「これは同じです」
「これは同じです」
学校は何を学ぶところかと言えば、「同じである」を学ぶ場であると思います。
「似ている」でも「そっくり」でもありません。「同じ」を「みんな」で学習する場所が学校なのです。
「みんな」で大切なところです。ひとりで「同じ」を学んでもあまり意味はありません。
「みんなで」「同じ」になることが学校教育という制度の最大の目標なのです。
なお、「似ている」と「そっくり」は、生まれたばかりの人に備わっている体感です。わざわざ人に教わらなくても身についたものと言えるでしょう。
*
話が抽象的になってきたので、具体的な例を挙げます。以下は、これまでに何度か引用したものです。
僕はレモンなら思いきり囓ってみたい。lemon ならギュッとこの手で握って絞ってみたい。檸檬ならただ眺めていたい。
「同じですよ。どれも同じものを指します」――。
「レモン」と「lemon」と「檸檬」が「同じ」だと教わるのが学校なのです。
*
目の前にある文字を文字として見ないことから、すべての学問は始まる。
目の前にある文字を文字(letter)として見ることから、おそらく文学と文芸(letters)が始まる。
ということなのです。
*
先日投稿した記事「硝子のようなコトバ、コトバのような硝子」で、次の文字列を書きました。
1)はり・波留・玻璃、ビードロ、ギャマン、硝子、ガラス・グラス。
2)言葉、ことば、コトバ、kotoba、詞、辞。
私には、上の二つのそれぞれの列で、横に並んでいる文字たちが同じだとは思えません。
1)ぜんぶ同じ物
2)ぜんぶ同じ音
よく見てください。「ぜんぶ同じ」にも違いがあるのです。
*
1)言葉(音声)と事物を同じだと教える。
2)文字と音声(言葉)を同じだと教える。
・声と文字と事物を一致させる。
学校では、以上のことを、みんなでいっしょに教わるのです。三つを一致させるのですから、「三位一体」という言い方もできるしょう。
もちろん、ずれる人もいます。はみだす人もいます。ここにもそのひとりがいます。
一方で、一本化された「同じ」を重視して、効率を最優先する立場から言えば、表記は「レモン」だけでいいし、「ガラス」と「グラス」以外は死語として排除すればいいのかもしれません。
私はそんなの嫌ですけど。
*
学校教育を批判しているとか否定していると思われたとすれば、本意ではありません。
「同じ」という観念を、組織的かつ体系的に、しかも効率よく学ばせるための場が学校である、と指摘しているだけです。その根底には「物と音と文字を一致させる」があります。
たとえば、「猫」は猫という生き物であり、「猫」という音であり、「猫」という文字でもありますが、それは事物と声と文字を一致させるというヒト固有の仕組み=体系=制度=習慣があるからにほかなりません。
いい悪いの問題ではなく、そうなっているのです。ただし、それを意識するとしないとでは生き方に違いが出てくる気が私にはします。
とはいうものの、人それぞれです。
学校にはいい思い出も、悲しい思いでもありました。でも、そこで教わったことはいまも、私のなかで生きています。
だから、この文章も書けるのです。こうやって、みなさんとつながるのです。
人はそう簡単に「ぜんぶ同じ」なんかになりません。なってたまるものですか。人それぞれが似ているし、違っていると私は信じています。
「これは似ています」
今回のこの記事は、「「同じ」を教える、「同じ」を教わる(言葉の中の言葉・03)」のショートバージョンです。
なお、今回の記事は、昨日投稿した「似ている、そっくり、同じ(世界は言葉でできている)」を、視点を少し変えて短くまとめた文章でもあります。
*
最後になりましたが、「これは同じです」と教えることより、もっと恐いフレーズを教える場合が考えられるのでご紹介します。
「これは似ています」と教えることです。ある程度実証や検証が可能な「同じである」とは異なり、「似ている」は印象や感想です。そもそも、他人に教えるべきものではありません。
もし「似ている」を教えるとすれば、それは特定の印象の押し付けにほかなりません。
【※生物学では、「似ている」かどうか、つまり見た目で判断する分類(人のもっとも得意とする線引きです)から、機械やシステムという広義の「はかり」に外部委託(外注)してのDNA鑑定(検証可能)による「同じ」かどうかの分類(人のもっとも苦手とする線引きです)へと移行しつつあるそうです。
これが「似ている」かどうかと「同じ」かどうかの違いを分かりやすく示している気がします。ただし、「同じ」は素晴らしい、「同じ」は正しい、「同じ」は万能で普遍的だ、という意味で示した例ではありません。】
印象――おそらく集団や共同体のいだいている印象でしょう――を学校で教える(つまり押し付ける)ようになったら……。
悪夢ですが、そうならないとは言いきれない気がします。これまでにあったような、いまでもあるような気もします。
*
大切なことがあります。
仮に「これは似ています」を教えることになっても、「これは似ています」とは教えないはずです。フレーズとして迫力がないからです。説得力にも欠けます。
「これは似ています」は「これは同じです」と言い換えられるにちがいありません。擬装とか偽装です。
「同じ」と「似ている」を見分けるのは難しい(両者は質的に異なるために区別する必要はないとも言えます)。人は両者の区別が苦手そうだ(区別する必要があるのは偽装・擬装されている場合です)――。これがいちばん恐いし困ったことなのかもしれません。
最後に一言。「似ている」はひとりひとりが個別にいだいている愛おしい感情です。
