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世界は文字でできている(世界について・02)

「世界は言葉でできている(世界について・01)」の続きです。


*世界は文字でできている


 世界は言葉でできている。いまでは、世界は文字でできていると言うべきかもしれません。人の世界では、ありとあらゆるものが文字にされるのは、みなさんがご存じのとおりです。

 宣伝文、広告文、報道文・ニュース、メール、手紙、SNSでのやり取り、機械との筆談によるやり取り、経典、聖典、法典、百科事典、辞典、史書、法螺話、夢物語、寝言、日記、年表、文学全集(詩歌・小説・批評)、公文書、私文書、契約書、誓約書、条約、約款、メモ・覚え書き、落書き。

 声は発したとたんに消えていきますが、文字は消さない限り残っています。これが、声である言葉よりも文字がずっと大切にされる理由です。便利なのです。

     *

 やり取りや伝え合うという点から見ると、人と人のあいだには物と事もあるはずなのですが、言葉と文字しかない、とりわけ文字しかないという傾向が急速に強まっている気がしてなりません。

 文字だけのやり取りでなり立っている関係(人同士、および人と人ではないものとのあいだです)が急増しているのです。この思いは危惧でもあります。

 今回は、言葉と文字以外の、やり取り、伝える、伝え合うの対象として、物と事を取りあげました。そのうちの事とは、行為であり、出来事です。

 事は時間に拘束されるために、つまり時間と労力を要するためにコスパとタイパが悪いために、言葉と文字に置き換えてやり取りされることが多いのです。

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 一方の物も、移す(物理的に移動させる)のは困難だったり不可能だったりするので、写す・映す、つまり影に置き換えて「うつす」ことになります。

 ここで言う影とは、映像や文字のことです。映像と文字をくられば、文字のほうがずっと扱いやすいし、いじりやすい(加工・編集・改ざん・変更・削除)のは、みなさんも日々体験なさっているのではないでしょうか。

 最小最短最軽の複製、これが個々の文字(個々の文字とは誰にとってもお手本・オリジナルが不明である複製です、自分がお手本にした文字を覚えていますか? 記憶力が抜群で、たとえ覚えていたとしても、それもまたお手本を真似た複製なのです。文字とは、そして誰かの音をお手本にして真似る言葉も、起源がたどれない引用であり、実物やオリジナルが行方不明の複製なのです。)です。人が何でもかんでも、言い換えると森羅万象を、文字にしようと憑かれたように熱中するのは当然の帰結とも言えます。

 人は憑かれやすい一方で、すぐに疲れます。そのため、人は自分たちの代わりに絶対に疲れない機械やシステムに文字(文書)の収集と放出をさせています。

 疲れないものに付き合わされて人が疲弊しているというのが現在の状況と言えるでしょう。早い話が、疲れないものに憑かれてせっつかれ疲れ果てているのです。冗談ではなく。

*文字、文字の振りをした文字


 最近よく思うのですが、絶対に疲れないもの、それは文字なのかもしれません。もしも文字がひとり歩きしている(人の思惑を離れて増え続けている)のなら、そんな恐ろしいことはないでしょう。

 文字(数字や記号や約物も文字です)は増えているのではなくどんどん殖えている、つまり急速に繁殖しているように私には感じられます。そうだとすれば、人は文字の「繁殖」を把握したり制御できているでしょうか? 

(これだけ多くの文字がやり取りされ収集されている事実に、もっと敏感になって、あ然としたり、がく然としたり、腰を抜かしても、罰は当たらないだろうと思います。)

 ただし、恐ろしいのは端末機で呼び出せる文字ではありません。画面に映っているというか浮んでいる文字には電力が必要だからです。機械は電力が途絶えれば消えます。

 その意味で、いま急速に殖えつつある新しいタイプの文字(画面に映っている文字)は恐ろしくないのです。映っている文字は、画面に浮んでいる実体のない影みたいなものと言えるでしょう。

     *

 恐ろしい文字は、太古に人が文字をつくった瞬間に生まれました。

 生まれて以来、文字は土に掻かれたり、壁に描かれたり、石に刻まれたり、布や紙に塗られるかたちで写されてきました。そうやって写されたものが、遠くへ運ばれて世界各地に広まっていったと言われています。大切に保存されてもいたようです。

・写経、写本、筆写、書写、筆耕、印刷
・書院、文庫(ふみぐら・ぶんこ)、書庫、手箱、書斎、図書室、図書館

 写されてきた文字は物なのです。というか、固めた土や石や皮や布や紙という物に痕跡として残っているのですから、移すことができます。

 じんわりと着実に増えてきたのです。ほんの数年で急激に繁殖しはじめた文字とはそこが大きく異なります。

 物なのです。物に付いていると言うべきか。物がなくならない限り、そこに取り付いています。

 画面に浮んでいる文字の振りをした文字文字のまぼろしとはぜんぜん違うのです。あれは(「これは」です、失礼しました)かげろういとゆうのように淡く、はかない。

 買いかぶりすぎでしょうか? 

 その文字の恐ろしさにいま気づいたとすれば、ずいぶん長い年月がかかったと言えるでしょう。

     *

 世界はきな臭くさを急速に増し、地球の温度はますます上昇してきているようです。

 最後の日 影に送られ 旅に出る

 写された文字は、仮に人のいなくなった後も、しぶとく残るというか、生き延びる気がします。文字を人の影にたとえるなら、影が先立つ人を見送ってくれる。影が人を送るのです。

 火が落ちて 影に先立つ 人の影

 でも、そのとき、影を読む人はもういません。このまがまがしいイメージが、私にはオブセッションになっています。

*錯覚しないと文字は読めない


 私の趣味の一つは、文字のありようの観察なのですが、文字ほど身近でありながら得体の知れないものはないと感じています。そもそも見えるようで見えないのです。

 文字が見えるようで見えないというのは、学習の成果とか条件反射の結果だと言えば、お分かりいただけるかもしれません。文字は錯覚しないと読めないのです。

 逆に言うと、文字を読むのは簡単で、文字を見るのは難しいのです。私たちには文字を目にしたとき、その意味を読み取る癖がついていて、文字そのもの(形や模様)を見る習慣がない(そのような文字の見方を学習していない)からにほかなりません。

 文字は人にとって透明な存在だとも言えます。透明人間の「透明」という意味です。ただし、その文字を読める人にとっての話、です。その文字を読めない人にとって、その文字は「見える物」としてあります。

 もし、あなたがアラビア文字を読めないとすれば、読めないアラビア文字をネットで画像検索すると、それは「見える物」として見えるでしょう。

     *

 現実と似ても似つかぬ文字というものが現実を呼び起こす。文字の世界は目の前の異界なのかもしれません。
「雪」は雪に似ているでしょうか?
 似ていないのに似ている――。それが文字の世界という異界なのでしょう。まぼろし、まほろば、まほろ。魔界、魔境、魔鏡。鏡界、境界、狂界。
「雪」を雪と同一視し誤認し混同し、錯覚しなければ文字は読めません。
「雪」が雪でないことくらい、誰も知っているし分かっています。でも、見ていると忘れる。見ているさなかに忘れる。それが「読む」です。鏡界、境界、狂界。
(拙文「記号、表徴、象徴」より)

 要するに、雪でもなく雪にぜんぜん似ていないものを雪だと決めて、何度も何度も書かせて覚えさせるのが、教育なのです。錯覚を組織的かつ体系的な制度としたものが教育とも言えるでしょう。

 ですから、日本語の文字を知らない人に、「雪」という文字を覚えさせるには、雪でないものを雪だと思い込ませる、つまり錯覚(事実誤認と言ってもいいです)が錯覚ではなくて当り前だと思うまでくり返し覚えさせればいいのです。

 それ以外に、「雪」という文字を雪だと思わせる方法があるでしょうか?

 あと、「雪」という文字と雪というものとを、おサルさんや猫が誤認したり錯覚することはないと言えば、分かりやすいかもしれません。

 生物間の優劣を問題にしているのではありません。生物ごとに知覚や認知機能が異なり、同じ自然の中でそれぞれ異なる世界(世界観と言ってもいいでしょう)に生きているからです。

     *

・雪というもの(事物)
・雪という言葉(音)
・雪という文字(形)

 以上の、まったく別の物(もとは何のつながりもないもの)同士三つをセットで同じだと教えることが教育です。私はこれを「三位一体」と呼ぶことがあります。

 偶然のつながりを習慣化すると必然に見えるのです。

 偶然につなげたものが習慣になると必然に見えるのです。これは真理うんぬんというよりも心理的な話かもしれません。平たく言うと、気持ちの問題なのです。
(拙文「猫をなつかせるためには傷を負う覚悟が要る(一義的・両義的・多義的・02)」より)

*世界は三位一体でできている


 偶然を当然や自然に見せるだけでなく、必然にまで感じさせる。それが言葉と文字の教育なのです。世界各地で組織的かつ体系的におこなわれています。この教育を否定しているわけではありません。私も人の子ですから、その教育の恩恵を受けています。

 この方法は、世界標準と言えるでしょう。

・世界は言葉でできている。
・世界は文字でできている。
・世界は事物でできている。

 以上をまとめると次のようになります。

・世界は世界標準である三位一体でできている。

     *

 この三位一体という教育の基本原理を、辞書の記述を引用して説明します。

     *

そどく【素読】
 文章の意味・内容の理解はさておいて、まず文字だけを音読すること。漢文学習の初歩とされた。そよみ。すよみ。「論語を素読する」

岩波書店『広辞苑』

 この漢文の「素読」の語義は、しれっとすごいことを言っています。この語義で述べられているのは体系的なものを体感的に学ぶ術にほかなりません。

 しかも単に体系的なものではないのです。本来つながりのないもの同士を、たくさんつないで体系化しているのです。

(ぶっちゃけた話が、でたらめとは言いませんが(書きましたけど)、無関係な別物同士を、まるで関係があるように集めた多数のものを、関係ある多数のものであると学習させてしまう方法なのです。)

 多数の偶然のつながりを集めてつないで、もっともらしく自然、当然、ひいては必然に見えるまで、音読と書写をくり返させる――。

 言葉(音・聞こえるもの)と文字(形・見えるもの)を持ってしまった人類の奥儀・奥義とか秘技とか美技と言いたいほどの術なのです。

・文章の意味・内容の理解はさておいて、
・まず文字だけを
・音読すること。

 こんなふうに、分けて噛みしめながら読むと、すごいなあと感心してしまう自分がいます。

     *

 こうした教育の結果、人の世界にはどんなことが起きているのでしょう? この点についても、辞書の記述が役立ちます。

みなす【見做す・看做す】
①(実際はそうでないと知った上で)それとして見る。見立てる。
②(実際はどうであるかにかかわらず)そういうものとして扱う。同類と考える。

岩波書店『広辞苑』

 またもや、しれっと、すごいことを言っています。

・(実際はそうでないと知った上で)
・(実際はどうであるかにかかわらず)

ですよ。いま読みかえしても、すごいなあと感心している自分がいます。

 もう少し踏みこむと以下のようになります。

・「雪」という言葉と文字が雪というものでないことなんか、知っているし分かっているのに(つまり、見なしているのに)、「雪」を目にすると雪を見たり感じたり思い浮かべてしまう。つまり、「雪」という言葉を耳にしたり、「雪」という文字を目にすると、一時的に、あるいは短期間、または長期間、見なしていることを忘れてしまうのです。

・見なしているはずなのに、見なしているのを忘れてしまう。
・見なすとは、忘れること。

・「分かっちゃいるけど、やめられない」
・「どうにも、とまらない」

 都合の悪いこと、知っていても何一ついいことがないこと、忘れるほうが幸せになれること――こういうことは忘れるのがいちばんです。
 というか、忘れるように人はできているのです。普通は。
(拙文「忘れる」より)

 話を「素読」に戻します。

     *

 辞書にある「素読」の語義をいじってみます。

・語の意味・内容の理解はさておいて、
・まず音と形だけを
・くり返し聞き、なぞって真似ること。

 私たちはこんなふうにして、音声としての言葉と、点と線の形からなる文字を真似て学んでいったのではないでしょうか。

 音と形の組み合わせを先に覚えさせ、意味・内容、つまり事物は後付けなのです。このほうが手っ取り早いからにほかなりません。

 事物は、各自が人生においてゆっくりと後付けしていけばいいのです。そんな論理(筋書き・ストーリー)で、言葉と文字を覚えるのが先に来ます。

*器が先、中身は後


 はじめに言葉と文字、ありき。はじめに器を教える。中身は後で人それぞれに、ご自由にどうぞ……。

 だから、「愛とは何か?」、「真理とは何か?」、「猫って何だろう?」、「人間って何だろう?」、「知能とは?」、「人格とは?」、「時間は存在するのだろうか?」、「無は存在するのだろうか?」、「無意味ってなんぞや?(無意味の意味って何?)」、「空間が歪むとは?」という具合に、みんなが悩むのです。

 愛という言葉と文字(空っぽのうつわ)は、のちのちお年頃になって、「愛とは何か?」とか「愛は存在するのか?」と口にしたり、文字にしたり、考えるために学ぶのです。といえば、分かりやすいかもしれません。

     *

 うつわ、ファースト。
 なかみ、レイター or ラスト。

 first(順番が早い)
 fast(速度が速い)

 late - later - latest(時間が遅い・鈍い・遅れる)
 late - latter - last(順番が遅い・晩い・遅れる・後れる)

 こうやって日英の言葉を整理するたびに、どの言葉も(word も phrase も language もという意味です)とてもうまくできているなあ、と感動を新たにしないではいられません。

     *

そどく【素読】
 文章の意味・内容の理解はさておいて、まず文字だけを音読すること。漢文学習の初歩とされた。そよみ。すよみ。「論語を素読する」

岩波書店『広辞苑』

 言葉と文字は空っぽの器だから、こうなります。当然と言えば当然、不思議と言えば不思議、もどかしいと言えばもどかしい、腹が立つと言えば腹が立つ。

 とにもかくにも、空の言葉と文字で世界は満ちている。

 から、殻、空
 くう、
 むなしい、空しい、虚しい

あ(ける)・空ける、あ(く)・空く、あきや・空家、あきべや・空き部屋
そら・空、そらみみ・空耳、そらに・空似、うわのそら・上の空、えそらごと・絵空事(絵に描いた餅)、そらごと・空言・虚言・空事・虚事(ことはこと)

     *

 空の言葉と文字で世界は満ちている。

 世界は空の言葉と文字でできている。

 世界は急速に空の文字化されている。

     *

 半分冗談(半分は本気です)はさておき、話を戻します。

 くり返します。

 私たちは体系的なものを体感的に学習しているのです。

 詳しく言うと、私たちは偶然のつながりの体系を体感的に学習して、当然や自然なつながり、ひいては必然のつながりだと思い込むまでに錯覚しているのです。

 その根っこには、「とりあえず」やってみる、「見切り発車で」進んでいく、があります。適当でいい加減なのです。

 それなのに、結果的には、すごいことをやってのけます。脳をふくむ身体に備わっている「何か」に沿ってやっているとしか考えられません。

 おそらく無意識にやっているのです。なぜかやってしまっている、と言うべきでしょう。そうだとするなら、この仕組みは実によくできています。

     *

 言葉(音)と文字(形)の意味・内容の理解はさておいて、まず音と形だけを、なぞる――これがなぜか言葉と文字を持ってしまった人類の奥儀・奥義とか秘技とか美技(世界標準)なのです。 

 世界(ヒトの世界です)はうまくできている。

 そんなわけで、雪に似ていない「雪」に雪を見てしまうし、読めてしまうと言えます。

「雪」(という文字)が雪(というもの)でないことくらい、知っているし分かっているにもかかわらずです。それでも雪を思い浮かべてしまうのは、見たり読んでいるさなかに、知っているはずのことや分かっているはずのことを、つい忘れるからにほかなりません。

     *

 ところで、文字に似ているどこか、文字にそっくりな「文字」が文字に見えてしまい、読めてしまうのも、やはり学習の成果とか一種の条件反射なのでしょうか? 

 これは考えるよりも、日本語の文字を知らない人に「文字」を見せるのが手っ取り早いと思われます。

*まとめ


 世界は文字でできている――。つくづく、そう思います。文字には二種類ある気もします。

・長い長いあいだ、写してきた文字
・機械や器械の画面に映すという形で、人類の歴史ではつい最近登場したばかりの文字

 薄い画面に浮んでいるようにも見える後者の存在感は希薄です。

 掻いたり描いたり書いたり彫ったり塗っていた文字が「痕跡としての文字」であるとすれば、キーボードに触れた結果として画面に映っている文字は「文字の振りをした文字」と言いたくなります。

     *

 現在、急速に増えつつあるのは、前者の写された文字ではなく、後者の映っている文字です。映っている文字は、電力がないと見えないし読めません。たとえ、物であるメディアにデータとして残っていても、電力を消費する再生装置がつかえないのです。

 電力がいつ途絶えてもおかしくない時代に私たちは生きています。世界規模の戦争と、地球規模で起きている異常気象による災害が頭にあります。

 万が一の事を考えると、私は恐ろしくて気が遠くなりそうです。地道に増えてきた写された文字は、どこかでなんとか、しぶとく残る(生き延びる)のではないかという予感というか楽観があります(ただし、それを読むヒトが残っているかについては悲観的です)。

 火が落ちて 影に先立つ 人の影

 いま映っている文字はどうなるのでしょう? あなたといっしょに眺めているこの文字たちも含めてのことです。

 祈りましょう。それしかいまの私にはできそうもありません。物事をしるすためだけでなく思いと願いを託すためにも、文字は生まれたはずです。

 合掌。

(つづく)

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