猫を手なずけるほうが、ずっと難しい(一義的・両義的・多義的・01)
新しい連載を始めるつもりなのですが、今回はそう思うに至った経緯を書きます。
*偶然を必然や自然や当然に見せかける
「一義的・両義的・多義的」という連載を始めます。きっかけは、昨日「メロディ・フェア(言葉と文字に言葉と文字を重ねる・02)」を投稿したことです。
過去の記事を部分的に引用した記事なのです。久しぶりに目を通したせいか、他人の書いた文章のように感じました。特に気になった箇所を以下に引用します。
韻や似た音の連続は、意味の離れた事物同士に音以外の「似ている」点(意味やイメージ)があること――あらゆる物が多面的だからです――を気づかせてもくれます。
これは比喩や韻、そして同音・類音や類語の反復という広義のレトリックの本質だと言えるでしょう。言葉が事物と事物をつないでくれるわけです。花から花へと飛ぶ蜂や、恋や愛のキューピッドみたいで微笑ましく思います。
(拙文「メロディ・フェア(言葉と文字に言葉と文字を重ねる・02)」より)
どういうことなのかを説明するのために、Melody Fair の出だしを例に取ります。
Who is the girl with the crying face
looking at millions of signs?
She knows that life is a running race,
Her face shouldn't show any line.
たとえば、face と race は韻を踏んでいて、signs と line は韻とは言えないまでも似た音として、歌詞の冒頭でかなり近いところに配置されています。
大雑把な言い方になりますが、西洋の詩や歌詞では、ある二つの語が、ただ音が似ているという理由で近くに置かれることがよくある、という説明ができるでしょう。
単に語呂がいい、響きがいい、印象に残りやすいからです。これは必然ではなく偶然なのです。たまたま口調がいい二つの語を、意味が通じるようにして近くに置いただけでなのですから。
音を掛けているとも言えます。韻とは語の音を掛けることですから、掛け言葉、駄洒落、オヤジギャグ、地口と呼ばれているものと変わらない作業をしているのです。
それでいて、ちゃんと意味が通じるように作文されています。音の一致や類似という偶然によって、まるでそれが必然のように読めてしまうのは、意味や語法や文法が自然に配置されているからにほかなりません。当り前、つまり当然のものとして読めてしまうのです。
偶然
必然
自然
当然
お気づきになったと思いますが、上の四つの語(漢字熟語)は韻を踏んでいるし、意味的にも相通じるものがあります。私の好きな言い方をすると、文字と音とイメージの韻が感じられるのです。
然もありなん。
私はこういう遊びが大好きで、私の書く記事には必ずどこかにこういう遊びが文字として書かれています。
*
私の遊びはさておき、話を戻しますが、Melody Fair の歌詞の出だしでは、音が似ているという理由で配置された複数のセンテンスが意味のある文として読めるだけでなく、音としての言葉の快さという効果もあげているのです。
無関係な言葉(語)同士が、たまたま(偶然)そこで顔を合わせて詩のフレーズやセンテンスをなしている。なぜ、そこで出会ったかと言うと、音が似ているからだけでなく意味をなすからにほかなりません。
・無関係な言葉(語)同士が、たまたまそこで顔を合せて:(偶然)
・詩のフレーズやセンテンスをなしている。:(必然や自然や当然に感じられる)
偶然を必然や自然や当然に見せかける技法(テクニック・レトリック・トリック)――。これが韻であり、掛け言葉であり、駄洒落であり、オヤジギャグであり、地口なのです。【※私はあらゆる言説と文章が、偶然を必然や自然や当然に見せる行為(いわば振り付け)だと思うのですが、長くなりそうなので、それについては別の記事に書きます。】
韻や似た音の連続は、意味の離れた事物同士に音以外の「似ている」点(意味やイメージ)があること――あらゆる物が多面的だからです――を気づかせてもくれます。
(……)
言葉が事物と事物をつないでくれるわけです。
そうことなのです。
・言葉が事物と事物をつないでくれるわけです。
・言葉の語としての音の類似や一致という偶然が、それらの語の指し示す事物と事物(語の意味と考えてもかまいせん)をつないでくれるわけです。
*駄洒落やオヤジギャグは、掛け言葉の別称であり蔑称でもある
言葉が事物と事物をつないでくれる――。このことを、いわゆる駄洒落とかオヤジギャグと呼ばれている掛け言葉で、よく知られた二つの例で考えてみましょう。
・アルミ缶の上にあるミカン
・パンダが食べるのはパンだ。
上の二つのフレーズには意味があります。意味がありますから英語にも翻訳できるでしょう。
意味があるとはいえ、それぞれの光景を思い描くとシュールに感じらたり、馬鹿馬鹿しかったり、「で?」と言いたくなるものです。ナンセンス(nonsense・無意味・くだらない)というふうにも言えます。
ところで、無意味にも意味があります。国語辞典で「無意味」を調べるとちゃんと語義が書いてあるのです。無意味に意味があるなんてなんてナンセンスな話なのでしょう。
冗談はさておき、「アルミ缶の上にあるミカン」では、「アルミ缶」と「ミカン」が二重写しになっています。また「パンダが食べるのはパンだ。」では、「パンダ」と「パン」が頭の中で二重写しになるわけです。
二重写しというのは、ある意味で両義的なのです。「アルミ缶」に「あるミカン」が重なり、「パンダ」に「パンだ」が重なっている。
「ニューヨークで入浴」もそうです。私の頭の中では、トランプタワーの屋上にバスタブを置いて炎天下で入浴している大柄な男性(身長190センチくらい)の姿が浮びます。思わず、顔をしかめたり、にやにやしている自分がいるのです。
*
アルミ缶とミカン
パンダとパン
ニューヨークと入浴
それぞれまったく関係のない事物同士が、言葉としての音の類似と一致だけで、一つのフレーズで出会っているわけです。
「解剖台の上でのミシンと蝙蝠傘の偶発的な出会い」(「マルドロールの歌」ロートレアモン伯爵)のように。
偶然(無関係・無意味)が、然もありなんというぐあいに、必然・自然・当然(関係あり・意味あり)に感じられるし見えてしまう――。
さきほど上で見た、Melody Fair の掛け言葉(ほぼ韻)と同じことが起きているのです。
駄洒落やオヤジギャグは、掛け言葉の別称であり蔑称でもある――。と私は声を大にして言いたい。実際、noteの記事で、このギャグを何度つかったことか、覚えていません。
*猫を手なずけるほうが、ずっと難しい
ところで、上の三つの掛け言葉のフレーズを英語に翻訳できるでしょうか? また、Melody Fair の出だしを日本語に訳せるでしょうか?
いまは機械をつかえば、容易に翻訳できる時代です。
できるにはできるのでしょうが、掛け言葉とほぼ韻(音の類似と一致)を他言語でも反映したかたちで翻訳するのは可能なのでしょうか?
「振る」と言えば、foolとfullが英語の原文にあり、それが掛詞(かけことば)になっていて、それを日本語でも掛詞にした、そんな話を柳瀬尚紀先生から伺った記憶があります。
(拙文「ルビと約物と字面」より)
「英語の掛け言葉は必ず日本語訳でも掛け言葉にする」が信条だった柳瀬尚紀先生なら、英作文の達人でもあったので、できただろうと思います。残念ながら故人です。
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僭越ながら、私がつくった駄文があるので紹介します。
It is much easier to name a cat than to tame it.
このセンテンスは、言葉の音を掛けているだけでなく、言葉の意味も掛けているつもりなのです。
猫の話をしながら、事物一般とか森羅万象の話もしているという意味です。ひいては、世界や自然の話にも取れるでしょう。確かに自然を手懐けるのは自然を線引きして名づけるよりもずっと難しいです。
比喩とか寓意(アレゴリー)とも言えます。比喩や寓意を用いると、文や文章は両義的に取れたり多義的に取れたりします。
このギャグもnoteで何度かつかったものです。以下の記事がいちばん分かりやすいかもしれません。
なつかないものをてなずけるためになづける
懐かないものを手懐けるために名付ける
人は懐いてくれない世界を手なずけるために名づけている。森羅万象を飼いならそうとして名前を与えている。
・手なずける・なつける・tame、名づける、name
・なまえ・名前・生餌・namae
世界はなついてくれない。It is easier to name a cat than to tame it.
世界を世界と名付けても懐かない。猫を猫となづけてもなれてくれない。
(拙文「決めた「同じ」、はかった「同じ」、はかられた「同じ」」より)
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It is much easier to name a cat than to tame it. 猫を手なずけるよりも猫を名付けるほうがずっと容易だ。
猫を名づけるのに比べれば手なずけるほうが、ずっと難しい――。
現界(現実)にある事物はいじるのが困難だったり不可能だったりしますが、言界にある言葉(音声)と文字は比較的容易にいじることができます。
現界は人にとっては、たどり着けないし、手に負えない(手なずけることができない)「何か」でしかありません。その現界を分けて、つまり線引きして言葉や文字に置き換えて(名付けて)、いじりやすくする。
たとえば、多義的で多面的で多層的で多元的でもあるだろう事物や世界を、その多義的な部分をいわば掛け=賭けとして、言葉の音や意味を掛けることで、つないでみることができるのではないでしょうか。実際、人はそうやってきたのではないでしょうか。
*まとめ
・名付けると手なずける
・name と tame
・猫を名づけるよりも手なずけるほうが、ずっと難しい
・It is much easier to name a cat than to tame it.
韻や似た音の連続は、意味の離れた事物同士に音以外の「似ている」点(意味やイメージ)があること――あらゆる物が多面的だからです――を気づかせてもくれます。言葉が事物と事物をつないでくれるわけです。
そうしたことから、両義的であったり多義的な文や文章が書けるのではないかと思います。
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いじりやすい言葉と文字は、いじりにくかったり、いじることのできない事物や世界や自然の代わりなのです。
人は言界で現界の辻褄合わせをしている幻界にいる。人は言葉の辻褄合わせで現実の辻褄合わせをしたつもりになっている――。そんな見方もできます。
It is much easier to name a cat than to tame it.
猫ではなく、猫にはぜんぜん似ていないのに猫であるとされて、猫としてまかりとおっていて、猫の代わりをつとめ、猫を装い、猫の振りをし、猫を演じているもの。
これが言葉であり文字です。言葉と文字とは、必然と自然と当然の振りをよそおった偶然なのです。人はその偶然に掛けているし賭けていると書けます。
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