに実装する必要がある。
所与の学習用データからΔとΔのありうる共起の確率を計算して意味空間ベクトルを生成することで、「/」と「=」と「ー」を動かした結果として生じたタペストリー、織物の映し絵のようなものをつくることはGPTですでにできる。現に見事にできている。そしてその次に「/」と「=」と「ー」の動かし方、つまり織物のパターンを新たに編み出していくアルゴリズムが明らかになるならば、より人間の「知能」ということの生きた姿に迫ることができるであろう。
神話公式 Fx(a): Fy(b) = Fx(b): Fa¯(y)とはなにか
レヴィ=ストロース氏が考える神話の構造は、我々人類が「あれはこれで、これはそれで、そっちではないです」という具合に言ったり書いたりすることを可能にしている対立する二項の関係を分離したり結合したりするメカニズムであるが、それは私が上で仮に書いた「/」と「=」と「ー」の動き方を表現する、より洗練されたモデルである。
では、レヴィ=ストロース氏の考える神話の構造とはどのようなことなのであろうか。レヴィ=ストロース氏は神話の構造を説明するために、下記の神話の公式と呼ばれるものを用いる。
Fx(a): Fy(b) = Fx(b): Fa¯(y)
この式がなにをやっているのかが分かれば、アウトプットされた人間の言葉、Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ という姿で観測される人間の言葉のさらに手前に踏み込んで、-Δ-Δ-Δ-Δ の線形配列を生成することを可能にしているアルゴリズム(意味分節システムのアルゴリズム)、「/」と「=」と「ー」を動かして意味のタペストリーを編み出していく基本的なアルゴリズムについてより深く理解できることになる。Fx(a): Fy(b) = Fx(b): Fa¯(y)を理解し、使いこなすことができれば、今日のAIがやっているようなΔ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δの高確率であり得るパターンをシミュレートするといった方法とは少しちがった方法で、人間の「知能」をシミュレートすることができるようになる。
+
というわけで、Fx(a): Fy(b) = Fx(b): Fa¯(y)が何をやっているのか、その核心にせまってみようと思う。
レヴィ=ストロース氏は『構造人類学』の252ページ、「神話の構造」という論文にこの神話公式を示し、次のように書かれている。
Fx(a) : Fy(b) = F(b) : Fa-1(y)
この式では、二つの項aとb、およびこれらの項の二つの関数xとyが同時にあたえられ、項および関係の逆転によってそれぞれ定義される二つの状況が等価関係にあるとされる。この場合の二つの条件は、(1)項の一つがその反対 (ここでの表現はaとa-1) によって置きかえられること、(2)二つの要素(ここではyとa)について関数の値と項の値のあいだに、相関的な逆転が生ずることである。
aとb
xとy
四つのことの関係を表現しているのであるが、これがなかなか、よく読まないと難解である。
まずこの式は左辺と右辺に分かれている。
左辺は神話のはじまり、冒頭で語られる状況である。
右辺は神話のおわり、「めでたしめでたし」のくだりである。
Fx(a): Fy(b) = Fx(b): Fa¯(y)
↓ ↓
神話の冒頭 → 神話のおわり
ここで、aとbは「項」である。
対するxとyは「機能」である。
そして「項」と「機能」は「逆転する」。
つまり、この公式は、神話の冒頭とおわりとでは「項」と「機能」の関係が組み変わり、逆になることが表現されている。
・・・といってもこれだけではまだよくわからない。ここで神話の公式が何をやっているのかを理解するために、中沢新一氏が『芸術人類学』に記されている神話公式の解説が非常に参考になるので参照させていただく。『芸術人類学』で、中沢氏が上の文章を、一部別の用語で翻訳している。
Fx(a): Fy(b) = Fx(b): Fa¯(y)
この式で、aとbという二つの項は、それぞれxとyという機能をもち、つぎの二つの条件下に、 項と関係が反転することによって決定される二つの状況の間には、等価関係がなりたっていることが考えられている。すなわち(1)ひとつの項が反対の項に置き換えられる(この式で言うと、aとa¯のことをさしている)。(2)二つの要素(この例で言うと、yとaのこと)に機能価値と項価値の反転がおこる(「神話の構造」)
aとb
xとy
項と機能
そしてこれら対立する二項関係の両極の「反転」。
中沢氏は上記の引用に続けて、レヴィ=ストロース氏が『やきもち焼きの土器つくり』で分析している陶土の起源神話を例に、ふたつの「項」とふたつ「機能」が「反転」してゆく動きについて解説されている。この神話公式を理解するには、実際これを神話の分析に利用しつつ、学習するのが良さそうである。
陶土の起源神話
『やきもち焼きの土器つくり』には、土器の材料となる粘土の起源神話の分析が収められている。粘土の起源神話は次の様な話である。
(1)かつて「太陽」や「月」が「人間の姿」をしていて、人間たちと共に地上に暮らしていた(経験的にそうであるように天上にあるのではなく)。
この冒頭のくだりでは、天/地という、経験的には遠く分離しているはずの二極の間が過度に結合して短絡している様子が語られている。
(2)人間の姿をした「太陽」と「月」は、一人の女性を「妻として共有」していた。
太陽夫妻と月夫妻の「妻」が同じ人物である。
経験的にはほとんどの場合、夫婦が二組あれば、夫と妻はそれぞれ二人づつ、合計四人おり、この四人は男/女で分かれ、結ばれている/結ばれていないという様相で分かれている。
男性 女性
| |
夫1 =/= 妻1
夫2 =/= 妻2
それがこの神話では、女性が一人であり、これにより夫1太陽と夫2月は一人の女性を介して三人セットで過度に結合している。さて、ここで神話公式、
Fx(a): Fy(b) = Fx(b): Fa¯(y)
こちらで言えば、神話の冒頭の場面は左辺 Fx(a):Fy(b) である。
この陶土の起源神話の場合、項aは同時に太陽と月の両方と結婚している「妻」である。
この妻aがFxという機能を果たしている。
この神話の場合、妻aが果たしている機能Fxは結婚であり、即ち「結合」である。
妻aが「結婚する」という述語的様相を呈することで、太陽と月(昼と夜)、天/地といった経験的にはっきりと分離している二極の間が一つに結合され、通常は別々にそれぞれ夫と妻がいる場合がおおい二組の別々の夫婦のあいだが短絡結合される。
この1)、2)の過度に結合する様相を、後述する筆者らが開発中の動的マンダラ伸縮モデルでは下記のように表記する。
β
β β
β
この場合の結合Fxが特に過度な結合、経験的に分離されているはずの関係を短絡するほどの結合であることは、この妻aが同時に二組の夫婦の妻の位置を一人で占めることによって強調される。
* *
(3)嫉妬による分離。妻が太陽夫ばかりを好み、月夫を拒む。
月夫は太陽夫に嫉妬し、その姿を見えなくする。
ここで神話公式の左辺 Fx(a):Fy(b)の、Fy(b)に相当する展開になる。
太陽は熱く、月は冷たい。
ここで妻(太陽の妻でもあり、月の妻でもある)は、暖かい太陽に触れられることを好み、冷たい月に触れられるのを嫌うようになる。
冷たい / 暖かい
|| ||
触れられるのを嫌がる / 触れられるのを好む
↓
分離 / 結合
冷たい/暖かい、という経験的な対立が、触れることを嫌がる(分離しようとする)/触れることを好む(結合しようとする)という対立に重なる。
ここに、分離と結合の対立が出てくる。
+ +
ここで月が太陽に嫉妬する。妻は月のことを嫌うのに、太陽のことを好む。自分が好まれないことを(結合できないことを)月は妬む。嫉妬というのは、分離されたものを渇望し結合しようと望みつつ、結局決して結合されることがない、という様相である。嫉妬によって、分離と結合は相互に転換することが難しいところまで決定的に分離する。
分離 ←←←←←←/→→→→→→ 結合
ここで月夫は、太陽夫を見えなくして、妻aと分離する。
ここに差異、区別、分離、Fyの動きが際立つ。
この3)の様相を、動的マンダラ伸縮モデルでは、
β
β ←←←←←←/→→→→→→ β
β
と記す。
神話公式の機能Fyは分離することである。
Fxは結婚という述語的様相で結合機能として働き、Fyは嫉妬という述語的様相で分離機能として働く。
このFxの主語である項bの位置に収まるのが嫉妬する「月」夫である。
*
(4)天/地の分離。
月夫は蔓をつたって天に昇ろうとする。
後を追いかけてくる妻を、蔓を切り落として地上に落とす。
妻に好まれ結合している太陽を妬むあまり、月は冷たい息を太陽に吹きかけて、太陽の姿を見えなくしてしまった。
これにより、妻は太陽と結合したいのに分離されたままになってしまう。
そうして太陽を隠した月は、ひとり天へと、植物の蔓を伝ってのぼっていた。この時点で太陽も月も「人間」の姿をしていることを思い出そう。
太陽と月、二人の夫が急にいなくなってしまったことに気づいた妻は、二人が居るであろう天を目指して植物の蔓を登る。
この時妻は、「土器をつくるのに用いる粘土をいっぱい籠に携えて」蔓をよじ登る(p.65)。これも経験的には不思議な事態である。蔓、ロープを伝って高いところへ昇るのであるから、重量は減らしておいた方が経験的には安全だと思われる。しかし、この神話では、わざわざ陶土を入れた籠を背負って、重りを背負って、蔓にぶら下がる。このあたりも経験的な分別とあべこべになっている。
そして妻aは月夫bを追いかけ、月夫bは妻aから逃げようとそる。
と妻の間の距離が伸び縮みしていることに注目しよう。
β月
↑
↑
↑
↑
↑
β妻+β粘土
↓
↓
↓
↓
↓β太陽
神話には「鬼ごっこ」のような場面がしばしば登場するが、これは二項の間の距離の伸縮、分離と結合のどっちつかずの状況から、結合と分離がはっきりと分離され、分離の相が際立っていく過程を表現している。それは神話公式でいえば、左辺から右辺への転換を語るものである。
(5)星の妻+粘土が地上に落下しバラバラになる
月夫bは、太陽とばかり結合し、自分とは分離しようとする妻と「関わるまい」(p.65)と、植物の蔓を切ってしまう。
妻aと月夫bの間の距離の伸縮は月夫bが天へとつながる蔓を切断することで終止符を打たれる。
β妻+β粘土は地上へと落下する。
そのとき、妻aが籠に入れて背負っていた粘土も地上に落ちて、バラバラに飛び散って、地上の各地に散在するようになる。
+
妻aは天に登ることはできず地上に戻される。
これにより、月夫bと妻aとの間の分離が確定する。
+
一方の月は蔓を昇り続け天に到達する。
月と天が結合する。
この結合が神話公式右辺のFx(b)、月による結合機能の実現である。
月夫が一方では妻aを分離し、他方で天と結合することに注意したい。
月はあちらと分離しながらこちらと結合する。
分離と結合を同時に行う。
これにより、分離しながら結合し結合しながら分離するという、付かず離れずの(過度に分離したり過度に結合したりしない)項と項の間の均衡が保たれるようになる。妻aは地上へ、月夫bは天へと配置され、人間と月との分離が、天/地のあいだが分離されることになるが、しかしこの分離は過度なものではない。月は周期的に空に現れ、地上からもその姿を確実に捉えることができる。周期的に地上から見える空に現れる月は、地上との間に付かず離れず、分離しながらも結合し、しかし過度に結合することなく分離したままである。
この付かず離れずに均衡した関係を、下記の図の4)でβ=/=βという表記で表現する。

そしていよいよ陶土の起源を語りこの神話は幕を閉じる。 妻aが地上に落下したとき、背負っていた籠の中身の粘土がバラバラになって飛び散り、地上の様々な場所に配置された。これが今日、人間が利用できる粘土の起源である。そうしてそれ以後、人間は粘土で土器を作ることができる様になりました、めでたしめでたし、という話である。
Δ ← (β妻 β粘土) → Δ
媒介者βが「バラバラ」に分離して、経験的感覚的な存在者Δ(「人間がよく知っているこの現実」(p.66))になる。
こうしてβ「人間としての太陽」は消え、β妻、β粘土もバラバラに分離してΔに変容し、そして天にのぼったβ月は、もう人間の姿に変身するのはやめて(β月であることをやめて)「人間がよく知っているこの現実」のΔ月になったのであろう。四つのβ、天/地や人間/天体、といった経験的感覚的にははっきりと分離されているはずの二極の間を短絡したり、自在に往来したりする媒介者(β)たちはみんな姿を変えて、私たちがよく知っているΔ粘土や、Δ月になる。
こうして四つのβが消えて、あとには「人間がよく知っているこの現実」Δたちによってはっきりと区切られた分別の効いた世界になる。
**
この地上に落下しながら粘土をばら撒き、籠を落とした妻aの姿こそ神話公式の右辺のFaˉ(y)である。
Faˉ(y)において妻は項ではなく、F機能を担っている。
その機能とは天から地へと落ちていくこと、落下運動によってその両端に天/地の二極を区切り出すこと、天地を分離することである。
ところで妻aはもともと神話の冒頭、左辺では結合の述語的様相の主語であった。これが右辺では分離する述語の様相を呈している。
結合するものから分離することへ、この結合から分離への逆転を記述するのが右辺a→左辺aˉの反転である。
そしてFaˉ(y)では、左辺では「機能」であったy即ち「分けること」が、項「分けられてあるもの」へと転換している。
動的マンダラ伸縮モデル
ここで上の図、「β」「Δ」と表記したモデルについて説明しておこう。
これはレヴィ=ストロース氏が書いていることではなく、この文章を書いている筆者らが開発している動的マンダラ伸縮モデルの表記法である。
筆者らは、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」を、空海が『吽字義』に記しているような二重の四項関係(八項関係)をマンダラ状のものとして見立てて読んでみる。いや、マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たちが共鳴する“コト”と見立てて読むことを試みている。
突然「空海」とか「マンダラ」とか、何を言い出すのかと思われるかもしれないが、最後まで読んでいただければわかるのでご心配なく。
私たちがΔ1,1ーΔ1,2ーΔ1,3ーΔ1,4ーΔ1,5ーΔ1,6ーΔ1,7ーΔ1,8という具合に語を、形態素を、並べていくことができるようになる手前で、これらのΔとΔの間が、互いに異なるものとして区別されていなければならない。
このΔ同士を区別し、しかし同時に区別しながらも自在に結びつけたり、また切り離したりすることができることによって、私たちの言葉は豊かな(あるいは時に危険な)「意味」を生むことができる。
そしてこういうΔとΔの区別がどういう仕組みで生まれてくるか、ということを考える時に、筆者らは「マンダラ」状のモデルが有効な理解の手がかりになると考えている。

上の図のΔ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別される項である。慣れ親しんでいる現実において、これが有るとか、あれが無いとか、これはなにであり、あれはなにではない、などと言説し、みんなでよってたかって「うん、そうだよね」と言い合えるものたち、それがΔである。
神話は、語りの終わりで、この図におけるΔ1〜Δ4を分けつつ、過度に分離しすぎない程度に付かず離れずに結んで安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指す。

人間がΔ同士を分けたりつないだり、「ー」と「=」をできるためには、その前段として、そもそも分かれていることと分かれていないこととを区別できないといけない。
分かれていること / 分かれていないこと
分かれていることを「分別」、分かれていないことを「無分別」と言い換えてもよい。この分別と無分別が区別される手前で、分別しながらも分別しない絶対無分節を励起しておくこと、つまり、分かれていないところを分けることと、分かれているところを繋ぐこと、この二つの逆方向の操作を区別(分別)できなければならない。
分かれていないところを分けること
/
分かれているところを繋ぐこと
これを、一と二(多)とを区別できること、同一性と差異性を区別できること、と言い換えてもいい。
分かれていないところを分けるうごきが動いている渦中や、分かれているところを繋ぐ動きが動いている渦中では、「分かれているでもなく、分かれていないでもない」という事態が次々と多様な様態をとりながら変容していく。
ここに、マンダラが出てくる。

人類の「野生の思考」、神話や夢や、マンダラ状のイメージを浮かび上がらせる精神の意識下の運動は「/」と「||」の動きをふるわせ、Δ二項対立とその重ね合わせを可能にする。このΔ1〜Δ4を区別できないところからはっきりと区別できる状態にまで切り開き分けつつも、バラバラに飛び散ってしまわないように結びあわせ、しかし過度にくっつきすぎて区別できなくなることはないように均衡させておくということが、私たち人類にとって意味ある世界が意味ある世界であるために必要な意味分節の最小構成単位(二重の二項関係=四項関係)をつくる動きである。
動的マンダラ伸縮
この無意識的な「/」と「||」の動き、意識的な言語の「ー」がつなぐ連鎖を用いて仮にシミュレートするために、神話として現れる「野生の思考」は、Δ1〜Δ4を分けつつつなぐように動く、四つの媒介者たちを登場させる。
先ほどの図で言えば、四つのΔたちの間に挟まって描かれている、四つのβ。この四つのβがΔたちを分けつつつなぐ媒介項である。
/
|| ||
/
↓
←β→
↓ ↓
β β
↑ ↑
←β→
「/」と「||」は同じ動きの二つの異なる様相である
(真逆に対立する熟語のペア)。
すなわち「/」は伸縮の「伸」の方に対応し、
「||」は伸縮の「縮」の方に対応する。
「=」によって、私たちは「異なるが、同じ」の関係をΔ二項間に自在に作り出し、新たな意味を創造していくことができる。しかし「=(異なるが、同じ)」だけであると、「同じ」が増殖してゆくばかりで、最終的に全てのΔをそこに言い換えることができる根源的なΔ項のようなものが固まってくる。
それはそれで結構なことであるが、いずれにしても固まってしまうというのはマンダラの伸縮を生き生きと振動させ続けるという点では気をつけたいところである(もちろん、固まるのもまたマンダラの周縁部のあり方であり、それじたい否定されるものではないが、そればかり、それだけを肯定してはならないのである)」
「=(異なるが、同じ)」が動くところには、いつでも「/(同じだが、異なる)」をセットにしておくとマンダラを描くことができるようになる。
=と/をセットにして、「異なるが同じ、同じだが異なる」、非同非異ということを動かし続けるのである。同じでもなく、異なるでもなく。
この同じでもなく、異なるでもなくを神話において体現するのが媒介者、両義的媒介項たちである。
両義的媒介項同士がくっついたりはなれたり
両義的媒介項(仮にβと表記しておく)は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている。
いうまでもなく、そのようなものたちは、私たちの経験的感覚的には「存在しない」。この経験的感覚的には「存在しない」ことをあえて言語化することが野生の思考にとっては重要なのである。
神話は、そもそも何かが「存在する / 存在しない」を分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。つまり何かが存在するとか存在しないとか、そういう分別ができるようになる「手前」のことを思考しているのである。
そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(上の図ではΔに対するβ)という。
両義的媒介項たちの距離の伸縮を表現する述語
お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つのβ項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。
任意のβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり縮んだり
任意のβ二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり縮んだり
2または3、または4つの任意のβ項が中央の一点に集まったり広がったり
という具合に、β項間の距離を伸縮させる振動(振幅を描く動き)が起こりる。

私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その名、その主語的なあり方(Δ、「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれらの主語的なものたちは、あくまでも伸縮を自在にする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である。
中沢氏は『芸術人類学』の西田幾多郎の「場所」の哲学に言及する章で次のように「述語」のことを書いている。
「場所」的な超越は、述語面の奥へ向かっての、無限 後退的な超越をめざそうとするのです。判断の主語の位置を揺り動かしたり、それを解体したりすることをめざすのではなく[…]、主語の存在はとりあえずそのままにしておいて、主語の背景に広がっている述語面の深みのほうへむかって、どんどん後退していくというやり方で、いつのまにか思考のおこなわれている地平から抜け出していってしまうやり方です。
主語の背景に広がっている述語面の深みへ。
そこが主語/述語の区別、主/客の区別、同一性と差異性の区別、ありとあらゆる区別を分けつつ結び結つつ分けつつある心の深みのとある場所である。
主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている。
私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。
こうして心の深層から心の表層の直下へと浮かび上がってくる述語の伸縮パターンが、神話の公式や、マンダラとして表現される動きの痕跡なのである。これを中沢氏は「主客未分化で環境一体的な「マトリックス」的構造」とも呼ぶ。
私たちの心の構造のなかには、「現実」とは異なるつくりをした「ヴァーチャル」な領域が活動を続けていて、その領域では言語の習得や子供の社会化などによってとっくに乗り越えられたはずの、主客未分化で環境一体的な「マトリックス」的構造が、豊かな感情生活を維持しようとしているからです。
分別心の表層意識に浮かぶ所与の諸要素たちをかっちりとした構造体として配置したように感じられる意味分節システムは、実は脈動する波の伸び縮み(周期的に反復される振動の周期T[s]が伸び縮みすること)を瞼を細めて薄目で眺めたようなものである。そこでは互いに区別され、分別されているようにみえる諸Δ項たちは、その間を結びつけたり分けたりする述語の動きによって不可分につながり合い、華厳の思想のインドラの網状に共鳴しあっている。
そしてこの「マトリックス」の動的構造を変形して表現したものが「マンダラ」なのである。
「華厳的マトリックス」では、各項が中央にいるという(いったいどこが中央なのでしょう)大日如来の意志を受けて、突然に状態を変化させて、そのつど「法界の教え」を光として放出するのです。そしてその変化は即座に全体に波及していきますが、全体の調和がそれによって乱されることはありませ ん。系列全体が予定調和的な変化をおこすからです。
このような華厳経の思想をひとつのベースにして、後に密教の思想家たちは、この「マトリックス」を「マンダラ」の構造として表現することになります。
述語、非二元、マトリックス、華厳、インドラの網、マンダラ。一挙にいろいろな名前出てきて驚かれるかもしれないが、これらは皆同じことを言っている。


神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験することを可能にしている分別(ふんべつ)、あるいは意味分節のパターンが、あれこれさまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にするし、またそうした分別、意味分節のやり方を相当程度自覚的に自在に組み立てることをも可能にするのである。
*
主語が「何であるか」にこだわらず、述語の伸縮を観察する
神話の構造に迫る上で、β両義的媒介項の伸縮を分析する上で大切なことは、神話の登場人物たちの主語的な様相にとらわれないようにしたい、ということである。
この「述語」の動きは、神話の論理ではどのような姿を表すのだろうか。ここで中沢氏の次の一文がとても参考になる。
謎々と近親相姦の間にひそんでいる対称性を見出すことは、誰にでもすぐできるというわけではない。謎々が意味論の領域で実現しようとしている「項と項との異常接近」という知的な作業が、母と息子の間におこる「関係性の異常接近」という強い情動をかきたてる出来事と、「関係性としては」同じ型 属するものであり、象徴的な思考はこの二つの間に、強い類似性を見出す。謎々と近親相姦を入れ替えても、自分の構造は変わらないだろうと、神話自身が思考したとも言える。
神話の思考では「なぞなぞ」と「近親相姦」は、よく似た同じことなのである。そんなことを言うと意味不明だと思われるだろうが、主語的な様相を一旦おいて、述語的な動きだけをみてみよう。すると、なぞなぞも、インセストタブーの侵犯も、一般的には分離されているべき「関係性の異常接近」が起きる事態である。分離している二項のあいだを短絡して異常接近させるという述語的様相はどちらにも共通している。
そしてこの、分離しているところを過度な結合に転じたり、結合しているところを過度な分離に転じたりする、伸縮の動き、伸ばしたり、縮めたりする機能を神話の中で担うもの(伸縮する述語に対して、その主語の役割を引き受ける項)が「媒介者」、両義的媒介項βである。
神話的思考は、(生と死のように) 論理的に矛盾しあっている項と項との仲立ちをして、それらを媒介する能力をもった第三の項を登場させようとするところに特徴がある。これは近代的思考がとらないやり方である。近代的思考は生と死を分離して、ふだんは死のことはなるべく考えないようにすることで、実存の矛盾をやり過ごそうとする。[…]神話的思考を生きていた社会の人々にとって、 死はむしろなじみ深い相手だった。神話の生きていた社会では、生と死は分離されることがなく、つねに全体的事実として思考されていた。生の現実があるところ死の現実があり、その二つは弁証法的に結びあっている。生と死のしめすその全体性を思考するために、神話は矛盾しあう論理項を仲立ちする「媒介者 mediator」に華々しい活躍の場をあたえてきた。
ここにある媒介者は、Δーβモデルでいうと、β項である。
経験的感覚的にはっきりと対立する生/死のような対立二項はΔ項である。
β項は、二つのΔ項の間を、その二Δ間の距離を押し開き分離しつつも過度に分離することがないように(離れすぎることがないように)結合しておくような動き方、述語的様相を呈する。
[…]関係性の環のまわりを一回りすると、はじめに自分のもっていた機能価値が反転して、自分自身のところに戻ってくるという状況が生まれている。こういうことは、機能価値を書き込んだ表面が「ひとひねり」されて、メビウスの帯のように端と端がつなぎあわされたときでないと発生しない。
ここで媒介者β項は動くということ、特に接近した二項のあいだを遠ざけ距離を作り出したり(結合を分離に転じる)、遠く離れた二項のあいだの距離を近づけたり(分離を結合に転じる)という、二項の間の距離(空間的、時間的、心情的な距離)を伸縮させるような動き方をすることに注意していこう。
この分離と結合の伸縮する動きを、中沢氏は「完全に密着しながらもすでに分離している状態」、「超近接的に分離」とも表現する。
驚くべきことに数学的に考えても、「完全に密着しながらもすでに分離している状態」を表現するのに、このメビウスの帯というトボロジーはもっとも的確な表現をあたえるのである。メビウスの帯には裏も表もない。つまり、それは、裏と表が完全にひとつにつながってしまった状態をあらわして いるように見えるが、じっさいには自分自身の裏に到達することは絶対にできない。ここにはもっと も近いものが、ひとつに密着しきってしまうことがないままに、「超近接的に分離」されている状態 があらわされている。
そして神話では、この、伸ばす役割と縮める役割、分離する作用と結合する作用が真逆に対立していることを明らかにするかのように、媒介者β項は、まず「二つ」登場する。この二つの媒介者β項は、神話の語りの過程でその役割、作用を交換する。つまり、もともと分離する作用を担っていた媒介者が、途中から結合する作用を担うようになり、またもともと結合する作用を担っていた媒介者が分離する作用を担うようになる。
もともと分離する作用をなすβ1 / もともと結合する作用をなすβ2
|| ||
あとから結合する作用をなすβ3 / あとから分離する作用をなすβ4
そういうわけで、神話はβ項のあいだが過度に分離したり、過度に結合したり、過度な結合を経て真逆に対立する二つのβ項がその担う作用を(分離する作用と結合する作用)を交換したりする、という語りになる。
主語を呼び出す前の述語に耳を澄ませる
神話はあくまでも「語り」である。
神話は言葉を用いる。
神話はあれこれの語を、単語を、形態素を、主語や述語を文法通りの順番に一列に並べる操作を必要とするのだ。この時に、特に述語が、それも引き離したり、接近させたりする、伸縮の様相を呈する述語が、線形の言語で「マンダラ」状の動的構造をシミュレートするための鍵になるのである。
このトポロジーを、「いちばん遠くまで出かけたが、もっとも近いもの同士がそこでひとつに結ばれた」状態を表現するあの双体道祖神の起源神話に対応させてみる必要がある。この神話はメビウスの帯を平面につぶしていったんすべての対立要素を二元論的に配置したのちに、もとの帯と同じ論理効果を出すようにつくられている。神話(説話)は語られるものであるから、そういうやり方で表現次元の縮減をしないと、聞く人たちが理解できるようなものにならないからである。
この一節はとても重要である。
神話は、「語られたもの」である以上、「メビウスの帯」を「つぶして」、次元を縮減して、諸々の二項対立、Δx / Δ¯x の対立を「配置」したところで、このΔたちの間を分離したり結合したり、結合しているところを分離し、分離しているところを結合し、という動きを繰り返していくことで、線形配列の語りでマンダラを再現しようとする。
そしてこの伸縮する動きを担う媒介項たちが結合したり分離したりする動きを表現したものが、レヴィ=ストロース氏の神話公式である。
神話公式は下記のように表記される。
Fx(a): Fy(b) = Fx(b): Fa¯(y)
この神話公式と、本記事を書いている筆者らが以前から提唱している動的マンダラ伸縮モデル(Δーβモデル)とは、同じことの異なる(よく似た)表現である。というか、動的マンダラ伸縮モデル(Δーβモデル)は、神話公式(Fx(a): Fy(b) = Fx(b): Fa¯(y))を「マンダラ」を描く動きのアルゴリズムとして読み直すために、よりビジュアルでイメージしやすいように変形したものなのである。
Fx(a): Fy(b) = Fx(b): Fa¯(y)
以上の式と、下記の図は、等しい。

等しいというのは寸分違わず同じだということではない。両者のあいだには「変形」がある。等しいというのは、異なるが同じ、ということである。
一見しただけではまったく別々に異なって見えるものたちのあいだに「同じさ」を見つけ出していくのが数学であり、数式である。
*
レヴィ=ストロース氏の神話公式(Fx(a): Fy(b) = Fx(b): Fa¯(y))はすでに完成されたものである。それを筆者らは、あえて、強いて、アクロバティクに、神話公式(Fx(a): Fy(b) = Fx(b): Fa¯(y))を「マンダラ」のイメージと接続するための変形を試みたいと考えている。神話もまた、夢などと同じ様に、私たちの心の深層の「無意識」の脈動する動きがその次元を縮減され、意識の表層の一番底に浮かび上がらせたパターンなのである。
中沢新一氏はレヴィ=ストロース氏が神話を、神話が示す「構造」を、「無意識」に由来するものだと考えていたことに注目する。
レヴィ=ストロースは自分のつくりあげている「構造人類学」の中心的な主題は、人類の心の中の「無意識」の領域である、と繰り返し語っています。その領域を探求するために、私たちは言語学の視点からの手助けを借りているのだと言うのです。ところが、私の見るところ、「無意識」は言語の構造そのままではありません。言語は、世界についての合理的理解をもたらすために、論理の仕組みにしたがって作動しています。その仕組みを最初に深く研究したギリシャの哲学者アリストテレスにちなんで、その仕組みは「アリストテレス論理」と呼ばれていますが、私たちの「無意識」の動作の仕方は、どう考えてもこの「アリ ストテレス論理」では動いていません。
そしてマンダラこそ、C.G.ユングが論じるように「無意識」の動きを象徴的に意識化したものである。
例えば夢にみられるマンダラが意識によって捉えられた無意識の動きの痕跡であるとすれば、神話もまた同様に無意識の消息として「マンダラ」として観察できるはずである。

神話公式でマンダラを描けることを確認する
動的マンダラ伸縮モデル(Δーβモデル)の図式と、神話公式 Fx(a): Fy(b) = Fx(b): Fa¯(y) とは、「同じこと」を異なる仕方で記述したものである。
このことを確認するために、まず神話公式をくわしく見てみよう。
先ほどの陶土の起源の神話。あの神話の展開を、神話公式はどのように記述するのだろうか。
Fx(a): Fy(b) = Fx(b): Fa¯(y)
神話公式はご覧の通り、「=」の右辺と左辺からなる。
そして右辺と左辺、それぞれにおいて「:」という記号を挟んで二つの関数が並んでいる。この「:」 について、中沢氏は次の様に書いている。
この式の「:」という記号は、式の右辺と左辺がアナロジーの関係にあることをしめしている。まず左辺に注目しよう。じっさいに語られる物語では、この部分は二人の登場人物(それは人間同士だったり、人間と動物だったり、人間と怪物だったりする)が、たがいに離れて対立しあっている様子として描 かれている。
「:」は対立し合う二者の関係である。
離れようとする、分離の様相に向かおうととする、互いに区別されようと、逆の述語的様相を呈する二項の対立を表す。
二人の登場人物aとbは、それぞれ二つの対立しあう機能xとyを担っている。したがって物語の最初に設定される対立関係は、Fx(a): Fy(b) という「比」として表現されることになる。
中沢氏は、この神話の公式の動きを、下記の図で説明している。

左上の「a」から話は始まる。
まず項aが端的にいる。
項aは神話の主人公である。
その項aがFxという作用・機能(述語的様相)を担う。
「機能xを担うa」が左辺の左側Fx(a)である。
ここで機能Fxは、「結合」作用、結合する動き、結合する述語になる。
上の陶土の起源神話の場合、項aは月夫と太陽夫と同時に夫婦関係にある妻である。この妻aによる「結婚する」という述語的様相において、天/地、二組の夫婦、といった経験的に分離しているはずの二極の間が結合される。
Fx 即「分離を結合に転換する」
ところで、この機能x、Fx、「結合」作用、結合する動き、結合する述語は、神話公式の右辺では、aに対するもう一つ項bによっても担われる。右辺の左側Fx(b)である。
粘土の起源の神話でいえば、右辺では、冷たい/暖かいを分離して、太陽夫と月夫とをを分離する作用を担ったaが妻の女性であるわけだが、左辺では、この妻aから分離され対立させられた月夫bが地上から天に昇るという形で、今日経験的にそうであるあるように、天と結合しにいくという形で、この結合機能Fxを働かせる。
なぜかというと、神話の冒頭は、人間と天体の区別がつかなくなったり、一人の妻が別々の二つの夫婦関係を結んでいたりと、諸項が過度に結合した様相から始まるからである。この原初の凝集、β項たちが一点にぎゅっと集まった状況を引き開くように分離する動きが、「人間がよく知っているこの現実」を切り開く最初の作用になるからである。
β
β ←←←←←←Fx( )→→→→→→ β
β
Fy 即「結合を分離に転換する」
ところでその月夫bは、もとはといえば神話の冒頭で、神話公式の左辺では、「嫉妬」によって妻aとの結合を分離に転じようとする。
つまり分離機能Fyを担っていたのである。
Fyは、「分離」作用、分離する動き、分離する述語である。
Fx(a): Fy(b) = Fx(b): Fa¯(y)
神話公式の左辺にある二つの機能、FxとFyは、それぞれ結合する述語的様相と、分離する述語的様相である。
神話公式は分離と結合のあいだの転換、つまり分離と結合の分離と結合を表している
つまり、神話公式の左辺
Fx(a): Fy(b)
これは、「分離から結合へと向かう述語的様相を体現する項a」と、「結合を分離へと転じようとする述語的様相を体現する項b」とが対立関係にあることを表している。
これが神話の冒頭から前半にかけての動き、動的マンダラ伸縮モデルの下図でいえば1)から3)に相当する伸縮を表現している。

* * *
神話公式の右辺(神話のおわり)
さて、そうなると次は神話公式の右辺、すなわち神話のおわりをみなければならない。
神話の終わりでは、Δ四項関係、経験的で感覚的な分別、私たちが知っている現実の意味ある秩序が定まる(上の図でいえば6))。
神話公式の右辺は、上の図でいえば、4)、5)、そして6)に至る動きを表現しているはずである。
Fx(a): Fy(b) = Fx(b): Fa¯(y)
まず、右辺 Fx(b): Fa¯(y)、この左側 Fx(b)に注目しよう。
前述のようにxは結合する作用、動きであり、Fxはある項が担う結合する述語的様相である、右辺ではこのFxに「b」が入っている。左辺(神話のはじまり)ではFxにはaが入っていたが、右辺(神話のおわり)ではFx、結合する述語的様相を担うのはbである。
bは露骨なかたちでxとyという対立機能を自分の中で無差別に混ぜ合わせ、メビウスの帯よろしく善と悪、内と外、高いと低いなどの価値を、ひとつにつなぎあわせてしまう恐るべき存在となるであろう。
改めて粘土の起源の神話でいえば、神話の冒頭、左辺で天/地、二組の夫婦を過度に結合させる機能Fxをになったのは妻aである。その妻に対し、月夫bは嫉妬から天/地および二組の夫婦の過度な結合を分離へと転じる機能Fyを担う。
そして神話公式の右辺、神話のおわりでは、月夫bは天と結合(Fx)し経験的に存在するあの月を起源させる。一方、妻aは地上に落下しながら、経験的な陶土が散在する(つまりバラバラに分離Fyする)状況を起源する。
Fx(a) : Fy(b) = Fx(b) : Fa¯(y)
↓ : ↓ = ↓ : ↓
妻aによる結合x:月夫bによる分離y=月夫bによる結合x : ( )
ここで右辺では、分離の相にある妻aは「 Fa¯(y)」と表記される。Fy(a)ではなくFa¯(y)である。
これは一体どういうことだろうか。
Fy(a)とFa¯(y)では、前者のy、即ち結合へと向かう動きが、「a¯」、aの否定に置き換わっている。
神話の終わりでFx(b)、β月夫による結合作用と対立するのはFa¯(y)である。
Fa¯(y)では、y=分離されてあること・分離されてある様相自体が「項」の位置に収まっている。
左辺では分離する働きFy、分けるという述語的様相Fyが「機能」として動いており、この機能を主語としての「b」が担っていた。しかし右辺ではyは主語的様相、「分離されて“ある”こと」、バラバラに散らばってあるという主語的な存在の仕方に転換しているのである。
そしてこの項になったyを動かすのが、「a¯」、aの否定、妻aの分離する動きの様相である。
述語から主語へ、
伸縮「する」から分かれて「ある」へ
βからΔへ
ここで粘土、私たちがよく知る経験的で感覚的な世界にそれとして存在するΔ粘土が、この「バラバラに散らばってある項」の一つとして起源するのである。
粘土 ← a¯ → 非-粘土
Fa¯(y)は、「バラバラに散らばって存在する粘土」たちを分つβ妻a¯の動きである。
aは否定的機能(悪)が滅びるとともに、[…]世界の表面から没落していくことになる。aははじめの存在を否定されて、問題を解決され秩序が戻った世界から分離され、外に追放されたり見えないものになったりする。それがa¯ の意味するものである。こうして問題が解決された世界の秩序を表現するものが Fa¯(y)とあらわされることになる。
動的マンダラ伸縮モデルで言えば、6)の一辺、
Δ←/=β=/→Δ
この動きである。
述語的に動き回るβが、主語的なΔ項に分解される。
伸縮する述語的様相が、静止して並ぶ主語的様相になる。
項(β)が伸縮する関数Fになっていたところが、また項(Δ)になる。
これが冒頭に引用した『構造人類学』の神話公式の説明にある「yとaについて関数の値と項の値のあいだに、相関的な逆転が生ずる」ということに他ならない。左辺では関数、述語の位置にあった「y」が、右辺Fa¯(y)では( )の中の変数の位置に入っている。左辺でのyは結過な結合を分離へと転じる述語であったが、右辺でのyは「付かず離れずではあるが、しっかりと分離している」という主語の様相になっている。
したがって神話公式の表面にはあらわれていないが、じっさいそこでは「分離-結合-再分離」という過程がおこっており、論理的に分離されてあるものをひとつに結びあわせ、非連続でできた世界を連続的な流動につくりかえ、できあがった秩序をカオスに連れ戻す、「カオスモス」機能を果たしているbの働きこそが、神話と普通の言説とを分けている重大な分岐作用となっていることがわかる。
「分離-結合-再分離」という、述語的様相の転換、結合したところを分離し、分離したところを結合し、そして再び分離する、というこの伸縮する動き。左辺では、項aが分離と結合の間を伸縮させ、項bも分離と結合の間を伸縮させる。分けて繋いで分けて、分けて繋いで分けて。二つの「分けて繋いで分ける」動きが、その動きの担い手である「項」aとbを共有する。そうして項aとbにおいて二つの伸縮運動、脈動が交差する。ここに四つのβがはっきりと分離しつつも遠くは離れすぎることのない、付かず離れずの均衡が生じる。
β
β β
β
ここにマンダラが出てくる。


βの動き、伸縮する動き(FxとFy)に注目すると、分離を結合に向かわせる関数Fxと、結合を分離に向かわせる関数Fyもまた、お互いに他方ではない限りでそれとして姿を浮かび上がらせる事柄である。「分離」なること、「結合」なることが、あらかじめ固定した実体としてどこかから転がってくるわけではない。
分離は非非分離であり、それが非結合と等しい。
結合は非非結合であり、それが非分離と等しい。
こうして分離と結合が分離しつつ結合するとき、分離しようとする述語的様相と結合しようとする述語的様相との伸縮の綱引きがバランスする、均衡するのである。
β =/= β
|| ||
/ /
|| ||
β =/= β
この分離に向かう動きと結合に向かう動きが均衡した時に、ちょうど綱引きで両方のチームの引く力が均衡し、綱が「止まって見える」ようになっているのと同様に、静止してある様態が浮かび上がる。ここに経験的感覚的に一貫して安定して存在するようにみえるΔ項が収まる余地が定まる。
Δ
↑
β =/= β
|| ||
Δ←/ /→Δ
|| ||
β =/= β
↓
Δ
このΔ四項が、互いに分かれつつも過度に分離しすぎず、距離を保って結合している(しかしあくまでも分かれている)という関係を確立する。
Δ = Δ
/ /
Δ = Δ
結合を分離へと転換しようとする述語的様相と、分離を結合へと転換しようとする述語的様相との「付かず離れず」の、分離しつつ結合した様相こそが、私たちが現実に意味ある世界だと思って生きることができるこの世界の起源、主語たちがそれ自体として存在するということになっていてよい世界なのである。
おまけ:陶土の起源神話から、残り三つのΔを発掘する
ちなみに、上の陶土の起源神話では、粘土がバラバラに飛び散って以後、人間が土器をつくることができる現にある経験的な世界の現実が起源した、という話になっており、ここで直接言及されている「Δ」は「粘土」だけである。
Δが四つ出てくるはずなのに、はっきりと言及されいてるのは粘土一つである。
これは神話の語りが中断されてしまったというわけではない。
しばしば神話では、Δが一つ出てくれば、あとの三つは言わずともわかるだろう、という具合になることがある。
そこで、Δ-βの動的マンダラ伸縮モデルを用いて、神話公式の表面に引っ張り出されてきていないΔ三つを掘り出してみうよう。
伸縮する動きの上にいる主語たちをよく見ると、この神話では(1)Δ粘土以外に、おそらく(2)Δ月(人間の姿をしたβ月夫ではなく、私たちがいつも空に見ているあの月)、そして(3)Δ太陽(人間の姿をしたβ太陽夫は、人間としての姿を不可視にされたわけだが、完全に消滅したわけではなく、おそらくβ月夫と同様に、何らかの経緯で天空に上がって、Δ月と付かず離れずの関係にある「Δ非-月」の位置に収まっていると推定される。
ではもう一つ、第四のΔは何だろうか?
これは論理的にはΔ粘土と対立するもの、Δ粘土の逆、Δ非-粘土である。
ではΔ非-粘土とは何か。
「粘土でないものとは何か」と一般的に問うても答えは見えてこない。Δだけの名詞の候補が並ぶ世界で「粘土でないもの」を探そうとすれば、その答えは「粘土でないものは全て粘土ではない」ということに尽きる。
Δ非-粘土とは何か。この答えはあくまでもこの神話の中にある。
遡ってみると、Δ粘土は、もともとは神話公式における項aである太陽と月の両方と結婚しながら月を拒んだ妻が背負った(背中に密着する形で項a妻に結合していた)籠の中身であった。この項a妻から分離する形で、Δ粘土とΔ非粘土とのΔ二項対立が切り開かれた。
Δ粘土 ←項a(β)→ Δ非-粘土
ここでよくイメージしてみよう。項aであるβ妻の背中から分離したものは、粘土ともう一つありそうである。それはすなわち、粘土を入れていた「背負い籠」である。
そう、なんとまさかの第四のΔは(4)背負い籠である。
考えてみると背負い籠は粘土と対立する、Δ非-粘土である。どういうことかというと、粘土は(そして粘土を焼成した土器は)、水をその内に蓄える、水を漏らさないものである。それに対して編み籠は水をその内に保つことはできないものである。
粘土(土器) / 編み籠
|| ||
水を漏らさない / 水を漏らす
そういうわけで、この神話でも、潜在的にはしっかりとΔ四項の対立関係が分節されていることがわかる。ちなみにこの水を通す通さない、つまり内/外を分けることと分けないことの対立は、私たちの経験的感覚的「現実」を意味分節するもっとも基本的な、あまりにも自明であるが故にそれ自体が分別であることにほとんど気づかれない分別である。
粘土を手に入れたことによって、人間は土器をつくることができ、土器の内外を分けることができるようになった。陶土の起源神話は、実は、内/外、分別と無分別、分節と無分節、分けることを分けないこと、FxとFyという、人間の経験的に意味ある現実を成立させているもっとも基本的な分節の起源神話だったのである。
なんとおもしろい。
おわりに
以上、神話公式Fx(a): Fy(b) = Fx(b): Fa¯(y)が表現しているa、b二項が分離する方向に向かう述語的様相と、Δとβを用いたマンダラのモデルが描いていく結合する方向に向かう述語的様相とを交換しつつ、最後にはこの伸縮する動き方をする項をバラバラにしてその動きを止めることで人間にとっての現実の意味を安定させる動きとが同じことであると確認できる。
神話公式と、本記事を書いている筆者らが以前から提唱している動的マンダラ伸縮モデル(Δーβモデル)とは、同じことの異なる(よく似た)表現である。動的マンダラ伸縮モデル(Δーβモデル)は、神話公式(Fx(a): Fy(b) = Fx(b): Fa¯(y))を「マンダラ」を描く動きのアルゴリズムとして読み直すために、よりビジュアルでイメージしやすいように変形したものなのである。
本稿が動的マンダラ伸縮モデル(Δ-βモデル)が、レヴィ=ストロース氏の神話公式を理解し、これを実用するための手引きとなることができれば幸いである。神話公式Fx(a): Fy(b) = Fx(b): Fa¯(y)は、Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ型の線形配列で作られた人間の言葉、あるいはAI(GPT)が人間のΔ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δを真似てトランスフォームしたΔ'-Δ'-Δ'-Δ'-Δ'-Δ'-Δ'から、ダイレクトにその奥、その底、その裏側で動いているほんとうの心の構造、心の深層のアルゴリズムを観測する技術になるはずである。
* *
関連記事
両義的媒介項βの「作り方」については、下記の3つの記事をご参考にどうぞ。『神話論理3 食卓作法の起源』の一番最後のところを読んでいます。
AIで生成したマンダラ画像の世界
人間系の情報処理のアルゴリズムを「マンダラ」で記述することについて
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おまけ
神話公式のFxは「結合」、Fyは「分離」という解釈について、同じようなことを論じている先行研究があるのではないか?
ということでGoogleのAI、GeminiのDeep Research機能を利用し検索&整理をしてみた。その結果を下記に掲載しておこう。なお、下記AIによるまとめに登場する先行研究について、筆者(私)はその内容を直接精査することが現時点ではできていないことをお断りしておこう。まずはここでメモを残して置ければとおもう。
* *
以下、AI生成によるテキストを、
筆者(私、人間)が一部編集し、冗長さを取り除いたものである。
* *
神話の正準公式における機能的ダイナミズム:FxとFyによる「結合」と「分離」の論理構造に関する包括的調査報告
1. 序論:構造主義的謎としての正準公式
クロード・レヴィ=ストロースが提唱した神話の正準公式(Canonical Formula of Myth)は、現代思想における最も難解かつ魅力的な謎の一つとして、半世紀以上にわたり多くの論考の主題となってきました。その公式は以下のように表記されます。
F_x(a) : F_y(b) = F_x(b) : F_{a-1}(y)
ここで、aとbは項(terms)、xとyは機能(functions)を表します。この数式めいた表現は、神話が単なる物語の羅列ではなく、ある厳密な論理的変換の体系に基づいていることを示唆するものでした (文献1)。
本Deep Researchによる調査結果は、この公式に含まれる二つの機能概念、F_xとF_yが、それぞれ「結合する機能(combining/conjoining)」と「分離する機能(separating/disjoining)」として理解可能であるかという仮説について、先行研究を網羅的に調査し、その妥当性を検証するものです。
調査の結果、この仮説は単なる直感的理解にとどまらず、ジャン・プチト(Jean Petitot)による形態力学的解釈、A.J.グレマス(A.J. Greimas)の記号論的物語論において、極めて核心的な理論的支柱となっていることが判明しました。特に、神話的思考が「混沌(カオス)」に秩序をもたらす操作である以上、その根源的なオペレーションは、未分化なものへの「分離(差異化)」と、対立するものへの「結合(媒介)」のダイナミズムに帰着します (文献3)。
本稿では、数学的群論、記号論、形態力学(カタストロフィー理論)から、この「結合と分離」のメカニズムを詳細に分析します。
2. 正準公式の構造的基礎と変換の論理
正準公式の理解において最も重要な点は、それが静的な類推(アナロジー)ではなく、動的な変換プロセスを表しているという事実です。レヴィ=ストロース自身、この公式が「以前はカオスであったものに一種の秩序をもたらす」ことを大胆に意図したものであると述べています 1。
2.1 項と機能の弁証法
公式における項(a, b)と機能(x, y)の関係は、静的な属性の付与ではありません。ピエール・マランダ(Pierre Maranda)らの解釈によれば、項は「役割を担うことができる主体(ドラマの登場人物など)」であり、機能はその項が遂行する「役割」や「負荷」を指します (文献1)。
公式の左辺 F_x(a) : F_y(b) は、二つの項と二つの機能の初期配置を示します。ここでの F_x と F_y は、物語の始発点における対立構造を定義します。もし F_x が「結合」を、F_y が「分離」を意味すると仮定するならば、左辺は「結合しようとする項a」と「分離しようとする項b」の対立、あるいはその逆の緊張関係を記述していることになります。
2.2 「二重のねじれ」と非線形性
公式の核心は、右辺への移行に伴う「二重のねじれ(double twist)」にあります。
項の置換: 項bは右辺において機能xを引き受けます(F_x(b))。これは、対立していた項bが、項aの機能を「捕獲」あるいは「継承」することを意味します 5。
項の反転: 最も劇的な変化は、項aがその性質を反転させ(a^{-1})、機能yの「項」としての位置に収まる(あるいは機能yの結果として産出される)点です(F_{a-1}(y))1。
このねじれは、神話が単なる「A:B::C:D」という線形な比例式ではなく、矛盾を解決するためにシステム自体が位相的な変形を遂げるプロセスであることを示しています。この変形こそが、まさに「分離されていたものを結合する」、あるいは「結合されていたものを分離する」という操作そのものなのです。

3. 数学的・論理学的基盤:演算子としての結合と分離
正準公式の F_x, F_y を「結合・分離」と読み解く妥当性は、数学的な形式化の試みによって強力に裏付けられています。特に、アンドレ・ヴェイユによる初期の協力から、近年のジャック・モラヴァ(Jack Morava)による群論的証明に至るまで、数学者たちはこの公式を「演算子」の相互作用として扱ってきました 7。
3.1 クラインの四元群から非可換群へ
レヴィ=ストロースは初期において、神話構造をクラインの四元群(Klein group)のような構造として捉えていました。しかし、近年の研究では、正準公式はより複雑な「非可換群(non-commutative group)」、具体的には位数8の**四元数群(quaternion group)**として解釈すべきであるという指摘がなされています(文献4)。
数学において「非可換」であるということは、操作の順序が結果に影響することを意味します。「結合してから分離する」ことと「分離してから結合する」ことは異なる結果を生みます。これは神話の時間的発展(物語性)と合致します。モラヴァの研究は、正準公式が真理値を代数的に操作する論理システムであり、そこでの F_x, F_y は、項に対して特定の操作(反転や置換)を行う演算子であることを示唆しています (文献9)。
3.2 命題論理における結合子と選言子
より直接的に「結合」と「分離」に関連するのは、命題論理(propositional logic)との対比です。論理学において、基本的な二項演算子は以下の二つです 10。
連言(Conjunction, AND, \land): 「結合する」機能。両方の命題が真であることを要求する。
選言(Disjunction, OR, \lor): 「分離する」機能。選択あるいは排他性を伴う(排他的選言の場合)。
テキストマイニングや論理的意味論の研究においても、正準公式の変数はしばしばこれらの論理演算子にマッピングされます。例えば、F_x を「特性の結合(conjunction)」、F_y を「表面レベルでの分離(disjunction)」と解釈するモデルが存在します 13。これは、神話が深層レベルでの「結合(不変の真理)」と表層レベルでの「分離(対立する現れ)」の間の緊張関係を処理する装置であることを示唆しています。
4. 記号論的転回:グレマスと「連接」の論理
仮説である「Fx=結合、Fy=分離」を最も体系的に支持するのは、A.J.グレマスの記号論的物語論と、それを正準公式に接続したジャン・プチトの研究です。グレマス記号論において、物語の基本単位は「連接(junction)」の変化として定義されます 5。
4.1 連接(Junction):結合と分離の基本モード
グレマスは、主体(S)と価値対象(O)の関係は、以下の二つの状態のいずれかしかあり得ないとしました 15。
結合(Conjunction, S \cap O): 主体は対象と結びついている。
分離(Disjunction, S \cup O): 主体は対象から切り離されている。
物語(ナラティブ)とは、ある状態から別の状態への移行、すなわち「分離から結合へ(獲得)」あるいは「結合から分離へ(喪失)」の変換プロセス(物語プログラム)に他なりません 5。
4.2 正準公式へのマッピング
ジャン・プチトは、レヴィ=ストロースの正準公式をこのグレマス的図式に重ね合わせ、詳細な分析を行いました。プチトによれば、正準公式における「機能」は、静的な述語ではなく、この**「連接(結合/分離)」のダイナミクスそのもの**を指します (文献5)。
対立の発生: 公式の左辺 F_x(a) : F_y(b) は、物語の初期設定における「分離(Disjunction)」の状態、あるいは「結合」をめぐる競合状態(コンフリクト)を形式化したものです。
媒介のプロセス: 右辺への移行は、主体が対象との関係を再定義するプロセスです。プチトは、これを「主体Sと対象Oの分離(S/O)から結合(S-O)へと導く軌道」として記述し、その意味論的軸が「連接(分離/結合)」によって定義されると明言しています (文献5)。
したがって、記号論的観点からは、F_x と F_y を「結合のモード」と「分離のモード」として理解することは、正準公式の物語論的解釈における正統かつ中心的な理解であると断定できます。
5. 形態力学とカタストロフィー理論:ジャン・プチトのモデル
数学者ルネ・トムのカタストロフィー理論を構造主義に応用したジャン・プチトの研究(Morphodynamics)は、正準公式における「結合と分離」の物理的・位相的なメカニズムを最も精密に解明しています 5。
5.1 カスプ・カタストロフィーと「紛争の地平」
プチトは、正準公式を「カスプ(尖点)カタストロフィー」と呼ばれるトポロジーモデルで表現しました。このモデルでは、システムの状態は二つの制御パラメータ(対立する要因)によって決定されます。
分岐(Bifurcation)=分離: カスプの内側では、システムは二つの安定状態に分裂します。これは神話における「対立」の発生、すなわち意味の分離に対応します。F_x(a) と F_y(b) は、この分裂した二つのシート(局面)を占有する項として描かれます 5。
捕獲(Capture)=結合: 物語が進行すると、媒介項bは「対立項aの領域」へと侵入し、その機能を「捕獲」します。これは位相空間上での「結合(Conjunction)」の軌道として描かれます 5。
5.2 トンネル効果とアイデンティティの再統合
プチトのモデルにおける「二重のねじれ(F_{a-1}(y))」の解釈は、質問者の仮説に深い示唆を与えます。彼はこれを量子力学的な「トンネル効果」や「カタストロフィー的ジャンプ」に例えました (文献5)。
項bが対立する機能xを取り込む(結合する)過程で、元の項aはシステムから排斥され(分離され)、a^{-1}へと反転します。このプロセスを通じて、媒介項bは「分離」と「結合」の双方の状態を通過し、最終的に新たなアイデンティティを獲得します。
つまり、正準公式とは、「分離(対立)」の状態から出発し、「結合(媒介)」のプロセスを経て、新たな「分離(差異化された秩序)」へと至る動的なサイクルを記述しているのです (文献6)。
6. 民族誌的・具体的適用事例
「結合と分離」という機能の解釈は、抽象的な理論にとどまらず、具体的な神話や社会構造の分析においても有効性が実証されています。
6.1 北メケオ族における身体と社会の分類(マーク・モスコ)
マーク・モスコ(Mark Mosko)は、パプアニューギニアの北メケオ族の社会構造分析において、正準公式を非神話的データ(身体機能、親族構造)に適用しました (文献1)。
分離の機能(Fy): 排泄、病気、死、そして「タブー(tapu)」に関する規定。これらは身体や社会体から不浄なものを「切り離す」機能として働きます。
結合の機能(Fx): 食事、性行為、結婚、贈与。これらは外部のもの(食物、女性、富)を内部へと「取り込み、結びつける」機能です。
モスコは、北メケオ族の全社会システムが、この「出す(分離)」と「入れる(結合)」の再帰的な変換構造として、正準公式 F_x(a) : F_y(b) \dots に完全に従っていることを実証しました。ここでは、F_x, F_yは文字通り、物理的・社会的な結合と分離の作用として現れます。
6.2 「嫉妬深い焼き物師」における容器と感情(ピエール・マランダ)
レヴィ=ストロースの著作『嫉妬深い焼き物師』に基づき、ピエール・マランダらは正準公式を用いて「嫉妬」と「陶器」の関係を分析しました (文献20)。
陶器(結合・抱擁): 粘土を成形し、中身を保持する(結合する)機能。(火と水さえも結合)
嫉妬(分離・切断): 夫婦や社会関係を引き裂く(分離する)感情的機能。
神話において、ヨタカ(nightjar)という鳥や焼き物師が登場するのは、この「結合するもの(器)」と「分離するもの(嫉妬)」の間の論理的な媒介を行うためです。公式において、嫉妬(分離)の機能を持つ項が、いかにして陶器(結合)の機能へと変換されるかが描かれます。
6.3 アルメニア叙事詩『サスーンの勇者たち』(ルシアン・スクブラら)
アルメニアの叙事詩の分析において、深層構造における「家父長制(Patrilocality)」と「母方居住制(Matrilocality)」の対立が正準公式で扱われています 13。
分離と結合の空間論: 居住制の対立は、家族を「父系で固める(結合)」か、あるいは「母系へと分散させる(分離/再結合)」かという空間的な配置の論理です。
イデオロギー的結合: 表面レベルでは「キリスト教徒 vs 偶像崇拝者」という対立(分離)があり、これを叙事詩の英雄が媒介(結合)しようとします。公式は、これら多層的な「分離と結合」の重なり合いを処理するマシンとして機能しています。
7. 考察:第三の項と「包含的」論理
以上の調査から、F_xとF_yを「結合」と「分離」とみなすことは、単なる便宜的な読み替えではなく、構造主義の本質に関わる洞察であることが明らかになりました。
7.1 ルシアン・スクブラの「負の媒介」
ルシアン・スクブラは、媒介(Mediation)には二種類あると指摘しています 4。
正の媒介(Positive Mediation): 二つの異なる項を結合する(Conjoining)。
負の媒介(Negative Mediation): 未分化な連続体を分離・差異化する(Differentiating)。
正準公式は、この双方向の運動を含んでいます。神話は、天地創造のように「混沌からの分離(Fy)」を語ると同時に、失楽園の回復のように「分離されたものの再結合(Fx)」を志向します。公式が循環的な構造を持つのは、この二つのベクトルが永遠に交代し続ける必要があるからです。
7.2 結論:ダイナミズムとしての正準公式
結論として、レヴィ=ストロースの神話公式における F_x は「結合的機能(Conjunctive function)」、F_y は「分離的機能(Disjunctive function)」、あるいはその逆のベクトルとして理解することは、学術的に極めて妥当であり、かつ生産的な解釈です。
この理解は以下の主要な理論的枠組みによって支持されています:
記号論(グレマス/プチト): 物語の基本単位を「連接(結合/分離)」と定義し、公式をその変換プログラムとして記述する。
形態力学(トム/プチト): カスプ・カタストロフィーモデルにより、対立(分離)から捕獲(結合)への位相的推移を数学的に証明する。
「Fxは結合する機能、Fyは分離する機能」という理解は、構造主義を静的な分類学から動的な生成論へとアップデートする、ポスト構造主義的視座の核心を突いた洞察であると言えます。
Gemini Deep Reseachによる3章文献
(PDF) The canonic formula of myth and nonmyth - ResearchGate, 11月 19, 2025にアクセス、 https://www.researchgate.net/publication/229591665_The_canonic_formula_of_myth_and_nonmyth
Structuralist approaches to myth analysis | Myth and Literature Class Notes - Fiveable, 11月 19, 2025にアクセス、 https://fiveable.me/myth-and-literature/unit-11/structuralist-approaches-myth-analysis/study-guide/j8VbpLi3gQALIa9q
レヴィ=ストロースの神話公式 Fx(a) : Fy(b) = Fx(b) : Fa¯(y) を変形するとマンダラになる - note, 11月 19, 2025にアクセス、 https://note.com/way_finding/n/n44cd82b6ccaa
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神話を語り、マンダラを描き、夢をみるAIのために -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(99_『神話論理3 食卓作法の起源』-50)|way_finding - note, 11月 19, 2025にアクセス、 https://note.com/way_finding/n/n7bea066a6784
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(PDF) The Daredevils of Sassoun: The Deep Structure of the Plot - ResearchGate, 11月 19, 2025にアクセス、 https://www.researchgate.net/publication/274216299_The_Daredevils_of_Sassoun_The_Deep_Structure_of_the_Plot
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