硝子のようなコトバ、コトバのような硝子
今回の記事は、「ビードロ、ギャマン、ガラス」と緩やかにつながっています。
言葉とガラス
言葉とガラスは似ています。どちらも、それを見るために存在するのではなく、むしろ何かを見るためにあるかのようです。
言葉は音声としては聞き逃され、文字としては見過ごされます。
そうだとすれば、人は言葉に何を聞き取り、言葉に何を見るのでしょう?
たとえば、意味、かなたにあるもの、風景、あるいは、いつかどこかで聞いたり見た言葉ではないでしょうか。
どれもが「いまここ」にはないものばかりです。
いまここにある言葉自体に耳を傾けていたり、いまここにある言葉自体に目を凝らしていては、聞こえないし見えないし感じ取れないものばかりなのです。
*
そう考えると、やはり、言葉はガラスに似ていると言わざるをえません。
望遠鏡、顕微鏡、鏡、万華鏡、カメラ、キャメラ、眼鏡――。こうしたものは、何かを見るためにつくられたものです。
異世界、別世界、異界、異物を見るためにガラスはあるのです。ガラスそのものを見るために、ガラスがつくられているわけではありません。
いや、そうでもないかも。
ガラス自体を眺めたり、愛でたりすることがあります。
ガラスの器そのものが美しいということがあるし、まるでガラス自体を見せるために使用したような趣の装飾品や工芸品がたくさんあるのを忘れていました。
ガラスには、どこか、はかなく、とりとめのないところがあります。やっぱり、見えないのです。音もしません。
いや、します。ビードロを忘れかけていました。
コトバと硝子
はり・波留・玻璃、ビードロ、ギャマン、硝子、ガラス・グラス。
いまガラスと呼ばれているものは、上の左から右への流れで、呼ばれてきたと言われています。
ガラスというものの透明さ、とりとめのなさ、はかなさに対し、ガラスという言葉の裏には、なにか不透明なところがあります。ガラスがどろりとしたものに感じられるのです。いい意味での、どろりです。
言葉も、どろりとしたものではないでしょうか?
声としては聞き逃されるし、文字としては見逃される。言葉はそんな運命にあるようですが、声には声の厚みや深みや色やきめといった存在感があり、文字には文字のごつごつした異物感というか存在感があります。
そうした存在感をあっさりと忘れないことには、声は意味のあるものとして聞こえないし、文字は読めないのです。
*
言葉とガラスは似ています。
言葉は私の中から出たり入ったりします。口から出て、耳から入ってくるのです。それほど親しくて身近なものなのに、その存在はとても希薄に感じられます。
つい忘れてしまいますが、言葉は私の中にもあるのです。だから、いま私はこの文章を書いています。
ガラスも身近な存在です。身近どころか、私の場合には、文字通り目の前にいつもいてくれます。眠っている時を除いて、いつもです。
眼鏡のことです。いま私は眼鏡を目にしているはずなのに、その姿は見えません。私を守ってくれてもいます。眼鏡なしでは、危なくて外は歩けません。
感謝するべきなのに、言葉とガラスへの感謝の気持ちはつねに忘れがちです。
*
ひとつの物をめぐって呼び名が変わってきたのであり、ひとつの呼び名をめぐって、いまも使われている文字たちがあるのです。
はり
波留・玻璃
ビードロ
ギャマン
言葉、ことば、コトバ、kotoba、詞、辞
硝子
ガラス
グラス
いつもとは違った風景が見えたでしょうか?
*
たとえば、言葉をあえてコトバとつづってみましょう。ガラスを、たとえば、硝子と書いてみましょう。
そうすることで、それぞれの存在感を、ささやかな形で、示してやることができるかもしれません。
硝子のようなコトバ、コトバのような硝子。
いつもとは違った顔が見えたでしょうか?
