猫をなつかせるためには傷を負う覚悟が要る(一義的・両義的・多義的・02)
この連載の第一回「猫を手なずけるほうが、ずっと難しい(一義的・両義的・多義的・01)」の「まとめ」を引用します。
・名付けると手なずける
・name と tame
・猫を名づけるよりも手なずけるほうが、ずっと難しい
・It is much easier to name a cat than to tame it.
*
韻や似た音の連続は、意味の離れた事物同士に音以外の「似ている」点(意味やイメージ)があること――あらゆる物が多面的だからです――を気づかせてもくれます。言葉が事物と事物をつないでくれるわけです。
そうしたことから、両義的であったり多義的な文や文章が書けるのではないかと思います。
今回は、上の引用文を受けるかたちで書いてみます。お急ぎの方は、以下の目次にある「*まとめ」からお読みください。
*似ていると同じは似ている
名づけると手なずけるは似ていますが、語源的なつながりはないようです。でも、似ています。似ていると私は感じていると言うべきでしょう。
「似ている」かどうかは個人の印象であり感想です。だから、似ているかどうかは人ぞれぞれなのです。
一方、「同じ」かどうかは知識です。「同じ」だと教わったから「同じ」なのです。「同じ」だと決まっているから「同じ」なのであり、決まりだとも言えます。
決まっているから決まり、分かりやすいのではないでしょうか。ルールとも掟と言い換えてもかまいせん。
似ていると同じは似ていますが、両者は大きく異なるのです。
似ている < 同じ < 同一(そのもの)
似ている度合い、同じである度合いによって、上のようにランク付けできるものではないのです。おこ、激おこ、激おこぷんぷん丸とは話が違うのです。
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話が抽象的になってきましたので、具体例を挙げます。
カレイとヒラメは似ています。私には激似に見えます。
でも、似たもの同士のカレイとヒラメは「同じ」ではないと私は学校で教わりました。カレイはカレイ科、ヒラメはヒラメ科なのだそうです。同じ魚でも、異なる分類、線引きがなされています。
そのように分類されているのであれば、そう決まっているのですから、「そうなんですか、同じではないのですね」と言うしかないじゃないですか?
カレイとヒラメはおそらくDNA的にも同じではないだろうと想像しています。
「似ている」かどうかは印象であり感想であり体感(体感はしぶとく、しつこいです、死ぬまで消えない予感があります)、「同じ」かどうかは教わった知識であり情報であり決まりでありルールである(ほとんどが言葉と文字として知っているだけです)ことが、お分かりいただけたでしょうか。
似ていると同じは似ているけど、同じではないらしいという話でした。
*
恥ずかしい話なのですが、私はナマケモノがサルの仲間だとずっと思っていました。いまもそんな気がしないことはないです。
なにしろ、ナマケモノがアリクイの仲間だと知ったのは、つい数年前なのです。居間のテレビで動物関係の情報番組を見ていて、その話を聞いたときには椅子から転げ落ちそうになりました。
オランウータンとかヒヒの一種だと思い込んでいたのですから。まさか、アリクイとは……。
*知識と体感
ここで思い出した話があるので、紹介します。
知り合いの家の保育園に通っているお子さんの話です。その子は、自分の家にいるポメラニアンと隣の家のハスキーが同じイヌだとは信じられないそうです。
言われてみれば確かに両者は似ていません。ぜんぜん似ていないと言うべきでしょう。
その子は、隣の家のシベリアン・ハスキーをワンワンと呼び、自分が生まれた時から家にいて、ずっといっしょに暮らしてきたポメラニアンを「お兄ちゃん」と呼んでいるそうです。
*
私はその子の味方です。というかその子の思いに強い共感を覚えます。私は言葉と文字で教わった知識よりも体感を大切にして生きています。ただし、知識を軽視しているわけではありません。
たとえば、地球は太陽のまわりを回っていると言葉と文字で教わった話を否定する気などさらさらありません。
私は幼いころから分からず屋と言われつづけて、いまに至る老人ですが、いわゆる地動説を否定するほどの分からず屋ではないつもりです。決まりとルールには従うほうです。
一方で、お日さまが東から出て西に沈むという、視覚的な体感に敬虔な思いをいだきながら生きていることも事実です。私にとって、太陽とお日さまは同じではありません。
日が差す、日差し、日が長くなる(短くなる)、日当たりがいい、ひなたぼっこ――。遠くでぎらぎら輝いている感じの太陽と異なり、日は地上に届いて温めてくれる光、手もとや足もとを照らしてくれる光でもあります。ひだまりなんて実にいい言葉ですね。これは体感にほかなりません。
一方、太陽だと「あつい、熱い、暑い」を連想します。お日さまは「あたたかい、温かい、暖かい」感じでしょうか。
お日さまと太陽――。この二つの言葉と文字は、私に違った振りを感じさせてくれます。それぞれの振りによって、私の心と身体は異なった動きをするようです。
(拙文「お日さまと太陽」より)
日常生活で私は太陽という言葉をめったにつかいません。お日さまと言います。
私はお日さまに手を合わせて瞑目することがありますが、太陽に向かって合掌はしません。その違いが、お分かりいただけたでしょうか。
そんな私ですが、「手のひらを太陽に」(作詞:やなせたかし・作曲:いずみたく)は大好きでよく口ずさみます。この歌の歌詞にある「太陽」にはぜんぜん違和感を覚えません。この詩の世界観に共感しているからだと思います。
*
・太陽、お日さま、お天道さま、sun、soleil は、みんな同じ:一義的、散文的、効率重視:たとえば、マニュアル、実用文、理科や科学の教科書の記述。
・太陽、お日さま、お天道さま、sun、soleil は、それぞれがそれぞれ:多義的、多様性=個性重視:たとえば、詩歌、童話、寓話、説話、神話、アニメにおける記述。
とはいえ、人それぞれです。というか、人は両方の記述を読み書きするし、両方の世界観を行ったり来たりしているのではないでしょうか。私はそうです。
どっちがいいとか、どっちが優れているとか、どっちか一方だけ――みたいな話ではないのです。私にはどちらも面白いしわくわくするので、両方を楽しみたいし、現に楽しんでいます。
*聞いて似ているものが見て似ているとは限らない
・てなずける、手なずける、手懐ける
・なづける、名づける、名付ける
両者は確かに似ています。音が似ています。聞くと似ているのですが、ひらながで表記すると、その違いが見えてきます。漢字をまじえるとさらに異なった印象がします。
聞いて似ているものが見て似ているとは限らないようです。言葉(音)と文字(形)は別物だと私は感じています。
本来、音と形は別々にあるものです。それを、たまたまマッチングさせたのです(もちろん、マッチングさせたのは人です)。
「neko」という音と「猫・ねこ・ネコ」という文字は、偶然に出会ったと言えばお分かりいただけるでしょうか。ご存じのように、他の言語では別のマッチングがあります。
「neko」という音と「猫・ねこ・ネコ」という文字の組み合わせは、世界標準(グローバルスタンダード)ではないのです。必然とはほど遠い、きわめてローカルな(一地域的な)話だと言えます。
*偶然につなげたものが習慣になると必然に見える
「何をおっしゃる、うさぎさん。「neko」って音は「猫・ねこ・ネコ」と書くものなの! これは、なるべくしてそうなっている真理なの! 文句あっか?」
そんな声が聞こえてきましたので、私見を述べます。
偶然につなげたものが習慣になると必然に見えるのです。これは真理うんぬんというよりも心理的な話かもしれません。平たく言うと、気持ちの問題なのです。
規則やルールや制度やおきても同じです。ある集団がその集団の都合でたまたまその時々の事情でそうだと決めたこと、つまりローカルで特殊な決まりなのに、それが続くと必然に思えてきます。
たとえば、辞書の語義や例文は必然ではありません。移ろいの中にある慣用を、ある時点で記述したものですから、たまたまそうなっているだけです。ちょっと気取った表情で撮った記念写真みたいなものです。もちろん、静止画像です。固定されて止まっています。
あと、法律もそうだと思いますが、ここではこれ以上深入りはしません。
猫ではなく、猫にはぜんぜん似ていないのに猫であるとされて、猫としてまかりとおっていて、猫の代わりをつとめ、猫を装い、猫の振りをし、猫を演じているもの。
これが言葉であり文字です。言葉と文字とは、必然と自然と当然の振りをよそおった偶然なのです。人はその偶然に掛けているし賭けていると書けます。
(拙文「猫を手なずけるほうが、ずっと難しい(一義的・両義的・多義的・01)」より)
話を戻しますが、「手なずける」と「名づける」には語源的なつながりはないようです。他人のそら似みたいなものなのでしょう。他人のそら似も「似ている」にはちがいありません。くり返しますが「似ている」は印象なのです。
そら似は空似とも書きますが、「似ている」は空転したり空振りするものなのです。
*
・うつる、移る、写る、映る、遷る
・かげ、影、陰、翳、景
「うつる」と「かげ」の意味の違いは漢字分けると感じ分けることができます。これは本来は中国の文字である漢字に置き換えているから、違った形に見えるし、違った意味からです。
和語では同じ言葉(語)である同じ音を、異なる形(漢字)に変換したとも言えるでしょう。
ある音を、ある形に、マッチングさせたのです。さきほどお話しした偶然の出会いと基本的には変わりません。
漢字が必然の出会いを求めて、荒波の海を渡ってきたとは考えにくいのではないでしょうか。たまたまそうなったと言えます。出会いとはそういうものです。
ですから、「うつる」と「かげ」の話を、現在の日本語で発音すれば、一音異なるだけの、語源的につながらない「てなずける」と「なづける」と同列に扱うことはできません。
*
では、どう違うのか、どう異なるのかを見てみます。文字通り見るのです。文字は見るものですから。
・てなずける、手なずける、手懐ける
・なづける、名づける、名付ける
私が注目するのは、和語に当てられた「手」と「名」という漢字の違いです。
私の印象(感想)では、そこで大きく異なります。手は体の一部です。手で触れることで手なずけるのです。触れるという触覚・触感を思いだしてみてください。
触感では相手つまり対象との距離が接近し、なくなるのです。これは触感だけでなく食感や味覚にも言えることなのですが、視覚、聴覚、嗅覚とくらべると、その距離と接近度という点で大きく違います。
「手」なずけるためには、手を掛け、手で触れる必要があるのです。相手が噛みついたり、針状の突起で刺してきたり、爪で引っ掻いたり、毒牙を向けたりすることを覚悟のうえで、接近し触れる必要があります。
体を張らなければ、手懐けられないのです。無傷で手懐けようなんて虫のいい話だと思いませんか。
一方の「名」づけるはどうでしょう? 呼び掛けるだけです。こちらの都合でつくった音からなる名で呼ぶのですから、相手との距離は触れるよりもずっと遠いはずです。
別に相手が、見える位置にいなくても、勝手にその名を呼び、名付けることさえ可能なのです。
体を張らずにできるのが、名付けるである、と言えるでしょう。名付けるためには、自分が安全なところにいてもいいのですから、これは楽な行為であるにちがいありません。
*猫を懐かせるためには傷を負う覚悟が要る
そんなわけで、猫を名づけるよりも手なずけるほうが、ずっと難しいのです。
It is much easier to name a cat than to tame it.
(ところで、name と tame は似ていますが、same ではありません。また、猫を tame するより name するほうがずっと簡単なのは、猫のせい(blame)ではありません。これは言葉の game なのです。ひょっとすると、私たちは罠に陥っているのかもしれません。Maybe we're framed up. What a shame. 残念無念。非は私たちにあるのかも。Blame on us. Shame on us. そうだとすれば、事態打開のために、呪文に頼るしかなさそう。Open sesame. ひらけゴマ。Bésame Mucho. ベサメ・ムーチョ。)
あつくなって、ごめんなさい。これもあつさのせいかしら。
猫を名づけるよりも手なずけるほうが、ずっと難しい――。
猫を、事物、世界、自然、森羅万象、宇宙に言い換えても(一義的に取るのではなく多義的に取るという意味です)、本筋はそれほど変わらないと思います。
安全な場所で体を張らずに、線引きして分けたところで、世界も自然も宇宙もびくともしないのです。
*
それにしても、あついですね。あつい、暑い、熱い、厚い、篤い、アツい、あついアイツ。
暑いから、ろくなことがないのだ。ええい、面倒くさい。景気が悪いのも、お米の値段が高いのも、政局がめちゃくちゃなのも、法外な関税を課されるのも、そして、世界中で真偽、本物と偽物、オリジナルとコピー、本店の味と支店の味、いい人と悪い人、イイ子とワルイ子、ほんまもんの〇〇と人工とか仮想とか仮装の〇〇、真実と別の真実、人が書いた文字(および文章)と機械が書いた文字(および文章)、人間化した機械と機械化した人間、真理と別の真理、事実と別の事実、虚実、正誤、善悪、正統と異端、正義と悪、正義と別の正義、狂気と正気、感情と理性、マカロニとマ力口二、といった区別が不明になっているのも、このところ便秘気味なのも、さっき階段でけつまずきそうになったのも、ぜんぶ暑さのせいにしてしまえー。そう言いたくなる気持ちは、よくわかりますよね。
(※「マカロニとマ力口二」という文字列を目にしてキョトンとなさっている方は、拙文「人と同じ」をご笑覧ください。)
(拙文「おかしいな みんなあつさの せいにする」より)
分けられないものを分ける、名づけえぬものを名づける。
そろそろ、そうした線引き(分ける/分類・名付ける/命名)の付けがまわってきているのではないでしょうか?
*
ここで、言葉の綾を整理しましょう。
分けて分かったつもりになる(分けると分かるは別物)、なづけてなつかせた気分に浸る(なづくとなつくは別物)。
何ごともなつかせるためには傷を負う覚悟が要るようです。なつくとなづくは聞くと似ていますが、見ると大きく異なります。
なつく・懐く、なづく・名付く。
なづいたところで、なついたことにはぜんぜんならない。
It is much easier to name a cat than to tame it.
*「猫に鈴をつける」
英語の慣用句を思い出さずにはいられません。
「Who will bell the cat?」のように使われますが、次の意味があります。
bell the cat
[他人のために]危険を冒す;猫の首に鈴を付ける;大胆な[あぶない]ことをする
説明します。
これは、イソップ寓話から来た言い回しです。ネズミたちが天敵の猫から自分たちの身を守るために、「誰が猫の首に鈴を付けて危険を知らせるようにするんだ?」と話しあうのです。
もちろん、この物語を考えたのは人間ですから、猫が悪者にされています。寓話とか神話とか説話とか童話では、猫が出てきたら、それは猫とは限りません。ジョージ・オーウェルの『動物農場』がいい例です。詳しい話は、以下の「空を飛ぶ猫、言葉を話す猫、長靴をはいた猫」をどうぞ。
象徴とか寓意とか比喩という言葉で説明もできるでしょう。私はそういう、もっともらしい言葉が苦手なので今回はしませんが。
そもそも、寓話や説話や童話は、そういう言葉を知らなくても味わえるものです。知らないほうがいいかもしれません。
修辞(レトリック)に関する専門的な言葉を知っているかどうかはともかく、コスパやタイパを最優先した、一義的かつ散文的な心構えでは、多義的で多層的で多元的でもある寓話や説話や神話を味わうことは難しいのではないかとは思います。
*
「誰が猫の首に鈴を付けて危険を知らせるようにするんだ?」
鈴を鳴らすどころか、自らが警鐘をがんがん鳴らさなければならないのは私たち人間ではないでしょうか?
というより、もう鈴も鐘も鳴っているのかもしまれません。誰が、何が鳴らしているのか不明なままに。
人間だけの危機ではないのは確かです。直面しているのは、この星に生きる生き物たちを巻き添えにしかねないほどの危機だと思います。
敵を手なずけようとか、自然を手なずけようなんて、絶対に無理です。
*寓話
この記事は「一義的・両義的・多義的」というシリーズとして書いています。
私が特に興味のあるのは、シンプルな言葉遣いでありながら多義的な語り方や書き方が行われる寓話(fable)なのですが、イソップ寓話の「猫に鈴をつける話」はいろいろな解釈ができるし、さまざまな状況に当てはめて考えることができそうです。
以下の動画(1:25くらいの短いものです)の最後に出てくる、年老いたネズミの言葉をぜひお聞きになってください。
私が思ったのは、どんなものもことも、こちらが体を張らないことには、手なずけられないと言うか、なついてくれないだろう、です。
いまの私にとって、切になついてほしいと望んでいるのは老いとやまいなのですが、それよりも自分自身を手なずけるほうがいいのではないか、と心が傾きかけています。
年老いたネズミの言葉は、みなさんにはどのように響くでしょう? 響きは一様ではないにちがいありません。多義的なのです。それが寓話の持つ力だと思います。
*まとめ
今回は、二つのことをお話ししました。
・聞いて似ているものが見て似ているとはかぎらない――。つまり、言葉(音)と文字(形)は別物なのです。
・偶然につなげたものが習慣になると必然に見える――。つまり、別物同士をたまたま、つなげて、それが長く続くと、それ以外はありえない組み合わせに思えてきます。言葉と文字のつながりのことです。
そんなわけで、「猫を名づけるよりも手なずけるほうが、ずっと難しい」と言えるし書けるのです。
手なずけると名づけるは似ていますが、大きく異なります。猫を名づけることで傷を負うことはありません。猫を自然に置き換えても事情は変わりません。ただし、手なずけようとすると話は別です。まったく別物なのです。
It is much easier to name a cat than to tame it.
name と tame は似ていますが、same ではありません。それなのに、こんなセンテンスが書けてしまうのは、英語でも、言葉(音)と文字の組み合わせ(マッチング)は偶然の産物(たまたまの出会い)であって、噛み合っていないからです。
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以上述べたことを説明するためには、言葉と文字の組み合わせだけでなく、言葉と文字と事物の組み合わせ(いわば三位一体)についてお話しする必要があります。それについては、別の記事で取りあげるつもりです。
「三位一体」(それぞれが別物である言葉と文字と事物の三者を同一視することです)については、以下の諸記事をご覧ください。
