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3人のゲンちゃん


まえがき


「2人のゲンちゃん」の続きです。「2人のゲンちゃん」と同じく、以前のアカウントに投稿した記事の再掲です。

「2人のゲンちゃん」にも書きましたが、私の自分語である10個の「げんかい」とは関係のない話をします。

 少しだけ似ていますが、「他人のそら似」です。では、本文に入ります。

3人のゲンちゃん


 ところで、唯○論って、ありますね。で、思い出したのですけど、唯幻論と唯言論とのあいだで論争があったとか、なかったとか、そんな話がありました。昔の話です。いわば、ゲンちゃんとゲンちゃんとの喧嘩です。

 みなさん、ここで、この記事のタイトルをご覧ください。「3人のゲンちゃん」となっています。そうです、ゲンちゃんは、もう1人いるのです。ひょっとすると、もっといるかもしれませんが、3人にとどめておきます。今回は。

     *

 では、ご紹介いたします。「唯現論のゲンちゃん」です。"唯現論"でネット検索すると、複数のゲンちゃんがヒットしますが、そのご使用中のゲンちゃんのことは存じません。世の中には、同名のヒトがたくさんいます。

 ここでの、ゲンちゃんは、「げん・現・現実・事実・うつつ」という連鎖を信奉していまして、「言」と「幻」にならってフレーズ化しますと、「現から見れば=現に重点を置けば、すべては現=現実=「今、現に在る事実・状態」である」となります。

 また、現が、特権的=メタな立場にある、根拠=基盤=背景=理由として、ヒトは現実に「現在する=現に存在する」事象以外を認識できないという説=フィクション=イメージ=物語がある、ともなります。

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 で、この現ちゃんの意見ですが、言ちゃんと幻ちゃんの言っていることが同じなのと同じく、同じことを言っています。

 いちばん大切だと思われる「ヒトは広義の「言語=言葉」でしか関係を築けない」=「ヒトは本能が壊れた生き物だ」=「ヒトは現実に「現存する=現に存在する」事象以外を認識できない」という部分が同じことを言っています。

 さらに単純化すると、「言語の存在=本能の壊れ=現実の認識」は同義です。

「どこが同じなんだ?」「なぜ同義なんだ?」と疑問をいだいている方のために説明します。

 3人のゲンちゃんは、「ヒトには、知覚、および、認識の両面において、限界=欠陥がある」と言っています。

 言い換えると、「ヒトは、全知全能ではない。=ヒトには、出来ないことと、分からないことがたくさんある」、あるいは「ヒトは、この惑星に生息する一介の生き物にしかすぎない」と認めている点で、3人の言っていることは同じだという意味です。

 ですから、「だから、ぜんぶ、この私に任せなさい」と三者が一様に、言っている=うそぶいている=語っている=騙っているのでしょう。

 決定的に、同じなのは、

*唯言論=唯幻論=唯現論が、どれも「ゆいげんろん」と読める。=3人とも、「ゲンちゃん」だ

という点です。

 というのは、もちろん冗談でして、そうではなくて、

*唯言論=唯幻論=唯現論が、どれも「唯○論」である。
=3者とも、「ぜんぶ、私に任せなさい」「ぜんぶ、私が面倒見よう」と言っている。
=できもしないことを言っている。
=夢を語っている。
=希望を述べている

という点が同じです。

 蛇足ですが、

*すべてを「げん」に還元(かんげん)する(※「還元主義= reductionism」の「還元」です)。
=すべてを「げん」で説明する

ことはできません。なぜなら、

*たったいま、記述した立場=考え方は、言=言語だからであり、幻=幻想だからであり、現=現実だからである

からです。

*問題は、「唯」と「すべて」にある。

と言えます。

*「唯」と「すべて」は、肯定に見える=思えるが、実際には否定である。「唯」と「すべて」という言葉=イメージで、何かを特権化する=メタな立場に置く=上位に置く=「他=多」を排除する、という作業を行ったとたんに、ヒトは不可能性(できっこないことを口や文字にしているだけ)に直面している=もてあそばれている

という事態に陥ることを、忘れてはならないと思います。早い話が、

*「唯」と「すべて」という言葉=イメージは、ローカルな存在である「ヒトにとって荷が重すぎる」=「ヒトには扱えない」

ということです。

(駄目押しに申しますと、「唯」を(限りのある)自分に冠することは、自分を全面的に肯定する身振りに見えながら、自分を全否定してしまう身振り、言い換えると、肯定を演じながら否定を演じてしまう身振りなのです。)

     *

 ここで飛躍しますが、だからこそ、

*ヒトは、必死で記述する。=記述するしか方法がない。=記述することで自らの「無力=無能=敗北」を認めている。

のです。

(なお、記述するというのは、非効率的だという意味で、ちんたらした作業でありながら、記述されつつある言葉や文字「だけを選んで」記し、それ以外の言葉や文字を「すべて取捨する」こと、つまり「消す」という血生臭く残虐な作業であることを忘れてはなりません。)

 万が一、ヒトが全能に近い存在であれば、記述などという、まどろこしい=ほぼ愚かな作業に、没頭=熱中しない、とも言えます。ヒトが血道を上げている

*記述とは、既述であり、奇術もしくは詭術でもある。

なんて、なかなか言えていますよね。

 したがって、メタな立場にたつ=この惑星の王者を気取るなんて、10年早いどころか、100万年早いと言ったとしても、言い過ぎ or 言い足りない、と言えそうです。

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 とはいうものの、3人のゲンちゃんは、全知全能ではぜんぜんなく、「ぜんぶ、私に任せなさい」「ぜんぶ、私が面倒見よう」という立場には全然ないにもかかわらず、それなりに有効性=効果=影響力を備えていて、ヒトびとのためになっていることは確かです。

 誰がいちばん偉いかなんて考えることはありません。それぞれの活躍の場はあるわけです。ヒトはローカルな存在でしかない。棲み分け=住み分けです。

 それはさておき、現実問題として、要は、ヒトは生きていくうえで、自分にとって「気持ちいい=快である」ゲンちゃんと付き合えばいい、のです。ただし、

*「唯○論」の、「唯」は外しましょう。「○論」だけで、いいじゃありませんか。

 そうすれば、唯言論、唯幻論、唯現論、が全部、「げんろん」となります。「げんろんの自由」は保障されています(※公平を期するために、あえて「言論の自由」とは記述しませんでした。気遣いと気配りが何よりも大切でございます)。

     ◆

 今回の話を簡単にまとめます。

 限界のある存在である○が、唯○論というかたちで「ぜんぶ、○に任せなさい」と論を張る場合には、唯という肯定の言葉によって、かえって○の限界を露呈してしまい、その結果、○を否定することになる。
 また、論を張るさいにおこなう記述という行為は、記述されつつある言葉や文字だけを選んで記し、それ以外の言葉や文字をすべて取捨する作業にほかならない(記述とは奇術というより詭術である)。「せんぶ」を掬えないし救えないかたちで、これまた○の限界を露呈してしまうことになる――。
 たとえるなら、すかすかのザルで池の水は掬えないし、水が必要な人たちを救えないという話です。
 人は神ではありません。限界のある人の思いつくもので、全能の○などはないのです。

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 なお、ゲンちゃんは、これ以上いないもようです。

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 明日は投稿をお休みいたします。体調が悪いので、リアクションができなかったり遅れがちになります。申し訳ありません。

#言葉 #まぼろし #幻想 #現実 #メタ #記述 #既述 #奇術 #詭術