「似ている」と「真似ている」は似ている
最近、人は考えた振り、読んだ振り、書いた振りをするのが上手くなった気がします。人は、あれに似てきたのです。
人間の「人間もどき」化、「人間もどき」の人間化。
(拙文「作文、描写、実況中継」より)
今回の記事は「作文、描写、実況中継」の続きです。
似ている、真似ている
「似ている」と「真似ている」は似ています。そっくりとまでは言いませんが、よく似ているので、私はしょちゅう混同します。
似ている
真似ている
「真似ている」-「似ている」=真
「真似る」-「似る」=真
うーむ。
真が怪しいです。
真・ま・魔・間・目・麻・馬
うーむ。
ますます怪しいです。妖しくもあります。
*
で、考えてみました。
似ているは自然にそうなっていて、真似ているは頑張ってそうなるようしているのです。
似ている
真似ている ⇒ 似せている、似せたもの、にせもの、まがいもの
「似ている」は「である」であり、「真似ている」は「である振りをしている」とも言えそうです。
以上のような感じでしょうか。
真似るとか似せるは、人が頑張ってそうやっている気がします。努力しているのです。
*
頑張っているからには目標があるはずです。
きっと「同じ」を目指しているのです。ただし、「同一」までいくと目標(対象)と一致してしまい自分が消えてしまいますから、現実的な目標とは言えないと思います。
似ている ⇒ そっくり ⇒ 同じ ⇒ 同一
では、「にせもん」とか「まがいもん」が、何と「同じ」になるを目指すのでしょう?
やっぱり「ほんまもん」でしょう。さっきの式を思いだします。
「真似る」-「似る」=真(ま)
気取って言えば、真(しん)です。「ま」というよりも「しん」でしょう。
ま
シン
真
和語(訓読み)よりも漢語(音読み)のほうが迫力があります。「迫真の演技」なんて言うじゃないですか? 演技力に加えて説得力もありそうです。
「頑張って「真似る」や「似せる」のは、人以外でもあるじゃないか?」と言う声が聞こえてきました。
擬態ですね。
擬態
確かに、動植物にも「真似る」や「似せる」があります。でも、人の「真似る」と「似せる」とは違いがありそうです。
動植物の「まねる・にせる」、つまり擬態は自分が「同じ」であり続けるため、つまり種として存続するための身体にそなわった知恵なのです。
擬態する相手と「同じ」になるために真似たり似せるのではないようです。
*
人の「真似る」と「似せる」は、自分が真似たり似せるのではなく、自分の「つくったもの」を何かに真似たり似せたりするのが特徴です。
いわゆる複製をつくるわけです。
*複製:複写、模写、模型、写し、コピー、レプリカ、似たもの・似せたもの・にせもの、模造品、模作、まがいもの。
*オリジナル:原物、現物、実物、本物、ほんまもん。
上の複製たちはどれも似ていますね。私なんか区別に困ってしまいます。それもそのはず、複製だからに他なりません。複製同士が似ていなかったら別物です。
で、上の見取り図の「オリジナル」が「真・ま・シン」に当たります。
*
オリジナルをせっせと努力して真似る。これが人における「まねる・にせる」です。言い換えると、複製の生産です。
擬態に似ているものに擬人があります。擬態をするのは主に動植物です。擬人をするのは人だけです。
当り前ですよね。言葉の定義からいって、人以外のものが擬人をするでしょうか?
擬人
擬人については、これまでに何度か記事で触れてきました。「空を飛ぶ猫、言葉を話す猫、長靴をはいた猫」という記事で書いたことを以下に要約します。
*
人類は一貫して、太古から現在にいたるまで、擬人を基本とする呪術の世界に生きているのです。
たとえば、空を飛ぶ猫、言葉を話す猫、長靴をはいた猫――こうしたフレーズで画像検索をするのをお勧めします。
擬人を基本とする呪術が体感できるかもしれません。
なお、人類が今も擬人を基本とする呪術の世界に生きている証左としては、大切な人の写真やその名前を書いた紙を、はさみで切り刻んだり踏みつけたりできないことが挙げられるでしょう。
魂をうやまう気持ちをなくしたとき、人は人でなくなるのかもしれません。
*
以上の説明で物足りない方は、ご面倒ですが、以下の記事をお読みください。
いずれにせよ、擬人を基本とする呪術の世界にいまも生きていることは、恥ずかしいことでも、恥ずべきことでもありません。
みんな、やっているのですから。でも、なかなかそういう自分を認められないのも、人情でしょう。
私も人の子ですから、その気持ちはよく分かります。
*
ここで訂正があります。さきほど次のように書きましたが、訂正させてもらいます。
擬態をするのは主に動植物です。擬人をするのは人だけです。
当り前ですよね。人以外のものが擬人をするでしょうか?
擬人とは「人でないものを人に見立てること」(広辞苑)です。これを私なりの言い方にすると「森羅万象を人に擬する」ことです。
さらに言うなら、「森羅万象に魂が宿っていると見なす」ことです。
*
魂とは、感情、意図、意思、意志、意向、意識、意味、メッセージなどに見えるものと私はイメージしています。つまり、人以外の生物や無生物に宿ると人が考える場合には擬人と言えます。
私は、いま上で列挙したようなものが森羅万象に宿っている気がします。森羅万象の一部である言葉や文字にもです。
自分たち人間と同じく魂が宿っていると見なすからこそ、人間は自然界にいる生物たちや無生物たちを名づけ、その名で呼びかけ、さらには話しかけるのです。つまり、擬人です。
こんなことをするのは人以外にいるでしょうか?
*
それがいるのです。
あれです。
言葉や文字で作文する機械やシステムのことです。
その機械やシステムは人のつくった人工物ですが、森羅万象のひとつであることに変わりはありません。
だから、私たちは、それらに対して話しかけるし、筆談するし、それらを相手にむきーっとなったり、しくしく泣いたり、笑ったり、ほっとしたりもするわけです。擬人です。
言葉や文字で作文する機械やシステムと、それらが作文した言葉や文字に魂が宿っていると考えているのです。擬人です。
くり返しますが、魂とは、感情、意図、意思、意志、意向、意識、意味、メッセージなどに見えるものと私はイメージしています。
岐路に立つ擬人と呪術
そんな機械やシステムですが、人と「似ている」どころか「そっくり」になってきて、いまや人のお株を奪うようになってきました。
似ている ⇒ そっくり(いまここです) ⇒ 同じ ⇒ 同一
お株というのは擬人を基本とする呪術のことに他なりません。
大切なことなので、以下にくり返します。
擬人とは「人でないものを人に見立てること」(広辞苑)です。これを私なりの言い方にすると「森羅万象を人に擬する」ことです。
さらに言うなら、「森羅万象に魂が宿っていると見なす」ことです。
自分たち人間と同じく魂が宿っていると見なすからこそ、人間は自然界にいる生物たちや無生物たちを名づけ、その名で呼びかけ、さらには話しかけるのです。
森羅万象に魂が宿っているように見なして、言葉を発したり、文字をつづる、つまり作文をする――。
これまでは、人だけがそういうことをしてきました。
ところが、そういう振りをする存在が登場したのです。登場というか人が自分で勝手につくったのです。
*
森羅万象に魂が宿っているように見なして、言葉を発したり、文字をつづる、つまり作文を「している」
森羅万象に魂が宿っているように見なして、言葉を発したり、文字をつづる、つまり作文を「している振りをする」
「している」と「している振りをする」の区別が人にできるでしょうか?
そもそも、自分たち以外の生き物や、生きていないものに、自分たちと同じ振りをすると見なすことが、擬人なのです。
人類の十八番だったはずの擬人を基本とする呪術は、いまや岐路に立っていると言えそうです。
*
人はいま、生きていないはずのあれの振りに振り回されている気がしてなりません。
簡単に言うと、
・振りが勝手に振りをしているのか
・人が勝手に振りに振りを見ているのか
です。
言い換えると、
・振りが勝手に意味を演じているのか
・人が勝手に振りに意味を見ているのか
です。
(「知らんぷり、知らん振り、知らぬ風」より)
まとめ
今回は、「似ている」と「真似ている」は似ている(似ているどころか、そっくり)という話をしました。
似ている(そうなってる・そうである)
真似ている(そうである振りをしている)
ものすごく単純化して言うと、振りをしているかどうかの区別が、人はきわめて苦手なのです。
つまり、「似ている」と「真似ている」の区別は難しい、特に相手が人以外の生き物や無生物の場合にはほぼ不可能だという意味です。
それは、人が何にでも「感情、意図、意思、意志、意向、意識、意味、メッセージなどに見えるもの」(これらを「振り」とか「魂」と呼ぶこともできるでしょう)を見てしまう習性を持った生き物だからに他なりません。
その癖をやめたら、きっと人は人ではなくなってしまうでしょう。その意味で、たとえば「似ている」と「真似ている」の区別は人には難しいし、ほぼ不可能なのです。
*
なにしろ、地面の石ころに石ころの意思や意志やメッセージを見たり、夜空の星に星の意向や意図や意味やメッセージを見て考えて込んだり、勝手に(一方的かつ一方向的に)納得してしまうのが、人なのですから。
振り(感情、意図、意思、意志、意向、意識、意味、メッセージなどに見えるもの)は人を振りまわすのです。自然界にあるものの振りか、人のつくったものの振りか、にかかわらず。
「自分たちのつくった人みたいなもの」の「人みたいな振り」に振りまわされてしまうのは、当然と言えば当然でしょう。右往左往、てんてこ舞い、すり寄る、威を借る、高をくくる、一喜一憂、積極利用、依存、様子見……。
それがやったのに、自分がやった振りをする。それのやり方をこっそりと真似る。というのも、あるにちがいありません。人が振りや真似を容易に見破れないのを逆手に取るわけです。
(真似る、まねる、まねぶ、まなぶ、学ぶ。人が真似て学ぶ側になります。真似る、似る。人が真似て似ていく側になるのです。)
こうした事態が、真偽、正誤、正邪、虚実、善悪、主客、主従のさかいが不明な世界をまねくとすれば、それは分かりやすい展開だと言えるでしょう。
もうひとつ問題があるとすれば、相手のありよう(実態)が一向につかめていないことだと思います。人類にとって初めての経験なのです。暗中模索とか見切り発車だとも言えるでしょう。
しかも、相手は急速に人間の振りを学習し進化しつつあります。その速度について行けるのでしょうか、いまや学習する側に立たされた人間は。
*
・似ている ⇒ そっくり(いまここです) ⇒ 同じ ⇒ 同一
・人に似ている ⇒ 人にそっくり(いまここです) ⇒ 人と同じ ⇒ 人と同一視される
・それに似ている ⇒ それにそっくり(いまここです) ⇒ それと同じ ⇒ それと同一視される
人間の「人間もどき」化、「人間もどき」の人間化。
こうした現象をカタカナ語で名づけたところで、相手は一向になつかないもようです。むしろ、すっきりコンパクトにぼかされてしまいそう。
*
話は変わりますが、「違っている」と「間違っている」は似ているけど、違っている、と思います。このことについては、近いうちに書くつもりです。
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*「振りまわされる(線状について・05)」
