思考について論じるのに、真理でも存在でも認識でもなく、「食卓作法」が問題になるのはなぜ? -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(102_『神話論理3 食卓作法の起源』-53)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第102回目です。前回の記事はこちら。
『神話論理3 食卓作法の起源』の最終章「「生きる知恵の規則II 料理民俗学小論」を読みます。これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。
経験的な区別が概念の道具となる
レヴィ=ストロース氏は大部の『神話論理』の第1巻の冒頭に次のように書いている。
「生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」
経験的感覚的な区別(分別)を概念の道具として、観念を抽出するとは、いったい、どういうことだろうか?
この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」、私たちの野生の思考が半分無意識のうちに“経験的感覚的な区別を概念の道具として観念を抽出する”プロセスを、動的に伸縮する「マンダラ」としてモデル化すべく試行している。
動的に伸縮する「マンダラ」のモデルを考える上で、筆者らがよすがとするのは空海が『吽字義』に記している二重の四項関係(八項関係)として展開するアルゴリズムである。「項」の関係といっても、マンダラは所与の即自的な実体を二次的に集めてきて並べたものではない。マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たち、振幅を描くように伸縮する動きの、その述語的様相の共鳴がある。この共鳴から浮かび上がるパターンを、人間の言語の線形構造の上に写像したものが、おそらく神話の語りなのである。
この、神話の語りを、言語の線形構造に変換されたマンダラとして読むという試みは、レヴィ=ストロースと同じく、人類の無意識の心の動きの消息として「神話」を読み解こうとしたカール・グスタフ・ユングの思考とも共振するものになるだろう。
動的マンダラ伸縮モデル
仮に下図に示す「Δ」を最小で二つ、つないだもの(Δ1=Δ2)をひとつひとつの「観念」だと思っていただこう。

上の図のΔ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別される項である。例えば、
Δ1 寒い / Δ4 寒くない
|| ||
Δ2 わるい / Δ3 わるくない
といった具合になる。私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界とは、このような二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている。
人類は「経験的区別」を実行する機械のような仕組みとしてできている。
Δ自 / 他Δ
Δ生 / 死Δ
Δ好き / 嫌いΔ
Δ因 / 果Δ
Δある / ないΔ
Δうまい / まずいΔ
Δ高い / 安いΔ
Δ遠い / 近いΔ
Δ内 / 外Δ
特に経験的な区別を区切り出す上で決定的なのは、次の対立である。
区別があること / 区別がないこと
分節 / 無分節
分かれてあること / 分かれていないこと
分離している / 結合している
一である / 多である
同じである / 異なっている
区別すること / 区別しないこと
分離すること / 結合すること
そしてさらに、この対立の両極の間の転換を引き起こす、二種類の動きの対立。すなわち、
結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き
この対立である。
経験的世界の意味分節=存在分節を可能にする
「分けること」それ自体の起源を思考する神話
前回の記事では「内/外」「入る/出る」、そして「入口/出口」といった、私たち人類にとっての意味分節=現実分析を支える基本的な二項対立関係の起源を思考しようとする神話を見てきた。
例えば、私たちが「私は居る」とか「犬がいる」とか「カレーが一皿ある」などといったことを意識し、言語でもって報告するとき、その前提として私と非私とが区別できていなければならないし、犬と非犬、"その"犬とその他の犬、カレーと非カレー、"その"カレーとその他のカレーとが区別できていなければならない。
区別するということは、二次元で考えれば、真っ白な紙にくるりと丸を描くように、境界線を引き、閉じること。さらに高次元で考えれば、三次元空間にシャボン玉が浮かんでいるような具合で境界"面"を広げて、そして閉じていくことである。
そしてこの境界線、境界面を閉じるところで、「閉じる/開く」の対立が区別できていなければならない。
またこの閉じる/開くは述語的な相の対立を呈する。
さらにそこには、閉じつつある途中、開きつつある途中、ということがある。閉じつつあるが完全に閉じてはいない状態があり、そこに「入口/出口」の区別が出てくる。
そしてさらに、この境界線や境界面を境にして、二つの側、境界の「こちら/あちら」の区別が出てくる。そしてここに別途区別された「自/他」の対立が重なると、境界の「こちら/あちら」の対立は、「内/外」の対立になる。
こちら/あちら
|| ||
自/他
↓
内/外
私たちが、経験的感覚的に、なにかがあるとかないとか意識したり語ったりできているときには、このような「内/外」の対立がすでに無意識裡にでも区別されていなければならない。

*
瞬間瞬間を意味ある経験として意識できるための「意味分節」
神話は、人類が現に経験している、自分自身にとって「意味ある世界」を支えている意味分節・存在分節の体系の起源を、由来を、思考しようとする。
神話の語りを紡ぐ、野生の思考が、例えば「人間」の起源を思考しようとすると、それは「人間」と「非-人間」がもともと区別されていなかったところから、区別されるようになるに至る経緯を語る、ということになる。
「人間」に限らず、ありとあらゆる経験的感覚的に「他ではないそれ」として存在するように感じられるものや事柄について、それとそれ以外との区別のはじまりをどう語るかが神話の思考の関心事になる。
A / 非-A
こうなると、意味ある経験的世界の起源を語る神話の思考を突き詰めていくと、いずれ必ず、区別があるということそれ自体の起源を問うことになる。
区別があること / 区別がないこと
この区別である。この区別を他の感覚的に似たような言い方に言い換えることもできる。
分節 / 無分節
分かれてあること / 分かれていないこと
分離している / 結合している
一である / 多である
同じである / 異なっている
これらの対立は、すべて単純に同じではなく、厳密に言えば、時間的空間的な前後関係("もともと"の状態が分かれているか分かれていないか、そこから分けられた二次的な状態が分かれているか分かれていないか)によって相が異なる・区別できるのであるが、いったん大きく「区別があるか/区別がないか」と、まとめて考えておこう。
*
この主語的に固まった様相として分かれているかいないかの対立を考えようとすると、分かれているところを分かれていないようにしたり、分かれていないところを分けたりする、「分ける」動き、述語的様相が際立ってくる。
そこから神話は、
区別すること / 区別しないこと
この対立の起源を問うことになる。
ここで「区別しないこと」は、しばしば神話では、経験的にはっきりと分離されているべき二者の間が過度に結合されてしまった状態として表現される。
区別すること / 区別しないこと
この対立は、
分離すること / 結合すること
結合状態を分離状態に転じる / 分離状態を結合状態に転じる
この真逆に対立する動きのペアにも置き換えられる。
前回の記事で検討した「料理」と「消化」をめぐる神話は、人類を含む生き物の身体が食事をしたり、排泄をしたりする、という極めて感覚的な区別の経験を用いて、内/外、入れる/出す、入口/出口、開く/閉じる、といった対立関係を意識の前面に引っ張り出して、そしてこれらの区別を用いて、「分離すること/結合すること」「一であること/異であること」の区別、区別することと区別しないことの区別という、おそらく分別する思考にとってもっとも基本的な最初の区別の動きだしをシミュレートしようとするのである。そしてこれらのことの経験的な様相が、まさに「食卓作法」なのである。
食卓作法といえば、「口を開けたまま食べ物を噛んではならない」とか「くちゃくちゃと音をたてながら噛んではならない」とか「食器どうしをぶつけてかちゃかちゃと音を立ててはならない」とか「そばやうどんはズズッ!と音を立てて吸うのが粋だ」とか「食事中に食卓でオナラをしてはならない」といったことであるが、これら食卓作法は、内/外の出口/入口のあいだでの、開/閉の仕方、出し/入れの仕方、その開けた閉じたり入れたり出したりする述語の様相を、こまかく規制して分別しているのである。
「料理」と「消化」をめぐる語りは、「分ける/分けない」「一/異」のあいだを分けたり分けなかったり、分離したり結合したり伸縮させる動きのことを言わんとしているのだ、ということを念頭に置いてみると『神話論理3 食卓作法の起源』は忽然と読みやすくなる。
分けることと繋ぐこと(分けないこと)
この二つの動きの組み合わせで、
人間にとって経験的に意味ある「現実」が意味分節される
私たち人類は、こうした区別を用いて、抽出された観念を「つなぎ合わせる」(区別できるなにかとなにかと結合したり分離したりする)ことで、意味するものと意味されることとの一対一の静的ペアをリニアに連鎖させる。「その観念をつなぎ合わせて命題にする」のである。
Δ1,1ーΔ1,2ーΔ1,3ーΔ1,4ーΔ1,5ーΔ1,6ーΔ1,7ーΔ1,8
|| || || || || || || ||
Δ2,1ーΔ2,2ーΔ2,3ーΔ2,4ーΔ2,5ーΔ2,6ーΔ2,7ーΔ2,8
このような配列を生成することが、一体「どのようにしておこなわれるか」を考えるのが、レヴィ=ストロース氏が『神話論理』の冒頭に掲げた課題であった。
意味は自在に変容する
人間の言葉は、同じ一つの「意味されるもの」を、実に多様な「意味すること」に次々と置き換えていくことができる。
「意味すること」=「意味されるもの」
記号=意味内容
→この関係を、
分離したり、結合したり、
分けたり、分けなかったり
その分け方・繋ぎ方を、自在に組み替えることができる。
記号になりうるものと意味内容になりうるものを、次々と結合したり分離したりする。
◇
例えば、下記のように配列される意味分節の最小単位があるとする。

私たちが言葉を紡ぐ時、Δ1、Δx、Δ-1、Δ-x 四項のうちのひとつ、たとえば Δ1だけを意識の表層へと引っ張り出す。
そして他の四項関係から同様に引っ張り出されてきた四極のうちの一極を占めるΔ2→nたちを、順番に一列に並べていく。
Δ1 ー Δ2 ー Δ3 ー Δ4 ー…
このリニアな列が、私たちが普段喋ったり、聞いたり、読んだり、書いたりしている言語の姿である。GPTのような生成AIの「T(Transformer)」がシミュレートしているのもこのリニアな列の、ありうる可能性が高い並び方である。
*
ところで前述のようにΔ1、Δ2、Δ3、Δ4はそれぞれその対立関係を組む「相手」を持っていた。

また、Δ1、Δ2、Δ3、Δ4はそれぞれparadigms軸上で、潜在的に「異なるが、同じこと」として言い換え可能な、多数の語(Δ1,1→n Δ2 ,1→n Δ3 ,1→n Δ4 ,1→n )とも繋がっている。下図中「=(||)」で表現した関係である。そしてまた、この「多数の語」(Δ1,1→n Δ2 ,1→n Δ3 ,1→n Δ4 ,1→n)たちも、それぞれに「/」でつながる対立関係を組む相手を持っている。

* *
人間の言語の場合、この図に示す「/」と「=」を、そしてもちろん「ー」を、特定の二つのΔの間だけに成り立つこととして限定することもできれば、自在に任意のΔとΔの関係を生み出すこととして緩めることもできる。
人間の言語の潜在的な可能性としては、ありとあらゆるΔ同士が「/」で繋がりつつ分かれる可能性もあれば、「=」で分かれつつつながる可能性もあるし、「ー」で分かれつつつながる可能性もある。
人間にとっては、
「/」(結合する動きを分離する動きへ転じる)も
「=」(分離する動きを結合する動きへ転じる)も
「ー」(既に分離済みのモノを並べるという結合の仕方)も、
このいずれも、すべて大切である。
このどれが欠けても(あるいは膠着しても)、意味分節の最小単位を産みつづけ、リニアに並べ続けることは難しくなる。

私たちの深く広い「心」は「/」と「=」と「ー」を次々と自在に切り替えることができるが、特に「Δ1ーΔ2ーΔ3ーΔ4ー…」、たとえば「きょうーは、ーあめーが、ーふってーいる」、という具合の「ー」すなわち形態素を順番に線形に繋いでいく処理は、意識的なプロセスである。これは既に分離済みのモノ、つまり分離する動きや結合する動きが動いているという述語的様相を見ないモードで分別されるものを、並べていく繋ぎ方であるが、それは私たちが普段意識的にものを考えて言葉を並べることができるように、意識的なことで、無意識的ではない。
一方、「きょう」と「非-きょう」を分かれていないところから引き離す動き「/」や、「きょう」と「きょうが一体どういう日であるか」の言い換え先になりそうな、他のあらゆる語を、互いに異なりながらもの同じもの、非同非異の関係で結合する動き「=」は、しばしば無意識的なプロセスである。
ここで意識的な言葉の連鎖の「ー」を組み合わせて、「/」と「=」の分離したり結合したりする動きをシミュレートしたものが「マンダラ」であり「神話」であり、あるいは「夢」である。
神話の論理を伸縮するマンダラとしてモデル化する
神話は、語りの終わりで、いくつもの「Δ」たちを、「Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ」の連鎖を安定的に反復して生成できるような、Δモードの“他と分離済みのもの”を、たがいに分離しつつ、しかし過度に分離しすぎない程度に付かず離れずに結びつけておくことを目指す。

人類の「野生の思考」、神話や夢や、マンダラ状のイメージを浮かび上がらせる精神の意識下の運動は「/」と「||」の動きをふるわせ、Δ二項対立とその重ね合わせを可能にする。
このΔ1〜Δ4を区別できないところからはっきりと区別できる状態にまで切り開き分けつつも、バラバラに飛び散ってしまわないように結びあわせ、しかし過度にくっつきすぎて区別できなくなることはないように均衡させておくということが、私たち人類にとって意味ある世界が意味ある世界であるために必要な意味分節の最小構成単位(二重の二項関係=四項関係)を生み出し、維持する上で、欠かせないことなのである。
* *
神話の語りは、語の線形配列をブリコラージュして、マンダラを描く
意識的な言語の「ー」がつなぐ連鎖を用いて、「/」と「||」の無意識的な動きを仮にシミュレートするために、神話として現れる「野生の思考」は、Δ1〜Δ4を分けつつつなぐように動く、四つの媒介者たちを登場させる。
先ほどの図で言えば、四つのΔたちの間に挟まって描かれている、四つのβ。この四つのβがΔたちを分けつつつなぐ媒介項である。
/
|| ||
/
↓
←β→
↓ ↓
β β
↑ ↑
←β→
「/」と「||」は同じ動きの二つの異なる様相である
(真逆に対立する熟語のペア)。
すなわち「/」は伸縮の「伸」の方に対応し、
「||」は伸縮の「縮」の方に対応する。
両義的媒介項(仮にβと表記しておく)は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている。いうまでもなく、そのようなものたちは、私たちの経験的感覚的には「存在しない」。この経験的感覚的には「存在しない」ことをあえて言語化することが野生の思考にとっては重要である。
両義的媒介項のペアのペアが伸縮する
神話は、そもそも何かが「存在する / 存在しない」を分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。つまり何かが存在するとか存在しないとか、そういう分別ができるようになる「手前」のことを思考しているのである。
そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。
経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(上の図ではΔに対するβ)という。
両義的媒介項たちの距離の伸縮を表現する述語
神話では、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つのβ項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。

任意のβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり縮んだり
任意のβ二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり縮んだり
2または3、または4つの任意のβ項が中央の一点に集まったり広がったり
という具合に、β項間の距離を伸縮させる振動(振幅を描く動き)が起こりる。

私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その名、その主語的なあり方(Δ、「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれらの主語的なものたちは、あくまでも引き離したり近づけたり、分離と結合の伸縮を自在にする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である。

主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている。
私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。

分別心の表層意識に浮かぶ所与の諸要素たちをかっちりとした構造体として配置したように感じられる意味分節システムは、実は脈動する波の伸び縮み(周期的に反復される振動の周期T[s]が伸び縮みすること)を瞼を細めて薄目で眺めたようなものである。
神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験することを可能にしている分別(ふんべつ)、あるいは意味分節のパターンが、あれこれさまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にするし、またそうした分別、意味分節のやり方を相当程度自覚的に自在に組み立てることをも可能にするのである。
内 / 外
を、分離しつつ結合する述語 「食べる」
人間が感覚的に経験できるリアルに意味がある世界とは、人間にとって「意味がある」、あれこれの単位に分節されたものである。
そうした分節の中でも、内/外を区別することは、人間が現に生きる経験にとって決定的なものである。
なぜなら私たちにとって「私」は、この身体の「内」側のものであり、この身体の「外」は「私」ではない、というのが現に生きている際の感覚の根幹をなすからである。動物を仕留めて食べてきた人類にとって、人間に限らずあらゆる生物において、身体の「内」側、中身が「外」にでてしまうということは、端的に個体としての生の終わりを意味することであると経験されるだろう。
神話は、諸々の事柄の「起源」について言語で語ろうとするものであるが、ある何かがその何かであって、それ以外ではない、ということを分節するためには、まずある何かの内/外を区別することが欠かせないのである。
神話の思考が諸々の存在者の「起源」について神話で語ろうとする時には、しばしば「内」や「外」とか、ある/ない、動/静、といった他のあらゆる分節を支える基底的な二項対立から考え始める場合もある。「食卓作法」を話題にする神話はそのようなものであると考えられるのではないか。
前回の記事にも書いた通り、内/外という私たちにとて極めて基本的な経験的な分節、対立関係の起源を「野生の思考」が思考しようとした時に、内/外を分けたり繋いだりしながらひとつの対立軸上の二極として区切り出す動き=述語的様相の、経験的感覚的様態として「食べる」ということが引き合いに出される。
*

「食べる」こと
食べる。つまり内/外の境界を超えて、外を内へと「入れる」こと。
そして食べるの「逆」である内なるものを外へと「出す」こと。
そしてこの出し/入れのために、内/外の境界で開/閉する動きをなす、入り口/出口の対立。
主語的なモードに寄せれば、
内/外
入口/出口
主語的なモードに寄せれば、
入る / 出る
開く / 閉じる(出入口を)
こうした対立関係を組み合わせて、野生の思考は神話の論理を編んでいくのであるが、これらの対立が、“人間の身体に、その外から内へ、食べ物を入れる”という経験的な相でもって思考されるのである。

さて、「食べる」という内/外の対立二極の間の分離と結合を伸縮させる動きは、食べる側(咀嚼し、飲み込み、消化する)と、食べられる側(食べ物、噛み砕かれ、消化されるもの)の対立を際立たせる。
食べ物→(食べる)→食べる人
食べる側は、主に人間(神話的な人間を含めての人間、つまり人間と非-人間の区別が未だ分かれていないモードでの人間を含む)の身体である。
一方、食べられる側は、食べ物である。
*
ここで「食べ物」を食べ物として、非-食べ物から分離したり結合したりする動きもまた、野生の思考の大きな関心事になる。
食べ物 / 非-食べ物
「何が食べ物であって、何が食べ物ではないか」という問いは、21世紀の今日の私たちにとっても、大きな問題である。
「生の魚は食べ物か?」
「動物の血液は食べ物か?」
「昆虫は食べ物か?」
「豚肉を食べ物にして良いか?」
こういう問いに対して、イエスかノーか二者択一式「正解」を押し付けることができないということを思い出しておこう。二者択一で選べないことを思考しようと言う時には、そもそも選べるようにしてしまっている前処理、「分ける」動きの方に意識を向けてみよう。
いまの場合であれば、食べ物と非-食べ物を「分けること」である。
食べ物と非-食べ物の間には、表層意識が期待するようにあらかじめ即自的な区別があるわけではない。何が食べ物であって、何が食べ物でないか、それは分け方次第なのである。
* *
調理すること
そして、食べ物を非-食べものから分離する、そのための主要な操作、転換処理のひとつが、調理することである。
とある牧場に牛がいて、草をはんでいたとして、ある日そこに野生のライオンが現れるとする。ライオンであれば、牧場の牛に直接かぶりつき「食べ物」とするかもしれない。しかし私たち人類は、多くの場合、牧場で草をはんでいる牛に直接かぶりついて食べることはよほどのことがなければしない。牛は、生きた状態から、解体され、部位ごとの食肉に切り分けられ、衛生的に鮮度を保たれ、そうしてさまざまな調理法で料理にされて、お皿に並べられて私たちの前に「食べ物」として供される。

調理するという述語的様相を経て、同じ牛が、「生のもの」である状態から、「調理済み」の状態へ、「非-食べ物」から「食べ物」へと転換される。
レヴィ=ストロース氏は「生」と「調理済み」に、さらに「腐った状態」を加えて、次のように論じる。
食べ物は人間にとっておもに三つの状態、すなわち生か、調理済みか、腐ったかという状態で現われる。料理に対して、生の状態は無徴の極をなしているが、他のふたつの状態は正反対の方向で強度に徴を帯びた状態となる。すなわち、火にかけられたものは生のものを文化的に変換したものであるのに対し、腐ったものは生のものを自然に変換したものなのである。主要な三角形の下に、ふたつの対立、すなわちひとつは、加工された/未加工の対立と、もうひとつは文化/自然の対立を見分けることができる。
食べ物、すなわち人間が、その内/外の開口部のひとつである「入り口」を「開け」て、そこから「内」へと入れる「外」のもの。
この食べ物にはいくつかの様態がある。
1)生
2)調理済み(火にかけられたもの)
3)腐った状態
このうち、ほんとうに「食べ物」であるのは2)である。
1)と3)は食べ物ではあるが、食べ物ではない。
まず1)生のものは、森の木になっている果実だったり、仕留められる前後の動物や、水中から釣り上げた魚だったりする。これは端的に人間の体の「内」からみると、明らかに「外」のもの、「外」そのものである。
それに対して2)調理済み(火にかけられたもの)は、「外」のものである生のものに対し、人間の体の「外」にあるまま、体「内」で行われる消化と連続する、あるいいは消化とほぼ同等の処理を、あらかじめ行ったものである。

外が内になり、内が外になり
つまり、調理することは、人間という生命体の「内」で行われるはずの「消化する」という述語的様相を、体の「内」から「外」へ引っ張り出したものでもある。内で行われる動きと一連の動きを外で動かしてしまう。この「調理する」という述語的様相において、内が外になり、外が内になり、内/外の経験的感覚的対立二極がどちらか不可得になる。
内が外になり、外が内になり
また3)生の新鮮な食材が、菌類に分解されて腐敗し、あからさまにいえばドロドロと溶けつつある状態は、人間を含む生命体の「内」から「外」へと「出て」くるもの、すなわち排泄物に極めて近い様態である。
「外」に放置されたまま「腐った状態」になった元「生のもの」は、いわば生命体が体「内」で行う処理を、「外」で先取りして行なってしまったようなものである。こうなると「食べ物が腐敗する」という述語的様相も、外が内になり、内が外になった、内/外の経験的感覚的対立をどちらか不可得にする動きである。
レヴィ=ストロース氏は「生のもの、火にかけたもの、腐ったものの三角形は、外部から意味場を画定する」と書く(p.552)。これら三つの事柄を、分けつつつなぐ二つの変換、「調理する」と「腐敗する」は、内/外、分かれていること/分かれていないこと、さらには人間であること/人間でないこと、文化/自然、といった、人類にとっての経験的世界を意味あるものにする意味分節の基本単位となる対立関係を区切り出す。

*
火=/=生のもの
述語の対立 煮る/焼く、遠い/近い
さて、実際の神話の語りでは、この「火にかけたもの」の周辺で、いくつかの調理法が登場する。
調理とは、「生のもの」と「火」との間を結合することであるが、経験的に既知の通り調理法にはいろいろある
。「生のもの」と「火」との結合の様態には、特にその両者の間の距離の遠/近の軸上でいくつものバリエーションがある。そしてさらに、その調理法同士が非同非異の関係で対立する。
この第三巻であつかった神話では、神話そのものが、生のもの、火にかけたもの、腐ったものを対立させるだけでは収まらなくなり、数多くの社会で火にかけたものの基本的な様態を表わしている、串焼きにしたものと煮たものを対立させていることから、こうした対立について議論しなければならなくなった。
「串焼きにしたもの」/「煮たもの」という対立関係がしばしば神話の語りから浮かび上がる。「串焼きにしたもの」と「煮たもの」は、どちらも調理されたもの(「生のもの」と「火」を結合したところに出てくるもの)であるという点では「同じ」ものである。
「生のもの」→=/=←「火」
↓
料理
しかし、「串焼きにしたもの」と「煮たもの」は、生のものと火との距離の遠/近に関しては、対立する。レヴィ=ストロース氏は次のように整理する。
「串焼きされる食材は、火の作用に直接さらされることによって、火と媒介なしの結合の状態におかれる。」
「煮た食材は二重の媒介の結果として成立する。すなわち食材が浸される水と、水と食材の両方を容れる器、という媒介である。」
生の食材と火が、「直接」結合するか、それとも煮込み用の容器とスープで「二重に媒介されて」間接的に結合するか(分離しながら結合する様相)という違いである。
火と生の食材が
近い / 遠い
|| ||
直接結合 / 間接結合
|| ||
串焼き / 煮込み
近いか遠いか、あるいは、火と生のものの間に、何らかの第三のものが入っているかいないか、すなわち直接か、間接か。媒介なしか、媒介ありか。
微妙なちがいに思えるが、分離と結合の二つの相の間をくるくると転換させていく神話の論理にとって、媒介されているか、媒介されていないか、という区別は重大なものである。なぜなら媒介物を用いて媒介することは、分けながら繋ぐこと、分離しながらも結合することをあからさまに意識させるからである。なによりも、媒介することによってのみ、経験的感覚的には直接結合できないものを、(分離したまま)結合することもできる。
たとえば、火と水の関係である。

仮に、火と水を直接結合することを考えてみよう。
火と水の二極のうち、相対的に火の方が勢いがあるならば、例えば焚き火にスポイトで水滴を垂らすくらいのことでは、水は火に負けて、蒸発し、すぐに「火だけある」「水は消える」ことになる。逆に、火よりも水の方が勢いがあるならば、例えば海岸で焚き火をしていたところに潮が満ちて、焚き火ごと水没したならば、火は水に負けて消火される。「水だけある」「火は消える」ことになる。
煮込み用土器の媒介作用
しかし、火と水の間に、煮炊き用の容器、古い時代でいえば土器の壺のようなものを媒介物として挟み込むと、火の中で水を保ち(もちろん、沸騰したまま放置したら空焚きになるが)、水のすぐ隣で火を保つことができるようになる。火と水という、直接短絡結合するとそのどちらか一方だけしか選べない対立関係が、媒介物を介した間接結合によって、火が火であり水が水であるというそれぞれの様相を保ったまま、「結合する」ことができる。
したがって、二重の意味で、串焼きを自然の側に、煮たものを文化の側に置くことができる。というのも、現実としても、煮たものは文化の産物としての器の使用を必要とする。そして象徴的にも、文化が人間と世界の媒介をするのと同じように、沸騰によって煮るという行為は、人間が体内に取り込む食材と物理的な世界における火とを、水によって媒介するからである。
媒介する土器、火の中で水を保つ煮炊き用の容器というものは、火/水の区別にとどまらず、内/外の区別、入れる/出すの区別をも、つまり分離/結合の対立関係をも、分離しつつも結合するのである。
煮込み用の土器というものは、人間にとって経験的感覚的に二者択一になりがちな二項対立関係の両極のあいだを、付かず離れず(分離したまま結合し、結合しながら分離する)にする媒介作用、その述語的表層を体現するものなのである。
『神話論理』の続編にあたる『やきもち焼きの土器つくり』では、まさにこの「土器」の媒介する述語的様相、分離と結合を分離したり結合したり伸縮させる動きのモードが主題になっていく。


燻製
さて、この「土器で煮込む」と異なるが同じで同じだが異なることとして、神話の思考がしばしば対立させるのが「燻製」であるという。
生のもの、火にかけたもの、腐ったものというカテゴリーによってつくられた基本的な三角形の内部に、こうしてふたつの項が書き込まれることになった。一般的にいえば、そのひとつである串焼きされたものは生のものの近傍に、もうひとつである煮たものは腐ったものの近傍に位置する。こうした具体的な様式のなかでも、火にかけたものという抽象的なカテゴリーにもっとも近い調理法の例となるような第三の項が、そこにはまだ欠けている。この様式は、串焼きと同じように無媒介の操作(器も水も使わない)を前提としながら、串焼きとは違って湯で煮るのと同じように、緩慢で、したがって深く同時に定常的な調理法である燻製の方法であると思われる。燻製の技法では、串焼きの方法と同様、火と肉のあいだには空気以外の何ものも介在しない。ただ、これらふたつの技法のあいだには、いっぽうでは介在する空気の層が最小限になっているのに対して、もういっぽうではそれが最大限になっているという違いがある。
「燻製」は、「生のもの」を直接「火」でなでることはしない。
燻製は何らかの形の「燻製台」を用いて、「火」と食材の間を分離する。
そして分離しつつも煙や熱を介して火と食材を結合する。
燻製は、煮込みと同じように、調理用の道具によって媒介された、分離しつつも結合し、結合しつつも分離された、火と食材の関係である。
生のものと火を直接結合する / 生のものと火を間接結合する
|| ||
串焼き / (燻製/煮込み)
β土器とβ燻製台のペア
ここでレヴィ=ストロース氏は、煮込み用の容器(鍋や壺)と、燻製台との対立に着目する。
鍋や壷は使った後にはきれいにして整頓し、入念に始末され大事にされ、何度も何度も繰り返し使われる。いっぽう燻製の台は使った後にはただちに壊さねばならない、さもなければ動物が復讐しその台で今度は狩人を燻製にしてしまうのである。少なくともギアナのインディアンの信仰ではそう考えられており(Roth 1, p. 294)、彼らはまた、これとは対称をなす信仰として、鍋でものを煮る時、 注意を怠って煮汁があふれ出たりすれば正反対の罰が下されると考えていることはすでに見た。すなわち狩人たちは獲物の動物から攻撃されるのとは逆に、獲物たちが逃げ狩人には捕まらなくなってしまうのである。最後に、 すでに注意したとおり、沸騰した湯は、水の存在と不在という点で煙による燻製と串焼きの両方に対立している。
煮込み用の容器は、丹念に手入れされ、長期にわたって使われる。
燻製の台は、一回だけ使われたらただちに壊される。
繰り替えし使う / 一回限り
|| ||
土器 / 燻製台
また、燻製台の扱いが雑だと(使ったまま放置していると)、生のもの=肉そのものである動物たちが、狩猟者であるはずの人間を逆におそって食べてしまうという。狩猟者と獲物の間がどちらがどちらか区別がつかないほど過度に結合してしまうのである。
逆に、煮込み容器の扱いが雑だと(火にかけたまま放置して吹きこぼれるままにすると)、生のもの=肉そのものである動物たちが、狩猟者である人間のものとから遠く遠くへと逃げてしまう。過度に分離するのである。
獲物である動物=生のものと狩猟者の関係が、
(人間が獲物に食べられる) / (獲物が遠くへ逃げる)
↓
過度に結合 / 過度に分離
この土器と燻製台の使い方の対立は、煮込みと燻製という調理の結果もたらされる料理の消費期限の長/短の対立とも重なるという。

未開社会と呼ばれる社会では、湯による煮るのと燻製とは、いっぽうではその手段において、また他方ではその結果において長い時間を必要とするという共通点がある。水を沸かして煮るには土器(あるいは土器つくりを知らない人々の場合には熱し た石で湯を沸かすための木製の器)が用いられる。いずれの場合にもこれらの器は入念に手入れされ世代を超えて引き継がれる、文化の財のなかでもその最たるものとなっている。燻製の場合には、他のいかなる手段で調理した食物より長く腐敗に抵抗するものを実現できる。ものごとはあたかも、文化的な達成が長い時間享受されるた めには、時には儀礼のレベルで、時には神話のレベルで、自然に対して譲歩しなければならないかのようになっている。すなわち、結果が長い時間もつものであれば、手段はかりそめのものであり、またその逆でもある、というように。
煮込まれた肉と、燻製にされた肉とを比べれば、燻製肉の方はその保存可能な期間が長く伸びる。
燻製の場合、調理された食品が長い時間保たれると対立するように、その調理道具である燻製台は短時間しか保たれないようにする。
煮込みの場合は逆に、調理道具が長時間、時に世代を超えて存続するのに対して、それによって調理された食品は、相対的に燻製に比べて短い時間しか保たれない(相対的に早く腐ってしまう)。
持続時間の
長 / 短
|| ||
料理 / 調理器具
×
調理器具 / 料理
ここでレヴィ=ストロース氏は「両義性」ということに言及する。
両義性
ところで、方向は違っていながら、燻製と煮たものを共通に特徴づけるこうした両義性は、人々が串焼きのものに対してしばしば抱いている概念に結びついている両義性と同じものなのである。一面では焦げていて他面では生のまま、あるいは外面は焼けていて、中は血が滴るという風に、串焼きのものは、生のものと火にかけたもの、自然のものと文化のものの両義性を具体化したものとなっており、構造の整合性を確保するために、燻製と煮たものもそれぞれの仕方でこの両義性を提示している。
「燻製」「煮たもの」「串焼き」
ここまでに登場した料理の三つのモードは、いずれも、さまざまな経験的な対立二極に対して、そのどちらでもありえるような「両義性」を「具現化」する。
そしてこの両義性は、「構造の整合性」を保つ役割を果たしているという。下図でいえば、6)の経験的感覚的に安定した対立関係、意味分節の最小構成単位を持続的に長期間保持するために、βと表記した両義的媒介項が、分離しすぎず(2)や3)ではなく)、結合しすぎず(1)ではなく)、付かず離れずになること、図の4)のモードをとることが重要であり、対立二極のどちらにもよらずにその間で両義性を再生産し続けることができる、「燻製」「煮たもの」「串焼き」は、まさに野生の思考にとって、うってつけの両義的媒介項であるということになる。

人間であるとは、「人間でないではない」ということである
そしてこのように両義的媒介項をいくつも組み合わせて、野生の思考が行なっていることは、大きく分けるなら「文化」と「自然」を、「人間」と「非-人間」を、結合したところから分離し、また分離したところから結合し、そしてまた分離する、ということをいつまでもいつまでも繰り返すためなのである。
とはいえ、このようなことが起こらざるをえないのは、 純粋に形式的な理由のみからではない。こうした手段によって体系は、料理の技が完全に文化の側に位置するわけではないということを証明しているのである。料理は、身体の要求に応えながら、そして人間が宇宙に組み込まれるそれぞれの様式における固有のやり方にしたがいつつ、つまりは自然と文化の中間に位置するものとして、 自らの必然的な分節のあり方を確立している。料理はふたつの領域に属しながら、それがとる具体的な姿にこの二元性を反映しているのである。
料理は文化と自然の対立関係に対して、「完全に文化の側」ではないし、とはいえ「完全に自然の側」でももちろんない。「自然と文化の中間」で、自然を文化へ、文化を自然へと、相互に変換し続けるのが、料理であり、料理の延長としての消化であり、そして排泄なのである。

実にさまざまな経験的感覚的な対立関係同士が重なり合ったり、重なり合わなかったり、またくるくると逆向きに捻られて交差する動きを見せながら、分かれてあることと分かれてないこと、分離と結合の対立関係自体を分けたり分けなかったり、結合したり分離したりする。この分離と結合の伸縮をチューニングすることが、マンダラ状の付かず離れずに調和した対立関係の対立関係の対立関係を安定させる鍵になる。
この時、諸々の対立二極を分けるでもなく分けないでもない状態に保持することを、そのような状態を経験的で感覚的に分別できる物事をもちいて具体的にイメージさせることが、野生の思考の主題になる。
そこで野生の思考は、実に巧妙に、経験的感覚的な対立関係のあいだに両義的媒介項を生み出してく。
両義的媒介項のペアをつくらなければならない・・・燻製台を両義的媒介項へと励起する換喩の語り
ここで重要なことは両義的媒介項もまた、それが何らかの経験的感覚的な事物によってその媒介する役割を象徴されたとき、その事物の主語的なあり方は、必ずその対となる相手方の別の主語的なものを持たなければならない。
両義的媒介項も項である以上、対立関係の対立関係の対立関係の中に、一項だけで孤立して入り込むことはできないのだ。

このうち一つの四項関係は両義的媒介項が織りなす
分離と結合を伸縮させる述語相の四項関係である
こうして例えば「串焼き」という両義的媒介項を用いようという場合、その反対側に「非-串焼き」が収まる余地がまず開かれてしまう。
そしてそこに何を入れるか、となったとき、経験的に串焼きに極めて近く、しかし、何らかの別の二項対立に重ねると串焼きと明確に対立できるものを探し出す必要が出てくる。
その時、例えば、串焼きと同じく「料理である」もので、しかし火との近さ/遠さ、直接的火に触れる/間接的に火に触れる、という対立軸上では、直火の串焼きとは異なって、火と遠ざけられつつ、間接化されつつ加熱されるものは‥、ということで「燻製」や、「煮込み」が選ばれ、そうして「非-串焼き」の位置に配置される。
ところがここで次のような問題が提起される。
すなわち、串焼きが、たとえば「表面が焦げているのに、中が生」という形で、生のものと火を通したものという対立軸上で両義性を保持するように、「燻製」や、「煮込み」の両義性を、一体、何と何の対立軸上で確保するか、ということが神話の思考に問題として与えられる。
そこで次のようなことが起きる。
串焼きの両義性は内在的なものであるが、燻製と煮たものの両義性は外在的なものである。
つまり後者はもの自体に関わるのではなく、人がものについて語る仕方、あるいはものに対してとる行動のあり方に関わっている。
というのも、ここでもまた区別が必要となる。煮たものに対してしばしば付与される自然なものという言い方は隠喩のレベルにある。煮たものは腐ったものではなく、腐ったものに似ているのだから。
逆に、燻製のものが自然に変容するのは燻製台の非在からくるのではなく、その意図的な破壊からきている。したがってこの変容は換喩のレベルにある。なぜならそれはまるで、結果が存在するためには原因が存在しなくてもよいかのようにすることであり、ふたつの機能の両方を満たすことができるかのようにすることだからである。ひとつの不均衡を克服するために構造が変化ないし豊富化する時、べつの平面で新たな不均衡が生じるという対価を払わずにはいられないかのようだ。
まず、串焼きの両義性は「内在的」であるという。
つまり串焼き料理それ自体が、表面は焦げて中は生、という形で、その内部に両義性を抱え込むことができる。
その一方、よく乾燥した燻製は、「中が生」ということはない。完成した生煮えではない煮込みも同じく「中が生」ではない。煮込み料理それ自体、燻製料理それ自体を、仮に、串焼きが両義性を発揮していた生のものと火を通したものという対立軸上に配置すると、どちらも単に「火を通したもの」になってしまい、両義的でもなんでもなくなってしまう。
燻製と煮たものの両義性は料理そのものに対しう「外在的」なもので表現されなければならない。
煮込み料理や燻製料理のことを「両義的である」というためには、生のものと火を通したものの対立軸ではない、また別の対立軸の上で二極の間を分離したり結合したり、伸縮させなければならない。
・・・
隠喩を使って異なるものを同じに
ここで出てくる「別の」対立軸を設定する二項対立関係は、「文化/自然」であったり、「生のもの/腐ったもの」であったりする。
例えば「煮込み料理」を、「文化/自然」の対立軸上において、“料理であるという点では、「文化」のものであるが、同時に串焼きに比べると、より「自然」にも近い(串焼と煮込みなら、煮込みのほうが相対的により消化を先取りしている)、と言ったりする。
ここで、「煮込み」と「自然」を異なるが同じ、同じだが異なることとして分離しながら結合する処理のことが、「隠喩」と呼ばれていることにも注目しておこう。
隠喩はもともと無関係に見えるほど遠く分離している別々の範例軸上にあるもの同士を、別の第三の対立軸上で「近いもの」として分離したまま結合する=距離を近づける(この場合は、煮込みと、体内で消化されている途中の姿とが、よく似ているという‥)。
換喩を使って同じものを異なったものに
次に燻製について。
煮込みが、「隠喩」を使って(その姿が体内の自然=消化されつつあるものと煮ているという事実)「自然/文化」の軸上で両義的に変容するのと同じやり方で、燻製を「自然/文化」の軸上で両義的にするのは少々難しい。
燻製料理が、調理されたものであるという点で「文化」のものだが、別の点では「自然」でもある、「自然」に近い、と言いたいのであるが、いったい燻製のどのあたりに自然に似た部分があるだろうか。
あまりにもしっかりと燻され、長期間保存がきくようになった=腐敗しにくい燻製料理は、消滅流転して形を変えていく自然と比べると、あまりにも完璧な人工物のように見える。つまり自然から遠く隔たって、自然から完全に離れて、文化的な同一性を保ち続けているようにみえる。
もう燻製料理それ自体の中身に「自然らしさ」を見出すことはできないし、燻製料理の外側の見た目についても、「自然らしさ」を見出すことはできない。
そこで野生の思考は、発想を変える。
換喩を使って、燻製と隣接する関係にあるモノたちをつぎつぎと引っ張り出してきて、そこになにか自然と文化の両義性を表現できそうなものを探すのである。
そして、そこでなぜか選ばれるのが「燻製台」である。
燻製台について、“それを放置しておくと、野生の=自然の動物たちが、人間を燻製にして食うために利用してしまう危ういものである”と言う、語りによる意味をつけるのである。
そうすることで、半ば強引に、。燻製料理と“隣接”するもの、燻製台を「自然」の領域に近いものだということにするのである。
燻製→燻製台→自然の野生の動物たちがそれを利用する…という具合にで、接関係をつなげていく「換喩」のやり方で、燻製料理を「自然」と非同非異にするのである。
なぜそのようなややこしい、面倒なことをするのかといえば、「ひとつの不均衡を克服するために構造が変化ないし豊富化する時、べつの平面で新たな不均衡が生じる」からであり、この不均衡を均衡させるために、その都度新たな両義的媒介項が必要になる、というのが神話の思考のモードだからである。
このはなし、かなり込み入っているが、神話論理のエッセンスがここに凝縮している。経験的に区別されたものを、非同非異に結合したり分離したりすることで、両義的媒介項のペアを作っていく。ここがわかれば神話論理に通達できる。

対称性
上の引用箇所に続けて、レヴィ=ストロース氏は次のように書いている。
非常に重要な一節である。
われわれはこうしてふたたび、構造は、神話を生成する力を不可避的な非対称性から得ているということを確認することになる。神話とはこうした構成する非対称性を修正あるいは隠蔽するための努力そのものに他ならない。
構造が、「神話を生成する」力の源泉は「対称性」にある。
対称性というのは要するに、二項対立関係にある二つの項が、互いに別々に異なるものとして分離しながら、それでいて同じものとして結合してもいる、ということである。二項間の非同非異の関係である。
対称性と非対称性
この対称性の逆が「非対称性」である。
非対称ということは、二項対立関係にある二つの項のあいだが、ただただ分離されるだけになった状態である。非同非異ではなく、単に「異」である。私たちの日常の意識、分別心は、分けて、選んで、こだわるように作用するが、そこではどうしても、選んだほうにこだわり続けることで、「選ばなかったほう」との関係が遠のいていくという傾向がある。
しかし、人類が、分けて、選ばなかった方のことをいくら無視して、その存在を意識の表層から消したとしても、それは選ばれたものの影としていつまでもしっかりと存在し続けており、意識の表層の直下で、意識の表面へ顔をだすタイミングを窺っている。
私たち人類は放っておくと、非対称的に、同じものは同じもの、異なるものは異なるもので、同/異をはっきりと分けて固めておこうとする。
しかし実際には、同/異は常に分けるから、分け続けるから分かれるのだ。
つまり同/異のあいだにある「/」の動きを動かし続けるのである。
そしてこの「/」の動きの只中では、「同」と「異」を分離しつつ結合し結合しつつ分離する非同非異な述語の伸縮がいつもいつも動き続けている。この非同非異な伸縮運動を言語化する時に、その動きを形容する述語に対して、その主語の位置を担うのが、両義的媒介項たちである。
この「対称性」と「非対称性」をめぐっては、中沢新一氏の『対称性人類学』の論が非常に参考になります。
*
神話は、「非対称性」を修正するように動く。
その時、神話は「対称性」の動的伸縮、経験的に対立するもの同士が、離れているはずのところが結合したり、結合しているはずのところが離れたりする動きを利用するのである。
これは睡眠中の私たちが、日々「非対称性」に固執する昼間の表層意識によって凝り固まったモードを、癒そうとして「対称性」を動かし、その動きの痕跡が、波紋のようにして目覚めの直前の表層意識の一番底に投げかけたパターンが、「マンダラ夢」としてイメージ的、言語的に想起できるようになるのとそっくりである。
神話と夢が同じアルゴリズムから発生している。
そうだとすれば、神話と夢を入り口にして、人類の心の深層で動いている基本的な情報処理のアルゴリズムの動き方のパターンを、観測することができるはずである。
いや、すでに古の時代からそれは行われており、その観測用のデバイスがマンダラ状のパターンだったのである。

つづく
→つづきはこちら
関連記事
いいなと思ったら応援しよう!
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
いただいたサポートは、次なる読書のため、文献の購入にあてさせていただきます。