食卓作法とは/レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』を最後まで読む -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(103_『神話論理3 食卓作法の起源』-54)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第103回目です。
『神話論理3 食卓作法の起源』の最終章「「生きる知恵の規則II 料理民俗学小論」を読みます。これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。
経験的な区別が概念の道具となる
レヴィ=ストロース氏は大部の『神話論理』の第1巻の冒頭に次のように書いている。
「生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」
経験的感覚的な区別(分別)を概念の道具として、観念を抽出するとは、いったい、どういうことだろうか?
この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」、私たちの野生の思考が半分無意識のうちに“経験的感覚的な区別を概念の道具として観念を抽出する”プロセスを、動的に伸縮する「マンダラ」としてモデル化すべく試行している。
動的に伸縮する「マンダラ」のモデルを考える上で、筆者らがよすがとするのは空海が『吽字義』に記している二重の四項関係(八項関係)である。もちろん「項」の関係といっても、マンダラは所与の即自的な実体を二次的に集めてきて並べたものではない。マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たち、振幅を描くように伸縮する動きの、その述語的様相の共鳴がある。この共鳴から浮かび上がるパターンを、人間の言語の線形構造の上に写像したものが、おそらく神話の語りなのである。
神話の語りを、言語の線形構造に変換されたマンダラとして読むという試みは、レヴィ=ストロースと同じく、人類の無意識の心の動きの消息として「神話」を読み解こうとしたカール・グスタフ・ユングの思考とも共振するものになるだろう。
動的マンダラ伸縮モデル
仮に下図に示す「Δ」を最小で二つ、つないだもの(Δ1=Δ2)をひとつひとつの「観念」だと思っていただこう。

上の図のΔ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別される項である。例えば、
Δ1 寒い / Δ4 寒くない
|| ||
Δ2 わるい / Δ3 わるくない
といった具合になる。私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界とは、このような二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている。
人類は「経験的区別」を実行する機械のような仕組みとしてできている。
Δ自 / 他Δ
Δ生 / 死Δ
Δ好き / 嫌いΔ
Δ因 / 果Δ
Δある / ないΔ
Δうまい / まずいΔ
Δ高い / 安いΔ
Δ遠い / 近いΔ
Δ内 / 外Δ
特に経験的な区別を区切り出す上で決定的なのは、次の対立である。
区別があること / 区別がないこと
分節 / 無分節
分かれてあること / 分かれていないこと
分離している / 結合している
一である / 多である
同じである / 異なっている
区別すること / 区別しないこと
分離すること / 結合すること
そしてさらに、この対立の両極の間の転換を引き起こす、二種類の動きの対立。すなわち、
結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き
この対立である。
経験的世界の意味分節=存在分節を可能にする
「分けること」それ自体の起源を思考する神話
例えば、私たちが「私は居る」とか「犬がいる」とか「カレーが一皿ある」などといったことを意識し、言語でもって報告するとき、その前提として私と非私とが区別できていなければならないし、犬と非犬、"その"犬とその他の犬、カレーと非カレー、"その"カレーとその他のカレーとが区別できていなければならない。
経験的世界の意味分節=存在分節を可能にする
「分けること」それ自体の起源を思考する神話
前回の記事では「内/外」「入る/出る」、そして「入口/出口」といった、私たち人類にとっての意味分節=現実分析を支える基本的な二項対立関係の起源を思考しようとする神話を見てきた。
区別するということは、二次元で考えれば、真っ白な紙にくるりと丸を描くように、境界線を引き、閉じること。さらに高次元で考えれば、三次元空間にシャボン玉が浮かんでいるような具合で境界"面"を広げて、そして閉じていくことである。
そしてこの境界線、境界面を閉じるところで、「閉じる/開く」の対立が区別できていなければならない。
またこの閉じる/開くは述語的な相を呈する。
そこには、閉じつつある途中、開きつつある途中、ということがある。
この時、閉じつつあるが完全に閉じてはいない状態があり、そこに「入口/出口」の区別が出てくる。
そしてさらに、この境界線や境界面を境にして、二つの側、境界の「こちら/あちら」の区別が出てくる。そしてここに別途区別された「自/他」の対立が重なると、境界の「こちら/あちら」の対立は、「内/外」の対立になる。
こちら/あちら
|| ||
自/他
↓
内/外
私たちが、経験的感覚的に、なにかがあるとかないとか意識したり語ったりできているときには、このような「内/外」の対立がすでに無意識裡にでも区別されていなければならない。
*
神話は、人類が現に経験している、自分自身にとって「意味ある世界」を支えている意味分節・存在分節の体系の起源を、由来を、思考しようとする。
神話の語りを紡ぐ、野生の思考が、例えば「人間」の起源を思考しようとすると、それは「人間」と「非-人間」がもともと区別されていなかったところから、区別されるようになるに至る経緯を語る、ということになる。
「人間」に限らず、ありとあらゆる経験的感覚的に「他ではないそれ」として存在するように感じられるものや事柄について、それとそれ以外との区別のはじまりをどう語るかが神話の思考の関心事になる。
A / 非-A
こうなると、意味ある経験的世界の起源を語る神話の思考を突き詰めていくと、いずれ必ず、区別があるということそれ自体の起源を問うことになる。
区別があること / 区別がないこと
この区別である。この区別を他の感覚的に似たような言い方に言い換えることもできる。
分節 / 無分節
分かれてあること / 分かれていないこと
分離している / 結合している
一である / 多である
同じである / 異なっている
これらの対立は、すべて単純に同じではなく、厳密に言えば、時間的空間的な前後関係("もともと"の状態が分かれているか分かれていないか、そこから分けられた二次的な状態が分かれているか分かれていないか)によって相が異なる・区別できるのであるが、いったん大きく「区別があるか/区別がないか」と、まとめて考えておこう。
*
この主語的に固まった様相として分かれているかいないかの対立を考えようとすると、分かれているところを分かれていないようにしたり、分かれていないところを分けたりする、「分ける」動き、述語的様相が際立ってくる。
そこから神話は、
区別すること / 区別しないこと
この対立の起源を問うことになる。
ここで「区別しないこと」は、しばしば神話では、経験的にはっきりと分離されているべき二者の間が過度に結合されてしまった状態として表現される場合もある。
区別すること / 区別しないこと
この対立は、
分離すること / 結合すること
結合状態を分離状態に転じる / 分離状態を結合状態に転じる
この真逆に対立する動きのペアにも置き換えられる。
先日の記事では「内/外」「入る/出る」、そして「入口/出口」といった、私たち人類にとっての意味分節=現実分析を支える基本的な二項対立関係の起源を思考しようとする神話を見てきた。「料理」と「消化」をめぐる神話は、人類を含む生き物の身体が食事をしたり、排泄をしたりする、という極めて感覚的な区別の経験を用いて、内/外、入れる/出す、入口/出口、開く/閉じる、といった対立関係を意識の前面に引っ張り出して、そしてこれらの区別を用いて、「分離すること/結合すること」「一であること/異であること」の区別、区別することと区別しないことの区別という、おそらく分別する思考にとってもっとも基本的な最初の区別の動きだしをシミュレートしようとする。
分けることと繋ぐこと(分けないこと)
この二つの動きの組み合わせで、
人間にとって経験的に意味ある「現実」が意味分節される
私たち人類は、こうした区別を用いて、抽出された観念を「つなぎ合わせる」(区別できるなにかとなにかと結合したり分離したりする)ことで、意味するものと意味されることとの一対一の静的ペアをリニアに連鎖させる。「その観念をつなぎ合わせて命題にする」のである。
Δ1,1ーΔ1,2ーΔ1,3ーΔ1,4ーΔ1,5ーΔ1,6ーΔ1,7ーΔ1,8
|| || || || || || || ||
Δ2,1ーΔ2,2ーΔ2,3ーΔ2,4ーΔ2,5ーΔ2,6ーΔ2,7ーΔ2,8
このような配列を生成することが、一体「どのようにしておこなわれるか」を考えるのが、レヴィ=ストロース氏が『神話論理』の冒頭に掲げた課題であった。
意味は自在に変容する
人間の言葉は、同じ一つの「意味されるもの」を、実に多様な「意味すること」に次々と置き換えていくことができる。
「意味すること」=「意味されるもの」
記号=意味内容
→この関係を、
分離したり、結合したり、
分けたり、分けなかったり
その分け方・繋ぎ方を、自在に組み替えることができる。
記号になりうるものと意味内容になりうるものを、次々と結合したり分離したりする。
◇
例えば、下記のように配列される意味分節の最小単位があるとする。

私たちが言葉を紡ぐ時、Δ1、Δx、Δ-1、Δ-x 四項のうちのひとつ、たとえば Δ1だけを意識の表層へと引っ張り出す。
そして他の四項関係から同様に引っ張り出されてきた四極のうちの一極を占めるΔ2→nたちを、順番に一列に並べていく。
Δ1 ー Δ2 ー Δ3 ー Δ4 ー…
このリニアな列が、私たちが普段喋ったり、聞いたり、読んだり、書いたりしている言語の姿である。GPTのような生成AIの「T(Transformer)」がシミュレートしているのもこのリニアな列の、ありうる可能性が高い並び方である。
*
ところで前述のようにΔ1、Δ2、Δ3、Δ4はそれぞれその対立関係を組む「相手」を持っていた。

また、Δ1、Δ2、Δ3、Δ4はそれぞれparadigms軸上で、潜在的に「異なるが、同じこと」として言い換え可能な、多数の語(Δ1,1→n Δ2 ,1→n Δ3 ,1→n Δ4 ,1→n )とも繋がっている。下図中「=(||)」で表現した関係である。そしてまた、この「多数の語」(Δ1,1→n Δ2 ,1→n Δ3 ,1→n Δ4 ,1→n)たちも、それぞれに「/」でつながる対立関係を組む相手を持っている。

* *
人間の言語の場合、この図に示す「/」と「=」を、そしてもちろん「ー」を、特定の二つのΔの間だけに成り立つこととして限定することもできれば、自在に任意のΔとΔの関係を生み出すこととして緩めることもできる。
人間の言語の潜在的な可能性としては、ありとあらゆるΔ同士が「/」で繋がりつつ分かれる可能性もあれば、「=」で分かれつつつながる可能性もあるし、「ー」で分かれつつつながる可能性もある。
人間にとっては、
「/」(結合する動きを分離する動きへ転じる)も
「=」(分離する動きを結合する動きへ転じる)も
「ー」(既に分離済みのモノを並べるという結合の仕方)も、
このいずれも、すべて大切である。
このどれが欠けても(あるいは膠着しても)、意味分節の最小単位を産みつづけ、リニアに並べ続けることは難しくなる。

私たちの深く広い「心」は「/」と「=」と「ー」を次々と自在に切り替えることができるが、特に「Δ1ーΔ2ーΔ3ーΔ4ー…」、たとえば「きょうーは、ーあめーが、ーふってーいる」、という具合の「ー」すなわち形態素を順番に線形に繋いでいく処理は、意識的なプロセスである。これは既に分離済みのモノ、つまり分離する動きや結合する動きが動いているという述語的様相を見ないモードで分別されるものを、並べていく繋ぎ方であるが、それは私たちが普段意識的にものを考えて言葉を並べることができるように、意識的なことで、無意識的ではない。
一方、「きょう」と「非-きょう」を分かれていないところから引き離す動き「/」や、「きょう」と「きょうが一体どういう日であるか」の言い換え先になりそうな、他のあらゆる語を、互いに異なりながらもの同じもの、非同非異の関係で結合する動き「=」は、しばしば無意識的なプロセスである。
ここで意識的な言葉の連鎖の「ー」を組み合わせて、「/」と「=」の分離したり結合したりする動きをシミュレートしたものが「マンダラ」であり「神話」であり、あるいは「夢」である。
神話の論理を伸縮するマンダラとしてモデル化する
神話は、語りの終わりで、いくつもの「Δ」たちを、「Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ」の連鎖を安定的に反復して生成できるような、Δモードの“他と分離済みのもの”を、たがいに分離しつつ、しかし過度に分離しすぎない程度に付かず離れずに結びつけておくことを目指す。

人類の「野生の思考」、神話や夢や、マンダラ状のイメージを浮かび上がらせる精神の意識下の運動は「/」と「||」の動きをふるわせ、Δ二項対立とその重ね合わせを可能にする。
このΔ1〜Δ4を区別できないところからはっきりと区別できる状態にまで切り開き分けつつも、バラバラに飛び散ってしまわないように結びあわせ、しかし過度にくっつきすぎて区別できなくなることはないように均衡させておくということが、私たち人類にとって意味ある世界が意味ある世界であるために必要な意味分節の最小構成単位(二重の二項関係=四項関係)をつくる動きである。
* *
神話の語りは、語の線形配列をブリコラージュして、マンダラを描く
意識的な言語の「ー」がつなぐ連鎖を用いて、「/」と「||」の無意識的な動きを仮にシミュレートするために、神話として現れる「野生の思考」は、Δ1〜Δ4を分けつつつなぐように動く、四つの媒介者たちを登場させる。
先ほどの図で言えば、四つのΔたちの間に挟まって描かれている、四つのβ。この四つのβがΔたちを分けつつつなぐ媒介項である。
/
|| ||
/
↓
←β→
↓ ↓
β β
↑ ↑
←β→
「/」と「||」は同じ動きの二つの異なる様相である
(真逆に対立する熟語のペア)。
すなわち「/」は伸縮の「伸」の方に対応し、
「||」は伸縮の「縮」の方に対応する。
両義的媒介項(仮にβと表記しておく)は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている。いうまでもなく、そのようなものたちは、私たちの経験的感覚的には「存在しない」。この経験的感覚的には「存在しない」ことをあえて言語化することが野生の思考にとっては重要なのである。
両義的媒介項のペアのペアが伸縮する
神話は、そもそも何かが「存在する / 存在しない」を分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。つまり何かが存在するとか存在しないとか、そういう分別ができるようになる「手前」のことを思考しているのである。
そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(上の図ではΔに対するβ)という。
両義的媒介項たちの距離の伸縮を表現する述語
神話では、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つのβ項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。
任意のβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり縮んだり
任意のβ二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり縮んだり
2または3、または4つの任意のβ項が中央の一点に集まったり広がったり
という具合に、β項間の距離を伸縮させる振動(振幅を描く動き)が起こりる。

私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その名、その主語的なあり方(Δ、「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれらの主語的なものたちは、あくまでも引き離したり近づけたり、分離と結合の伸縮を自在にする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である。

主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている。
私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。

分別心の表層意識に浮かぶ所与の諸要素たちをかっちりとした構造体として配置したように感じられる意味分節システムは、実は脈動する波の伸び縮み(周期的に反復される振動の周期T[s]が伸び縮みすること)を瞼を細めて薄目で眺めたようなものである。

神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験することを可能にしている分別(ふんべつ)、あるいは意味分節のパターンが、あれこれさまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にするし、またそうした分別、意味分節のやり方を相当程度自覚的に自在に組み立てることをも可能にするのである。
食卓作法
さまざまな食べ方、さまざまな調理
「料理」と「消化」をめぐる語りは、「分ける/分けない」「一/異」のあいだを分けたり分けなかったり、分離したり結合したり伸縮させる動きのことを言わんとしているのだ、ということを念頭に置いてみると『神話論理3 食卓作法の起源』は忽然と読みやすくなる。
食べる。つまり内/外の境界を超えて、外を内へと「入れる」こと。
そして食べるの「逆」である内なるものを外へと「出す」こと。
そしてこの出し/入れのために、内/外の境界で開/閉する動きをなす、入り口/出口の対立。
主語的なモードに寄せれば、
内/外
入口/出口
主語的なモードに寄せれば、
入る / 出る
開く / 閉じる(出入口を)
こうした対立関係を組み合わせて、野生の思考は神話の論理を編んでいくのであるが、これらの対立が、“人間の身体に、その外から内へ、食べ物を入れる”という経験的な相でもって思考されるのである。
食べること
=消化の外部化としての調理
ここで「調理すること」は、人体の内/外の区別された境界を、大いに揺るがす述語的様相である。すなわち、野生の食べ物を、切ったり、焼いたり、煮たり調理することは、人間の体の内部で行われる消化のプロセス、“食べ物を切り刻んですりつぶしてドロドロに溶かす”プロセスを、食べ物が口から体内に入るより以前に、体外で、あらかじめある程度、前処理しておきましょう、ということに他ならないのである。

*
ここで調理することは、内/外という感覚的経験的世界の定常的意味分節の根幹をなす二項対立関係の両極のあいだで、内でもなく外でもない、という様式の両義的媒介項の伸縮を体現する動きだということになる。
* *
分離と結合の媒介作用である「料理すること」の対立関係を編む
さて、ここで野生の思考の神話論理は、おもしろい動き方をする。
料理することを両義的媒介項として語ろうと思うと、それは必ず対立関係をなす二項の体系を描かざるを得ない。ありとあらゆる項は、対立関係をなす二項のうちの一方として、関係の只中から区切り出される限りで存在するようになる。この規則が適用されることは両義的媒介項であっても免れることはできない。
そういうわけで神話群のなかから、諸々の料理、諸々の調理方法が織りなす対立関係の対立関係が浮かび上がってくることになる。
前回の記事で読んだところでは、レヴィ=ストロース氏は、「火にかけたもの」すなわち火で加熱調理した料理のなかで、「串焼きにしたもの」と「煮たもの」と「燻製にしたもの」とが織りなす複数の対立関係に着目していた。
「串焼きにしたもの」
「煮たもの」
「燻製にしたもの」
これらの調理法の対立について、ひとつには調理法のための道具すなわち煮込み用の土器と燻製台との対立が、経験的感覚的にわかりやすい。煮込み用土器と燻製台は、火と食材との距離の遠/近、食材と火が直接触れるか/間接的に触れるか、といった軸上で対立する。
火と食材の結合(分離しながらの結合)の、遠/近、間接/直接という二つの対立軸を交差させると、次のようになる。
遠
間接 直接
近
そしてこれら四極の「あいだ」に、例えば上の図の左上には「遠くて間接」、右上には「遠くて直接」という料理のモードが収まる余地が開く。
(遠く間接) 遠 (遠く直接)
間接 直接
(近く間接) 近 (近く直接)
すなわち、遠/近、直接/間接によって開かれる四つのモードの料理が考えられることになる。
(1)遠く間接
(2)遠く直接
(3)近く間接
(4)近く直接
これらはいずれも分離と結合の伸縮の多様なモードを観念として表現するうえで、きわめて扱いやすい(神話の語りを聞いた人の多くが「あああの感じね」と実感できる)区別である。
*
さて、ここで「遠く間接」に火と食材を分離したまま結合する調理法とは何か?
これに最も妥当しそうな調理法を、経験的にありうる調理法の中から探し出すと、それは「火」から立ち上った煙による「燻製」になる。同様に、他の四つの調理のモードについても、下記のようにもっとも妥当なものが経験的な調理法のなかから選ばれ、配置される。
食材と火が
(1)遠く間接 的に(分離しつつ)結合 ・・煙による燻製
(2)遠く直接 的に(分離しつつ)結合 ・・(天日干し?)
(3)近く間接 的に(分離しつつ)結合 ・・容器での煮込み
(4)近く直接 的に 結合 ・・・串焼き
このように整理してみると、おもしろいことに気づく。これまでみてきた神話には「燻製」と「煮込み」と「串焼き」が登場したが、火と食材を(2)遠く直接 的に(分離しつつ)結合する方法はまだ登場していない。
ここにもなにか、適当なものを充当したいところである。
(遠く間接:燻製 ) 遠 (遠く直接:?? )
間接 直接
(近く間接:煮込み) 近 (近く直接:串焼き)
ところで、遠くても直接的というのは、どういうことであろうか?
天日干しなら?
例えば、自分の手元から十メートルくらい離れた(遠い)場所に食材であるピーマンを置いて、この遠い距離を保ったまま火炎放射器かなにかでこの距離を超えて火をかけることを考えてみよう。これは一見すると「遠く 直接的」な結合のように思えるが、火がピーマンをその間の距離ゼロでなでている時点で、これは単に(4)の「近くて直接」の火力最強のモードである。いや、そもそもそういう調理法は経験的にはまずないだろう。
「火」と「食材」の間に遠く距離を分離したまま、それでいて、燻製の煙や水(スープ)のような間接化する媒介物をいっさい挟まずに、食材を遠くの火に直接さらす調理法とは、どういうものがあるだろうか?
ひとつのイメージとして、串に刺した生肉を、焚き火や料理用の炉から、遠く離れた場所に立ててみることを考えよう。
とあるキャンプ場で、焚き火をおこして、そこから50メートルくらいのところに棒をたてて、生肉を刺しておく・・・。じっさい、これでは調理していることにはならないだろう。肉はいつまでも焼けず、そのうちカラスにプレゼントしたことになるだろう。
・・ところがこれが、焚き火の火ではなく、天に輝く「太陽の火」だったらどうだろうか?!
生の食材を、遠く離れた太陽の熱で“直接”じわじわ加熱する。
天日干しである。

太陽と地上の肉はあまりにも遠いが、その間に、煙も、水(スープ)も介していないとなれば、これはあくまでも直接の結合なのである。
煮込みに対する非-煮込み
ここでレヴィ=ストロース氏は、天日干し、すなわち「空気に当てて乾かした肉」に言及する。
ブラックフット族は、煮る料理に関しては、生皮からなめし皮、木のボウル、そしてかつては使われた土器を経て石の鍋にいたる、かなり多彩な器の種類をもっていた。つまり剥いだばかりの皮という耐用時間の短いものから、石の鍋という耐久性の高いものまでの幅があったことになる。
こうした技術的な手段の視点から見たときの煮る料理の二元性に対して、結果から見たときの逆転した料理法(水を使わないという意味で逆転している)の二元性が対応している。
じっさい、空気に当てて乾かした肉は傷みやすいが、それを変形して作ったペミカンは長持ちする。つまり、ペミカンの製造、炉を使ってカマを煮ること、沸騰した湯に通す肉を「白くする」こと、そして肉の空気乾燥という、ブラックフット族の四つの主要な料理法は、相関しつつ対立する項のいくつ かの対に還元できる。
ここに「空気に当てて乾かした肉」というのが登場する。
天日干しである。
天日干しの場合、遠く隔たった太陽の火と食材の間を直接、分離したまま結合することが起きる。天日干しもまた、生の食材を人間の体の外に置いたまま、消化のプロセスの第一歩を踏み出させるという点で、調理である。
神話には、しばしば、人類の起源以前の神々が、炉の火で調理をすることを知らず(調理に応用できるような、火をコントロールする技術をしらず)、肉は太陽の光に晒して天日干しにしていた、という話が出てくる。
上の引用で、レヴィ=ストロース氏はいくつもの対立関係に言及している。
まず「煮る」料理と「煮ない(水をつかわない)」料理の対立である。
煮る / 煮ない
|| ||
水を使う / 水を使わない
「煮る」は、上述のとおり、火と食材が「近く」、かつ容器と水を介するという点で「間接的」な調理方法である。
そしてここに、水を使う調理を逆転した「水を使わない」料理、非-煮込みが対立する。
それが「空気乾燥」、天日干しである。
天日干しは、水を使わないという点で、火と食材を「直接的」に結合する。しかもその太陽の火と食材の距離は極めて「遠く」分離しているのである。
煮込み / 天日干し
|| ||
火と食材が近い / 火と食材が遠い
|| ||
火と食材の関係が間接的 / 火と食材の関係が直接的
こうしてうまい具合に、下記のような二重の四項関係が形成される。
(遠く間接:β燻製 ) Δ遠 (遠く直接:β天日干し)
Δ間接 Δ直接
(近く間接:β煮込み) Δ近 (近く直接:β串焼き)

土器に水やスープを入れて煮込む料理と、天日干しにした料理。
この二つを対立させて両義的媒介項のペアとして神話の思考に用いることによって、空間的な遠/近を分節することができる。
β両義的媒介煮込みとβ両義的媒介天日干しのペアはまた、関係性の間接/直接を分節することもでき、ここから、分離してあること/結合してあること、この対立を分節することもできる。
*
煮込みと天日干しを鋭く対立させるために
耐久性の高/低という軸も引き合いに出される
さらにここに「ペミカン」というものが登場する。
ペミカンは、干し肉と動物の脂肪(ラード、バターなど)、ドライフルーツを混ぜて固めた、北米先住民の伝統的な携帯・保存食である。ペミカンの調理法は次の様なものである。
乾いて固くなった肉を、燠火の上に直接置き、片面ずつ熱する。つぎにこれを鞭のように叩きつけて細かくし、さらにバイソンの油脂やパイソンの溶かした骨の髄と混ぜ合わせ、 空気が残らないように入念に革の袋に詰め込む。袋を縫い閉じると、女たちは袋に乗り中身が均質になるように足で踏みつける。それぞれの袋とその中身がしっかりした塊になると、完全に水分を失うまでもう一度天日干しにする。
空気に当てて乾かした肉は傷みやすい。
しかし、ペミカンにまで加工したものは長持ちする。
空気に当てて乾かしただけの肉 / ペミカン
|| ||
傷みやすい / 長持ちする
↓
時間的持続: 長/短
ここに、長持ちする/長持ちしない、という料理されたものが、料理されたものであり続けることができる(つまり腐るまでの)時間の長/短の分別・対立が浮上してくる。
煮込みの時間的長/短・非-煮込みの時間的長/短
ここで、煮込まない天日干しの方に時間の長/短という幅ができたことで、この煮込まない天日干しと対立関係のペアを組んでいる「煮込み」の側にも、時間の長/短の区別を考えざるを得ないことになる。
その時、野生の思考が呼び出してくる経験的で感覚的な区別が、煮込みに使う道具の耐用時間の長/短である。
耐久性:低い・短時間だけ使える
↑
・生皮(剥いだばかりの皮)
・なめし皮
・木のボウル
・土器
・石の鍋
↓
耐久性:高い・長時間使える
上のものほど耐用時間が短く、下にいくほど「耐久性が高い」。
ここにも長持ちする/長持ちしない、時間の長/短の分別・対立が浮上してくる。
両義的媒介項βを四つ揃えるために、経験的で感覚的なものごとのなかからいくつかの対立軸を引っ張り出してくる
続々と、経験的で感覚的な対立関係が迸り出てくる。
そしてこれらの対立関係同士が組み合わさって、対立関係の対立関係の対立関係を編み出していくのである。レヴィ=ストロース氏はさらに続ける。
[…]ペミカンの製造、炉を使ってカマを煮ること、沸騰した湯に通す肉を「白くする」こと、そして肉の空気乾燥という、ブラックフット族の四つの主要な料理法は、相関しつつ対立する項のいくつかの対に還元できる。
最初のふたつは手が込んでいて、 後のふたつはシンプルである。
第一の方法と第四の方法は外気のなかでおこなわれ、第二と第三の方法は地表より下の、水を張った溝かあるいは水なしの溝でおこなわれる。
植物性の食べ物に使用される大地の炉と、中くらいの高さにぶら下げた動物性の肉とが対立する関係は、動物性の食物における、乾いた革のなかに入れ密閉されたペミカンと、水を満たした剥いだばかりの皮で作った開かれた器で手早く白くされる肉とが対立する関係と似ている。
四つの料理法が、四つに分離しつつも結合している。
四つの調理方法は、まず、
手が混んでいるか / シンプルか
この対立軸上で二つづつに分けられる。
・ペミカンの製造 ・・手が込む
・炉を使った煮こみ ・・手が込む
・沸騰した湯に通す肉を「白くする」こと ・・シンプル
・肉の空気乾燥 ・・シンプル
手が込むという点では「ペミカンの製造」と「炉を使った煮こみ」は“同じ”である。またシンプルであるという点では、湯通し「白くする」こと(しゃぶしゃぶ?)と「空気乾燥」は“同じ”である。
*
また、四つの調理方法は、
外気の中で行われる / 地中より下の水中で行われる
この経験的な対立軸上でも二つづつに分けられる。
「ペミカンの製造」と「肉の空気乾燥」は、水中でななく、空気中で行われるという点で同じである。また、「炉を使った煮こみ」と「沸騰した湯に通す肉を「白くする」こと」は、空気中ではなく、水中で行われるという点で同じである。
(β肉の空気乾燥) Δ空気中で行われる (βペミカンの製造)
Δシンプル Δ手が込む
(βしゃぶしゃぶ) Δ水中で行われる (β炉を使った煮こみ)

経験的区別を組み合わせてマンダラ状の関係をつくる
また、調理方法に関して、
加工された革 / 剥いだばかりの皮
密閉された / 上が開いている
乾いている / 水で満たされている
といった対立軸を利用することもできる。
経験的で感覚的な対立関係を「ブリコラージュ」して、マンダラ状の関係、分離しつつ結合し、結合しつつ分離する動的関係を言語的に、イメージ的に形成するのである。
二項対立関係の一方の極を占める諸項たちが、同じ/異なる、という関係で、結合したり分離したり、組み合わされていく。そうして二項対立関係どうしが結合し、重ね合わされていく。

こうして対立関係の対立関係が織りなす体系が織り上げられていくのであるが、この一見複雑化してゆく体系を自在に生み出していくアルゴリズムの中核には、シンプルな二項対立関係がかっちりと組み込まれている。
それが「生のもの」と「火を通したもの」の対立関係である。
「生のもの」と「火を通したもの」
ふたつの項がほとんど生を表わし(乾かした肉、白くした肉)、もうふたつの項が火にかけたもの以上のものを表わしている(ペミカンとカマすなわち保存用の動物性食品と植物性食品)、この四角形の緩い体系が、四つの項が間接的に含意している生のものと火にかけたものというシンプルな意味価にしっかりと組み込まれるためには、内部的なふたつの支持点が必要であるということは意外なことではない。そして、じっさいブラックフット族は狩りの獲物の内臓つまり腸と肝臓をよろこんで生で食べるいっぽう、串焼きの肉は過度に焼くことを要求するということはすでに指摘したとおりである。
乾かした肉、白くした肉が、“火にかけられているが「ほとんど生」"であるのに対し、「ペミカン」と、炉を使った煮こみである保存食「カマ」は、「火にかけたもの以上のもの」である。
乾かした肉 =/= 白くした肉 ←低耐久・ほとんど生
|| ||
/ / /
|| ||
ペミカン =/= カマ ←長耐久・火にかけたもの以上
↑ ↑
天日干し 遠く直接 / 水を介して 近く間接
この四種類の調理法は
遠く直接/近く間接 :空間的遠近の分節
低耐久/超耐久 :時間的持続性の長短分節
この二つの対立軸を交差させたところに浮かび上がってきている。
そして、この四項関係がはっきりと四つに分離しつつもひとつに結合しているのは、これら四項が“火を通したものであるが、火を通したものではない”即ち“生のものであるが、生のものではない”というという点で、非同非異に、分離しつつも結合しているからである。
そうしてこの、“火を通したものであるが、火を通したものではない”、“生のものであるが、生のものではない”という対立を可能にしているのが、「生のもの」と「火を通したもの」の対立関係なのである。
「火にかけたもの以上のもの」
↑
生のもの / 火を通したもの
↓
「火を通したが、ほとんど生」
ここで「生のもの/火を通したもの」の対立関係を際立たせるかのように、経験的で感覚的な習慣として、「狩りの獲物の内臓つまり腸と肝臓をよろこんで生で食べるいっぽう、串焼きの肉は過度に焼くことを要求する」ということが遂行されるのである。
腸や肝臓を「生で」食べられるなら、串焼きも生焼けのまま中心部が生でも食べていいのでは?という気もするが、それではマンダラ状の分離と結合の伸縮システムを開く対立関係が際立たないのである。
上の、遠く直接/近く間接:空間的遠近の分節、低耐久/超耐久:時間的持続性の長短分節、という四項関係のいずれかのうちには、「生焼けの串焼き」が一つの料理として収まる場所がない。
肉の串焼きが、直接(間接ではなく)、近くで(遠くではなく)火を通したもの、という四項関係の一極に意味分節されている観念である場合、生焼けの状態の肉はまだ串焼きの観念に妥当しないもの、つまり調理が未完了のものなのである。
一方で、一見すると生焼けの串焼きと同じ様に見えなくもない、「ほとんど生」の「白くした肉」と「乾かした肉」とが、調理途中のものではなく、あくまでも完成した料理と認められるのは、それが上の四項関係、直接(間接ではなく)、近くで(遠くではなく)火を通したもの、という四項関係の一極におさまることができるからである。
フライ!
さて、ここでさらに、次なる調理法が登場する。
揚げ物である。
揚げたものというカテゴリーを導入するためにはより複雑な変換を使わなければならない。レシピの三角形にかえて、空気と水の軸にさらに油の軸を加えた三つの軸を有する四面体が必要となる。
網焼きが頂点にあることは変わらないが、燻製と揚げたものを結ぶ稜線の中央に竈で焼いたもの(油脂分を付加したもの)を置き、これが串で焼いたもの(油脂を使わない)と対立する。
同じように、揚げたものと煮たものを結ぶ稜線のうえに蒸し煮(水と油に沈めて煮たもの)が位置し、蒸気で蒸したもの(油脂を使わず、水面から離れたもの)と竈で焼いたもの(油脂を敷き、水を用いない)が対立する。
「より複雑な変換を使わなければならない」という予告はいかにも恐ろしいが、丁寧に読み解いてみよう。
空気の軸(空気中での、火と食材の結合)
水の軸(水を介しての、火と食材の結合)
油の軸(油を介しての、人食材の結合)
ここまで、空気の軸と、水の軸はすでに登場したが、新たに「油の軸」が出現する。そして油の軸上に配置される料理(竈で焼いたもの(油脂分を付加したもの、油脂を敷き、水を用いない))が、空気の軸上と水の軸上に配置される他の料理と、ある観点では異なるが別の観点では同じ様相をもつもの、として分離しながら結合する。
関係が項に先行する!
一番重要なことは、下記のような二重の四項関係、マンダラ状のパターンを描くように付かず離れずに伸縮し続ける、分離していることと結合していることを分離しつつ結合する動的な関係である。この対立関係が際立ち、対立関係どうしの異なるが同じ、同じだが異なる、という関係がはっきりするのであれば、関係を表現する八項が「何であるか」は、何でも構わないのである。

そうして対立関係の対立関係の対立関係は、経験的で感覚的な世界のなかから様々な、ありとあらゆる対立関係にある二元的なもの、ペアを探し出しては、似ているか似ていないか、非同非異、同一性/差異性という対立軸上で対立関係どうしを分離したり結合したりして対立させるのである。
マンダラの八項については、
それぞれが「何であるか」よりも、
「どのように対立関係が非同非異で分離したり結合したりしているか」を問わなければならない
なかなか理解が困難なところであるが、要するに押さえておきたいポイントは、複数の料理が、その調理法、火との関係が直接的か間接的か、火との距離が近いか遠いか、高耐久か低耐久か、といったいくつかの経験的感覚的な軸上で、異なるが同じ、同じだが異なるものとして、ぞれぞれの間の距離を伸縮させる(同じなら近い、異なるなら遠い)ようにして、対立関係が織りなす構造体を浮かび上がらせているということである。

あらゆる経験的感覚的対立を集めていく
非同非異のアルゴリズム
この対立関係の構造体はありとあらゆる経験的感覚的な対立を、異なるが同じ、同じだが異なることとして取り集めていく。
モデルにさらにべつの次元を付加することで、通時的な側面、たとえば食事の順序、見せ方、身のこなしといったことを組み込むこともできよう。
この点から見ると、エルメンドルフとクローバーが大まかに描き出した、 北アメリカ西海岸のトゥワナ族とユーロク族の食事の順序の比較表がたいへん興味深いものとなる。そこには一連の対比が見いだされるのである。
すなわち、規則正しい食事と不規則な食事、順次出される料理と同時に出される料理、一定の種類の食べ物のあいだの両立可能性と両立不可能性、いっぽうの部族における大食い競争と、他方の部族におけるそれに代わる財の競い合い等々である。こうした対比を、男と女、家族と社会、村と森、節約と浪費、貴族と平民、聖と俗など・・・・・・の、食べ物に関わらない、社会学的な、経済的な、美学的なあるいは宗教的な対比に重ね合わせることができるのは疑いない。
こうしてそれぞれ個別の事例に即して、ひとつの社会の料理が、その社会が無意識のうちにその構造を表明する、さもなければその矛盾を同じように無意識のうちに自ら暴いて見せる言語となっているということが発見できるだろうと期待しうるのである。
さまざまな対比
男/女
家族/社会(家庭内と外の社会)
村/森
節約/浪費
貴族/平民
聖/俗
食べ物に関することから、社会学的、経済学的、美学的、宗教的、などなど、ありとあらゆる経験的な対比・対立関係を重ねたりずらしたり、重ね方を変化させていったりする。
『神話論理3 食卓作法の起源』もクライマックス
ここから『神話論理3 食卓作法の起源』は、いよいよ最後の節「生きる知恵の規則 III神話のモラル」(p.573)に入っていく。
この節の冒頭で、レヴィ=ストロース氏は食卓作法に、「食事のあいだになすべきことあるいはしてはならないことという、行為の区別」言及する。
前章の脱線は、神話が提示している串焼きと煮たものといった対立が、どれほど豊かで創造性に富んだものかを示すことができたとすれば、許していただけるのではないだろうか。ところが、神話はこうしたレシピを対比し、それぞれをアメリカ大陸の他の例からも知られるような料理のスタイル(『蜜から灰へ』四〇一一四〇三頁お よび注***)と合致した肉の区別すなわち、狭い意味での肉と内臓との区別に結びつけるというだけではない。 神話はさらに串焼きと煮たものを、食事のあいだになすべきことあるいはしてはならないことという、行為の区別にも結びつけるのである。
ものとものとの区別だけではなく、「行為」の区別がある。
なすべき行為 / してはならない行為
この区別である。
このなすべき行為/なすべきではない行為の対立関係の一例として、『神話論理2 蜜から灰へ』に登場した「煮込んだ肉を、コリコリと音を立てて食べなければならない(あるいは音を立てずにたべなければならない」という食卓作法がある。
ブラジル中央部のティンビラ族の神話は、まだ思春期に達していないという意味で性的に特徴づけの弱い男の子が、妻が妊娠中の夫婦のもとに招かれ、焼いた肉を音を立てずに噛まなければならなくなるというも のであった。北アメリカの平原部のアラパホ・インディアンの神話では、いくつかのヴァージョンでたいへん魅力的な妻という意味で強く特徴づけられ、すべてのヴァージョンで身ごもったかあるいはまさに身ごもろうとしている女性が、両親とそのふたりの息子からなる家庭に迎えられて、煮た内臓を噛んで音を立てなければならないことになる。
食事中になすべき行為としてはならない行為とが、ブラジル中央部の神話と、北米平原部の神話が、見事に逆になっている。
・性的に特徴づけの弱い男の子が
・妻が妊娠中の夫婦のもとに招かれ
・焼いた肉を音を立てずに噛まなければならない
→なすべき行為
・性的に特徴づけがはっきりした女性が
・ふたりの息子からなる家庭に迎えられ
・煮た内臓を噛んで、音を立てなければならない
→してはならない行為
そしてこの、食事中になすべき行為/してはならない行為の対立が、男/女、性的な特徴の強/弱、といった他の婚姻規則や親族体系として表現される対立関係に、つまり、誰と誰が結婚することができ、誰と誰とは結婚することができないのかを規制する親族体系に、重なりあっていく。
食卓作法から親族体系へ
経験的に意味ある世界を生成する意味分節システムを発生させるマンダラ状の分節アルゴリズム
ここで親族構造を生成していく分離する動きと結合する動きの規則的交代が織りなすアルゴリズムと、食卓作法(食事中になすべき行為/なすべきではない行為)とが重なり合うことは、食卓作法もまた、私たち人類にとって意味ある世界の経験を可能にする根源的な二項対立関係である、分離と結合の対立、分離することと結合することの対立、異を一にする・一を異にする、一と異を結合したり分離したりするゲート(門)を開/閉するような、二つの動きを区別しようとする動きの様相、述語的様相なのだということを知らせているようである。
食卓作法は、よくよく考えると、分離と結合の伸縮に満ちている。
食事は、人間の体の「外」にあったものを「内」へと結合することであり、つまり分離を結合へと転換する述語的様相であるが、この分離を結合に転じる動きに、他のいくつもの分離を結合に転じる動きや、結合を分離に転じる動きが重畳していく。
・食べ物に手で直接触れてはいけない :結合の禁止。分離
(道具を使って口に運ばなければならない)
・熱いものと冷たいものを飲んではならない :結合の禁止。分離
(ぬるいものだけを飲まなければならない)
・生のものを食べてはいけない(直接/間接の分離?)
・煮たものを食べてはいけない(直接/間接の分離?)
・酸っぱくなったものを食べてはならない(体内/外を分離)
逆に、なすべき行為としては、
・火のよく通ったものを食べなければならない。
・肉でも魚介でも野菜でも、よく乾燥したものだけを食べねばならない。
などなど、いずれも分離と結合の対立、分離を結合に転じることと結合を分離に転じることとの区別、対立が問題になっている。
このように、分離することと結合することとの対立関係の編み方の具体的な「事例」を通して、私たちはその向こうに「無意識」が表層意識の一番層に動的「構造」のパターンを浮かび上がらせる様を、イメージや、言語で、思考することができるようになる。

*
上の引用文中でレヴィ=ストロース氏は「三角形」や「四面体」という、対立関係が織りなす複雑な構造体を例に挙げているが、こうした対立関係の多重化の先で、対立関係の対立関係を結合したり分離したりする述語の対立にフォーカスして複雑な対立関係の網の目を整理すると、それこそまさに、空海が『吽字義』で論じているような八項関係、述語の対立関係の述語的対立関係の述語的対立の関係がうかびあがってくるはずなのである。
「人間であること」の意味を分節
こうした分離と結合の分離と結合が区切り出す最初で最後の分節は、
自然 / 文化
非-人間であること / 人間であること
この対立であり、より具体的には、人間が人間として生を持続できることと、そうできないこととの分節である。
人間が人間であるということは、経験的感覚的には、何らかの意味で「生きている」ということが必要である。そしてこの生きるということを可能にするために、人間の存在を生/死の対立二極の非-死の側に区切り出し続けるために、「食べる」ということが不可欠である。
そしてその点で「食べる」ということは、生/死がかっちりと分かれ切っていないところで、生/死の間が分離しつつ結合するところで、展開される述語的様相である。人間の食べ物とは、死んだ動物、あるいは死んだ植物である。死んだ動物の肉が、人間に食べることのできない土になってしまう前に、つまり本当に死の極に移行してしまう前に、調理することによって生/死を分離する時間を長/短の軸上で延長し、さらにそうしてできた料理を人間の体の外部から内部に入れることで内/外の空間軸上の分節を区切り出し、そうして「外」に対する「内」としての「人間であること」を再生させ続ける。
自然の魅惑をたもつために、あるいは自然の破壊的な作用を中断するために、自然をしつらえようとする料理は、食べ物を、文化が自らを平常の状態に保つために期待する均衡点よりも手前に押し留めてしまうか、さもなければ逆に、均衡点を越えたところまでいってしまう危険を、常に内包している。
そして料理は、この自然と文化、非-人間であることと人間であることとのあいだで、この両極を媒介する、両義的媒介項なのである。人間の食べるものは、他の動物たちが食べるものと共通であり、自然のものである。この自然のものを文化のものに変換する述語的様相が、料理であり、そして食卓作法である。
分けるから分かれる
分けないと分かれない
料理や食卓作法には、ほんのわずかなずれで、料理を文化よりも自然の側に、即ち「文化が自らを平常の状態に保つために期待する均衡点」の向こう側、自然の側に、留めたままにしてしまう可能性があるし、逆に、この「均衡点を越え」て、ようするに食べることができない状態にしてしまう可能性もある。
食事のきまりを破り、食卓や身繕いの道具の使い方をないがしろにし、 禁じられたおこないをする、こうしたことすべては、宇宙を害し、収穫をだめにし、狩りの獲物を遠ざけ、他者を病気と飢えの危険に曝すことなのである。そして自分自身に対しては、早すぎる老化の徴候を出現させることで人間の通常の寿命よりも短い生をもたらすことなのである。[…]しかし、こうした二種類の制裁が相互に排除しあうものであることに注意を向けなければ、この体系を理解したことにはならない。
分離しておくべきところと結合してしまわないように。
結合しておくべきところと分離してしまわないように。
食卓作法を蔑ろにしないということ、即ち分離と結合を、分離しすぎず、結合しすぎず、つかず離れずに均衡させることで、人間は「人間ではないものーではないもの」として、日々自分の存在を意味的に分節することができる。ここで大切なことは、人間が人間として生きているということは、人間が人間として生きていないことではない、という限りのことだという点である。
+
+ +
+
人間が人間であること、AがAであることは、Aが非Aではないということ、A=非非Aであるということに尽きる。
人間を人間として人間でないことから区切り出すために必要な分離と結合の伸縮の調和が失調した状態もまた、
内的な要因から発する生存の加速化の危険
/
外的な要因から発する、生存の流れの中断
という具合の、対立関係として経験されることに注意しておこう。
人間として生きていることができない状態というのもまた、人間として生きていることができるということと相対的なのである。

分節・・分離と結合の伸縮
あらゆる対立関係は、所与の項がばらばらに単独であるものが、二次的に集められて並べられたものではなく、対立関係を織りなす両極・両項を、互いに“他方ではないもの”として区切り出すこと、結合したまま分離し、分離しながら結合したままにしておくことによるのである。
こうした二元論は、てんでんばらばらに見える規定と禁止の総体が、同時にふたつの展望のもとに組み込まれ整合的なものとならないかぎり、うまく説明がつかない。
空間の視点からすれば、これらの規定と禁止は、同一の軸のうえにある両極に蓄積された潜在的エネルギーが危険なかたちで結合することを回避するのに役立っている。
ひとつの極は、自然の力が宿る極であり、これは通常の状態である。
もういっぽうの極は、生理的あるいは社会学的境遇の変化によって、内的な動揺の舞台となった特定の個体が、一時的にその場を占める極である。
社会的人格と、自然が解き放たれたその身体とのあいだに、そして、この身体そのものと生物的・物理的宇宙とのあいだに、食卓の道具と身繕いの道具が、絶縁体あるいは媒体として有効に働くのである。これらが介在することによって、破壊的な放電が生起することが未然に防がれる。
絶縁体あるいは媒体(半導体)、破壊的な放電、という電気電子工学の例えがおもしろい。破壊的な放電は、分離されているはずの二極の間を一挙に短絡してしまい、そしてこの二極の存在を消し去ってしまうのである。
同一の軸のうえにある両極に蓄積された潜在的エネルギーが危険なかたちで結合することを回避する。
結合しつつ分離し、分離しつつ結合する。
それは経験的には、分けたり、繋いだり、また分けたり。二極の間のゲートを開いて二を一にしたり、またゲートを閉じて一を二にしたり、という半導体的な動きである。半導体は、ただ結合するもの(導体)でもなく、ただ分離するもの(絶縁体)でもない。
両義的媒介項としての述語的様相を呈する半導体・・・。

*
社会的人格と、自然が解き放たれたその身体とのあいだ…
身体そのものと生物的・物理的宇宙とのあいだに…
食卓の道具と身繕いの道具が、「絶縁体あるいは媒体」として有効に働く。
食事の道具、身繕いの道具。
これらは人間であることと人間であることではないこととの間を、分離したり結合したりする両義的媒介項である。
周期性における対立関係へ
ここで分離と結合の調停は、二極のあいだを分けたり繋いだり、二極の間の距離が広がったり縮まったりする、周期的動きとしてもイメージされる。
そしてここでも、レヴィ=ストロース氏は「交流/直流(AC/DC)」という電気工学の分節システムでイメージを描く。
櫛や頭掻きやミトンやフォークなどの媒介の道具が、主体自身とその身体のあいだに介在しない時、白髪や皺などが出現するということはふれた。
その理由は、規則正しく、また、ある意味ではそれ自体によって媒介された周期性だけが、二重の危険からまぬがれることを可能にするということにあるのではないだろうか。
二重の危険とは、ひとつは周期性の不在から生ずる危険であり、神話においては切れ目のない昼あるいは夜という形で表現される。
もうひとつはあまりに速くなりすぎた周期性から生じる結果であり、実際的には同じことになるということは、交流が周期を短くすると直流と見分けがつかなくなるという電流のイメージでしめされているとおりである。
周期性が安定していること、つまり定常的に、ほぼ一定の周期で分離したり結合したりする運動は、分離と結合とがうまく調停されたモードである。この分離と結合が調停されたモード、分離しすぎるでもなく、結合しすぎるでもないモードこそが、私たち人類にとって経験的に意味ある世界が安定的に分節されるモードである。

一方、この周期性が失調することがある。
ひとつには神話が「切れ目のない昼あるいは夜」と語るモード、つまり二極の一方だけが選ばれつづけてしまい、二項対立関係の対立関係を分離したり結合したりして意味分節を動かしていく述語的様相が止まってしまう。
この動きが止まってしまうと、意味ある世界、意味分節された世界は、消えてしまうのである。

神話論理は電気工学で理解できる
あるいは周期性の失調のもう一つのモードとして「周波数が速くなりすぎる」ということがある。これはどういうことかというと、分離した様相と結合した様相が高速に分離と結合を繰り返すため、分離している様相と結合している様相の区別がつかなくなってしまう、ということである。
そうであるからして、分離と結合のあいだを分離する動きと結合する動きは、つまり結合を分離に転じたり、分離を結合に転じたりする動きは、分離モードと結合モードの交代の規則性を保つこと、規則正しく回路を開/閉させるような動き方をする必要がある。

リズミカルな所作
そして食卓作法に関わる食器の使い方や、身だしなみに関わる道具の使い方は、まさにそのような規則的な分離と結合の伸縮をリズミカルに引き起こすようなあり方をすることがよきマナーであるとされることになる。
したがって、食事のとり方、洗練された作法、食卓の道具と身繕いの道具、こうした媒介の手段はすべて二重の機能を果たしている。
フレイザーが理解したとおり、これらは絶縁体あるいは変圧器の役割を果たし、異常に高くなった両極の圧を除去ないしは減少させているのであろう。
ところがそれらは同時に計測の尺度を提供してもいる。
しかし、この第二の場合には、最初の場合とは異なって否定的ではなく、肯定的な役割を果たしている。
こうした媒体の使用が義務づけられることによってそれぞれの生理的過程、それぞれの社会的身振りに、正当な持続が割り当てられることになる。
というのも、つまるところ、よき習慣とは、あるべきことが実現されること、 それも実現されるべきことはけっして早まって実現されてはならない、ということを要求しているのだから。
このようにして、櫛や帽子や手袋や、フォークや、飲み物を吸い上げるためのストローなどの、一見とるにたらぬ物体は、日常生活のなかで与えられた通俗的な使命にもかかわらず、今日にあっても、極端なもののあいだの媒介の役割を果たしているのである。
ある時に一度は意図的に考慮され、計算された惰性を付与されたこれらの媒体は、われわれがおこなう世界との交換を穏当なものに制御し、それに思慮にとんだ平静な飼いならされたリズムを課するのである。
食事のとり方。
洗練された作法。
食卓の道具。
身繕いの道具。
これら「一見とるにたらぬ物体は、日常生活のなかで与えられた通俗的な使命」に従属したもののように見えるが、実はこれらは「極端なもののあいだの媒介の役割を果たしている」のであり、両義的媒介項なのである。
両義的媒介項は、分離する機能と結合する機能、二つの機能を、「二重の機能」を果たしている。
二重の機能。
一方では、過度な結合を分離に転じる「異常に高くなった両極の圧を除去ないしは減少させ」る機能を。
他方では、分離を結合に転じる、肯定的に異なりの間に同じさをもたらすような、「計測の尺度を提供」する、一方と他方を分離したまま結合モードへと共振させる。
この結合を分離に転じることと、分離を結合に転じることとを規則正しく共鳴させることが、つまり分離と結合を伸縮する速度を加速することもなく減速することもなく一定に保ち、またその振幅も一定に保つこと、「平静な飼いならされたリズム」を保つことが、リサージュ図形の一種のようなものとしてのマンダラ状の共鳴体を持続的に浮かび上がらせ、経験的感覚的な現実において意味ある物事の安定性を、その「正当な持続」を可能にするのである。

私たちは、両義的媒介項としての身近な日用品を、思慮深く、作法に則って、規則正しいリズムで使用するとき、知らず知らずのうちに、その「身」において、無意識裡に「マンダラ」状の共鳴体を描き出すことができるのかもしれない(身密の加持)。

* *
「分離すると同時に結合する」
こうしてついに、『神話論理3 食卓作法の起源』の秘密が明らかになった。
本書で出会った月と太陽の小舟のあの神話的なイメージの延長線上にある。あの小舟は、それ自身技術の産物でありながら、おそらくあらゆる技術的な対象に、 そして技術的な対象を生み出す文化そのものに認めなければならない、ひとつの機能を白日のもとに顕現してい る。その機能とは、相互に近づきすぎるかあるいは遠ざかりすぎると、人間を不能状態かあるいは理性喪失の状態に陥らせてしまうことになる諸存在を、分離すると同時に結合することである。
経験的な対立関係の、過度な結合や、過度な分離の固着のモードは、私たち人類の、意味分節体系を柔軟につど生成消滅させる力を抑圧してしまう。
人類の知性の精髄は、だれもが自分自身にとっての意味ある世界を自在に分節し、それを言語や身体やイメージを介したコミュニケーションでもって他者と共有・共鳴させ、さらにその分節の仕方自体を自在に変容させていくことができる点にある。この自在さを保つために、「分離すると同時に結合する」という述語的様相を生きることができる余地を、現世の日常の隙間隙間に開いておかないといけない。

* *
そして次の一文が『神話論理3 食卓作法の起源』の最後の一節である。
さまざまな社会の豊かさと多様性という、 記憶をこえた昔からの人類の遺産のもっとも素晴らしい部分を破壊し、さらには数え切れないほどの生命の形態を破壊することに没頭しているこの世紀においては、神話がしているように、正しい人間主義は、自分自身から始めるのではなく、人間のまえにまず生命を、生命のまえには世界を優先し、自己を愛する以前にまず他の存在 に敬意を払う必要がある、というべきではないだろうか。人類であれ何であれひとつの生物種が、たとえ二百万 /ないし三百万年のあいだこの地上に生きることができたからといって、結局は死滅する時をいつか迎えるのであってみれば、この地上をひとつの物体のように恣いままにし、恥も慎みもなく振る舞うことが許される口実とはならない、ということが必要なのではないだろうか。
私たち人類が、非ー人類に対して振るう「恥も慎みもなく振る舞う」暴力は、その“無作法”は、私たち一人ひとりが人間ではないものではないものとしての自分自身を、心の底から、生きるに値する意味あるものだと思いながら生きることができる現世の日常の時空間を、その意味を可能にする意味分節システムを、次第に蝕んで、消し去ってしまうだろう。
+ +
現代の私たち人類は、自分たちが人類ではないものではないものであり、人類ではないものたちとの関係次第で、自分たちの意味ある存在がゆらゆらと浮かんでくるものなのだ、といった精妙な意味分節の脈動に想いを馳せるやり方を、広範に奪われてしまっているようにさえ思われる。自/他を分け、他を自のためにほしいままにする。空海の十住心論における第一住心の世界である。
とはいえ、そのような自/他を分けて「自」にこだわることができているということ、空海が『秘密曼荼羅十住心論』で論じる第一住心の境地が可能になっているということ自体が、実はそこに、自/他の分離と結合を伸縮させることができる力が、しっかりと動いていることを示している。
今日の人類の現状について、なんというか「手遅れ」的な絶望を感じている方々も大勢いらっしゃることだろう。とはいえ、まだ間に合う。おそらく十分に間に合う。日々食事をし、身支度を整える私たち人類は、対立関係の対立関係の対立関係を編む機能をしっかりと動かしている。

あとはチューニング次第なのである。
過度な分離と過度な結合に固着するモードから、マンダラ状にリサージュされた付かず離れずの対立関係の共鳴体を伸縮させるモードへ。

そしてなにより、私たち自身の心が、表層意識の分別心はともかくとして、深層の無意識は常にこのマンダラ状の調和のモードで振動を引き起こそうと動いている。
調和した振動モードを取り戻そうとする私たちの心の深みは、毎夜毎夜、いや、昼間であっても、私たちが眠っているあいだに、「夢」という形で、表層意識の分別心で自/他を分けて「自」にこだわってやまない私たちの自覚的な自我に対して、調和モードへのチューニングの鍵となる両義的媒介項たちを送り続けているのである。
* *
以上、2年ほどかけて、『神話論理3 食卓作法の起源』を最後のページまで紐解きました。まだ十分に理解できいない部分が多く、心苦しい限りです。
次回から引き続き、『神話論理4 裸の人』を読んでいきます。

つづく
関連記事
ここから先は
¥ 330
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 いただいたサポートは、次なる読書のため、文献の購入にあてさせていただきます。
