【マンダラ夢分析】謎の地下鉄駅を探す夢/ユングの意識の四機能「思考」「感情」「感覚」「直観」それぞれの分別機能を精密に連動させるとマンダラの建立を時系列で制御できるかも
はじめに
心の動き方を「マンダラ」状にモデル化する
夢のビジョンにおいて、見られ、記憶され、覚醒後に言葉で報告される不思議な世界。それは心の「深層」の脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底・感覚印象の記憶の束を震わせたとき、そこから浮かび上がるパターンである。
神話も夢も、人間の心の「深層」の同じところ脈動から立ち昇る振動が表層意識の一番底に、その底面の平面に浮かび上がらせるパターンであり、そのパターンを意識が自覚できる相にまで浮かんできた姿こそ、「マンダラ」である。
◇
マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、そしてその四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。
視覚的イメージとしてのマンダラ
語りに現れる「述語」としてのマンダラ
マンダラは四項関係や八項関係のイメージ、いわゆる絵図としての曼荼羅のように直接ビジュアル化される(視覚的なイメージになる)場合もあれば、夢の中で自/他の間が近づいたり離れたり、距離感の伸縮として経験される場合もある。夢で「私」と私ではない他の登場人物たちとは、ある場所において(円形の空間の中や、四角形の部屋の中、四角いテーブルの周囲)、分離と結合、愛/憎の両極の間を揺れ動く。
例えば、夢において、四人の(もちろんこの四人がもっと多くに分かれてもいいし、そのうちの幾人かが省略されてもいい)登場人物が喧嘩したり仲良くなったり、分離したり結合したりを繰り返すようなことである。

神話論理と夢分析
マンダラは「神話」の語りとして、神話的な神々や超自然的な存在者たちが結合したり分離したり、ぐるぐる回ったり、逃げたり追いかけたり、半分になったりする話として言語的な姿を示現することもある(しないこともある)。
神話の場合は、語りの終わりで、下図におけるΔ1〜4を分けつつも過度に分離しすぎないようにつないでおく、正方形と内接円(外接円)を組み合わせたような曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指している。

神話の語りはじめには、まだΔはない。
何もないところから(ある/ないのペアすら”ない”ところから)、まずΔたちが収まる「余地」を切り開くこと、Δたちを配することができる「場」を生成することからはじめないといけない。
そこに野生の思考の神話論理が動く。
経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。
神話の語りは、まず図で「β」と表記した両義的媒介項二項が、第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きを語る。
これを言語的な語りに託さずにイメージだけで感覚しようとすると、ちょうど一点から螺旋が回転し始め、その回転の渦が拡大して、安定的に円を描くようになる、といった具合になる(ならなくてもいい)。
この円の中に(外に)正方形が、Δ四項を四つの角とする四角形が浮かんでくる。
一方、あくまでも言語で語り、「登場人物」たちの動きに託して語る神話では、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの両義的媒介項(β)たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離するという具合に動く。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。
両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」であるとか、「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」とか、「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」とか、「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。
そのようなものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話は、この経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。
そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出すというやり方で両義的媒介項を制作(ブリコラージュ)するのである。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図ではΔに対するβ)という。
このβたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とをバランスさせる。

ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。
そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

私(この文章を書いている筆者)は、以前から、クロード・レヴィ=ストロース氏が『神話論理』で分析している神話の語りを、八項関係のマンダラ状の図式に照らし合わせて読み直してみようという試みを続けている。ぜひご参考にどうぞ。
このような分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動きを、「夢」のビジョンにもみることができる。ことによると神話は、いま現在ここで生きる私たちからは時間的に空間的に遠くへだったものと感じられるかもしれない。しかし神話とおなじ動きが、神話を発生させるのと同じしくみが、今ここでも、私たちの心の深みで動いており、それが毎晩のように、私たちの昼間の意識が分別に固着し分けて選んだ方にこだわっているところを少しづつほぐし、分けるでもなく分けないでもない、選ぶようで選ばない、心の深層のバランスを取り戻そうとしているのである。
* *
主語たちの述語的様相にフォーカスする
「何であるか」はとりあえず脇に置いて
「どう動くか」をみる
この神話や夢に表現された心の深層の仕組みが動いた様子を観測するために、おそらくもっとも捉えやすい手がかりは、神話の語りに登場する「述語」、特に分離しているところを結合するように距離を縮めたり、結合しているところを分離するように伸ばしたりする述語であり、実際に結合したいところと分離したままになったり、分離したいところと結合してしまうような夢のビジョンの述語的様相である。

マンダラ状の図でいえば、Δでもβでも「項」は、人間からみるとなにか固まったもの(主語的なもの)に見えるという意味で仮に「項」と呼んでみているが、これがじつは、どちらかと言えば動き、脈動、振動、振幅を振る…、行ったり来たり、という感じの述語的な様相なのである。
夢の登場人物たちは、主語の位置に据えられて報告される。
つまり夢を見た者・夢見手が分析者に対して報告する場合に、「帽子を深く被った女性が・・」などという具合に語らざるをえない=言語化せざるを得ないのであるが、これが実は述語的様相の残像が共鳴して主語的様相を呈しているのだ、と読んでみたい。
「何が」ではなく「どう動いているか」に注目をしてみよう。
そしてさらに、この「動き」にもいろいろあるわけだが、神話や夢が、つまり人間の心の深層が特に重視する「動き」はどうやら二つ、「分離する動き」と「結合する動き」、そしてその多様な複合らしいのである。
『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』の前書きに、監修者の河合俊雄先生が次のように書かれている。
ユングは繰り返しマンダラの中心性に焦点を当てるけれども、その中心を巡っての円環運動が生じてくることも繰り返し指摘している。運動としては、一度上に蒸留されたものが再び下に落ちるというものも興味深い。「無意識は運動でもある」としているように、意識も無意識も実体化されず、運動となっていく。それと同時に対立物の関係や合一は必ずしも意識と無意識の関係ではなくて、いわば抽象的なものになっていく。これは後に最晩年の「結合の神秘」において「結合と分離の結合」として結実していくものである。
分離したり結合したり伸縮する述語
この「どう動いているか」の「動き」とは、夢の中は、自/他の距離感が伸び縮みするような経験として、もっと細かく言えば、概ね下記のような2パターンに集約されるようにおもわれる。
<<分離状態にある相手(物事)と結合したいと望み、結合しようと動くが、うまく結合できない>>
あるいは
<<結合状態にある相手(物事)と分離したいと望み、分離しようと動くが、うまく分離できない>>
実際、私たちは、夢ではなく現実の日常生活においても、分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりするときに、不安や怒りを感じ、この不安や怒りを鎮静化するために、結合や分離の動きを触発する相手方との関係の取り方を試行錯誤する(分離しようとしたり、結合し直そうとしたりする)。
夢は、いや、夢として記憶の残像を残す深層意識の伸縮する述語的な動きは、この分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりする状態を付かず離れずに均衡させるよう、意識的にではなく無意識的に、意識の立場から見れば<自動的>に動いているようである。
マンダラの円環の上で向かい合い対立する諸項も(この場合は「意識」と「無意識」)、いずれも「運動」である。マンダラやマンダラの上で対立する諸項は「実体化されず」、つまり固まって輪郭が定まり性質が定まった個物として転がっているものではなく、分離したり結合したりする運動、動き、動き方のパターン、それを表現する「述語」や主語たちの述語的な様相によって記述される。
◇ ◇ ◇
取引先にクレームを伝えに行っているはずが、妙にのんびり和気藹々としている夢
以上を踏まえ、今回は、私自身の夢を分析対象とし、マンダラ状のパターンを描くように述語が伸縮する様を浮かび上がらせてみよう。
わたしは仕事で、とある会社を訪問する。
その会社はつい先日、わたしの方から依頼した案件でトラブルを起こしており、わたしたちに大きな損害を与えているらしい。
今回は、トラブルの状況を確認し、今後の対応を相談するために先方を訪れたのである。
その会社の社屋は古い豪華な洋館で、一階の広いフロアにたくさんの机が置かれていて、多くの従業員が働いている。
なにやら観光地にある、古い洋館を改造した土産物店か喫茶店のような雰囲気でもある。
*
先方とわたしの話し合いはうまくいったらしく、笑顔で挨拶をして帰ることになる。
帰り際、わたしは彼らの社屋の様子を見学させてもらう。
古い家具や調度品が部屋の隅々に置かれている。
わたしは、この建物は大正時代か昭和の初めごろの華族か実業家の邸宅だったのだろう、とおもう。
そうして見学をしていると、階段の下のスペースに隠れて、当のトラブルを起こした先方の担当者が座っている。
申し訳なさそうに隠れているので、こちらから「まあ、気にすることでもない」といった感じで声をかける。
*
その後、洋館から出て、帰路に着こうとする。
が、わたしと同僚らしき人は、一瞬、この場所がどこであるのかわからなくなってしまった。どちらに向かえば帰れるのか、不明である。
ここは都内である。
ということは、地下鉄に乗ってここまでやってきたはずである。
しかし、どちらに行けば、地下鉄の駅があるのか、わからなくなってしまった。
洋館の庭を通り抜けて大通りに出る。
都内にありがちな、斜面を緩やかにカーブしつつ作られた大通りに出る。
道の向こうにも公園か植物園の森が広がり、高架道路も見える。
わたしは不意に、ここが品川か、高輪のあたりではないか、と直感する。
とりあえず道なりに歩く。
ふと、こんなときはスマホで調べればいいじゃないかと気づく。
グーグルマップで現在位置を検索する。
地図にはわたしたちの現在位置が表示されており、その近くに地下鉄の駅のマークが描かれている。その横には駅名らしき文字が書いてある。
しかし、その地図に記された駅名は、わたしにとっては聞いたことがあるようなないような…、よくわからないものであった。
仮にその駅まで歩いて行って地下鉄に乗れるとしても、ではそこからどの方面に向かえば良いのかがわからない。
とはいえ、東京の地下鉄なのだから、いろいろなところでいろいろな路線につながっているはずであり、とりあえず、駅まで行って、地下鉄に乗って、どちらかの方向に向かえば、いずれどこかで知っている駅名に行き合うだろう、と思う。
そうしてわたしは連れとともに駅に向かうことにする。
おわり
この夢は大きく二つの場面から成っている。
古い洋館の内部で動き回る場面
地下鉄の駅を探して動き回る場面
第一の洋館、「古い洋館を改造した喫茶店のような雰囲気の事務所」は、地上に設置された「箱」状のものである。この洋館が第一の、諸々の元型的イメージたちが動き回るフィールドになる。
この中で、空間的な遠/近、上/下、天/地、左/右といった二極を引っ張り出す様な動き(述語的様相)が展開することになるのだろう。

童話テイストでビジュアライズしてみよう。
実際の夢にペンギンが出てきたわけではない。
*
近づくのが億劫なところへ近づいていく
分離しておきたいところに結合しにいく
さて、夢見者である私の自我は、この古い洋館事務所とのあいだに仕事上のトラブルを抱えているという。トラブルと言っても絶対に近寄ってはいけないレベル・二度と関わってはいけない縁切りレベルのトラブルではなく、すでに解決に向かいつつあるトラブルであり、そのトラブル解決後は引き続き以前のようにお取引が続いている関係であるらしい。一度壊れたけれども修復されつつある関係、といったところだろう。
この、いったんは壊れて、そしてまた修復した関係・繋がり、ということは、言い換えると、いったん分離して、また結合した、ということになる。
分離 → 結合
関係が壊れる → 関係が修復
分離から結合へ。
とはいえ夢見者わたしとこの古い洋館事務所との間には、まだ若干の「わだかまり」はあるような感じで、わたしは少々緊張感を覚えながら訪問している。古い洋館事務所側のひとたちもそれは同じだろう。
トラブルの後始末という仕事はわざわざ率先して引き受けたいものでもない。なぜなら私の仕事はトラブルの後始末をすることではないので、このトラブルを解決したからといって、何かプラスアルファの利益が得られるわけでもないのである。
私は少々「面倒だなあ、嫌だなあ」と思いながら、この洋館の会社に向かっている。嫌・・・つまり結合したくないもの、分離しておきたいものと、仕方なく結合しに行かざるを得ない、という状況なのである。
◇
受動的な付かず離れず
この分離と結合のあいだの微妙な振動、結合に向かっているが分離に向かおうともしている、といった様相に注目しておきたい。
ここにで分離も結合も、単純な「分離」や単純な「結合」ではなく、「どちらかといえば分離に向かっているがかろうじて結合している結合」と、「どちらかといえば結合に向かってはいるがしかしまだぴったりとは結合しておらず、隙間風がふくくらいには分離している」という具合である。
分離か、結合か、どっちだ!
といった問いに答えることができるような雑駁な状況ではなく、分離しているというわけではないが分離していないわけでもない、結合しているというわけではないが結合していないわけでもない、という「あいまい」な分離/結合どちらか不可得なゆらぎ。
このようなあいまいなゆらぎを、この夢の場面設定「その会社はつい先日、わたしの方から依頼した案件でトラブルを起こしており、その状況を確認し、今後の対応を相談するために訪れたのである」は、よく象徴化している。
上がったり下がったり、
あちらへこちらへ、うごきまわる
さて、トラブルの善後策についてはおどろくほどすんなりと交渉がまとまる。私とこの洋館会社との結合関係が比較的円滑に結び直されたのである。
そしてわたしは、洋館事務所の人に案内されて、洋館のすみずみまでを「見学」することになる。
よその会社の事務所の中をじろじろと見てまわるなんて、情報保護の観点からまずいのでは無いかと思われるが、これは夢なので大丈夫である。
むしろ、通常経験的には「部外者立ち入り禁止」ではっきりと分離されているはずのよその会社とわたしとのあいだに「見学」という形で、結合関係が生じているところに注目しよう。
これも冒頭からの「分離/結合どちらか不可得」の振動が引き続き継続しているということになろう。

わたしは洋館事務所の一階か二階のフロアを隅々まで、あちらの隅まで行ったり、こちらの隅までもどったりと、ちょうど空間を引き開くように動き回る。そしてそれぞれの隅に、なにやら豪華な調度品が置かれているのを確認していく。
部屋の隅1Δ ←/→ Δ部屋の隅2
↑ ↑
/ ※ /
↓ ↓
部屋の隅3Δ ←/→ Δ部屋の隅4
この「四」はユングが論じるように、意識の四つの分節機能が調和的に協調しあう様子を先取りして象徴しているようにもみえる。

ユングは人間の意識の機能を「感覚」「思考」「感情」「直観」の四つに整理する。
「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別
「感覚」:ある/ない、を分別
「感情」:好き/嫌い、を分別
「直観」:現れてくる/消えていく、を分別
この四つの機能がバランスよく、つかづはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になる。四つの心的機能間の「距離」が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が対立する別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。
この調和のとれた心の状態を目指すことを、意識の表層に教えるのが「マンダラ夢」である。
意味ある世界を分節することを可能にする
いま、分離と結合どちらか不可得なモードで動き回る「わたし」であるが、そのわたしが「隅」を認識し、その隅をどんと定める「調度品」の存在感を確認していくことは、つまり、ゆるゆるつとながりながらも分かれ分かれながらも繋がっているようなあいまいな場(β四つの間の伸縮)を、はっきりと隅をもった、内/外の壁、ノードとエッジの区別が際立った空間として分別する(Δ四項関係)、ということであろう。

夢や神話における述語的様相の伸縮は、おおむね下図のように展開する。
下図の1)は「何であるか/何でないか」まったく不可得なものたちが区別なくぎゅっと集まっているような(正確には集まっている/集まっていないの区別のないし、ないとあるの区別もない、あるようなないような)モードである。

2)、3)になると、不可得なものたちどうしのあいだに、遠く分離しているところと、過度に結合しているところの違いが生じてくる。分離と結合の違いを生じるように「不可得なものたち」同士が、離れたり、近づいたりするような動きを呈する。この動きは伸縮しており、つまり一度分離したら離れっぱなしではなく、一度結合したらくっつきっぱなし、でもない。結合していると思ったら分離に向かい、こちらで分離したと思えば、今度はあちらで結合する、と言った具合に結合/分離のどちらであるかも不可得である。今回の夢でいえば、夢見者自我「わたし」と、洋館事務所の人たちのあいだでの「トラブル」とその善後策の相談といったことが、まさにこの分離と結合のあいだのどちらか不可得な伸縮である。
これが、4)になると、分離と結合の伸縮運動が、いわば安定した定常波のようなパターンを呈する。付かず離れずの関係に落ち着くのである。そうなると、伸縮する動きが描く「振幅」の最大値と最小値がいつも同じ値をとるような具合になって、それが二極の安定的な対立関係として定まる。
ここに図の4)、5)、6)に示した「正方形」が現れてくる。まずβ、経験的感覚的な対立二極のどちらでもあってどちらでもないような、どちらか「不可得」な両義的媒介項たちのあいだの距離が一定に定まっているように見えるようになる。そうすると、このβたちを分けつつつなぐ述語的様相の担い手(その分けつつつなぐ述語の主語になりうるもの)が、おさまるポジションが、桟敷席が、広がってくる。そこに、私たちの経験的感覚的カルマ的な記憶のイメージのなかから、述語「分けつつつなぐ」の主語として使えそうなものたちのペアがロードされて、そのボジションに配置されていくのである。今回の夢でいえば「調度品」がそれである。
そうしていつのまにか「調度品」主語、Δの姿がありありと際立つとともに、そのΔを配置することが可能になるポジションの存在は自明なものとなり、そのポジション自体を引き開いてきていた分離と結合のあいだを伸縮する述語的様相のことは、意識の表層の注意から外れていく。
◇
階段の下に隠れているものを発見する
さて、上のフロアに、Δ四項関係を建立した夢見者わたしは、洋館の「階段」のところにくる。
わたしは、調度品を確認したフロアを歩き回っている途中で、部屋の中央に階段が設置されていることを発見したのである(つまりわたし自身はこの階段を昇ってもいないし降りてもいない)。
夢で階段とくれば、下記のようなこれまでのわたしの夢のパターンだと、昇ったり降りたりするところであるが、今回は上り下りはしない。
階段なりエレベータなりエスカレータなりを昇降する動きは、上/下の対立二極がいまだ定まらない状態で、二極の間を引き開く様に動き、動的マンダラ伸縮の図(上の図でいうと、2)や3)のモード)で必要になるものである。
ところで、今回の夢の場合は、すでに調度品の配置によって5)あたりまで展開してしまっているので、階段は出てくるけれども、いまさら2)や3)のモードに戻して「動き」の主語として働かせる必要はない、ということだろう。
とはいえこの夢の古い洋館事務所の階段も、せっかく登場したので、ちゃんと分離と結合の伸縮に寄与する。「階段の下のスペースに隠れて、当のトラブルを起こした先方の担当者が座っている。申し訳なさそうに隠れている」のである。

隠れている。いるけれどもいない、いないけれどもいる。バシュラールの『空間の詩学』を思い出す光景である。
わたしたちはこのトラブルを起こした先方の担当者を責めることもなく、「まあ、気にすることでもない」という。
ここでもし責めたなら、モード2)のような過度な分離が広がっていくことになるのだが、いまはもうモード2)の動きには興味がない。
わたしたちは分離しかけたところを結合に転じ、付かず離れずに均衡させることを重視している4)から5)モードで動いているので、先方の担当者を気軽に赦す。
地下鉄の駅を探す
ここまでのくだりで、わたしはかなり調和的なΔ四項関係を立ち上げることに成功している。それは洋館サイズのマンダラである。
マンダラは、ひとつ建立したらそれでおしまい、というものではない。
いつもつねに至る所にありとあらゆる全ての存在者を自在に建立できるようになってこその金剛平等のマンダラである。
いや、というか、私たちにとって経験的に意味のある世界として「ある」ものたちは何から何まで一つ残らず、動的マンダラ伸縮モデルにおける「Δ」なのである。
あっさりと洋館事務所マンダラを建立してしまったわたし(わたしたち)は、より大きなスケールで同じことをしようとする。
今度は
いまここ / まだ見ぬ目的地
地上 / 地下
という、より大きな空間的スケールでの動きになる。
二人一組で動き回る
夢見者わたしは「同僚」とふたりでいる。
夢や神話の語りの中で、経験的感覚的な現世を離れて、動的マンダラ伸縮モードに入りながらも、ひきつづき経験的感覚的な主語としてのΔ(例えば「わたし」など)のことを語ったりイメージしたりし続ける必要がある場合、それはしばしば、二つのΔが結合した姿で描かれる。神話に「双子」や「姉妹」「兄弟」がよく出てくるのも同じである。
この夢の同僚は現実の知り合いではなく、誰だかは不明であるが、とにかく同僚らしい。しかし、特に私に対して何か意見を言ってきたりすることはなく、ただただ私についてくるだけである。つまり他人であるがほぼ私と同じ、私と一体で動くことができる第二の私である。

そしてわたしたち二人は洋館から外に出る。
迷子・・分離している目的地と結合したいが失敗している
そして自分たちの所属先に帰ろうとするのであるが、ここで迷子になる。「この場所がどこであるのかわからなくなってしまった」のである。
とはいえ完全に前後不覚の迷子ではない。
わたしたちは「地下鉄」にのってやってきたこと、「地下鉄」の出入り口を通って、地下から地上に出てきたことを自覚している。つまり地下鉄の出入り口、地上に突き出した地下鉄の出入り口さえ見つかれば、次なる目的地へと向かうことができる、結合しにいくことができるのである。
洋館の庭を通り、通りに出ると、見たことがある様な光景が広がる。わたしはここが「品川か、高輪のあたり」と直観する。ただそう直観しただけで、電柱の住所の表示などをチェックしたわけではない。「たぶん品川」「きっと高輪」という、分かったような分からない様な、わかる/わからないの分別が不可得になったような状態である。とはいえ、直観的に「あっちではなく、こっち」といった具合に、向かっていく方向を分別することに確信を持つことができている。
わたしたちは夢の中でも現代人らしくスマホを所持している。
そしてスマートに地図アプリを開いて、GPSで現在の位置を確認する。地図には自分たちの居場所と、近くの地下鉄の駅の位置も表示されている。まったく迷子ではない。はっきりと、夢の世界ではない、覚醒した現世の分別が効いているようにみえる。
*
しかし、ここは夢である。
最後まで、若干の「不気味さ」が漂う。
わたしはスマホの地図アプリに表示される地下鉄の「駅名」を見ても、その駅名を「聞いたことがあるようなないような、よくわからないもの」、だと感じる。「高輪台」とか「白金高輪」とか「白金台」と書いてあれば「ああ、あそこか」と、はっきりと現世的な覚醒した分別が効くのであるが(私は学生の頃に品川の周辺に居たので、よく知っている)、この夢の中では駅名がよく分からない。駅名を表示する文字が読めないわけでもないのだが、「頭に入らない」といった感じである。
読めるような読めないような。
知っているような知らないような。

駅名がはっきりしないので、いったい何線の駅なのかも分別がつかないが、なんとなく分かっているような気がしないでもない。
夢見者わたしは、ここで特に困惑することはなく、とりあえず地図アプリにしたがってその駅まで行ってみようと思っている。駅まで行って、電車を見れば、なにははっきりするだろう、と思っている。
二人でワンセットになった「ββわたし」が、「ββ既知のような未知のような駅」と、結合しようと動いていく。
β
β ※ β
β
ここは非常に重要なところで、不可得なものを恐ろしく感じて逃げ出すことも可能なのだが、そうすると不可得なものβたちとの伸縮運動のダンスを踊ることができず、マンダラを建立することはできない。
逆に、「いまはよくわからないけれど、いずれなんとかなるだろう。というか、わかる必要もないのである」という妙な安心感というか信頼感のようなものがあると、不可得なものたちを恐れることなく、それと近づいたり離れたりする動きのしなやかさがでてくるし、そこから自在にマンダラを建立しやすくなる。
意識の四機能の観点から分析してみる
前述のように、ユングは人間の意識の機能を「感覚」「思考」「感情」「直観」の四つに整理する。
「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別
「感覚」:ある/ない、を分別
「感情」:好き/嫌い、を分別
「直観」:現れてくる/消えていく、を分別

この四つの機能がバランスよく、つかづはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になるのである。
四つの心的機能間の「距離」が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が対立する別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。
この調和のとれた心の状態を目指すことを、意識の表層に教えるのが「マンダラ夢」であるが、夢に出てくる登場人物たちは、しばしばこの四機能それぞれの分別する動きを象徴している。
今回の夢でも、あまり人物像は際立たないが、一応「四人」登場している。
1:夢見者わたし
2:夢見者わたしの同僚・同行者
3:先方の責任者で洋館事務所を案内してくれた人
4:階段の下に隠れていた先方の担当者
この四者は、それぞれ思考、感覚、感情、直観の分別のいずれかを象徴するような動き方をしているだろうか。
1:夢見者わたし →あいまいな状況のなかで次々と生じることと自在に付かず離れずになっていく。これは「直観」:現れてくる/消えていく、の分別に特化したような動き方である。同時に他の分別、思考の分別(なにであるか/なにでないか)や、感覚の分別(ある/ない)、感情の分別(好き/嫌い)は、特に働かせている印象がない。他の夢でもそうだが、どうやらこの夢見者(これを書いている私自身であるが)の自我はユングのいう「直観」で生きているようだ。
2:夢見者わたしの同僚・同行者 →これは後回しにしておこう。
3:先方の責任者で洋館事務所を案内してくれた人 →この人物は、洋館の中の調度品をあれこれと紹介してくれる、説明してくれるという点で「「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別」する機能を担っているようにもみえる。
4:階段の下に隠れていた先方の担当者 →この人物はよくわからないが、いるのにいない、いないのにいる、という「かくれんぼ」を実行しているという点で、「感覚」:ある/ない、を分別する動きを象徴しているように思える。
そうなると、残っている「2:夢見者わたしの同僚・同行者」は「「感情」:好き/嫌い、を分別」する述語的様相の主語の位置にいるということになりそうである。
おもしろいことに、この夢では、好きとか嫌いとか、つまり分離したところを結合に転じたいとか(好き)、結合したところを分離に転じたいとか(嫌い)いう感情の分別がほとんど動いていない。夢見者わたしは好き嫌いなどをまったく感じることなく、淡々と洋館内を見学して周り、帰り道がわからなくなったとしても特に「嫌な気持ち」になることなく淡々と地図を調べ、そして結局よくわからない謎のままでもあまり気にせず、とりあえず行ってみよう、と鷹揚にかまえている。同僚=感情は、そんなわたしに黙ってついてきている。
直観が感情を従えている。
*
「直観」と「感覚」が協力して前面に躍り出る一方、
「感情」と「思考」には少し黙っていてもらう
先ほども示した下記の図でいうと、2)、3)のモードに見られる過度な分離や過度な結合を伸び縮みさせる動きは、好き/嫌いを分別する「感情」の機能が勝ってしまうと、しばしば固まって動かなくなってしまう。
感情は1)〜6)まで一貫して、分離しておきたいところとはずっと分離しようとするし、結合しておきたいところとはずっと結合しようとする。分離か結合か、どちらに固めようとこだわってしまいがちである(もちろん、感情の結合機能、分離機能がいくら固め方にこだわったところで、他の三機能によって経験される分別が、すぐにその固着を解いてしまうのであるが)。

また6)の、経験的感覚的な現世の分別を固定化するように反復する動きは、なにであるか/なにでないかを分別する「思考」の機能によるところが大きい(もちろん思考も1)〜6)全体を通じて常に動いている)。
4)、5)のあるようなないような、分かれているような分かれていない様な、というモードの純粋な脈動・振動状態(=/=)は、ある/ないを分別したりしなかったりする「感覚」の機能と、そのあるものやないものが「現れてくる/消えていく」を分別する「直観」の機能において意識されやすくある。
この夢の主人公であるわたし「直観」と、わたしをこの夢の状況へと誘うきっかけをつくった「感覚」(階段の下に隠れているひと)は、ある意味でうまく協力して、マンダラを建立する核心的な工程である、4)、5)の伸縮する動きをしなやかにすることに成功している。
この「直観」と「感覚」が、うまく「=/=」を振動させているところへ、もし仮に「感情」が強く主張をして、「嫌いなものとは過度に分離したい!好きなものとは過度に結合したい」とその好き嫌いの分別でもって、直観のゆらぎと感覚のゆらぎを圧倒してしまうと、マンダラを建立する動きはかき消されてしまって、6)のΔのいずれかだけが(好きなΔ、嫌いなΔ)だけが、際立っていく。
また、「直観」と「感覚」が、あるようなないような「=/=」を振動させているところへ、なにであるか/なにでないかを分別する「思考」が強く主張をしてしまうと、ここでもマンダラを建立する動きはかき消されてしまって、6)のΔが、「Δxであるべき」、「Δxであるべきではない」といった形で固着する。
この夢では、「直観」と「感覚」が協力して、未知のような既知のようなよくわからない「謎」との距離感を調整していく。この郡司ぺギオ幸夫氏の用語でいえば「やってくる」ことと付かず離れずになる余地を開きつづけておくために、好き/嫌いで分離か結合かを固めようとする「感情」と、どうあるべきである/どうあるべきでないで分離か結合かを固めようとする「思考」には、しばしのあいだ黙っていてもらおう、というのがこの夢である。
+ + +
妄執を離れ、心の苦しみを軽くするために、思考と感情の分別を一旦手放すことが大切である(完全消去するということではなく、蛇が脱皮した自分の皮をその辺に転がしたままにしておくように、適当に転がしておく)という話はよく説かれることであるが、この夢もたしかにそのようになっている。
「思考」による分別とこだわり、「感情」による分別とこだわりを一旦置いておく。
一方で「直観」の分別と「感覚」の分別は、いよいよはっきりと明敏にして、「あるようなないようなものたちが、あるようになったりないようになったりする」という精妙な動きを知る、経験するのである。
知るも知らぬも
行くも帰るも
わかれるもあうも
私たちの心は、無意識のうちに、寝ているうちに、私たちの分別思考とは別のモードで、調和を取り戻そうとふるえゆらゆらとしているのである。そしてそこから、目覚めた後の思考の世界も感情の世界も、新たにまた活き活きと生まれ直すのである。

左:「かもじゃない、ペンギン」




上/下
も
分けるから分かれる
ただし「分ける」は自我(を担っている四機能農地のいずれか一つ)だけが特権的に行使する意思に帰されるものではない。
感覚が実行する分けるもあれば
直観が実行する分けるもあれば
思考が実行する分けるもあれば
感情が実行する分けるもある。
例えば「思考」が自我の役割を担っている人にとっては、「感情」によって実行される「分ける」は、なんとも不躾で困惑せざるを得ない他者の声に聞こえるだろうし、逆に「感情」が自我の役割を担っている人にとっては、「思考」などによって実行される「分ける」は、なんとも不躾で困惑せざるを得ない他者の声に聞こえるだろう。
つまり「分ける」は、特定の主語=自我に帰することは難しい。
「分ける」のは自我ではなく、ユングでいえば自己Selbstである。
Selbstがマンダラ状になったとき、
「わたし」たちは自分にとっての意味ある世界の経験と調和できるのである。
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