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決めた「同じ」、はかった「同じ」、はかられた「同じ」

 大切なことがあります。
 仮に「これは似ています」を教えることになっても、「これは似ています」とは教えないはずです。フレーズとして迫力がないからです。説得力にも欠けます。
「これは似ています」は「これは同じです」と言い換えられるにちがいありません。擬装とか偽装です。
(拙文「「これは同じです」」より)

 今回は、上で引用した部分の続きをお話しします。


分類という名の線引き


 まず分類について考えてみます。

 分類というと厳めしい感じがしますが、「線引き」という言葉に置き換えると、分類が線を引く行為であることに気づきます。

 さまざまな動物たちの絵や写真を、子どもたちに見せて分類させる。そんなクイズというか遊びを、教育テレビや情報番組で見かけることがあります。

 子どもたちはいろいろな分け方をします。その分けた結果と理由に、各人の個性や考え方が感じられて、実に興味深いです。

 草食か肉食か、空を飛ぶか飛ばないか、二本足で立つことがあるかないか、メスが子どもを育てるかオスが育てるのか、可愛いか可愛くないか、動物園にいるかいないか、鳴くか鳴かないか……。

 主に見た目による分け方、見ることで確認できる分け方であることが大切な点だと思います。少し厳めしい言葉で言うと、観察結果に基づく教わった知識です。

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 可愛いか可愛くないかという分け方をした子どもさんには、拍手を送りたくなりました。同時に、私自身のそんなふうに生き物を見ている傾向に気づき、はっとしたものです。

 いい悪いの問題ではなく、そんなふうに生き物を見るのがヒト(人というよりヒト)だという意味で言っています。私たちも習性(個性とも言えるでしょう)を持った生き物なのです。

見ることは線を引くこと


 で、ふと気づいたのです。それぞれの子どもの分け方を見て、子どもたちを分けているし、線引きをしているのではないか、と。私が、です。

 常識的な考えの子ども、ユニークな思考の持ち主、ひょうきんな子ども、子どもらしい子ども、理科の授業を真面目に受けていると推測できる子ども、大人顔負けの科学者のような子ども……。

 いま挙げたのは、印象であり感想であり決めつけにほかなりません。私は、そうやって線引きして分けているのです。

 反省すべきだと思う一方で、こうした印象による線引きをやめることはできない。やめるとすれば、ヒトをやめることではないか、という思いがあります。

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 もうひとつ気づいたことがあります。子どもたちは生き物たちの絵や写真を見て分けているということです。

 絵や写真ですから、一瞬を描いたり切り取っています。その絵や写真を見て、その一面だけで生き物たちを分けて線引きをしてしまうこともあるでしょう。

懐かないものを手なずけるために名づける


 それぞれの生き物は多種多様な生き方をしています。形や姿を大きく変えるものもいます。

 卵 ⇒ 幼虫 ⇒ さなぎ ⇒ 翅(はね)をつけた成虫

 たとえば、上のような変化をする生き物もいます。幼虫と成虫を見比べたら同じ生き物だとはまず分からないでしょう。

 でも同じ名前がついています。いや、付いているのではありません。付けられているのです。ヒトによって、です。

 さかいはありません。少なくとも外にはありません。分類、名前、国境、階層、序列といったものは人の頭のなかにしかないという意味です。
 名前もありません。少なくとも人の外、つまり自然界にはありません。言葉で分けた結果である名前は、人の頭のなかにしかないのです。
 線もありません。もしも、まぼろしをなぞるとすれば、それには輪郭という線がなければなりませんが、対象がまぼろしである限り輪郭という線も、人が頭のなかで描いたものであるはずです。
(拙文「写生、描写、作文」より)

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 なつかないものをてなずけるためになづける
 懐かないものを手懐けるために名付ける

 人は懐いてくれない世界を手なずけるために名づけている。森羅万象を飼いならそうとして名前を与えている。

手なずける・なつける・tame、名づける、name
なまえ・名前・生餌・namae  

 世界はなついてくれない。It is easier to name a cat than to tame it.

 世界を世界と名付けても懐かない。猫を猫となづけてもなれてくれない。

名前、名称、呼び名、あだ名


 名詞とは、ある事物や現象の、ある一点(属性)に注目した名称であり呼び名なのです。

 一点で一本化しようとすることに、強引さや大雑把さや杜撰ずさんさや愚かさや怠惰や横着や迂闊うかつや恐ろしさや、時には悪意――このように「一点で一本化しない」のは意外と大変です――を私は感じます。

 名詞の使用は暴力ではないか、とさえ思うことがあります。 

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 動植物や星座の名前がわかりやすいでしょう。あだ名としか思えないものがたくさんありませんか? 

 名詞、名称、呼称なんていうと厳めしく偉そうですが、しょせん呼び名であり、ある特徴をとらえた短いフレーズ、つまり、ぶっちゃけた話が、あだ名ではないでしょうか。

 生物の名前で例を挙げようと思いましたが、あまりにもその相手に失礼なネーミングが多い(自然に沿ってちゃんと生きている生き物への侮辱です)ので遠慮しておきます。

 な○けもの、あ○うどり、ぞう○むし、さ○のこしかけ……。

 名前(ヒトがとても大切にしているものです)に相当するものは自然界には見当たりません。名前(ひょっとするとヒトにとっての原点です)は不自然なのです。ひょっとすると反自然なのかもしれません。

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 この問題をめぐって、ぶ厚い本を書いた人もいます。

 その本の中では、最初のほうで、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの文章を引き合いに出し、分類について書かれています。「分類」、つまり「分ける」ことです。

 申し遅れましたが、ミシェル・フーコーの『言葉と物』のことです。この著作の主要なテーマは「線」――線引きだけでなく視線や眼差しを含みます)ではないか、といまになって思います。

 もう邦訳は手もとになくて残念なのですが、先日私のXのタイムラインに英訳「The Order of Things」(原題はLes Mots et les Choses: Une archéologie des sciences humaines)の序文の出だしが流れてきたので、リポストしました。

 興味のある方は、以下のポストもご覧ください。

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「名付ける」ことは「分ける」ことと同時に起こっています。事物や現象は線引きして分けなければ名付けられないのですから。

 目の前にある物は切り分けられていますか? あちこちに線が引いてありますか?

(人の)世界は言葉でできている。人は言葉で世界を見ている。⇒「似ている、そっくり、同じ(世界は言葉でできている)」

 名詞は見えません。見えるのは目の前にある物なのです。生物であったり、無生物だったりします。なんて言いながら、もう分けていますね。

 私はヒトをやめるわけにはいかないし、やめるつもりもありませんが、自分が言葉をつかいながら、世界を線引きして分けていることには意識的でありたいと思っています。

 話を少し変えます。

わける、わかる、はかる

 
 分類とは「分ける」ことですが、「分ける」ためには「測る(量る)」必要があります。「測らない「とどこで「分けていいのか」が「分からない」のです。

 ところで、わけるとわかるとはかるは似ています。この三つを分けて考えてみましょう。

 以下は、私がよくつかう見取り図(まとめ)です。

*わける:人が得意な行為。ヒトの歴史は「わける」の連続。分割、分離、別離、分断、分類、区別、差別、分岐、分別、分解、分節、分担、分裂、分配、分け前、身分、親分・子分。言葉と文字の基本的な身振りは「わける」。つかう道具は、縄と刃物とペン。線を引き、切り、しるす。

*はかる:人が最も苦手とする行為。人は、「はかる」ための道具・器械・機械・システム(広義の「はかり」)をつくり、そうした物たちに、外部委託(外注)している。計測、計数、計算、計量、測定、観測。とりわけ機械やシステムは高速かつ正確に「はかる」。誤差やエラーが起きることもある。 

*わかる:人が自分は得意だと思っている行為。「わける」は見えるが、「わかる」は見えない。見えないから、その実態も成果も確認できない。お思いと同様に共有できない。行為や行動と言うよりも観念。一人ひとりのいだく思い込み。解釈、判断、判定、判決、理解、誤解、解脱、悟り。

 世界を線引きして分けたところで分からない。たとえば、世界地図、図鑑、百科事典、専門書(territory・テリトリー・専門分野・領域・縄張り、テリトリーによって異なる線引きがされています)。

 世界にはいろいろな世界地図がある(この「世界」って何でしょう? 単なる言葉だと思います、界隈(界の隅っこ)と同義だと思います。世界というものがあるのではなく、世界という言葉があるという意味です)。

 世界地図では言語や国家や政権によって地名という線引きにも違いがあるようです。あとで述べますが、いきなり言葉による線引きに変更があって、地名じゃなくて、海の名前が変わることが最近ありました。

 さまざまな分け方がある。百家争鳴。百花繚乱。喧喧諤諤。3人のゲンちゃん

 ああだ、こうだ。ああでもない、こうでもない。ああも言える、こうも言える。

・世界をはかっても、わけても、ぜんぜん、わからない。わからずや。
・世界をはかって、わければ、よーく、わかる。ものわかりのいいひと。

 乗りのいい人、乗りの悪い人。

 人それぞれです。

決めた「同じ」、はかった「同じ」

 
 大雑把に言うと、決めた「同じ」と、はかった「同じ」があるような気がします。

現在では生物の分類法の主流は「見て分ける」からDNAなど、広義の「はかり」をもちいてはかった結果(もちろん数値化できます)で判断する、つまり決めているようです。

 目で見てわけてわかることで、これとあれは「同じ」だと決める。これは「同じ」というよりも「似ている」で決めているように私には思えます。

「同じ」は広義の「はかり」、つまり道具、器具、器械、機械、システムで「はかる」しかありません。

「はかる」を広義の「はかり」に代行してもらい、その結果を知識として広める、伝える。人類は、そうやってここまで来ました。

 同時に、並行して、人類は「はかり」に頼ることなく、主に視覚を頼りに「わけた」結果も知識として、広め伝えてきたようです。

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 はかって得た知識であれ、見て分けた知識であれ、最終的には、一部の人が決めたことが広まり、伝わってきたと言えるでしょう。

 よし、これに決めた。これで決まり。

 決める(決めつける)、決まり(決めつけ)、ルール、掟、法、制度、慣習・習慣、癖。

 そういうことなのかもしれません。

     *

 もしそうであるなら、線を引き直したり、取り消したりといった、すったもんだが、これまでくり返されてきて、いまもくり返されているのが分かる気がします。

線を引く、引いた線を取り消す、引いた線を引き直す、引いた線を消す。
すったもんだ、争い、紛争、戦争、消滅。

 そういうことなのかもしれません。決めたことなら、なかったことにできるし、決め直せばいいのです。

 いまでは、広義の「はかり」である機械やシステムが人に代わって「はかる」だけでなく「決める」時代になってきました。

 その決めた結果を、人がさらに決めつづけることができることを祈るばかりです。

はかりがはからないと言えるのか?


 はかりがはからないなんて、言えるのでしょうか?

 あやまってもあやまらない、はかりは、はかるだけでなく、はかるかもしれません。

 誤っても謝らない、はかりは、測る・量る・図る・諮るだけでなく、謀るかもしれません。

(※最近は謝る振りを学習するはかりがいるようです。そのうち誤る振りも学習するにちがいありません。人に寄り添う振り(人に取り入る術)を学習しているわけです。「間違えちゃった。ごめんなさい」「よしよし、おまえも意外とかわいいやつだな」。振りに振りまわされるのは人のいいヒトばかり。

 好きな言葉ではないのですが、「人たらし」(「ヒトたらし」と書くべきか)を連想します。どんどん人ははかりに飼いならされていく(依存し嗜癖していく)のかもしれません。はからずも。とはいえ、これもまた人それぞれでしょう。)

     *

 謀るといっても、機械やシステムといった「はかり」の場合には、それに意思や意志や意図や意識があるかどうかはさほど問題にはなりません。

 人は生きていない物に勝手に振りを見てしまうからです。人類は太古から一貫して擬人を基本とする呪術の世界に生きています。生きているいないにかかわらず、物には魂が宿っていると無意識に信じているのです。

 擬人を基本とする呪術の完成形としては文字と映像があります。人は飽きもせず画面で文字と映像を見ているのが証左です。

      *

 大切なことなのでくり返します。

 謀るといっても、機械やシステムといった「はかり」の場合には、意思や意志や意図や意識があるかどうかはさほど問題にはなりません。

 人は擬人を基本とする呪術の世界に生きているために、何にでも「振り」を見てしまいます。

 困ったことが一つあります。

 人は「似ている」と「真似ている」の区別が苦手なのです。「はかり」が「謀っている」のか「謀っている振りをしている」のかの区別が苦手だという意味です。

 振りの区別が苦手だなんて圧倒的に不利だと言えるでしょう。

     *

 似ているものをつくってしまった。それだけではなく、似ている振りをするものまでつくってしまった。

 振りをしているかしていないかの区別が苦手なのに、振りをするものをつくってしまった――。

 つまり、人は偽人に擬人のお株を奪われたとも言えます。⇒「「似ている」と「真似ている」は似ている」

 そんな気がします。

     *

 話を戻します。

「黒いカラスは白いサギである」


 線引きと線の取り消しと引き直しに話を戻します。話が抽象的にならないように、例を挙げます。例え話です。 

 よくある話なのです。これまでも、いまも。

     *

「きょうから、黒いカラスは白いサギである」

御意あほか」、「おっしゃるとおりです冗談はやめてほしい」、「異議なしそんなの知るか

 これは、まだましです。

     *

「きょうから、黒いカラスは白いサギである」

御意御意」、「おっしゃるとおりですおっしゃるとおりです」、「異議なし異議なし

 こうなったら、おしまいです。

「異議なし」が文字通りの「異議なし」、つまり「異義なし」になります。ブレないのです。

     *

「私たちは、「きょうから、黒いカラスは白いサギである」と私が言って、みんなが従うような政権と党ではありません。」

御意御意」、「おっしゃるとおりですおっしゃるとおりです」、「異議なし異議なし

はかられた「同じ」


 上のたとえ話が恐ろしいのは、言語が一本化されているからです。

 一本化され、決められたとおりの言葉が話されている、と言えば分かりやすいかもしれません。

「同じ」しかない言葉の世界です。個人レベルの言葉が奪われている――違ったことが言えないし思考できない世界。

 はかられた「同じ」というものがありそうです。謀られた「同じ」です。

はかる【計る・測る・量る・図る・謀る・諮る】
《諮・計》よいわるいなど見当をつける。
《謀・計・図》企てる。もくろむ。工夫する。
《謀》欺く。だます。

広辞苑より

 一本化が極端に進んだ「同じ」だけの世界では、上のような辞書の語義③~⑤は存在しないにちがいありません。

「はかる・測る・量る」で十分だと決められるでしょう。もしそんなことが起きるとすれば、誰が決めるのでしょう? あるいは、何が決めるのでしょう?

     *

 上のたとえ話は、以下の記事から引用したものです。ただし、加筆して線を引き直した箇所があります。

「黒いカラスは白いサギである」 ⇒ 「きょうから、黒いカラスは白いサギである」

 その記事ではとても恐い話をしています。少なくとも私にとっては。最近、こんなことが頻繁に起きていますが、恐ろしくて仕方ありません。

 ある日ある時、突然線引きが変わるのです。ころころと変わる場合もあります。はからずも。

 人はそう簡単に一本化されないし、「同じ」にはならない。そう信じています。

 よろしければ、お読みください。体調を考慮して、今回はこれで失礼します。

 ここまでお付き合いくださり、どうもありがとうございました。

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