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「流体の神話学」、流体による分ける動きと繋ぐ動きをみる-レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(100_『神話論理3 食卓作法の起源』-51)

クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』”創造的”に濫読する試み第100回目です。1回目から100回目まで、すべて下記のマガジンに集めてあります。

100回目、と言うと何やら特別な感じがしないでもないですが、ことに『神話論理』に関しては、1回でも100回でも何回でも特に変わらないというか、線形的に、あるいは階段を登るように、どこかからどこかへたどり着いたわけではない。

「行く」とか「来る」とか、「スタート」とか「ゴール」とか、「同じ」とか「違う」とか、そういう二つに分けてどっちだどっちだというタイプの区別があらかじめ分かれているとは想定しにくいところで「思考」を動かすのが『神話論理』である。

そういうわけで『神話論理3 食卓作法の起源』第七部 「生きる知恵の規則」から、引き続き「I 傷つきやすい渡し守」を読みます。これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。


はじめに

この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」を、空海が『吽字義』に記しているような二重の四項関係(八項関係)をマンダラ状のものとして見立てて読んでみる。いや、マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たちが共鳴する“コト”と見立てて読んでみる。

経験的な区別が概念の道具となる

レヴィ=ストロース氏は大部の『神話論理』の第1巻の冒頭に次のように書いている。

生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせ命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理1 生のものと火を通したもの』p.5

経験的感覚的な区別(分別)を概念の道具として、観念を抽出する。仮に下図に示す「Δ」を最小で二つ、つないだもの(Δ1=Δ2)をひとつひとつの観念だと思っていただこう

上の図のΔ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別される項である。例えば、

Δ1 寒い / Δ4 寒くない
||       ||
Δ2 わるい / Δ3 わるくない

といった具合になる。私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界とは、このような二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている

人類は「経験的区別」を実行する機械のような仕組みとしてできている

Δ自 / 他Δ
Δ生 / 死Δ
Δ好き / 嫌いΔ
Δ内 / 外Δ
Δ因 / 果Δ
Δある / ないΔ
Δうまい / まずいΔ
Δ高い / 安いΔ
Δ遠い / 近いΔ

そして抽出された観念をつなぎ合わせる(意味するものと意味されることとの一対一の静的ペアをリニアに連鎖させる)。「その観念をつなぎ合わせて命題にする」のである。

Δ1,1ーΔ1,2ーΔ1,3ーΔ1,4ーΔ1,5ーΔ1,6ーΔ1,7ーΔ1,8
 ||    ||   ||    ||   ||    ||   ||    ||
Δ2,1ーΔ2,2ーΔ2,3ーΔ2,4ーΔ2,5ーΔ2,6ーΔ2,7ーΔ2,8

このような配列を生成することが、一体「どのようにしておこなわれるか」。

他の動物の鳴き声による情報伝達と異なって、人間の「言語」が多様な意味を生成できるのは、このΔの連鎖をつなぎ合わせる処理の自在さ故である。

それぞれの生物は、それぞれ固有の感覚・神経の仕組みを使って、それぞれに固有の経験的に意味のある世界を分別して生きている。ユクスキュル『生物から見た世界』に記されている「環世界」の話である。

人間に比べてよりシンプルな神経系で生きている生物の場合、感覚的な区別に応じて、身体の可能な動きの候補のなかから選択が行われる。

それに対して人間の言葉は、同じ一つの「意味されるもの」を、実に多様な「意味すること」に次々と置き換えていくことができる

「意味すること」=「意味されるもの」
記号=意味内容
→この関係を自在に組み替えることができる。

記号になりうるものと意味内容になりうるものを、次々と結合したり分離したりすることができる。

例えば、下記のように配列される意味の最小単位があるとする。

まず、Δ1を非Δ1(Δ-1)と区別する。
同時に、Δxを非Δx(Δ-x)と区別する。
この二つの区別が行われていることを前提として、Δ1をΔxを「異なるが、同じ」ことであるという関係に置く。Δ1とΔxをたがいに置き換え可能にすると言ってもいい。

私たちが経験的な世界を意味あるものとして経験するとき、こういう四つのΔの関係がいつも立ち上がっている。

私たちが言葉を紡ぐ時、Δ1、Δx、Δ-1、Δ-x 四項のうちのひとつ、たとえば Δ1だけを意識の表層へと引っ張り出す

そして他の四項関係から同様に引っ張り出されてきた四極のうちの一極を占めるΔ2→nたちを、順番に一列に並べていく。 

Δ1ーΔ2ーΔ3ーΔ4ー…

このリニアな列が、私たちが普段喋ったり、聞いたり、読んだり、書いたりしている言語の姿である。GPTのような生成AIの「T(Transformer)」がシミュレートしているのもこのリニアな列のあり得そうな並び方である。

ところで前述のようにΔ1、Δ2、Δ3、Δ4はそれぞれその対立関係を組む「相手」を持っている

また、Δ1、Δ2、Δ3、Δ4はそれぞれparadigms軸上で、潜在的に「異なるが、同じこと」として言い換え可能な、多数の語(Δ1,1→n Δ2 ,1→n Δ3 ,1→n Δ4 ,1→n )と繋がっている。下図中「=(||)」で表現した関係である。そしてまた、この「多数の語」(Δ1,1→n Δ2 ,1→n Δ3 ,1→n Δ4 ,1→n)たちも、それぞれに「/」でつながる対立関係を組む相手を持っている。

上掲の図式では、便宜上「||("="の向きを変えただけで同じことを意味している)」をそれぞれのΔの組み合わせについて、一つづつしか記載していないが、実はそれぞれのΔから、潜在的に無数の「||」が生えて、インドラの網のようになっていることに注意しておこう。

* *

人間の言語の場合、この図に示す「/」と「=」を、そしてもちろん「ー」を、特定の二つのΔの間だけに成り立つこととして限定することもできれば自在に任意のΔとΔの関係を生み出すこととして緩めることもできる。人間の言語の潜在的な可能性としては、ありとあらゆるΔ同士が「/」で繋がりつつ分かれる可能性もあれば、「=」で分かれつつつながる可能性もあるし、「ー」で分かれつつつながる可能性もある。

私たちの深く広い「心」は「/」と「=」と「ー」を次々と切り替えることができるが、特に「Δ1ーΔ2ーΔ3ーΔ4ー…」、たとえば「きょうは、あめが、ふっている」、という具合の「ー」すなわち形態素を順番に線形に繋いでいく処理は、意識的なプロセスである。つまり無意識的ではない。

一方、「きょう」と「非-きょう」を分節する「/」や、「きょう」と「きょうが一体どういう日であるか」の言い換え先になりそうな、他のあらゆる語をつなぐ「=」は、しばしば無意識的なプロセスになりがちである。

神話の論理を伸縮するマンダラとしてモデル化する

人間にとっては、「/」も「=」も「ー」も、すべて大切である。このどれが欠けても(あるいは膠着しても)、意味分節の最小単位(Δ=Δ)を産みつづけることは難しくなる。

ここで意識的な言葉の連鎖の「ー」を組み合わせて、「/」と「=」の分離したり結合したりする動きをシミュレートしたものが「マンダラ」であり「神話」である。

神話は、語りの終わりで、いくつもの「Δ」たちをたがいに分離しつつ、過度に分離しすぎない程度に付かず離れずに結びつけておくことを目指す。

人類の「野生の思考」、神話や夢や、マンダラ状のイメージを浮かび上がらせる精神の意識下の運動「/」と「||」の動きをふるわせ、Δ二項対立とその重ね合わせを可能にする。

このΔ1〜Δ4を区別できないところからはっきりと区別できる状態にまで切り開き分けつつも、バラバラに飛び散ってしまわないように結びあわせ、しかし過度にくっつきすぎて区別できなくなることはないように均衡させておくということが、私たち人類にとって意味ある世界が意味ある世界であるために必要な意味分節の最小構成単位(二重の二項関係=四項関係)をつくる動きである。

* *

神話の語りは語の線形配列をブリコラージュしてマンダラを描くー両義的媒介項のペアのペアが伸縮する

意識的な言語の「ー」がつなぐ連鎖を用いて、「/」と「||」の無意識的な動きを仮にシミュレートするために、神話として現れる「野生の思考」は、Δ1〜Δ4を分けつつつなぐように動く、四つの媒介者たちを登場させる。

先ほどの図で言えば、四つのΔたちの間に挟まって描かれている、四つのβ。この四つのβがΔたちを分けつつつなぐ媒介項である。


/ 
||    ||



←β→
↓    ↓
β    β
↑    ↑
←β→ 

「/」と「||」は同じ動きの二つの異なる様相である
(真逆に対立する熟語のペア)。
すなわち「/」は伸縮の「伸」の方に対応し、
「||」は伸縮の「縮」の方に対応する。

両義的媒介項(仮にβと表記しておく)は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている。いうまでもなく、そのようなものたちは、私たちの経験的感覚的には「存在しない」。この経験的感覚的には「存在しない」ことをあえて言語化することが野生の思考にとっては重要なのである。

神話は、そもそも何かが「存在する / 存在しない」を分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。つまり何かが存在するとか存在しないとか、そういう分別ができるようになる「手前」のことを思考しているのである。

そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(上の図ではΔに対するβ)という。

両義的媒介項たちの距離の伸縮を表現する述語

お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つのβ項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。

  • 任意のβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり縮んだり

  • 任意のβ二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり縮んだり

  • 2または3、または4つの任意のβ項が中央の一点に集まったり広がったり

という具合に、β項間の距離を伸縮させる振動(振幅を描く動き)が起こりる。


β
ββ
β




β
β←ーーーー/ーーーー→β
β



β


βーーーーー+ーーーーーβ


β




β


βーーーーー+ーーーーーβ


β

私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その名、その主語的なあり方(Δ、「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれらの主語的なものたちは、あくまでも引き離したり近づけたり、分離と結合の伸縮を自在にする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である

主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている

私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている

分別心の表層意識に浮かぶ所与の諸要素たちをかっちりとした構造体として配置したように感じられる意味分節システムは、実は脈動する波の伸び縮み(周期的に反復される振動の周期T[s]が伸び縮みすること)を瞼を細めて薄目で眺めたようなものである。

神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験すること可能にしている分別(ふんべつ)、あるいは意味分節のパターンが、あれこれさまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にするし、またそうした分別、意味分節のやり方を相当程度自覚的に自在に組み立てることをも可能にするのである。


世界の起源を語る洪水の神話

世界各地の神話でしばしば「両義的媒介項」として引き合いに出されるのが「」である。

水は、例えば流れる川の姿をとるなどして、彼岸と此岸、対立関係を分離しつつも遠くに見える程度に、カヌーで渡れる程度に、適度に繋いでおく役割を果たしたり、あるいは豪雨や洪水のような姿で天/地、水界/陸界という経験的に分離され隔たっているところをたがいに区別できないほどに短絡結合する役割を果たすこともある。

水は分けることもできれば、繋ぐこともできる。
分けることと繋ぐこと、分離と結合が真逆に対立する二つのことだとすれば、水はその両極を一手に引き受けることができる両義的な事柄である。

水の両義性は分離したまま結合し、結合しながら分離する、という分離と結合の二極のどちらか不可得な、根源的な絶対無分節の様相を呈する。

水は、

β
β ※ β
β

このβ四項の間の伸縮する動きを担う。

流体

例えば天/地の区別のように、あまりにも自明なことにおもわれる対立関係であっても、神話の思考においては所与ではない。天/地のような対立二項の関係もまた、両義的な項同士が結合したり分離したりする伸縮の動きを通じて切り結ばれていく。

例えば、レヴィ=ストロース氏は次のように書いてる。

「ヒダッツア族の賢者たちは彼らの体系を一種のY字型を描いて示す。フォークの二本の枝は、地中に生きていた先祖の一部が大地から生じ、残りの部分が天空から降りたことを示している。一本になった幹の部分はこれらふたつの集団が出会って連合したあとの冒険をしめしている。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.527

部族の起源について考えるために、つまりある部族の人間であることとある部族の人間ではないこととを区別できるようになった経緯について考えるために、野生の思考「Y字」つまり二即一にして一即二の関係を利用する。

部族のはじめの人間は、天/地の対立に対して、天だけのものでもなく、地だけのものでもなく、天地がひとつに結合し連合することで始まる。これをレヴィ=ストロース氏は「人間の起源について「大地からの発生」と「からの発生」のあいだで、神話が「困惑している」」と書く(クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.527)。

野生の思考ではない思考、つまり固まった二項対立関係だけでなんとかしようという思考の場合、原因/結果の対立を所与のものとして利用されがちである。そうして例えば「天」が原因であって、そこから「結果」としての部族の人々が起源する、といったことを考える。

原因  /  結果
||          ||
天 / 部族の人々

つまり、下記のような枠組みがあらかじめ与えられていると考え、あとはこのΔ/Δに、何らかの二項対立を当てはめていけば、分別をしたことになる。

Δ / Δ
||   ||
Δ / Δ

それに対して、野生の思考の場合、この

Δ / Δ
||   ||
Δ / Δ

という関係があらかじめ与えられていない。この四項関係、二つの二項対立関係を分けつつ繋いでおくことができるようになるまでの経緯(それが四つのβが分離したり結合したりする伸縮運動による)を考えるのが野生の思考である。

分節された言葉を用いて分節する動きを表現する

とはいえ神話の思考も、それが人間の言語で表現される限り、まずは仮に二項対立を立てるところから始まらざるを得ない。神話は、とりあえず経験的感覚的に確からしいと共同体の多くメンバーに共有されている区別=二項対立を利用する。

例えば、天/地の区別、大地があって空がある、という経験的な区別を、とりあえずは客観的な現実だと仮定して話を始める。

ここで神話がおもしろいのは、しばしば語りの冒頭から、この経験的に対立する二極を近づけて、過度に結合して、二つでありながら「一つ」にする動きが見られることである。

例えば、天/地の両極を近づけて、そして天地が結合したあり方として、天でもなく地でもない「第三」の存在を表現しようとする。

最初の人間という両義的媒介項

例えば、「最初の人間」という神話的な存在について語る時、それを「大地から発生した人々」と、「天から発生した人々」とが、もともと分離した状態にあったものが、近づき、結合したところで、部族の人々の最初の祖先が誕生した、といった語りである。

最初の人間、人間の起源というのはつまり、人間が存在しなかったところから、人間存在するようになる転換点である。

通常、経験的には人間が生まれるのは人間からである。
今日の科学というか、進化論的に考えるならば、人間は猿的な存在から少しづつ人間に変化したということになる。つまり人間と前人間との間には人間でもなく前人間でもない曖昧な領域がグラデーション状に広がっているのであり、人間と前人間との間に断絶はないということになる。

ところが、概念として「最初の人間」ということを考えようとすると、どうしても「人間」と「前-人間」との区別が際立ってしまう。最初の人間Aさんは、人間から生まれることはできないので(仮にAさんが人間の両親から生まれるのであれば、その父母はすでに人間であり、そうなるとAさんは最初の人間ではなくなる)、最初の人間Aさんは、「人間」と「前-人間」の両方であるような中間的で両義的な存在にならざるを得ない。最初の人間は、神話では、両義的媒介状βとして語られることになる。

では、両義的媒介項である最初の人間Aさんを作るにはどうしたら良いのかとなれば、それは神話の論理、「経験的な区別を概念の道具に」して両義的媒介項最初の人間Aさんをつくる。

即ち、何でも良いのだが、例えば天/地のような経験的にはっきりと区別された二極をまず持ってきて、この二極、天と地が短絡し過度に結合したところで、β両義的媒介項最初の人間Aさんが生まれた、ということにする



           最初の人間  /  ( )
↑ 

* *

同じ構造の野生の思考の神話論理の展開を、日本の神話にも見ることができる。神武天皇の父である鸕鷀草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)は「地神五代」の五代目であり、つまり人間ではなく「神」である。一方、神武天皇は現にあるこの経験的な世界、人間の世を統治する天皇である。神の世界から人間の世界へ、人間の世界と前-人間の世界(神の世界)との境界をつなぎつつ分けるのが鸕鷀草葺不合尊と玉依姫である。

とある読書会で、中沢新一氏の『アースダイバー神社編』を紹介した時のスライド

この鸕鷀草葺不合尊と玉依姫の結婚に至るまでの経緯として、地上の「山」の神である山幸彦が、「海」の世界へと深く深く潜っていくという動き、「山」と「海」という、経験的に分離されていた二極の間が「結婚」という形で結合するという動きがある。

これは先ほどの「大地から発生した人々」と、「天から発生した人々」とが分離状態から結合状態に転じ、経験的現実としての部族の起源をなす最初の人間になる、という北米神話と同じ動的構造になっている。

 天
水/陸
 地

さて、レヴィ=ストロース氏の分析に戻ろう。
「大地から発生した人々」と、「天から発生した人々」とが結合し、部族の始まりとなりβ最初の人間が登場することで、ここに「Y」字をなす三項の関係が出てくるわけだが、ここにさらに潜在的にもう一つのβ両義的媒介項が隠れている。



           β最初の人間  /  (β)
↑ 

「最初の人間」もまたβ項である以上、必ず相手方、対立関係を組みつつ、その間の距離を伸縮させる相手方となるβ両義的媒介項を持たなければならない。それがしばしば「水の人々」、陸界に生きる人間に対する水界の人間として言語化される。例えば、とある神話について、レヴィ=ストロース氏は次のように書いている。

トウモロコシの人々の出現とバイソンの人々および天界の人々との一体化の後、先祖たちは「見知らぬ男」あるいは「よそ者」と名づけられた川のほとりに暮らすことになった。その後、数年かかった移住によって人々はある河口の洲にたどりついた。そこで人々は向こう岸に、あるいは別のヴァージョンでは湖の中の島に、マニガという名の首長のもとに生きる大きな村があることを知った。マニガという名には、おそらく水を意味する語根が含まれている。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.529

始まったばかりの部族の祖先たちと対立する、「向こう岸」の「マニガ」と呼ばれるグループ。それは「」に関係する語をその名に冠した人々である。

ちなみに、先ほどの鸕鷀草葺不合尊の神話でいえば、山幸彦と豊玉姫の結婚は、水/陸間の分離→結合→分離の局面である。「マニガ」の話と比較するならば、水/陸間の伸縮の手前で、天/地の結合も必要になるのであるが、これは他でもない、山幸彦の父である天から降臨した瓊瓊杵尊大地の神である木花咲耶姫との結婚による生/死の分別の起源の神話に相当する。

日本の記紀神話は極めて明瞭に野生の思考の神話論理を伝承しているのである。


洪水神話
最初の人間と水の人々との分離と結合の伸縮

ここで水の人々部族の祖先の対決の神話を見てみよう。『神話論理3 食卓作法の起源』に収められた「M512-515 マンダン 起源神話(断片 洪水)」である。

先祖たちはこの遠く離れた国に豊かに産出する貝殻を羨んだ

マニガの配下の者は、先祖たちにノウサギの毛皮と黄色い冠毛をもったマキバドリの皮を交換条件として、貝殻を拾いに来ることを許した。

ところがこのよそ者たち自身は、けっしてマンダン族のもとにやって来ようとはしなかった。マンダンの人々はこの物々交換を始めるために、危険に満ちた航路を魔法の舟に乗ってたどらなければならなかった
その舟は決められた人数を守るという条件のもとでだけ命令に従うのであった。

マンダンの人々が荒れ狂う水面を突破できた時、新たな試練が待ち構えていた。
まず最初に、岸辺の木々が戦士に姿を変え、着岸するにはそれと戦わなければならなかった



ついでマニガが彼らを迎えたがそれはうわべだけの歓待であった。マニガは過剰な食物を供し、酒の飲みすぎ、タバコの吸いすぎを強い、あまりに多くの女性を提供したために、マンダンの人々の多くが、不消化と、タバコの酔いと、性的な消耗のために死んでしまった。
こうした試練を克服した者だけが、袋いっぱいの貝殻を集め帰ることができたのである。

しかし、マンダンの人々のこの貝殻の真珠層の美しさへの熱中は醒めることなく、夏になると毎年この冒険に乗り出し、多くのマンダンが命を落とした。



唯一の人あるいは南の風という名の造化の神のおかげで、マンダンの人々はついにようやく敵を欺くことに成功した。彼らはヒマワリあるいはイグサあるいはアシの茎を用いて中空の管を身体のなかに仕込みこれを通して食べ物と酒とタバコの煙を、地中の第四の世界へと送りこんでしまうことを思いついたのである。

別のヴァージョンでは唯一の人は、ひとりは過剰なまでに食べることができるシャーマン、もうひとりは酒を飲めるシャーマン、もうひとりはタバコを吸えるシャーマンの助けを借りたという。

最後の試練については、マンダンの男た ちは、自分の本来の道具ではなく、バイソンの尻尾の毛を抜いたもので代用して切り抜けたという。また唯一の 人はひとりですべての女を引き受けたとも語られている。というのも彼は、自分の仲間の元では身を持しているのに対して、よそ者の国ではとほうもない精力を発揮することができたというのである。



敗れたことに怒り心頭に発したマニガは、マンダンの人々が一匹の犬を殺したという嘘の告発を浴びせて縁を切った。彼は洪水を引き起こしたが、唯一の人が以下のように告げてマンダンの人々を守ることができた。

「濃い霧がたちこめるだろう。それは四日四晩つづくだろう。その時、それはおまえたちを破壊するために発生した ことをおまえたちは知るだろう。だがそれは水にすぎないのだ」。

じっさい、上げ潮はマンダンの人々が造化の 神の教えにしたがって植えていた木のカーテンで守られたネズミサシの高さまでしかとどかなかった。

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』pp.529-530
M512-515 マンダン 起源神話(断片 洪水)

海の向こうの貝殻を欲しがる

冒頭、主人公たちが「遠く離れた国に豊かに産出する貝殻」を羨むというくだりから語りが始まる。羨むということは、つまり、自分たちとあるもの(この場合は珍しい貝殻)とが分離状態にあるということであり、この分離を望ましくない状態と判断し、結合状態へと転じようとすることである。

ここから分離→結合→分離、と、陸の最初の祖先と水の人々との間の距離が伸縮するように動く。

自分たちと貝殻とが結合状態にあるのが理想的なよい状態であると分別する。しかし、実際には自分たちとその貝殻たちは分離されており、貝殻は別の人々と結合しているのである。他所の人と結合しているが自分たちとは分離しているものを欲しがる。

羨む、嫉妬、欲望 ・・分離を結合に転じようとして失敗すること

この「羨む」という、経験的には人間のいるところどこでもみられるような現象もまた、もともと分離しているところを結合へと転じ、もともと結合しているところを分離へと転じようとするが故に、分離と結合の伸縮の動きの象徴になる。

マンダンの人々 ← /過度に分離/ → 貝殻
→羨む→

貝殻と自分たちとの関係が、

分離状態にある / 結合状態にある
||     ||
望ましくない / 望ましい

分離から→結合へ

という対立があり、そこに分離状態を結合状態へと転じる動きが動き出す。そしてこの神話では、分離を結合へと転じる動き水を渡る船旅という述語的様相で語られる。

主人公たちは貝殻を得るために、分離されている貝殻との間を結合に転じるために、対価として「ノウサギの毛皮と黄色い冠毛をもったマキバドリの皮」を、貝殻産地を支配している部族に渡すことになる。これとの交換で貝殻を手にいれることができるのである。

付かず離れずに均衡できない

ところが、ここで不均衡が際立ってくる。
貝殻と「ノウサギの毛皮と黄色い冠毛をもったマキバドリの皮」の取引のために、主人公たちは、はるばる貝殻を支配している部族の方へ、危険な旅をして出向かなければならない。

「このよそ者たち自身は、けっしてマンダン族のもとにやって来ようとはしなかったのである。

マンダンの人々はこの物々交換を始めるために、危険に満ちた航路を魔法の舟に乗ってたどらなければならなかった」のである。

これがもし対等な交換なら、主人公たちと貝殻を支配している部族、二つのグループはそれぞれ旅をして、お互いの根拠地の中間地点あたりで出会って交換をするとよいのだろうが、そうはなっていない。

というか、この時点ではそうなってはまずい、双方が歩み寄って中間地点で取引をしてはまずいのである。

なぜなら、双方が歩み寄って中間地点で物々交換をした場合、水の人々と陸の部族の最初の祖先たちの間には「つかずはなれず」の関係が成立してしまう。それは分離しつつも結合し、結合しつつも分離する、均衡のとれた定常状態である。ただそれではただのふつうの交易になってしまう。神話の語り手も、そのような取引のかたちこそが本来の交易のあるべき姿だと考えており、それゆえに、一方だけが遠路旅をして、待っているだけの他方の方に出かけていくのはおかしな感じがすると語っているのである。そしてこの通常の交易とは違う「付かず離れずに均衡しない」ということがβ脈動を経験的な区別を概念の道具にして語ることを可能にする。いまここで必要なのは、分離→結合→分離、と、β陸の部族の最初の祖先とβ海の人々の間の距離を激しく伸縮させることなのである。そうなると、一方が他方の中へと深く入り込み=取り込まれるように過度に結合していく動きが極めて重要になる。

乗船人数を守った船の旅

もともと、陸の人々(マンダンの人々)の最初の祖先は、水界から(水界を象徴する貴重な貝殻から)過度に分離されている。この過度な分離を、結合へと転じるには、媒介する動きが必要である。それが船の旅である。

マンダンの人々 →/分離を結合へ/→ 貝殻
→船→

この船は特別なもので「決められた人数を守るという条件のもとでだけ命令に従う」ものであった。人数を守らないと動かない、こちらからあちらへ動いていかないのである。

この船について、レヴィ=ストロース氏は次のように書いている。

八人乗り

魔法の舟は、古い伝承ではもともと人しか乗せなかったというが(M、Maximilian, p. 364)、べつのヴァージョンでは十二人とされ (M、Beckwith 1, p. 4; MM Bowers 1, p. 347-361)、時には造化の神が加わっても舟が沈むことはなく十三人が乗れたとされる。マンダン族における舟は、じっさいにはひとりかふたりしか乗れないのが普通で、月と太陽のカヌーもまたふたりしか乗っていないことからすれば、ここでもまたマンダン族とヒダッツア族においてすでにべつの例に即して注目しておいた神話的「倍数体」と呼んだ現象に立ち会 っていることは確実であろう。

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.531

マンダンの人々の経験的な現実の船は、二人乗りのカヌーであるという。
二人乗りのカヌーの場合、どちらか片方だけになってしまうとバランスが崩れてひっくり返ってしまう。二人の距離が付かず離れずに均衡した時、船は水上を安定的に進むことができる。

しかし、この「二」だけの船、Δ/Δの船では、貝殻を支配する異界の部族のところまでたどり着くことはできない。

この世とあの世ほどに断絶した境界を超えて行って帰ってくることができるためには、通常の船(Δ/Δ)ではなく、分別をほどいたり固めたりを自在にする、それ自体が動的なマンダラである船(β~β~β~β~)が必要になる。当然そこでは乗組員もまた、マンダラと異なる者ではない。

魔法の船は八人乗りである。
この点で、この船はそれ自体が「マンダラ」であることがわかる。

この特別な旅、分離と結合のあいだの伸縮運動を体現するマンダラ的な船は、経験的によくある船ではなく「魔法の舟」である。

この船は、乗り込む人数を決められた通り厳密に守らないと動かないのである

マンダラにおいては、分別心たる表層の意識が確知するその基本的な姿は八極になるが、意識化される数が四に絞られてもよいし、二に絞られても良いし、また八のうちのいくつかが二つに分かれることで、十二になったり、またマンダラの中心をも一項として数えることで十三になってもよい。いずれにせよ絵図のマンダラは止まって見えるかもしれないが、実際には振動して動いているのであり、幾つに見えるかという問題は、どこのスナップショットを意識するか、ということの違いである。

さて、この船が「マンダラ」であることは、下記のレヴィ=ストロース氏の記述からも主張できる。

かつてのマンダン族の夏の村には、直径がほぼ五十メートルの地面を打ち固めた広場があった。その中央にはアメリカネズミサシ (Juniperus virginiana) でできたが立てられ、その周りを囲む板を小枝で結び止めてつくった円筒状の構築物があった。[…]柱は造化の神、唯一の人を象徴し、周りの板囲いは彼が洪水から村を守るために打ち立てた防御壁を象徴していた。マンダンの人々がマニガと水の破壊的な潜在力に勝ったことを記念するオキーパの主要な儀礼がおこなわれたのはこの場所であった。祭礼のこうした「水に関わる」側面は、祭りに使われる太鼓はかならず川の真ん中で舟の上で手入れされ、川上に向かって三打、川下に向かって三打の計六回打たれたということによっても理解される。

マンダン族は、彼らにとっての聖なる箱舟と見なされたこの板でできた構築物を「大いなる舟」という意味の言葉で呼んでいた。

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.533

中央に柱が立てられた円筒形の「大いなる船」と呼ばれる構築物

β
β   β
β

四つのβが中央に凝集した様相を象徴しているといえよう。

川の姿をした水がカヌーを転覆させずに浮かべたり、上流から下流へと運んだり、規則的に水位が上昇下降するといったことは、分けつつ繋ぎ、対立を安定化させるあり方である。

一方、もともと分離しているところを、たがいに区別できないように結合し、隔たりを無化してしまうあり方が「洪水」である。

洪水、船での川下り、船川上り、水没、浮かぶ、潜る、雨、水面に張り出した木の枝にぶら下がる。「水」というものの周囲で、さまざまな動き方、述語的様相を伸縮させながら、下記の各モードを展開していくのである。

β
ββ
β




β
β←ーーーー/ーーーー→β
β



β


β/β


β




β


βーーーーー+ーーーーーβ


β

水まわりでの分離と結合の伸縮の動きは、この神話には水を渡りきっていよいよ岸辺に上陸しようというときにも見られる。「岸辺の木々が戦士に姿を変え、着岸するにはそれと戦わなければならなかった」のである。岸部の木々が上陸しようとする主人公たちに戦いを挑み、上陸を阻止しようとする。こちらからあちらへ移動し、いよいよあちらと結合できるというところで、岸部が敵対的になり、結合させず、分離しようとする。

過度な接待

続いて、過度な結合が過度な分離に転じる動きが見られる。
貝殻を支配する水界の部族たちによる過度な接待と、それによる主人公の仲間たちの落命である。

浦島太郎が竜宮城で饗宴にふけってしまい、時が過ぎるのを忘れてしまうという話も、この過度な接待の異文とみることができよう。

貝殻を支配する「マニガ」たちは、遠路はるばる貝殻を求めにやってきた主人公(マンダン族の祖先たち)に、過剰に食べ物を食べさせ、酒を大量に飲ませ、タバコを大量に吸わせ、精力を奪う。

食べること、飲むこと、吸うこと、性の交わり。これらはいずれも「結合」の述語的様相である。そしてこの過度な結合において、主人公たちは「不消化と、タバコの酔いと、性的な消耗」に至り、そうして生から死へ、こちらからあちらへ、遠く分離して二度と戻ってこなくなるのである。

何かと過度に結合し、そうして過度な分離に急転換する。

とはいえ一部の祖先はこれらの「試練を克服」し、貝殻を袋いっぱい持ち帰ることができる。ここが神話のよいところである。述語的様相はいつも伸び縮みしている。行ったきりにはならないのである。行ったら帰ってくるし、帰ってきたらまた行く。下記のような具合で伸縮するのである。

そしてこの遠方への貝殻交換の旅は、毎年繰り返され、その都度、多くの仲間たちが命を落とすことになる。この神話のこのくだりは、木花咲耶姫と磐長姫の話と同じく、生/死の区別の起源も語っているようである。


ββ←ーーーー/ーーーー→ββ

ββ
ββ

ββ←ーーーー/ーーーー→ββ


ββ
ββ

ββ←ーーーー/ーーーー→ββ


Δ安定的に分節された世界の定常的な区切り出しへ

さて、いつまでも過度な分離と過度な結合の間で伸縮していたのでは、現世的な分別、安定的に付かず離れずになる関係が定まってこない。この貝殻を支配する部族との間の伸び縮み、過度な結合と過度な分離との伸縮に終止符を打つ必要が出てくる。

この伸縮を減衰させる役割を果たすのが「南の風という名の造化の神」である。「南の風」はおそらく船で水面を渡る動きに作用するものであるが、この「南の風」が、例の「過度な接待」を騙して回避する術を授けるのである。

中空の管・・素通り、結合しながらも分離している

まず「1)食べ過ぎ」「2)飲み過ぎ」「3)タバコの吸いすぎ」を強要されることに対しては、植物の「茎」を用いた「中空の管を主人公たちの身体に仕込むことで、これら食べ物や酒やタバコの煙が主人公たちに結合することなく、要するに管の中を素通りさせて、別の世界、「地中の第四の世界」へと出ていくようにした。

この「中空の管」の仕組みによって、主人公たちは、過度な接待に応じて暴飲暴食しているように見せかけながら(つまり食べ物や酒やタバコの煙と過度に結合しているように見せかけながら)、実は結合せず、素通りさせて、分離していくのである。

結合するふりをしながら、実は素通りさせて分離する

また、第四の過度な結合、過度な性の交わりを強要されることについては、「マンダンの男たちは、自分の本来の道具ではなく、バイソンの尻尾の毛を抜いたもので代用して切り抜け」るということをする。

これも結合していると思わせて実は分離している、という形である。

実に見事に「経験的」な分離と結合の区別を「概念の道具」としている。

四つの過度な結合ββ

ここで過度な結合が「四つ」(食べ物、酒、タバコ、性の営み)登場することに注意しておこう。下図のように、β四項をぎゅっと凝集するには、四つの「=」過度な結合作用が必要である。

β=β
|| ||
β=β

このくだりについては別バージョンの神話についても言及がある。すなわち、だれか過度な食事、過度な飲酒、過度な喫煙、過度な性の交わりを、それぞれ誰か一人だけが一身に引き受けて、代わりに他のメンバーを守る。というやり方である。これも同じ部族のメンバーを、過度な接待に結合しているものと分離しているものに分けている。

* *

さて、こうして過度な接待によるメンバーの落命を回避できたことで、主人公たちは大人数で大量の貝殻を持ち帰ることに成功する。貝殻がもともと過度に結合していたマニガの方から分離して、もともと過度に分離していたマンダンの方と過度に結合する。あちらで分離しこちらで結合し。

騙されたと知って縁を切る

こうなると、貝殻を支配していた「マニガ」の連中は「怒り心頭」である。

マニガ」は嘘の理由を立ててマンダンの人々と縁を切ると宣言し、「洪水」を引き起こす。

ところがマンダンの人々は「ネズミサシ」の木の上にのぼって、洪水を回避する。

神話の記録はここで終わっているが、おそらくマニガの人々はマンダンの祖先たちを水に沈めることは諦めて帰って行ったのであろう。

こうしてマンダンの祖先たちとマニガの人々とのあいだの分離が確定する。
この分離によって、貝殻は苦労を厭わなければいくらでも取りにいけるものではなくなり、限りあるもの、希少なものになる。

ものごとが限定されたこの世界の始まりである。

ここに経験的で感覚的な分別の世界ようやく出てくる。

分離と結合の伸縮と分離と結合の均衡
両義的媒介項の動き方の二つのモード

安定した分別の世界は、それ自体として端的に定まっているわけではない。
安定した分別の世界は、不安定な動きから浮かび上がってくる

そして不安定な相安定した相は、二つの別々のことではなく、一つのことの異なる様相である。この分離モードと結合モードの間が激しく切り替わる状態と、付かず離れずに分離しつつ結合する定常状態との間を区別することが、神話の思考を動かしている基本的な区別である。

例えば、神話の思考では例えば、不安定な相を夏場に増水した川で考え、安定した相を結氷した川で考える場合がある。

したがって南アメリカの神話群からわれわれが明らかにすることができた村とカヌーの対立は、マンダン族においては冬の村と夏の村の対立に置き換わっている。いっぽうの村は水が凍って不動となった時にそのかたわらにつくられ、もういっぽうは、川が増水しそのためにあまりにも動的になる時期に川から離れてつくられたのである。氷結と解氷凍った水と荒れ狂う水のあいだで、夏の村は、川下りでは水の自然な動きに乗って速度を上げ、川上りでは遅くなる上りと下りの対立を超越するカヌーと類似した機能を果たすのである。そしてカヌーに乗った天界の住人が、昼と夜と季節の循環が正確に測られるよう、 近すぎもせず遠すぎもしないように適切な距離を保たねばならないのと同じく夏の村は冬の村とは違って、川に対して適切な高さにつくられなければならない。すなわち、夏のあいだでも耕作しなければならない低地にある畑から遠すぎることなく、かといって増水しても、川面が象徴的な防御壁の足元でとどまり家にまで届かないような高さでなければならない。こうした意味で、マンダン族自身が彼らの聖なる箱舟をそう呼んで認めているとおり、夏の村はカヌーなのであり、水の危険を克服することを可能にするものなのである。

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』pp.533-534

冬の村 / 夏の村
||
水が凍って不動 / 増水し激しく動く
||
凍った水 / 荒れ狂う水

?静的モード? / 動的モード

荒れ狂う水、過度に動く水としての増水した「夏の川」の傍でくらすための「夏の村」は、「カヌー」と同じようなもので、と結合しつつも分離する、水に「 近すぎもせず遠すぎもしない」関係を調停するような様相になる。

過度な分離と結合の伸縮を引き起こすβ両義的媒介項と、均衡をもたらすモードのβ両義的媒介項

この分離しつつ結合し結合しつつ分離する動的関係を体現する点で「カヌー」と「夏の村」とは同じである。

南アメリカの思考が神話的なカヌーに付与した役割を思いだしていただきたい。カヌーの内で、またカヌーを用いて、近くのものと遠くのもの、インセストと独身生活、結合と分離が媒介されるカヌーそのものが媒介する両極とともにカヌーは三項体系を構成する

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.534

「カヌー」や「夏の村」が、ダイナミックに動く「水」の世界と人間の世界の間に入って、その間を分けつつつなぐ「媒介」の機能を果たす。

動的モード / 静的モード
||
水の世界  /β/ 人間の世界
無分節の世界 /β/ 分節された世界

   β       Δ / Δ  
  β β  →→→  ||       || 
   β       Δ / Δ 

「夏の村」の「媒介的な役割」についての記述も引用しておこう。

マンダン族の思考の二元論が想像的な三個組と折り合いがつくことはすでに見たが、今、その理由を理解することになる。というのも夏の村が中間高 さに位置づけられるのは、天と地という両極端との関係においてである。こうした視点から見れば、先祖の一部が生きていた天の村と、夏の村よりも(低い位置にあるという意味で)より「地上的な」冬の村正反対の極にあ ることになる。そのあいだにある夏の村が媒介的な役割を果たすことは、まったくべつの視点から認識したとおりである。

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.534

媒介項である「夏の村」天/地という経験的な対立二極に関しても中間的な位置をとる。

もちろん、任意の二項対立に対して中間の位置にあるものであれば、何でも媒介項になりうるかといえばそうでもない。媒介項は二極を分ける動きと二極をつなぐ動きを、分離を結合に転じ、結合を分離に転じる動きを、自在に動かすようでなければいけない。

天/地を分けるのは、地から天に昇ったり、天から地に降りたりする動きである。あらかじめ天地が分かれているからその間で昇降できるのではないかとおもわれるかもしれないが、神話の思考ではそうではない。昇降する動きが動いたところに、極めて経験的な上と下が、その昇降する動きが描く振幅の最大値と最小値のようなものとして区切り出されてくる

天/地の分離の起源には、天から地へ降りる(逆でもいい)動きがある。
例えば次のようにである。

ヒダッツア族の神話は天/地の対立を前面に押し出し、先祖たちが天界を離れ地上に降りることになった動機を強調している。それは天界の狩りの獲物がなくなってしまい、あちらこちらと探し回るうちに下界にバイソンの群れを見つけたというのだ

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.534

天に居た祖先たちは、天界において獲物と分離されてしまう。

そこで再び獲物と結合すべく、「あちこち探し回」っているうちに(つまりさまざまな場所へと結合したり、また分離したりと、過度な分離と結合の伸縮を繰り返しているなかで)、たまたまバイソンの群れを発見し、これと結合できる。そこが安定的に冬の宿営地として定められる地上世界に「なる」のである。(はじめから地上のある地点を目的地として一直線に目指していたわけではない、というところがポイントである)。

この冬の間のバイソン探し、糧から分離された状態を結合へと転じるための旅は、部族の生活において欠くことのできない営みである。

冬のはじめから春にかけて、マンダン族とヒダッツア族は牧草と安全を求めて谷の底に降りてくるバイソンの群れを生き残りの糧として頼りにする。じじつ、インディアンたちはこの動物が出没する場所そのものに彼らの村を置いたのである。したがってあらゆる社会的・宗教的活動は、村のさなかでの人間とこの獲物との結合を促進するものとしておこなわれる傾向があった。住民全員が断食と祈りに専念した。群れが近づいてくると厳しい掟が、木を切ること、火を起こすこと、ちょっとした音を立てることも禁じ、違反には厳罰が科された。[…]飢餓から逃れるには狩人と獲物が極端に近づくことが必要条件であったとすれば、バイソンに関わる冬の儀礼で両性が入り乱れた状態になることにきわめて大きな関心が向けられている理由もそれによって説明されよう 。その技術的な様相から冬の狩りはインセストとまでは言わないにしても、内婚的な意味合いがつきまとっている。この狩りが前提とする結合は、具体的な仕方で、抽象的な分離と対立する。

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.535

激しく流れる増水した川と遠からず近からずの位置に置かれる「夏の村」に対して、「冬の村」は、バイソンの群れの通り道に置かれる

この冬の村で、人々をバイソンとの「結合促進」するための儀礼(断食、祈り、数々のタブーに従うこと)も営まれる。結合を促進、つまり分離しているところを結合に転じようというのである。

獲物であるバイソンと部族の人々との「結合」は、付かず離れずの距離を保った関係ではない。この狩猟という関係「狩人と獲物が極端に近づく」こと、過度な結合である。この過度な結合は「両性が入り乱れた状態」や「インセストとまでは言わないにしても内婚的」な様相でもある。

分離と結合の伸縮、過度な分離から過度な結合への転換という、対立二極間の距離の伸縮の激しさに注目すると、冬の村での狩猟生活は、夏の村での増水した川との隣り合わせの生活に負けず劣らず爆発的な凝集力と発散力を秘めたものになっている。

分離と結合の過度な伸縮から、付かず離れずへ

ここに至りレヴィ=ストロース氏は、『神話論理3 食卓作法の起源』の歩みの全体を振り返る。それは両義的媒介項たちの動き分離を結合に転じ結合を分離に転じ、分離した状態の遠く伸び切った「幅」と、結合した状態のほぼゼロにまで縮んだ「幅」とのあいだを行ったり来たりするモードから、媒介項たちが付かず離れずにいつも等距離を保つモードへの転換のプロセスでもある。

こうしてふたたび旅が閉じられる。というのも、われわれがカヌーのイメージに遭遇したのは、この巻の冒頭に検討したM354の狩人モンマネキの結婚の物語においてであったのだから。これを解釈するために、まず太陽と月の諍いという形で、その換位命題となっているともいえる北アメリカの神話群に眼を向けなければならなかった。このテーマを反転させることでわれわれはワシ狩りのための小屋、すなわち仲直りした星たちの滞在場所に出会い、その象徴がすでにカヌーに回帰していたのだった。

軌跡をたどりなおし始めて、われわれはカヌーのモチーフから「傷つきやすい渡し守」のモチーフに移り、川の流れに沿った旅から川を横切る移動へと移った。神話そのものも確認している反転の結果、この最後のモチー フは渡河を不可能にする洪水をもたらした。最後に、中立化された洪水はわれわれを聖なる箱舟あるいは夏の村の祭壇の形でふたたびカヌーに引き戻したのである。

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』pp.536-537

そして最終的に「カヌー」が、分離する動きと結合する動きが均衡した、付かず離れずのモードを表現する

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.539

それぞれの神話は、全く異なる登場人物に、全く異なるモチーフに、全くことなる筋書きになっており、別々のものにみえる。

しかしそのいずれもが、下記のような両義的媒介項たちの伸縮の様々なモードを、両義的媒介項を仮に主語の位置に立て、その主語の動きの述語的様相のあれこれでもって表現したものに他ならない。

それぞれの場合に、ふたりの登場人物があり、そのいっぽうが他方の背に乗って地上の行程あるいは水上の横断をおこなうのである。しがみつく女の場合は、夫の背に可能なかぎり長いあいだとどまろうとし、女は夫にとって死の危険を表わすことになる。 旅する主人公は渡し守の背の上にできるかぎり短い時間とどまろうとするが、後者は前者にとってやはり死の危険を表わしている。現実にはしがみつく女に隷従させられた夫は、水によって解放される。女は泳げないからである。人喰いのワニ(カイマン)の潜在的犠牲者は、この怪物が這い上がることのできない大地によって助けられる。さらには、渡し守が傷つきやすいとすれば、しがみつく女はいっさいそのような性質をもたない。女はまったく気に病むことなく夫の背中を糞まみれにするのに対して(M35)、渡し守が傷つきやすさをしめす仕方のひとつは、旅人が自然の要求にかられて怪物の背の上にいることを失念した時に、呑み込んでしまうといって脅かすというものである。

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.538

登場人物が「二人」である。

両義的媒介項βもまた項である以上、単独では存在せず、必ずペアで登場する。ある項がその項であるのは、その項「ではない項ではない」という資格においてである。

そして二人の登場人物は、まず過度な結合の様相を呈する。
上半身と下半身を分離した妻が、夫の背中にしがみつくとか、危険な渡し守の背中に主人公が乗る、といった姿である。二つの両義的媒介項βが過度に結合した状態で、ある距離を移動する。

この移動する動きによって、出発地点と到着地点が、それぞれ区切り出される。神話的な旅は、あらかじめ出発点と到達点が設定されているように見えて、じつはこの旅の動き、移動するという動き、距離を開いていく動きを通じて出発点と到達点の対立関係自体を区切り出している。

この移動は過度に結合したβ二項が、分離へと転じるところで、しばしば神話の語りは終わる。

β二項の過度な結合状態は、一方が他方に食べられて完全に不可分一体になってしまう危険性に満ちたものである。

β二項はまるで反発し合う磁石のように、過度に結合すればするほど、転じて激しく分離していく。

しがみつく妻と夫を分離するのは「水」である。
人喰いのワニである渡し守と乗り手を分離するのは「大地」である。

またワニの渡し守が繊細で「傷つきやすい」のに対し、しがみつく妻の方は非繊細であり、傷つかない。

水 / 大地

傷つきやすい / 傷つきにくい

こうした諸々の対立関係が、

分離する / 結合する

という対立関係とどちらの向きに重なるかは、神話の語りの文脈に応じてどちらにでも逆転する。

「流体の神話学」「螺旋」

ある項が、分離を結合に転じる(近づける)動きを担うことができれば、それと対立する項は結合を分離に転じる(遠ざける)動きのどちらを担う、といった関係である。主語的な項ひとつひとつが「何であるか」よりも、そこに分離と結合の伸縮のどのモードが展開しているか、ということに注目すると、神話の論理が動き、マンダラ状の均衡パターンを浮かび上がらせつつあるチューニングの様子をありありとみることができるようになる。

以上の指摘は第二の側面を強調することになる。じっさい、われわれが構成した最初の対立は極性をもった項、 媒介項であるとしても、その存在と不在、結合と分離を、絶対的な用語で表現できるものであった。それとは反対に、この巻で最初から最後まで問われた対立関係は、その第一の要素として項ではなく、項のあいだに知覚された関係、項が近すぎるか、離れすぎているか適切な距離にあるかという関係なのである。それはすなわち結合、分離、媒介のそれぞれが経験的な様式で例示され、それに付与される価は近似的なものにとどまるのだが、そのそれぞれがおそらくは関係の用語によって定義されるのだとしても、それと同時により高位の結合演算の項となりうるということである。

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.541

この関係を関係づけつつある動きから浮かび上がる様相をレヴィ=ストロース氏は「螺旋」という語を用いて表現する。上の引用の続きである。

こうして、第一巻が明らかにすることに専念した感覚的な質の論理を超えたもの、として、第二巻が明らかにした形態の論理をさらに発展させたものとしての、本当の意味での命題の論理の端緒を見いだすことになる。同じ神話を飽くことなく走査し、新たな神話を取り入れつつ、その新たな神話も形式的な視点から見れば、以前の神話の変形であることがしめせる限りでは同じ群に属するものであり、構造分析は螺旋を描いて展開する。構造分析は自分の描いた軌跡に立ち戻るように見えながら、神話の素材のいっそう深い層位に達し、その核心に入りこみつつ、核心をなす特性すべてを少しずつ究明してゆくのである。

不連続な量から連続量へ移行するとともに、あるいは少なくとも季節の大きな間隔から、月齢、日々の反復、というより小さな間隔へと移行するとともに、われわれはどのようにして神話的な構築からしだいにロマネスクな構築へと取って代わるのかを観察し、そこから夜と昼、上流への遡行と下流への下降、波の寄せと波の返し、 氷結と解水増水と減水を交替させるこうした小さな周期的波動の解釈を提起するという意味で、流体の神話学と呼びうるものの誕生に立ち会うことになったのである。

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.541

神話の思考の展開する様を、レヴィ=ストロース氏は次のような言葉で表現している。

・不連続な量から連続量へ移行
・大きな間隔
から、小さな間隔への移行
・神話的な構築から、ロマネスクな構築(小さな周期的波動)へ

神話の語りは、そのはじまりから終わりへと展開する中で、

1)近すぎる
2)離れすぎている
3)適切な距離にある

この三つのモードを切り替えていく。

神話が経験的感覚的な区別、対立関係を、それらがまだない(あるでもないでもない)ところから区切り出していく動きにおいて、分離を結合に転じる(近づける)動きが効きすぎると、近づけすぎて、過度に結合してしまう

逆に、結合を分離に転じる(遠ざける)動きが効きすぎると、遠ざけすぎて、過度に分離してしまう。

そして過度に結合するでもなく、過度に分離するでもない、付かず離れずになったところに、人間にとって経験的に意味のある世界、つまり「異なるが同じ」で言語的に意味分節できる世界が収まる余地が開いていく

『神話論理』の第1巻、『生のものと火を通したもの』では、「感覚的な質」の対立、経験的で感覚的な対立関係の存在がまず浮かび上がる。

Δ / Δ

『神話論理』の第二巻、『蜜から灰へ』では、「形態の論理」が「発展させ」られる。

( ) ←/→ ( )

( ) →=← ( )

そしてこの『神話論理』第三巻『食卓作法の起源』において「本当の意味での命題の論理の端緒を見いだすことになる」のである。すなわち神話の「構造」が、「螺旋を描いて展開する」様相が見えてくる。

神話もまた言語的な語りである以上、「AがΒになって、ΒがCをしたらDが出てきて、DはEをして…」という具合に線形に語を並べていく姿を取ることになる。しかし、この線形配列は一直線にどこか遠くへ伸びていくのではなく、ぐるぐると螺旋を描いていく。

Δ1→β1→Δ2→β2→Δ3→β3→Δ4→β4→Δ1'という具合に一見すると線形にストーリーを綴りながら、じつはぐるりと円をを描いて、下記のような二重の四項関係、八項からなる円環を拡大したり縮小したり、いくつもいくつも描いていく。

Δ1 ←β1→ Δ2
↓     ↓
β4     β2
↑     ↑ 
Δ4 ←β3→ Δ3 

ここで神話は、「大きな間隔」(下の図でいえば、2)や3)のモード)から「より小さな間隔」(下の図でいえば4)5)のモード)へ、そして「小さな周期的波動」(下の図でいえば6)のモード)へと、二項間の距離を伸縮させる述語的様相のモードを転換していく。

この1)や2)から6)へと至る伸縮モードをしだいに定常化していく過程を通じて、下記のような二重の四項関係が、正方形と円を組み合わせたマンダラのような均衡のとれたパターンが、意識の表層の分別の誕生とともに定まってくる

Δ1 ←β1→ Δ2
↓      ↓
β4     β2
↑      ↑ 
Δ4 ←β3→ Δ3 

そしてもちろん、このような「マンダラ」に入り込んでいくための最初のスタート地点は、他でもない経験的で感覚的な区別、分別Δ/Δの実感なのである。

ここでレヴィ=ストロース氏が「流体の神話学」という言葉を用いているところがおもしろい。神話の構造とは固まったモノではなく、流体それもどちらかといえばサラサラした流体ではなく、ドロドロした流体、水飴や粘土やパイ生地のように、伸びたり纏ったりする流体の伸縮のパターンである。

こうして『神話論理』に続くレヴィ=ストロース氏の神話分析の著書では、『やきもち焼きの土器作り』という、粘土の話がでてくることになる。


つづく

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