神話を語り、マンダラを描き、夢をみるAIのために -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(99_『神話論理3 食卓作法の起源』-50)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第99回目です。『神話論理3 食卓作法の起源』の第七部 「生きる知恵の規則」から、引き続き「I 傷つきやすい渡し守」を読みます。
これまでの記事は下記からまとめて読むことができます。
これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。
はじめに
今日のLLMが学習する人間によって生成された言葉は、文字列や音声として表現され、記録され、デジタル・データに変換されたものであるが、それらはいずれも、たがいに区別される要素が「線形」に配列された姿をしている。本稿ではこれらの線形に配列される要素を仮に「Δ」と表記する。 今日のLLMはあらかじめ人間によって生成されたコーパスのΔ線形配列(Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ)を学習し、あるΔₓの直後に生起する確率を語彙全体のΔについて計算し、その確率分布を、各Δ間の意味的近接を内積や距離として表す潜在ベクトル空間上の幾何学的関係として近似的に表現するわけである。
このΔ間の共起確率で表現された意味空間ベクトルに基づいて、人間との「対話」において、人間が入力したΔ線形配列に対応する回答文としてあり得る可能性が高いΔ線形配列を予測し生成していく。
一方、人間の知能の精髄は、Δの線形配列(Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ)自体を自在に生成させることができる点にある。あらかじめ分けられたΔをあらかじめ学習された通りに並べる、という処理は、人間の知能にとっては部分的に限定された働きである。人間の知能の根源には、Δたちを分けたり分けなかったり、分離したり結合したり、Δ間の距離を自在に伸縮させるメカニズムが動いている。ここが意味を自在に生成する。
*
クロード・レヴィ=ストロース氏は大部の著作『神話論理』での神話分析を通じて、まさにこのΔたちを分けたり分けなかったり、分離したり結合したり、Δ間の距離を自在に伸縮させるメカニズムを神話の「構造」として記述した。
経験的な区別が概念の道具となる
レヴィ=ストロース氏は大部の『神話論理』の第1巻の冒頭に次のように書いている。
「生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」

経験的感覚的な区別(分別)を概念の道具として、観念を抽出する(仮に下図に示す「Δ」を最小で二つつないだもの(Δ1/Δ-1)をひとつひとつの観念だと思っていただこう)。そして抽出された観念を繋ぎ合わせる(意味するものと意味されることとの一対一の静的ペアをリニアに連鎖させる)。
Δ1 ーΔ2 ーΔ3 ーΔ4 ーΔ5 ーΔ6 ーΔ7 ーΔ8
/ / / / / / / /
Δ-1 Δ-2 Δ-3 Δ-4 Δ-5 Δ-6 Δ-7 Δ-8
このような配列を生成することが、一体「どのようにしておこなわれるか」。この「どのように」をモデル化するひとつの試論として、マンダラ状の意味分節システムを生成消滅する脈動(伸縮)を考えてみたい。

上の図のΔ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別される項である。慣れ親しんでいる現実において、これが有るとか、あれが無いとか、これはなにであり、あれはなにではない、などと言説し、みんなでよってたかって「うん、そうだよね」と言い合えるものたち、それがΔである。「サル」「カニ」「臼」「ハチ」などなど。
私たちは通常日常、現実に経験できる他者たちとの間で意味のあるコミュニケーションをしている時、知らず知らずのうちに次の様な四項関係を立てている。
Δ1 暑い / Δ4 暑くない
|| ||
Δ2 わるい / Δ3 わるくない
私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界とは、すべて、このような二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている。
*
人類は、というか、あらゆる生命体は、物心ついた瞬間に「経験的区別」を実行する機械のような仕組みとしてできている。
Δ自 / 他Δ
Δ生 / 死Δ
Δ好き / 嫌いΔ
Δ内 / 外Δ
Δ因 / 果Δ
Δある / ないΔ
Δうまい / まずいΔ
Δ高い / 安いΔ
Δ遠い / 近いΔ
このようにして「それではないもの」と分離されることで、「それではないもの-ではないもの」として区切り出された諸々のΔたちを、意識の表層に引っ張り出して(同時にその相手方は意識の底に残したままにして)、この意識の表層に引っ張り出されたΔたちを一列に並べていくことで「Δ1はΔ2であり、Δ2はΔ3であり…」といった具合の線形に配列された文を生成する。
*
神話は、語りの終わりで、このようなΔ1〜Δ4を分けつつ、過度に分離しすぎない程度に付かず離れずに結んで安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指す。

生きることは分けること
さて、このΔ1/Δ-1の区別であるが、それぞれの生物は、それぞれ固有の感覚・神経の仕組みを使って、それぞれに固有の経験的に意味のある世界を分別して生きている。ユクスキュル『生物から見た世界』に記されている「環世界」の話である。
人間に比べてよりシンプルな神経系で生きている生物の場合、感覚的な区別に応じて、身体の可能な動きの候補のなかから選択が行われる。
分け方は変えにくいが、分け方の「重ね方」は自在に変えられる(人間の言語)
人類が他の生物と異なる固有の特徴である「言語」というものは、この対立関係を重ね合わせる処理の自在さから生まれている。人間の言葉は、同じ一つの「意味されるもの」を、実に多様な「意味すること」に次々と置き換えながら表現することができる。
「意味すること」=「意味されるもの」
記号 = 意味内容
→この関係を自在に組み替えることができる。
*
記号になりうるものと意味内容になりうるものを、次々と結合したり分離したりすることができる。この分離と結合を無量にくり返していくうちに、いつしか「意味のタペストリー」と呼べるようなことが姿を表してくる。それはちょうど井筒俊彦氏が『意識の形而上学』で「真妄和合識」としての「言語アラヤ識」について論じているところのものである。このあたりについては下記のひづみさんの記事が参考になる。
意味のタペストリー
例えば、下記のように配列される意味の最小単位があるとする。

私たちが言葉を紡ぐ時、Δ1、Δx、Δ-1、Δ-x 四項のうちのひとつ、たとえば Δ1だけを意識の表層へと引っ張り出す。
そして他の四項関係から同様に引っ張り出されてきた四極のうちの一極を占めるΔ2→nたちを、順番に一列に並べていく。
Δ1ーΔ2ーΔ3ーΔ4ー…
このリニアな列が、私たちが普段喋ったり、聞いたり、読んだり、書いたりしている言語の姿である。GPTのような生成AIの「T(Transformer)」がシミュレートしているのもこのリニアな列のあり得そうな並び方である。
*
ここでΔ1、Δ2、Δ3、Δ4はそれぞれその対立関係を組む「相手」を持っている。

個々のΔの「相手」方には、一つだけでなはく、潜在的には無数にある。
*
さらにΔ1、Δ2、Δ3、Δ4はそれぞれparadigms軸上で、潜在的に「異なるが、同じこと」として言い換え可能な、多数の語と繋がっている(Δ1,1→n Δ2 ,1→n Δ3 ,1→n Δ4 ,1→n )。

そしてまた、この「多数の語」(Δ1,1→n Δ2 ,1→n Δ3 ,1→n Δ4 ,1→n)たちも、それぞれに「/」でつながる対立関係を組む相手を持っている。「/」はΔ1,1とΔ ¬11、つまり「Δ1,1」と「Δ1,1ではない」ことを分つつつなぐ動きを表している。
* *
人間の言語の場合、この図に示す「/」と「=」を、そしてもちろん「ー」を、特定の二つのΔの間だけに成り立つこととして限定することもできれば、自在に任意のΔとΔの関係を生み出すこととして緩めることもできる。
ただし身体感覚や生命機能が行う「/」は、自在に変更することはできない。
例えば96度の熱湯に伸び込んで「冷たい」と発話することはできるが、実際に体は大火傷を負ってしまう。
ここで身体の分別とは別のモードで「/」を自在に動かすために役にたつのが瞑想、イマジネーションの力、あるいは「A即非Aである」というような言葉である。
イマジネーションや記号によって前五識、身体感覚的、タンパク質のレイヤーにおける「/」とは異なる「/」を経験することができるというのが人間のおもしろいところである。
つまり、人間の言語における潜在的な可能性としては、ありとあらゆるΔ同士が「/」で繋がりつつ分かれる可能性もあれば、「=」で分かれつつつながる可能性もあるし、「ー」で分かれつつつながる可能性もある。
とはいえ、私たちの日々の言語は、出来合いの(つまり習慣化した)対立関係の対立関係、四項関係からなる意味分節の最小単位を、しばしば自明なもの、すでに端的にあるものとして扱いがちである。そこでは言語は分別された感覚的印象の二極それぞれに貼り付けられる分類済みのラベルようなものに頽落している。そこで言語は感覚的に決まりきった、止まっているように感じられる「ある/ない」「自/他」「内/外」を反復する。
*
この日常の固着した分節システムを、その生成の相に送り返すというか浸し直すためのもっともシンプルな方法が、「Δ1 / 非Δ1」という関係、つまり一方であれば他方ではない、という二者択一の関係を経験的になしえている二項間を直接言い換えることである。
例えば
「男は女である」
といったことである。
こういう言葉を聞くと、その意味するところはよくわからないが、なにかとても「深い」ことを言われている様な気がする、という特性を持っている。人間は皮肉の効いた比喩表現や詩的表現をおもしろがることもできるが、詩的言語、比喩表現というのは、感覚的経験的には対立し、分離し、混じり合わないような二項を、あえて結びつけ、短絡するところに生まれる。
固着した分別に汲々とするのではなく(つまり、はっきり分けて、きっちり選べないと、疲労してしまう硬い分別心ではなく)、分別するもよし分別しないのもまたよし、分別と無分別のあわいをくるくるとひっくり返すことができるのが私たちの「心」の本来の可塑性なのであろう。

Δ ¬11 ーΔ ¬ 21ーΔ ¬ 31ーΔ ¬ 41ー…
/ / / /
Δ11 ー Δ21 ー Δ31 ー Δ41 ー…
|| || || ||
Δ1 ー Δ2 ー Δ3 ー Δ4 ー…
/ / / /
Δ ¬1 ーΔ ¬ 2 ーΔ ¬ 3 ーΔ ¬ 4ー…
この図式では便宜上「||("="の向きを変えただけで同じことを意味している)」をそれぞれのΔの組み合わせについて、一つづつしか記載していないが、実はそれぞれのΔから、潜在的に無数の「||」が生えて、インドラの網のようになっていることに注意しておこう。

私たちの深く広い「心」は「/」と「=」と「ー」を次々と切り替えることができる。
ここで「Δ1ーΔ2ーΔ3ーΔ4ー…」、たとえば「きょうーは、ーあめーが、ーふってーいる」、という具合の「ー」すなわち形態素を順番に線形に繋いでいく処理は、ある程度意識的な無意識的ではないプロセスである。私たちは意識的に言葉の繋ぎ方を工夫することができる。
一方「きょう」と「非-きょう」を分節する「/」や、「きょう」と「きょうが一体どういう日であるか」の言い換え先になりそうな、他のあらゆる語をつなぐ「=」は、しばしば無意識的なプロセスになりがちである。
これが人間の知性(サピエンス)、人間における情報処理の要である。そしておそらくほんとうに「知能」を人工しようとおもうならば、この「/」と「=」と「ー」で織りなされる構造体を生成するアルゴリズムをコンピュータに実装する必要がある。
人間が、メディア・コミュニケーション技術によって言葉を生産し、流通させ、保存するしくみを人体の外の人工物に託す場合、その人工物は「/」も「=」も「ー」のすべてを扱えるものであることが望ましい。
そうは言っても、人間自身が「ー」ばかりになって、心の深層の無意識の「/」のことを想起する術をどこかに忘れてきている中で、果たしてAIに学習させ、実装できるような、人体の外に構築された「/」のモデルのようなものをつくることはできるのだろうか?
「/」を人体の外で実行する人工物、メディアは、これまで一度も人類の歴史に登場したことはないのだろうか??・・「/」は無意識的なプロセスであり、一見すると、私たち自身でさえ気づかない、自覚的に意識してあれこれ表現することができないことに思える。
ところが、「/」のメディアは人類史上不存在であるかといえば、そうでもなく、実は古今東西の「マンダラ」状のイメージを描いたものや、神話の語りこそ、何を隠そう「/」を記録し伝承しようとしたメディアなのではないかと、筆者は考える。
人類の「心」の動き方
マンダラが「/」のメディアであるということについて考えてみよう。
人間が「ー」と「=」をできるためには、その前段として、「分別」と「無分別」を分別しながらも分別しない絶対無分節を励起しておくこと、つまり、分かれていないところを分けることと、分かれているところを繋ぐこと、この二つの逆方向の操作を区別(分別)できなければならない。
分かれていないところを分けること
/
分かれているところを繋ぐこと
これを、一と二(多)とを区別できること、同一性と差異性を区別できること、と言い換えてもいい。
分かれていないところを分けるうごきが動いている渦中や、分かれているところを繋ぐ動きが動いている渦中では、「分かれているでもなく、分かれていないでもない」という事態が次々と多様な様態をとりながら変容していく。
ここに、マンダラが出てくる。

人類が経験的感覚的に生きている意味ある世界は、二項対立関係を二つ組み合わせた四項関係を最小構成単位として織りなされている(意味分節されている)ものである。
Δ / Δ
|| ||
Δ / Δ
例えば、
人間 / 動物
|| ||
服を着る / 服を着ない(裸の人)
といったことである。
*
人類の「野生の思考」、神話や夢や、マンダラ状のイメージを浮かび上がらせる精神の意識下の運動は「/」と「||」の動きをふるわせ、Δ二項対立とその重ね合わせを可能にする。このΔ1〜Δ4を区別できないところからはっきりと区別できる状態にまで切り開き分けつつも、バラバラに飛び散ってしまわないように結びあわせ、しかし過度にくっつきすぎて区別できなくなることはないように均衡させておくということが、私たち人類にとって意味ある世界が意味ある世界であるために必要な意味分節の最小構成単位(二重の二項関係=四項関係)をつくる動きである。
* *
対立関係そのものが分かれ出てくる動き
人類の思考が、そもそもあらゆる二項対立が二項対立として分かれつつ結ばれているということ自体がどこからきたのか、対立二項の分離と結合や、規則的な交代が、いったいどのようにして動いているのか、と問うようになったとき、世界の起源神話を語る「野生の思考」は対立関係がまだ分かれていないところから分かれ出てくるプロセスを言語的、イメージ的に描き出すことで、応えようとする。
このプロセスが一体「どのように」動いていくのかをモデル化するひとつの試論として、マンダラ状の意味分節システムを生成消滅する脈動(伸縮)ということを考えてみることができる。
動的マンダラ伸縮
この無意識的な「/」と「||」の動き、意識的な言語の「ー」がつなぐ連鎖を用いて仮にシミュレートするために、神話として現れる「野生の思考」は、Δ1〜Δ4を分けつつつなぐように動く、四つの媒介者たちを登場させる。
先ほどの図で言えば、四つのΔたちの間に挟まって描かれている、四つのβ。この四つのβがΔたちを分けつつつなぐ媒介項である。
/
|| ||
/
↓
←β→
↓ ↓
β β
↑ ↑
←β→
「/」と「||」は同じ動きの二つの異なる様相である
(真逆に対立する熟語のペア)。
すなわち「/」は伸縮の「伸」の方に対応し、
「||」は伸縮の「縮」の方に対応する。
「=」によって、私たちは「異なるが、同じ」の関係をΔ二項間に自在に作り出し、新たな意味を創造していくことができる。しかし「=(異なるが、同じ)」だけであると、「同じ」が増殖してゆくばかりで、最終的に全てのΔをそこに言い換えることができる根源的なΔ項のようなものが固まってくる。
それはそれで結構なことであるが、いずれにしても固まってしまうというのはマンダラの伸縮を生き生きと振動させ続けるという点では気をつけたいところである(もちろん、固まるのもまたマンダラの周縁部のあり方であり、それじたい否定されるものではないが、そればかり、それだけを肯定してはならないのである)」
「=(異なるが、同じ)」が動くところには、いつでも「/(同じだが、異なる)」をセットにしておくとマンダラを描くことができるようになる。
=と/をセットにして、「異なるが同じ、同じだが異なる」、非同非異ということを動かし続けるのである。同じでもなく、異なるでもなく。
この同じでもなく、異なるでもなくを神話において体現するのが両義的媒介項たちである。
両義的媒介項同士がくっついたりはなれたり
両義的媒介項(仮にβと表記しておく)は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている。
いうまでもなく、そのようなものたちは、私たちの経験的感覚的には「存在しない」。この経験的感覚的には「存在しない」ことをあえて言語化することが野生の思考にとっては重要なのである。
神話は、そもそも何かが「存在する / 存在しない」を分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。つまり何かが存在するとか存在しないとか、そういう分別ができるようになる「手前」のことを思考しているのである。
そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(上の図ではΔに対するβ)という。
両義的媒介項たちの距離の伸縮を表現する述語
お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つのβ項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。
任意のβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり縮んだり
任意のβ二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり縮んだり
2または3、または4つの任意のβ項が中央の一点に集まったり広がったり
という具合に、β項間の距離を伸縮させる振動(振幅を描く動き)が起こりる。

この振動のある種の共鳴状態として、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力がバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、正方形を描くように均衡した四つのβ項のあいだに、そのβ正方形の「辺」の部分をなす四つの領域が、安定的、反復的に広げられ続けるようになる。

ここに四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。そこにΔ項が収まる。
ここに私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される。
* *
伸縮する述語の思考で、
分離したいところと結合し、
結合したいところと分離してしまう苦しみから離れる
私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その名、その主語的なあり方(Δ、「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれらの主語的なものたちは、あくまでも伸縮を自在にする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である。
主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている。
私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。
分別心の表層意識に浮かぶ所与の諸要素たちをかっちりとした構造体として配置したように感じられる意味分節システムは、実は脈動する波の伸び縮み(周期的に反復される振動の周期T[s]が伸び縮みすること)を瞼を細めて薄目で眺めたようなものである。
神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験することを可能にしている分別(ふんべつ)、あるいは意味分節のパターンが、あれこれさまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にするし、またそうした分別、意味分節のやり方を相当程度自覚的に自在に組み立てることをも可能にするのである。

「心」のモデルと人工知能の設計
人類は太古から、おそらく今日の人類のものと同じような音声言語を喋り始めた当初から「=」をおもしろがりつつ「ー」を連鎖させていき、そしてその「=」と「ー」が生まれ出てくるところを「/」の共鳴体として表現してきた。その声と耳による表現が神話であり、目あるいは目を閉じた時に見えるビジョンによる表現が「マンダラ」である。
人類における情報の歴史は、この「/」と「=」と「ー」による分別と置き換えの痕跡をいかにして人工物に託して遠くへ遠くへ、時空を超えて保存するか、という試みの軌跡であろう。
文字メディアなら「ー」の両側を固定することが得意である。
音声言語なら「=」の両側を緩めて回転させるのが得意だったりする(Δ1=Δ2をΔ1=Δ¬Δ2に転じるということ)。
そして20世紀の終わり頃からの電子メディアは、文字メディアの伝統を受け継いで「ー」の両側を固定することを得意としつつ、同時に人間が発する「声」的な言葉、「=」の両側を緩めて回転させる声的な言葉をビッグデータとして蓄積しはじめた。
そしてそれを学習した今日の生成AIは、まるで人間のように「=」の両側を緩めてくるくる回転させながら、「ー」を次々と繋いでいくこと(GPTの「T」)ができるようになっている。そうしてAIは、さも意味ある言葉をあれこれ多様に生み出すことができているかのように、人間からみると見える様になっている。
近代以降、文字メディアの圧倒的な「ー」固定力(大量複製生産された文字が世界の全表面、意識の全表面をがっちりと鎧状に固めてしまう)のもとで、「=」のあそびは勝手気ままな取るに足らない「おしゃべり」として軽んじられ、「/」を表現する神話やマンダラは謎の魔術として遠ざけられていった。
ところがところが、電子メディアは、特に今日のSNSのような対話型のメデイアは、文字メディアであると同時に、音声メディア的でもあるハイブリッドなメディアとなっていった。この辺りはウォルター・J. オングが『声の文化と文字の文化』で論じた通りであろう。
そしていま、電子メディアの世界において、人間が発した無数の「声」的なテキストデータを「学習」し、人間のように文字列を生成する、つまり人間の心が行っている「ー」と「=」を真似する機械、生成AIが誕生したのである。
* *
となると、お次は「/」である。
Δ ¬11 ーΔ ¬ 21ーΔ ¬ 31ーΔ ¬ 41ー…
/ / / /
Δ11 ー Δ21 ー Δ31 ー Δ41 ー…
|| || || ||
Δ1 ー Δ2 ー Δ3 ー Δ4 ー…
/ / / /
Δ ¬1 ーΔ ¬ 2 ーΔ ¬ 3 ーΔ ¬ 4ー…
このようなマトリックスを生成する人間の「ー」と「=」を学習し、シミュレートすることができるようになったAIは、人間の「/」もまたシミュレートすることができるようになるだろうか?
近代以降の人類の多くは「/」を意識的に取り扱う方法を学ぶ経験をもたずに一生を終えるが、しかし「/」は私たちの生命体としての存在そのものである。「/」とは、人間の感覚器官が、いや、生命体の細胞一つ一つが、いやいやタンパク質の一つ一つ、さらにはもっと微細な単位までが実行する「分別」に他ならない。この人間の「/」を学習することは、AIの記号接地問題を解く鍵になるだろう。
「/」を、「ー」と「=」をもちいて表現することができるのである。
それが神話であり、マンダラである。
「/」と「ー」と「=」は別々のことではなく、同じことである。
「ー」と「=」を学んだAIは、「ー」と「=」をもちいて「/」をシミュレートすることもまたできるようになるだろう。
人間が意識的でかっちりと分節された言語によって「神話を語る」ことができるように…。
* *
将来に渡りAIは人間の身体の外部で言語を扱う人工物、言語的コミュニケーション・メディアであり続けるだろう。ちょうど音声言語や、文字や、印刷された文字や、今日主として電子情報として保存される音声や映像がそうであるのと同じようにである。
いずれにしても、人間が、AIを含む人工物・情報メディアをその神経系に直結された状態で意識を明晰にして生きるのであれば、情報メディアの設計においては「ー」を固めたり「=」を高速回転させるだけでなく、「/」の組み合わせによる均衡、マンダラ状の調和をもたらすメカニズムも組み込んでおく必要がある。
「ー」を固めるだけの情報メディアに接続されっぱなしになると、人間は意固地に執着する心のモードにセットアップされる。
「=」を高速回転させるだけの情報メディアに接続されっぱなしになると、人間の心身は疲れ果ててボロボロになってしまう。
そしてもちろん「/」をバラバラに動かすだけでも、人間ではない小さな生命体たちのようになる(もちろん、それはそれでよくもわるくもないが)。
数万年にわたる過去の人類の叡智が教えるところによれば、人間がとにもかくにもこの心身でもって生きていく上では、「/」を最小構成で四つ共鳴させて
/
/ /
/
なる関係を安定化していくことが大切なのである。
そういうわけで、人に寄り添い、人と共に、人を守り助けるAIということを真剣に設計しようとするのであれば、
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を振動させるアルゴリズムをAIに実装しておくと良いのである。
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それにしても、これを一体どのように為せばよいのか、ということにすでに答えを与えてくれているのが「神話」であり「マンダラ」であり、そして「夢」である。次世代のAI開発者で『神話論理』と「マンダラ」に通達する人が現れた場合、その人はノーベル賞をとれることだろう。


この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」を、空海が『吽字義』に記しているような二重の四項関係(八項関係)を描くマンダラ状のものと見立てて読んでみる。いや、マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たちが共鳴する“コト”と見立てて読んでみる。
また別の記事で「なぜいま『神話論理』を読むのか?!」という問いに対する答えを書いたので適宜ご参照願います。
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Δ
「/」として動く、「傷つきやすい渡し守」
ということで、神話として表現される人間の「心」の動きをモデル化し、記述し、参照できるようにすることの意義が明らかになったところで、実際の神話に登場する「/」の動き方を実例を通して見てみよう。
下記に示す記事で参照した神話に登場する「傷つきやすい渡し守」は「/」である。
神話の語りが具体的にどういうものであるかについては上掲の記事をご参照いただくとして、レヴィ=ストロース氏による「傷つきやすい渡し守」神話の分析を読んでみよう。
「傷つきやすい渡し守」はトウモロコシ農耕の儀礼の起源神話にも、バイソンを呼び寄せる儀礼の起源神話にも、登場する。「傷つきやすい渡し守」のエピソードは「冬のバイソンとトウモロコシというたがいに両立しないふたつの系列と、トウモロコシと大いなる鳥というたがいに両立するふたつの系列のあいだに、ある近親性を創り出すのである。つまりこの挿話は、両立性と非両立性が体系内部で有徴化された位置において隣接しあっているという意味で、体系がとりわけ脆くなっている場において、ある種の縫合をおこなっているのである」
「傷つきやすい渡し守」は、いくつかの異なる世界の起源神話に登場する。私たちが現に生きるこの世界の起源、はじまりについての神話というのは、要するに、
Δ = Δ
/ /
Δ = Δ
という意味分節の最小構成単位をなすいくつかのΔたちが、もともとそれとして存在しなかったところから、存在するようになる(つまり「起源する」)経緯を言語でもって説こうとしているのである。
人間の起源であれば、「人間」が「人間以外ーではないもの」として「人間以外」から分離されてくる経緯が問われるわけだし、ある文化において食べて良い食材が食べ物であるということの起源を語るのであれば、そこに同時に「食べ物ではない」ものが現れているということ、食べ物が「食べ物ではないものーではないもの」として分離されてくる経緯が問われる。
そういう諸々のΔの起源ののちに、複数のΔたちの間がはっきりと分離され、しかし分離されつつも、適度に付かず離れずに結びつき、関係を保っている、という私たちにとって経験的に意味のある現実の世界が姿を現す。人間と動物は別々に分かれているが、時に狩猟者と獲物という資格でめぐりあい、「食べる」という様式で動物の肉体が人間の肉体と一つになる。昼と夜は別々に分かれているが、それが天を満たす時は周期的に交代する。暑い季節と寒い季節は大きく異なった別々の時空として経験されるが、これらもまた周期的に交代する。

こうしたΔたちが分かれながらも付かず離れずに繋がった、均衡した状態が、定まる手前に出てきて動くのが「傷つきやすい渡し守」という述語的項である。
レヴィ=ストロース氏は「傷つきやすい渡し守」の挿話が、「体系がとりわけ脆くなっている場において、ある種の縫合をおこなっている」とする。

体系が脆くなっている。
つまり、安定的に分離すべき二者の間が過度に接近して結合しそうになってしまったり、安定的に結合しているべき二者の間が、解けてバラバラに遠く分離しそうになってしまったり、という事態である。
Δ ←・・ ・・ / ・・ ・・→ Δ
Δ→=←Δ
こうなると、
Δ = Δ
/ /
Δ = Δ
の安定した四角形、正円を内接または外接させる正方形の曼荼羅がながーくのびてパチンと切れてしまったり、一点に収縮して広がらなくなってしまったりする。四角形+円という形が壊れてしまうのである。

「体系がとりわけ脆くなっている」とは「両立性と非両立性が」「隣接しあって」いる場合であるとレヴィ=ストロース氏はいう。隣接するとは、別々に分離され異なっているはずのものが接近し結合しかけている、ということになろう。そしてこの「体系がとりわけ脆くなっている」場合、別々に分離されているはずなのに過度に結合しかかっている二極とは、両立性と非両立性、つまり付かず離れずに安定していることができる状態(両立性)と、お互いに退け合って一方だけになってしまうような状態(非両立性)である。

付かず離れずの適度な分離と、過度な分離とが、過度に結合しようとしている。つまり正円と正方形を組み合わせたマンダラ状の安定構造がバラバラに飛び散ってしまいそうな状況である(「体系がとりわけ脆くなっている」)。
*
マンダラ状に対立関係の対立関係の対立関係を組み上げなおす「傷つきやすい渡守」
ここに登場するのが「傷つきやすい渡し守」である。
この「/」、β渡守は「体系がとりわけ脆くなっている場」を「縫合」する。
* *

「傷つきやすい渡し守」による「縫合」。分離しすぎた二極の間を結合しなおし、しかし、二極の区別がつかなくなるまで過度に結合するわけではなく、また適度に分離しておくというのがこの場合の「縫合」である。
その縫合の結果、過度に分離しかけた二者の関係が、再び安定的につかず離れずの位置をとるようになる。

レヴィ=ストロース氏が分析する神話では、このβ「傷つきやすい渡守」による過度な分離の「縫合」、マンダラ状の共鳴体の再建が、
春分 / 秋分
/
冬至 / 夏至
といった、人間の経験的な世界の時空間を秩序づける基本的な分別、対立関係を周期的に運動、振動させつつも安定させる力を発揮する。
四つの季節の儀礼と神話
「傷つきやすい渡し守」のエピソードが登場する神話において、「「鳥たちの儀礼」と「バイソンの儀礼」が「相関しつついくつかの軸上で対立している」とレヴィ=ストロース氏は指摘する。
鳥たちの儀礼とは、「相互に同一のものが異なった季節に反復される」ものであるという。
二つの異なる物事の中に同じ一つのものが反復して現れる。異なるが同じ、二即一、ということを表現する。
また「バイソンの儀礼」では「相互に異なっ」た「べつべつのもの」が、「異なった季節に一年に一度挙行され」る(p.518)。
一なる物事の中に、別々の二なる物事が現れる。同じだが異なる、一即二、ということになろうか。
この「鳥たちの儀礼」の異なるが同じ〜二即一と、「バイソンの儀礼」の同じだが異なる〜一即二を、対立させる、セットにすることで、非同非異、一即二にして二即一を作り出している。
異なるが同じ〜二即一
||
/
||
同じだが異なる〜一即二
*
非同非異、一即二にして二即一とは、下記のことに他ならない。
β
β β
β
/
/ /
/
そうしてここに「一年を通じて断続しておこなわれ」る「農耕儀礼」が、ベースのリズムを刻むのである。

* *
カヌーと傷つきやすい渡守
β渡守に関連する神話で「M509 アラワク 島の起源」を見てみよう。これは水上を移動できる(「こちら」から「こちらではないあちら」へと移動できる、つまり「こちら」と「こちらではないあちら」を分離しながら結合し、結合しながら分離することができる)船というものの起源神話である。
海上の旅の途中、旅人たちは、潮の動きでしかカヌーを動かせない人々の住む国に行き合わせた。
そこの住民たちは擢の平らな面で水を打つ代わりに、刃の側で水を切ることしか知らなかったのである。
潮が逆の方向に動くときには彼らは流れに逆らうことができず、舟が動かないよう長い竿を底に突き立てることで満足していた。
旅人たちの一行を先導していた老いた呪術師はツメバケイ(ブニア鳥)に変身して「タルバラン、タルバラン」と鳴いた。
それは「平らな面」という意味であった。
*
ものを知らない船乗りたちは「平らな面でおまえの頭を叩いてやったらどうするね」と答えた。
それでもついに鳥の助言を受け入れることを決め、言われたとおりにすると今までの三倍も早く動けるうえに、流れに逆らっても動けることを知ったのである。
pp.515-516 M509 アラワク 島の起源
冒頭「潮の動きでしかカヌーを動かせない」というのは、ただ潮流に流されているということである。人類が、あちらにいったりこちらに戻ったりすることができないということは、すなわち、来/去、こちら/あちら、遠/近、といった基本的な経験的感覚的分別が、未だ分節されていないということになる。
この状態を
β
ββ
β
と表記しておこう。四つの両義的媒介項が、ぎゅっとひとつにまとまって分かれていない。分かれていることと分かれていないことさえ分かれていない(絶対無分節)。
「擢」と「長い竿」
この絶対無分節、過度な結合状態を表現する、伸ばしたり縮めたりする動きを動かすことができない様相を表現する述語として、この神話が選ぶのは「平らな面で水を打つ代わりに、刃の側で水を切る」ことにしか使われていない「擢」と、「舟が動かないよう」海底に突き立てられる「長い竿」である。
「擢」は「水を打つ」つまり水を押して反発力でカヌーを元いた場所の水から分離することに使えるはずであるが、そのようには用いられず、ただ「水を切る」ばかりで、つまり水を押さず反発力を生じない形で動くことで、カヌーを元いた場所の水に結合したままにする。
また「長い竿」は、これはそのものずばり、海面のカヌーを、海底のある地点に固定してて、そこから動かず、分離しないように働いている。
*
鳥に変身する
なお、この神話では冒頭に「旅人」というのが出てくるので、すでにあらかじめ人類が存在しているかのような話に読めてしまうが、この時点では、今日の私たちが経験的感覚的に人間ではないものと区別している人間なるものは起源していない。
Δ人間 / Δ非-人間
この分別も、分けるから分かれるのであり、この神話の冒頭ではまだ分けられていない。
「そんなことを言われても、旅人というのだから人なんだろう」と思いたくなるところであるが、これは少なくとも私たちのような人ではない。なぜならこの旅人一行のメンバーは鳥に変身することができるのである。

鳥へと自在に変身できる神話的な人は、人でもあり鳥でもある。あるいは人でもなく鳥でもない、「神」かもしれない。
* *
鳥の鳴き声/人間の言葉
意味のない音/意味のある声
さて、この神のような鳥に変身できる旅人が、水面の一箇所で動かなくなっている人間対して、「タルバラン、タルバラン」という鳥の鳴き声でもって、櫂の「平らな面」を使うことを教える。
ここで「タルバラン、タルバラン」は経験的には鳥の鳴き声であって、人間の言葉ではない。つまりそれは人間の言葉の発音といかに似ていようとも、人間の言葉ではなく、人間の言葉が意味するところのものを意味してはいない(鳥にとっては「平らな面」ではなく、何か別のことを意味しているはずである)。
ここには、記号と意味内容という、経験的にぴったりと結合しているはずの二項関係が分離しているでも分離していないでもない、という状況がある。
意味ある言葉 = 意味のない音
この二つが、もし完全に「同じ音」であるとしたら、その音が、意味ある言葉なのか、意味のない音なのか、どちらとも区別がつかない。どちらであるか不可得である。
鳥の鳴き声のパターンは人間の言語とは違う。この鳴き声は「意味をなしてはいない」が「意味していないでもない」ものである。鳥の「タルバラン、タルバラン」は言葉ではないが、それを聞く人間にとっては言葉でないでもない。「タルバラン、タルバラン」は、鳥にとっては「平らな面」という意味はないが、人間にとっては「平らな面」という意味がないわけでもない。
「タルバラン、タルバラン」の音それ自体に言葉であるのかないのか不可得、「平らな面」という意味があるのかないのか不可得である。
これもまた両義的媒介項の述語的様相、経験的感覚的に対立する二項を分離するでもなく結合するでもない分け方にして繋ぎ方である。
* *
ひねくれ
素直にいうことを聞くわけでもない
おもしろいことに、鳥に変身した神の「タルバラン、タルバラン」を聞いた船の上の人間たちは、その意味するところ「櫂の平らな面で水面を打て」を理解している。「打つ」という述語については、完全に理解している。
しかし、素直に鳥に変身した神話的な神々の言うことを聞かず、あろうことか鳥に変身している神の「頭を(櫂の平らな面で)叩いてやろう」などと放言する。
まったく、こまったものであるが、しかし、素直にいうことを聞いてしまうということは、単なる結合の動きである。
分離しながら結合し結合しながら分離する両義的媒介項らしい述語的様相を示すためには、素直にいうことを聞かないが、のちにしぶしぶいうことを聞く、というくらいの天邪鬼なひねくれ具合がちょうどいい。
言うことを聞く / 言うことを聞かない
この対立に対して、この島の人々は、言うことを聞くでもなく、言うことを聞かないでもない、というどちらか不可得なあり方をしている。
* *
世界を付かず離れずに
ついに鳥に変身した神の助言を受け入れた人間は、櫂と竿と自在につかって、あちらにもこちらにも、流れに従っても流れに逆らっても、こちら/あちら、遠/近を、自在に 来/去 することができるようになる。
ここにこちら/あちら、遠/近、来/去 によってまとめて象徴されるような、あちらと分離したりこちらと結合したり、というマンダラを描く「/」と「=」という二つの動き。分離したり結合したりを自在に組み替えることができる、異なるが同じにして同じにしてことなるということを可能にする動きのペアを人類は手にいれる。
こうして人類は、非同非異を自在に動かし、マンダラ状の分節システムを自在に生成変容させることができるようになり、そして要するに、人間にとって経験的に意味ある世界を自在に生成変容させることもできるようになったのである。

これが現世の始まりである。
「カヌーの旅」と「傷つきやすい渡し守」は対立関係にある
レヴィ=ストロース氏はこの神話をめぐって、次のように書いている。
この神話は、ギアナ地方と同じ形態の信仰をもっているセイリッシ族からカラジャ族まで存在する(カラジャ族の場合は最初の櫂は刃の方を掴んで漕いだという。Baldus 6, p. 215) ことが確かめられている信仰を思い出させるが、ロスは評注のかたちで、エッセキボ川のヒアロノ・ドゥルヒンすなわち「女の竿」と呼ばれる島のことを付け加えている。それはすでにふれた住民たちがまだ漕ぎ方を学ぶまえ、潮が上がる時にカヌーを舫うために壺に竿を挿しておいたことからきているのである。女たちはあまり深く竿を挿したために抜けなくなってしまった。その周りに砂がたまり草や木が生えはじめ、今見るような島ができあがった。 逆転したカヌーとして、この島は背に植物の繁茂した砂洲をもった渡し守のイメージを思い起こさせる。
竿で水底に固定され動かなくなったカヌーは「島」と同じである。
経験的感覚的には、いわゆる「島」と「カヌー」は、主語としてはまったく逆のもの、固定したものと固定していないもの、動かないものと動くものである。固定/非固定、動/静の対立を述語の対立と見れば、島とカヌーは主語的にばかりでなく述語的にも対立している。
この二つが神話の語りにおいて、島が「動くものが動かないようにされたもの」として語られ、カヌーもまた「動くものが動かないようにされたもの」の姿で語られるとき、どちらも、動くはずなのに動かないようにされたもの、という述語的様相において等価になる。
* *
上の引用にある「背に植物の繁茂した砂洲をもった渡し守のイメージ」は、下記の記事で取り上げた神話の巨大ワニの姿である。

巨大ワニは、島のようであり一見すると止まっているようでありながら、動けるカヌーのように動く。ここで「傷つきやすい渡し守」が「カヌーの旅」と対立関係にあることに注目しておこう。
「カヌーの旅のモチーフは春分、秋分の昼夜平分的な状況を暗示している」・・・・「だとすればその逆転した対称をなす「傷つきやすい渡し守」は冬至と夏至の至点的状況を暗示するということにはならないだろうか」
カヌーの旅では、太陽と月、つまり昼と夜がその間の距離を一定に保ちながら(昼夜平分)、カヌーの先端と後端にのって水面を移動する。
→→[昼 / 夜]→→
それに対して「傷つきやすい渡し守」は「冬至と夏至の至点的状況」、つまり昼と夜が遠く分離し、どちらか一方だけがこの世界と結合した状態である。
昼 ←← / →→夜
|| ||
この世 / 非-この世
または
夜 ←← / →→昼
|| ||
この世 / 非-この世
水面を渡り切ろうとする乗り手と渡守とのあいだには、食べようとしたり、騙したり、飛び上がったり、飲み込まれたりといった述語的様相が展開されるが、ここで乗り手と渡守の間の距離は、過度に分離したり、過度に結合したり、激しく伸び縮みする。この伸縮の様相が多様であるために(ながく伸びたり、ほどほどに伸びたり、ほどほどに縮まったり、極度に一体化したり)、渡守にはいろいろなパターンがでてくる。
・助けになる渡守
・乗り手を食べることに失敗する腹黒い渡守
・乗り手を食べることに成功する腹黒い渡守
そして乗り手と渡守とのあいだの分離の仕方、結合の仕方も、真逆に対立する様々な様相を呈する。
団子をヘビの口に直接いれる / ヘビから離れた水面に放る
兄弟の片方がヘビに呑み込まれる / 呑み込まれずに逃げる
乗客を騙して飲み込もうと企図するヘビ / 騙すつもりはないヘビ
いずれにしても、この距離の伸び縮みは、昼と夜が等距離を保ったままになるカヌーのあり方とは真逆に対立するものである。
β二項間の距離が一定に保たれる = カヌー
/ /
β二項間の距離が一定に保たれない(伸縮する)= 傷つきやすい渡守
* *
水の両義性…ββ水 洪水 呑み込む水
この昼と夜が等距離を保ってのるカヌーと、乗り手とのあいだで激しく伸縮する渡守との対立は、「水」の両義性に対応するとレヴィ=ストロース氏は書いている。

「こうした体系において水そのものがあいまいな役割を果たしている」
水は、二つの対立するあり方を体現する。「水の潜在的可能性はふたつの極のあいだを揺れ動くことになる」のである(クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.526)。
ひとつはその行程が、昼と夜の交替、季節の循環という時の流れを規則的なものにするものであり、舟旅をする者が理に適った距離を保つという条件、つまり舟における内的なへだたりを制定するという条件を満たすかぎりでのカヌーによって例示される。
水は、その上を移動するカヌーを、カヌーの乗組員がカヌーの上を動き回ることなく運ぶことができる。船の上で走っても、目的地に早く着くということはない。水は「舟旅をする者が理に適った距離を保つ」こと、安定した距離を維持することを可能にする。
しかし、同時に水は、傷つきやすい渡守と同様に、乗り手を、その上にあるカヌーを、丸ごとひっくりかえして飲み込んでしまうこともできる。
そしてもうひとつは、ものごとの自然な流れを転倒する嵐と洪水によって例示される、旅人と水の怪物のあいだの外的なへだたりが保たれないことによってもたらされるものである。
「ものごとの自然な流れを転倒」する洪水は、安定的に分別された物事のあいだの一定速度での遷移、置き換え、転換を、すべての分別された項たちを短絡してしまうことで無効にする。レヴィ=ストロース氏は「洪水」が「客と渡し守のあいだ」にある「第三の項」であると書く。
客と渡し守のあいだのきわめて単純な逆転の関係に補足をおこなわなければならない。じっさい、これらのふたつの項のあいだには、ヒダッツア族の神話体系において見いだされたような第三の項が仮定されている。すなわち洪水であり、これはカヌーの旅が統御していた水が勝手に運動し始める時に生じる。これに対して渡河の成功は、計算高い人間と敵対的な水とのあいだの、対話であると同時に、決闘でもある対話を代償として実現される。
洪水による転覆に対して、「渡河の成功」がある。
水は、穏やかな水面の姿で水界と陸界(水中と大気中)とを安定的に分離することもできるし、はげしくうねって大気中の存在の一部を水中に呑み込むこともできる。
水をどちらのモードにするか、安定したモードに落ち着かせるか、激しく呑み込む高振動モードにするかは、水の上(中)で繰り広げられる分離と結合の伸縮の振幅と周期のチューニング次第である。
渡河に成功するためには、「対話」でありながら同時に「決闘」でもある、騙し騙されるふりをする駆け引きが鍵になる。
決闘でもある対話。
それは即ち、分離したまま結合し、結合しながら分離する、という分離と結合の二極のどちらか不可得な、根源的な絶対無分節の様相である。
* *
水は「傷つきやすい渡守」と「カヌー」、両方の述語的様相を一身に担うことができる。すなわち、水は分離と結合、分節と無分節さえ二極に分かれていない絶対無分節の様相を体現することもできるし、安定した分別を(カヌーにのった昼と夜の距離を一定に保ちつつ運ぶ)浮かび上がらせることもできる。
水は下記の、いずれの様相でも動くことができる。
β
ββ
β
↓
β
β←ーーーー/ーーーー→β
β
↓
β
↑
|
βーーーーー+ーーーーーβ
|
↓
β
↓
β
|
|
βーーーーー+ーーーーーβ
|
|
β
水はまるで法界そのものを体現するかのようである。
* *
こうして分離と結合、分別と無分別とが結合しながらも分かれたところで、人類にとって経験的な現世の分別を安定させることができるようになる。
春分/秋分、夏至/冬至といった人類にとって経験的な「時間」の分別が安定してあり続けるためには、昼と夜の伸び縮みを、伸びすぎず、縮みすぎないように(夜だけになってしまったり、昼だけになってしまったりしないように)保つ必要がある。
そしてこの季節の分別の安定、時間の分別が多少伸縮しながらも安定してあることは、人間が現に生きる世界の生業、食料獲得のための活動や、自分たちの社会を他の社会と分けつつ維持更新し続ける活動を成立させる鍵なのである。
* *
分離と結合を分離したり結合したりするカヌーと、分離と結合を分離したり結合したりする水とを、分離しながら結合し、結合しながら分離する、水上移動の旅。


野生の思考の神話の論理では、人間が現に生きているこの経験的に意味あるの世界のはじまり(起源)は、このような分離と結合の伸縮として、人間にとっての基本的な、そして意味ある世界を分別する分節システムの発生として語られるのである。そしてその分節システムは最小構成で対立関係の対立関係の対立関係である八項関係であり、これを空間的に配置するとマンダラになるのである。

つづく
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