あいだにあるもの
あなたと私のあいだには何があるのでしょう? 「いま」この文章を書いている私と、「いま」この文章を読んでくださっているあなたとのあいだ、にです。
「いま」を括弧でくくりましたが、ずれがあるからです。
このずれはチャットでもしていない限りは避けられません。そのチャットですが、同時に文字を入力しているさなかのあなたと私のあいだにも「何か」があります。
今回は、その「何か」について書いてみます。
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長い記事なので、お急ぎの方は、以下の目次の「まとめ」と「あとがき」からお読みください。
*あいだにあるもの
人と人とのあいだには何があるのでしょう?
ご縁、深淵、愛、橋のない大きな川……。そんな言葉が返ってくるかもしれません。
ヒト以外の生き物同士の場合は、どうでしょう? たとえば、シマウマとライオンとのあいには何があるかなんて考えると、深刻なテーマになりそうなので、同じ種類同士の場合を想定してみましょう。
同じ種類の生き物同士のあいだには何があるのでしょう?
ご縁、深淵、愛、橋のない大きな川、ですか? そうかもしれません。でも、分かりません。謎です。かといって、相手に尋ねるわけにはいきません。
ヒトとヒト以外の生き物たちとのあいだには、深淵や橋のない大きな川があるのは確かなようです。
*「食うか食われるか」と求愛行動
生き物の生態を撮影した映像を見ていると、同じ種類の生き物たちのあいだには何かがありそうだと感じます。
そうした映像では、何種類かの生き物たちが出てくる場合があります。興味深いのは、あいだに「何か」があると感じられる場合は、以下の二つに大別されるらしいことです。
・食うか食われるか、やるかやられるか
・求愛行動、「ここにいるよ、早く来て」・「こんなになってる。すごいでしょ」
もちろん、これはその二つをテーマにした映像だからにちがいありませんが、気になるところです。
ヒトはストーリーやドラマをあらかじめ想定して、生き物たちを撮ります。ひょっとすると、映像は後付けなのかもしれません。
ヒトはヒトでないものにヒトを見ます。擬人化とも言えます。ヒトは太古から現在にいたるまで一貫して、擬人を基本とする呪術の世界で生きているのです。
さもなければ、スマホの画面に熱中しません。私みたいに。
(※ここで言う「擬人を基本とする呪術」とは、人が人以外のものに魂を感じてかかわろうとする行為です。人形、おもちゃ、アニメ、ゲームという形で、人は幼い頃から魂と付き合う方法を育んでいきます。⇒「空を飛ぶ猫、言葉を話す猫、長靴をはいた猫」)
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話を戻します。
生き物たちの映像を眺めていて、気がつくことがあります。
「食うか食われるか」と「求愛行動」とは無関係の生き物同士だと、両者のあいだには「何か」があるようには見えないことです。
「食うか食われるか」と「求愛行動」にかかわっている場合だと、その「当事者」の生き物たちは、たとえ遠く離れていても、おたがいに察知し合って行動をしているように見えます。
察知し合う枠というか輪があって、その中にいる感じです。そんな輪がたくさんあって重なりあっているのが自然であり生態系なのかもしれません。
多数どころか無数の輪が重なりあっているのに、一つひとつの輪は、当事者同士にしか見えない、感じられない――。たとえば、相手を探すカエルたちの輪と、相手を探すドジョウたちの輪が部分的に重なっていても、干渉し合うことはないようです。
ヒト以外の生き物同士のあいだには、ヒトには見えない、または感じ取れない「何か」がありそうです。
話が広がってきたので、ヒト同士の場合で考えてみましょう。
*人と人とのあいだの隔たり
人と人とのあいだには隔たりがあります。隔たりがなければ、人と人は一体であるはずです。人と人のあいだにある隔たりを二つに限定して考えてみましょう。
・空間的な隔たり:物理的な距離
・時間的な隔たり:生きているか、死んでいるか、これから生まれるかの違い
具体的に考えてみましょう。
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あなたと誰かで考えてみましょう。
・空間的な隔たり:あなたと3キロメートル離れたところにいる誰か。
・時間的な隔たり:あなたと夏目漱石と呼ばれていた誰か。
たとえばの話ですから、3キロメートルは、300キロでも、3センチでも、3ミリでもかまいません。夏目漱石は、フランツ・カフカでも、マリリン・モンローでも、アルベルト・アインシュタインでもかまいません。
とにかく誰かです。あなたとは別人である生きている人か生きていない人です。
*伝える、渡す、分かる、以心伝心
あなたと二通りの誰かを想定したわけですが、そのあいだには何があるでしょう。そんなことを言っても漠然としているので、「伝える」という言葉で考えてみましょう。
「伝える」を「伝達」としてもかまいません。でも「分かる」とか「理解」とは考えないでおきましょう。
たとえば、あなたと死んだ人が分かり合うことや相互理解はありえません。あなたが生きている誰かを理解したり理解し合うこともかなり困難か不可能と言えるでしょう。
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そもそも「分かる・理解する」は確認できません。あなたと生きている誰かのあいだでもです。
「分かっている・分かった」かどうか、「理解している・理解した」かどうかは、自己申告制なのです。
「分かった」とか「理解した」と言うのは簡単ですが、言っている人の頭の中をのぞき込んで確認する方法はないために、そう言っている人の申告、つまり言葉を信じるか信じないかしかないという意味です。
お分かりいただけましたでしょうか?
(このように「分かった」かどうかは、相手に言葉や文字で尋ねるしかないのです。尋ねて返事をもらったとしても、それは言葉と文字でしかありませんから、確かめたことにはなりません。)
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一方の「伝える」は、自分と相手のあいだで「何か」を「伝える」わけですが、「思い」といった「分かる」に近いものは考えないでおきます。
「分かる」と同様に、思いが伝わったかどうかは確認しようがないからです。思いが伝わったかどうかは確かめようがないので、「分かった」と同じく自己申告制であり、相手の言葉を信じるか信じないかの話になってしまいます。
ですから、「伝える」は「通じる」ではありません。「通じる」も「分かる」に近く、確かめようがありません。
ここで言う「伝える」は「渡す」に近いと考えてください。何かを「渡す」という意味の「伝える」であれば、当事者だけでなく第三者にも確認できそうです。
まとめると以下のようになります。
・言葉を伝えた(渡した):音である言葉が相手に聞こえた。「分かった」かどうかは問わない。
・文字を伝えた(渡した):文字が相手に見えた。「分かった」かどうかは問わない。
ここではそういう話をしています。
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人と人とのあいだには以心伝心やテレパシーはないようです。少なくとも私は体験したことがありません。
偶然らしき一致は経験がありますが、言葉や文字にすれば長々とした話や込み入ったメッセージが伝わってきたという思いをいだいたことはありません。
ただし、以心伝心やテレパシーについての経験談は頻繁に見聞きしたことがあります。言葉や文字として見聞きしただけです。
思いや思い込みや悟りや夢やまぼろしは自己申告制なのです。第三者には、その申告や表明は言葉と文字でしかありません。それを信じるか信じないかが、人それぞれなのは言うまでもありません。
*言葉と文字、広い意味での言葉
「伝える」(何かを「渡す」に近い意味です)という行為を前提としての話ですが、人と人のあいだにあるもの、それは言葉と文字だと私は思います。言葉(音)と文字(形)しかないと言うべきでしょう。
*
ところで、私は言葉を広く取って生活しています。「言葉と文字」というふうに対比してつかっている場合と、広い意味で「言葉」と言う場合があります。
・言葉と文字:
音(音声)としての言葉と、点と線からなる形としての文字。
・広い意味での言葉:
話し言葉(音声)と書き言葉(文字)だけでなく、視覚言語と呼ばれることもある表情や身振りやしるし。
私は重度の中途難聴者(中途の重度難聴者)なのですが、テレビやネット上の動画は字幕がないと利用できません。また、日常生活では、話し言葉だけでなく、書き言葉や表情や身振りやしるし(標識や記号など)に頼る傾向があります。
とはいえ、まだ聴力と視力が残っているので、それに感謝して生きています。手話や指文字や点字や触手話や指点字や筆談のみといった、広い意味での言葉に大幅に頼るしかない人たちを思えば、ずっと不自由なく生活していると思います。
そんなわけで、以下の話は、原則として言葉と文字に限ってのものになりますので、どうかご了承ください。
*
話を戻します。
「伝える」(何かを「渡す」に近い意味です)という行為を前提としての話ですが、人と人のあいだにあるもの、それは言葉と文字だと私は思います。言葉(音)と文字(形)しかないと言うべきでしょう。
さきほど上で書いた文章を引用します。
あなたと誰かで考えてみましょう。
・空間的な隔たり:あなたと3キロメートル離れたところにいる誰か。
・時間的な隔たり:あなたと夏目漱石と呼ばれていた誰か。
たとえばの話ですから、3キロメートルは、300キロでも、3センチでも、3ミリでもかまいません。夏目漱石は、フランツ・カフカでも、マリリン・モンローでも、アルベルト・アインシュタインでもかまいません。
とにかく誰かです。あなたとは別人の生きている人か生きていない人です。
あなたと生きている誰かとのあいだでやり取りをする、つまり「伝え合う」(渡し合う)ためには、言葉と文字がいちばん重宝するし現実的ではないでしょうか?
言葉と文字のやり取りと「伝え合う」(渡し合う)行為は、あなたとその誰かがたがいに確認(または共有)できるし、第三者でも確認(または共有)できます。
言葉が音としてたがいに聞こえているか、文字がたがいに相手に見えているかですから、第三者にも聞こえるし、見えるという意味です。その行為を事実として確認できるし共有できるとも言えます。
言葉や文字を分かり合っているかとか、理解し合っているか、という確認も共有もできない話はここではしていないのです。
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あなたと生きていない誰かとのあいだの場合には、もう相手はこの世にはいませんから、その誰かが残した言葉(録音された音声)と文字に頼るしかありません。
その言葉と文字は、必ずしもあなたに宛てられたものでもないでしょう。とはいえ、自分に宛てられた言葉と文字でなくても、聞いたり読んだりはできます。
あなたと誰かのあいだには言葉と文字しかないのです。大雑把な話で申し訳ありません。大雑把ではない話は、別の記事で書くつもりです。
*生きている誰か、生きていない誰か、生きていない何か
大切なことなので、くり返します。
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あなたと誰かで考えてみましょう。
・空間的な隔たり:あなたと3キロメートル離れたところにいる誰か。
・時間的な隔たり:あなたと夏目漱石と呼ばれていた誰か。
たとえばの話ですから、3キロメートルは、300キロでも、3センチでも、3ミリでもかまいません。夏目漱石は、フランツ・カフカでも、マリリン・モンローでも、アルベルト・アインシュタインでもかまいません。
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「伝える」(渡す)という行為で考えた場合、あなたと生きている誰か、あなたと生きていない誰かのあいだには、言葉と文字しかありません。
「誰か」が、夏目漱石であれば、文字でしょう。フランツ・カフカであれば翻訳された文字でしょう。マリリン・モンローであれば、文字と静止画像、動画(音声付きまたは音声なし)でしょうか。アルベルト・アインシュタインであれば、いわゆる文字と数字や記号を含む広い意味での文字でしょうか。
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「誰か」が、レオナルド・ダ・ヴィンチであれば、作品と文字でしょう。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンであれば、作品と文字でしょう。
いま「作品」と書きましたが、作品は作者名とタイトルと、言葉や文字による解説・説明が付きものです。「いつどこで誰が何をどうした」という短い物語が添えられることも多いです。
作品を残した作者は、作品だけでなく、作品をめぐっての言葉と文字でも語られるのです。いずれにせよ、言葉と文字です。
とりわけ、私のような素人は作者と作品を、その名前とタイトルで知っているくらいであり、作品についても「いつどこで誰が何をつくった」くらいの知識しかありません。
その知識は自分で確かめたものではなく、伝聞による言葉と文字でしかありません。
たとえば、世界年表に載るくらいの人物で、言葉も文字も残していない「誰か」であれば、その人の肖像(あればの話です)と、その人について語った言葉と文字(「いつどこで誰が何をどうした」らしい・諸説あり)でしょう。とにもかくにも、伝聞による知識であり、言葉と文字なのです。
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話はそれだけにとどまりません。
忘れてはならない人じゃなくて、物というか、存在もまた、言葉と文字を「伝える」(渡す)という状況が生まれています。こうなったのは、それほど昔のことではありません。
現在では、あなたと「生きていない何か」のあいだにも言葉と文字があります。言葉と文字をやり取り(伝え合っている・渡し合っている)のです。
もちろん、「生きていない何か」とは機械とかシステムのことです。とにもかくにも、あなたと何か(誰かではなく)のあいだにあるのは、言葉と文字だけなのです。
あなたと何かのあいだには何があるのでしょう?
ご縁、深淵、愛、橋のない大きな川……。そんな言葉が返ってくるかもしれません。ヒトそれぞれです。
ヒトはヒトでないもの(誰かでは何か)にヒトを見ます。擬人化とも言えます。ヒトは太古から現在にいたるまで一貫して、擬人化を基本とする呪術の世界で生きているのです。
これは、恥ずかしいことでも恥ずべきことでもありません。ヒトから擬人と呪術を取ったら、何が残るのでしょう?
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さきほど上で述べたことを引用します。たびたび引用して、ごめんなさい。
そもそも「分かる・理解する」は確認できません。あなたと生きている誰かのあいだでもです。
「分かっている・分かった」かどうか、「理解している・理解した」かどうかは、自己申告制なのです。
「分かった」とか「理解した」と言うのは簡単ですが、言っている人の頭の中をのぞき込んで確認する方法はないために、そう言っている人の申告、つまり言葉を信じるか信じないかしかないという意味です。
お分かりいただけましたでしょうか?
生きていない「何か」を相手にするときにも、自己申告制である「分かる・理解」があることを忘れるわけにはまいりません。
とはいえ、ややこしく考える必要はなさそうです。
人の頭の中も、機械の「頭」(比喩です)の中ものぞけないのであれば、つまり見て確認したり共有することができないのであれば、発せられた言葉と文字を信じるか信じないしかなさそうです。
たとえば、「あなたのことは分かっています(理解しています)」という言葉と文字とか、「あなたのことを愛しています」という言葉と文字が発せられれば、それを信じる、または信じない、それしかなさそうです。人が一方向的に、です。
*まとめ
自然界で生きているもの(ここでは植物をのぞいての話に限らせていただきます)同士のあいだには、同種や異種に向けての「自分はここにいる」というサインと、同種に向けての「あなたを必要としている」「あなたが好きだ」というサインがあるように見えます。
いまサインという言葉をつかったのですが、広義の言葉とも言えるでしょう。このサインをやり取りしている、または一方的に発信している、あるいは発信しても不発に終わっているように見えます。
(※なお、このサインを広く取れば、フェロモンのような伝達を目的とする化学物質や情報としてのDNAも含まれるのでしょうが、私は言葉でしか知らないので、ここでは立ち入りません。)
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何かを「伝える」(渡す)という点から見ると、人と人とのあいだには言葉と文字が大きな役割を演じています。
言葉と文字以外に、表情や身振りやしるしもありますが、人の場合には相手が遠くにいたり、相手がこの世にいない場合があるために、言葉と文字を重視するのが現実的です。
なにしろ、ありとあらゆる物と事が言葉と文字にされています。言葉と文字に置き換えられ、言葉と文字として記憶され、言葉と文字として保存され、言葉と文字として空間的に伝えられ(拡散)、時間的に伝えられ(伝承)ているのです。
事物と知識と情報は、言葉と文字に置き換えられ、言葉と文字として存在すると言えるでしょう。
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言葉と文字は伝えられ(渡され)ますが、それが人に分かるか、つまり理解されるかは確認できません。
たとえば、「時間」という言葉と文字は伝えられます(渡されます)が、それがどのように理解されるか、解釈されるかは、言葉と文字としてしか確認できないのです。
大切なのは、言葉と文字としてある「時間」は文脈の中に置かれていることです。したがって、単に「時間とは何か?」と口にしたり文字にしたり、考えたりすることは有効ではありません。どんな文脈の中での「時間」なのかをはっきりしたほうがいいでしょう。
たとえば、宗教、物理学、化学、心理学、文学という文脈の中での「時間」は多種多様であるはずです。またそれぞれの領域でも、多種多様な派があり、多種多様な人がいるにちがいありません。きっと時代や国家や言語や地域によっても「時間」は異なるでしょう。
そのため、「時間」という言葉と文字をめぐっての言葉と文字が膨大な数というか量になります。その総体が「時間」という言葉と文字をめぐっての知識であり情報なのです。
「時間」という言葉と文字は、そうした無限とも言える「時間」に当てられた、たった一つの言葉であり文字なのです。逆に、たった一つの言葉であり文字である「時間」に、各自がその時々において自分の思いの中にある時間(そんなものがあればの話ですけど)を当てているとも言えます。
大切なことは「当てている」だけだということです。
*
「時間は存在する(存在しない)」、「時間とは何なのか?」、「時間とは〇〇である。」と、センテンスになった場合も同じです。それは言葉と文字でしかありません。
その言葉の連なりと文字列(センテンス)をめぐって、さらに説明や解説が言葉と文字として膨大化していきます。
上のセンテンスにある「時間」を、「空間」や「時空」や「量子」や「ブラックホール」や「正義」や「平和」や「悪」や「善」や「真理」や「心」や「神」や「魂」や「人工知能」や「人格」や「存在」や「無」としても事態は変わりません。
いま挙げたものは、すべて言葉であり文字なのです。一本化された言葉であり文字と言うべきでしょう。
人と人とのあいだでやり取りされるのは、確認できないものである、思いや気持ちや理解ではありません。
誰かから受け取った文字と文字列は、それをじっと見つめようと、無視しようと、見落とそうと、見間違えようと、見たのを忘れようと、文字であり文字列であり、それ以上でもそれ以下でもありません(それ以上とそれ以下にこだわるのが人ですけど)。
たとえば、ジャン=ポール・サルトルと私のあいだにあるのは、存在と無ではなく、「存在と無」という文字とそれをめぐっての膨大な数の文字列なのです。
言葉と文字です。または広い意味での言葉(話し言葉や書き言葉・表情や身振りやしるし)なのです。
*言葉や文字にできない「もの」と「こと」
今回の記事では、「伝える」と「やり取り」という点で見ると「人と人のあいだには言葉と文字しかない」という話(あくまでも話です)になりましたが、別の見方もできます。
人と人のあいだには、言葉や文字にしにくかったり、言葉や文字にできない「もの」と「こと」がある(「もの」と「こと」は、やり取りや「伝える・渡す」の対象になりえます)からです(「思い」(ゆめ・まぼろし)は「分かる」かどうかの話になるので除きます)。
・言(言葉・文字)
・物・事
それにもかかわらず、いや、だからこそ、人はめげずに言葉や文字にしています。言葉と文字をもちいれば、何でも言えるし、何でも書けるからにほかなりません。
その結果が「人と人のあいだには言葉と文字しかない」とも言えるのですが(袋小路です)、別の言い方(抜小路)もできそうです。
そのことについては、近いうちに別の記事で書きたいと思います。
*あとがき
あなたと私のあいだには何があるのでしょう? 「いま」この文章を書いている私と、「いま」この文章を読んでくださっているあなたとのあいだ、にです。
「いま」を括弧でくくりましたが、ずれがあるからです。
このずれはチャットでもしていない限りは避けられません。そのチャットですが、同時に文字を入力しているさなかのあなたと私のあいだにも「何か」があります。
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この記事の冒頭で上のように書きました。
あなたと私のあいだにあるのは文字です。でも、私がこの記事を書いていた「いま」はもうありません。つまり、あの「いま」の私はいないのです。
でも、文字があります。いま、あなたの目の前にある文字です。時空をこえて、いま目の前にある文字――。
私のnoteを端末で呼び出せば、世界中のどの端末の画面でも目にできるにちがいありません。なにしろ、いまは投稿・配信=複製=拡散=保存が、ほぼ同時かつ瞬時におこなわれる時代です。
人類が初めて体験している事態であることは確かです。そんな事態が日常化しているこの時代に、「いま」や「ここ」という言葉は意味をなすのでしょうか。
*
時空をこえて、いま目の前にある文字――。それを、あなたと私が「いま」「ここ」で見ています。
いずれにせよ、あなたと私のあいだにある文字に感謝しないではいられません。
あなたといっしょに、同じ文字を、いまここで見ている。それが私にはうれしくてなりません。
