みなす【見做す・看做す】
辞書を引いていて、思いがけない記述に出会うことがあります。記述というのは、たとえば語義や説明や例文です。
語源の説明には驚かされることが多く、思わず笑ってしまったり、考えこんでしまうことも少なくありません。
語義で驚くことは、まずないのですが、先日驚いて二度見したものがあります。あまりにも、あっさりと書かれていて不意をつかれたのです。
紹介します。
みなす【見做す・看做す】
①(実際はそうでないと知った上で)それとして見る。見立てる。
②(実際はどうであるかにかかわらず)そういうものとして扱う。同類と考える。
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しれっと、すごいことを言っています。
・(実際はそうでないと知った上で)
・(実際はどうであるかにかかわらず)
いま読みかえしても、すごいなあと感心している自分がいます。辞書の語義っぽくないのです。少なくとも私にはそう思えます。
わざわざ丸括弧をつかっているところに、この語義を書いた人(たち)の息遣いを感じてしまった、と言えば言い過ぎでしょうか。
こんなふうに妄想してしまうのは、私が「振りをする」とか「振りを演じてしまう」ということにこだわっているからにちがいありません。
言葉と文字と人の「振り」を感じてしまったのです。
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ここで、『広辞苑』以外の辞書の名誉のために申し添えます。
他の辞書でも、「みなす」の語義では、おおむね「(実際はそうでないと知った上で)」と「(実際はどうであるかにかかわらず)」という意味合いの断りというか譲歩した言い回しが見られます。
辞書は互いに似ていなければなりません(もちろん、同じであってもなりません)。突出とか傑出とか抜け駆けは許されないのです。私は残念に思います。
お持ちの辞書で「みなす」を引いてみてください。
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話を戻します。
「人は知っているはずなのに忘れた振りをしている」にこだわっている私の考えをまとめると、以下の文章のようになります。
世界と無媒介的にかかわることができない以上、世界を何か(媒介・代理)に置き換えるという操作(つまり錯覚の利用)はヒトの知覚や認識や認知にとって不可欠な仕組みなのです。
世界を何かに置き換える――その「何か」はすっきりしたものでなければなりません。混乱するために、世界を「何か」に置き換えるというのは考えにくいです。
いずれにせよ、別物に置き換えています。ところが、世界と「何か」が別物であることを人は忘れます。きっと考えたくないのです。
(拙文「だまし絵の中で、忘れて気づかず、演じながら生きていく」より)
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人は世界を「何か」に置き換えている。
世界と「何か」は別物である。
それを人は知っている。
知っていて、知らない振りをしている。
忘れた振りをしている。
気づかない振りをしている。
振りをしているのは、きっと考えたくないからだ。
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箇条書きというか図式的に書くと上のようになります。
人は世界を「何か」に置き換えている――。
「何か」とは、言葉、文字(数字を含む)、記号、自然物、人工物が考えられます。
言葉、文字、記号は人工物です。
あと人工物としては、地図(特に世界地図)、地球儀、世界史を記述した書物、年表(特に世界史年表)、百科事典、聖典、神話集、ある種の図や絵(ここまでは写したものです)、そして、スマホのたぐいの板の画面に映るもの(映像・影)などがあるでしょう。
人が世界を置き換えた「何か」が、世界を「写したもの」と世界を「映したもの」であることに注目したいです。
いま挙げたものは、まるで世界みたいな顔をしています。少なくとも私にはそう見えます。
「地球儀が世界みたいなドヤ顔をしているように見えるのは、あなただけよ」と言われれば、「そうなんですか。知りませんでした……」と私はすごすごと引き下がるしかありませんけど。
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忘れていたことを思いだしたので、書きます。「三位一体」の話なのです。
・「猫」という音声。
・「猫」という文字。
・「猫」というもの。
音声と文字と事物を一本化するかたちで一致させる。
これが教育(とりわけ学校教育)の基本です。この三者は一体だと決めて教えるのです。三位一体と言ってもいいでしょう。
その教育を受けて、いまの私はあると言えます。有り難いことに、いまは自由でいます。
(拙文「声の力、文字の力、事物の力」より)
音声と文字と事物を一本化するかたちで一致させる――。
これは、別物である三者を同じと見なすことにほかなりません。いわゆる同一視です。別物を同じと見なすのですから、混同とも言えます。
いずれにせよ、別物どうしを置き換えているのです。そして、それぞれが別物であることを忘れます。考えないのです。
「見なす」は根深いヒトの習性だと思わざるをえません。
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そどく【素読】
文章の意味・内容の理解はさておいて、まず文字だけを音読すること。漢文学習の初歩とされた。そよみ。すよみ。「論語を素読する」
この語義も、しれっとすごいことを言っています。この語義で述べられているのは体系的なものを体感的に学ぶ術にほかなりません。
言葉と文字を持ってしまった人類の奥儀・奥義とか秘技とか美技と言いたいほどの術なのです。
・文章の意味・内容の理解はさておいて、
・まず文字だけを
・音読すること。
こんなふうに、分けて噛みしめながら読むと、すごいなあと感心してしまう自分がいます。
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・言葉の意味・内容の理解はさておいて、
・まず音だけを
・聞き真似ること。
以上のように、いじらせてもらいました。
私たちはこんなふうにして音声としての言葉を真似て学んでいったのではないでしょうか。私たちは体系的なものを体感的に学習しているのです。
その根っこには、「とりあえず」やってみる、「見切り発車で」進んでいく、があります。適当でいい加減なのです。
それなのに、結果的には、すごいことをやってのけます。脳をふくむ身体に備わっている「何か」に沿ってやっているとしか考えられません。
おそらく無意識にやっているのです。なぜかやってしまっている、と言うべきでしょう。そうだとするなら、この仕組みは実によくできています。
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言葉と文字の意味・内容の理解はさておいて、まず音と形だけを、なぞる――これが言葉と文字を持ってしまった人類の奥儀・奥義とか秘技とか美技です。
まねる・真似る、まねぶ・学ぶ、まなぶ・学ぶ
ならう・慣らう・倣う、ならう・習う・慣う・馴う・倣う
ならす・平す・均す、ならす・慣らす・馴らす
なれる・慣れる・馴れる・狎れる・熟れる
みならう・見習う・見倣う・見馴う・見慣う
みなす・見做す・看做す
上の文字列をながめていると、言葉や文字という体系的なものが、組織的に、効率的に、そして体感的かつ体系的に教育されていく、さまざまの光景が目に浮ぶようです。
そこには必ず面、それも平面があります。黒板、スクリーン、ノート、下敷き、定規、タブレット、教科書、参考書、辞典、事典、プリント、時計、机、椅子、年表、名札、貼り紙、標識、賞状、通知書、証書……。
面のある風景。面を見つめる顔面たち。
そうやって、みんなが同じになっていくのです。
言葉と文字は、個人レベルでも、集団レベルでも、人類レベルでも、多と他を一本化して「ひとつ」と「ひと」に束ねる術だと言いたくなります。
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・人は世界を「何か」に置き換えている。
・世界と「何か」は別物である。
上の「置き換えている」を別の言葉やフレーズに置き換えてみます。
たとえる・喩える・譬える、あてる・当てる、代用する、代わりにもちいる、代わりにつかう、なぞらえる、擬する、同一視する、混同する、錯覚する
以上の言い方を辞書で調べても、「みなす【見做す・看做す】」の語義のように「これはすごい」と私が二度見したときのようなインパクトのある記述は載っていません。
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ここで、一つ疑問が浮びます。
いずれにせよ、別物に置き換えています。ところが、世界と「何か」が別物であることを人は忘れます。きっと考えたくないのです。
でも、なんで、世界と「何か」が別物であると人は忘れたり、考えたくないのでしょう?
すっきりしたいからだと私はにらんでいます。
誰もこんがらがったり、わけわかんなくなるために、世界を「何か」に置き換えたくはないでしょう。それが人情というものです。
さらに言うなら、人にとっては、世界ではなく、世界を置き換えた(写した・映した)「何か」(写し・映し)のほうが、ずっと大切なのです。
ほら、私たちは世界ではなく世界を写・映した「何か」に見入り魅入られ、うつつを抜かしているではありませんか。人には、世界は写したり映すためにあって、見ないためにあるとしか思えません。
だから、人は世界ではなく紙面と画面に見入っているのです。世界の代わりに面に見入ると言うべきかもしれません。
世界と面の大きな違いは何でしょう?
面が小さいことです。枠があって、圧倒的に小さい。コンパクトなのです。これだけでも、「すっきり」と言うのに十分な条件を備えているのではないでしょうか。
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今回の記事をまとめます。
ヒトはすっきりしたい。すっきりするために、都合の悪いことは忘れて考えない――。
だから、ぜんぜんすっきりしていないものを、すごくすっきりした別物に置き換えて、すっきりしていると見なす。そうやって、すっきりしている振りをする。
もう一つ。
人は世界の代わりに世界のうつしにうつつを抜かしている。うつつよりも、うつつのうつしのほうがうつくしいからかもしれません。
うつしは、すっきりしているし、においもしない。つるつるした面のうえにある、まぼろしだから当然です。うつしのうつしはうつろであるが故に、うつつよりもうつくしい。
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写すと映すに取り憑かれたヒト。その身振りが、鏡面(境界)のこちら(現界)から向こう(鏡界)に移れないことの代償行動に思えてなりません。
鏡面と向き合ったヒトにとって、世界は容易には(自分が)移れない/(物を)移せない現(現界)であると同時に、絶対に(向こうに自分が)移れない/(向こうに物を)移せないその鏡の世界(まぼろし・幻界)でもあるのです。そうなると、移る/移す代わりに必死にうつつを面に写し映すしかないのではないでしょうか。
言界(言葉・文字)はいじる(写す・映す)ことができますが、幻界(思い・夢)と現界(現実)は容易にいじる(移す)ことができないからです。
面上のうつろなうつし(写し・映し)に魅入られた、その目はどこか虚ろに見え、その心は空ろに思えます。
きっと、つかれているのです。
