神話的思考における意味分節の初期構成単位の発生 〜 内/外、入れる/出す、入口/出口、開く/閉じる -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(101_『神話論理3 食卓作法の起源』-52)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第101回目です。
『神話論理3 食卓作法の起源』の最終章「「生きる知恵の規則II 料理民俗学小論」を読みます。これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。
前回の記事はこちら
はじめに
この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」を、空海が『吽字義』に記しているような二重の四項関係(八項関係)をマンダラ状のものとして見立てて読んでみる。いや、マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たちが共鳴する“コト”と見立てて読んでみる。
経験的な区別が概念の道具となる
レヴィ=ストロース氏は大部の『神話論理』の第1巻の冒頭に次のように書いている。
「生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」
経験的感覚的な区別(分別)を概念の道具として、観念を抽出する。
仮に下図に示す「Δ」を最小で二つ、つないだもの(Δ1=Δ2)をひとつひとつの「観念」だと思っていただこう。

上の図のΔ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別される項である。例えば、
Δ1 寒い / Δ4 寒くない
|| ||
Δ2 わるい / Δ3 わるくない
といった具合になる。私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界とは、このような二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている。
人類は「経験的区別」を実行する機械のような仕組みとしてできている。
Δ自 / 他Δ
Δ生 / 死Δ
Δ好き / 嫌いΔ
Δ内 / 外Δ
Δ因 / 果Δ
Δある / ないΔ
Δうまい / まずいΔ
Δ高い / 安いΔ
Δ遠い / 近いΔ
そして抽出された観念をつなぎ合わせる(意味するものと意味されることとの一対一の静的ペアをリニアに連鎖させる)。「その観念をつなぎ合わせて命題にする」のである。
Δ1,1ーΔ1,2ーΔ1,3ーΔ1,4ーΔ1,5ーΔ1,6ーΔ1,7ーΔ1,8
|| || || || || || || ||
Δ2,1ーΔ2,2ーΔ2,3ーΔ2,4ーΔ2,5ーΔ2,6ーΔ2,7ーΔ2,8
このような配列を生成することが、一体「どのようにしておこなわれるか」。
意味は自在に変容する
人間の言葉は、同じ一つの「意味されるもの」を、実に多様な「意味すること」に次々と置き換えていくことができる。
「意味すること」=「意味されるもの」
記号=意味内容
→この関係を自在に組み替えることができる。
記号になりうるものと意味内容になりうるものを、次々と結合したり分離したりする。
◇
例えば、下記のように配列される意味分節の最小単位があるとする。

同時に、Δxを非Δx(Δ-x)と区別する。
この二つの区別が行われていることを前提として、Δ1をΔxを「異なるが、同じ」ことであるという関係に置く。Δ1とΔxをたがいに置き換え可能にすると言ってもいい。
私たちが経験的な世界を意味あるものとして経験するとき、こういう四つのΔの関係がいつも立ち上がっている。
私たちが言葉を紡ぐ時、Δ1、Δx、Δ-1、Δ-x 四項のうちのひとつ、たとえば Δ1だけを意識の表層へと引っ張り出す。
そして他の四項関係から同様に引っ張り出されてきた四極のうちの一極を占めるΔ2→nたちを、順番に一列に並べていく。
Δ1 ー Δ2 ー Δ3 ー Δ4 ー…
このリニアな列が、私たちが普段喋ったり、聞いたり、読んだり、書いたりしている言語の姿である。GPTのような生成AIの「T(Transformer)」がシミュレートしているのもこのリニアな列の、ありうる可能性が高い並び方である。
*
ところで前述のようにΔ1、Δ2、Δ3、Δ4はそれぞれその対立関係を組む「相手」を持っていた。

また、Δ1、Δ2、Δ3、Δ4はそれぞれparadigms軸上で、潜在的に「異なるが、同じこと」として言い換え可能な、多数の語(Δ1,1→n Δ2 ,1→n Δ3 ,1→n Δ4 ,1→n )とも繋がっている。下図中「=(||)」で表現した関係である。そしてまた、この「多数の語」(Δ1,1→n Δ2 ,1→n Δ3 ,1→n Δ4 ,1→n)たちも、それぞれに「/」でつながる対立関係を組む相手を持っている。

* *
人間の言語の場合、この図に示す「/」と「=」を、そしてもちろん「ー」を、特定の二つのΔの間だけに成り立つこととして限定することもできれば、自在に任意のΔとΔの関係を生み出すこととして緩めることもできる。
人間の言語の潜在的な可能性としては、ありとあらゆるΔ同士が「/」で繋がりつつ分かれる可能性もあれば、「=」で分かれつつつながる可能性もあるし、「ー」で分かれつつつながる可能性もある。
人間にとっては、「/」も「=」も「ー」も、すべて大切である。
このどれが欠けても(あるいは膠着しても)、意味分節の最小単位(Δ=Δ)を産みつづけることは難しくなる。

私たちの深く広い「心」は「/」と「=」と「ー」を次々と切り替えることができるが、特に「Δ1ーΔ2ーΔ3ーΔ4ー…」、たとえば「きょうーは、ーあめーが、ーふってーいる」、という具合の「ー」すなわち形態素を順番に線形に繋いでいく処理は、意識的なプロセスである。つまり無意識的ではない。
一方、「きょう」と「非-きょう」を分節する「/」や、「きょう」と「きょうが一体どういう日であるか」の言い換え先になりそうな、他のあらゆる語をつなぐ「=」は、しばしば無意識的なプロセスになりがちである。
ここで意識的な言葉の連鎖の「ー」を組み合わせて、「/」と「=」の分離したり結合したりする動きをシミュレートしたものが「マンダラ」であり「神話」である。
神話の論理を伸縮するマンダラとしてモデル化する
神話は、語りの終わりで、いくつもの「Δ」たちをたがいに分離しつつ、過度に分離しすぎない程度に付かず離れずに結びつけておくことを目指す。

人類の「野生の思考」、神話や夢や、マンダラ状のイメージを浮かび上がらせる精神の意識下の運動は「/」と「||」の動きをふるわせ、Δ二項対立とその重ね合わせを可能にする。
このΔ1〜Δ4を区別できないところからはっきりと区別できる状態にまで切り開き分けつつも、バラバラに飛び散ってしまわないように結びあわせ、しかし過度にくっつきすぎて区別できなくなることはないように均衡させておくということが、私たち人類にとって意味ある世界が意味ある世界であるために必要な意味分節の最小構成単位(二重の二項関係=四項関係)をつくる動きである。
* *
神話の語りは、語の線形配列をブリコラージュして、マンダラを描く
意識的な言語の「ー」がつなぐ連鎖を用いて、「/」と「||」の無意識的な動きを仮にシミュレートするために、神話として現れる「野生の思考」は、Δ1〜Δ4を分けつつつなぐように動く、四つの媒介者たちを登場させる。
先ほどの図で言えば、四つのΔたちの間に挟まって描かれている、四つのβ。この四つのβがΔたちを分けつつつなぐ媒介項である。
/
|| ||
/
↓
←β→
↓ ↓
β β
↑ ↑
←β→
「/」と「||」は同じ動きの二つの異なる様相である
(真逆に対立する熟語のペア)。
すなわち「/」は伸縮の「伸」の方に対応し、
「||」は伸縮の「縮」の方に対応する。
両義的媒介項(仮にβと表記しておく)は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている。いうまでもなく、そのようなものたちは、私たちの経験的感覚的には「存在しない」。この経験的感覚的には「存在しない」ことをあえて言語化することが野生の思考にとっては重要なのである。
両義的媒介項のペアのペアが伸縮する
神話は、そもそも何かが「存在する / 存在しない」を分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。つまり何かが存在するとか存在しないとか、そういう分別ができるようになる「手前」のことを思考しているのである。
そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(上の図ではΔに対するβ)という。
両義的媒介項たちの距離の伸縮を表現する述語
神話では、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つのβ項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。
任意のβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり縮んだり
任意のβ二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり縮んだり
2または3、または4つの任意のβ項が中央の一点に集まったり広がったり
という具合に、β項間の距離を伸縮させる振動(振幅を描く動き)が起こりる。

私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その名、その主語的なあり方(Δ、「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれらの主語的なものたちは、あくまでも引き離したり近づけたり、分離と結合の伸縮を自在にする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である。

主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている。ここでいう述語と主語とは、既成の文法単位のことではなく、前言語的テンソル場における歪みとその沈殿といったことである。

私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。
分別心の表層意識に浮かぶ所与の諸要素たちをかっちりとした構造体として配置したように感じられる意味分節システムは、実は脈動する波の伸び縮み(周期的に反復される振動の周期T[s]が伸び縮みすること)を瞼を細めて薄目で眺めたようなものである。

神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験することを可能にしている分別(ふんべつ)、あるいは意味分節のパターンが、あれこれさまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にするし、またそうした分別、意味分節のやり方を相当程度自覚的に自在に組み立てることをも可能にするのである。

火による調理と消化
前回の記事では「大洪水」の神話をみた。
大洪水の神話は、現在の意味ある世界が起源する前に、一度大洪水がほぼすべてを呑み込んだ、という話になる。その大洪水のその苦難を生き延びたごく少数の者たちが、現にある世界の創始者になる。

下記の図式でいえば、大洪水は1)のモードのことを語ろうとしている。

この1)のあと、大洪水の後に、2)では「生き残った兄と妹が結婚する」といったぐあいに、経験的感覚的に分離しているところを過度に結合するようなモードが語られ(ββ)、あるいはまたこうして過度に結合した両儀的媒介項がすぐさま過度な分離に転じる、といった伸縮する動きが語られる。


神話の語りは、そのはじまりから終わりへと展開しつつ
1)近すぎる
2)離れすぎている
3)適切な距離にある
この三つのモードを切り替えていく。そうしていくつかの基本的な対立関係が、その両極が、過度に結合するでもなく、過度に分離するでもない、付かず離れずの距離感に落ち着いたところで、

この関係が定常的に維持されるようになり、そこにはじめて、人間にとって経験的に意味のある世界、つまり「異なるが同じ」で言語的に意味分節できる世界が収まる余地が開く。

生のもの/火を通したもの
↓
蜜から灰へ
↓
調理すること→食卓作法→消化すること
『神話論理3 食卓作法の起源』の最終章、543ページからの「生きる知恵の規則II 料理民俗学小論」を読んでみよう。この章の直前にはつぎのようにある。
最後に意味論の側面の検討が残されている。ここでもまた変形が生起している。第一巻の表題となった「生のものと火にかけたもの」の対立は料理の不在と存在との対立であった。第二巻では、われわれは料理の存在を想定したうえでその周辺(entours)を探索した。すなわち料理の手前にある蜜と、料理の向こう側に位置するタバコに関する慣習と信仰である。同じ方向にしたがいつつ、この第三巻では料理の輪郭 (contours)をたどった。すなわち料理の自然の側に位置する消化と、文化の側に位置する調理法から食卓作法までの広がりとである。じっさいのところ、これらはふたつの秩序に属している。というのも調理が自然の素材を文化的に加工する方法を規定するのに対して、消化はすでに文化によって処理された素材を自然に加工することであるとすれば、対称的な位置にあることになるのだから。食卓作法について言えば、それは調理の仕方に上乗せされた摂取の作法であり、ある意味では二乗された文化的加工とも見なすことができる。この巻で検討された神話が、消化と料理法と食卓作法との三位一体の理論を分節していると、どのような仕方で、そのような意味で言うことができるのだろうか。 結論に代えてそのことを明らかにしなければならない。

Δ生のもの / Δ火を通したもの
|| ||
Δ非料理 / Δ料理
という二重の対立関係、四項関係に焦点が絞られた。
*
そして『神話論理2 蜜から灰へ』では、
蜜 / タバコ
この対立にスポットライトがあてられることになった。
蜜というのは、「生のもの」のまま「料理」の仲間として、料理の一種として一緒に食べることができる。逆に蜜は「火を通して」しまうと、火で炙ってしまうと、すぐに燃えて煙をあげて、焦げを残し、食べられなくなってしまう。いや、無理に口に入れることはできるかもしれないが、美味しいものではない。料理からから遠ざかってしまう。つまり非料理に近づいていく。
蜜は上に示した四項関係、
Δ生のもの / Δ火を通したもの
|| ||
Δ非料理 / Δ料理
この関係の左上と右下を短絡し、また右上と左下を短絡し、下記のように捻る。
Δ生のもの / Δ火を通したもの
|| ||
Δ料理 / Δ非料理
Δ料理とΔ非料理の向きが逆なっていることに注目しよう。


蜜から灰へ
ところで、この「蜜」と経験的感覚的に対立するもの、蜜の「逆」であるのが「タバコ」である。
蜜 / タバコ
タバコは、火をつけると、蜜と同じようにすぐに煙を上げて、灰を残す。タバコもまた蜜と同様に、火を通しても、ステーキのようなものになったりしないし、焼き芋のようなものになったりはしない。この点でタバコは蜜と同じ、すぐに燃えて煙になるものである。
しかし、タバコの煙には味がある。
タバコの煙は口で賞味できるものである。火を通すと良い香りを発するタバコは、まるで料理とそっくりである。いや、料理とそっくりとは言えないかもしれないが、少なくとも咳き込むような焦げ臭い匂いと比べれば、タバコの良い香りはどちらかといえば「料理に近い」ものである。とはいえもちろん、タバコの煙は咀嚼して嚥下するようなものではないという点で、料理とは違う。タバコの煙は強い味をもっているが「料理の向こう側」である。
つまりタバコは、蜜が逆転した料理/非料理の関係を、再びいわゆるステーキや焼き芋のような料理と同じ向きに戻しかけている。
<<いわゆる料理>>
Δ生のもの / Δ火を通したもの
|| ||
Δ非料理 / Δ料理
↓
<<蜜>>
Δ生のもの / Δ火を通したもの
|| ||
Δ料理 / Δ非料理
↓蜜から灰へ↓
<<タバコ>>
Δ生のもの / Δ火を通したもの
|| ||
Δどちらかといえば非料理' / Δどちらかといえば料理'
そして『神話論理2 蜜から灰へ』にあるように、神話ではしばしば、この「蜜」と「タバコ」が対に、ペアに、付かず離れずの異なるが同じようであり、同じようだが異なる、という関係に入る。まさに蜜から灰へ、灰から蜜へ、両者は一方から他方へ次々と変容していく。
蜜 =/= タバコ
その時、この蜜とタバコのペアは、
Δ生のもの / Δ火を通したもの
|| ||
Δ料理 / Δ非料理
と
Δ生のもの / Δ火を通したもの
|| ||
Δ非料理 / Δ料理
この二つの四項関係、Δ料理とΔ非料理の向きが逆である二つの四項関係同士を、異なるが同じようであり、同じようだが異なるモードへと引き込み、巻き込んでいくのである。

二つの四項関係が対立するとマンダラになる
四項関係が対立関係の対立関係だとすると、さらにその対立関係は、対立関係の対立関係の対立関係になり、つまり2×2×2の八項関係になる。

*
蜜
||
/
||
灰
この様子を仮に、四項関係をまるごと括弧にいれて対立させて描くと、下記のような具合になる。上の四項関係が「蜜」で、下の四項関係が「灰」である。
Δ生のもの / Δ火を通したもの
|| ||
Δ料理 / Δ非料理
||
/
||
Δ生のもの / Δ火を通したもの
|| ||
Δ非料理' / Δ料理'
ここで両方の四項関係に共通している項を探してみると、すぐにわかる通り「Δ生のもの」と「Δ火を通したもの」は上の四項関係にも含まれているし、下の四項関係にも含まれている。Δ料理とΔ非料理、Δ非料理'とΔ料理'を、まとめて「Δ料理に近い」と「Δ非料理に近い」に集約すると、これらもまた同様に、上の四項関係にも下の四項関係にも含まれていることになる。
そこで共通する項を括り出していくと、
生のままで料理に近い =/= 生のままでは非料理に近い
|| ||
/ /
|| ||
火を通すと非料理に近い =/= 火を通すと料理に近い
という関係が出てくる。蜜とタバコの関係は、一見すると二項の対立関係にみえるが、実はこのような四つの事柄の関係になっている。
そしてこの四項関係をなす四つの事柄、
・生のままでも料理に近い
・火を通すと、非料理に近い
・生のままで非料理に近い(が、そもそも食材ではない)
・火を通すと料理に近い(が、料理ではない煙)
これらは、当初の四項関係が織りなす意味分節の基本単位「Δ生のものはΔ非料理である」、「Δ火を通したものはΔ料理である」からすると、そのどちらからも微妙に「ずれた」位置にあるものである。

灰は「(火を通していい香りがしているという点で)料理なのに料理ではない」、蜜は「非料理なのに非料理ではない」ものである。
従って、蜜と灰は、「Δ生のものはΔ非料理である」と「Δ火を通したものはΔ料理である」の対立関係に対しては、そのどちらでもなく、どちらでなくもない、という両義的媒介項の位置をとることになる。
β灰:火を通した料理なのに料理ではない
↑
「Δ生のものはΔ非料理である」/「Δ火を通したものはΔ料理である」
↓
β蜜:火を通さない非料理なのに非料理ではない
蜜と灰という、それ自体は極めて経験的で感覚的なものを、「Δ生のものはΔ非料理である」/「Δ火を通したものはΔ料理である」という対立関係の隙間に挟み込んで回転させることで、両義的媒介項の変容させる。これが『神話論理2』のおもしろいところである。
* *
『神話論理2 蜜から灰へ』では、野生の思考の神話の論理が、経験的感覚的な区別をブリコラージュして両義的媒介項βを作り出す様子を観察することができた。


分離する述語的様相から結合する述語的様相へ、さらに分離する述語的様相へ
そして『神話論理3 食卓作法の起源』では、この両義的媒介項が、その主語的な様相のもとのじっとしているのではなく、お互いに近づいてるところから離れたり、離れたところから近づいて行ったり、分離した様相と結合した様相の間で繋がったり分かれたりまた繋がったりと伸縮するように動く様相が観察された。
すなわち、上の引用にある「文化の側に位置する調理法から食卓作法までの広がり」と「料理の自然の側に位置する消化」の対立、つまり、自然的なものを文化的なものへと変換する動きと、その逆の、文化的なものを自然的なものへと変換する動き、この二つの真逆に対立する動きのペアにスポットライトがあたったのである。
→<調理する>→
自然 文化
←<消化する>←
そしてこの『神話論理3』の「結論」として、「消化」することと「料理」すること、そして「食卓作法」という述語的様相が、どのような動的構造を描き出すのかが示されるのである。
というわけで『神話論理3 食卓作法の起源』の543ページに進もう。ここで話題になる対立関係は内/外の対立である。
内/外の対立関係を分離しつつ結合する述語「食べる」
うちとそとの対立は、人間にとっては経験的世界を織りなす最も基本的な区別である。

人間は、自分の身体「内」に閉じ込められている。
あるいは「私」とは皮膚という境界面によって内側を外側かが区別することで、その存在を保っている。
この身体の内/外の区別が脅かされる時、私たちはしばしば生命の危機に晒されることになる。例えばバイソンの角で突かれてしまうとき、バイソンの角という「外」のものが私たちの身体の表面を破壊して「内」に入り込み、その突き破られたところから身体の「内」側が「外」に出てしまったり、といったことである。
内/外の対立関係をはっきりと維持していることは、私たちが生/死を分離して、生の側で生きているということそれ自体にも等しい重要性をもつ。

しかしながら、よくよく観察してみると、人間の内/外のあいだには、じつは通路が開いたり閉じたりする。
入口/出口
開/閉
それは人間の身体においては、一つは口から食べること、そしてもう一つは排泄することである。
人間は食べるということにより、「外」を「内」へと繋ぐことができるし、そうしなければならない。また人間は排泄により「内」を「外」へと接続するし、そうしなければならない。
人間の経験にとって内/外は、はっきりと分かれていなければならないと同時に、接続され、通路を閉じたり開いたりできなければならない関係である。
そうであるからして、内/外の対立関係を分けつつ繋ぎ、繋ぎつつ分ける動きの述語的様相を、いかにして経験的感覚的な区別を用いてイメージし、思考するか、ということが神話の思考の主要なテーマになるのである。

内/外の区別を曖昧にする両義的媒介項たちの動き
内/外の分けたり繋いだりする話は、しばしば洪水の神話にも登場する。
前回の記事でみた神話「M512-515 マンダン 起源神話(断片 洪水)」では、主人公である部族の祖先たちが、遠く海の向こうの世界に住む人々を騙し、その宝物を持ち帰ったことで、洪水が引き起こされたという話になる。
前回分析した神話では、この騙す方法が、内/外の区別を裏返してしまうことなのである。即ち、主人公たちは、海の向こうの部族から宝物の貝殻を分けてもらう代わりに、腹が破裂するほど大量のご馳走を食べなければならないという試練を課される。この試練を乗り越えるため、主人公たちは、隠し持った「中空の管」の中にご馳走を放り込むことで、実際には食べていないのに、さも食べているかのように見せかけるのである。これをレヴィ=ストロース氏は「消化管の代わりに中空の葦の茎を用いて、食べ物を身体内に残さず外へ出してしまう、いいかえれば消化の過程を経過しないようにするという[…]悪知恵」(p.546)と書く。
これは内/外の区別を撹乱している。
通常「食べる」ということは、「外」にある食物を体の「内」に取り込む、内に入れる、ということである。食べ物が「外」から「内」へ移動する。
しかし、「中空の管」の中に食物を放り込んでしまうと、食物は「外」から「外」に移動しているだけである。「内」には入っていない。しかし、見かけ上、さも「内」に入れたかのように見せかける。
内に入れたとみせかけて、実は外に出している。
入れると出す。この対立が短絡し、どちらがどちらかわからなくなった時、内/外の対立もまた曖昧になる。内/外の分別が揺らぐのである。
この内/外の対立がよくわからなくなった状態が「大洪水」である。

内/外の撹乱あれこれ
レヴィ=ストロース氏によれば、他にも例えば、“バイソンを狩猟した人々が、解体したバイソンの「内」から取り出した内臓を、バイソンの子の頭の上(つまり体の「外」)に飾って群れへと送り返した”という行いが、バイソンの神の怒りを買い、大洪水を寄越された、とする神話もある。
狩人たちが「動物に対して禁止されている行為」を行ったことが大洪水のきっかけになる、という考えをめぐって、レヴィ=ストロース氏は次のように論じている。
われわれは罪と見なされる行為の核心をなすものを取り出すだけで満足しておこう。鳥の羽をくちばしに刺し込むということは、狩人が後ろにあるべきものを前に、外にあるべきものを内に置くということである。逆に、 母バイソンの内臓をその子であるバイソンの背に乗せるということは内にとどまるべきものを外に置くということである。
ところで洪水の神話のべつのヴァージョンでは、マニガ族のインディアンの行為は同じタイプの形式的な構造をしめしているように思われる。すなわち中空の管を用いるという知恵によって、あまりの量があるた普通なら外に置かれたままになるべき食べ物を、消化しているかのようにみせかけて騙す(中に収める)のである。
前/後の対立関係に対して、後ろにあるべきものを前に置く。
内/外の対立関係に対して、外にあるべきものを内にに置く。
内/外の対立関係に対して、内にあるべきものを外に置く。
レヴィ=ストロース氏はこれを「内と外の弁証法」(p.545)と呼ぶ。
前/後、内/外といった、経験的感覚的に安定して定まっているべき対立関係に関して、あるものが通常あるべき側から、反対側へと移動するといった事態は、世界の安定的な意味分節体系を崩壊させ、未分節そのものである洪水に飲み込まれたような状態である。

*
あるいは内/外をひっくり返すことを、「動物に対して禁止されている行為」に及ぶという罪深いやり方ではなく、適度に調和の取れた礼儀正しいモードで行えば、それは大洪水とは逆に、大河を安全に渡ることを可能にすることもある。
ミズーリ川を泳いで渡るまえにアシニボイン族は棒にバイソンの腸と脂身と膀胱をくくりつけ、「わたしを滞りなく渡したまえ、風を起こすことなく、痛い痙攣でわたしを麻痺させることもなく」と唱えてそれと水底につき立てる (Denig. p. 532)。この特徴的な供物が、平原インディアンたちの典礼において、装飾を施し彩色されたバイソンの頭に、狩人を角で突く(いいかえれば内臓を飛び出させる)ことのないよう乞うことと対立項をなしているのではないか確かめることは興味をそそる問題である。
あるいはまた、「洪水」自体も、必ずしも一概に悪いことではなく、「よい点」もあると考えられるという話も出てくる。
水の主たちは、内臓の供物とりわけ大腸の切れ端がお気に入りだった (Bowers 2, p. 360.373)が、そのいっぽうで、 恐れられていた川の増水は少なくともひとつだけはよい点があった。すなわちマンダン族の人々が新鮮な肉よりも好んでいた(Neill, p. 383)、大好物である死んだバイソンを流れに乗せて運んでくることである。じっさい彼らは肉が半ば腐るまで、狩りの獲物を吊るしておくのが普通だった。[…]ある神話(M、Bowers 1. p. 355)はこの体外での、つまり水中での事前の消化にインディアンが高い価値を与えていたことを裏づけている。
川の増水が、川の流れの中で「半ば腐」り、皮が破れて「内」から脂身が露出した状態のバイソンという恵みの糧を運んでくる、というのである。
体外での事前の消化・・内/外の裏返し
この川を流れがバイソンの肉を腐らせつつあることを「水中での事前の消化」と表現しているところがおもしろい。通常「消化」は、人間の内/外を区別したうえで、その「内」で行われる。もちろん考え方によっては、消化管は身体の「外」であるとも言えるのであるが、口から入った食べ物の姿が見えなくなるという点では、消化管に入れることは「外」から「内」に入れることだと考えておこう。
それに対して、川の洪水のなかで半分腐敗しつつある肉は、そういう消化が、「川」の水の流れの中で、つまり人間の体の「外」であらかじめ始まっている、ということになる。「水は、食物の変形を外でおこなうのに対比すれば、人間の身体は消化の過程によって内で食物の変形をおこなう」のである(p.547)。

内/外の区別を裏返す動きは、神が人になるほどの、強力な転換・媒介作用をなす
「水中での事前の消化」が登場する神話として、次のようなものがある。
造化の神、唯一の人がインディアンたちのもとに再生することを決めたとき、処女によって懐胎するのにたいへん苦労することになった。さまざまなやり方に失敗した後、造化の神は以下のやり方でようやく成功する。すなわち、日差しのもとで畑仕事をして喉が渇いたひとりの若い女が川に水を飲みにゆく。それはちょうど増水の時期で、水はヤナギのところまでとどいており、死んだバイソンを運んでくる。背の皮膚はすでに破裂していて、腰の部分の脂身がはみ出しており娘はそれが欲しくてたまらなくなる。娘は死骸を岸に引き上げ脂身を食べ、こうして妊娠したのである。
季節的な増水により、陸地を飲み込んでいる川、つまり水/陸の対立関係がどちらでもあってどちらでもない両義的媒介モードに変容しているところへ、内/外の対立関係についても、すでに「内」で進行すべき消化が「外」で進みつつある半分腐りかけた肉が流れてくる。この川で事前消化中の肉も、内/外の対立関係について、どちらでもあってどちらでもない両義的媒介モードにあるものである。
増水して陸地を覆うβ川と、体の外で事前消化中のβ肉とが、結合している。
ββ
この過度な両義的媒介項どうしが過度に結合した様相が、神が人間の「内」へと入り込むことを可能にし、神が人間に生まれ変わる、つまり神が人間になるという、神と人間という遠く分離して対立する二極の間の結合をも媒介するのである。
β神
β川 × β肉
β人間
ここで体外から体内へ、一貫して「食べること」が、内/外を分離しつつも結合する機能を果たしていることに注目しておこう。
述語「食べる」は、内/外という人間にとって経験的で感覚的に意味ある世界を分節するもっとも基本的な対立関係を調停する(付かず離れずに分離しつつ結合する)ときに、とても頼りになる述語なのである。
*
食べることができない
開/閉が「閉」一択になってしまう
入口が開かない
この「食べる」と対立するその逆「食べられない」ということをテーマにした神話もある。例えば「尻がないために食べ物が摂取できず飢えることになる主人公」が登場する神話もある。そこでは入る/出る、入口/出口、開/閉といった二極のバランスが崩れる。
穴のあいたあるいは穴のふさがれた人物には、研究の始めから何度となく出会ってきた。この巻では、まず最初は夫の背を糞まみれにする、狩人モンマネキの穴のうがたれた妻であり、さらにその後にはヤパラナ神話に登場する原初の夫婦が同様の条件に苛まれる。ギアナ地方のべつの神話にも、最初の人類が同様の運命に悩まされることが語られている。
このような主人公においては内/外の調停が失敗し、述語「食べる」を実行しても、食べ物は「内」に取り込まれることがなく、「外」にありつづけるままと同じことになる。ちなみに狩人モンマネキの神話というのは、下記の記事で分析したものである。
*
そして神話によっては、この主人公が「身内の悪意の犠牲になったのち、嵐と雨の主となり、その身内を罰するために嵐と雨を使う」ということをする。
ここでもやはり述語「食べる」による内/外の調停が失敗していることが(つまり食べているのに食べていない、内に入れたはずなのに外に出たままになっている)、洪水を、分節以前の状態を、未分節の広がりをもたらしている。

内/外、入口/出口の対立の起源神話
一方、内/外、入口/出口の対立の起源神話もある。
例えば、次のような具合である。
M524タウリパン 消化の起源
昔、人間にも動物にも肛門がなく口から排泄していた。
プイイトすなわち肛門は人間と動物のあいだでゆっくりと歩き回り、顔に屁をひりかけては逃げるということをしていた。
怒った動物たちは話し合って手はずを決めた。
そして眠ったふりをして、プイイトがいつもの仕業をしようと誰かに近づいたところで追っかけて取り押さえ、ずたずたに切り刻んだ。
それぞれの動物が、今日見るとおりのさまざまな大きさの分け前を受け取った。
どんな生きものも口から排泄するかさもなければ身体が破裂してしまうというかわりに、みな肛門をもつようになったのはこのようにしてなのだ。
冒頭「肛門がなく口から排泄していた」というのはなかなか衝撃的であるが、これは要するに内/外の分離と結合の調停がうまくいっていないということである。ここでは内/外ははっきりと分離されているが、外から内へのインターフェイスである「口」が機能している一方、内から外へのインターフェースが機能していない。
内/外を分け、その上で、外から内への入口と、内から外への出口をリズミカルに開/閉すること。それこそが内/外が分離しつつも結合された調和のとれたあり方である。
*
そしてこの「出口」から分離された状態にあった生き物たちのあいだで、当の「出口」それ自体「ププイト」がいたずらをしてまわるという日常があった。
「出口」そのものが、「入口」から遠く分離され、それ自体として単独でひとつの神話的な登場人物「プイイト」になって活動する。入口と出口の経験的な対立があるとすれば、この歩き回るププイトの存在によってΔ入口/Δ出口の対立関係が、長く伸びている様相が語られているといえよう。
そしてププイトは、人々、動物と人間の区別が未だ分節されていない人々の間をうごきまわっては、「顔に屁をひりかけては逃げる」という、無礼ないたずらを繰り返すのである。
このいたずら、離れたところ分離したところからしだいに接近していって、極めて近くに寄ったかとおもったら、身体の上/下を短絡するような動きで、「ガスをかける」とすぐに逃げる!という、分離から結合へ、そして結合から分離へ、分離と結合のあいだを伸縮させる絶妙な述語的様相を呈する。

これは上の図でいえば、2)、3)のモードである。
このモードから転じて、「プイイト」それ自体はバラバラに「分離」される。βがバラバラのΔへと引き裂かれる、上の図でいえば5)のモードである。
そして、バラバラにされた部分Δが、動物たち人間たちに「結合」される。
このとき、分け与えられた「プイイト」のサイズの違い、大/小の差異に応じて、動物の種類の差異が、区別が生じ、極めつけは人間と動物の区別が生じたのである。これがつまり動物とは区別される限りでの人間の起源である。
・・
極めて経験的な区別を道具にして、分節システムの発生を思考する
この神話、お尻とオナラの話であり、なんともおゲヒンで失笑を買うようなものに見えるが、その外観のお下品さに反して、内/外、人間/非-人間という、私たち人間の意味ある世界の経験を分節するきわめて基本的な二項対立関係を分離しつつ結合し調停するという、たいへんなことをやってのけている。
経験的感覚的な区別を概念の道具にして、意味分節体系の生成変容を語るという神話の真骨頂をここにみることができる。
ここでレヴィ=ストロース氏はおもしろいことを書く。このような“口から入れる=食べることができない”神話的な登場人物や、“下から出すことができない”神話的な登場人物が、世界各地の、遠く隔たった地域と時代にしばしば登場するというのである。
(上部から) 取り込むことのできない者あるいは(下部から)排泄できない者、さらには過度にあるいはあまりに早く取り込み排泄する者は、神話的思考において一定の基本的な観念に形をあたえるための根拠となるのである。そうでないとすると、こうした人物像が世界のかけ離れた場所と異なった時代に繰り返し出現する理由が理解できなくなろう。
内/外
身体の入口 / 身体の出口
入れる動き / 出す動き
こうした対立関係は、人類にとって、いつどこで生活をしていようとも、概ね共通する基本的な経験的区別である。人類の野生の思考は、こういう極めて身近な、自分の身体で日々実感している「区別」をブリコラージュして、分離と結合が絶対未分節であったところから、下の図でいう1)のモードが生じて、それがさらに2)、3)と展開し、次第にマンダラ状の二重の四項関係を浮かび上がらせる、という分離する述語と結合する述語の均衡をイメージしたり、言語で語ったりできるようにするのである。

「外」での「消化」としての料理すること
以上が「消化すること」と「調理すること」の対の、「消化すること」の方で内/外、出/入、開/閉の対立関係を伸縮させる野生の思考だとすれば、同じように「調理すること」の方でも、内/外、出/入、開/閉の対立関係を伸縮させる野生の思考が働くはずである。
開
内/外
閉
|
→<調理する>→
自然 文化
←<消化する>←
|
開
内/外
閉
まず「消化」と「火を使った料理」が対になることが改めて指摘される。
ハックスレーは、北部のトゥビ諸族のもとに、消化を、火を使った料理に対する自然における補完物と見なす、 言語化されてはいない生理学が存在することを確かめた。
即ち、
火を使って料理すること
→「焼かれた世界」と「腐った世界」のあいだを媒介する。消化管(内/外の出/入)で消化すること
→「焼かれた世界」と「腐った世界」のあいだを媒介する。
火を使って料理をすることと、消化することとは、どちらも「焼かれた世界」と「腐った世界」のあいだを媒介する。冷凍庫や冷蔵庫などがない古来の人類にとっては、生き物の命を奪うことによって確保された新鮮な生の食べ物は、手に入った瞬間から「腐敗」への道を走り出すことになる。

そして火を通すことと、消化することは、どちらもこの腐敗へと一直線に向かう「生のもの」を、束の間、腐敗から遠ざける。腐敗から分離する操作なのである。
消化の過程で身体器官は食物を加工した形で排泄するまで、一時的に内部に保持する。したがって消化は、生の状態から腐敗による解体にいたる自然の過程を中断するという料理の機能にも比較できる媒介機能をもっている。
火を使った料理と消化は、前者は自然物を文化のものへと変換し、後者は文化のものを再び自然物へと変換するという、自然/文化の対立軸上では真逆に対立する反対方向の動きになるが、「(さっきまで生きていた)生の状態」と「腐敗した状態」という「自然」の二つの異なる様相に関しては、どちらも(火で料理することも消化することも)、この生のものを腐敗から遠ざけるという同じ機能を果たす。
この点で、「消化は、文化の先取りされた有機的なモデルとなる」のである(p.549)。
ここはとてもおもしろい。自然と文化のあいだを転換する動きの方向に関しては、消化と火を通す調理は真逆に対立する(対立関係の両極へと分離する)が、生の状態と腐った状態のあいだを移行する動きに対しては、消化と火を通す調理は対立するどころか一連の同じ分離する機能を果たす(同じ一つのこととして結合する)。第一の軸では分離し、第二の軸では結合する。分離と結合を激しく伸縮させるモードにはいる。

こうなると、仮に、消化管が存在せず、内/外のあいだを出/入する動きで分離しつつ結合し結合しつつ分離することができなくなると、「火を使って料理すること」もまた成立しなくなる。
神話ではしばしば「口」つまり内/外の「入口」を「開/閉する」ものが欠如すると、「食物は煙という形をと」らざるをえないことになる(p.540)。煙は焼かれて=調理されているが、「食べる」つまり消化することはできない。
また同様に「肛門」つまり内/外の「出口」を「開/閉する」ものが不在となると、「食物は、同一の開口から摂取されまた排泄され、したがって食物は排泄物と混同される」ことになる(p.540)。排泄物と混同され、区別がなくなった食物は、「消化」されているが、「食べ物」ではない。
*
このように、(1)自然/文化の対立軸と、(2)生の状態/腐った状態の対立軸、二つの対立軸がある場合、「消化すること」と「火を通して料理すること」の対は(1)の軸上では分離し、(2)に軸上では結合する、ということになる。消化と料理の対立が、ある軸上では分離し、別の軸上では結合する。対立する二極が分離するか結合するかは、いつでもどこでも同じように二者択一できることではなく、分離することもあれば、結合することもある、という伸縮の様相を呈する。
分離する:β←ーーーーーー→β
/
結合する:β→←β
この分離と結合の対立、分離することと結合することの対立は、分節と無分節の対立、あるいは多と一の対立、あるいは異/同の対立とも似たようなことである。
多/一
異/同
分節/無分節
これらの対立もまた、上述の「内/外」の対立と同様に、私たち人類にとって意味ある世界の経験を可能にする極めて基本的な区別である。
「食べる」ことや「火で調理する」ことで、体の内/外を分けたり繋いだり、自然と文化を分けたり繋いだりすることに、成功したり失敗したりする神話は、多/一、異/同、分節/無分節、といった意識的自覚的に経験できる意味ある世界そのものである基本的な意味分節の単位を生成するように動く。
ここに『神話論理』にここまで登場してきた天体と結婚をする女性の神話や、天体にしがみつく「カエル」の神話も重なってくるという。
星の夫の神話群では、月の嫁となった人間の女は、天と地の仲介役を演ずるのに失敗すると、身ごもったまま死んでしまう。 彼女はふたつの世界の交通を妨げていた栓を抜き、ふたつの世界のあいだをへだてる境界線を越えようとした時に死ぬのである。
これと対称をなすように、水の世界のカエルは、星の夫の身体にずっとしがみつくことができる。だが、身体の上部あるいは下部で穴が開いていて唾や尿を垂れ流してしまうために、仲介者としての役割にはやはり失敗してしまう。
したがって、ふたりの仲介者の失敗は、第一の者は身体が満たされた状態で、障害物を通過することで失敗し、第二の者は中身は空でありつつ密着することで失敗する、と説明できよう。
天/地の間の分離を結合に転じようとして失敗する登場人物たちの神話について、レヴィ=ストロース氏は「これらは外部と内部の関係で二つの矛盾した解決を例示している」(p.550)と指摘する。
天体の男と人間の女との結婚は、経験的に分離しているはずのΔ天/Δ地の二極を過度に結合する動きである。
β月
β天→・←β地
β月の嫁
しかし、この結合はすぐに分離へと急転換する。
これを神話は、「月の嫁」である人間が、天体の子を宿した状態で、つまり内/外の出入り口を「閉じた」状態のままでは、天/地の境界を「開く」ことができず、月のもとから永遠に去ることになってしまうこと、生/死の対立軸上で遠く分離すること、として語り出す。
β天
β月 ←ーーーーー|ーーーーー→β月の嫁※
β地
(※内/外の出入口を「閉じた」状態のまま)
*
一方、月にしがみつくカエルは、月と結合することに成功するが、この結合は付かず離れずに均衡したものではなく、過度な結合である。
β月
β天→・←β地
βカエル
カエルは二度と月から分離できなくなってしまった。結合したまま分離できなくなると、もはやカエルと月はひとつのことになって、月に固定されてしまう。β月とβカエルが結合して、Δ月になる。
これではカエルは、天/地のあいだを付かず離れずに分離しつつ結合し結合しつつ分離するという、仲介する動きを動かすことはできない。
このときカエルは、月の子を宿した人間の嫁と対立しているのであるが、一体どういう対立になっているかといえば、カエルは内/外の出入り口が「開いた」状態のままになっていて、内にあるものを保持できないという点で、月の嫁の人間と真逆なのである。
β天
↑
|
|
β月βカエル※
|
|
↓
β地
(※内/外の出入口を「開いた」状態のまま)
天/地のような経験的な対立関係を付かず離れずに調停する(分離しつつ結合し、結合しつつ分離する)ことができるためには、その仲介者の動き方、その動きの述語的様相は開けたり閉じたり、入れたり出したり、そして結合したり分離したり、対立する二つの動きを自在に切り替え転換できるようでなければならない。
あるいは月の嫁のカエルも、天/地を自在に結合したり分離したりすることに失敗することによって、逆に、天/地をはっきりと固定的に程よい距離感で分離した状態にすることに成功しているとも言える。
これをレヴィ=ストロース氏は「開閉の論理」と呼ぶ。
開口の理論は、時と場所によって随意に操作の方向を逆転する組み合わせ演算を活用するということを強調しておきたい。
内/外、異/同、分離/結合といった、私たち人類にとって意味ある経験世界を分節する基本的な対立関係を区切り出すのが、開けたり閉じたり、入れたり出したり、結合したり分離したりする述語的様相のペアである。神話を語る野生の思考は、こうした動きの対立するペアを感覚的な経験のなかから探し出しては、それを概念の道具へ転用していくのである。
神話の語りに登場する「主語」たちに注目すると、一見、まったく別の話をしているように見える複数の神話が、内/外の出口/入口を開/閉する動き、その述語的様相に注目すると、まったく同じ動きを動かしていることがある。そこに「内容ではなく問題系の形だけが不変」であるという、神話の動的な「構造」がみてくる。マンダラ状にモデル化して表現しうる対立関係の対立関係の対立関係としての、現世を私たち一人一人にとって「意味ある」ものにすることを可能にする意味分節の最初構成単位が生成されてくるプロセス。このプロセスを思考するために、内/外の二極を結合したり分離したり、裏返したりするように、出口/入口を開/閉する動きをアルゴリズムとして用いるのである。
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