記号、表徴、象徴
今回は、拙文「長いトンネルを抜けると記号の国であった。(連想で読む・02)」からの引用です。かなり加筆をし再構成してあります。
お届けする文章は連想に導かれて書かれたものです。そのため各章が断片として読める作りになっています。
『雪国』の冒頭だけを対象としていますが、順に読む必要はないという意味です。そもそも私は小説を読みながら筋を追うのが苦手なのです。
そんなわけで、以下の目次を眺めて、興味のありそうなタイトルの章から、自由にお読みいただいてかまいません。お試しください。
*millions of signs、 a signal stop
私は『雪国』を読んでいて、ビージーズの Melody Fair を思い浮かべることがあり、その逆の場合もあります。
Melody Fair の歌詞を部分的に引用してみます。
Who is the girl with the crying face
looking at millions of signs?
She knows that life is a running race,
Her face shouldn't show any line.
Melody Fair, won't you comb your hair?
You can be beautiful too.
Melody Fair, remember you're only a woman.
Melody Fair, remember you're only a girl.
Who is the girl at the window pane
watching the rain falling down?
Melody, life isn't like the rain.
It's just like a merry-go-round.
引用文で太文字を施したフレーズの音ではなく、意味やイメージに、私は『雪国』との類似を感じます。類似、つまり「似ている」という感覚ですから、個人的な印象にすぎません。逆に言うと、個人的な思いだからこそ、愛おしいのです。
*
とりわけ激しく私の心に迫ってくるのは、millions of signs です。このsigns はいろいろな解釈が可能な語だと思います。私は意味を固定させたくないので、「looking at millions of signs」という箇所を日本語に訳すのをためらいます。単に私の英語力のなさが原因なのでしょうけど。
話は飛びますが、大学生のとき、私は翻訳学校にも通っていました。そこで出会った先生の授業で『雪国』の冒頭の英訳を教材として読んだのですが、その英訳に「The train pulled up at a signal stop.」(原文では「信号所に汽車が止まった。」です。)という一文があり、私はそれをいまも暗記しています。
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・millions of signs(「メロディ・フェア」より)
・a signal stop(英訳「Snow Country」より)
「サイン」と「シグナル」は、日本語のカタカナ語として聞いても、日本語のカタカナ表記で見ても、似ても似つかぬものですが、英語の文字として見てみると、sign と signal ですから似ています。語源的なつながりがあるから字面(顔)が似ているのです。
ただし、英語の発音では似ていません。英語では単語のスペリングと発音が一致しないほうが多いのは、みなさん経験なさったのではないでしょうか? そこが英語の学習でつらいところです。私は enough の綴りを覚えるのにずいぶん苦労しました。
sign と signal は、顔は似ていても声がぜんぜん似ていないきょうだいのようで、見ていて微笑ましく感じます。英語には苦労しましたが、いまとなっては、私はこういう落差が好きです。
*
一方、フランス語だと、英語の sign に相当するのは signe (ほぼシーニュみたいに発音します)で、signal に相当するのは signal (ほぼシニャルみたいな発音です)ですから、音も字面も似ていると言えます。
フランス語の場合には、一見するとスペリングと発音がぜんぜん一致していないように感じられますが、実はほぼ完璧に音と綴りが規則的に当てられていて一致します。不規則に見える規則を覚えてしまうと、あとは英語と比べものにならないほど規則的で楽なのです。
(不規則に見える規則の規則性。言葉(音)や文字(形)には、ちらりと見ただけは見えないものがあります。一部を見ただけでは全体に流れる規則性は見えないという意味ですから当り前なのですが、まったくの別物同士(音と形)を当てた体系では、よけいにそんな感じがします。)
でも、フランス語の発音はとても難しく、私は挫折しました。母音の数がとても多いのです。日本語の母音の3~4倍ある感じがします。当然、似た母音が多くて困ります。
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なお、私が翻訳学校で学んだユニークな学習法(サイデンステッカーによる英訳の「Snow Country」を自分なりに和訳して、川端康成の『雪国』とくらべるのです)については、以下の「目まいのする読書」で説明してありますので、翻訳や日本語の上達法に関心のある方は、ぜひ目を通してください。「対訳で読み、日本語を鍛える」という章です。
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連想に話を戻します。
・millions of signs(「メロディ・フェア」)
・a signal stop(英訳「Snow Country」)
歌詞にしろ小説にしろ、文字を眺める癖のある私にとっては、文字の顔や姿での「似ている」に惹きつけられます。その「似ている」にうながされる形で、「メロディ・フェア」を見て「Snow Country」を連想し、「Snow Country」を見て「メロディ・フェア」を連想するようです。
その連想の中では、音はほとんど浮んできません。逆に言うと、「メロディ・フェア」を歌詞の音の記憶でたどっているとき、「Snow Country」を思い浮かべることはありません。
それなのに、「メロディ・フェア」の歌詞から『雪国』を連想することがあります。「Snow Country」ではなく『雪国』です。次に、そのことについて書きます。
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Melody Fair, remember you're only a woman.
Melody Fair, remember you're only a girl.
歌詞のこの部分については「メロディ・フェア(言葉と文字に言葉と文字を重ねる・02)」から引用します。
woman と girl は反義語であると同時に類義語でもあります。つまり、人という存在は多面体(プリズム)なのです。この歌では、この曖昧さ(両義性・多様性)が詩(歌詞・音声)となり人を惑わせています。
*
woman と girl に相当する日本語で見てみましょう。
女の人-女の子(大和言葉・和語系)
おんな-むすめ(大和言葉・和語系)
女性-少女(漢語・唐言葉系)
日本語でも反義語であり同義語でもあることがお分かりいただけると思います。同じ女性なのに、ある尺度や見方で切り分けているだけです。この切り分けを差別とも言います。切られれば痛いし血が出るのに、切ったほうは気がつかないのです。これが差別の恐ろしさでしょう。
『雪国』を読みながら、似た思いをいだきます。そうです。あの二人のことです。
しかし、ここで「娘」と言うのは、島村にそう見えたからであって、連れの男が彼女のなんであるか、無論島村の知るはずはなかった。
もう三時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かしていろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけていく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の感触で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片眼がはっきり浮き出たのだった。
これで一センテンスです。意識の流れとか心理描写という言葉がうかびます。注目すべき点は、引用文の最後にある「そこに女の片眼が」の「女」が、その前の引用文にある「娘」であることです。
別人が「二重写し」(この汽車の場面の描写で使われている言葉です)になっています。川端の小説では、重要な役割を果たす女性が出てくると、必ずと言っていいほど、もう一人の女性が重なる作りになっています。いわば「二股を掛けている」のです。
*連想を綴る
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
(川端康成『雪国』新潮文庫・p.5)
この三文は私にいろいろな連想をさせ、さまざまな記憶を呼びさましてくれます。
・「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」
約物である句点も入れると二十一文字のセンテンスをめぐっての連想を、前回は書き綴りました。
今回は、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」という三つのセンテンスからなる連なりを視野におき連想したいと思います。
*
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。(21文字)
夜の底が白くなった。(10文字)
信号所に汽車が止まった。(12文字)
この段落は、三つのセンテンスから成り立っていますが、長(21)、短(10)、やや長(12)という流れで止まります。読点はありません。
朗読の心得のある人は、こうしたことに敏感であるはずです。音読してみると、読点なしの21ー10ー12のリズムが体感できると思います。
*
ガタゴト、ガタゴト
キーッ、
ガッタン
当時の汽車はゆっくりと停車したのではないかと想像します。
なにしろ、駅ではなく信号所での停車です。白線なんか、たとえあったとしても雪の下で見えなかったのではないでしょうか。
いかにもこじつけた話になりましたが、妄想癖があって思い込みの激しい私はこんなふうに読んでいます。
*汽車、列車、train
いま、日常生活で「汽車」という言葉をつかうことはまずありませんが、私の子供時代や少年時代には、よくつかっていました。
子どもの頃には蒸気機関車がまだ最寄りの駅を通っていました。私の少年期にディーゼルで動く列車に徐々に移行していったようです。
少年が青年になりかけた年に、私は東京の大学に進学しました。東京では汽車という言葉を耳にすることはありませんでした。
入学してまもなく、授業の始まる前に、ある女子と通学手段についての話をしていて、うっかり「汽車」という言葉が口から出て、気まずい思いをしたのを覚えています。
山手線の列車(電車)のことを汽車と言ってしまったのです。
一瞬、目と目とが合いました。雙葉出身だったその人は笑いませんでしたが、わずかな沈黙がありました。
私はいきなり饒舌になり懸命に話を続けました。たぶん顔は真っ赤だっただろうと想像します。
*トンネル、望遠鏡、管
・「夜の底が白くなった。」
「長いトンネルを抜けると」につづいているせいか、このセンテンスを読むと私は望遠鏡を連想します。
この連想は、トンネルが円筒形の管だから起きるのではないかと思います。安易な連想です。
トンネルを抜けるときには、「まだかなあ」と先を見ているのですが、望遠鏡をのぞき込んでいるのに似たわくわく感を私は覚えます。
のぞき込むものは、肝心な部分がたいてい円筒形をしているようです。
望遠鏡、顕微鏡、万華鏡、古いカメラ、交換レンズ。
円筒形なだけではありません。そこには必ずガラスがあります。『雪国』冒頭の汽車の場面は、象徴と化したガラスの詰まった箱(車箱という言葉を思いだします)です。
そうした管と円筒には丸い枠があるのを忘れてはならないでしょう。円い枠があるから、わくわくするのです。覗きこむわくわくです。
人のつくるものにはたいてい枠がありますが、丸い枠は覗くためと入る(入れる)ために、そして長方形の枠は眺めるためと収まる(収める)ためにある気がします。
丸い枠から出て、長方形の枠の中にいて、丸い枠に帰る。これが人の一生かもしれません。
*
長い管をのぞき込むと、そこには別世界ならぬ異世界があります。
長い管を抜けると異世界であった。
トンネルの先に丸く出口(出入口)が見えてきたときには、うれしいし、だいいちほっとします。
そこに、「夜の底が白くなった」と来れば、息をのむ美しさではないでしょうか。
*ネガ、ポジ、白黒
国境の長いトンネルを抜けて、やれやれ。
雪国に到着。
夜の底に白い雪が見えて、はっとする。
黒が白に、闇が光に、変ります。一種の反転です。作品の冒頭にふさわしい展開であり、状況であり、異化だと感心します。
*
「黒」や「闇」というネガティブな言葉はつかわれていません。
「トンネル」と「夜」が、「黒」と「闇」に相当するわけですが、前者のペアの方が軽いと私は感じます。
たとえば、隧道(ずいどう)では――漢字の字画が多い上に「ず」と「ど」にある濁点のせいで――いかにも暗く重い響きがします。
*
この段落の最初の二文のつながりを念頭に、その細部を見てみましょう。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
夜の底が白くなった。
トンネル(ネガ)・雪(ポジ)
夜(ネガ)・白(ポジ)
「トンネル」と「雪」につづいての「夜」と「白」――、ネガ・ポジ、ネガ・ポジという具合に、色が旋律のようにくり返されます。
ネガ・ポジ、陰・陽、白・黒。
リズムをもった色のイメージが模様もようをつくっているかのようです。
*
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。
白地に黒の線の文様である文字と文字列が、頭の中で反転する。そんな錯覚が起きます。
白と黒からなる文字の世界が、トンネルを抜けた夜の雪の世界に重なるかのようです。
現実と似ても似つかぬ文字というものが現実を呼び起こす。文字の世界は目の前の異界なのかもしれません。
「雪」は雪に似ているでしょうか?
似ていないのに似ている――。それが文字の世界という異界なのでしょう。まぼろし、まほろば、まほろ。魔界、魔境、魔鏡。鏡界、境界、狂界。
「雪」を雪と同一視し誤認し混同し、錯覚しなければ文字は読めません。
「雪」が雪でないことくらい、誰も知っているし分かっています。でも、見ていると忘れる。見ているさなかに忘れる。それが「読む」です。鏡界、境界、狂界。
判断力の停止(stop)とか思考力の中断(stop)という言葉がうかびます。文字という記号・信号によって人は停止してしまうのかもしれません。
冗談はさておき、この小説が書かれた時代には日常的につかわれていたであろう「信号所」(サイデンステッカーは signal stop と訳しました。)は、今では耳慣れない言葉であり、私はエキゾチックな響きすら感じます。まるで別世界におもむくようです。
*
白に黒の文様もんようとは文字もんじに他なりません。
小説を読む者にとって、白と黒の織りなす紋様こそがすべてであり、世界のしるしなのです。読む行為は、白と黒からなる「しるし(もよう)」を読み解くことと言えるでしょう。
しるし――さまざまな連想を呼び起こし呼び覚ましもしてくれる言葉です。
しるし、標、徴、印、記述、筆記、印象、印章、表象、表徴、マーク、烙印、レッテル、サイン、シグナル、信号、記号、符号、シンボル、サンボリスム、「象徴の森」(ボードレール)、『シンボル形式の哲学』(カッシーラー)、暗号としての世界、隠喩としての世界、神の刻印。
*シグナル、サイン、シーニュ
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
(川端康成『雪国』新潮文庫・p.5)
エドワード・G・サイデンステッカーによる英訳で見てみると、異なった風景が立ち現れます。
The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky. The train pulled up at a signal stop.
("Snow Country" by Yasunari Kawabata, translated by Edward G. Seidensticker, Charles E. Tuttle Company, p.3)
・「The train pulled up at a signal stop.」
信号、シグナル、サイン、記号、シーニュという連想が起きます。
signal、sign、signe、cygne
なにしろ、私にとって、『雪国』という作品は「記号」の宝庫というか、記号の国なのです。
長いトンネルを抜けると記号の国であった――。そんな感じです。
ロラン・バルトの「記号の国」(L'Empire des signes, 1970)を連想するなと言われても無理です。
*
フランス語のシーニュ(signe、cygne)はともかく、英語の sign を英和辞典で調べると、そのイメージの豊かさと美しさに息をのまずにはいられません。
しるし、標識、記号、符号、信号、合図、サイン、手まね、身振り、合い言葉、暗号、標示、掲示、看板、ネオンサイン、様子、気配、そぶり、徴候、前兆、傷痕、形跡、臭跡、お告げ、(神の)奇跡、(占星の)宮・シグヌム、署名する、記名する、署名させて雇う、契約する、手振り身振りで知らせる、合図する、目くばせする、十字を切る
(リーダーズ英和辞典・研究社を参照)
英和辞典に載っているのは、見出しの語の意味ではなく(意味とは目に見えないものです)、日本語での訳語なのです。
英和辞典を、私は類語・対語をさがすときにつかうことがありますが、それよりも読んで楽しんでいます。詩としても読めます。
sign というタイトルの詩として読めるのですが、私の場合には sign という名の詩を眺めていて決まって頭に浮ぶのは白鳥(cygne)の姿です。
白鳥と言っても、ステファヌ・マラルメの詩に出てくるイメージなのですが、この詩の翻訳は青空文庫で読めます。
*記号、表徴、象徴
ロラン・バルトの「(L'Empire des signes) 」のsignesに表徴という言葉を当てて訳出したのが、詩人の宗左近です。邦題の『表徴の帝国』には、詩人のしなやかな感性がよく出ているのではないでしょうか。
綺麗な字面と美しい音の響きのするタイトルです。
表徴の帝国。徴表る帝の国。
しるしあらわる、みかどのくに。
こんなふうに読みかえると、異世界が見えるようです。
*
「表徴」と言えば、『雪国』の冒頭には「象徴」という言葉が一回だけ、つかわれた箇所があります。
鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように働くのだった。登場人物と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つが融け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。
(川端康成『雪国』新潮文庫・p.10・太文字は引用者による)
いかにも安易で軽薄な連想ですが、「写るものと写す鏡」というフレーズに、例の signe と signifiant と signifié という話を思いだしてしまいます。シーニュ、シニフィアン、シニフィエ――。
興味のある方は、以下の資料をお読みください。
「なんのかかわりもないのだった」なんて駄目押しされると、なおさらそんなふうに感じてしまうから困ったものです。
冗談はさておき、「映画の二重写し」という比喩に魅惑されます。
*長いトンネル、長い間、長い貨物列車
冒頭の汽車の場面では、「映画」という言葉が直接もちいられ、映画がこの小説のテーマであることをはっきりと表明している感があります。
鉄道ー線路、信号ー点滅、映画ーフィルム、小説ー文字・文字列。
こうしたものは、構成単位が列(train)をなすことで人にとって意味をなし、その機能を果たします。時間という流れ(推移)の中で成立するものだからでしょう。
信号で言えば、点滅、つまり点いているか滅しているかで意味をなします。on と off です。その点滅は時間の差(ずれ)であると同時に、人にとっては線状の列として認識されます。
モールス符号(信号)がそうですね。
時間の推移(流れ)を空間的なもの(線形)に変換しているとも言えるでしょう。
楽曲の歌詞を思いだそうとしてもなかなか思いだせない。最初から歌いはじめて、その箇所に来てようやく分かる。そんなときに、時間の流れそのものである曲や歌詞も、線状になって頭の中に入っているのだなと実感します。
暗唱した文章なんかもそういう気がします。
とはいえ、絵として頭に入っている文章もあります。なにしろ、ルビ付きで覚えているのですから。ただし、そんな文章はたいてい断片的なものです。クロースアップの写真みたいなものであって語数は少なく、連続した長いものとして入っているわけではありません。
*
映画も小説も時間の芸術だと言われるのは、時間をかけて見るもの(読むもの)であるからだろうと理解できます。だから、映画と小説には(おそらく音楽にも)始まりと途中と終わりがあるのです。
フィルムのコマが列をなし、文字が列をなす。このように、直線上に最小単位が並ぶわけです。それを人が銀幕に映写したり、あるいは紙の上やモニター画面上に並べたものを、時間の推移の中で見たり読むという理屈です。
*
だからというわけではありませんが、『雪国』の冒頭の章(一行空けのあるところまで)のつくりに注目しないではいられません。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
(川端康成『雪国』新潮文庫・p.5・太文字は引用者による)
島村が葉子を長い間盗見しながら彼女に悪いということを忘れていたのは、夕景色の鏡の非現実な力にとらえられていたからだろう。
(川端康成『雪国』新潮文庫・p.11-12・太文字は引用者による)
男が葉子の肩につかまって線路へ下りようとした時に、こちらから駅員が手を上げて止めた。
やがて、闇から現われて来た長い貨物列車が二人の姿を消した。
(川端康成『雪国』新潮文庫・p.12・太文字は引用者による)
三つの引用文に共通する「長い」を見て、マルセル・プルーストのあの小説を連想する人もいるのではないでしょうか?
原文では、Longtemps(英語では「For a long time」)で始まり、le Temps (英語では「Time」)で終わる、『失われた時を求めて(À la recherche du temps perdu)』という、時(temps)という言葉をふくむタイトルを持つ長い長い小説です。
私はよく知らないのですが、時間がテーマの小説だそうです。
*
『雪国』も、時間がテーマの一つだと私は思います。時間の処理によって成立する映画を比喩とする以上、そうなるのは必然です。
というか、どんな小説も時間の処理をしながら書かれるわけですから、なんらかの形で時間がテーマになるはずです。
そして、十年が過ぎた――。
もし、ある小説にこう書かれていれば、「ああそうですか、十年が過ぎたのですね、はいはい」と納得しないでは読み進めないのが小説ですから。
小説は絶え間なく時間の処理をつづけなければ書けません。ストーリー展開であれ、描写であれ、説明であれ、会話であれ、です。
始まりと途中と終わりのある小説は直線状なのです。おそらく時のように。というか、時を処理して(整理して)直線状に並べた文字列が小説だと言えます。
*
『雪国』で川端がどんなふうに時間を処理して書いているかについては、以下の「『雪国』終章の「のびる」時間」に書きましたので、よろしければお読みください。
*止まる、止める、stop
私になりにまとめてみましょう。
長いトンネルを抜けると記号の国だった。
長い時、一方的に記号たちの様子に見入った。
長い列車が、記号たちの姿を消した。
記号は人だけではありませんが、そんなふうにも読めます。
「長い」で始まって、途中に「長い」があり、「長い」で終わる『雪国』の冒頭の章です。
*
章のラストをまとめてみましょう。
島村が一方的に見つめていた対象である男と娘が長い線路に下りる。駅員が手を上げる信号を送って二人の動きを止める。闇から現われた長い列車が二人の姿を消す。
ここに描かれているのは中断(suspension・stop)であって終わりではありません。宙吊り(停止)なのです。
(小説とは、不断の宙吊りからなる文字による視覚的な作品です。文字・文字列・センテンス・段落は途切れているじゃありませんか。)
上のシーンは、映画的でもあり、さまざまな身振りに満ちた展開の描写でもあります。そう言えば、映画も途切れたコマの連続であり、分断されたシーンやカットの連続みたいです。映画は苦手なので、詳しいことは知りません。
*小説という名の「記号の国=夢の国」
この記号の国は、映画のように事態が進行する夢の国でもあります。一方的に見るしかないのです。傍観と参観はできても参加はできません。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
男が葉子の肩につかまって線路へ下りようとした時に、こちらから駅員が手を上げて止めた。
象徴的な「始まり方」(止まり方)と「止め方」だと思います。
止まって止めただけ、つまり stop(中断)・宙吊り(suspension) ――。終わったわけではありません。記号の国を舞台とする物語は始まったばかりなのです。
start
stop
suspend
start
suspend
……
……
end
最後は長い夜で終わることを、島村も葉子も、そして駒子も、まだ知りません。
最終章から、象徴的な三人の身振りを引用します。
駒子が鋭く叫んで両の眼をおさえた。島村は瞬きもせずに見ていた。
落ちた女が葉子だと、島村も分ったのはいつだったろう。
(川端康成『雪国』新潮文庫・p.172)
葉子はあの刺すように美しい目をつぶっていた。あごを突き出して、首の線が伸びていた。
(川端康成『雪国』新潮文庫・p.172)
島村だけがひたすら「一方的に見る」存在としてありつづけるのは象徴的ですが、この展開は作品の必然とも言えそうです。
「一方的に見る」という川端における特徴的な身振りについては、拙文「葉子を「見る」「聞く」・その1(する/される・04)」と「「写る・映る」ではなく「移る」・その1」をお読みください。
一方的に見る――。これが川端の書き方だと私は思います。
そうであるなら、私たちは島村の目をとおして「記号の国」を傍観するしかないのかもしれません。
ただし、この傍観は「夢の国」の掟でもあります。夢に参加しようとした瞬間、夢は消えてしまうからです。
夢も小説も、たった一人で劇場の最前列の真ん中の席にくくり付けられ強制的に見せられる映画に似ています。川端はこの「夢のからくり」を熟知していた書き手だと思います。
◆関連記事
今回引用した記事の前に投稿した記事「「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」(連想で読む・01)」も紹介しておきます。
本記事の引用元である「「長いトンネルを抜けると記号の国であった。(連想で読む・02)」と同様に、このアカウントを開設した初期の記事なのでスキの数は少ないのですが、なぜか全期間を通しての全体ビューのランクでは上位にあります。応援してくださっている方に感謝します。
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