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空を飛ぶ猫、言葉を話す猫、長靴をはいた猫

 今回は前回の「歌、物語、散文」でお話ししたことを違った方法で書いてみます。


人にとっての猫


 現実の世界にいる猫ではなく、人にとっての猫について考えてみます。

 手っ取り早い方法は、「猫」や「ねこ」や「ネコ」をキーワードにネット検索してみることです。それも画像検索がいいと思います。一目瞭然だからです。

 いろいろな猫が出てきます。写真が多いです。多すぎてスクロールやスライドするのに大変でしょう。

 お勧めしたい方法があります。「空を飛ぶ猫」とか「言葉を話す猫」というフレーズで検索するのです。これも画像検索のほうが一目瞭然で見やすいです。

 こうすると、写真だけでなく、絵や漫画やアニメやゲームの一部らしき画像が増えます。そこに重要な意味があるのです。

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 一字や一語で検索するよりも、長めのフレーズやセンテンスのほうがヒットした結果を見るのに適しています。今回の話の場合には、特にそうです。

 人にとっての猫がどんなものなのか。人にとって猫とはどういうものなかのか――。それがテーマだからです。

 現実界の猫について知りたければ、家にいる猫や外にいる猫に会いに行く、それで事足ります。

空を飛ぶ猫、言葉を話す猫、長靴をはいた猫


 空を飛ぶ猫を見たことがありますか? 言葉を話す猫に会ったことがあるでしょうか? 

 長靴をはいた猫が近所を歩いているのを目にしたことがありますか?

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 冗談はさておき、上の方法で画像検索してヒットした数々の猫の写真や絵や漫画やアニメの映像、それらが人にとっての猫なのです。

 猫をキーワードにしてヒットした結果なのですから、間違いありません。

 なかには童話や説話や神話に登場する猫もいるでしょう。でも、ネット検索してヒットしない猫がいます。

 猫は、猫ではなく、猫に似ていないにもかかわらず、猫だとされて、猫としてまかり通っている。 

 上に引用したのは、星野金太郎飴が金太郎飴化した数々の記事の中で何度も書いてきたフレーズというか文です。

 少なくとも30回は記事に載せたフレーズではないかと推測できます。

「引用の引用、複製の複製」というやつです。←今のも、おそらく50回以上は記事に載せたフレーズであるはずです。

 星野金太郎飴は、「起源なき引用」と「現物・原物なき複製」の世界に生きています。頭の中が金太郎飴状無意識なのです。

 平たく言うと、いつも同じようなことを言い、同じようなことを書いているという意味です。

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 話をもどします(←これも星野金太郎飴が頻用どころか多用している言い回しです、金太郎飴状無意識を体感していただけたでしょうか?)。

 冗談はさておき(←)、

 は、猫ではなく、猫に似ていないにもかかわらず、猫だとされて、猫としてまかり通っている。 

という文の最初のが「人にとっての猫」なのです。

 現実にいる猫、つまり猫という生き物ではなく、人が文字として、言葉(音声)として、映像や画像としてつかっている猫のことです。

 だから、さきほど上でネット検索をして探したのです。

 現実界にいる猫はネット検索では見つからない。ネット上にはいない。

歌、物語、散文


 この章では、拙文「歌、物語、散文」(7,532文字)で書いたことを大雑把に短くまとめてみます。

 広い意味での「歌」、つまり詩歌や歌謡に出てくる歌に出てくる猫たち、

そして広い意味での「物語」、つまり神話や説話や童話や物語や小説や映画やテレビドラマや漫画やアニメや絵本に登場する猫たちは、

狭い意味での「散文」(私が勝手に決めている散文)、言い換えると実用文で記述されている猫たちとは、

ちょっとだけ違う、いやかなり違う、いや別物だ、

と言いたいのです、私は。

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 短く言うと、次のようになります。

 歌と物語に出てくる猫たちと、実用文である散文で書かれている猫たちとはちょっと違う、いやかなり違う、いや別物だ。

(※こんなこと、辞書や百科事典や教科書に書いてありますか? ないと思います。なぜなら、(後述しますが)実用文である散文で書かれているからにほかなりません。散文では猫は猫なのです。上のような区別はしません。猫は猫、同じなのです。)

 後者の猫たちは、たとえば理科や生物の教科書、辞書、百科事典に出てくる猫たちだと言えば分かりやすいかもしれません。

 今生きている地球上のあらゆる猫たち、もう亡くなった地球上にいたあらゆる猫たちを指します。

 その猫たちのなかには、空を飛ぶ猫や、言葉を話す猫や、長靴をはいて立って歩き回る猫はいません。

 それなのに、猫なのです。私たちは、そんな猫に満ち満ちた世界で生きているのです。混乱し混同するのが人情というものでしょう。

(※猫を他のどんな言葉と文字に置き換えても事態は同じです。)

 以上が、歌・物語と、散文の違いです。

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 空を飛ぶ猫や、言葉を話す猫や、長靴をはいて立って歩き回る猫はいます。いるのです。

 人のつくった広い意味での歌と物語のなかにいます。そして何よりも、人のなかにいると言うべきでしょう。

 人の思いや夢や願いや、おそらく祈りのなかにもいるのです。

 私は、そうした猫たちが愛おしくてたまりません。

 猫を歌い、猫を語る。そんな人間たちが愛おしいのと同じです。

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 ここで記事を終えることもできますが、それでは星野金太郎飴らしくないので、もう少しお話しします。

擬人を基本とする呪術の世界に生きる


 以下の文章は、広い意味の物語のひとつである馬鹿話だと思ってお読みください。

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 人はなぜ猫を猫と呼ぶのでしょう?

 なぜ、森羅万象に名前を付けようとするのでしょう?

 手なずけるためです。手なずけて、あわよくば飼いならそうとするからにほかなりません。

 ほら、名づける、手なずける、ならす、似ていますよね。

 なづける、名付ける、手なずける、かいならす、飼い慣らす、飼い馴らす

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 なぜ手なずけようとするのかというと、世界がこわいもの、おそろしいものだらけだからです。

 名のないものは不気味だと言えば分かりやすいかもしれません。

 そうであれば、名づければいいのです。名前を与える。贈るのです。捧げるのです。

 おそろしいものに餌を与えてゴマをするのです。

 名前の語源は生餌(なまえ)という話があります。お供えは新鮮であるに越したことはありません。ただし、諸説あり。

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 冗談はさておき、名前を付ければ、呼びかけることができます。

 猫さん、狼さん、山さん、海さん、雷さん、疫病さん、嵐さん……。

 呼びかけることができれば、話しかけることもできます。

 ねえ、大雨さん、やんでくださいな。ねえ、地震さん、おさまってくださいよ。なんて。ねえ、里山さん、今年こそはキノコをたくさんいただけないでしょうか。

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 名づければ、歌にも登場いただけます。物語に出演してもいただけます。

 歌謡、詩歌、説話、神話

 相手に話しかけるのですから、相手を人に擬しているわけです。擬人というやつです。

 言葉は人どうしが話すためだけにあるのではありません。世界、宇宙、森羅万象を相手に呼びかけ、話しかけるためにあります。

 だから、歌や物語では、生き物や生きていない物たちや、物と言うよりも現象までが、人のように言葉を話します。

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 絵、漫画、アニメ、ゲームは歌と物語の延長上にあると言えば、今も私たちは歌を歌い、物語を語っていることがお分かりいただけるかもしれません。

 人類は一貫して、太古から現在にいたるまで、擬人を基本とする呪術の世界に生きているのです。

 たとえば、空を飛ぶ猫、言葉を話す猫、長靴をはいた猫――こうしたフレーズで画像検索をするのをお勧めします。

 擬人を基本とする呪術が体感できるかもしれません。

 歌、物語、夢、思いはきっとつながっているのです。そんな世界に人は生きているのです。

 なお、人類が今も擬人を基本とする呪術の世界に生きている証左としては、大切な人の写真やその名前を書いた紙を、はさみで切り刻んだり踏みつけたりできないことが挙げられるでしょう。

 魂をうやまう気持ちをなくしたとき、ヒトは人でなくなるのかもしれません。

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 魂とは、人だけでなく、人以外の生き物や、生きていないものに宿るものだと言われています。

 人は魂の存在を信じているからこそ、森羅万象に呼びかけるし、話しかけるのだと私は思います。

 名と言の葉は、森羅万象の魂たちとかかわるためにあり、口にするものだと思います。

 人が歌い、語るのも、魂を信じているからこそのいとなみであるにちがいありません。

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 ここで記事を終わらせるといいのでしょうが、付け加えたいことがあるので以下に書きます。

生きていないものに生きている振りを見る


 擬人を基本とする呪術の世界に生きている。

 これは別に恥ずかしいことでも恥ずべきことでもないのですが、そうした言い方に抵抗を覚える人がいるにちがいありません。

 ここからは、そうした方々に配慮した言葉遣いで書いていきます。

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 たとえば、大切なお人形やおもちゃに名前を付けて呼びかけ話しかける。そんなふうにして、人は幼い頃から魂との付き合いを育んでいくと考えられます。

 人形、おもちゃ、絵本、アニメ、童話、小説、テレビドラマ、映画、ゲーム。

 話し言葉を覚え、文字を学んでいくにつれて、魂とのかかわり合いは洗練されていきます。

 魂でいちばん大切なのは、生きているものと生きていないもののあいだに線引きをしないことです。なにしろ宿るのですから。

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 ちなみに、老人である私はお人形やおもちゃに話しかけることはありませんが、長く愛用しているカバンや帽子を手で撫でながら、声を掛けることがあります。

「きょうも、お出かけに付き合ってくれて、ありがとう」、「おたがいに、ずいぶんくたびれてきたね」、「ちょっと待って、ティシューできれいにするから」、なんて。

 いとおしいのです。

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 生きていないものに生きている振りを見る。これが魂との付き合いと、かかわり合いの根っこだと私は思います。

 あらためて考えると不思議なことをしています。謎です。神秘や奇跡と言いたくもなります。

 想像力という言葉も浮びます。想像ができてこそ創造が生まるのですから、この想像力を大切にしたいと思います。

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 生きていないものに生きている振りを見る。文字と映像は、なぜか紙面や画面という面のうえで楽しむものです。

 地面にへばり付いて生きるしかない人という生き物は、自分のつくったポータブルでパーソナルな面に付くことで、空を飛ぶのかもしれませんね。

 うつむいて 空駆けめぐる 影を追う

 犬は人に付き猫は家に付くという、犬と猫の気持ちを無視したような言い方がありますが、人が面に付いていることは確かなようです。

 身の回りを見ると、面だらけだと気づきます。しかも、そのほとんどが、人のつくったものなのです。ぺらぺら、ひらひら、すべすべ、真っ平ら(真っ平じゃなくて)。

 現に、みなさんが今、この時点で目にしているのも面であるはずです。私なんか一日の大半を、面に向っています。紙面か画面か窓ガラスか天井です。
 
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  直線上で迷っているネコがいた。家に付いているネコは板にも付いていた。
 家の中でネコは板に見入っていた。ネコは板に見入られていた。板に見入るネコの格好は板に付いていた。
 板には影が映っていた。
 ネコは尻尾のないサルを飼っていた。ネコが板に浮んだ影に見入っていると尻尾のないサルが邪魔をして、ネコを引っ掻いた。
(……)
(拙文「「読む」と「書く」のアンバランス(薄っぺらいもの・07)」より)

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