世界は言葉でできている(世界について・01)
言葉と文字は人を動かす――。ほかに人を動かすものがあるでしょうか?
人は言葉と文字でしか動かなくなってしまった――。もしそうなら、これほど、おそろしいことがほかにあるでしょうか? 人は生き物として何か大切なものを失っているはずです。
(拙文「動かす」より)
今回は、上の引用文を受けるかたちで書きます。
*世界は言葉でできている
世界は言葉でできている、とよく思います。感じることもあります。個人的な思いと感じでしかありません。
世界は言葉でできている、世界は言葉の綾でできている、世界は慣用句でできている――。そんなふうに言い換えることもあります。
ここで言う世界とは人の世界のことで、自然のことではありません。まさか、自然が言葉ででてきているとは考えたことがありません。
自然には名詞に相当するものがないからです。自然で名詞も見たこともなければ、名詞みたいなものを見たこともありません。
名詞とは、線引きして分ける、つまり分類するものです。分類するだけでなく、その線引きを固定しようとします。
名詞の指向や志向は、自然の流転やうつろいとはずいぶん隔っている気がします。
流れ、転じる
うつり、かわる
*
固め、定める
わけて、わかる
それが名詞についての私のイメージなのですが、そのイメージは人(ヒトと書くべきかもしれません)のやっていることと重なります。
そっくりじゃないですか。自分を見ているとつくづく、そう感じます。いま私のやっていることですが、まさに分けています。
書くことは分けることなのです。世界と自然を線引きし分けて話をしています。それで分かったつもりになっている。
わけるたわけ わかったとたわける
*人と人のあいだには言葉と文字しかない
人と人のあいだには言葉と文字しかない。これは最近、記事で書いたことです。
人と人のあいだには物と事もあるはずなのですが、言葉と文字しかないという傾向が急速に強まっている気がしてなりません。
言葉と文字だけのやり取りでなり立っている関係(人、および人ではないものとのあいだです)が急増しているのです。SNSと、筆談してくれる機械やシステムでの関係が好例です。
とりわけ後者は、文字だけを介したやり取りの極北であり、擬人を基本とする呪術(人類は太古から一貫して擬人を基本とする呪術の世界にいます)の完成形だと私は感じています。
(※ここで言う「擬人を基本とする呪術」とは、人が人以外のものに魂を感じてかかわろうとする行為です。人形、おもちゃ、アニメ、ゲームという形で、人は幼い頃から魂と付き合う方法を育んでいきます。⇒「空を飛ぶ猫、言葉を話す猫、長靴をはいた猫」)
現在、世界では、すぐに疲れる人に代わって、絶対に疲れない機械がせっせと文字を集めて、若干の加工をし、放出し続けています。膨大な量の文字からなるデータです。
世界は(自然ではなく世界です)、文字(文書・テキスト・テクスト・text)に置き換わろうとしているのかもしれません。その「世界」は知識でも知恵でもなくデータなのです。
まるで、薄くスマートな板に知らないことはないかのように事態が進んでいます。
板よ板 教えておくれ フー・アム・アイ?
*
別の話をしましょう。
たとえば、16世紀にヨーロッパで活動したある画家と私のあいだには、絵があるはずですが、私はその絵のオリジナルを見たことがありません。
その画家の代表作は、世界で最も有名な絵画と言われています。世界で最も有名であるために、無数の複製があります。
その絵のタイトルをネットで画像検索すると、気が遠くなるほどの多種多様な複製があるのです。写しである複製が多種多様、つまりまちまちであるのは不思議な気がします。
しかも、端末の画面で見るので小さいのです。原寸の数字と比較するとちまちましている。複製はまちまちなだけでなく、ちまちましていると結論しないわけにはいきません。
*
複製は端末の画面上だと映っているとか写っているとか移っていると言うより、浮いて見えます。浮んでいると言うべきか。存在感が希薄なのです。
うきよ、浮世、浮き世、憂き世
板の画面にうつる世界はうつしであり複製なのだと気づきます。世界がこんなにちまちましているわけがありません。
板を手に 歩く姿が 板に付き
*
冗談はさておき、いま私がぼかすというか、ほのめかすかたちで話していていた画家の名前は、お察しの通り、レオナルド・ダ・ヴィンチであり、世界で最も有名だと言われている絵は「モナ・リザ」という作品名で知られています。
私はその名前と作品名、つまり言葉と文字でしか知らない人と物について、長々とお話ししていたのです。
とはいうものの、レオナルド・ダ・ヴィンチと「モナ・リザ」について、ちょっとためになる話くらいなら、もう少し書くことができます。でも、それは伝聞というか、見聞きした話でしかありません。
私が言葉と文字(とりわけ固有名詞という最小最短最軽最薄の複製を口にしたり文字にすることは最小最短最軽最薄の引用なのです、この引用だけで対象を「知っている」とか「分かっている」と見なされます)でしかその画家と絵を知らないことに変わりはありません。しかも、複製で見たその画家の顔とその絵を、いま思い出せと言われても、ぼんやりとした像しか頭に浮ばないのです。
「似たことが、ミシェル・フーコーの『言葉と物』に書いてあったなあ」「ミシェル・フーコーの『言葉と物』をご存じ? それはすごい」
うきよ、浮世、浮き世、憂き世
うつせみ、うつしおみ、うつそみ
*人と人のあいだには物がある
故人であるレオナルド・ダ・ヴィンチという人とのあいだに、言葉と文字しかない人たちは、私以外にも、世界にはとても多いだろうと想像しますが、そうではない人たちもいるにちがいありません。
レオナルド・ダ・ヴィンチという人とのあいだに「モナ・リザ」という絵画、つまり物がある人たちのことです。
実際に、ルーヴル美術館で入館チケットを購入してオリジナルを目にするだけでなく、オリジナルにかなり接近したかたちで鑑賞や研究ができる人たちがいるはずです。
その場合には、人と人のあいだに物があるという関係を、一時的に、または短期的に、あるいは長期的に持っていると言えるでしょう。
ところで、人の人のあいだに事があるという関係もあるのではないでしょうか。
*人と人とのあいだには事がある
たとえば、いまも絵を描いていたり、かつて絵を描いていた経験のある人が、物としての作品である絵画を目にしている場合を想像してみましょう。
その静止した物に自分の体験を重ねて眺めたり、物をまるでいま起こりつつある出来事のように身体で受けてとめる。そんなことがあるのではないかと想像してしまう自分がいます。
ここで、物と事を分けてみます。
わけるたわけ わかったとたわける
さきほど上で書いた戯言です。漢字をまじえると、以下のように書けます。
分ける戯け 分かったと戯ける
「ざれごと」を漢字分けると、「戯言・戯事」というふうに感じ分けることができます。
ことがことであった。事が言であった。言が事であった――。そんな時代がかつてあったようです。
*
・こと【言】(事と同源)
・こと【事】(もと「こと(言)」と同語)
・こと【言・辞・詞】(「こと(事)と同語源)
・こと【事・縡】(前項「こと(言)と同語源か)時間的事態一般を広く指す語。
私は辞書を読むのが好きなのですが、辞書に上のような記述があると、しばし放心状態になります。ぼーっと想像や空想や妄想に浸ってしまうのです。私にとっては、しあわせなひとときでもあります。
かつて、文字がなかったり、文字が一部の人たちの専有物であった時代が長く続いていたのではないか。そんな時代には、音である言葉を話すことが、出来事だった。出来事としてあった。
誰かが発したとたんにつぎつぎと消えていく言葉を、その時、その場で起きる、たった一度限りの出来事として受けとめていた。その時その場に居合わせて、おそらく耳だけでなく、全身で受けてとめていた。
ことがことであったのです。
*
話を戻します。
わけるたわけ わかったとたわける
物と事を分けてみましょう。物と事の区別については、以下の国語辞典の語義が便利なので紹介します。ただし、長い記述のうちのほんの一部ですので、ご了承ください。
・もの【物】なんらかの形をそなえた物体一般をいう。
・こと【事・縡】時間的事態一般を広く指す語。
人のするわざ、行為。
上の引用では、私が大切だと思う箇所に太文字をほどこしてあります。
事を行為としてとらえることができそうです。行為ですから出来事であり、出来事ですから始まりと途中と終わりがあります。
物のように時間の流れの中に「ある」だけでなく、事は時間とともに「おきている・起きている」というイメージでしょうか。人であれば「おこなっている・行っている」、つまり行為なのです。
*人と人とのあいだには、言葉と文字だけでなく、物と事がある
ここで強引にまとめさせていただきます。さきほど、上で述べたことを引用します。
たとえば、いまも絵を描いていたり、かつて絵を描いていた経験のある人が、物としての作品である絵画を目にしている場合を想像してみましょう。
その静止した物に自分の体験を重ねて眺めたり、物をまるでいま起こりつつある出来事のように身体で受けてとめる。そんなことがあるのではないかと想像してしまう自分がいます。
・物としての作品が、その作品のジャンルの素人によって、言葉と文字に置き換えられるのは致し方ない。誰もが何かの素人であるはず。
・物としての作品は、そのジャンルにかかわっている人にとっては、事として身体に迫ってくる。出来事としての作品とも言えるだろう。誰もが何かをよく知っているはず。
・そもそも、物ではなく事でしかない「作品」もある。音楽・楽曲、演劇・お芝居、舞踏・舞踊、さらにはスポーツ。それらは、まさに出来事としての作品にほかならない。
・話は作品にとどまらない。一般的には作品とは呼ばれない物と事が、人と人のあいだにはあるはず。その人と人は、たとえば何かをつくった人と消費者であっても一向にかまわない。何かに従事している人を見ている人でもかまわない。
誰もが、言と文字だけでなく物と事を介して生きている。
*
世界は物と事で満ち満ちている。世界は物と事でできている。
人と人とのあいだには、言葉と文字だけでなく、物と事がある。
*広義のプレイ(play)
事について、ぜひ補足しておきたいことがあるので書きます。
事を、広い意味でのプレイ(play)で考えてみましょう。
・play、プレイ、演じる、演奏する、遊戯する、競技する、賭ける。
・play、プレイ、演技・芝居・上演・放映、演奏・旋律、遊戯・戯れ・ゲーム、競技・競争・パフォーマンス、賭け・博打。
事をプレイだと考えると、さきほど上で述べたスポーツの試合や演技や競技、舞踏や舞踊、楽曲の演奏、お芝居の上演も、広義の「作品」だと言えそうです。
その「作品」を見る(観る・観戦する)ために、人はお金を払ってチケットを買い、一定の時間に拘束されながら「鑑賞」するのです。
*
こうしたプレイは、「人と人のあいだには事がある」の典型ではないでしょうか。
ところで、プレイには、ジャンルごとに達人とか名人とかレジェンドと言われる人物がいます。
プレイにかかわる人たち、熱中する人たちは、そうした人を目標にするのではないでしょうか。故人であったとしても、そのプレイは言葉や文字として残っていたり、映像や音声として保存されている場合もありそうです。
そうした言葉や文字や映像や音声に触れることは、出来事であるにちがいありません。
プレイと言えば、私は芸道と呼ばれているさまざまな〇〇道を連想しないではいられません。次に、芸道について書きます。
*口伝、芸道・芸能、修行
いくら広い意味で考えるとしても、各種の芸道をプレイと呼ぶのはためらわれるので、差し控えますが、芸道には修行がつきものです。
私は芸道には無知なのですが、修行は見て聞いて触れて、場合によっては嗅いだり(香道)、味わって(料理)、真似て学んでいくものだと聞いています。
修行中には、言葉と文字の使用は必要最小限にとどめられるとか、言葉と文字が妨げになるなんて話も何かで読んだ記憶があるほどです。
「技を盗む」とか「芸を盗む」という言い方がありますが、「真似る」というよりも、何も言わない師のいとなみや所作を黙ってそばで見ていて、まさに「盗む」のだろうと想像します。
広く、芸、芸術、芸能、学問、武道の修行や修道は行為であり、そもそも、あるいは、いちいち、その過程を言葉や文字に置き換えて説明するものではないのでしょう。
修行・しゅぎょう、行・ぎょう・ごう、業・ぎょう・ごう・わざ
修道・しゅうどう、道・どう・みち、みちびく・導く、導・どう
修・しゅう、おさめる・修める、おさまる・修まる、納、収、治
*
とはいうものの、芸道において言葉が重要な役割を果たす場合もあるようです。
・くでん【口伝】
①言葉で伝えること。口づたえに伝授すること。特に、師が弟子に奥義などの秘密を口づたえに授けること。秘伝を直接伝授すること。
口伝とは、上で述べた「かつて、ことがことであった」ではないでしょうか。それが、いまでも世界のどこかで、何かのかたちでおこなわれているにちがいない。そんな思いをいだかないではいられません。
*
修行と口伝で連想するのは、芸道だけでなく、広い意味での芸能です。伝統的な芸能と言うべきかもしれませんが。
芸道と芸能においては、身体レベルでの稽古や修行が特徴です。その基本は、振りや所作や行為を、まねてくり返すことのようです。
・まなぶ、まねぶ、まねる、学ぶ・真似る
・ならう、ならぶ、ならす、習う・倣う・慣らう、並ぶ・列ぶ・双ぶ
漢語でまとめると、模倣の反復による伝承でしょう。師にならうことで、師と肩をならべる、できれば追い抜くことが目標です。
言葉よりも体をつかっての実践にちがいありません。さきほど口伝ついて述べたときにも言いましたが、芸や道とは、そもそも言葉と文字で学んだり習うものではないと想像します。むしろ、言葉と文字は修行の妨げになりそうです。
さらに話を広げますが、修行や修道という言葉は、宗教についても用いられます。宗教的な修行も、身体的なレベルでの実践が主なものになるようです。とはいえ、私は芸道と宗教には無知なので、これ以上立ち入ることは遠慮します。
*まとめ
やり取りや伝え合うという点から見ると、人と人のあいだには物と事もあるはずなのですが、言葉と文字しかない、とりわけ文字しかないという傾向が急速に強まっている気がしてなりません。
文字だけのやり取りで成り立っている関係(人どうし、および人と人もどきとのあいだの話です)が急増しているのです。この思いは危惧でもあります。
今回は、言葉と文字以外の、やり取り、伝える、伝え合うの対象として、物と事を取りあげました。そのうちの事とは、行為であり、出来事です。
事は時間に拘束されるために、つまり時間と労力を要するためにコスパとタイパが悪いために、言葉と文字に置き換えてやり取りされることが多いのです。
言葉と文字は人を動かす――。ほかに人を動かすものがあるでしょうか?
人は言葉と文字でしか動かなくなってしまった――。もしそうなら、これほど、おそろしいことがほかにあるでしょうか? 人は生き物として何か大切なものを失っているはずです。
(拙文「動かす」より)
この思いはいまも変わりません。「世界について」という、この新しい連載は、上の引用文を受けるかたちで進めていくつもりです。
*
今回の記事では、自分の知らないことについて偉そうにあれこれ書き、大変失礼しました。無知から来る無恥をおゆるしください。
ここまでお読みくださり、どうもありとうございました。
(つづく)
